4期生の修士論文奮戦記

特に記載がない限り、電子マガジン15号(2004年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 オリジナリティーで苦悩した2年間 原口 岳久
国際情報 わが身の非力を思い知る 佐藤 勝矢
国際情報 「蹴られる(?)背中」−論文・レポート奮戦 記- 江口 展之
国際情報 脳に筋肉がついた 長井 壽満
国際情報 修論はあなたの自己表現の場です 菊池 通夫
国際情報 ご指導に感謝しています 長谷 川昌昭
国際情報 インターネットで歴史資料を発掘 鞆谷 純一
国際情報 他山の石 池田 昌弘
国際情報 長谷川ゼミ4期生修士論文奮戦記 神垣 幸志
文化情報 中高年女性と修論作成 具島 美佐子
文化情報 修士論文作成における具体的な参考事項 島崎 浩
文化情報 最後まであきらめないこと 中村 恵
人間科学 文献研究のススメ 石舘 美弥子
人間科学 「終わり」ではなく「始まり」のための小休止 原田 こずえ
人間科学 通勤電車と図書館を有効利用してどうにか完成 白鳥 栄司
人間科学 会心の友たちを得て 元木 芳子
人間科学 失敗を糧に前進を 岩崎 笑子
人間科学 わが子に捧げる修士論文 片岡 公博
人間科学 修論完成への道のり 田中 聡
人間科学 全力前進の1年 後藤 和彦
人間科学 2年間を振り返って 長田 艶子
人間科学 浮き草のごとく 守重 信郎


「オリジナリティーで苦悩した2年間」   国際情報専攻  原口 岳久
論文題目 : ユーゴスラヴィア紛争の背景と原因
−政治的、思想的、心理的要因を中心として−

 一昨年乾先生のゼミに加わったとき、修士論文について先生から言われたことはオリジナリティーの必要性でした。学術論文にオリジナリティーが必要なのは当たり前のことですが、入学当時はそういう認識すらなく、「学術論文とはそういうものか」と思った次第です。思えばのほほんとした学生でした。
 以後ゼミでは、各ゼミ生の研究計画が発表されるたびに、「オリジナリティーはどこにあるのか」で激論が交わされることとなります。人がすでに言っていることを書いてもしょうがない。新しい発見はどこにあるのか。新しい視点、切り口はどこにあるのか。また、オリジナリティーがあるとしても、それが普遍的な価値のあるものでなければなりません。
 我々が今までやってきた「勉強」は、先人の業績を学び、自分の知識とすることが中心でした。教科書を読んで、理解し、その内容をリポートやテストの答案用紙にまとめればよかったわけです。大学院に入って初めて、「勉強」から「研究」にステップ・アップすることの困難さを思い知りました。
 天動説を否定して地動説を打ち立てたコペルニクスのような天才はともかく、一般人が新たな発見することは容易ではありません。我々が興味を持つようなことについては、たいてい誰かに研究されています。多くの人が関心を持つ重要なことほど、多くの専門家によって研究し尽くされています。この状況のなかで新しいことを見出していくには、自分のすべての知識、経験、感性、勘を総動員し、努力しなければなりません。独自の感性を持っている人、人には真似できないほど粘り強く物事を追求していく人は発見の可能性を秘めているのだと思います。
 私の場合は、ごくシンプルな動機から研究をスタートしました。「ユーゴスラヴィア紛争で、なぜ人々は隣人を殺したのか。人間とはかくも恐ろしい生き物なのか」です。この点については、先行研究のなかに納得のゆく答は見つかりませんでした。これを追求すればオリジナリティーが出せるというのが私の勘でした。何よりもこの答を知りたいという欲求が強くあったので、テーマについてはあまり迷うことはありませんでした。
 問題はその答を見つけるための方法でした。政治がああなってこうなって、という分析だけではだめだということは分かっていました。民族が違うというだけで、幼なじみすら殺してしまうような状況。これを説明するには、人間の「心」に立ち入らなければならないと感じました。
 人の行動を決するのは心理です。そして紛争のような政治的現象は人々の行動の積み重ねによって生ずるものです。したがって心理と政治とは分かち難く結びついているはずなのですが、一般的に政治学は心理に深く立ち入りませんし、心理学が政治や歴史に立ち入ることも頻繁ではありません。政治学者から見れば、心理は目に見えず、あいまいであり、多様であり、移ろいやすいものなので、分析の対象とはなりにくいのでしょう。他方心理学は科学性を保とうとしますから、実験や観察などを重視し、歴史的過去における不特定多数の人々の心理を分析対象とすることはあまり一般的ではないのでしょう。
 政治と心理をいかに橋渡しするか。これが私のもっとも悩んだところです。心理と政治や歴史の関係についてスケールの大きい分析をしたのが心理学者のエーリッヒ・フロムです。フロムはその著書『自由からの逃走』のなかで、近代社会に生きる人々の性格構造とナチズムの隆盛の関係を明らかにしました。このフロムの理論をユーゴ紛争に適用するこが私の研究のポイントとなりました。結果として、心理と政治あるいはイデオロギーの関係を何とか整理することができたと思います。
 具体的な執筆方法としては、とにかく一度最後まで書いてみることを目指しました。その結果10月には最初の草稿を仕上げることができました。ところが、しばらく寝かせてから読み直してみると、なんとまあ粗雑なこと。論点がはっきりしないし、無駄な記述がやたら多い。そこで推敲を始めまたのですが、大幅な書き直しを余儀なくされ、分量も当初の3分の2にまで減ってしまいました。しかしおかげで最終的にはかなりすっきりした論文にすることができたと思います。
 これから修士論文を執筆される方にアドバイスするとすれば、なるべく早い時期に、とにかく一度最後まで書いてみてくださいということになります。草稿ができれば、余計なこと、足りないこと、そして言いたいことが見えてくると思います。先生から早めの指導を受けることもできます。一発で完成度の高いものを書ける人はいないのですから、一度書いてみて推敲するのが正解と思います。何を書こうか、どう書こうかと悩んでいるうちに秋が深まってしまうと、とても苦労しますから。
 いろいろ苦労しましたが、修士論文を書くことは自分にとってきわめて貴重な経験となりました。その過程で、乾先生をはじめ、諸先生方、ゼミの皆さんにさまざまな指導や励ましをいただきました。この場を借りまして、改めて御礼申し上げます。


「わが身の非力を思い知る」   国際情報専攻  佐藤 勝矢

 私が修士論文を書き始めたのは1年次の1月末だった。昭和初期の政府と軍の関係がテーマである。3月には第1章、4月には第2章の半分まで書き上げる快調な滑り出しだったので、正直なところこの調子なら余裕だと思った。しかしとんでもない勘違いであった。
 5月初め、いよいよ本題となる第3章に取り掛かっていた。途中経過をゼミで発表すると「これは論文じゃないな。読み物だ」と、乾先生からの厳しいご指摘。ゼミのみんなにも笑われた。私は頭を掻き掻きといった調子で、まだまだ危機感のかけらもなかったが、これがわが身の非力を思い知らされることになる転機だった。
 それじゃあ読み物から論文に軌道修正しようじゃないか、と思いきや、なかなか簡単にはいかない。一旦書いてしまった文章を一体どう修正すればいいやら。なんとか論文らしくしようと切り貼りを繰り返すが、思うようにいかない。資料は大体揃ったというのに、歩みは止まった。駄目だ、根本的な手直しが必要だ。
 また、気がつくまで時間がかかったが、実は随分前から病に冒されていた。私ではない。パソコンである。文章を打っていると突然電源が落ち、折角の苦労が全て水泡に帰すということが連日繰り返され、やり場のない怒りが募る。ヘルプデスクの八代さんに相談すると、何者かに遠隔操作されているという。八代病院で治療を受けて再出発。
 そして「読み物」原稿を破棄して初めから書き直すかどうか迷った末、強行突破を決意。全部でき上がってから推敲すればいいよ、と開き直って7月、強引に第3章を完成。
 さあ、第4章だ。私の場合、張作霖爆殺事件と統帥権干犯問題の2つの事件を軸としたため、目を通しておくべき先行研究や参考図書は多い方だったと思う。参考図書は古くて既に絶版になったものが多く、地元の大学や公立図書館、そして日大図書館に貸し出しや複写をお願いして送ってもらうなどして集めた。これをいちいち読むのも一苦労。この作業で第4章の統帥権干犯に入る頃には息切れが始まっていた。
 この時が8月。明らかに進行速度が落ちている。私は4章まで書いてまとめる予定であったので、まだ焦ることもなさそうなものだが、まだこれから集めなくてはならない資料もある。
 仕事の休みを利用して上京し、国会図書館の憲政資料室へ行った。とある軍人の日記を開けてびっくり。今まで殆ど活字資料にばかり頼ってきた私。あまりに個性的な字で判読不能。日記なんだから、人に見せることなんて考えている訳がない。書いた本人が分かればいいんだから当然といえば当然。資料を目の前にしながら為す術もない。
 それならと、お次は政治家の書簡に活路を求めた。
「おおっ達筆・・・すぎて何て書いてあるのかさっぱり分からん」
 完敗である。何の成果もなく敗残兵のような惨めな心持ちで東京を後にし、日を改めて再度上京。今度は防衛研究所の史料閲覧室である。目を通したいものはたくさんあるが、ほんの数時間ではとてもメモしきれない。何度も通うこともできないので最低限の要点だけメモして、あとは全て複写を依頼した。後日に自宅へ郵送である。
 ところが資料は待てど暮らせど届かない。電話で問い合わせると、1カ月ほどかかるのが普通という。がっくりと頭を垂れた。
 さらに病気がちなパソコンが大流行の病気に感染し、再び闘病生活。気が焦るばかりで、原稿は一行も進まない。既に書き上げている部分をたまに手直しして、心の焦りをごまかす日々。こんな状態が1カ月以上続き、本当に完成させられのかと不安を募らせていた。
「逃げよう。まさか先生も追っかけては来ないだろう。去る者は追わずって言ってたし。通信制なんだから逃げるのも簡単だ」。気分的にすっかり追い詰められていた。 
 更に会社からは転勤命令。もう論文どころじゃない。宿も探さなきゃならない。
 ところが不動産巡りが意外にもいい気分転換になり、調子を取り戻し初めた。集めた資料を地道に吟味しながら、ゆっくりとではあるがようやく軌道に乗り始めた。
 10月下旬、中間発表に挑戦。質問に立ち往生しないか心配であったが、なんとか乗り切った。のみならず、嬉しいことに、ここで新たな着眼点を先生方から授かり、ここから一気に一応の完成へと向かうことができた。感謝感激である。
 12月初旬、ひと通り書き終え推敲に入った。ところがなんともお粗末。主語と述語の不一致や甚だしきは資料の読み違えや人名の誤りさえある。元々が悪文のため、とにかく思うようにいかない。一生懸命やっているようで、実は殆どが単なる校正作業である。最後に推敲をするのは当然として、やはり初めから完全原稿を心掛けておけばよかった。
 また、資料の再確認が必要になると、その度に部屋中引っかき回していた。複写資料は極力整理していたつもりだったが、甘かった。資料の再発掘にとられた時間は大きい。推敲してるんだか、家宅捜索してるんだか分からないほどである。
 とにかくできるだけ木を見て森を見ずにならないよう心掛けながら何度も推敲し、12月下旬に最終稿として乾先生に全文を送った。これで一段落。しばらくは殆ど風呂に入る余裕もなかったので、身体中が痒い。垢を落として久しぶりに湯船に浸かった。
 数日後、朱の入った原稿が先生から送り返されてきた。表紙には「分量はあるが、よく見ると粗雑。自分で推敲するように」と記されていた。推敲などしていないも同然という評価である。「ううっ、頭が痛い」。でも滅入っている暇はない。年末年始も関係なし。「振り出しに戻る」か。正月だからって、双六みたいなことしてる場合じゃない。
 改めて自分の文章を読み直すと、間違いがぞろぞろ。こんなものを提出するつもりだったのかと、ぞっとした。何遍読み直しても誤字や意味不明な文章が出てくる。まるで間違い探しクイズだ。段々と自分の文章を読み直すのが怖くなってきた。
 それでも何回も繰り返すうちに何とか、さまになったような気がする。再度先生に原稿を送り、指導を仰いだ後にまた推敲。相変わらず間違いが見つかる。
「まあ、この程度なら許してもらえるんじゃないか」とようやく見切りをつけ、印刷して宅配便で送ったのは締め切り前日、吹雪の朝であった。到着予定は締切最終日。間一髪である。初めの頃の余裕は跡形もなくなっていた。こんな筈じゃなかった。
 原稿を託して宅配会社の営業所を出ると先程の吹雪が嘘のような青空。眩い日差しに寝不足の眼を細めた。乾先生をはじめとする先生各位、そしてゼミのみなさん、本当にありがとうございました。お蔭様でなんとか完成させることができました。
 いや、終わってなかった。レポートが・・・・・・。


「「蹴られる(?)背中」−論文・レポート奮戦記-」   国際情報専攻  江口 展之

 海外出張14回、国内出張(除く日帰り)48回。 海外出張内訳、中国(含む香港)9回、合衆国2回、欧州1回、中東2回。 海外出張1回あたりの平均日数10日。 国内出張1回あたりの平均日数1.5日。 ∴ 延べ出張日数計212日。 
 正味1年10ヶ月(=2002年4月の入学以降、2004年1月の論文提出まで)の間に、これだけの出張がありました。 
 この数字をみられると、恐らく、誰もが「忙しかったんですね〜。よくレポートや論文を書けましたね〜。」と言ってくださることと思います。
 たしかに忙しい日々でしたが、逆に忙しいからこそ、なんとか卒業(=学位取得)までこぎつけられたと思います。なにせ、本来はなまけもの、切羽つまらない限り執筆に入らないという性癖(=悪癖?)は、「夏休みの友」を毎年8月30日/31日の2日間で 片付けていた小学生の頃からのもので、おそらく時間がたっぷりあったら、却って書き上げられなかったことでしょう。
 とはいえ、これでは、奮闘記にならないので、以下、実際には、どのような思考法あるいは手順のもとで、この1年10ヶ月の間を過ごし、論文完成まで漕ぎつけたかを順不同で記してみたいと思います。
◇  中間発表のおり、「合格しないことには話しにならないが、結構忙しく仕事の日程が押してくるので、とにかく合格点をとれる最低ラインのものを書き上げることを目指します」と公言し、(おそらく、諸先生には不評!?)これにより、「とにかく書き上げる。中身の評価は審査の諸先生に預ける。 不合格ならしょうがない。」と自らに暗示をかけ、退路を断った。“より良いものを”などと考え始めたら、“時間がたりない!→締め切り延ばそう”などと安易に流れかねないことを経験則上、自覚していたからである。
◇ 海外出張に際しては、目一杯の論文作成用参考文献をトランクに詰めて出かけた。とにかく手元にない本は読めない! (おかげで、融通のきかない航空会社に は、再三手荷物超過料金をとられた。) もちろん、持っていった文献をすべて読破することなどは、ハナから放棄。 「書籍類は隅から隅まで読む必要はない。必要なところだけ読めばいい。」との近藤先生の教え(?)を墨守し、出張中に費やす必要のない通勤時間相当の1日2時間をまず強制読書時間として、ななめ読み、飛ばし読みにあてた。 もちろん、その他の時間も気分次第で読書にあてた。このその他の時間を確保する ためには、海外出張中の現地での夕食のご招待は社内に関しては滞在中1回のみに限定することとし実行した。(「江口さんは手間がかからない」と駐在員には好評だった模様。)
◇ 国内出張に際しては、各科目のレポート作成のための参考文献を数冊、常時携行。ただし、これもななめ読み、飛ばし読みで、ともかく大づかみに内容を把握することに専念した。(大づかみでも、何冊かに目を通すと、それなりに論点は浮かび上がるものです。)
◇ 専門科目は、いずれの年次にあっても、まず 一番興味を引かれた5科目目一杯を登録。教科書が届いたところで、目次を熟視。 結果、興味が失せた、ないし軽々には手に負えないと自覚した科目については早々にGive Upし、Give Upを即断しかねた科目については、優先順位を設定した。これは、時間が足りなくなったときには、どの順番でGive Upするかということを予め決めておくという、ある意味、リスク・マネージメントの手法の応用である。 結果として一年次は4科目16単位を確保出来た。また、二年次においても同様に、5科目目一杯を登録。結果は2科目をGive Upし、3科目についてレポートを提出した。 (卒業に必要な科目数は6科目24単位+修士論文6単位の30単位なので、評点はともかくとして、この方法で卒業単位を確保。正確には“確保したはず”である。本稿執筆の現時点においては、レポートの評点は未知である。)
◇ 気をつけていたことは、論文にせよ、レポートにせよ、とにかく思いついたことは、すぐにメモ。(メモらないと、すぐに忘却のかなた!のリスク有り)。メモったことは、数日以内に必ずPC上の「メモ」に打ち直す。(Outlook利用:これは、あとになると量が貯まって整理がつかなくなることもあるが、それよりも生来の悪筆で、時間がたつと、自分で書いていても何をメモったか判読不能になるのです。)
◇ この作成したメモ・ファイル(Outlookファイル)は必ず、PCoff時にInternet DiskにUpすると共に、CD−RWに も書き込み(含む上書き)、万一のデータ破損に備えた。(これは、先輩諸兄のアドバイスによるものである。) また、海外出張時には大学から貸与されたPCと会社支給のPCの2台を常時携行し、毎晩、会社支給のPCをバックアップ用と位置づけて、Internet Diskの代用とした。(一度だけだが、ファイル破損が上海滞在時に発生した時に実際に役にたった。)
◇ 論文作成にあたっては、前記のとおりメモしていたものを、まずは適当にファイル結合、あるいはコピー機能を多用して、パッチワーク的な論文を一旦作成し、様々な要素(文体、詳細度etc.)で、そのパッチワーク的論文を統一感ないし一気通貫度を基準に整理・推敲するという手法をとりながら、初稿、二稿….最終稿という流れで完成にこぎつけた。このため、入学時の半ば大風呂敷的論文内容予定は、題目提出、中間発表のたびにスリム化し(一応、これらのイベントを自ら仮締め切りと設定して作業していたため )、従い、予定題目も同一レールの線上にはあるものの、二転三転し、結局、最終稿を書き上げたのちに、内容に沿って、題名を再考・訂正することでつじつまを合わせた。
◇ 幸いだったのは私が研究しようと思い立った分野(「法務」と「広報」の協働関係)に関して、もろに該当する先行文献らしい文献がなかったという点である。(それぞれの分野で思索に役立つ文献はないこともなかったが、引用対象となるような文献は見当たらなかった。) すなわち、先行文献がない=引用する先行研究がない=引用文献リストアップないし抜書き作業の省略が出来る、という、本来であれば、多大な時間を費やすであろう作業時間が生じなかったことも、なんとか論文執筆が間に合った大きな要素であることは否めない。(もっとも、先行研究がなかったので、自分で考えてみるしかないか、と思ったのが大学院入学の動機であるが。 )
 以上、これが論文奮闘記と言えるかどうか、われながら疑問であるが、ともあれ、最終提出日の前日に中東より帰国し、最終提出日の午前中にプリントアウトをするなどという、相変わらずの綱渡りを経て、なんとか提出した、というのが実態である。幸いにして、面接審査も合格させて頂き、今は、当初の大構想から、量的に3分の1位になってしまったこの論文をスタートに、これからもこの分野を研究していくことを考えている。(その意味もあって、最終提出日に論文題目を変更し、最後に「序論」という語を付け加えた。 一応、自分に宿題を出したつもりである。)
                                                           以上

