論文エゴイズム
国際情報専攻 中川 貴智
「日本語は難しい・・・」
これが修士論文を書き終えた私の率直な感想である。
しかしながら、私が「日本語の難しさ」に気付いたのは、修士論文を書き上げ、論文要旨の英訳に着手したときであった。自分の書いた日本語を英訳するにあたって、なかなかピリオドで文章を区切れないのである。しかも関係代名詞や仮定法的表現がなんとも多いこと・・・。
おそらく文章というものには、書き手のエゴイズムが如実に反映されるものとおもわれる。
私の場合は、愛読書が『三島由紀夫全集』ということもあってか、難解でありながらも巧みに設計された、精妙精緻でいて流麗華美な彼の文章表現に毒されており、無意識の内に、難解かつ装飾的(虚飾的?)な表現を好んで使うようだ。
確かに、いわゆる文章のプロが書く難解かつ装飾的な文章表現であれば、そこに創造性や斬新な美的表現なども存在しうるであろうから、心地よく読めるかもしれないが、それが素人の文章となると「言わずもがな」である事は、私自身もよくよく承知している・・・。
私がこうした文章表現を好んで使うのはこの際ほっとくとして、一般的に書店に出回っている専門書や学術論文においても、私の場合とは若干ニュアンスは違えども、同様の傾向が見られるのではないか。
つまり「読み手にとって優しくない、疲れる文章」ということである。
私も修士論文を執筆するにあたって、いっぱしの研究者気取りで、専門書や関係する学術論文などを読み漁ってきたが、それらはやはり「興味があるからこそ読むことができる!!」という類のもので、「読み手に優しい、読んでいて疲れない」というものからは甚だ懸け離れた、寧ろ苦痛を伴うものであった・・・。
そもそも専門書とか学術論文などは、読み手として専門家や研究者を対象としているから仕方がないのかもしれないが、それにしても『頭痛が痛い!!』(注1)的な感覚を抱いたものである。
つまり、私が何を言いたいかというと、修士論文に限らず、文章を書くにあたっての教訓として、「読み手に優しい、疲れない文章を書きましょう」ということである。
私が、自らを反面教師としつつ考える論文作成のポイントは、以下のとおりである。
1.センテンスは短めに構成すること。
一つのセンテンスにいろいろ詰め込みすぎると、説明過多に陥って、かえって伝えたいことが不明瞭になる。その結果、読み手が混乱して何も伝わらなくなる。
2.「注」を有効活用すること。
論文という性質上、どうしても専門用語や説明が不可欠な言葉を使わなければならない場面に遭遇するが、それらを本文に盛り込むと「1.センテンスは短めに構成すること」を実現できない。その場合は「注」を有効活用すること。
これらは、後発の研究者にとっても大変有意義なことであるとおもわれる。
・・・というのは建前で、現実は「自分の論文を英訳する場合にラクチンだから♪」という立派なエゴイズムなわけだが。
注1)
ここでは敢えて可笑しな表現を使っている、念のため。
さらに言うと、この文のくだりについて、専門書や学術論文に『頭痛が痛い』的な誤った表現が多用されていたというわけではなく、その内容が非常に複雑で、とっつきにくかったという印象を伝えるために使っている、悪しからず。