そもそも大学院へ行こうと思った動機からして不純であった。中年のおばちゃんにありがちな「感性だけで突っ走る」ことを地で行っていた私は、実際そのことに少なからず引け目を感じていた。人脈と度胸だけを武器に、傍若無人に振舞ってきた我が人生を振り返り、何を血迷ったのか、ちょっとだけ理論武装の手法を身につけようと思い始めたのである。一旦そうすると決めたら、後はもう粛々と事を運ぶだけである。必要書類をさっさと揃え、アマゾンで「小論文の書き方」を買い求め、入学試験当日に備えた。
晴れてン十年ぶりの学生証を手にしたときは、(2年間、学割で映画を見まくり、アカデミック価格でソフトを買いまくるぞ)と、幸せ気分に浸っていたのである。しかし、そんな楽しい気分も、リポート草稿提出を機に吹っ飛んだ。リポート構成を全く無視した私のリポートを目にした時の先生の驚きは、想像に難くない。おそらく今まで指導してきたどんな学生にもいないタイプだったろう。こういう学生を修士論文完成まで引っ張り上げるためにどれほど頭を悩ませたか、いつか先生にこっそり聞いてみたいものだ。経営者の資質以上には企業が繁栄しないように、己の器以上の論文など書けない。そんな当たり前のことすら忘れて欲張りな私は、あれも書きたい・これも書こうと両頬にいっぱいの食べ物を含んだまま、いつまで経っても飲み込めないサルのような状態で時間ばかりをやり過ごしていた。
修士2年目に入り、夏が終わる頃にはさすがにそろそろ手をつけないとまずいのではないかと思うようになってきた。しかし、ちょうど時を同じくして、闘病中の実父の容体に変化が生じ始めた。これ以上の治療も望めずターミナルケアに入った段階で、娘の私が引き取ることになったのである。「要介護5」の認定は想像以上の介護生活を意味していた。生活全般にわたる補助や病院通いは、私の使える時間のほとんど全てを奪っていったのである。修士論文完成などほぼ諦めかけた頃、呆気なく実父は逝った。11月28日、私の誕生日であるその日に。考えれば考えるほど、これが私への最後の誕生日プレゼントだったのかなと思う。これ以上娘に迷惑をかけないために、まるで自分で命の期限の線引きを決めたかのように。そう思ったら、何が何でも書き上げなくてはならないという思いがこみあげてきた。指導教授である階戸先生の「できる、絶対大丈夫だから」という言葉に背中を押されて、怒涛の年末年始を経て完成を見たときには、嬉しさよりも約束を果たせた安堵感で満たされていた。
一年の計は元旦にあり。お正月はお餅食べてゴロゴロすると決め込んでいたのに、やっぱりできなかった。今年もまた忙しい一年になるだろう。リポートや修士論文のために数多くの企業や格付け会社のWebサイトに登録して、送られてくるニュースやメルマガを読んでいた。課題や修士論文全てを提出し終わった今でも、なぜか登録解除する気になれない。必死だった日々をもう少し記憶に留めておくことにしよう。
大学院で得たことは、現在、行政や国の機関への事業報告書作成に大いに役立っている。社会に向けて何がしかの還元ができれば、私にとって望外の喜びである。