 あとがき:偶々、娘がこの原稿を見ていわく、「これ、少し格好良過ぎ。殆どフィクションじゃないの。背中蹴りたいわ (by 綿矢りさ?)」まったく この2年間を象徴するがごとく、最後の最後でこの奮闘記の題名もまた変更を余儀なくされました(苦笑)。


「脳に筋肉がついた」   国際情報専攻  長井 壽満

 入学して、最初に学生になったなと感じるのが、5月位に送られてくるテキストの山を受け取ったときです。そして、ゼミによってはその前、5月の連休位に一泊二日程度のゼミ合宿に参加した時です。合宿ゼミでは先輩の経験、多士済々の方々との興味つきない会話であっという間に合宿はおわります。帰りの電車の中でさあこれから2年間で卒業するぞ!と意気に燃えて家にたどりつきます。だれでもが何処かで出発する前の気持ち、一度位は経験したことあると思います。
 入学の興奮が醒めた頃に、送られてきたテキストの山を眺めながら、なんかヤバイ所に足を踏み込んでしまったのではないか・・・・と若干後悔の念をもちながらテキストを開き、「リポート課題」が投げかけている意味を考え始めるのが6月頃でしょうか。初年度で5科目、4本/科目のリポート要求されますから、一年間で20本、一年間に52週間ありますから平均すると2−3週間に1本リポートを仕上げることになります。この2−3週間というのは先生とのネット経由のコミュニケーションする時間を含みます。授業によってテキストは原書(英文)の場合もあり、こうなると脂汗がでてきます。こうして、自分の勉強スタイルを模索している間に、あっという間に7月のスクーリングの時がきてしまいます。
 スクーリング時に、修論の話題がでます。修士論文の合格基準で「独創性」に重きがおかれているとの話をきかされます。リポートで頭が一杯だったのに、さらに修士論文を考えなければならなくなります。さあ大変、「独創性」が必要だ! 自分には「独創性」なんか有るのかい。自分に「独創性」があれば、大学院なんて入らないで、スイスイ世の中泳いでいるよ、ブツクサ思いながら9月のリポート締め切りに追われているうちに夏が終わります。
 でも、皆さん心配しないでください。世の中、苦有れば楽あり。求めよ、さらば報われんと誰かの言葉にあるように、頭と手を動かせばリポートはなんとかなります。リポート作成を先生とのゲーム、頭の体操と位置づけてしまうことです。リポートは課題決まっており、テキストがあります。考える範囲が決められています。材料は与えられているのです。あとは材料に自分の味付けをするだけです。仕事しながらの勉強ですから、仕事と勉強の時間を上手に振り分けられるかどうかが分かれ目になります。私は連休、週末に図書館に籠もり、集中してリポート作成しました。
 さて、修士論文となるとリポートとは勝手がちがいます。私の場合は、まず「独創性」です。8月位から修士論文のテーマを選ばなくては・・・と頭のなかでチラツキ始めます。「独創性」とはなんぞや?なんて考えたり、「独創性」・「修士論文」という言葉が頭で泡のように浮かんでは消えたりするような感覚になってきます。こうしているうちに前期のリポートを提出し、すぐ10月後期リポートに取り掛かることになります。
 しかしリポートを書き、先生の講評などを加味して、さらにリポートの内容を豊富にしていく過程で、物事を頭の中で整理して文章にしていくトレーニングを知らず知らずの間に進めているのに気が付きます。社会にでると、なかなか一つのテーマをしっかり考えそれを自分の言葉で文章として表現する機会がありません。大学院に入り、リポートを書いていく過程で、物事を纏めて、かつ他人に判るような文章で表現する技が身についていきます。この延長線上に「修士論文」があるのに気が付きました。
 あとはテーマを見つけることです。テーマはそれぞれの興味のある分野から探すことになります。私は自分の仕事と関係ありそうなテーマから絞り込みました。大きなテーマはすぐ思い浮かべる事はできますが、大きく広いテーマを論文という50−100ページの世界に纏めるに為にはテーマの中身を具体的に絞りこむ必要があります。この絞込みの作業が大変です。論文は内容と伴に万人に理解してもらうために、書く上での形式的なルールがあります。基本は引用文献を明確に脚注などで参照できるようにします。具体的には先生から脚注の付け方の指示・マニュアルに沿って書く事になります。資料を引用できるように整理しておく作業は手間隙がかかりました。
 テーマの大枠が決まると、資料を集める算段を模索することになります。私の場合は仕事と関連あるテーマを選んだので、何処にいけば資料があるか判っていたので資料集めにはそれ程苦労しませんでした。あたりまえですが、資料だけでは論文は書けません。資料を整理・理解し自分の「独創性」を加味したうえで、起承転結の流れにそって論旨を展開しなくてはなりません。大枠のテーマでは論文の着地点が見えません。論文は提言のある結論が必要なのです。問題の羅列ではありません。資料から抽出した問題に対して自分の「独創性」を加味して議論を行い、提言を結論づけるのが論文です。
 私の場合は現在進行中の事象を論文のテーマに選びました。数ヶ月毎に状況が変化するので、論文の結論=論文の題目を決めるのに苦労しました。ぎりぎり12月になってから論文の題目を決めました。資料関係は1年次の末1−2月位から集めて、読み始めました。1年次のリポート提出した1月から新学期4月までは暇です。1月から4月まで3ヶ月間が論文の第一段階の仕込み時機です。この間に資料を集め、大枠のテーマに資料の肉づけが出来れば、修士論文の形が見えてきます。後は、論文を形式に従った形に落とし込んでいく力仕事の世界となります。まず纏まった時間のある時期に中身を気にしないで、なんでも良いから書いて文章にしてしまうことです。書いているうちに自分の論文の欠点、弱点が見えてきます。私はこの素稿を書くタイミングを5月の連休に設定し、資料が有っても無くても、なんか書こうと決めました。つまり1−4月まで資料集め、出来不出来は別として5月になんらかの形で纏めてみるようにしました。仕事と勉強する時間の配分、段取りが大変でしたが、幸いに5月の連休は年休加えて10日位続いて休みがとれました。
 しかし、取り上げた題目が毎日動いているホットなテーマなので、5月以降も新しい状況が出現し、論文として纏め上げるのは年末になりました。資料はあるが、論文の「切り口=論文題目」の設定には最後まで悩まされました。10月に論文の発表予行演習が日大会館で行われました。10月時の予行演習時の論文題目と最終提出した論文題目は違います。12月中旬に題目を変えようと決心しました。自分で納得できないと、他人には説明はできません。自分で納得するまで論文の水準を上げるのが重要です。
 論文の内容とは別に論文の形式を整える作業も時間がかかります。1週間位見ておく必要があるでしょう。引用、脚注の整理、目次とページの一致、プリンターの不具合の発生、ときにはパソコンがダウンして資料が消えるなど不測の事態が起きます。3部印刷、簡易製本の手間隙も馬鹿になりません。今年の年末年始にはパソコンのウィルスが大々的に流行し小生のパソコンもウィルスに感染しました。データのバックアップも重要です。日大のサーバーを自分の資料アーカイブ先として利用しました。私は出張の多い仕事をしているので、何処にいても自分のファイルをdown and up loadして保存できる日大サーバー・アーカイブ機能は重宝でした。
 なんか、論文作成マニュアルみたいになってしまいました。私自身は楽天的な性格なのか、論文作成を楽しみながら進めました。子供が工作で物を作っていくのを楽しんでいるような感じでしょうか。世の中に出ると、毎日の仕事に流されて纏まった一つの事に取り組む機会になかなかめぐり合えません。論文作成の過程で物づくりの楽しさと、自分の好奇心を満足させました。もし、次に論文を書く機会があれば、時間に追われない環境で書きたいなと思っています(でも、時間に追われない環境での論文作成は趣味の世界になってしまい、結局なにも書けなくなりそうです)。
 簡単に私の2年間の流れを書きました。日大通信制大学院は勉強する時間を自分の仕事の合間にはめ込み勉強することができます。メールによる先生とのコミュニケーションもすぐとれます。先生の自宅にまで電話で質問したこともあります。日大通信制大学院は仕事を持っている人の勉強の場として恵まれた環境です。ただ、ほとんど全てのコミュニケーションはパソコンを通しておこなうのでパソコンに慣れる必要はあります。
 忙しい2年間でしたが、2年間の勉強で自分の好奇心の幅とお付き合いする人の輪が広がったのが一番の財産です。今まで成人病予防のためジムで筋トレしていましたが、「脳トレ」も必要な事を思い出させてくれた2年間でした。「脳に筋肉がついた」というのが、今のfeelingです。


「修論はあなたの自己表現の場です。遠慮はいりません」   国際情報専攻  菊池 通夫

「若い時の苦労は買ってでもしなさい。」という言葉があります。この大学院での2年間は、当初考えていた以上に厳しいものを自分に与えてくれました。しかし苦労から得たものは想像以上に大きく、そして貴重なものです。真剣に考え、悩んだことは、本人が気付かないうちに新たな可能性を生み出し、貴重な財産を与えてくれます。これは決して若いわけではない30代後半の私が大学院で得た最大の教訓です。今は、迷いや疑問の中にこそ進歩の意味があるのだと確信しています。
 皆さんも多くの方が、職場では責任あるポストに就いて忙しい仕事を抱え、家に帰れば愛すべき家族がいることでしょう。そうではなくてもきっと多くの大事なことを抱えて生きていらっしゃると思います。でも、そこにあえて大学院で研究するというひとつの試練を選択されました。その決断を最後まで尊重し、誇りに思ってください。まずそれが修士論文完成への出発点になります。簡単なことではないかもしれませんが、決して不可能なことではありません。
入学の動機
 決して安くはない授業料を納めるわけですからそれなりの入学動機は必要です。私の場合、大学院で学びたいと考えたのはおそらく2つ理由があったからではないかと考えています。今となっては3年以上も前のことになりますので、正確に思い出すことは多少の困難を伴いますが。それでもやはり研究に行き詰まった時は、初心を思い出すことが効果的です。  その理由のひとつは、会社での人事異動により、かなり忙しかった部署から多少時間に余裕のある部署に移ったことにあります。時間的余裕ができると日々の生活が手持ち無沙汰になってくるものです。当然余計なことも考えます。自分を見つめ直したりもします。元来それほど趣味を持たない私は、これまでやり残してきたことをもう一度やってみようと考えるようになりました。大学時代に中途半端に学んでいたことをここで再び真剣に取り組もうと本気で思うようになったのでしょう。それと同時に、現在自分が身を置いているビジネスの世界を学術的見地から探ってみたいとも考えるようにもなりました。これは自分にとって素朴で純粋な探究心であったと思います。
 もうひとつの理由は年齢に関係しています。30代も前半を終え、後半に突入しようとしていた私は、ふと「40歳は人生の分岐点である。」 という言葉が頭をよぎりました。何かの本で村上春樹が語っていた言葉だったと思います。人間には、あるひとつの分岐点を超えるまでに必ずやっておかなければならないことがあり、そのポイントを超えてしまうと決して後戻りしてもう一度やり直すというわけにはいかないという内容のものでした。ちょうどその頃、自分も今やらなければならないものが確かにあると感じていました。それで私がみつけた答えが大学院で経営学を学ぶということであったわけです。村上春樹の場合は「ノルウエーの森」の執筆でした。しかしその2つには非常に大きな違いが存在していますが。
修士論文を書くということ
 修士論文を完成させるために必要なことはただひとつです。それほど難しいことではありません。自分自身が修論のテーマとして選定した課題が抱えている真の問題点を明確にすることです。これをごく単純な言葉で表現できればそれに越したことはありません。ある業界の研究をしていた私が探し当てたのは「高コスト体質の改善」という言葉でした。これがみつかれば、ほぼ間違いなく修士論文を書きあげることができます。私の場合、最初の一年は選択科目の提出以外はこの作業に費やしました。問題意識を常に持っていれば必ず手に入るものです。
 そのためにはまず、研究テーマに関する本を数多く探し、読み込むことです。何も一冊一冊すべてを最初のページから最後ページまでを読む必要はありません。自分が気を引いたところだけを拾い読みしていくだけでよいのです。また専門誌や雑誌類にも目を通しましたし、新聞の切抜きを集めファイリングもしました。そこで気付いたことを自分なりに書き留めていきます。文章の形態にはとらわれずどんどん書いていきます。書くことにより自分の頭が整理され、問題点が明確になっていくことがわかります。読むことと書くことを時間の許す限り行ってください。その書いたものをストックしていってください。この積み重ねが重要になっていきます。そしてある程度できてきたならば、次にこれを他人に伝えるためには(あるいは説明するためには)どの道具をどのような方法で使っていくことが効果的であるのかを考えてください。2年の初めまでにこの段階までくれば、かなり順調であるといえます。
 あとは担当教授の指導をこまめに受けることが肝心です。今思えば、私の場合そのことが少なかった様に感じます。自分自身で考えすぎる傾向があったような気がします。無駄な回り道をしないためにも、時には勇気をもって、またある時は恥を忍んで指導教授にぶつかっていくことです。遠慮をすることはありません。なぜならここは学校であり、あなたは学生だからです。JRの学生割引をも使える立場にあるのです。ここはひとつ置かれた状況を楽しみましょう。かつての若かりし頃を思い出しながら。
マスターを取得するということ
 この2年間は間違いなくあっという間に過ぎていきます。でもどんなに調子が悪くても立ち止まらないことが大切です。気分がのらなければパソコンの電源をいれて大学院のホームぺージを立ち上げるだけでもよいと思います。マスターの資格を取るということは実に体力をつかいます。時として知力よりも体力が欲しいと思うはずです。またスポーツと同じでいつも好調を維持するほうが困難です。あのイチローですらシーズン中にスランプがあります。わたしの場合、長いスランプのなかに多少調子のよい時期が見え隠れするという表現の方が適当であったといえるでしょう。時には気軽に取り組むということも必要です。中国のことわざに「人生一炊の夢のごとし」というものがあります。わたしの座右の銘であるこの言葉は、平穏な心持ちを与えてくれるのと同時に研究意欲を高めてくれたりもします。
 以上とりとめもないことを書いてきたのでとても皆さんの参考になったとは思えませんが、最後に確実に言えることは修士論文正本提出のあとには心地よい疲労感と開放感が待っているということです。それを糧にそれぞれの研究に邁進してください。そしてわたしには3歳になるかわいい息子と存分に遊べるという至福の時間がそこにはありました。  皆さんのご健闘をお祈りします。


「ご指導に感謝しています」   国際情報専攻  長谷 川昌昭

はじめに
 さる二月十四日、日本大学の本部での、第14回目の小松ゼミにおいて、修了予定者の発表を担当の指導教員でありますところの、経済学博士 小松憲治先生のご指導の下に、どうにか完了いたしました。本当に何度も浅学非才な私をお導き下さいまして感謝致しております。ありがとうございました。
 一昨年に、入学のお許しに引き続き、ゼミにおいて研究課題も、先生から直接に、手ほどきを受けて、「日本の危機管理」となり、全体の構成から個々の項目の章・節の構成から参考文献の渉猟や学術論文の作法に至るまでの詳細なご示唆と具体的なご指導を頂戴して参りました。
 その間には、学術論文には、全く未経験な私を辛抱強くキメ細かくご指導頂き、振り返ってみますと、相当に先生にご負担をかけ、また、同期の仲間には迷惑を掛けた事と思います。
 また、中間発表は、各ゼミ三名のところを知らぬとは言え、事前の軽井沢合同合宿が、居住地でボランテイア活動として、東村山市国際交流協会に10数年前から属しており、昨年は25周年の節目で、英会話教室のお手伝いや交流米国学生のHFなどをしていた関連で、三年前から日程が決定しており、同合宿が参加不可能となりました。そこで是非、中間発表と申し出ましたところ、他の大勢の院生の同期の方々の大事な機会を奪った結果となり、この場を借りて、改めて、ご海容を賜りたくお願致します。
 その中間発表では、初めての図形描写を用いての発表報告に際しては、真邊先生は、ご専門の立場から貴重なご指導とご指摘を頂き、それ以降の研究推進に大変な原動力になりました。ありがとうございました。
 副本提出時には、当然に完成品に仕上げた修士論文を提出した上で、指導教員の先生と副審査の両先生の事前の審査に耐えうるものであるべき精確なものであることが要請されることは十分承知しての提出でした。
 しかしながら、「鑽仰」の姿勢をとの信念から、副本提出後に、起立した姿勢で緊張感を一層高めての全体を再度の推敲の結果は、散々な状態でした。
 面接試問では、とても立ち行かない実態であることが、この時点で判明しました。
 形式的に内容的にも一段の平仄の一致と矛盾点の克服をすべきとの結論に達して、将に、日程的にも逼迫しており、勤め先には、ご理解をいただき、二日程専従することとなり、面接試問時には、形式的にも、相当完成度高いものが提出可能となりました。
 これは、現在の再々就職先の(株)JACCSの直属の上司の川崎良夫常務(首都圏エリア本部長)から、年末年始とコルセンター立ち上げの業務超多忙な中を暖かいご配慮により、お休みを取らせていただき対処可能となったものです。これには衷心よりの感謝と意欲的に真摯な姿勢で、営業収益の実績係数につて企業の社会的責任性を確保しての絶妙なバランス感覚で、常時、精力的に業務をこなす常務に敬服しています。
 さらに、面接試問におきましては、研究課題の特殊性から世界テロ情勢を新聞や書籍からHP・Webと広範に情勢判断の基礎資料を収集しまして、試問では、出典についてのご下問を予想しての試問場への膨大な資料を持参しましたが、ご忖度いただき、特に、その点だけはご指摘はありませんでした。副審査の両先生には、改めて感謝申上げます。
 
1 我が修士論文
 我が修士論文は
 研究テーマ 「日本の危機管理」です。
その概要は、
 @ 13章  累計182頁
   173頁(目次3頁図表・参考書式例リスト、2頁、別添資料1頁、参考文献リスト3頁)
 A  図表・参考書式例リスト
   17種17例 別図第1(1)アメリカ指定国際テロ支援国家(92頁)
  第4章第12節 危機管理の震源地としての中東情勢図等他に17件
 B 別添資料
  1種1例
 C 参考文献 累計60点
  A群 (書物に関するもの)29点
  1 アイアン・ミトロフ『クライシス・マネジメント』徳間書店、2001年から
  29 ロバ−ト・ベア佐々田雅子訳『FBIは何をしていた?』新潮社、2003年まで。
  B群 (雑誌論文に関するもの)7点
  1  三島健二郎「テロリズムに対する認識と姿勢」『海外事情』
    拓大  大、2001年から
  7 柳田邦男「9の座視から「事故と失敗」」東洋経済新報社、2003年まで。
  C群 (官公庁公刊資料等に関するもの)5点
   1 コントロ-ルリスクグ ル-プ「海外テロ対策」『安全管理セミナ−結果報告』外務省2003年から
   5「海外生活における安全対策の基本的心構え」『海外赴任者のための安全対策小読本』
   外務省邦人特別対策室、2003年まで。
  D群 (英文書物に関するもの)6点
    1 Eric Homberger, “The timeline history of NEW YORK CITY”,
       H.B. Fenn and Company Limited,2003). から
    6 Steven M.L.Aronson, “All About American’s 43 Presidents”
    Workman Publishing NY, 2002),まで。
  E群(各種セミナ−に関するもの)5点
   1 CIセミナ−,『企業の危機管理と産業スパイからの防衛』,SCIP
     JAPAN、14年6月4日から
   5  国際リスクマネジメントセミナ−『危機管理防衛対策とメディ
    ア対応ケ−ススタディ』,World Public Co.,Ltd,
      平成15年6月11日まで。
  F群 (Webに関するもの)8点
    1『地図で見る中東情勢』(Access date 2003,4,13)から
     出典 http://homepage2.nifty.com/cns/middleeast/
  8  「NBCテロその他大量殺傷型テロへの対処について」(Access date 2004,01,10)
 出典 http://homepage2.nifty.com/cns/middleeast/
まで。
     です。

