5期生の修士論文奮戦記

電子マガジン19号(2005年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 反省と感謝の記 関口 一
国際情報 学而時習之、不亦説乎 稲田 照幸
国際情報 修士論文は自分との戦い−諦めた時点で負け!! 松井 順二
国際情報 私でも書けた修士論文 川田 昌映
国際情報 論文執筆の成否を分けるカギ:「資料のデジタルデータ化」 森  浩典
国際情報 修論を追え! 坊農 豊彦
国際情報 少子高齢化社会に自信を持ちたい 堀  淳士
国際情報 社会人はトラブルと隣り合わせ 野田 一成
国際情報 つねに前進を 内田 恵子
国際情報 テーマ選びがもっとも大切 寺井 融
国際情報 師事を受けるということ 真藤 正俊
人間科学 我が家の書斎はファミリーレストラン 井上 高明


「反省と感謝の記」   国際情報専攻  関口 一

 修士論文奮戦記なるものを書けるところまで、よくぞ漕ぎ着けたというのが現在の偽らざる思いである。
 私の修士論文作成の過程はほとんど反省の連続であった。なにしろ、昨年の9月末の時点では論文はほとんど書けてはいなかったといってよい。“序章”がなかなか仕上げられずまさに悪戦苦闘していた。今にして思えば、つまらないことをしていたものである。とりあえず問題意識のさわりとアプローチの仕方程度で済ませておいて、論文の体裁がそこそこ整ってきた段階で手を加えていけばいいのである。できあがった論文の内容に最も相応しい“序章”とするための修正作業は必然である。“序章”とはいうものの、つまりは一番最後に仕上がるものといってもよいのである。そのことに思い至らなかった原因は、いい論文に仕上げたいという“気負い”にあった。それゆえ、書き上げた“序章”は15~6頁にも及び、結局は“はじめに”と“第1章”とに分割するはめになるのである。
 このような過度の“気負い”は、私が自らの30有余年に及ぶ実務経験の中から、まさしく自分が現に直面し、取り組んでいる問題を論文のテーマとして選定したが故に、その到達すべき結論とそこに至る論文構成・論理構成はすでに見えているという自分自身の思い込みによるものであった。“気負い”は、また、論文のテーマをより大きなものとして、研究の対象を広げさせ、ついには論文作成のための許容時間と自らの能力の限界とに気づくゆとりをも奪った。あまりにも膨大な資料を集めすぎた。それだけの資料を集めるための時間とそれを読み込み、整理するための十分な時間とに対する配慮に欠けていた。その結果、夏期休暇を過ぎても集めた論文・判例等の資料の読み込み、あるいは、整理に没頭することになってしまった。あせりを感じて書き始めたのが9月中旬過ぎ、おまけに冒頭に紹介した苦戦である。
 このような呪縛から私を解放してくれたのが10月初旬に開かれた五十嵐ゼミであった。総花的に手を広げすぎることの愚を自覚させられることとなった。修士論文は決して学問の完成をめざすものなどではなくて、学問のスタートに過ぎない。修士論文を仕上げた後にこそ、本来の学問的な研究が待っている。そのことに気づかせていただいた。私の“気負い”はいとも簡単に吹っ切れた。論文の全体構想はその半分につづまり、判例研究も欲張らず、資料の読み込みも重要なものに絞込み、文字通り身軽になって再スタートを切ることができた。感謝である。五十嵐雅郎先生、五十嵐ゼミの皆さんに感謝である。
 私はずいぶんとひどい文章を書き連ねてきた。私の文章は、自分と共通の社会的・文化的背景をもつ人々の間でのみ通ずるものであった。主語が欠落しているのである。いわば“村落共同体”でしか通用しないしろものであった。近藤大博先生には修士論文発表の段階に至るまで、ご指摘・お叱りを頂戴した。感謝である。
 最後に、ヘルプデスクの八代先生にはパソコンのトラブルシューターとして何度お世話になったことか、パソコンのトラブル解決なくしては到底、期限までに修士論文を仕上げることはできなかった。感謝である。




