感謝の日々――修士論文提出への道程

文化情報専攻 松本 敬子


1.はじめに
 この2年間を振り返り、まず最初に、指導教授である竹野先生をはじめとする先生方や、ゼミの皆さん、陰ながら支えてくださった事務の方々、そして家族など、私を支えてくださった多くの方々へ感謝の言葉を述べたいと思う。何か一つでも、自分ひとりでできたなどと思ったことはなかった。恥ずかしながら、体が丈夫ではない私は、人並みにゼミにも参加できず、竹野先生の指導もメールでのやり取りがほとんどであった。お世辞にも模範的な学生とはいえなかったと思う。だから、周囲への迷惑は、多大なものであったと思う。病院と図書館、時には大学院まで送り迎えしてもらったこともあった。それでも、ゼミやスクーリングへの参加は非常に楽しみではあった。しかし、常に体温計の数字を気にしながら、多量の薬の服用と副作用、しかもその効き目の遅さにも焦り、苦痛をこらえての受験や受講ではあった。パソコンに向かっていても、この2年間痛みを感じずにいたことはなかった。だが、入院や手術を経験しながら、論文を書き上げた院生もいらっしゃるというのだから、私の苦労などはまだまだ大したことではない。しかし、多少はハンディを抱えているような私が、修士論文を無事に書き上げることができたのは、自分以外の多くの方々のおかげとしか思えない。だから、まず何よりもはじめに、謝意を述べたいのである。

2.原点を見つめて
 これから修士論文に執りかかる方のために、何か一つでも役に立つことを申し上げられればよいのだが、突出したところもないので、自分のことを書かせていただきたいと思う。大学院に入学する前に、「問題意識を常に持つこと」をアドバイスされた。社会人学生なら、特に自分の身近にあることがよいという。社会に出て貢献している人たちにとっては、よく考えてみれば、意外といろいろ気が付くことがあるだろう。そうした問題意識は、自分自身の内面からくるものであるように思える。そうした自分の原点のようなものを、常に念頭に置きながら論文作成を試みられると、最後までぶれずに、論を展開することができると思われる。このようなことはあらためて申し上げることでもないのだが、自分の場合、意外にそんな当たり前のことが難しかった。文献をあたったり、知識が増えれば増えるほど、書きたいことや書かねばならないと思えることが際限なく増えていく。最後は結局、何を書かないか、ということが問題になってしまったからである。
 社会貢献もしていない、ハンディキャップだらけの自分に向き合うことから、私の研究は始まった。私の問題意識は、ある意味、他の方々より多くて、大きいものだといえるのかもしれない。このような私が選んだ研究テーマは、宗教の世界であった。昔ボランティアでお世話になった、イエズス会やフランシスコ会の神父さんたちの、『聖書』の崇高で時にストイックな、救いに満ちた尊い精神性、そして何百年にもわたり自分の体に流れる、神道という、古代からの日本人の素朴で身近な、清い精神性に対する思いであった。
 宗教というと、とかく日本人には敬遠、むしろアレルギー的な反応を示す人も見られるが、それは一部の過激な原理主義や宗教まがいのカルトによるものと思われる。本物の宗教は、我々の生活の基盤となっている文化を形成しているものであると考える。特に、神道とは我々日本人の生活そのものであり、生活を離れた信仰というものを日本人はもっていない、と春日大社の葉室宮司は言っている。これは、『聖書』でも同じことが言えるのではないだろうか。『聖書』の経典とする宗教は、キリスト教をあげるまでもなく、世界宗教をふくんでいる。『聖書』の世界観や精神性というものは、それを信じる人々の生活の一部となり、今日までその文化を育んできたのではないだろうかと思うからである。 私の中では、これら全く違う信仰形態を持つ宗教性は、決して相反発することなく、むしろ共存し共生して、現在の自分を形成していると思われるのである。私にとって、「生」は当たり前ではない。むしろ、今「生かされていること」を強く感じている。自分の「生」は、かりそめに過ぎない。だからこそ、「生きていること」や森羅万象の妙なる美しさを感じることもできるのかもしれない。そう思えたとき、美しさを感じることができることほど、幸せなことはないように思えた。そうした人間にとって、また「生きる」ということについて、もしかしたら最も大切なことかもしれない世界観や人生観を教えてくれた宗教という文化の、広大で清らかな宇宙に触れたいという思いが、私の原動力であった。

  3.2年間を振り返って
 文献を探す上では、意外というか、思っていたとおりというべきか、神道と『聖書』を比較研究している文献や研究者は決して多くはないようで、先行研究を探すのは容易ではなかった。しかし、ものは考えようである。先行研究を気にせず、自由に自分の考えで比較し、論を展開することもできる、とも考えることは可能だからである。そう考えれば、ありがたいことでもある。
 竹野先生も、海のものとも山のものとも知れぬ、取り留めのない私の研究テーマを、忍耐強く聞いてくださり、何とか形になるよう、自分でも気付かぬ論点を引き出そうとして、的確で丁寧なアドバイスを下さり、その上で、非常に自由に研究させていただけたと思う。その点でも、私は非常に恵まれていたと思い、竹野先生には感謝しきれない。 科目の履修も、とても有意義なものであった。特に、「宗教哲学特講」と「哲学史特講」は、他の専攻からの履修にもかかわらず、専攻違いの私にも、忍耐強く大変丁寧に指導していただけたことは、大変ありがたいことであったと感じている。自分の研究自体も含めて、突き放して客観的に、かつ批判的に見るという視点を教えられたように思えるからである。



   エリアーデは、宗教学の文化的指命として、次のように言っている。

 人文科学の中でも、学問であると同時に、入門教育的かつ精神的なテクニックでもある少数の中に属するだろうとし、近い将来に第1級の文化的役割を果たすだろう。
また、リクールは、次のように言う。
 現代の我々の有様は、聖なるものの忘却と、その結果としての人間全体的な喪失である。これが、人間にとって最も基本的な場である言語の場で生じているのが、現代性の特色である。

 これは、文化全体にもいえることなのかもしれない。我々人間にとって文化というものは、人間の生活そのものであり、離れて存在することができないものなのではないだろうか。現代の我々は、文化というものの意味を科学技術や物質的なものというような狭義な意味にとらえすぎているように見える。しかし、文化は本来、物質的なものだけを指しているのではない。精神的なもの、心を豊かにするものをも指している。その忘却は、まさにリクールの言う「人間全体的な喪失」につながっていくのかもしれない。そうした意味で、文化は大切なものであり、私にとって人生で最も大切な大学院の2年間を、文化情報専攻に席をおくことができ、そこで学び、研究できたことを、心からありがたく、幸いなことであったと思う。

 最後にもう一度、私のようなものを支えて導いて下さった、竹野先生をはじめとする皆様方に感謝の意を表したい。また、これから論文を書かれる方々にも、微力ながら、エールを送らせていただきたいと思う。時間だけはどんな人にも平等に与えられているが、それを自由に使うことは難しいことと思われる。だが、決してあきらめないでいただきたいと思う。様々な事情をお持ちで、学業との両立は大変難しいこととご推察申し上げるが、皆様は決して一人ではなく、またすばらしい可能性をお持ちだと思うからである。


 
       
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