2 お陰様で
 前述の如くに、大勢の方々のお陰様で、非力な私をここまで、到達させてくれました。幾多のご指導とご芳情に加えて、多くのご示唆を賜り御礼の言葉もありません。本当に改めて、重ねて厚く御礼申上げる次第です。修士論文以外の教科でも、必須や選択の科目の各教授陣の諸先生方と冬季と夏季スクーリングの先生方から、特に、直接履修しなかった科目の先生方のお教えも総て、修士論文への過程での、将に、糧となりました。お陰様でという気持ちで一杯です。ありがとうございました。
 事務課の方々やヘルプデスクの八代多代さんには、何度も懇切丁寧なご教示とご示唆を賜り、心から、「お陰様です」との気持ちであります。これに懲りず、今後も是非、ご指導と末永い御交誼をお願い致します。何の取り柄もありませんが、誠心誠意出逢いを大切に、継続することを生活信条と致しております。
 情報はタダと思ったとき以降、貴重なものがタダの情報の状態になることが、世の常であるとの信念です。些かでも日本大学の名声の向上と我が国の国際情報学の向上に寄与可能なまでに、今後も継続して、研究に対しては、鑽仰を堅持した姿勢で臨みます。どうか、宜しく、お願い致します。
3 内外からの励ましに支えられて
 修士論文は当然、現代社会の国際情報の範疇な事から、その重要性・広範性・伝播の迅速性などの特性から
(1) 当該国際情報の前兆把握の困難性
(2) 収集過程の検証と分析・検討方法の秘匿性
(3)発信・開示等の活用の決定過程の政治性
(4) 発信・開示等以降の対応措置の整合性と新組織の経済性
 等の多くの困難性が当初から内在していることを踏まえてのスタートであったところから、内外の多くの方々からの励ましに支えられました。
 現在、実現可能な身近なものへの提言として危機管理対応策は、問題解決の必須な端緒として国民に受け入れられ、社会に貢献可能な有用性と実用性を兼備した諸危機管理対応策を数件提言することが可能となりましたのは、これらの方々からの励ましが、どんなに、途中の挫折や諦めの境地を救ってくれたことかと、今改めて、ここに敬意と深甚なる謝意を表するものであります。
 冒頭には、大学院への合格時に保証人となってくれました。東京都青梅市千ケ瀬所在の世界的精密機械工業の創業者であり、清水製作所の現役のCEOの清水 義雄さんには、陰に陽に激励を賜り、修士論文完成後に、修了通知を受理後は、いの一番に報告に伺う所存であります。氏は、世界的な精密機械の分野で稀有の技術と経営才覚を発揮し、東京青梅の綺麗な空気と真面目な労働力をマッチさせて、地域の雇用需要と世界に伍する技術で、利益を企業の存続と地域貢献に資することに生甲斐を見出すという極めて、社会公共性と倫理性の高い経営者として、知る人ぞ知る方です。
 人材の育成による技術力の伝承により、地域の活性化と企業収益からの税制への高い貢献度は、国・地方レベルでの幾多の表彰が雄弁に物語っております。
 前々職時代に東京の西端の青梅市から、私が隊長から下町の警察署長に就任した時は、わざわざお祝いに駆けつけてくれた方です。お陰様です。ありがとうございました。
 次に、Lee D. Donohueです。彼はChief of Policeで、全米17位の規模を誇り、全米一安全なHonoluluを3,800名のスタッフと数百人のボランテイアで常夏のハワイの首都の治安維持に当たり、街の貧困層少年をボランティアで、支援している永年の前々職時代からの友人です。氏からの励ましの手紙は、平成14年の軽井沢合同ゼミで小松先生にお示ししたところ、彼からの学業就成を祈願するところを目ざとくご指摘いただきました。修了の暁には、至急知らせたい処です。キット祝福してくれることと思います。
I appreciated for your word of encouragement to me.
 娘からは「夏休み明けに泣かないで」とエールを送られましたし、修士論文の最終仕上げの時期に訪ねて来た時には、『下宿人と下宿屋のおばさんの関係みたい』と評される程に、時間に追われていたようでした。ありがとう。
 息子には、パソコンのコンピュータープログラマーであるところから、様々な支援を得た他に、スキャナーを贈られたが、最終段階まで使用せず、埃にまみれていたが、別添資料を取り込む際には、必要性に迫られ、マニュアル片手にセッティングしたところ、意外に早期に完了したことと有用性があり、約一年半放っておいたのが、悔やまれました。  お陰様で、完成しました。
 家内には、娘の指摘の如くに下宿人宜しく、追い込み時には、専従態勢を敷いての書斎へは、入室せずに、「ご飯ですよ」と「明日お勤めに響きますよ」意外は口も利かずに、専心させて貰ったことに、謝意を表したい。
 加えて、唯一の趣味としてる海外旅行もこの二年で3度と自粛していたので、突然、先々週「シンガポールへ旅を申し込んだから、シ大のDrdnaを訪ねたら」と4泊5日の卒業旅行となり、2月27日夜に無事帰国したが、DrEdnaとは突然のことで、逢えず仕舞でした。
 代表的なMerionや世界的なNight Safariで100種1,000頭の放し飼いの中を前照明を消灯したトラムでの探検等やシンガポール随一高いのスイスホテル・シンガポールスタンフォード69からの綺麗な赤道道直下34度の町並みを見下ろしてのランチなどで「和み」の旅となった。
 我が家での家内独創の旅は、初めてであり、Trapicの「仰天シンガポール」価格相応のイイ旅でした。ありがとう。
 Marionからのご挨拶と機翼に映える霊峰富士からの皆々様への修士論文奮戦慰問と致します。
 日大の大学院の名刺を交換した多くの内外の友人からは、再会や賀詞交換時またはChristmas Cardには何時も励ましと関心を持って見守ってくれ、改めて、夫々の方々には、追ってお伺いして、御礼を申上げたいと思っています。ありがとうございました。
 最後に、課題の性格から、前々職時代の上司で政府危機管理機構のトップの衝にあった方々からのご示唆を賜ったことが、一層研究に輝きと提言の説得性に寄与すべきところを才覚不足から、御趣旨を十分に発揮し得ず、感謝と陳謝をする次第です。
 White HouseのHPには助けられました。
 国際情報の推移を把握するには、White HouseのHP殆んど毎日接近し、開いて確認する毎日でした。小泉純一郎首相からのMMも週2度届き、そられとの比較考量は、両国のHPに対する取り組みの違いや情報対応の巧拙などが読み取れ、悪戦苦闘しながらも、国際情報の最前線の楽しい渉猟の一時であり、大いに助けられました。是非お試しを推奨します。
 兎に角下手な英文で接近しても、全世界の米国へ関心を持つものと安全に関係あることには、回答してくれます。私は、米国への郵便物には、食物は事前輸入許可制が施行になるとの法制に、お土産や贈り物もテロ対策の範疇かと質問の件で即答を頂戴し、米国のNYPDとMOの友人に金太郎飴を送ったりしました。
4反省と教訓
 本電マガに「奮戦記」を寄せられた玉稿を総て、資料とし糧とさせていただき、先輩諸氏の教訓を活かして、例えばバックアップは忘れずとか製本コピーは、キンコーズとか、時間は切迫するので、配分の妙をとか、単位取得の計画性とか、面接試問では、先生方のご指摘には腹を立てずに、とか、貴重なご経験に基づく実践的なものをありがとう存じます。
 私は、昨年の十月にパソコンへの書き込み過多等が遠因で、デ−タ破壊に見舞われて、一年半の研究作業が水泡に帰する危機に遭遇し、外国の情報関係の方からのご示唆によって、我が国唯一のY-EDATEの沼田 理営業部長の親身も及ばぬ懇切丁寧なご指導と素晴らしい技術よって、90%修復が可能となりました。
 情報は隠れたところに潜んでおり、友情は海をも越えて伝わることと、予備の予備こそは、危機管理の真髄であることを貴重な対価と交換に体得しました。氏の語るところによりますと殆んどは企業体でのデーター破壊によっての需要であり、個人は数年前に芸大生が卒業制作のデーター破壊に見舞われて、訪ねてきた程度ですとのことで、企業の存亡を賭けての企業負担に耐えうる高価な価格帯の設定と迅速正確性を兼備した世界的な情報産業との遭遇も貴重な財産となり、私の自己過失にも拘わらず家内は、その費用の負担を快諾してくれた。
 このY-EDATEは最近日経にも広告が出ますが、ノンフィクション作家の山根一真さんのお知恵も拝借し、デジタルスパイスのヒントを得たことも大きな反省教訓です。
 誰でもは、総ての事柄に対処する時は、逆日程を立てて、計画的に着実にこなして、集大成を迎えていることで、参考にはならないと思いますが、一年次と二年次に同一数の単位履修計画は、結果的に選択科目担当の緒先生方のご期待を裏切る成果となったことと懸念致しており、重大な反省教訓事項で、自己の能力の限界への挑戦は穂と程ほどにすべきたでした。
5 研究課題は自己責任の極み
 ハワイの海岸には、Warning Dangerous Conditions の掲示板にSwim at your own risk.と記載があります。
 将に、この思想は、自己の責任で選定決定した研究課題を自己の信ずるところに従って粛々と推進することだと思います。
『我この道より、活かす道無し、この道を歩む』武者小路実篤の心境でした。
 今後も鑽仰の姿勢に徹して参る所存でありますので、宜しくご指導をお願い致します。


「インターネットで歴史資料を発掘」   国際情報専攻  鞆谷 純一
 

 私は四国のある県の司書職として、高等学校の図書館に勤務しています。四国と言えば、やはり「地方」ですが、勤務先はその「地方」の県庁所在地から遠く離れた山間部に位置します。地理的にも気候的にも大変な僻地で、適当な娯楽施設もなく、「時代に取り残される」という焦燥感にさいなまれます。
 このような不便極まりない土地で勤務しながら、大学院で学びことができたのは、インターネットを活用したサイバー大学院である本研究科が存在したおかげです。また、修士論文やリポートを執筆する上で、インターネットを用いた情報検索は欠かせないものでした。
 私の修士論文の題目は「満鉄図書館と大佐三四五」という歴史研究(近代史)であり、参照すべき資料の多くは東京や大阪の図書館等に所蔵されています。歴史研究という性質上、何らかの新資料の発掘は必須ですが、資料に直接アクセスすることがなかなかできないことが大きな悩みでした。
 しかし、国立国会図書館や公共図書館では、インターネット上で蔵書目録が公開されています。蔵書目録を検索し、郵送複写を申し込んだり、下宿近くの公共図書館で閲覧できるように手続き(図書館間の協力貸出)すれば、資料収集はさほど困難なことではありませんでした。私が利用した主な図書館等のホームページを以下に挙げます。
1、「国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL OPAC)」http://opac.ndl.go.jp/index.html
   「国立国会図書館アジア言語OPAC」http://asiaopac.ndl.go.jp/  
  国立国会図書館の蔵書目録と、雑誌記事索引が利用できます。雑誌記事索引は先行研究の調査に用いました。利用者登録しておくと、オンライン上から複写物の申し込みも行えます。
 2、「大阪府立図書館蔵書検索」http://opac.library.pref.osaka.jp/cweb/jsp/search1.jsp
  同館は戦前日本における有数の図書館であり、かつ戦災に遭ってないので、戦前の出版物をよく所蔵しています。
 3、「NACSIS Webcat」http://webcat.nii.ac.jp/
   「Webcat Plus」http://webcatplus.nii.ac.jp/
   国立情報学研究所が提供する国内の大学図書館を中心とした総合目録です。
 4、「国立国会図書館 総合目録ネットワークシステム」
  公共図書館(都道府県立図書館、政令指定都市市立図書館等)の総合目録(和図書のみ)。 大変有用なシステムですが、一般には公開されていません。そのため、近くの公共図書館で代行検索をお願いするしかないのが残念です。
 5、「国立公文書館 アジア歴史資料センター」 http://www.jacar.go.jp/
   国立公文書館、外務省外交史料館、防衛庁防衛研究所の所蔵資料をオンライン上で閲覧、プリントアウト、ダウンロードすることができます。検索システムも充実していて、東京から遠く離れた人間にとっては大変な福音です。
 6、「東洋文庫 図書のオンライン検索」 http://www.toyo-bunko.or.jp/library/SearchMenu.html
  世界有数の東洋学専門図書館。貴重な歴史資料を発掘することができました。
 7、「皓星社データベース」 http://www.libro-koseisha.co.jp/top01/top01.html
  『日本人物情報大系』や『雑誌記事索引集成』を出版している皓星社のホームページ。私は、人物情報のデータベースにアクセスしました。戦前期の人物研究の下調べにはうってつけだと思います。
 これらのホームページを駆使することで、かなりの歴史資料を蒐集することができました。しかし、書名や著者名の分かっているような特定の資料を探すのには便利ですが、未知の資料群の中から役に立つ資料を探し出すためには、入力するキーワードを試行錯誤するなどの手間が掛かる割りには、隔靴掻痒の感が拭えませんでした。事実、直接来館して書架の間を歩き、資料を手にとってみると、意外な発見をすることが多々ありました。インターネットが発達しても、何か越えられないものがあると感じました。また、データベース化されていない資料もあります。インターネットは役に立ちますが、それにすべて頼るのではなく、何処にでも一度や二度は実際に足を運んでみることも必要であると痛感しました。


「他山の石」   国際情報専攻  池田 昌弘
 

1.石の話
 入学してからの2年は、短いながらとても急峻で険しい道のりであった。私は、半導体企業に所属する開発技術者である。この業界では、自ら設計・製造する半導体製品を、愛着を込めて「石」という。日本の「石」の競争力は1980年代に世界に敵無しであったが、1990年代後半には競争力を失い負け組となってしまった。ではこの「石」で儲けるにはどうすればいいのか。ちょうど3年前のこと、自分なりにこの閉塞した状況を整理する目的で、入学しようと思いたったのである。
2.石の上にも3年
 テーマは半導体の製品開発戦略と迷わず決めていたことは、後で幸せと不幸を同時にもたらしてくれた。入学前の一年間は、技術的視点から離れて「石」を考えるよう心がけ、研究計画に盛り込み入試に臨んだのである。
 修士一年目、ほぼ隔月で行われる五十嵐ゼミでは、各ゼミ生が、研究テーマの進捗を報告する。私は、入試で作成した研究計画書に従い、全体の論理構成、章構成を毎回微調整しながら発表していた。特に大きな問題点も指摘されず、ゼミの仲間からは順調と思われていた。内心では、指摘が無いのは進展が無いためではないかと不安を感じていたが、資料収集以外はほとんどできないでいた。修士一年はレポートを出すだけで手一杯であった。仕事で問題が続出し、23時前に会社を出ることが不可能であった。帰宅してから勉強を開始できるのは25時、土日もいずれか一方は出社という日々が続いていた。レポート提出後は、気力・体力ともに完全に腑抜けてしまっていた。
 一点だけ心がけていたのは、五十嵐教授の選択科目は自分の修士論文研究と結びつけて考えろとの言葉であった。修士論文と選択科目を結び付けてレポート作成したことは、知らずに自らの研究課題の昇華に役立っていた。そして、思い立って3年目、まさに「石」の上にも3年となる修士の2年生となった。
3.石橋を叩いて渡る
 私は、パソコン暦20年の大ベテランである。学生時代の趣味はプログラミング、社会人になってからはパソコン自作を楽しみ、パソコンは生活の一部である。しかし、安心のそばに、落とし穴はあるのである。
 修士2年に入り、統計データの加工を始めた。私は、この修士論文の最大の売りは半導体業界をシミュレーションにより実証することと決めていた。そのために必要と思われる数値(財務諸表や生産数)をHPや統計年鑑や新聞からとるのは、大変な作業で数値収集だけで10月になってしまった。従って、10月25日に行われた修士論文中間報告会は、4月の時点のゼミ発表とほとんど同じ内容であった。
 しかし、11月の声も聞くとさすがにシミュレーションばかりともいかなくなり、半導体の開発やケーススタディなどを書き始めた。12月も終盤になり、二つの不幸がやってきた。まず、最初の不幸はノートパソコンが、まったく立ち上がらず、ハードディスクは異音を発生しはじめた。このとき、たった20ページの修士論文であったが、当時の私には全財産である。何とか修士論文を救わねばと、全精力をパソコン復旧に向けた。パソコンの解体をしたり、新規のOSや既存のOSインストールを繰り返した。復旧するまで、10日間を使用した。書き直せば、3日ですんだことを考えると、パソコン復旧は正しい判断でない。この時点でなんと12月28日である。
 そして、二つ目の不幸がやってくる。翌12月29日に修士論文提出締め切りが1月15日であったと気づいたのである。「えっ、2月15日締め切りじゃないのか」、とんでもない勘違いをしていた。今日から、残り4分の3の60ページを二週間で書きあげ、シミュレーションを終了しなければならない。そこからは、一日おきに徹夜で、寝る日もソファで仮眠であった。世間の正月も終わり、まだ、シミュレーションは結果が無いが、五十嵐教授に論文を見てもらい本文や構成に手を入れてもらった。その後、300行のシミュレーションプログラムを1日で書き上げ、各種条件の計算に2日使用した。そして1月13日、体裁を整えてプリントアウトをし、何とか締め切りに提出できたのである。
 当たり前だが、バックアップを取ることと、締め切り日時は確認すること、である。念には念を入れて、石橋を叩いて渡るぐらいの慎重さがあったら、こんな自体には陥らなかったであろう。
4.石頭
 色々あったが、修士論文の研究は、五十嵐教授の指導の下、ほぼ当初の目的どおりに書き上げることができた。私が石頭だったばかりにわがままを聞いていただいた点も多くあり、大変感謝している。それでも、業務を離れた客観的な目で、半導体業界を見ることができ、人間的にも成長できたと思う。以上、「石」のことばかり述べてきたが、修士論文をやり遂げるのに一番重要なのは、やはり自分の意思である。


「長谷川ゼミ4期生修士論文奮戦記」   国際情報専攻  神垣 幸志
 

長谷川ゼミ3期生より、『4期生の皆さんへ』で始まる長文の電子メールが届いたところから、我ら4期生の修士論文との格闘戦は始まりました。

【長谷川ゼミ3期生より4期生への2003年1月24日付け電子メール −抜粋−】

『4期生の皆さんへ
明日は私たち3期生の論文に対する口答試問です。2期生の先輩から大事なメールを頂いたので4期生の皆さんに伝承いたします。長谷川ゼミとしては、5期生、6期生へと伝承しつづける事を願って、ここにお知らせいたします。尤も4期生の皆さんには1年後に役に立つものですが。??????以下?』

さて、この奮戦記は3期生より向う1年間の心構えを説かれた我ら4期生が、その後1年間に渡って遣り取りした電子メールの中から、“激励”“悲鳴”“愚痴”など本音の会話を記録し、我ら4期生の戦いの記念碑にせんとする試みです。したがいまして、編集者の余計なコメントは極力避け、時間軸に沿って纏めてみました。尚、登場人物はプライバシー保護の観点より下記別称によって表記させて頂きました。4期の皆さん、悪しからず!