「学而時習之、不亦説乎」   国際情報専攻  稲田 照幸

 私は、2002年8月、満55歳を迎える年になり、32年4ケ月間勤めていた会社を早期で定年退職しました。会社は、コンピュータ製造・販売・情報サービス・コンサルティングを行う多国籍企業で、50歳になると60歳までの10年間は、いつ辞めても定年退職扱いが適用できる仕組みになっていて、この間に第二の人生を考えるゆとりがありました。
 もともと九州育ちの私が、大学卒業後、福岡、神戸、大阪、東京と勤務し、色々な土地で多くの企業、たくさんの人々との交流を持てたのは幸せの一語につきます。
 この間、米国、ドイツ、イギリス、オーストラリアに研修に行かしていただいたのも良い人生経験となりました。神戸時代は、神戸六甲道で阪神大震災に遭遇し、自宅全壊の憂き目にも会いましたが、神戸地区のお客様企業の立ち上げに奮闘し、感謝いただいたのも今は懐かしい思い出となりました。
 会社を辞したら、郷里熊本に帰り会社時代の経験を生かし、大学教壇での仕事を夢見ていた私は、知人の紹介で幸いにも2つの大学の非常勤講師と、専門学校の常勤教官が舞い込んで来たのには驚きました。
 2002年8月から、熊本で勤務する2003年4月までの半年間、所謂浪人時代考えたのが、もう一度きちんと勉強しなおそうということでした。というのは会社では、ライン管理職職務が約20年続いたため、知識は浅く広くで、第二の人生に若干の不安を持っていたからです。しかも、住むところは熊本で、どのようにしてきちんと勉強をしたらいいのかと考えていた矢先に、Webで見つけたのが、日本大学大学院総合社会情報研究科でした。
 出願時の研究計画書の段階から、会社時代に取り組んでいた「企業革新研究」の観点で研究を志ざし、五十嵐教授にご指導いただくことを希望し、2年間の大学院生活が始まりました。
 1年目に、5科目、2年目に2科目選択し、スクーリングには参加したものの、東京で開催されるゼミには参加できなかったのが残念ですが、福岡、大阪での出前ゼミ、Webを使用したサイバーゼミには必ず参加し、交流をもてたのは有意義でした。
修士論文テーマ
 修士論文の題目は、「顧客志向を視野に入れた企業革新の研究 −ITシステム・サービス企業の組織マネジメント改革−」としました。
 所謂、ITサービスを業としている企業が、急激な技術変化、ビジネス形態変化、顧客要望変化の激しいIT業界で生き抜くためには、組織、人事、教育、マネジメントシステムおよびITインフラストラクチャはどうあるべきかを追及したものです。
修士論文作成
 論文については、五十嵐教授のご指導のもと、1年次の秋頃までに方針を決定し、1年次の終わりまでの間は、論文構成の検討と目次の作成、書籍、雑誌、新聞記事、Webデータの収集を進めていきました。
 この作業は、2003年7月、福岡での出前ゼミ、2004年2月の大阪での出前ゼミにおける会合・討論が大いに役に立ちました。この頃は、ゼミ生同士の忌憚の無いお付き合いもできるようになっており、様々な分野のメンバーとの交流では、自分に欠けていた視点に気づくことも多く、有意義なものであったと思います。
 2年次に入り、秋ごろまでに一応の素案ができあがりました。幸いにも私の第二の人生には、夏休みという、願っても無い休暇があったことが幸いしました。夏休みの殆どを論文執筆に当て、自分の書きたいものの整理、論理の見直し、必要資料の整理とやればやるほど迷路に落ち込むこともありましたが、五十嵐教授の「夜の電話コール」で、構成組み立てに、1つひとつと整理がついてきました。
 こうして、10月、第1回添削をいただきましたが、五十嵐教授の厳しいコメントで、再度12月、第2回添削をお願いし、完成へと近づきました。
 このように、長丁場の中で、決して計画的とはいえない進捗でしたが、五十嵐教授の叱咤激励のおかげもあって、何とか2005年1月の提出期限に間に合わせることができました。私は基本的には、調査とか、読書は好きですが、時間的に追い込まれないと集中できない性格もあって、もう少し事前計画に沿ったやり方をしておけばよかったと反省しています。皆さんは、如何でしょうか。
感想
 日本大学通信制大学院についての素晴らしさ、この一言に尽きます。自分で好きな時間に研究する。それをリポートにまとめ、成果について適切な指導を頂く。タイムリーな出前ゼミ、サイバーゼミ、スクーリングでの教授、院生との交流。感謝しています。
 「学びて然る後に足らざるを知る」〔礼記-学記〕にあるように、謙虚になって、自分なりの研究課題を常に持ち、探求する姿勢を持ち続けていこうと心ひそかに考えています。そして、「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」〔論語-学而〕の気持ちを持ち続けていこうと思います。
 最後になりますが、適切なご指導とご激励いただいた五十嵐教授、近藤教授、乾教授、諸上教授そしてリポートのご指導をいただいた先生方、加えて、熱心に議論、交流をしていただいた五十嵐ゼミの皆さんに深く感謝申し上げて、この報告を終わらせていただきます。ありがとうございました。


「修士論文は自分との戦い−諦めた時点で負け!!」   国際情報専攻  松井 順二

 現在、修士論文の審査を終え、正本を提出して、「やっと終わった!」という達成感を味わっています。思えば入学した当初は、「仕事をしながら2年間で本当に修了できるのだろうか?」と不安でいっぱいでしたが、なんとか無事修了できそうです。
 この2年間を振り返ると、毎日がとても充実していました。1年次はレポート課題(5教科×4[前期・後期にそれぞれ2つの課題])と修士論文のテーマと構成を考えるので精一杯でした。私が所属している乾ゼミは月に1回のペースで修士1、2年と博士の学生が集まり、論文のテーマや構成などについてそれぞれ発表し、それについてみんなで討議するという形式で毎回ゼミが進められました。ゼミに所属する学生の論文のテーマはそれぞれバラバラで、最初は他の人の発表を聞いても、理解できず、質問すらできない状態でした。しかし、何回かゼミに出席するうちに、少しずつ、理解することができ、話を聞いているだけでも、勉強になりました。
 肝心の私の論文の方はというと、前期のレポート課題もあったため、1年次の10月にようやく論文のテーマと大まかな構成が決まりました。入学当初に考えていたテーマと大きく変わってしまったため、ほぼはじめから文献の収集や研究を行いました。そうこうしているうちに、後期のレポート課題を提出する時期が来ました。結局、本格的に論文を書き始めたのが、後期のレポート課題提出後の1年次の2月からでした。今思うと2、3月はレポート課題もないため、集めた文献をもとに、論文に集中できる大切な時期でした。
 2年生になり、再び科目の履修登録の時期が来ました。既に1年次に5科目(20単位)全てを取得していたので、修了するには1科目履修すればよかったのですが、「せっかく高い学費を払っているのに、1科目だけでは損だな」という考えから2年次も欲張って5科目登録しました。
 2年次の5月には軽井沢でゼミ合宿もあり、論文作成の作業も本格的になりました。ゼミ合宿では各章の概要と「はじめに」と論文自体はまだまだ未完成でしたがどのようなかたちで論文を結論付けたいのかを把握するために「おわりに」を執筆して発表に臨みました。2泊3日という短い期間でしたが、論文の弱点などのご指摘いただきとても参考になりました。レポート課題については2年次で5科目を履修していましたが、論文に集中するために7月末までには前期分、9月末までには後期分を全て書き終えました。
 2年次の10月には論文の中間発表がありました。この時期はまだ、全5章あるなかの3章を書き始めたばかりで、論文の核となる4、5章が出来上がっていない状態でした。しかし、多くの人の前で発表する機会はなかなかないと思い、エントリーしました。発表は緊張しましたが、ゼミでは得られない新たな意見を得ることができました。また、ゼミ以外の同じ専攻の学生はもちろん、他専攻の学生も参加していたので、研究の仕方や進捗状況を把握でき、刺激になりました。
 12月に入り、いよいよ追い込みの時期になりました。12月から翌年の1月にかけては年末年始休暇で6連休あったので、連休に入る前になんとか論文の核となる4、5章を完成させようと必死になりました。連休前に4、5章をなんとか完成させ、指導教授である乾先生にはメールにて貴重な意見を頂きました。しかし、12月のゼミは既に終わっていたため、ゼミ生の方に核となる4、5章について意見を貰うことができなかったことが残念でした。
 連休に入り、論文の全体を再度見直し、全体の流れや誤字脱字などについて修正を加えました。チェックが一通り終了し、12月31日に乾先生に宅配便でチェックをお願いしました。3日後、先生の方から赤書きされた原稿が戻ってきて、指摘の多さに愕然としました。このときは既に論文提出まで2週間を切っており、一瞬論文を提出するのは諦めようかなと思いました。しかし、他のゼミ生はもちろん、論文を書いている他の学生も皆、同じような苦しい思いをしているに違いないと自分に言い聞かせ、寝る間も惜しんで最後の力を振り絞りました。最終的に論文提出期限の2日前になんとか提出することができました。
 これから修士論文を執筆される方へのアドバイスとして当たり前のことかもしれませんが、どんなに忙しくてもゼミには必ず参加してください。乾ゼミの場合、月に1回しかゼミはありませんでしたが、その貴重なゼミの場で、研究の成果を発表し、より多くの人の意見を取り入れることで、よりよい論文に仕上がると思います。また、他のゼミ生の研究スタイルや進捗状況を知ることもでき、とても勉強になります。
 最後に修士論文を完成させる過程において、乾先生をはじめ、諸先生方やゼミの皆さんには大変お世話になりました。この場をお借りして、お礼申し上げます。


