大学で英語の教員をしている私が、学習心理学の博士後期課程へ。アカデミックな世界で異業種に飛び込むのがまだそれほど受け入れられていない日本の大学院では、むしろ身の程知らずなことだったのかもしれません。しかし眞邉先生に受け入れていただいて、私は本当にラッキーだったと思っています。
大学の教員にとって博士号は、文系であっても「持っていて当たり前」の時代になってきています。それは私の職場でも同じで、「なるべく早い時期にどうにかして、博士号取得の道を開かなくてはならない」と考えるようになっていました。ただし自分には家庭もあり、特に、身体的に全介助を必要とする大好きな娘(現在小学校4年生!)との時間も確保しなくてはならない、というのが第1条件でしたので、英語の教員でありながら「国内で」というのも外せませんでした。そんな中でインターネットの検索に引っかかったのが、日大の通信制大学院でした。しかも後期課程の指導教員の中で、眞邉先生の研究業績にLとRの発音訓練が入っているのを見て、「この先生にお願いしたい!」と即座に思いました。
博士課程の1年目は職場から離れて東京で国内研修の機会を得ていたので、論文研究以外の、3科目12単位をすべて終わらせることができたのも幸運でした。また今まで自分の研究分野では「英語ができることは当たり前」で、そのことを特にメリットと感じたことはなかったのですが、分野が違うと、英語の文献が読めて、英語の試験で苦労しなくてよいことがこんなに強みになるとは、思ってもいませんでした。
しかし専門分野が違えば、「何を以て優れた研究と見なすか」が異なるという問題には、改めて直面しました。眞邉先生とせめぎ合う(?)こと1年、研究テーマの方向性が具体化したころ私は職場復帰し、実際のデータ収集に取り掛かろうとしましたが、今度は物理的な時間不足に悩まされる日々でした。それでもコンスタントにゼミに参加し、先生のアドバイスを元に、最終的には論文を仕上げることが出来ました。
決められた年数内で終わらせるために、私はいくつかの仕掛けをしました。まず「1年延びると、100万円余計にかかる」と自分にいつも言い聞かせました。また眞邉先生と共同研究という形で科学研究費を申請し(結果的にもらえたのですが)、その年限を博士課程の修了予定に合わせました。もっと単純なものでは、データ入力など時間がかかる作業では一定の量をこなしたら、自分に好きな音楽CDを買うようにしました。ゼミ発表のパワーポイントなどは職場・家庭でこなす時間が確保できないので、いつも飛行機の中やホテルに着いてから缶詰めで仕上げ、土日のゼミでは土曜に発表し、もらったアドバイスについて日曜に再度眞邉先生に確認する方法を取っていました。(なおこの「奮戦記」の最初の2段落は、「終わった自分を想像して」3年目の5月ごろ書いています。)
こうやって博士号取得までの3年間を振り返ってみて、やはり一番ありがたかったのは、眞邉先生が決して私を「プッシュ」されなかったことです。私はどちらかというと、計画を立ててその通りにいかないと気が済まない性格で、欲張って無理をしてしまう傾向があります。その点で眞邉先生に「(いつ)までに、これだけやります」と言うと、何としてもそのとおりにしようとして、自分にストレスをかけてしまうのです。もちろん計画通りいかないことのほうが多かったわけで、叱られるのを覚悟で「すみません」メールを送るのですが、返事は決まって「無理しないように」。本当に救われました。
博士論文は私にとって「人生最大の宿題」だったと思います。終わってみて「周りの景色が違って見える」という経験をして、いかにそれが自分にとってのプレッシャーだったかがよくわかります。研究そのものはまだ未熟な部分をたくさん含んでいましたが、「研究者として独り立ちしてもよい」というお墨付きをいただいた気持ちで、これから先、長い研究生活を続けていけたらと思っています。