 ゼミ生紹介:                        別称
バイタリティー溢れる技術屋社長                        別称 “ゼミ長”
アルバイトで生活を支えながら勉学に専念する大学院生???別称 “勤労学生”
技術系の元国労闘士?                        別称 “ポッポ屋”
勉学の術を心得た高校教師                      別称 “優等生”
日本人であることに悩む海外駐在員                  別称 “怪しい東洋人”

では、我ら長谷川ゼミ4期生の“本音”の修士論文奮戦記をごゆっくりお楽しみ下さい。

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【“優等生”より“怪しい東洋人”への2003年1月25日付け電子メール −抜粋−】

『“怪しい東洋人”様。

メールどうも。…前文略…
論文に関しては、おっしゃるとおり、長谷川先生の考え方、方針を把握することが必要だと痛感しました。私は、世界経済論を履修しましたが、“ゼミ長”のメールにあった授業概要説明どおりです。その他の科目は、省略今日3期生から、口頭試問についてのメールを受け取りましたが、1年後はわれわれの番ですね。頑張らなければ  ……以下略

【“勤労学生”より“ゼミ長”への2003年2月9日付け電子メール −抜粋−】

『“ゼミ長”さん

いつも情報ありがとうございます。 “ゼミ長”が凄い頑張っておられるので、私も奮起しなければといつも思っています。ところで、今、“ゼミ長”はどのようなことをされていますか?私は、卒論のテーマや文書構成等を考えています。まだ長谷川教授へ連絡していませんが、早く決めて卒論へ取り掛かるつもりです。道のりは大変険しく感じています。本当にいつも情報をありがとうございます。……以下略

【“ゼミ長”より“勤労学生”への2003年2月9日付け電子メール −抜粋−】

『“勤労学生”さん

お久しぶり、余り連絡がないので心配してました。お元気のようで何よりです。私は何も頑張っていません。こういうと威張るようですがとてもとてもついていくのがつらいのです。と言ってもまだ命までは取られないからと、居直っているだけです。さて修論の関係ですが、ODAから少し方向転換してカンボジアについて学び、その中の援助の一端としてODAがあるとしようと思い先生に連絡したところ「開発援助学」を学び理解しなさいと言う一言でチョンでした。中略  長谷川先生は、優しくきつい先生ですから怒られても連絡を密にした方が良いと思います。また4月頃お会いできるのではないでしょうか。……以下略

【3期生より“怪しい東洋人”への2003年2月17日付け電子メール −抜粋−】

『“怪しい東洋人”さん

…前文略…
それはそうと、ビンタン、よいですね。私がシンガポール滞在時に住んでいたイースト・コーストのベイショア・パークからも、海の彼方に見えていました。でも、私としては東南アジアのリゾートで思い出深いのは、ボルネオのコタキナバルとマレーシアのランカウイです。また行って、のんびりしたいものです。

それと、卒論のこと、書いているうちにどんどん変わっていきます。そういう意味で「早めに書き始めろ」という人の意見ももっともです。文章をまとめるスピードにも個性があるので、皆に当てはまる方法論はないのでしょう。ただ、内容が変わるのは、やはりいろいろと別のアイデアを加えるためで、とにかく闇雲に考え込んでもしょうがないということですね。……以下略

【“ポッポ屋”より“怪しい東洋人”への2003年3月30日付け電子メール −抜粋−】

『…前文略…
履修届けには、小松先生の「国際経済政策論特講」と書き込みました。動機は、ちょっと不純で、論文の面接委員の学科は取っておいた方が良いとの先輩の御意見に沿ったわけです。……以下略

【“ゼミ長“より4期生への2003年4月23日付け電子メール −抜粋−】

『4期の皆さんへ
ご無沙汰しています。ゼミより早や一月、勉強進んでいますか? 昨日(22日)新しいテキストが届きました。昨年と違ってずいぶん小ぶりになりました。卒論のため課目数を絞った皆さんはどうですか。長谷川先生にもしばらくご無沙汰しています。一人一人先生に報告していかないと、お叱りが出るかも知れません。それではまた。』

【“勤労学生”より4期生への2003年4月23日付け電子メール −抜粋−】

『皆さん こんにちは、そしてお疲れ様です。さて私は、スクーリングの後、先生の推奨文献を3冊探して読みました。確かに“怪しい東洋人”さんが言う通り1回や2回読んだだけでは理解できませんし覚えてもいません。中略 一冊の本を1週間で読み、そして最低3回は繰り返し読んでいます。これが良いのか悪いのかは分かりませんが、論文を書くにあたっては苦しまなければいけないと感じています。ところで、私の修士論文構想について、昨日、長谷川先生より辛口のコメントを頂きましたので同期の為に情報をシェア-させて頂きます。

- 《先生のコメント》取り敢えずはそれでいいとして、ともかく書いてみるといいでしょう。ただし、あまりにも読んでいる専門書が少なすぎますね。他にどんな本を読んだのですか。たとえば、講談社学術文庫の林語堂『中国=文化と思想』、森三木三郎『老子・荘子』、みすず書房の島田けんじ『中国の伝統思想』、人文書院『老子と道教』、研文出版『中国文化史・近代化と伝統』、千石保『中国人の価値観』(サイマル出版会)、竹内実『中国の思想』(NHKブックス)、などは少なくとも読まなければ中国を知り得ないでしょう。もっと基本的なものの見方、専門知識を身につけないととても修士論文にはなりません。……以下略

【“優等生”より“怪しい東洋人”への2003年5月3日付け電子メール −抜粋−】

『私には、今年の連休はカレンダーの関係で「ただの3連休」ということで別に意味がなくなってしまいました。高等学校は4月に新学期を迎えて、この時期は、問題が発生しやすく、不安定な時期です。生徒の問題行動、盗難、暴力事件や外部の「あやしい系の方」の登場など、恒例行事化しつつあります。中略 先週長谷川先生より激励のメールがありましたが、背後には、当然叱咤の意味のほうが大きいとみなければ、と思っています。卒論については、章分け、と節分けをして長谷川先生へ送ったところ、論じる順序と論旨について、貴重な指導をもらいました。3期生の方に比べて、私には、長谷川先生は、答えを容易に言ってくださる気がします。ということは「こいつには、自分で考える能力がない」と判断されているのかもしれません。中略また、“怪しい東洋人”さんは、8月には書き上げるとおっしゃっていましたが、進み具合はどうですか。3月にお伺いした論文のIT関連情報について、少し詳しく質問したいとかねがね思っていますが、お会いしたときにでも教えてください。……以下略

【“ポッポ屋”より“怪しい東洋人”への2003年8月9日付け電子メール −抜粋−】

『“ゼミ長”が「ぎっくり腰」というのを8日の自主ゼミで聞きました。お大事に。8日は7人の少規模のゼミとなりました。M2は論文の途中報告をしてそれに対してコメントして貰いましたが“優等生”さんは相当進んでいるようでした。小生はまだ緒についたばかりで焦りを感じました。リポートをまず8月中に仕上げないと9月提出なので・・・・。あの種のゼミも、先生はいないけど、結構有意義なゼミでした。それでは。』

【“怪しい東洋人”より“ポッポ屋への2003年9月10日付け電子メール −抜粋−】

『すっかりご無沙汰してしまいました。お手紙から、頑張っていらっしゃる様子がみえるようです。私は、前回のゼミの後、めちゃくちゃに忙しくなってしまいました。今日も3時間前に、香港から戻ってきたところです。修士論文に取り組もうと思っているのですが、疲れると何もできません。参った!ということで、お分かりのように、最近、先生から報告しない人は、卒業できませんよと言われているのは、実は、私です。ともあれ、久々に、交信できましたので、気合が入りました。有難うございます。』

【“ポッポ屋”より“怪しい東洋人”への2003年9月27日付け電子メール −抜粋−】

『論文を今も作成中です。鉄道に関するデータを集めながら統計的にまとめています。その結果を、先生に送信しても「これではコメントできない」と厳しい御指導です。このパターンが何回か続いていて、気が焦ります。そろそろ決着つけないと時間がないし。仕事もこれから来年2月まで忙しいし。ところで、“ゼミ長”は元気ですかね。メールしても返事がないので心配です。生きてますかね。……以下略

【“勤労学生”より4期生への2003年10月10日付け電子メール −抜粋−】

『お仕事と修士論文の作成大変お疲れ様です。どうですか? 修士論文は進んでいますか。私は、発狂寸前です。なかなか第1章が終らずにいます。まさか、皆さん、もう書き終えたって言うんじゃないでしょうね!こんな調子で果たして、論文が出来上がるのか?今、非常に焦っています。……以下略

【“怪しい東洋人”より“勤労学生”へ 2003年10月10日付け電子メール −抜粋−】

『ご心配なく!
少なくとも、私は、まだ第一章で悩んでいます。おまけに、悩みついでに、開発経済学の入門書である、高木保興東大教授著「開発経済学の新展開」を先週末から再読しています。ついでに、日経文庫の「経済思想史」も読んでしまいました。本というのは、読み出すと止まらないので、論文を書いている暇がありません。困ったものです。“勤労学生”さんも、開き直って読書をしませんか?新たな知恵が湧いてくるかもしれません。ということで、私は読書に戻ります。では』

【“ゼミ長”より4期生への2003年12月3日付け電子メール −抜粋−】

『4期生各位
久しぶりにメールします。というのはこのメールもいつオープンしたかと言う位、久しく開けていません。(怖くて開けられない)“勤労学生”の悲鳴と、“怪しい東洋人”の優しいアドバイスの他は、3人とも無言か、無視・・・・。地獄の11月が終わりました。10月末から今日まで一歩も前進しませんでした。(威張っているわけではありません)日帰り出張に加え、盛岡や秋田など遠距離出張が重なり、旅先まで受講課目のテキストは持って行ったのですが、とてもホテルで読めません。せいぜい10ページ進めばよいでしょうか。(実は3ページ)では、行き帰りの車中では読めるのではないか!と長谷川先生のお声が聞こえてきそうです。残念ながら脆弱な僕ちゃんは行きは新聞と車外の景色を見て、帰りは疲れきってお酒を少しあおって居眠りです。次の2〜3日は出張のまとめリポート、出張中の残務整理などであっという間に、1週間が過ぎてしまいます。では日曜日は?って。先生はこのような状態に陥ることを百も承知の上で、なんでも良いからメールをよこせ、よこせと仰いますが、こんな言い訳ばっかり皆さんはメールできます?兎に角、喉の先までギブアップと出かかっていますが、あと1月頑張って見ます。終わった人も、終わらない人も、仲良く卒業できるといいんだけれど。面接日の(非情な)通知が届きました。小生は1月25日です。???中省略???  “優等生”さんのサゼッションにより、乾先生の『論文の書き方(技術編)』を読みました。大変役に立ちました。(深謝)つい先週も戸田山和久『論文の教室』NHKブックスを買いました。今更?といわれるかもしれませんが、袴に「論文なんてコワクない、読めば必ず書ける究極の入門書!」なんて書いてあるから、お守りみたいな気がして、つい買っちゃいました。これでこの関係は6冊目ですが、買っただけでは論文が通るわけありませんよね。ただ怖い長谷川先生から『君のは、全く論証に欠けているよ』と言われないように、この部分が比較的分かりやすく、この本には書かれていましたので、ついつい・・・。

“怪しい東洋人”さん12月大変のようですね。貴方のバイタリティなら大丈夫でしょう。オットト、そんなこと私が言える立場ではありません。私は“優等生”さんと違い、未だ2合目を登っているのだから。ところで“勤労学生”さん生きてますか?“ポッポ屋”さんは鉄道マンらしく、レールに乗って一直線に走っているようですね。
学問に王道は無いけれど、社会人を対象にした大学院は苦しみばかりでなく、学ぶ楽しみを感じられる時間が欲しいですね。多分長谷川先生に、ぶん殴られるでしょうけれど! 元気のようで、元気の無い“ゼミ長”より。』

【 “怪しい東洋人”より“ゼミ長”への2003年12月6日付け電子メール −抜粋−】

『出張前に提出していた草稿に関するコメントを先生から頂き急ぎ手直しをしているところです。ついでに、ソーシャルキャピタル理論の参照文献として「フクヤマかパットナム」を推奨されたのでさっきまでシンガポール大丸3階の紀伊国屋書店で探していました。(とても原文で読む気がしませんので)でも、情けないかな田舎の本屋の悲しさで「バットマンの漫画」は置いてありましたが、目的の文献は見つかりませんでした。こうなったら、インターネットで勝負です。ところが、そのインターネットが妙なバイルス(?)に感染してしまい、悪戦苦闘しています。このバイルス(?)は、IEを起動するたびに、USAのアダルトサイトに自動的に接続してくれて、次々と勝手に超過激なxxx写真を画面に表示してくるのです。この金髪xxxが表示されると、学問のやる気を失わせ、変なやる気を起こさせてくれます。でも、暇なときなら、笑って画面を消していけるのですが、この忙しいときにこれでは少々辟易しています。 皆さんも、金髪xxxバイルス(?)には気をつけましょう。この件は、八代さんには質問しにくいので、当地のインターネットプロバイダーである、NTTに助けを求めているところです。まったく、困ったものです。この切羽詰った時期に、金髪xxxバイルス(?)と格闘している “怪しい東洋人”からの近況報告でした。』

【“勤労学生”より4期生への2003年12月14日付け電子メール −抜粋−】

『私は、修士論文を書き終えました。
っと言うのは嘘ですが、もう大変苦しんでいます。レポートも他に2科目書かないといけないのに、もうそんな余裕なんてありません。論文第一に考えていますから、レポートはどうしても後回しになってしまいます。はっきり言ってもうやめたい。だけど仕事を持っている皆さんに比べると???諦める訳にはいきません、ええ最後まで諦めずに頑張ります。とにかく、来年の1月25日に皆様にお会いできるのを楽しみにしています。それまでに、しなければいけないことが山ほどありますけど25日は、皆さん!朝まで飲みましょう。』

【“ゼミ長”より4期生への2003年12月17日付け電子メール −抜粋−】

4期の皆さんへ
 メールの題名、おどろかしてゴメンナサイ。
 私には、ついに先生から本日最後通告が来ました。余りにも連絡しなかったからです。今、出張から帰って大慌てで謝りのメールを入れましたが、どうなる(許される)か分かりません。私も論文提出締切日まで出張を絞りに絞って1日にしましたが、もう駄目です、と先生に言われたら、留年です。本当はカネの問題が無かったら、留年してもう少し実のあるものにしたい気もあります。環境社会学や、文化人類学を包含した「開発理論」が面白くなりかけてきたところです。兎に角、あと一月を切りました。全員ハードルを越えたいですね。“優等生”さん余裕の海外旅行、気をつけて行ってらっしゃい。“怪しい東洋人”さんは仕事(飲み会も入れて)かなりきつそう。でもバイタリティあるもんね。“ポッポ屋”さんも大変のようだけど、旨く行きそうな雰囲気ですね。“勤労学生”さん、声が聞こえてよかった。貴方と僕が一番きついようですね。ではまた。』

【“怪しい東洋人”より 4期生への2004年1月2日付け電子メール −抜粋−】

『新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。
ところで、本日も1月1日だというのに(既に2日の明け方近くになっていました。)修士論文をまだ書いています。やっと、先ほど最終節を書き終わり長谷川先生に送ったところですが、今は、先生のコメントも待たずに、全体の見直しをかけているところです。ともあれ、当地での勤務契約では12月31日も出社、1月2日が初出勤で正月といっても休めるのは元日だけ、おまけに今年はオフィス移転と重なってしまい1月4日も出社です。やはり季節感の無い国では、ものごとの変化を祝うという気持ちが湧きにくいのでしょうか?もっとも、チャイニーズニューイアーは連休となるのですが、今年のチャイニーズニューイアーは21日〜25日ですから、卒業試験と重なっています。で何を言いたいかと申しますと、私にとっては25日は正月休みに等しく新年祝いを行うのに最適だと言いたいわけです。ですので、“ゼミ長”そして4期の皆様、お忙しいでしょうが当日は試験のみならず一緒に新年を祝ってやって下さい。

ところで、“ゼミ長”のメッセージ中に私が深く共感する一節を見つけました。それは:「基礎の無い私は一冊一冊読みながら理解し、初めて出会うことに感動していると、とても幼稚な質問しかできないような気がして、つい質問が遠のいてしまいます。」この箇所なのですが、“ゼミ長”の驕りを抑えた控えめな表現は別にして、私にとっての、修士課程は、正しく「質問ができない」何故、できないのかを考え続けた2年間でした。結局、自分なりに問題を見つける目を作ることが研究行為の基礎なのだと骨身に沁みて分かったのです。 これは、考えてみれば、先生が最初から私たちに色々な表現で繰り返し話してくれたことなのですが、その意味がやっと本当に理解できたところです。何か、私が学んだことは、これだけだったような気もしているのですが、ともかく今年も良い年になりますように、では、これから会社に行きます。』

【“ゼミ長”より4期生への2004年1月14日付け電子メール −抜粋−】

『長谷川ゼミ4期の皆さんへ

修論の提出は、たぶん私が最後のようですネ。(今日ですから)皆さん終わられてホットして居られるでしょうね。最後の最後まで、親不孝ならず、先生不幸をしました。自分でも、内容について半分も満足できていません。しかし、タイムリミットのため、一応?義務は果しました。しかし評価と査定は先生側にあるため、もうどうもがいても仕方ありません。25日に、引導を渡されることを覚悟で面接に望みます。あとリポートが4本残っていますが、2本については余りクレームが無く僅かな修正で提出してよいとのことで安心していますが、もう1本の環境問題は、貴方のオリジナリティの考えで書くよう指示されていて、これがなかなか厄介なところです。どちらの先生も、過去に一度ほめられてしまったため、今更ギブアップやそのままの提出が(多分出せばお情け合格でしょうが)できなくなってしまいました。人の心理の恐ろしさを感じます。一番頻度よく連絡しなければならない、長谷川先生にはつい時間が空いてしまう連続でしたのに。これってトラウマでしょうか?
それではお会いする日には大いに飲みましょう。その時の私は青菜に塩の状態かもしれませんが。もう腹は据わりました。だって61歳の老人だもの。それまで皆さんお元気で。チャオ!』

【“勤労学生”より4期生への2004年1月15日付け電子メール −抜粋−】

『皆さん、お元気ですか。

昨日の1月14日のAM11:30頃に、ヤマトにて私も修士論文を発送しました。発送ギリギリまで、やっていました。一往大阪から埼玉所沢まで翌日には着くと確認しての発送ですが、天気がとても心配です。日本海は大雪、おまけに京都から岐阜、名古屋と大雪のために、15日に着くかどうか  中略 今から、3期の先輩に教えてもらった面接試問の質問を纏めています。レポートも今日草稿を提出しました。これも19日までの最終提出まで手を抜かずにやり遂げたいと思います。あと、就職活動も頑張ります。では、25日にお会いできることを楽しみにしています。』

【“優等生”より4期生への2004年1月20日付け電子メール −抜粋−】

”怪しい東洋人”さんへ、CC:4期生の皆さん

私の試験日は1月25日(日)13:40からですが、つべこべ言わずに、5期生への申し送りはお引き受けします。臨場感のため、試験日前日に送付することにしましょう。
…中略  そこで、自分がどれだけ正直に、努力をし、成長できたかがこの2年間の時間と授業料にたいする代償ではないかと思います。結局は自分をどれだけ鍛えることが出来たか、自分との戦いにどう挑んだか、ということで、他人は関係ないと言うことです。……以下略