「私でも書けた修士論文」   国際情報専攻  川田 昌映

はじめに
 2003年1月末、日本大学の通信制大学院の新聞広告を夫が持ってきた。「このようなものあるけど・・トライしてみたら?」インターネットを使い、地方に住んでいる私でも修士号が取得できる。何か自分自身ための勉強をしたいと思っていた時期であったので入学試験を受けてみることにした。入学後、恥ずかしながらこの2年間、今までの人生の中で一番よく勉強した時であり充実していた時を過ごせた。
 大学時代はのほほんと過ごし、卒業論文も適当に済ませてしまった私にとって修士論文をどのように書くのか、どのように研究を進めていったらよいのか手探りの状態であった。
 1年目の課題リポートは、修士論文を書く上での基礎である。リポートの纏め方、課題論旨の展開の仕方、「注の書き方」など、課題リポートを作成することにより習得していく。先輩のアドバイスによれば、2年目には修士論文に集中するため、1年目は5科目履修した方がよいとのことである。つまり、1科目4つの課題リポート、20の課題リポートを仕上げることになる。
 修士論文は、課題リポートと違って自分でテーマを探し、問題設定をしていかなくてはいけないのでさらに大変である。論文を仕上げることができるのだろうかという不安を抱きながら、修士論文を書き終えた現在、私の反省点を含めながら今後論文を書くための方の参考になればといくつか気の付いたことを述べたい。
1 ゼミには積極的に参加すること
 1年目のゼミは、サイバーゼミが中心だった。サイバーゼミでは、限られた時間内で自分の発表をマイクに向かって一方的に話すのだが、今まで人前で話す機会が少なかったのでとても緊張した。要領よく話していかないと聞いている人に理解してもらえないし、また自分が話している最中、参加しているゼミ生の人の反応が全く分からないのでよけいに不安を感じた。しかし、このような機会は中々持ちえないので自己鍛錬のつもりでトライしてみた。
 2年目のゼミは、市ヶ谷で行われたゼミに積極的に参加した。ゼミ生同士論文の進捗状況も把握でき、自分自身の志気を高めることができる。また担当教授以外のゼミ(乾教授)にも参加させて頂いた。普段のゼミと違った視点からのアドバイスを頂き、大いに刺激を受けた。また他のゼミ生との議論も大変に勉強になった。
 9月には神戸にて「オープン大学院」が開催され研究発表会の機会を得ることができた。7月、8月の猛暑の時期に研究がおろそかにならないように9月の発表会に参加した次第であった。違う専攻の方のゼミ生の発表を聞いたり、交流ができたので貴重な体験であっつた。
2 焦点を絞り込むこと
 修士論文のテーマに関しては、入学後すぐに「メディア・リテラシー」というテーマに決めてはいたが、内容が幅広く、論点のポイントをどこに置くべきか、その焦点を絞るのに時間がかかってしまった。メディア・リテラシー全体の把握がなされていなかったためである。1年目は、メディア・リテラシーに関する本を乱読していたが、もっと早くに論点を絞りその論点の書物を選んでおくべきであったと反省している。的を絞りこむことによりもっと深い研究が進められたであろうと察する。
 当初、ある程度の内容の範囲で研究を進め、後からその内容を圧縮すれば研究内容も濃いものになるであろうと考えていたが、これは明らかに間違いである。この間違いに気が付いたのは、10月の中間発表を終えた直後であった。佐々木教授からも焦点を絞り込むようアドバイスを頂き、構成をしなおしたのであった。
3 早めの資料収集
 地方に住んでいるので県立図書館で事足りない本も多く、近県の図書館からの書籍の借受には時間がかかった。そのためできるだけ資料収集は夏までに入手できるよう努めた。また、私の論文資料には、和訳文献の資料が多かったのだが、できることなら原文に接した方がより理解を深めることができたと思われる。
4 章立ては慎重に
 12月中旬、論文を指導教授である近藤教授に見て頂いた。構成の変更をするように言われ正直大変焦った。1月の論文提出まで1ヶ月もなかったのである。慌てて書き直しを始めた。テーマのねらい、論点を再考し、年末年始は自分でも信じられないくらいの集中力を発揮し、なんとか提出した。
 ゼミの発表の際にもっと章立てを慎重に検討すべきだったと後から気が付いた。章立てがしっかりしていれば余分な時間をとられ、振り回されることはなかったはずである。10月末に構成をしなおし、さらに12月に再編成したため、章立ての大切さを痛感した次第である。 5 最後は体力と気力
 ラストスパートは、体力と気力が勝負である。12月中旬からの手直しは、まさしく悪戦苦闘の状態であった。風邪を引かないよう注意していたし、食事にも気をつけていた。しかし、面接試問が終わったと同時に風邪を引いてしまい、3日間寝込んでしまった。無事に修士論文を終えたという安堵感からか気が緩んでしまったのだろう。
おわりに
 この2年間の勉強は、大変忙しく時間に追われた日々だったが、十分に満喫できた。通信制といっても、サイバーゼミや市ヶ谷で行われるゼミで顔を合わせることからより親しくなれたというのも楽しかった。修士論文を書き終えた現在、苦労したことばかりが浮かんでくる。しかし、貴重な体験が出来たし、また修士論文の作成過程において自分自身の反省すべきことがわかり人生のレベル・アップにつながっていったのではと感じている。この場を借りて、近藤教授をはじめ、諸先生方、ゼミの皆様ご指導やアドバイスを頂きまして本当にありがとうございました。


