論文の壁
文化情報専攻 金井 治



 私の場合、10年ほど前から「人間死んだらどうなるか」ということに関心を抱いて臨死体験、神智学、精神世界の書物などに目を通しながら自分なりに研究してきた。それゆえ、修士論文の基本的テーマも「死」に関する内容にすると決めていた。当初は、日大通信教育部の卒業論文で取り上げた「ヘミングウェイ作品にみる臨死体験」を更に掘り下げて、文学で「死」がどのように語られ、描写されているかについて取り組むつもりであった。ところが、1年目に『国際融合文化学会』誌に、同趣旨の小論文を発表した後、なんとなくヘミングウェイ作品に取り組む意欲が薄れてしまった。
 それなのに、次の具体的な題材はなかなか思いつかない。年が明け、2月の松岡ゼミで修士論文計画書を提出することになっていたが、結局まとまらなかった。多少、焦りにも似た気持ちが募るなかで、ふと脳裏に浮かんだのが1年目の松岡教授のリポート科目「日米比較文化・比較文学特講」のテキストになった村上春樹という作家だった。彼は、現代日本の文学界を代表する作家であり、その作品は世界40か国近くで翻訳されている国境を越えた存在でもある。しかも、彼の小説には人間の「死」が頻出し、「死の文学」と呼ばれていることも、自分が関心を抱いてきた「死とは何か」のテーマに合致していると思った。
 2月末のサイバーゼミで、改めて計画書を提示したところ、指導教授である松岡先生も村上春樹を研究対象にしているので、すぐにゴー・サインを出してくれた。さっそく村上春樹作品の収集を始めたが、幸いなことに、私の住む町(東京都江東区)の周囲にはBook offという古本屋が4軒もあり、どの本も半額以下で売られていた。人気作家である村上春樹の小説類は、大半が店頭に置かれていて容易に入手できる。あるときは、買った本の中に1万円札が挟んであるというラッキーなこともあった。参考資料は、インターネットを開くと一目瞭然で開示されており、評論集などは近所の本屋に注文して取り寄せてもらい、執筆のお膳立てだけは、どうやら出来た気がした。
 すると、松岡先生からは、4月からの面談ゼミとサイバーゼミにおいて、必ず修士論文の執筆内容を発表するように厳命が下された。まだ、ゴールまでは先があるとのんびり構えていたのに、早くもムチが入ったのである。
 率直にいって、本格的な論文に取り組むのは初めての経験である。何をどのように書けばいいのか、さっぱり見当がつかない。そこで、やむをえず、論文の書き方に関する本を何冊か図書館で借りたり、購入したりした。それらの本の中で、自分にとって比較的理解しやすかったのは、泉忠司著『文化系必修論文作成術』(夏目書房、2003年)である。しかし、読んだからといってすぐに書けるものではない。まず、論点が定まらないし、タイトルも決まらず、構成もはっきりしない。まさに、五里霧中の状態である。
 それでも、4月の面談ゼミでは、なんとか「序論」を書いてとりあえず発表し、5月には、「第1章」、6月には「第2章」、7月には「第3章」と、あまり内容を吟味せずにとにかく分量だけを稼ぐ感じで書き上げてゼミで発表した。その都度、松岡先生をはじめ、出席者から不明確な点などを指摘され、修正を加える。
 そして、3章構成で50ページほどになったとき、松岡先生から論文全体に統一性が欠けているとの重大な指摘を受ける。特に第1章の内容が問題になるが、自分では即座に対応することができない。今更、全てを捨てて書き直しする気力もわかず、しばらく休筆状態となる。仕方がないので、8月・9月のゼミではリポート内容について発表してお茶を濁した。
 しかし、いつまでも休筆しているわけにもいかない状況がでてきた。松岡先生から10月中旬に修士論文の中間発表会があるので、ゼミ生は全員参加するようにとの指示があった。そのため、私も重い腰を上げて再び修士論文に立ち向かうことにした。ようやくにして論文全体の統一性を図り、なんとか結論をまとめたのは12月末であった。その間、松岡先生からは、何回も貴重な指摘と添削をしてもらった。論文のタイトルは10回ぐらい変わり、50ページ以上あった内容も余分な部分をそぎ落として、最終的には41ページにまとめた。まさに、論文とはいかに絞り込むかであることを実感する結果になった。
 修士論文を書き上げて思うことは、論文の壁は厚く、高かったということである。その壁に挑み、なんとか登攀できて、只今の気分は爽快そのものである。最後に、指導教授の松岡先生はもちろんのこと、関係の諸先生方に心から謝意を表して拙稿を締めくくりたい。



 
       
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