スポンジのようによく吸収し、竹の子のようによく伸びた
文化情報専攻 斉藤 千絵



はじめに
 松岡ゼミ初の面談に出席したときのことは、今でもよく覚えている。これまでの人生をかけたような論文テーマを引っさげて上田ゼミから編入してきた二年生と、人生経験豊かな貫禄に満ちたもう一人の一年生に、呆気にとられるばかりであった。松岡先生を加えた三方による議論に、圧倒されながら、ただ聞いていた。さらに履修要項を見て、修了できないかもしれないと判断し、大学院生になったことはもう誰にも言わないでおこうと決心した記憶がある。一年次に五科目選択したのも、一、二科目落としても良いように、という理由からであった。入学当時は、自分は遅れているという意識があり、全く自信がなかったが、できるところまで頑張ってみようと決心した。まずは、タイピング・ソフトの練習から始めた。夏のスクーリングまでは、PCの扱い、テキストの講読、月に一度のゼミ発表だけで精一杯であった。しかし、次第に自分なりに大学院生生活に慣れていき、沢山のことを学ぶことができるようになっていった。

論文執筆の基盤
 入学して間もなく、ニューヨークとロサンジェルスの友人が来日し、その食事会に松岡先生も参加してくださった。そしてこの会食は、論文のテーマの決定に大きく影響し、結局、入学当初の予定を大幅に変更するきっかけになった。はじめは漠然と、アメリカでの日本文化・日本語教育に結びつく勉強をと考えていたのだが、最終的には、ラップ・ミュージックの起源を60年代公民権運動の弁論に探るというものになった。アフリカ系アメリカンの音楽が自分にとっていかに重要なものであるかを自覚した結果であった。一年次は、論文執筆の基盤づくり、論文テーマ決定の時期に相当し、選択した五科目は、どれも論文執筆に役立つ内容であったと思う。比較文化・文学の研究への意欲と興味をそそるものばかりであり、限られた時間の中で効率良く、楽しく学ぶことができた。特に五科目選択したため、常にレポートを書くことを意識して課題文献を読むという習慣を早々と身につけることができたことは有難かった。しかし、実際には、なかなか書く時間を作ることができず、結局締切りギリギリまで書き続けるはめになった。それが最大の反省点である。

論文執筆
 一年次の末、松岡先生と相談し、テーマを決定した。それからは、すぐに先行研究、参考文献の収集に取り掛かった。時間を有効に使うため、借りるよりは購入して家に置いておき、いつでも学べるように努めた。主に、松岡先生から教えていただいたり、アマゾンやアメリカの本屋で見つけたりして購入した。資料を読んだり聞いたりするリサーチは大変楽しい作業であった。先輩の論文のように、多くの知識を凝縮した論文となるように努力した。中には全く必要なかったもの、封を開けてもいないCDもある。使えそうな箇所に付箋を貼る作業を地道に続けた。しかし、学べば学ぶほど知らないことが多いことに気づき、時間をかければかけるほど論文の出来栄えは良くなる気がして、いつまで経ってもリサーチに満足できないのである。リサーチばかりで、なかなか執筆が進まないので、松岡先生に半年延期したいと申し出たこともあった。しかし、斉藤さんは大丈夫!と明るく言われてしまい、ああ、松岡先生が大丈夫と言うのなら大丈夫なのかな、と思えてしまうのだ。先生方、仲間、友人がくれた沢山の印象深い言葉の中に、松岡先生の「始まりの終わり」という言葉がある。長い人生の研究活動の中で、論文執筆を始めて、それが一つ終わるだけで、研究は続くということを話してくださった。人生、一生勉強なのだ。それを聞いて、その時点での自分が持っている最高の力を論文の中に出し切ればよい、ということがわかったのだ。結果、自分を向上させてくれる、良い論文に仕上がったと思う。

最後に
 自分の短所にうんざりし、長所に気付いた二年間であった。綱渡りのようなギリギリの毎日でありながら、勉強、仕事、そして家庭の全てをどうにかこなすことができた。発表が苦手であった私が、中間発表を無事終えることができたのも自分にとっては奇跡的な出来事であったが、松岡先生や他の研究科の先生方、そして、ゼミ仲間の思いやりと援助が道を開いてくれたということなのだろう。我ながらこの二年間、スポンジのようによく吸収し、竹の子のようによく伸びたと思う。やっと大学院生らしくなった、自信を持てるようになったというところで修了の時期である。全ては、優秀なゼミ・メイトに手を引かれながら学んだこと、松岡先生を始めとする先生方のご指導の賜物である。どんなに感謝の言葉を探してみても、納得いく表現は見当たらない。



 
       
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