【“怪しい東洋人”より“優等生”への2004年1月21日付け電子メール −抜粋−】

『先ず、私も“優等生”さんの意見に賛成であることを表明します。この大学院は、人間を振り落とすのではなく、人間を成長させるための機関だと感じています。従いまして、卒業証書も重要ですが、何を身につけたのかがより重要だと感じています。その観点でいいますと、たしかに、論文を纏める速度と、メールを打てる量は増えましたが入学前と比べての違いに気がつかなくて悩んでいました。

しかし、最近気がついたのですが、私は、先生の著作を抵抗感無く読めるようになっていたのです。今でも、覚えていますが、先生の著作は私には難解で、2年前には内容を理解するのに相当な時間がかかっていました。でも、今は、理解度はともかく、先生の論点が理解できるようになってきました。本読みの速度向上、これもささやかな進歩のひとつでしょう。でも何よりも、世の中にこれほど多くの思想と理論が満ち溢れていて、自分の疑問点や悩みなどは、先人がほとんどの場合、解決していることを肌で知ったことが重要でした。つまり、学問とは、文字通り、問いを発して、そこから学ぶものなのであり、問いを発する力を持つことが全ての始まりであり、回答は先人の業績を調べそこから学ぶものなのだと理解しました。

結局、学問とは人類が作り上げた巨大な知識ベースの正会員になり、刺激を受けるっていう感じなんですね。ここで、正会員になれる資格は質問力と理解力ですから、この2年間でそれが向上していれば元を取ったことになりませんか?皆さんは、どうお考えでしょうか?このテーマで是非25日は飲みましょう!!』

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 以上、M2の1年間に、同期生で遣り取りしたメールのうち、ほんの一部を紹介させて頂きました。これを読んで頂けただけで、何故、修士論文完成を目指して集まっただけのメンバーが、M2終了時には深い絆で結ばれるのかをご理解いただけたかと思います。

 それほど頻繁に会う訳でもないのに、何故か旧知の間柄であったような錯覚さえ覚えさせてくれる仲間です。修士論文完成(提出しただけ?)も嬉しいけれど、それ以上に、たとえ月並みな言葉だと笑われても、やはり最後には言いたくなります。
『“ゼミ長”、 “勤労学生”さん、 “ポッポ屋”さん、そして “優等生”さん、これからも友達でいようね!』

ところで、長谷川先生はそんなに怖い人かですって? 勿論、違います。実際の先生は、学問への姿勢は極めて厳しいけれど(だから反論できないので怖い。)学生思いの優しい方です。大学院受験生の皆さん、ですから、安心して長谷川ゼミに挑戦してみて下さい。


「中高年女性と修論作成」   文化情報専攻  具島 美佐子
 

 
 厳しい条件の中で生きねばならない中高年の女性たち、でもその中で修論を提出できたことに心から感謝をしています。自身の健康、老親の健康、将来への漠然とした不安は全ての中高年の女性の共通な悩みでもあります。これらの悩みは本学大学院での修論を含めた学習により、問題解決能力を養ったことで私の場合はよい方向に進んでくれました。修論作成で人間としても成長できたことがさらなる収穫であり、またこれからの人生や学習の出発点であることを心に刻む毎日です。
健康の管理
 肉体的、精神的な健康が継続的な学習の出発点ですが、どうしても睡眠不足という問題が前面に出てきてしまいます。私は大体夜は11時半頃まで学習をして朝は5時には起床という生活でした。学校図書館に勤務していますので、5時50分には千葉市内の家を出て都内の職場に向かいます。夏期休暇はありましたが、体調が悪くても年休をとるわけにもいかないので、往復の通勤時間を仮眠にあてて睡眠不足を補いました。睡眠不足が高じると記憶力が減退して、情緒的にも不安定な状態となります。またパソコンによる目の疲労を少しでも減らすには、パソコン用の中近両用のメガネが必須となります。さらに特に日曜日などは家の中に籠もりきりになりますので、足の運動も必要となり、近くのコンビニにコピーをとりに行ったりしました。一寸した休憩もいれないとかえって能率が下がってしまいます。集中する時と、休息する時のバランスを考えることが大切だと気づきました。それから朝の野菜ジュースは毎日欠かせませんでした。ビタミン不足も心身の疲労に拍車をかけるようです。
 精神面のリフレッシュにも注意を払いました。これは私の場合だけかもしれませんが、日本映画専門チャンネルをTVで見られるようにして、鋭気を養いました。あの頃の元気をもう一度という時には、若い頃見た作品に接して過去を回想することが若さ の回復に繋がるようです。もちろん、今という時代の動きや世界情勢にも目を向けて、過去と将来への展望のバランスも心がけることが最善ですが。
老親のこと
 自分が中高年である時期に、親はまさに人生の最晩年です。少しでもよい最晩年を過ごさせてやりたいという気持ちはありますが、だからといってあまり労わりすぎるのも老親をかえって老化させるのではないかと思い、八十歳過ぎの父の家事への協力を歓迎しておりました。この年代の男性は戦時中に軍隊で針仕事まで仕込まれており、母の死後父は雑巾を縫うようなこともしてくれました。しかし 加齢による衰えも徐々に始まり、「お前は若くていい」というような言葉を実の娘である私に向けるようになりました。働き盛りの人間へのジェラシーのようなものが老人にあることに気づき、どこかに父のよいお友達がいないものかと思っておりましたところ、突然自分からケア・ハウス入りを宣言しました。実は平成14年の夏にその施設を見学し、半年後そこの責任者の方と偶然に千葉市内で再会したことが父を決心させたのでした。私の心配が神仏の加護で父に伝わったとしか考えられません。そこには亡母の兄夫婦も入居していて安心なので、空き部屋のあるうちにと話を進めました。冬季の床暖房があるので、自宅よりも環境がよくなることは父にとってもよいことだと思いました。
 老親の介護には自宅という方もおられると思います。それはそれなりにすばらしいことですが、どうしてもそれができない場合はケア・ハウスに入ってもらうのが本人のためでもあるようです。私の本学大学院での学習も父に刺激を与えて、修論の提出をとても喜んでくれました。
将来へ向けて
 女性だけでなく男性にも将来への漠然とした不安があることと思います。現代の日本の状況は五十歳を過ぎた人間に過酷な運命を展開させている場合があります。同じ世代の人間が集まるとまず、健康のこと、老親のこと、将来への不安が話題となります。私の場合、修論のテーマとなった「『柳橋新誌』研究―漢文戯作による自己実現」では、時代の変遷を自己の可能性を広げることで乗り切った成島柳北を扱い、そこに現代の人間と共通な悩みを見出したことが不安への視点を変えたのでした。「不安」という状態は、時代を超えた悩みでもあり、いつの時代にも人々の心の中に置かれていた悩みの根幹のようなものだったことが学習を通じて理解できました。
 悩みを抱えて生きてきた人間の歩み、その歩みがいい方向に少しでも方向づけられること、そこに成島柳北の意義があったことが把握でき、私は「生」の悩みを受け入れて今後の人生を考えることといたしました。

 最後に行き届いたご指導を賜った小田切文洋先生、また他の学習科目でお世話になった先生方に厚く御礼を申し上げます。さらに小田切ゼミの一年生の方々、一昨年の必修スクーリングでご一緒だった文化情報の方々、所沢の事務局や、市ヶ谷のグローバル研究科の図書室の方々のご親切も忘れることができません。


「修士論文作成における具体的な参考事項」   文化情報専攻  島崎 浩
 

はじめに
 この体験記では、私自身の体験をもとにして、これから論文を書かれる方々のご参考になるように書きたいと思います。したがって、個人的なことにもある程度触れざるを得ませんが、なるべく多くの方々に共通すると思われることの方に重点を置いて述べようと思います。なお、ワードの操作等についての記述は、既に熟達されている方々にとっては必要のない情報ではありますが、もしお一人でも参考にして下さる方がいらっしゃれば幸いと思い、敢えて書くことにします。
取り組み始めた時期
 入学以来次第に具体化してきた研究テーマについて、指導を仰ぐ上田邦義教授の了承をゼミやメールを通して得た後、修士論文の作成作業に実際に取り組み始めたのは、1年次の1月に一般科目のレポートを出し終えてからです。2年次の学習が始まるまでの2、3、4月は論文だけに集中できる期間です。その間にある程度進めておくと1年間比較的余裕を持って取り組めると思います。
文献の収集
 取り組み始めて最初にしたことは、仏教思想に基づいて『ハムレット』と『リア王』を解釈しようとする私の研究テーマに関連する文献を探すことでした。シェイクスピア作品と仏教思想を結びつける文献はその段階ではまだ見つからず、まず、仏教とキリスト教の比較を論じる文献の方を探しました。神田古書店街の宗教関係の書籍を扱う専門店で尋ねると、即座に数冊を紹介され、それらを購入しました。特にその中の一冊はとても有益なものでした。古書店街で店員に尋ねるのが文献を探す一つの方法です。  シェイクスピア作品と仏教思想を関連させる文献は、古書店で尋ねてもなかなか見つかりませんでした。そこで、インターネットの検索サイトで、シェイクスピア、『ハムレット』、『リア王』、仏教というようなキーワードを入力して探したところ、試行錯誤を経て、ついに、狐野利久氏の「シェイクスピアのリア王と仏教思想――比較思想の立場からの一考察――」という論文が『印度哲学仏教学第11号』北海道印度哲学仏教学会、1996年、に掲載されていることを知りました。早速入手しようと思い、日本印度哲学仏教学会データベースセンターにメールで問い合わせたところ、「国立情報学研究所(NII)が提供している、全国の大学図書館における雑誌の収録状況が検索できるサイト、http://webcat.nii.ac.jp/ 」を紹介していただきました。
 そして、そのサイトへのアクセスで、自宅から比較的近いところでは文教大学図書館に『印度哲学仏教学第11号』が収録されていることを知り、文教大学図書館のホームページを開いて、そこにメールで問い合わせた結果、文教大学図書館へ出向いて閲覧してその場でコピーできることになりました。このようにして、やっとのことで直接の先行研究文献に辿り着くことができました。
 テーマに関連する書籍を探して入手するのには、書店のホームページでキーワード入力の検索で探して注文する方法も使いました。この方法で、岡本かの子氏の『仏教人生読本』の中の一つの章で『ハムレット』について仏教思想の観点から考察されていることを知り、この書物を買い求めました。この方法で買い求めた中で、他に、三好弘『シェイクスピアと日本人のこころ』、ピーター・ミルワード著、中山理訳『シェイクスピアと日本人』、森谷佐三郎『日本におけるシェイクスピア』等が有益でした。
 検索サイトで研究テーマに関連するキーワードを複数入力して文献を探す方法では、インターネット販売をしている古書店にもつながり、現在普通の店頭では販売されていない様々な貴重な書物を入手することができました。上田邦義教授に書籍を紹介していただいたり、参考文献一覧を紹介していただいたりした時に、検索サイトで古書店につながって購入する方法が有益でした。この方法で、現在店頭では販売されていない貴重な文献を入手することができました。なお、古本といっても新品同様のきれいなものがほとんどでした。
 以上のようなわけで、先ほど紹介したhttp://webcat.nii.ac.jp/ のサイトや、書店のサイト、インターネット検索はお試しになってみるとよいと思います。
 文献の収集については、指導教授のご推薦・ご紹介による書籍を購入するのに加えて、一般の書店や古書店の店頭で色々見ている内に関連がありそうなものに遭遇して購入する、書店のホームページでキーワードを入力して探して購入する、検索サイトでキーワードを入力して古書店などへアクセスして購入する、等が考えられます。また、最近知ったのですが、国立国会図書館に雑誌論文のコピーを依頼して有料で郵送してもらうことが可能とのことです。詳しくは、小笠原喜康『インターネット活用編 大学生のためのレポート・論文術』講談社、2003年、を御覧下さい。
パソコン上の最初の取り組み
 パソコン上の取り組みとして、とりあえず、大学院指定のA4、40字×40行の書式のファイルを作ることからやっておくとよいと思います。また、表紙・はしがき等、最初の段階でもできることを少しでもやり始めるとよいと思います。私の記憶では、最初は、テーマに至った経緯を数行書いたところから始まったと思います。その後、収集した参考文献から引用できるところを少しずつ入力し、その前後のコメント文を書いていきました。それから、内容的に一括できるところに節の見出しをつけていきました。
 テーマに至った経緯を書く、その段階までで収集した文献の参考文献リストを作る、引用できると思うところを入力する、浮かんだ着想を、数行でも、細切れでも打ち込んでおく、というように、着手できるところからやっておくようにしました。十分に構想を練り上げて一気に書き上げるやり方もあるでしょうし、このような方法もあると思います。私の場合はこの方法を採りました。
論文作成の手順
 論文作成の具体的手順ですが、私の場合は、まず、集めた文献の中の引用として使えると思えるところをパソコンに入力していきました。なお、私はすべて手動で打ち込みましたが、スキャナーで読み取って入力する方法もあるようです。来年度体験記を書かれる方でその方法に詳しい方がいらっしゃったら是非ご紹介下さい。
 当初はまだ註の付け方に不慣れであったので、とりあえず、引用を入力した後のスペースに、その都度カッコ書きで、著者名、書名、出版社、発行年、ページを打ち込んでおきました。そして、後になって註の付け方を熟知してから、それらを註の形式に直しました。
 具体的には、引用文の最後のところに註番号を挿入し、論文末尾の註番号が出てきたところの右側に、前もって入力してあった「著者名、文献、出版社、出版年、ページ」をコンピューター上で「切り取り」をして「貼り付け」ました。(ワードでの註のつけ方については後述します。)註の付け方に慣れているようでしたらば、最初から註の形式にした方がよいと思います。なお、引用文だけ打ち込んでおいて後からまとめて註を付けるとすると、どの文献のどのページだったかを確認するのが大変だと思いますので、手間がかかってもその都度上記のように必要事項を入力しておくか、あるいは、最初からきちんと正式な註の形式にしておくとよいと思います。
 なお、「引用・註番号」と「引用・註番号」の間にあとから新しい「引用・註番号」を入れれば、註の番号と内容は自動的にずれていきますし、「引用・註番号」を削除しても別の場所に移動しても、それぞれコンピューターが註の番号と内容を自動的に処理してくれます。
本文執筆
 本文執筆については、プリントアウトしたものに手書きで書き加えたり削ったり並べかえたりして推敲し、あるいは、引用すべき文献の載っているページと行を記し、ある程度手書きの推敲や引用の指定がたまったら、それをまたパソコンに入力し、プリントアウトする、そしてまた手書きで推敲する、という繰り返しをしました。その過程で、段々とふくらみ、整理され、まとまってきました。  パソコンの画面上で直接推敲するよりも、プリントアウトした紙で推敲した方が、全体像も把握しやすいし、能率が上がる、と私は思いました。それに、プリントアウトした紙ならばどこへでも持ち歩けます。
 論文執筆作業には、プリントアウトしたものを前にして考えをめぐらし手書きで加筆推敲並べ替えをしていったり、参考文献を読んで引用箇所を考えたりする知的創造的作業と、その手書きの推敲や引用すると決めた箇所をパソコンに打ち込んだり註をつけたりする事務処理的作業の両方があります。私の場合は土曜日曜が休みですので、その時に近くの図書館へプリントアウトした紙を持って行って、集中して知的創造的作業に取り組みました。人それぞれリズムがあると思いますが、私の場合は、午前中に図書館で知的作業、午後に自宅でパソコン上の事務処理的作業をするやり方がリズムに合っていたようです。
浮かんだ考えをその場でメモする
 長い間継続的に一つのテーマに取り組み続けていると、必ずしも机に向かっている時だけではなくて、日常生活の何気ない時にもふと考えが思い浮かぶ瞬間があります。考えが浮かんだその時にメモをしておくことが重要だと思います。すぐその着想を紙にメモしておいて後で時間がある時にパソコンに入力するようにしました。そうしておけば、後から推敲、並べかえ、追加、削除が自由にできます。
論文の留意点・体裁・ルビ・ページ・註について
 論文執筆上の留意点について、文化情報の方は秋山正幸教授・上田邦義教授がお書き下さった「研究論文作成のしおり」をお持ちかと思いますので、是非お読み下さい。
 体裁については、DRで乾一宇教授がお書きになっているように、地の文は標準の10.5ポイント、3行以上の引用文は9ポイントにすると見やすくなりました。また、章や節の題名は、やはり乾教授がお書きになっているように、12ポイントのゴシックにすると見栄えがよいようです。その他詳細については、DRに掲載の乾一宇教授の「論文の書き方(技術編)」をご覧下さい。
 引用する文献自体にふりがながついているなどして、ふりがなをつける必要がある場合は、次のようにするとできます。ふりがなをつけるべき文字列の先頭から最後までドラッグして選択した状態で、「書式」→「拡張書式」→「ルビ」で、必要な操作をしてから「OK」で、できます。  また、傍点をつける必要がある場合は、傍点をつけるべき文字列の先頭から最後までドラッグして選択した状態で、「書式」→「フォント」→「傍点」へ行き、「傍点なし」になっているボックスのところで希望の傍点の種類を選択して指定すればできます。
 それから、ページと註の付け方について、以前文化情報の方々に僭越ながらメールでお知らせしたものを、以下に再度掲載いたします。ご参考にしていただける方がいらっしゃれば幸いです。

◆一つのファイルに表紙、はしがき、目次、序説、第1章・・・の順に入れる場合、
 大学院の指示は、「目次の次の序説から1ページ」です。
◆そうするためには「セクション」を使います。
 目次の次の序説のページを1ページにする場合、目次のページの最後にカーソルがある状態で、「上方のメニューバーの、挿入(I)→改ページ(B)→<セクション区切り>の項の、<次のページから開始(N)>の白丸をクリック→OK」とすると、目次の次の序説のページからが別のセクションになります。そして、その別のセクションになったページにカーソルを置いた状態で、後述の要領でページをつけると、その別のセクションの中での通し番号のページを付けられます。逆に、表紙から目次までの部分については、その部分だけでページ(i,ii,iiiなど)をつけることもできますし、ページをつけないこともできます。
◆ページの付け方は、挿入(I)→ページ番号(V)→位置<ページの下>・配置<中央>を選ぶ→書式→番号書式(F)を選ぶ→<連続番号>の項の、開始番号(A)の白丸をクリック→1が出る→OK→OK、で出来ます。
◆註は、「結論と参考文献の間」に入れますので、次のようにする必要があります。
 「脚注を文末に入れる」と指定すると、参考文献の後になってしまいます。したがって、結論の次のページを新しいセクションに指定して、「序説から始まって結論で終わるセクション」の後尾に注を入れるように指定します。
◆セクションの後尾に注を入れる入れ方は、以下の通りです。
 「論文の中の注を入れるべき場所にカーソルを置いて、挿入(I)→参照(N)→脚注(N)
  →<文末脚注>の白丸をクリック→ボックスの中の<セクションの最後>を選ぶ
  →番号書式のボックスの中の半角の数字を選ぶ→挿入(I)」
 以上の操作をすると、結論の後ろの註をつけるスペースに註の番号がつけられてあります。そこに註を入力します。以下、論文の中の、次に註を入れるところで同様の操作をすると自動的に次の番号の註になります。
 (註と註の間にあとからまた別な註を入れると、自動的に番号がずれていきます。また、一度載せた註を削除したり別の場所に移動したりした場合も、自動的に番号がずれていきます。)
◆最後の参考文献のページは、別のセクションになりますので、参考文献のセクションの中でページを付けるときに、「挿入→ページ番号→書式→<連続番号>の項の、<前のセクションから継続>の白丸をクリックすると、ページがその前のページからの連続番号になります。
◆表紙のページなどにページ番号がついてしまっていて、それを消したい場合は、
 挿入→ページ番号→<最初のページ番号を挿入する>のチェックをクリックして
 そのチェックを外すと、そのページのページ番号がなくなります。 