「論文執筆の成否を分けるカギ:「資料のデジタルデータ化」」   国際情報専攻  森  浩典

 最終提出を終えた翌日、「NHK紅白歌合戦」の再放送を観ているうちに、年末年始の頃を思い出した。ちょうどその頃は最後の追込みで、神経も一番ピリピリしていたと思う。それを紛らわすために「NHK紅白歌合戦」を背中で聴きながら、取組んでいた。執筆に没頭していたので、番組自体ほとんど覚えていなかったのだが、少しは落ち着き、余裕が戻った時に改めて観ていると、僅かながら覚えている番組の場面と、奮闘している頃の心境を重なり合わせたかたちで思い出し、あまり日にちが経っていないのにもかかわらず、なんとなく、懐かしい気持ちになってきた。
 月並みではあるが、最後まで投げずに、諦めずに修士論文を完成させることができた、という満足感が湧いてきた。またわずかな時間で、閉塞感・焦燥感から、達成感・安堵感に変わっていく精神的なプロセスを経験できたのも、修士論文執筆の副産物として、自分自身の内面的な充実に繋げることができた。
 論文執筆奮闘記は、既に論文執筆を終了させた方々、あるいはこれから論文執筆に取組もうとされている方々に読んで頂くことになると思うが、本稿を執筆するにあたり、どちらかと言えば後者にとって参考になるような内容にしていきたい。そのために単に精神的・観念的に終始させるのではなく、2年間の修士課程における経験の中から、おこがましいようだが、私なりに最大限の効果を得ることができたと確信の持てる、具体的な内容に絞って述べていきたい。
 修了の要件として、修士論文の他に6科目24単位の習得も必要である。そのためには合計、24のレポートを書き上げなければならない。1レポートあたり3000〜4000文字として、単純計算で原稿用紙180〜240枚分の量になる。中身(内容)以前に、分量だけをみても相当大変であることが予想できる。1年次にレポートを概ね完了させ、メインである修士論文を書き上げていかなければならない。最低でも200枚以上書くことになると思う。とにかく、「量をこなす」ことが前提であり、要請されるのである。しかも、2年間という限られた期間内にということであれば、いかに効率良く進めていくかということが、成否を分けるポイントになることは言うまでもない。
 まず、資料収集は、論文執筆を進めていくうえにおいて大きな柱となる。適切な書籍・文献を選び、収集していくことが基本中の基本で重要であるが、今後はインターネットで必要な資料を探し得ることが、論文を完成させる成否の分かれ目になることは間違いないと言っても差し支えない。どの分野においても情報公開が進んでいる今日、インターネットは「情報の宝庫」だと言える。情報の価値を選択するのが重要であるが、その第1歩として検索機能をフルに活用する。活用すること自体、特別な技術を要しない。キーワードを入力して、いくらかの条件を付加するぐらいの基本的な操作の繰り返しである。たくさんの資料の中から探しだすということで、いくらかの根気強さを要する。しかし、検索機能を使っていくうちに慣れていくのと、何をキーワードにするかといったコツも掴めるので、より迅速かつ正確に検索が出来るようになり、効率的な資料収集が可能となる。
 次に、資料のデジタルデータ化である。つまり、パソコンで扱えるデータにすることである。既にPDF、TIFなどのファイルとしてあれば、テキストデータ及び画像データとしてパソコンで扱えるので、そのまま執筆に使用しているアプリケーションソフト(ワードのようなワープロソフト)で取り扱うことが可能である。インターネットなどで得た資料は既にデジタルデータ化しているので、そのまま活用していくことが可能だが、問題は書籍などのような、紙のデータをどのようにするかである。
 とにかく、引用・参考文献に出来そうな文章、使えそうなグラフ・図表などはできるだけ、デジタルデータ化しておくべきである。そうすることで、直ぐに活用することが可能になるからである。具体的な方法として、スキャナーの利用である。パソコンショップなどで販売されており、A4クラスであれば価格も2万円前後で、パソコンに接続すればほぼ直ぐに使用が可能である。スキャナーで読み取り、パソコン上に取り込み、文字であれば、OCRソフトなどでテキストデータ化する。スキャナーを購入した際に添付されているソフトでもけっこう使えるものがある。
 資料のデジタルデータ化を図ることで、「スピード化の実現」、すなわち効率良く進めることが可能となる。そして、デジタル化したデータを分類・整理していくわけだが、これは各人に合ったやり方で進めれば良いと思う。因みに私の場合は、パソコン上で章ごとのフォルダを作成して、そこにまとめるようにした。どの章に該当するかはっきりしない間は、一旦、書籍名のフォルダを作成して、そこへ一時的に保存しておき、明確になった時点で章ごとのフォルダへ移した。また、図表などはタイトル名と頁をファイル名にした。あまり、複雑に体系化することなく、簡単な分類・整理でも執筆の効率化には十分に役立った。
 こうした私の経験が今後、修士論文の執筆をされる方にとって、少しでも参考になることを希求する。そして、悔いのない大学院生活を送って頂くことを祈念するばかりである。


