トンネルを抜けると、またトンネルだった!
国際情報専攻 青山 周



 学術論文の書き方は、文系・理系とでは異なり、また研究テーマによっても千差万別である。文学と経済学ではかなり趣も異なる。もちろん定式化された論文の書き方があるわけではないけれど、自分なりにこれがモデルだろうと思う理念型をあげるならば、次のようなものになる。

序論  取り上げたテーマの重要性、先行研究の整理、仮説を説明。
第1章 概念整理(論文に出てくる「登場人物」や言葉の定義など)
第2章 各論。仮説の立証を試みる。
・・・・・・
結論  仮説の検証結果、理論的整理、残された課題を説明。
 

 最初に意見を述べ、次に自分の意見を裏付ける「事実」を列挙し、最後に再び事実に基づいて検証された意見を述べる。
 自分が理念型通りに論文を書いたかとなると冷や汗ものである。仮説と検証、そして理論化というきれいな流れにはなっていなかったと、早速、反省している。ということで、修士論文審査とほとんど同時に、「中国環境ビジネス論」の構築に向け、再スタートしなければ、との思いに駆られている。
 かつてマックス・ウェーバーは『職業としての学問』において、永遠に評価される芸術品と違って「進歩」が運命づけられている学問の仕事は、いずれ時代遅れになると述べている。この言葉は、筆者にとって、常に励ましであるとともに、なぐさめであった。
 キヤノンの幹部曰く、キヤノンのデジタル・カメラの製品寿命は数年であるが、実際の商業価値が保持されるのは一つの製品でせいぜい1年という。技術者が精魂こめて開発した製品も、精緻に検証された学術研究も、創造的破壊の前にはなす術がない。論語には「死して後已む」という言葉もあるが、勉強、学問の道は限りないもので、たとえ死んでしまっても、まだまだ続くのである。
 川端康成の『雪国』ではトンネルを抜けるとそこは雪国だったが、学問の世界では「トンネルを抜けると、またトンネルだった!」なのだろう。


 
       
電子マガジンTOPへ     特集TOPへ