他の方々の見解
 指導教授のご指導はもちろん、ゼミ等で他の方々の見解に接して傾聴することも重要だと思います。一人だけで考えているとどうしても独りよがりの独断になる危険性があります。指導教授のご指導はもちろんのこと、他の方々の、自分が気がつかなかった視点からのご意見が参考になります。
論文作成に関する参考図書
 だいぶ論文作成が進んだあとで、次の参考図書があることを知りました。これから書かれる方は最初から参考にされることが可能かと思います。
小笠原喜康『大学生のためのレポート・論文術』講談社、2003年
小笠原喜康『インターネット活用編 大学生のためのレポート・論文術』講談社 2003年
最後に
 論文作成には、資料収集、先行研究の理解、自分の思考、思考の結果や引用のパソコンへの入力、註を付ける等の細かい事務処理、これらの一連の作業が必要です。そして、先行研究を読んで理解することと自分で考えること、文献を引用することと自分の考えを書くこと、知的創造的作業とパソコン上の事務処理的作業、論文作成と一般科目レポート作成、仕事と通信制大学院での学習、以上のようなことの間のバランスが大事なような気がします。
 修士論文執筆を通して、根源的な問題について深く考える充実した時間を持てたことは大きなよろこびです。その意味では、単位を取れるかどうかとか修了できるかどうかというようなことは二義的副次的なことであるとさえ思えます。
 以上、私の経験をもとに、これから論文を書かれる方のご参考になるように書いたつもりです。少しでも参考にしていただける方がいらっしゃれば幸いです。
 なお、この体験記は短期間で書いたものであり、不備な点や不適切な点も多々あるかと思います。お気づきの節は是非ご教示くださるようお願いいたします。

(注)ディスカッション・ルーム(関係者のみ閲覧可)にて、「乾先生」→「学習のポイント」を選択。



「最後まであきらめないこと」   文化情報専攻  中村 恵
 

1、混沌とした中からのテーマ決定
 入学当初の4月、修士論文の研究テーマを絞りきることができずに、指導教授の研究室で取り止めのない話をする私に先生は根気よく耳を傾けて下さっていた。C・S・ルイス研究であることだけは決めていたものの、ルイスの何を研究するかは決め手がなかった。その夏、身近な出来事から「永遠」ということばが私のなかでクローズアップされてきた。私はこのことばの意味を本当に知っているのだろうかという疑問が起きた。そして、11月に修士論文のテーマとして「永遠についての考察─C.S.Lewisにおける永遠のヴィジョン」を決定した。混沌の世界から、広大な世界へ飛び込んだわけである。
 しかしながら、さすがに「永遠」の世界は広く、手を広げるには事欠かなかった。現実の枠を超え、時間、空間を超越し、生を超えた死後の世界、天国といった世界まで、果てしなく目に見えない世界がつぎつぎと広がるのである。再び、混沌の世界に迷い込んだ日々が続き、ふと気が付いてみると2年生の秋頃となっていた。修正し続けた修論作成計画は、計画を立てる後からことごとく崩れて行き、12月のゼミに第一稿を提出するという先生やゼミの人達との約束も全く守れず、12月の中旬を絶望的な気持ちで迎えていた。修論のテーマとルイス研究であるということに立ち返り、1月の提出までの時間を考慮しつつ内容の絞り込みをし、本格的に本文作成に取り組んだのはクリスマス近くの頃だった。
2、ゼミ発表と資料の収集
 1年次から市ヶ谷でのゼミなどにおいて、最終的には使用しなかったものもあるが、いろいろと参考文献を読んで発表し、それを資料として残していった。資料はA4サイズにWordで入力し、引用文は文献の頁数と行数を必ず入れ、参考文献の記載の方法なども合わせて修論にそのまま利用することを念頭に置いて作成した。また、読んだ文献には、章立てと内容がほとんど決まった段階から、視点・論点となる内容により4色の付箋を色分けして貼っていった。一見してどのような内容が文献のどこに書かれているかがわかるのである。特にテーマ決定からの約一年間、このように溜め込まれた資料は最後の段階で多いに役立った。
3、無の境地
 避けたいことではあっても、最後はやはり体力と気力の勝負になるのではないかと予測し、1年のときから朝のジョギングやウォーキングを実践し健康管理に努めてきた。追い込み時には、目のためにブルーベリー濃縮エキスを食し、ストレッチ体操などをして疲労感を緩和した。12月は日頃より仕事も混んでいるが、社会人としての勤めもしっかりと果たして年末年始の休みに入り、ようやく集中できる日々が訪れた。1日13時間以上机に向かう日々、不安というよりも恐怖心に近い気持ちに囚われないように、とにかく余計なことは一切考えずにひたすら文献とパソコンに向かった。
 正月はほんの形ばかりのお節をひとりで祝い、年末年始の約10日間の缶詰状態を過ごし、修論未完成のまま新年の仕事初めのため出勤した。ほとんど誰とも会話を交わすこともなく修論作成に勤しんでいたため、職場での仕事はリフレッシュ効果があり、同僚との会話も不思議と心を癒してくれた。しかしながら、仕事は新年早々いきなりの残業が続いた。週末になるのを待って最後の完成を目指した。
4、威力を発揮したWordの機能
 修論本文の内容もさることながら、最終段階の論文として提出するために、体裁を整えることに多くの労力と時間が必要であることを頭に入れておかなければならない。私の場合、Wordの機能のなかでも「挿入」の「脚注」機能と、「書式」の「アウトライン」で本文を作成し、最後に「挿入」の「検索と目次」によって瞬時に目次を作成するという機能を利用したことが何より功を奏した。その他、引用文献、英文要旨、論文要旨の作成、最後に50頁以上の本文のプリントアウトと副本3部のコピー、パンチでの穴あけとファイリング等々、仕上げの段階での物品の準備などを含め予想以上の労力と時間、そして集中力を要した。技術と物理的な問題が最後に控えていたことを改めて知った。やはり余裕を持って、早めに修論を完成させることを是非ともお勧めしたい。
5、結果としての修士論文
 時期が迫ってもなかなか本文を書き始めず、牛歩の歩みを続ける私を叱りもせず、かえって励まし続け、最後の提出ぎりぎりまでご指導下さった竹野先生には何と感謝をお伝えしたらよいのかわからない。また、最後には自分ばかりか、心ならずも周囲を巻き込んでしまうことを痛感し、そのためにも何とか間に合って提出しなくてはと思い、私のどこにそのようなエネルギーが潜んでいたのかと自分でも不思議なほどに追い込み時期をひた走りした。決してひとりで修論を書いたのではない。
 この修論作成を通して学んだことは非常に大きかった。研究内容からの新しい発見も多くあったが、自分の力のなさや弱さを隠さずに、自分自身で受け入れることができた。そして、もちろん完全ではないが、私の現段階の精一杯をひとつの形にすることができた。私の修士論文は、私が書いたものではなく、結果として書かれたものであると言うのが今の実感である。

「文献研究のススメ」   人間科学専攻  石舘 美弥子
 

 修士論文作成までの長いようで短かった2年間を振り返ると、とても感慨深い。今、真邉ゼミで過ごした様々な思い出が私の頭を駆け巡る。サイバーゼミでの発表、活発な意見交換をはじめ、面接ゼミでヤリのように飛んでくる貴重な助言の数々、etc。これらは、入学前に抱いていた大学院のイメージ(あくまでも私個人の)とはちょっと違うもの。とにかく、真邉ゼミのなかにいると『心と科学』が自然に深まり、成長すること間違いなし。楽しかったのは、面接ゼミ終了後の2次会。市ヶ谷界隈で杯を傾けながら帰る時間をコロリと忘れ、帰宅がシンデレラタイムになったことも。よく飲み、よく食べ、よく話した。かけがえのない多くの時間をゼミの仲間たちと一緒に過ごした。通信制大学院での新しい学習スタイルが私に与えてくれた数々の贈り物に感謝しつつ、本稿では、修士論文に必要な文献研究の大切さを皆さまにお伝えしたいと思う。タイトルの『文献研究のススメ』は、こんな私の実感がこもっている。それでは、私なりにまとめた“ 文献研究に必要な5W1H ”をお届けしよう。
WHAT(何を)?
 まず、自分の研究テーマが見つかったら、key wordsを頼りにデータベースで関連した文献を検索する。その際はできるだけ最新の論文にあたること。そして、その領域の研究の流れをつかむことが大切である。これまでの研究では何がわかっていて、何がまだわかっていないのかを明らかにし、その中で自分の論文を位置づける必要がある。しかし、あまりに情報収集ばかりに気をとられていると、膨大な量の情報に圧倒されてしまうことがある。そこは 焦らず着実に進めてくこと。abstractsを読んで、あたりをつけてから、full text を読む。その論文の引用文献のところから、関連論文を芋づる式で手に入れる。入手した論文を読みススメながら、自分なりに研究史を作っていくとよい。正直に言うと、私は今まで英語の論文を読んだことがなかった。修士論文がなければ、恐らく英語の文献は一切読まなかったと思う。今回、研究論文をまとめる過程でわかったのは、英語の文献の大切さ。日本における論文だけでは限界があるのだとわかった。これは、私にとって大きな収穫だった。
WHO(誰が)?
 自分である。やはり自分以外にない。自分の責任で切り開いていくのだ。しかし、そんな格好いいことばかり言っていられないこともある。文献研究って孤独な作業だと感じることも多い。文献のなかには1回読んだだけでは理解できない内容がある。それどころか、何度読んでも頭に入らないものもある。そんな時、電子辞書を片手に弱気な自分が時折顔を見せる。睡眠時間を削り夜中にパソコンに向かっていると暗い気持ちになることだってある。実はこういう時こそ、自分を奮い立たせる絶好のチャンス。健康で仕事は順調。家族も応援してくれる。子どもたちは可愛い。お金もまぁまぁあるぞ。心を割って話せる友人もいるし。やっぱり私は幸せ者。じゃあ、研究を進めていこう。そう、単純な自分と向き合って、がんばる力を貰うのだ。
WHY(なぜ)?
 なんといっても、自分が今回の研究で何を取り扱い、そしてなぜ研究を行ったか、研究動機を明確に示すためにも文献研究は必須なのである。これをいい加減にスタートしてしまうと、あとが大変。研究を実施した後に、自分の行った研究はすでに誰かが発表していた事実だとしたら・・・考えただけでも恐ろしい。こうなると、実際に研究に着手してよかったのかどうかさえ問われることになる。自分の研究のオリジナリティはどこにあるのか(これを教授から何度指摘されたことか)、それを見出すためにも文献研究をおろそかにすることはできない。
WHEN(いつ)?
 かくいう私も、文献研究に真剣に取り組んだのは2年次に入ってからである。思うように集まらない関連論文に焦りを感じながら、夜な夜なインターネットで検索に励んだ。1年次は、文献研究の必要を感じながらも、科目の課題レポートで追われるばかりの生活を送っていた。1年次の後期には自分の実験研究も始まったし、忙しくて先行研究は調べてられないぞ(今から思うと無謀な考えだった)というわけで、先送り状態のまま2年次に突入した。大変だったのは、進みゆく実験研究と並行して調べなければならない膨大な(と思えた)先行研究の数々。正直、もっと早く始めておけばよかった。特に2年次の春から夏にかけての私は、実施した実験結果を評価しながら、次の計画を練るという過酷なスケジュール。けれども、この時期をなんとか乗り切ることができたのも、苦労して調べていた文献研究のおかげ。並行して収集した先行研究からたくさんのヒントを貰えた。実験方法の修正から手続き上の細部に至るまで、先行研究を参考に試行錯誤しながら見直せたことがよかった。これも、終わった今だから声を大にして言えること。とにかく、できるだけ早め早めに進めよう。できれば、1年次のうちにレヴューをまとめられるくらいがbest!
WHERE(どこで?)、HOW(どうやって)?
 自宅で、手に入れたいほとんどの文献収集が可能。これは驚きだった。仕事と家事と学生の3足のわらじを履く私にとって何より有難かったのは、自宅からインターネットを使ってaccessできる文献データベース、図書検索システム、雑誌や図書の所蔵情報など。そして、入手した文献は日頃からこまめに整理しておくことが大切。いつでも読めるように文献リストを作成しておくと、あとで役に立つ。それでは今回、特にaccess頻度の高かったサイトを順不同でご紹介したい。

■PubMedNational Library of Medline)(http://pubmed.gov/

無料のMEDLINEのデータベース。世界的な医学のデータベースMEDLINEを中心に関連するさまざまなデータを相互にリンクできる。おススメのサイト。

雑誌記事牽引(国立国会図書館)(http://www.ndl.go.jp

国立国会図書館のホームページのNDL-OPACのなかで検索できる。採録の範囲は幅広く、人文・社会/科学・技術/医学・薬学といったものをカバーしている。検索した文献の複写については、利用登録すればインターネットによる郵便複写申込で送ってもらえるので便利。

社会老年学文献データベース(http://www2.yume-net.ne.jp/dial/index.htm

(財)ダイヤ高齢社会研究財団が作成し、無料で提供している社会老年学の日本語文献データベース。検索結果の書誌事項と論文抄録をダウンロードできる。

国立情報学研究所 NACSIS-ELS(電子図書館サービス)(http://els.nii.ac.jp/

日本大学大学院のホームページの図書館内にもある。学協会の発行する学術雑誌のページをそのまま画像データとして蓄積し,書誌情報とともに検索できるようにした情報サービス。論文・雑誌のリストの検索は自由にできるが、論文のページの表示や印刷をするには利用登録が必要。利用料金は無料なので登録はおススメ。ただし学協会が定める著作権使用料が、ページを画面表示および印刷した場合に少しかかる。支払いは、送られてくる振り込み用紙で。

UMI Dissertation Expresshttp://wwwlib.umi.com/dxweb/gateway

公刊されていない博士論文を購入したいときはこちらへ。教授からいただいた貴重な情報。私の場合、割高のexpressで注文しても60ページで$55(送料込み)。論文は1週間以内に郵便で到着。到着1ヵ月後位にBankcheckしたら、$55は当時のレートで落ちていた。

英文雑誌新聞記事データベース(ProQuestシステム)http://apollo.gssc.nihon-u.ac.jp/proquest.sunmedia.co.jp/nichidai/

日本大学大学院のホームページの図書館内にあるのがこちら。米国PQIL(PROQUEST INFORMATION & LEARNING)社がインターネットで提供する全文データベース。この在校生に対する特典を利用しない手はない。Key wordsを入れてhitする論文は、full textをダウンロードできる。大変お世話になったサイトである

Science Direct ( エルゼビアが刊行する学術雑誌データベース)http://www.sciencedirect.com/

こちらも、日本大学大学院のホームページの図書館内にあるので便利。ここも利用価値は高い。
 入学当初、教授にいくつかのkey wordsを送り、その後に送られてきた山のような関連論文のabstractsに悲鳴をあげた私だった。有用な情報を手際よく集めるにはどうしたらよいのか。同じことを何度も経験したり失敗したりしながら、できなかったことがだんだんできるようになってきた。知識が少しずつ増えてくる。新しい発見がある。大切なことに気づいていく自分に、日々小さな喜びがある。電子辞書を肌身離さず、文献をどんどん濫読すること。とにかく、できるだけ早めに取り組んで早めにまとめることが一番!
 最後に、真邉先生をはじめ、この2年間私を支えてくれたすべての人に心から感謝いたします。ありがとうございました。

「「終わり」ではなく「始まり」のための小休止 」   人間科学専攻  原田 こずえ
 

 本来なら2年間のところを3年かかって修了した私の修士論文執筆顛末記…ご参考になるのでしょうか。
 私の大学院生活は、指導教員との相性、学友との交流という点でとても恵まれていたのではないかと思います。特に学友については入学前からの知人がおり、共に励ましあいながらの時を過ごせました。北野ゼミでは同期生の幹事をやらせていただくことになり、微力ながらも学友同士の交流をすすめることができ、同じゼミの修了生として長くお付き合いしたいなぁと言う気持ちも、論文を完成させるための助けになったような気がします。
 修了するためには、修士課程2年間の間に、履修単位もクリアしなければなりません。1年次には20単位を履修、2年目は残り1科目と論文というように計画どおりに進んだかにみえましたが、2年目に体調を崩し、論文完成の目標を延ばすことにしました。
 もともと、ある資格試験のための勉強がきっかけとなり、勉学への情熱が再燃したことが大学院に入学するきっかけでしたので、修了までの期間が延びることに対しての問題はありませんでした。生涯にわたり学ぶことを続けるための一つの形が「大学院生」でしたので、自分自身のペースで進めることが可能でした。もっともこれは家族の理解があってこそのことだと思います。
 さて肝心の論文執筆は…
 3年目はレポートの提出もなく一路論文執筆へ進めばよいだけなのですが、なかなかそうもいきませんでした。心身の不調はなかなか回復せず、乗り物で移動することが苦痛でした。しかし、途中変更した私のテーマでは実態把握が不可欠でしたので、身体を動かさねばなりません。卒業生へのインタビューは夏の短い期間に一気に進めました。図書館勤務のため文献収集は慣れていましたが、それでも手に入らない資料、いわゆる「灰色文献」などは直接研究なさった方にお願いして入手したり、配布されたであろう関係機関へメールして拝借したり、また、文部科学省へ情報開示請求をして入手したりと、ようやく秋には材料がそろいました。実際に具体的な文章を執筆し始めたのは10月以降でした。書き上げた部分を指導教員にお送りして、チェックしていただきました。とりあえず12月のゼミにおいての最終発表会までに提出できる形に仕上げることを目標としました。結局、最終発表会では、最終章の後半部分が間に合いませんでしたが、年内にはなんとか形になり、年明けは注の入れ込みと、誤字脱字のチェックに費やすことができました。
 引用・参考文献の整理は意外に手間取ります。私の場合は、100点ほどのなかで雑誌論文が多かったので、使う・使わないは関係なく、コピーを入手したらすぐに、番号を付けて透明の袋付きのファイルに入れておきました。もちろん、文献ごとの書誌データをパソコンに入力しておきます。図書の場合は、引用・参考にしたページを必ずデータ入力しておきます。こうすることで最後の注をいれる作業がとても楽になりました。
 パソコンに向かいながら聞く何度目かの除夜の鐘…こんなことはもうないだろうなぁと思ったり、完成したらあれもこれも…と、最後の追い込みにも力が入りました。実際に完成した後の自分へのご褒美は、論文とは関係のない本を思う存分読むこと!でした。
 最後に、「参考になるのでしょうか…」という冒頭の疑問に戻りますと、参考になるものといえばそれはやはり、何よりも「心身の健康の維持をしっかりとね」、という当たり前のアドバイスになると思います。社会人大学院ともなりますと学友たちの身の上にも、いろいろなことが、本当にいろいろなことが起こりました。そのようななかで、自分自身の精神と肉体をより良い状態に保ちつづけることがとても大切なことをしみじみ感じています。
 大学院に入学された理由は皆さん、いろいろ違うと思いますが、修士論文を提出したことが「終わり」にならず「始まり」になるような経験になりますように願っています。
 修了を延ばす選択をした時に、ある先生から送っていただいた「自分は自分ですよね。いつもマイペースを崩されないように」という言葉を、大学院生活を続けられる皆さんにも贈りたいと思います。