「修論を追え!」   国際情報専攻  坊農 豊彦

 最初のゼミに出席したときに皆様の議論しているテーマが難しく「私が、ここに同席させてもらって、よいのであろうか」というのが最初の印象でした。
 私は大阪に在住しているので、あまりゼミには参加できないと思っていましたが、ゼミでは諸先輩や同期の難しいテーマ発表を聞き「君はどう思いますか」という質問に対して答えられない。「これではいけない」と帰路で反省。
 修士論文作成では、資料収集、ワープロのテクニックと論文作成ルールがポイントでした。今までの進捗を振り返ると、昨年、3月より府立図書館や近郊の国立大学図書館(本大学院の学生証にて閲覧可能)にて資料を収集から始めました。資料の収集がある程度できれば、章立ですが、これが、上手くまとまらず、考えれば考えるほど深みに入ってしまい、結局、9月まで章立て作業を要しました。
 10月になって、やっと本文着手に入りました。しかし、限られた時間、いかに効率よくやるか、一度深呼吸してよく考えた結果、「技」を使うしかない。そこでワープロの論文作成するための便利な機能が複数あったことを思い出し、その「技」で、やってみることにしました。これが無事成功しました。論文作成の三大機能としては@書式の箇条書き段落番号、A脚注、B目次の三点です。これを習得しておけば、ワープロでする論文作成時間を大幅に短縮できます。(詳細はいずれ近藤ゼミにて発表予定)
 ここで注意するのが、論文作成のルールです。引用や参考図書の書き方、章、条、項目の付け方、最低守らなければならないルールは論文を書く前にしっかり覚えておかないと二度手間になります。
 この便利なワープロ機能を使って12月末にやっと修士論文を完成させました。でも、ここから文書見直しに、とても時間を要しました。これは予想外で、この作業は修士論文試問当日まで続くことになりました。
 
 最後に、とにかく年末から年始にかけて短期決戦型の修士論文作成になり、毎日緊張してばたばたとした日々を送っての完成でした。同期の方々も論文作成の後期になると体調を崩されておられる方を多くお見受けしました。それほど、この作業は大変なものだと痛感しました。
 思えば、この二年間の研究で担当教授をはじめ大学院のさまざまな方々に指導をうけ交流を深め、地元の知人達からは励まされて皆様の支援でなんとか修了できた次第です。皆様のことは決して忘れず感謝するとともに新たな研究に励みたいと思います。そう、私の研究は始まったばかりなのです。


「少子高齢化社会に自信を持ちたい」   国際情報専攻  堀  淳士
 

ピタリと当った日大大学院総合社会情報研究科
 大学院に入りたいと思った契機は、平成15年1月21日の産経新聞の全面広告をみた時であった。いろいろな背景から3紙目として産経新聞の購読を始めたばかりのことである。これもひょんなことから当時、私は一介の大手電機メーカーのサラリーマンから、高い理想を掲げて設立された地域のシンクタンク会社の経営の一端を担って悩んでいた頃でもあった。
 高い理想と現実のギャップは、如何ともしがたい状況になっているといってもよく、抜本的な戦略を考えていた時である。その内容といっても確固たるものではなく本質は、我が方に主導権のとれる事業にしないと浮上は困難との考えであり、いくつかの構想が浮かんでいた。とはいうもののブレークスルーするには現状では不可能である、大学院でこの解決策を見つけ出せるのではないか、そんな直感が閃いたからである。
 とにかく、夢を求めて創業し、環境変化によって一般的には信じられないようなデッドロックに乗り上げている状態だから、構想を温めてきたテーマを大学院で取組んでみようと決意をした次第である。
テーマは「中高年が元気になるビジネスモデル」
 修論のテーマは、「中高年が元気になるビジネスモデル」である。会社が発展できるビジネスモデルとして有望なアイテムと考え たからである。
 その背景は、バブルの崩壊以降わが国の殆どの人は将来に不安を感じている。私は、その先頭集団にいるような気がする。といって手を拱いているわけではない。不安の背景は、少子高齢化社会への突入が主な要因である。この課題に私が直接的に拘われる分野は、高齢化対応である。
 2025年高齢化率は、約30%と推計されている。仮にこれが現状と同じ約18%になるとしたらどうでしょう。将来に対する不安が一度に払拭できますね。名目や物理的な高齢化率は、変わることはまずないが実質的なアウトプットとしての高齢化率は意識改革と新しい施策の実施により不可能ではないと見ているからである。
修士論文の取組み
 この課題は4、5年前から構想を温めていたが、内容が内容だけに簡単に行くわけがない。ごく一部ならば、いくつでもその構想はあり、やる気になって取組めば実現するかもしれない。
 今考えているのは、もしかして大きく社会構造を変えられないかというドンキホーテのようと言われかねない課題だ。入学試験の研究計画書に具体的に書き、本研究科での成果をどのように活用できるか、その期待や希望を述べた。筆記試験後の口述試問では五十嵐雅郎教授から、「テーマと取組む意欲は評価するが、中味が抽象的であり何をしようと考えているのかよく見えない」という厳しいお言葉であった。これは事実であり、自分自身でも落とし所は見えているが、そこに辿り着くまでの道程については解っていないからである。2年の間に朧ながらもその道が見えてくれば、目的は達成という気持ちであったから迷いはない、それでもお願いしますと初志貫徹をした。
 4月5日の開講式では、諸先生方からの説明を聞いて遊び感覚では到底無理と痛感。しかし、これまで積み上げてきた延長線上にあるのだから手応えを充分に感じた。4月19日の第1回目のゼミ、指導教授の五十嵐雅郎先生からは、最初から修論の話であった。「修士論文は先行逃切り型でいかなければ駄目である、最終追込み型は苦労して出来がよくない」と。ウーン、今までの仕事のパターンで改善しなければいけないと身にしみている指摘で、改めて気持ちを奮い立たせる。そんな気持ちがさめた頃、ドーンとテキストが届く。5科目で前期、後期に各2本のリポートとなると計20本である。このリポートを書くだけでも大変だ。1年次は、修論の構想を練る程度でリポートに精力を傾けざるを得ない状況であった。1〜2ヶ月に1回の割合で開かれる五十嵐ゼミは、ゼミ生の相互発表と先輩の修論作成の体験談や各自の修論の説明であった。先行逃切りを標榜しながらも実体は、リポート作成にかまけて修論の骨格として論文構成や要旨的な内容を発表する程度が精一杯の状況であった。
 ただ、この間のゼミで私の修論の構想をゼミ生間で何回かディスカッションをし、五十嵐教授からその都度適切な指導を受けているうちに何となく骨格の重要なエッセンスが醸成していくことに、何ともいえない手応えを感じた。また、五十嵐教授と同期生の指摘は、真剣で鋭かった。私の修論に自覚症状が厭という程あるだけに、ポイントをついた指摘は凄いヒントになった。
2年目の取組み
 1年目は、何とか5教科20レポートをこなしたので修論は骨格の構築と参考資料の収集で「これで行けるかな」と一安心したのが不覚だった。10月23日の中間発表会に何とか出させて頂こう追い込んだが準備不足は如何ともし難く、あえなく辞退をせざるを得なかった。原因は、参考資料を頑張って収集して安心していたことにある。解っていたことだが、修論の取り組みは、この方法は拙い。必要最小限度の資料をもとにほぼ仕上げ、これを叩き台に、もっと必要な参考文献・資料を収集して磨き上げていくのがより満足できる成果を感ずることができる。解っていても、出来ないのが辛い。
 結果的には、11月頃から慌てて枚数を稼ぐ頑張りに突入。仕事との両立の条件があるので、思うように進まない。足りない分は、年末年始の休みで何とかなるかという追い込み型に陥って、とにかくひたすらパソコンに向かって仕上げたという何ともいえない形で終了を迎えた。
成果はこれからだ
 修論を書き終えてほっとしている今、何か満足 感がこみ上げてくる。確かに、修論は時間に追われて書いたために、手直しをしたい箇所が山ほどある。しかし、中高年になってしたいと考えていたことの集大成を曲がりなりにも成し遂げた。これは大きい。大学院に入らなければ、これは出来なかった。
 私の論文のテーマは、「中高年が元気になるビジネスモデル」である。修論の仕上がりは、スタートの合図である。自分がこのようにあってほしいと願っている「中高年が元気になるビジネスモデル」を実現できないか、ドンキホーテのようであるかもしれないが、大学院で大きな後押しをいただいたので地味ではあるが根気よく取組んでいきたい。幸いにして、大学院には今まで研究したことをさらに深めることのできる受け皿として、経営研究会や国際情報学会などが整備されているので引続きお世話になりたいと考えている。
 最後に指導教授の五十嵐雅郎先生には本当に心のこもった指導をいただきました。指導の後に参考資料が送られてくるのも、数多くありました。誠にありがとうございました。また、ゼミ同期生とは、お互いに切磋琢磨と友情を育む仲間として共に学べて忘れられない2年間でした。これからは、この輪をさらに広げたいと願っています。