「通勤電車と図書館を有効利用してどうにか完成」   人間科学専攻  白鳥 栄司
 

 1日は人間誰にも平等に24時間ある。しかし、時間の感覚というのはその時々で大きく違うというのを実感させられた2年間の大学院生活であった。
 特に、「副本」提出締切日前の祝日1月12日は、朝6時から起床し、コンビニで宅急便を頼んだのが深夜0時30分頃だった。その間、食事とトイレ以外は最終校正や印刷、製本に追われていて、ともかく時間がどんどん過ぎていく、「なんとかしてくれ」という精神状態の一日だった。締め切り直前にあたふたしたのは、どうやら私だけではなくて、同じゼミのKさんや、Sさんも同様のことと、面接試問のとき待機室で話題が盛り上がった。
 以上が副本提出前夜の状況である。懸命な諸氏は精神衛生上、過大なストレスは体に悪いから、提出前日は余裕を持って望むことが重要である。もちろん、私も今後は十分注意するよう、反省した次第である(もう、若くはないということか、、、)。
 さて、私の論文はA4で約120Pある。論文と講義リポートの経験からA4、1枚を作成するのに6時間程度、私の場合はかかった。ただし、歩いている時などの考えている時間は除く。よって、一日平均2時間程度、この一年間、論文に費やしたこととなる。
 この時間をどこから捻出したであるが、私の場合は茨城県南のT市から東京まで通勤に往復約3時間30分程度かかる。よって、参考図書を読むことや原稿、メモなどは通勤時間を大いに活用した。
 さらに、どう計算しても時間的に原稿作成はこのままでは難しいと判断し、昨年5月のG.Wにシャープのモバイルコンピューター(PC-MM1-H3S;970g;内臓バッテリー2H稼動)を購入した。そして、通勤電車の中で原稿をタイピングする日々が続いた。困ったのは、T駅近くになると、いろいろなアイディアが出てきて、調子が乗ってくることであった。モバイルコンピューターは電車の中だけではなく、どこでも原稿がタイピングできるので大変役立った。
 参考図書については自分で購入するのが一番良い。しかし、予算との関係もあり、図書館を利用した。特に自宅付近のF図書館は近年、完成して綺麗で、学習コーナーが自由で、電源コンセントも机に備え付けられており、モバイルパソコンを使用するのには大変便利であった。蔵書も論文のデーマに関係するものが比較的多くあった。又、会社付近にも港区立図書館の三田分室が20時30分まで開館していて、時々利用した。大学の図書館も市谷9階のグローバルビジネススクールに貸出窓口があり、本学の全ての図書館の蔵書をインターネット予約で借りられ、大変便利である。
 以上のように、通勤時間と図書館、そしてモバイルコンピューターをフル活用しての、この一年間の論文作成であった。ともかく、この2年間は、一日24時間を大変有意義に過ごしたという実感である。

「会心の友たちを得て」   人間科学専攻  元木 芳子
 

 何故だろう。最初は、それから始まった。日常生活の中でふと感じた疑問。周りを見回してみると、やはり同じようなことをしている人が多い。何故だろう。片端から関連すると思われる書籍を読み漁った。どこにも見つからない。探し方がいけないのだろうか、それとも誰も検証していないのだろうか。それなら、自分で確かめてみようかな。そんなことがきっかけで、日本大学大学院総合社会情報研究科を受験することにした。
 そうして始まった修士課程生活。家庭と仕事の両立の上に、さらに研究生活が加わった。ただでさえ時間がない中、心理学の基礎的知識がない私は、レポートを書くための勉強をしながら、自分の研究テーマのための勉強、さらにそれらの土台となる心理学の勉強と、時間がいくらあっても足りない。足りないながらも足掻きながら5つの実験をし、まとめに入るというその最後の大詰めに来たところで大変なことになった。
 修論をまとめ始めた12月中旬、母が癌と診断されすぐに入院。できるだけ早く手術が必要とのことで、12月25日、クリスマスの日に手術となった。本当は、年末・年始の休みの間に、集中的に修論をまとめようと考えていたのだが、それどころではなくなった。
 当日の朝9:30に手術室に入った母の手術終了は、午後3時半をまわっていた。その間、父と私は二人で病院の椅子にかけたまま、手術の成功を祈るばかりであった。母が癌と診断されたこと、手術終了後の経過、がっくり肩を落とし心配し続ける父。心配ばかりが先立つ中で、自分自身の修論は間に合うだろうか、書けないのではないか、そんな思いが交錯し頭の中をぐるぐる回っていた。
 手術終了後、予想以上に癌が進行していたという執刀医からの説明を聞き、これは長期戦になるなと覚悟を決め、どうやって修論を書くための時間を確保するか考えていた。病院へは毎日通い、夜には修論のまとめ。それまでは、集中しようとすれば、かなり集中できると思っていたが、このときばかりはコンピュータに向かっても、なかなか考えがまとまらない。ちっとも書き進められないまま、気持ちばかりが焦り、時だけが過ぎていく。病院で父と母の顔をみれば、「そろそろ帰る」とは言えなくなり、ただそばにいるだけでしかないのに、病院で過ごす時間が長くなる。家に戻ると、簡単には気持ちを切り替えられずに、ただコンピュータを立ち上げる。
 そんなとき、ゼミの真邉先生をはじめ、仲間たちからの温かい励ましがあった。たまたまサイバーゼミがあり無断欠席というわけにもいかず、簡単に欠席理由を書き込んだ。たったそれだけしか知らせなかったのに、何人もの仲間たちがMLで温かい言葉をおくってくれた。みんな私自身の健康を気遣いながら、「元木ならきっと大丈夫」と励ましてくれていた。母の癌に対して、冷静に対応しようとがんばっていた私にとって、この仲間たちからの心遣いが、本当にありがたかった。みんな忙しい中、ともに研究にがんばってきた仲間たちが、温かい手を差し伸べて元気づけてくれている、本当にいい仲間たちに恵まれたと心から感謝した。
 先輩方からも「修論は早めに用意した方がいい」、何度そう聞いたことか。そのつもりで、それなりの準備をしていたのだが、最後の段階で思いもかけないことになり、さらに時間が足りなくなってしまった。せっかく時間がとれても、今度は頭が働かない。そんな泣き言を言ってみても、修論に言い訳を書けるわけでもない、とにかく、何とかまとめなければ。
 修論は、締め切りには間に合うように提出できた。しかし、最終的にまとめようと再読したとき、母の手術前後に書いていた部分は支離滅裂であることに気づいた。何故こんなところで、こんな統計解析をしたんだろう、ここではいったい何がいいたかったんだろう、等々。結局、その章は締め切りギリギリで、全面的に書き直すことになった。冷静になっているつもりでも、やっぱりあわてていて思考がまとまらなかったんだ、ということに後で気づいた。
 今回、何とか修論を提出する事ができたのは、本当に先生や仲間たちの励ましのおかげと思う。また家族が、修論を書く時間がとれるように、全面的に協力してくれたことがありがたかった。確かにこの2年間、研究するために自分自身ができる限りの努力をしてがんばってきた。修論は私にとって、2年間の集大成である。けれども、同時に自分一人では書けなかったものでもある。
 励まし合い、支え合い、助け合ってきた私の周りのたくさんの人たちのおかげで、ここまでこられたことに心から感謝したい。

「失敗を糧に前進を」   人間科学専攻  岩崎 笑子
 

 私の研究テーマは、最終的に「個店舗薬局におけるちらしの売上効果」となりました。研究論文題目の提出が6月30日で、このテーマに決めたのが5月に入ってからでしたので、約2ヶ月間、本当にこのテーマで大丈夫だろうか?実験では、ちゃんと有効な結果がでるのだろうか?失敗したら、さらにもう1年やらなくてはならないのだろうか?と不安いっぱいの、予備実験を行う余裕のない、ほとんど一発勝負の研究になってしまいました。
 それというのも、入学前に目標としたテーマは職場の異動で研究を断念せざるを得ず、修士1年目は、研究テーマ探しより初めて触れる心理学という学問にてんやわんやで、また年に2回あるレポート課題に悪戦苦闘する毎日でした。今考えると、その時々に時間が全く無かったわけではなく、時間の使い方が非効率的で、自身の要領の悪さが足を引っ張っていただけのような気がしますが。
 こんなことで、私の修士2年目はほんとうにプレッシャーとの戦いと、そして実験対象となる薬局の先生への根回し、コミュニケーションに追われた1年でした。実験結果は、ちらしによる売上効果があったと明確に断言できるデータを揃えられなかったため、つまり、ちらし以外の関与変数を排除できなかったために失敗に終わりました。反省点は、過去の事例研究がおろそかになったために、予測できた失敗を回避できなかったことにつきると思います。また、本実験の前に、問題点の修正をかけるための予備実験が必要であり、そのための段取りや時間に余裕がなかったことが手痛い失敗要因でした。
 ただ、自身の職務における疑問や改善策についての検討を行うための取り組みが社会人大学院における研究趣旨であるとすれば、私の今回の実験は不成功に終わったものの、実験を通し、職務の中での新たな発見と今後の課題が見えてきたことは大きな収穫であったと思います。そして今回の失敗を糧に、次はもっと発展した結果が得られるよう下準備にかかりたいと思っています。
 最後に、研究及び修士論文、レポート提出では、疲れ切って何度もあきらめかけました。辛抱強くお付き合い頂きました先生方に、そしてゼミの仲間に感謝でいっぱいです。
 また、新たに自身の研究テーマに挑戦する方達にこの私の失敗例が参考になれば幸いです。

「わが子に捧げる修士論文」   人間科学専攻  片岡 公博
 

「なお、最後に2002年12月3日に逝去したイリイチに哀悼の意を表するとともに、本稿執筆中、生後6ヶ月を経て2003年12月25日に身罷ったわが子輝人(てるひこ)にこの論考を捧げたい。」
 このことばで1月12日、修士論文を結びました。論文最終提出〆切の3日前のことでした。何とか論文を書き終えることができました。実にこの半年間は短いようでとても長い道のりでした。
 今回、電子マガジンに、修士論文執筆のさなか、私の身の上に起こったことを投稿することにしました。というのは、まことにおこがましいことですけれども、私の体験したことを語ることによって、仕事や家庭のさまざまな悩みに苦しみながらもそれぞれ学びを追求されている院生のみなさん、そして、これから学ぼうと志す方々にむかっても、自分なりにきっと何らかの貢献はできると思ったからです。どんなに苦しい状況下にあっても必ず希望の光は見いだせることを信じて。
 それでは、私の「修士論文奮戦記」を語らせていただきます。
 
 昨年の6月に3番目の子どもが生まれました。しかし、誕生してから約4ヶ月の長期入院。紅葉が散り始めた10月末にようやく退院。ところが、家族とともに順調に育ちつつあると思った矢先に、様態が急変。それは、ゼミ(特別研究)の修士論文最終発表会前日、12月19日のことでした。全くミルクを飲まなくなったのです。「なぜ、飲まないの?」と夫婦で喧嘩になりかけたとき、妻は、
「明日は大事な最後の発表会、今まで頑張ってきたんだもの、ここは私にまかせて」
 と子どもを抱えて救急に走りました。その日は、とても寒い夜でした。
 妻のことばどおり、修士論文最終発表会は、ある意味、私にとっては、重要な意味をもっていました。1つには、10月25日(土)の大学院修士論文中間発表会で発表に臨んだものの全く不本意な結果に終わり、その反省にたって巻き返しを図る機会にしたかったこと、もう1つは、最終発表会を区切りに論文完成に向けてラストスパートをかけること。その2つが目下最大の目標になっていました。実は、その意気込みで臨んでいたところ、出鼻をくじかれた思いがあったのです。妻は、その消沈している私の姿をみて、「私が面倒をみるから大丈夫」と精一杯の思いやりのことばをかけてくれました。
「しかし、ここで明日東京に行くわけには・・・」という気持ちも一方ではありました。迷いました。上の子二人もいます。やがて、妻から電話があり、第3子は急遽入院することになりました。ところが、このときは、これから長い1週間が始まるとは到底予想できませんでした。
 翌朝、大きな鞄を抱えて、上の子二人とともに新幹線に飛び乗っていました。やはり、妻のことばに甘えて、第3子は妻にまかせることにしました。妻はあれからずっと付き添いで病院に行っています。よくよく考えあぐねた結果、上の二人の子は、名古屋で途中下車させました。愛知に住んでいる義父母に改札まで迎えに来てもらい、最終発表会出席中、面倒をみてもらうことにしたのです。米原までは雪がちらついていました。そして、私は、関西とは打って変わって、晴れ渡った東京に降り立ちました。
 修士論文最終発表会は2日間にわたっての開催でした。私の発表は2日目でした。1日目終了の夜、子どものことが気になってホテルから妻に電話しました。次の瞬間、衝撃が走り、凍りつきました。
「実はICUに入ることになったの・・・・・。」
 妻のことばを疑いました。「なぜ?なぜなんだ!」真っ暗なホテルの一室で、家族で話し合った今後の目標も、修士論文作成の夢も打ち砕かれました。同時に、妻にまかせきりで東京にいることも悔やみました。「この電話のやりとりはきっと夢に違いない。」一晩中、ふとんのなかで何度もそう思いました。
 翌日、私の発表の番がやってきました。入院したわが子のことを思う気持ちはやはり拭い去ることはできませんでした。そして、発表の最後で、指導教授の北野先生とゼミ生の前で思わず「この論文は1月の〆切日には提出できないかもしれません」と開き直り、告白している自分がそこにはいました。そのときの北野先生とゼミ生の温かく優しいまなざしは今でも忘れることはできません。
 発表会終了後、新幹線の車窓には、今まで見たことない富士の雄姿がありました。富士山は美しく輝いていました。その雄姿に少々勇気づけられました。
 しばらくの間、上の二人の子はそのまま、愛知の義父母にお願いすることにしました。
 帰ってみると、わが子はICUで頑張っていました。妻と励ましあって、面会時間に臨む毎日になりました。職場には無理をいって、仕事を休む日々が続きました。
 ICUで主治医の先生から聞かされることばで、日々ますます症状が悪化していることはわかりました。その内容は、医学現場の客観的なデータにもとづいてのものでした。そのデータは親としては目を疑いたくなる、信じたくないものでした。データや数値は便利で重要な情報を伝達すると同時に、その反面、結果を冷徹に伝える側面があります。子どもの症状が日々悪化しているのは現実としては紛れもない事実でした。不思議にも、身体にいったん悪い症状が生じれば、それに連動するように、さらに「これでもか」と新たな悪い状況がいくつも積もり重なります。まるで頭上に重たい漬物石が何個も落ちてくるような感じでした。けれども、そんな状況でも、必ずわが子は元の状態に戻り、生きてくれると親は固く信じるものです。
 やがて、世の中がクリスマスでにぎわう夜、妻と私が見守るなか、わが子は静かに眠りにつきました。再び目覚めることはありませんでした。誕生後から主治医の先生や看護師さんとやりとりし、ともに記した交換日記がそこにはありました。交換日記は私たち家族にとって心を繋ぐバトンでした。妻は臨終まで、交換日記をわが子にむかって必死に読み聞かせました。そして、交換日記がすべて読み上げられたとき、妻も私も、息をひきとったわが子を目の前に黙ってうなずきました。臨終の際、主治医の先生が、妻とともに流してくれた涙は今も忘れることはできません。
 翌日、霊安室を出るとき、産婦人科・小児科・ICUの看護師さん、そして医療に携わってくださった先生方が、お忙しいのに、亡くなったわが子をそれぞれ抱いてくださり、並んで見送ってくださいました。あの光景は決して忘れることはできません。わが子は自宅より、むしろ病院で過ごすことが人生のほとんどで、病院はある意味家であったことは紛れもなかったのです。
 結局、第3子が自宅で過ごせたのは、1ヶ月半でした。今から思えば、11月21日に自宅で家族揃って祝った、2番目の子どもの誕生会は、まさしく、「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」そのものでした。
 思い起こせば、出産予定日は実は8月2日でした。ところが、子どもがお腹のなかで心不全を起こす危険性があり、6月11日、その命を救うため、出産は早まりました。主治医の先生は、約2ヶ月早まって生まれた直後から長期入院中にかけて、そして、最期のICU入院までたびたび不眠不休の努力をしてくださいました。小さく生まれたことで、「命があぶないかもしれない」という、生死のさかいを幾度となくわが子は体験しました。そんななかでも、医学的な見地から、また人としても、先生や看護師さんは最後まであきらめずに最善を尽くす姿勢を私たち家族に示してくださったような気がします。その後押しもあって、毎日病院に足を運ぶ意味合いをあらためて噛みしめることができました(途中、家族全員がプール熱にかかって寝込んでしまい、病院に通えないときもありましたけど)。
 通常、医師は医学的知識や客観的なデータを根拠に仕事するのが基本で、患者の死にいちいち涙を流していてはいくら涙があっても足りないことでしょう。けれども、先生も看護師さんもわが子の死を悼んで一緒に泣いてくださいました。今では、私は、これこそ、私の論文のテーマ「コンヴィヴィアリティ(conviviality)」ではないかと感じています。
 また、わが子の入院中、頭の中では、大学院の社会哲学特講スクーリングで学んだ「インフォームド・コンセント」や「同感情」のことばが繰り返し何度もこだましていました。 様々な価値観がせめぎあうのも病院だと思います。例えば、家族によっては、様々な価値観があります。病院側と患者・家族側の「同意」には、決してことばで簡単に片づけることはできない問題があります。私が一番大切に感じるのは、双方の話し合いが前提で、たとえそんなに猶予のない事態でも、互いがどれだけ信頼しあえるかにかかっているということです。お互いに「同意」の内容とそのありかたをいかに咀嚼し、納得し、判断できるか。本当に難しい命題です。私たちは神様や仏様ではないので、果たしてどの判断が一番正しかったのか、わかりません。例えば、修士論文執筆と同じで、書いた内容に納得いくかいかないかというところもあるのかもしれません。といっても、医療現場の判断は簡単に消しゴムで消して修正はできないのは確かです。実に難しいところです。
 病院スタッフの、最後まであきらめずに医学的に命を救う使命。その医療現場に立ち向かっておられる懸命な姿を伺い知ることができました。そのとき、本当にわが子にとって何が一番いいのか、親として悩みました。なぜこの世に生を受け、なぜ今こういう状況になっているのだろうって。でも、そんな結論を冷静にくだせるほど家族には余裕がないのも実状です。片や、病院スタッフには医学的な事実は告げ、説明しなければならないところもあります。本当に死を定義づけるのも、その生死にたちむかう判断も難しいと感じました。今回の入院で、私たち夫婦に、厳しく難しい判断の局面があったのはまさしく事実で、その一方では、何ともいえない感情が残っていました。
 年末ぎりぎり、内々で葬儀を執り行いました。本当に長い1週間でした。家族の心模様も大きな変化のうねりが起きた1週間でした。まさしく12月の修士論文最終発表会前日からの1週間は、私の人生にとっても1つの大きな節目になったのです。第3子の最期の1週間は苦しい痛みを耐える入院生活でした。それでも、親としてはなんとしても生きてほしいと願いました。でも、子ども自身にとっては、その身体ではその痛みは耐えるにはやはり限界があったのは確かです。今回、親の思いとして、子どもにとってよき方向を願うことがいかに難しい営みであるかを痛感しました。また、これほど生と死の間の選択や判断が迫られる場面を体験したこともありませんでした。今回はいろいろ学ばせていただきました。ちなみに、名ばかりの加入でしたが、今では、大学院サークル「ケア問題ネットワーク」に入っていて、本当によかったとも感じています。
 わが子は、たった6ヶ月の命でした。けれども、彼は、私たち家族にかけがえのない様々な出会いを運んでくれたのです。心をわが子と私たちに向けてくださった病院のスタッフ、一緒に気にかけ病棟で声をかけあった人々や偶然病院で出会った方との交流、職場の温かい配慮、自分のことのように一緒に悩み励ましてくれた友人達、そして大学院の先生・先輩・北野ゼミの声援。様々な方々に出会い、より一層ふくらんだその関わり合いのなかに私たち家族はいました。ともに涙を流してくださった人々と出会い、そして、支えられました。本当にみなさんには、お世話になりました。
 葬儀後の年末年始は、あの1週間にくらべ、時計の針がまるで倍速になったような感じでした。そんななか、やはりわが子の最期まで頑張った姿を何度も思い出し、
「最後の最後まであきらめずにやれるところまで取り組んでいこう!」
 と決意を固めようとしていました。残された時間は確かにわずかかもしれない、ほんの少しの残された時間だが、しかし、最後の最後まで自分の可能性を信じて修士論文を何とかして1月15日の〆切日まで書き上げようと。たとえ、その論調やアプローチに揺れが生じても。最終発表会前に抱いていたとりまとめの構想に近づくことは難しいかもしれないけれど、最後の最後まであきらめずに。もしぎりぎり間にあうなら、〆切日当日に大学院事務課に持参提出することも念頭に入れて。
 同時に、わが子の遺影は、
「お父さん、最後の〆切まであきらめずに取り組んで!」
 とも語りかけてくれているようでした。同時に、大学院の先輩が以前メールで語ってくれた「『自分の意図したこと』『自分の気持ち』に忠実であること」ということばが頭の中を駆けめぐっていました。