「社会人はトラブルと隣り合わせ」   国際情報専攻  野田 一成
 

1,修士論文のスタート
 私が、当大学院に入学するころは、世間ではデフレ、デフレと叫ばれている最中であったような気がする。その頃の私の勤務する会社の主力事業ははっきりいって全然ダメであったが、社内ベンチャー的に立ち上げた新規事業が非常にうまくいっているときでもあったので、最初の修士論文のテーマは「中小企業の多角化経営について」というテーマで書くことにしていた。しかし、「資料があつまりにくいのでは?」などと、五十嵐教授にアドバイスいただいたので、1年生の5月の段階で環境関連のテーマに変更した。6月には、目次がほとんどできており、非常に順調な滑り出しであった。(このままでは奮戦記にならないのでは?)
2,予想外の展開 (第1)
 しかし、社会人の現実はきびしかった。7月末に新規事業の工場が爆発事故を起こし、死傷者が発生、工場は再開不能な程に大破した。この商品の営業責任者であった私はこれから三ヶ月ほど、後処理のため走り回った。レポートを出すのが精一杯の状態であった。
3,予想外の展開 (第2)
 1年生の10月頃になると爆発事故の影響も落ち着いた。「さあ書くぞ。」と決意も新たにしたころから、世の中では新しい状況が展開し始めていた。中国の影響である。最大顧客である製鉄メーカーがフル操業を初め、当社も予備生産ラインまで稼動して対応したが、生産が間に合わず、一部顧客に納入できない状況も。またもバタバタ。バブル期を越える生産量を記録。
4,地方のハンディ
 とにかく仕事は忙しくなったが、資料収集だけは実施しようと思った。しかし、地方にはよい図書館がない。そこで私が頻繁にお世話になったのは、アマゾンドットコムのユーズド商品の購入であった。この方法で市価の数分の一で大量の資料を入手した。
5,ストーリーの構成
 2年生の5月くらいにストーリーの構成をしようと考え、パワーポイントで25枚程度のスライドを作成した。このころ、スキャナーを購入し、入手した資料の図表をスキャナーで取り込み、パワーポイントに追加で貼りこんだので、50枚程度まで膨れ上がった。遅れていたペースが若干回復した。
6,実力のなさを実感→スランプに突入
 2年生も8月に入ると、いよいよ本文を書く決意をした。パワーポイントでストーリーもだいたい作ってあるのに、いざ本文となるとなかなか文章がかけない。スランプに突入した。
7,開き直った。
 11月に入ると、いい意味で開き直った。そのせいか、とにかく量は書けるようになった。
 ちょっと遅すぎたが。
8,最後の追い込み
 とにかく、最後の最後まで書き続けた。大晦日も正月も何もなしだった。本当にあぶなかった。提出も締め切りぎりぎりだった。五十嵐教授の指導と支援がなければ絶対に書き上げることはできなかっただろう。
 社会人は危険がいっぱいなので、修士論文は先攻逃げ切りがよいと思う。


「つねに前進を」   国際情報専攻  内田 恵子
 

 本大学院に入学を決意してから今日まで、これほど月日が流れるのが早いと感じたことはなかった。「常に前進していきたい」とかねてから考えていたが、実際に何をしたら良いのか分からなかった。ある日、立ち寄った本屋で手に取った雑誌に日本大学大学院の紹介記事を見つけた。時間も場所も制約されて不規則な生活をおくる毎日。自分の趣味に費やすゆとりや時間もなかった。だからこそ、インターネットを使っていつでもどこでも参加できるサイバーキャンパスはとても魅力的であった。仕事と学業との両立に不安もあったが、どんなことがあってもがんばろうと入学を決心したのである。
 
 2年間で卒業するためにも、1年次は必修及び選択科目の単位取得に務めた。また、サイバーゼミや定期的なゼミにも積極的に参加し、実際にゼミ生に会うことで自らの学習意欲を高めていくようにした。
 ゼミに参加することは、学習というだけではなく精神的にモチベーションを高めていけるという目的があった。近藤ゼミでは定期的にサイバーゼミを実施していたので、地方に住む生徒や仕事で多忙な生徒でも、立場は常に対等であった。要は与えられた時間を如何にして上手に活用するかであると思う。
 必修及び選択科目の単位取得に関して言えば、時間が限られているということからも常に必死で時間を作った。まず、リポート課題の意味をきちんと理解する。次に、教材をしっかりと読む。読む中で、課題の回答にあてはまる箇所は、メモを取ったり線を引いたりすると、読み終わった頃には大体リポートを書ける段階までに整理がつけられる。最後に、リポートを書き上げるのである。
 このサイクルをスムーズなものにする為にも、私は簡単なスケジュール表を作った。月に2レポートの提出を目標に、2週間で1レポートを完成させるのである。このスケジュールは、レポート課題によっては実行可能な時もあったし、不可能な時もあった。しかし、提出期間には余裕をもって提出することが出来たと思う。

 1年次の冬に、私はかねてから取り組んでいた修士論文テーマを一変しようかと悩んでいた。1年次の選択科目で興味をもったアジア経済やTFT-LCD産業などを研究してみたいと思った。指導教官の近藤教授におもいきって相談したところ、「やってみなさい。」と前向きな励ましのお言葉を頂き、さらに参考文献としてお勧めの本を紹介して下さった。否定するのではなく、肯定的に人を評価して下さる近藤教授に感激し、私は早速その研究に取り組んだのである。
 当時は、韓国経済とTFT-LCD産業について書こうと思っていた。2年次春の近藤ゼミにてその旨を発表すると、ゼミ生から多くのアドバイスを頂いた。その中で、「その研究からあなたは何を得られるのか?」という言葉がとても重く心に残った。つまり、ただ単に韓国経済やTFT-LCD産業を延々と書いても、既に多くの優れた文献がある。修士として求められる論文は、要素をスパイラルに展開し、分析し、証明し、最終的な結論を出さなくてはいけないのだ。
 私は、TFT-LCD産業の基礎である半導体産業を一大要素に位置づけた。そして、半導体市場の現状を調査し、日本企業が今後、市場競争にて生き残っていく為の方向性について追求するための比較対象として、韓国経済を選定した。そして、韓国半導体産業の成長を分析することで、半導体産業の重要性を証明し、TFT-LCD産業からPDP産業へとシフトした事からその汎用性について立証した。また、同時に韓国経済成長の要因を分析し、そこから台湾経済の成長要因を探って、最終的に日本経済の今後の動向分析に結びつけたのである。
 これらは、一見ばらばらの要素に見えるが、全てが最後に一つの結論へと繋がる数珠のようなものである。

 修士論文が完成した今、思い出すと、この2年間全てが数珠のようであったと思う。サイバーゼミ、スクーリング、リポート提出など様々な部分で影響を受け、独りよがりにならない学生生活で、多くの先生、ゼミ生に刺激を受けた。この論文も、多くの方のアドバイス無しでは完成しなかったであろう。この2年間の大学院生活は、これからの自分の人生で大きな意味を持つものになるであろうと確信している。
 最後に、近藤先生、近藤ゼミの皆様、その他大勢の皆様、本当にありがとう御座いました。