 そんなさなか、1通の手紙が届きました。指導教授の北野先生からでした。
 早速、手紙を家族で読ませていただきました。妻も子どもたちも、
「お父さん、本当に大学院で学んでいてよかったね」
 と声をかけてくれました。北野ゼミに所属でき、北野先生やゼミのみなさんと出会えたことを感謝しました。

   あなたのお父さんとお母さんは、大変、立派に生きていらっしゃいますよ。お父さんの取り組まれている研究は、
   とても密度の濃い、立派なものですよ。どうか、見守っていて下さいね。

 今から思えば、この手紙にいくら感謝してもし足りません。また、先生ご自身の体験とともに「自分に一番大切な人を最優先してください」というメッセージも添えられていました。手紙を何度か読み返し、霊前に供えた次の瞬間、修士論文のことが頭をよぎりました。
「そうだ!論文が完成したあかつきには、同じようにわが子の霊前にそれを捧げよう!」
 もう焦りはありませんでした。家族全員のプール熱が治った9月中旬から、本格的に修士論文を書き始めていました。実は、そのときからずっとへんな焦燥感にかきたてられ、論文執筆を苦痛に感じる毎日が続きました。実際、あの最終発表会までは、大胆にも次のような目標を掲げていたのです。
@ 毎日、一枚ずつ楽しみながら書くこと
A 毎月、一章は仕上げること
B 計画どおり執筆が進まず遅れたら、すぐに軌道修正をすること
C 目的にそって要点を整理して(取捨選択が大切)、一次資料を読み直すこと
D 毎日、先行研究1つか、もしくは、テーマと関連する著作に目を通すこと
 しかし、もはやそんな縛りや計画にもう拘束される必要もありません。また、いとまもありません。自分の納得のいくところまで頑張ろうと。常に最悪の状態を想定していれば、仮に日々少しでも状況がよくなることで幸せは舞い込み、幸せを引き寄せることができる。もし論文が〆切日ギリギリにでも完成すれば、どんなに喜ばしいだろうと。この2003年度にこそやはり、何らかの足跡は残しておきたい。このまま、2003年度を終えることはできない。
 第3子の霊前に論文を供えるという誓いをもとに、1月11日(日)・12日(祝日)の連休中に論文を何とか仕上げることができました。毎日論文に全力を投入できるように、家族が全面的に協力をしてくれました。また、数多くの方々から励ましの声をかけていただきました。
 そして、プリントアウト、製本。提出〆切日の15日、仕事を休んで所沢の大学院事務課へ。交通の便が順調であることを祈りつつ、早朝電車に乗り込みました。幸いにも新幹線が米原付近で雪による徐行運転をしているのみ。無事、論文の持参提出を終えました。そして、その足で論文提出の報告のため、北野先生の研究室に向かいました。

 人生、いろんなことがありますね。
 いろいろな苦難や試練は、「乗り越えられる人のみに与えられる」。
 自分だけがなぜ・・・、と人は思いがちですが、それは「さだめ」です。
 その「さだめ」から逃れる人、逃れたいと思う人には、苦難も試練もありません。
 ただ、「逃げ回る」のみです。

 この温かいエールも受けて、1月19日提出〆切の後期レポートもギリギリの最終提出。そして、口頭試問、修士論文正本提出。また、以前、大学院の先輩が主張されていた「正本提出までが勝負」ということばも、最後の最後まで自分の可能性を広げてくれました。
「もしかして、これで、修了証書も霊前に捧げることができるかもしれない。」
 第3子は、輝く人でした。「輝人」と書いて「てるひこ」と名づけました。生後6ヶ月の命とはいえ、名前どおり、「生きる喜び」という輝きでもって私たちを照らしてくれました。
「人の命は時の長短のみで意味づけられるものではない」という後期レポートの先生のことばにも支えられました。輝人を通しての様々な出会いが今も光り輝いています。
 葬儀のあと、夜空を見上げながら一番上の子が言いました。二番目の子も口をそろえて、繰り返しました。「てるひこは、お星さまになったね。ほら、あそこ。」そこには、ひときわ夜空に映える星が光り輝いていました。
 その冴え渡った夜空をみて、私は思い出していました。大学院入試を終えて見に行ったプラネタリウムの夜空。大学院科目を通してふれあったアダム・スミスの「天文学の歴史」。そして、修士論文執筆とともに歩んできた輝人との道のり。まさに冬の夜空に輝くオリオン座の真ん中の三つ星のごとく、輝人とともに上の二人の子どももきっと輝いてくれるでしょう。
「できれば、プラネタリウムにまた行きたいなあ。」
 1月31日の口頭試問終了後、入学試験後に行った方角に足が向いていました。しかし、プラネタリウムは閉鎖されていました。「これも時の流れなんだなあ〜」としみじみ感じた次第です。
 年があけてから、妻は言いました。「輝人、本当にありがとう。小学校に戻って、子どもたちに『生きる喜び』を今度は自分のことばで伝えます。」
 そして、妻は小学校教員として、この1月から職場に復帰しました。今回の体験を踏まえて様々な状態下にいる子どもたちと必ず向かい合ってくれると私は信じています。その妻の姿をみて、輝人もきっと喜んでくれるでしょう。そして、今度は私が、妻や子どもたちの学びを支える番です。
 こんなに書くつもりはなかったのですが、ついつい筆が進んでしまいました。いかなる状況にあっても、今後も引き続き研究に取り組んでいきたいと現在考えております。私の学びは、ほんの今、始まったばかりなのです。

「修論完成への道のり」   人間科学専攻  田中 聡
 

 先日、やっとの思いで修士論文を提出いたしました。修士論文完成にいたるまでのこの2年間は、僕にとって非常に険しいものでした。この長くて短かった道のりの概略をご説明したいと思います。事実経過を包み隠さずに、率直に記します。
【1年目
5月
 初のゼミが開かれ、その場で私の当初のテーマであった『メディカルエンジニアの職務満足感の検討』(ちなみに私は普段、病院でレントゲン技師をしています)について発表する。ゼミの諸先輩方から「その研究の意義はどこにあるの?」といった質問を受け、完全にフリーズしてしまう。
6月〜9月
 修士論文のことはいつも頭の片隅にはあったものの、初めてのレポート提出を控え、四苦八苦の日々を過ごす。そのため修士論文の作業は置き去りとなっていたが、レポート提出のための学習を進めるうちに、心理学の様々な視点についてぼんやりと理解しはじめ、修士論文のテーマについても新たな観点から考え直すようになる。
10月〜1月
 『X線フィルムにおける病変の見落としについて』というテーマに大きく変更を決意。はりきって私なりの仮説のもと、予備実験を行うが、的はずれな結果が出てあえなく失敗。しかしながら、教授から、「こういったことはよくあることですよ、心配しないでください。」というお言葉をいただき、さらに研究を進めようと奮起する。
2月〜3月
 ゼミの先輩方が修士論文を無事提出されたことを聞き、あと一年しかないことに不安を強く感じる。また同期の皆さんの方向性が固まっていくことに焦りを覚える。
【2年目】
4月〜8月
 教授の手厚いご指導のもと、さらなる予備実験と少ないながらも先行研究の論文を読み進める中で、ようやく本実験に移れそうな見通しが立つ。
9月〜10月 
 ついに本実験を行う。非常に手間のかかる大変な作業であったが、徐々にデータが集まるにつれて、結果に期待が高まり、実験を行うのが楽しくなってくる。
11月〜1月
 結果が出そろったので分析に取りかかる。だが、これが予想以上に時間がかかってしまい、時間が足りないことにさらなる焦りを感じる。結局、正月もない状況に追い込まれてしまうが、何とか提出期限までに修士論文を提出する。
 というわけで、険しい道のりではありましたが修士論文を提出することができました。提出し終えた今、私は研究することの面白さを強く感じています。確かに論文を書くことは苦しい作業ではありましたが、同時に楽しく面白い作業でもありました。私にとってはこの修士論文がまさにデビュー論文。今後、さらに勉強をして研究を進め、自分でも納得がゆき誰の目から見ても良い論文を書きたいと思っています。これから修士論文を書かれる皆様、最後には研究を行うことが面白いと感じると思いますのでがんばってください。

「全力前進の1年」   人間科学専攻  後藤 和彦
 

「ご苦労さまでした.」と面接試問の先生方の言葉で,私の修士論文との戦いは,少し論文を修正するだけを残し,2004年1月31日(土)に終戦を迎えましたが,ちょうどその日の1年前,私は,文理学部の山田研究室を訪問し,修論のテーマについて山田先生と相談しておりました.決まったテーマは,家庭用の美顔器を用いたことで,どのように気持ちが変化するか?についてでした.でも,自分で決めたものの,正直なところあまり気がのらないテーマでした.つまり,実際,自分で美顔器を使ってみると気持ちがよくなり,美顔器を使わない人と比較して統計的に有意差が出るはずと予想され,こんな簡単なテーマで修論としていいのかなぁと思っておりました.しかし,決まった以上,行動に移さなくてはならず,まず困ったのは,被験者募集でした.最低でも20名集めねばならないのですが,そう簡単には指定した実験日,実験場所に集まってくれる人は少なく困っておりました.そして,最後の切り札である友人の二人の大学教官に頼みなんとか助けてもらいました.でも,それだけでもトータル1ケ月以上かかりました.私の場合,幸いこのような大学教官がいたので助かりましたが,被験者集めと実験場所をどうするかがポイントかなと思います.テーマを決めるまでに事前に被験者が集まることを確認すべきかなとも思います.
 2回の実験が終了し,なんとか有意差も出て,さあ,エンジンかけて論文を書き始めようとしたのが,もう秋風の吹く9月半ばでした. でも,なかなか最初の書き出しがうまく書けない!最初の1ページは,産みの苦しみと同じだよと前述の友人から言われましたが,その通りで,色々な論文の書き出しの真似をしながらやっと1ケ月近くかかり,なんとか1000字書けました.でも最初の書き出しが重要と思います.すなわち,読む側にいかにこれはおもしろそうで,オリジナリティーがある研究だという印象を与える書き出しにする必要があると思います.そして又,多くの論文を読んでおくべきです.インターネットでの図書検索システムや国会図書館の検索システムを利用して論文を入手し,早い時期から論文を多く読むべきと思います.読むことにより,知識が深まるのは当然のこと,実験手順,論文の構成,書き方,言い回しなどが身につくと思います.
 まあ,この1年,実験会場に急ぐあまり覆面パトにつかまったり,出張途中の新幹線の中で,上司にデーター処理を手伝ってもらったり,被験者への謝礼もばかにならず,社内預金をかなり使ったり,子供の運動会で応援していても頭の中は論文だらけなど書きつくせないほどのドロドロしたものがありました.また,山田先生が,この1年渡米されておられた関係上,メールでのご指導となり,時差の関係で夜中にパソコンからのメール着信音で目が覚め,コメントを見ては,考えているうちに夜があけたことも何度かありました.でも,今は懐かしい思い出です.
 最初は,前述の如く,あんまりおもしろくないと思ったテーマですが,研究を振り返ると,ああすべきだったとか,こうしたら違った結果がでたかもしれないなど色々と課題が浮かび,今は,もっと深く研究してみたいという気になりました.テーマを決める時は,壮大なテーマを考えがちですが,小さなテーマでもどんどん掘り下げていくとおもしろいものです.
 大学浪人以来,数十年ぶりに大晦日も机に向かうなど,今年の年末年始は, 1日中部屋にこもりパソコンに向かうか焼酎に向かうか!?の毎日でしたが,なんとか論文を書き上げ,今はほっとしています.これから修論を始められる皆様,何度も挫折しそうになりがちですが,終わったあとの充実感は最高です!がんばってください!

 

「2年間を振り返って」   人間科学専攻  長田 艶子
 

 2年前の4月、希望と不安を抱きながら大学院に入学しました。
 5月に面接ゼミに初めて参加し、自分の研究テーマについて発表しました。ゼミ生・教授から様々な質問、ご意見をいただき、自分なりには満足していた研究計画を根本的に見直す必要性を感じました。でも、具体的に何をすればよいのかわかりませんでした。その後、レポート作成やサイバー輪読会に参加するのが精一杯で、仕事、家庭もあるからと修士論文から逃げていました。
 1年目の年が明け、2月の面接ゼミに参加。この時期になってようやく何とかしなければと考えるようになりました。先輩方はすでに修士論文を提出され、1年の発表が中心となりました。私は、今後の方向性を発表しましたが、まだデータ収集するには問題も残っていました。
 4月になってようやく始動。データ収集をしますが、思うような結果がでません。結局、11月までデータ収集を行いました。入学時の計画では、草稿ができあがっているはずの時期でした。データの分析、修士論文の作成、焦りは募るばかりでした。
 12月23日のゼミに参加。修士論文提出期限まで残すところ3週間です。大筋を書いて発表しましたが、自分でも結果、考察に満足できず、教授からたくさんアドバイスをいただきました。完成までは、まだまだ遠いことを実感しました。
 年末年始はパソコンと向かい合う日々。論文作成で私が注意したことは、研究の目的、方法、結果、考察に一貫性があるか、ということでした。何を明らかにしたかったのか? どう実施したのか? 何がわかったのか? そこから何が言えるのか? 自問自答しながら文章を作成していきました。とにかく完成させたい一心でした。
 こんな私も、面接試問を終え、正本を提出した今、ほっと一息ついています。
 これから修士論文に取り組む皆さん、大学院の2年間は、本当にあっという間に過ぎて行きます。それぞれの事情があると思いますので、自分に合った計画を立て、私のように焦ることなく満足できる論文を完成されることをお祈りしています。
 最後に、通信制の大学院ということで、孤独なイメージを抱いて入学しましたが、実際は全く違っていました。真邉教授、ゼミの皆さんに励まされ、助けられ、出席率は悪かったですが、ゼミが楽しみでもありました。本当にありがとうございました。また、これからもよろしくお願いします。

「浮き草のごとく」   人間科学専攻  守重 信郎
 

 この2月、私なりになんとか修論をまとめ、未熟ながらも提出することができました。しかし今この2年間を振り返ってみると、テーマの出戻り、論文構成の組み直し、締め切り直前の調査の開始など、まさに紆余曲折の連続でした。あたかも浮き草のごとくふらふらと漂った2年間と言えるかも知れません。指導教官の北野先生のご指導が無ければ、とても提出はできなかったことと思います。私の修士論文奮戦記はそのような意味で、一種の反省記として読んで頂ければ幸いです。
「テーマの出戻り」
 最初の一年間は履修教科のリポート提出に追われ、修論にはほとんど手をつけることができませんでした。12月のゼミで、北野先生より論文テーマをもっと絞るように指導されました。当初のテーマは、多数の分野にまたがるために論点がはっきりしないものでした。しかしこの時、自分の構想の甘さを反省する余り、思い余って根本的に他のテーマに変えようと考えてしまいました。その結果考えたテーマは、この大学院で学んでいる内容から離れたもので、さらに焦点のぼやけたものになってしまいました。次のゼミで先生より、「テーマを変えるのはかまわないが、今までの学習を生かした方が良い」と指導され、ゼミ仲間からの助言もあり、結局また元の題目に戻り、その論点をさらに絞るように努めました。
「論文構成の組み直し」
 2年次が始まった頃、ようやく題目が決まりました。しかしいざ内容に取り掛かるとなると、基本的な論文構成の理解が不十分で、何度も目次の組み直しが必要でした。1年次から、論文に不可欠な項目について先生よりゼミごとにご指導を受けてきましたが、それを復習し、繰り返し全体の構成を組み直しました。結局この作業は提出間際まで続きました。今あらためて一回一回のゼミの大切さを痛感します。この時点では、まだやっと全体の構成が見えてきた段階で、内容の執筆は手付かずの状態でした。
「初めての国会図書館」
 2年次の5月、これではダメだと思い、先行研究の調査に国立国会図書館に行きました。恥ずかしながら初めての国会図書館でした。なるべく多くコピーをしようと意気込んで来館しましたが、1日の閲覧件数とコピー件数に制約があるのを知らずに、結局何度も足を運ぶ羽目になりました。平日に休みを取って、一日中、国会図書館で費やす日が何度かありましたが、今思えばこの作業から私の修論の作成が始まったようなものです。8月まではこのコピーを読む毎日が続きました。
「足で稼げ」
 北野先生のこのお言葉は私の座右の銘です。私は大学博物館に関する研究を行ったのですが、最終提出まであと半年と迫った2年次の8月の合宿で、調査の対象が少なすぎることを指摘されました。「論文は頭を使うか、足で稼ぐかのどちらか」・・・であるなら、私は足で稼ぐしかないなと思いました。それからは休日ごとに、都内の大学博物館を訪れ、調査を始めました。調査といっても博物館見学ですから、楽しいひと時でもありました。時には職員の好意にも触れました。東京海洋大学の資料館では、休館中にもかかわらず丁寧な案内を受け、改めて実際に行動しなければ受けられない経験があると実感しました。東京大学や早稲田大学、明治大学のキャンパスに入るのも初めてで、校地内の学生を見るのも楽しみでした。
「最後が大変」
 10月の修論中間発表では、要旨をまとめる難しさを体験し、自分の文章力の無さを痛感させられました。この中間発表で先生方から頂いたアドバイスを元に、論文にいくつかの追加項目を設定し、やっとできたと思ったのが新年開けの頃です。しかしそれからが大変でした。読み直せば直すほど、誤字脱字、意味不明の個所が発見され、何度も書き直しが必要でした。書いている時は良いと思っても、翌日読むと恥ずかしくなるような文章だったということも頻繁でした。やはり早い時期に文章を書き終え、ゆっくりと推敲する時間を確保すべきなのだと実感しました。
 このような経過でも、何とか修論を提出できたのは、なによりも先生のご指導のおかげです。先生には感謝しきれません。また適切なアドバイスをしてくれたゼミの仲間への感謝も忘れられません。今思えば、大変でしたが、有意義で楽しく、人生で何度も味わうことのできない貴重な時間を過ごせたと思います。


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