「テーマ選びがもっとも大切」   国際情報専攻  寺井 融
 

 生意気なことをいうようだが、実際に「修士論文」の執筆にとりかかってからは、あまり苦労した覚えがない。400字詰めにして240枚の論文を、3ヶ月で仕上げた。朝4時や5時起きもあったけれど、ほとんどは7時起きで、ごく普通の生活を送っている。もちろん仕事に支障をきたしてはいない。好きな読書とビデオ鑑賞を控えたぐらいである。
 こう書くと、顰蹙を買うばかりなので、種明かしをする。実は、書き始めるまでは相当な苦労(?)をしているのである。
 入学当初は、「非営利団体広報論」をテーマにしようと思っていた。営利団体、たとえば「企業広報論」は見かけるけれど、非営利団体、たとえば政府や地方自治体、学校法人、宗教法人、政治団体、NPO法人などの「広報論」がないのではないか、と思ったからである。三分の一世紀にわたって、「政治広報」の現場に携わってきた経験もある、これで間違いない。――そう力んで、近藤ゼミの「新歓軽井沢合宿」にのぞんだ。
 近藤先生との面談で「なぜ、このテーマなのですか」と聞かれた。るる説明し、「論文を書いて、非営利団体向けの広報コンサルタントでもやってもいいかなと、思っております」と答えた。先生は、先行研究があることを指摘され、「本当にそれでよいのですか」とたたみかけてきた。本心が見透かされた気がした。「大変だな」との思いもあり、「仕事につなげたい」との邪心もあり‥。
 近藤先生にはまた、「新進党広報論」の執筆を勧められた。確かに、当方は新進党の広報企画委員会の事務局長であったわけだし、書くのはたやすい。しかし、「論文になりません。体験記になってしまいますので‥」と断った。
 さて、どうするか。
「戦後大臣失言失職論はいかがですか」と、逆に提案した。
「あぁ、それはいいですね」
 先生が賛同してくれた。
 西村真悟防衛庁政務次官の「核武装研究も考えておくべき発言」が「核武装すべき発言」に歪められ、辞職を余儀なくされていった過程が、念頭にあったから思いついたテーマである。  一年生の六月から「戦後大臣“失言失職者”表」を作り、研究・分析を進めた。結論からいえば、七十数名の“失言失職者”のうち、面白いのは池田勇人蔵相(後に首相)と藤尾正行文相だけだと、分かった。研究意欲が急速に衰えていった。
 その年の暮れに、愚妻と結婚三十年記念の「ペナン旅行」に出かけた。彼の地には、ロングステイ者がたくさん滞在している。「これだ!」とひらめいた。楽しそうだからである。ハウツウ本はあるけれど、本格的な研究本がないのでないかとも思った。年が明けて、先生にテーマ変更を申し出た。「やりたいものをやってください」と、二度目のテーマ変更も、あっさり認めてくださった。
 「アジア・ロングステイ論」を書くと決め、まず書店に走った。新書やガイドブックを買いあさり、研究書は主に国会図書館を利用した。ロングステイ財団に通って、基本資料を掌握した。さらに国会での議事録や政府の関連白書にも目を通した。
 研究論文とあれば、オリジナルティも求められる。当方の提案で、産経新聞社主催の「ロングステイセミナー」も開催した。そこと、リタイア者のサークル、新現役ネットの二箇所で、「ロングステイ・アンケート」を実施した。両者の「アンケート表」は、当方が作った。また、ペナン(マレーシア)とチエンマイ(タイ)で、現地調査も行った。
 それらがそろった段階で、八割かた、完成したのも同然だったのである。書くのは、民社党本部で、「運動方針」を約二十年にわたって書いてきた経験が、ものをいった。「修士論文」執筆は、「テーマ決定」がすべてであったといってよい。社会人の修士論文は、書く本人が楽しいと思うものに取り組むことに尽きるのである。


「師事を受けるということ」   国際情報専攻  真藤 正俊
 

 私はよく、もしも先生というかたが私の生活の中にはいってくださらなかったら、私の生涯はどんなになっていたであろうかと考えてみることがあります。私は先生の代わりに他の人におきかえて考えるということはできません。先生が私の先生になってくださったということの中には少しも偶然なところがないように思えます。
                 ――ヘレン・ケラー『私の生涯』(岩橋武夫訳、角川書店)
 「一生学校いるわけにはいかないんだよ」と私の指導教授はピシャリと言った。自分の体に一瞬緊張が走った。話が終わり数秒ほどすると指導教授はさっそうと立ち上がり部屋を出て行った。しかし、その言葉には深い厳愛に満ちた響きがあった。まわりの環境に負けている自分の迷いがそこでふっ切れた。厳しい激励で発心し、論文への挑戦が始まった。
 大学院という場所は不思議だ。学生たちは「学部時代に一生懸命勉強をしなかったから、今度こそ全力で勉強がしたい……」とよく言う。しかし、いざ大学院の教授を目の前にすると、自分の意見が言えない。それどころか教授の発言を必要以上に恐れている。なぜだろうか。
 ある大学教授が大学院の環境について私に語りかけた。
 「大学院はせまい社会だからな。発言一つでも間違えると大変なことになる。だから師事を受ける時に何でも話せるようないい先生を選ばないと・・・・・・・」
 「そうですか・・・・・・・」
 なぜ学生たちが思う存分教授たちと語り合い、自分の思いを打ち明けることができないかが、その語調でわかったような気がした。しかし、どんなに環境が厳しくても負けてはいられない。私は大学院で論文を書くのに一番必要なのは、環境や文献などではなく「情熱」だと信じている。とはいえ、多くの学生が最大限に情熱を引き出すような環境を大学院で作り出すのは案外難しい。
 大学は学生たちの教育よりも、研究のことを重視しすぎる場所でもある。大学院は研究と教育の中核であるにもかかわらず、研究だけが一人歩きをして、教育がおろそかになっている。だから、学生が意見を思う存分言えない雰囲気を作ってしまうのかもしれない。
 よし、環境は自分で作ろう。たしかに修士課程は最高で4年いられるけど、来年も再来年もあるからどうにかなるだろうと思っていたら、論文は完成しない。今年しかないと決めて書くしかない≠ニ私は決意した。
 最初から無理とかダメとか言っていたら、まわりの環境に負けてしまう。
 ″成長するのはいましかない。この時を逃してたまるか!
 真剣と大誠実で指導教授にぶつかろう。そこで私はあるアイデアを思いついた。いい結果と悪い結果をすべて指導教授に報告することにした。当然指導教授の見る目は私に対していっそう厳しくなる。だが、それでも報告した。なぜか。それは学部時代に私の面倒をみてくれたある教授がこんな話をしてくれたからだ。
 「アメリカのある病院の話をしよう。その病院は全米で最低の業績しか上がらない病院だった。それをどうにかしようとした時にどうしたと思う?それは院内の全ての医師や看護士やソーシャルワーカーに賞罰を一切与えずに報告をするように義務づけたんだよ。それによって、良い部分をさらに良くしていくにはどうすればいいか、悪い部分をどのように改善していくかが明確になった。そうやって試行錯誤を重ねていくうちに、その病院は全米で最高の業績を誇る大病院になったんだよ。君たちも一生のうちに1人か2人くらいは自分のことを話せる友人や先輩や先生を持ちなさい」
 時は待ってはくれない。成長できる「時」を決して逃してはならない。たとえば、時を逃してはいけないという例を一つあげてみよう。進化論における人間とサルの分岐点についてである。最新の進化論ではいま木の上で生活しているサルたちはもう二度と人間に進化することはないというのである。
 つまり進化が決まる瞬間に木の上で生活をするか、それとも木から下りて地上で生活をするかを選ぶことで進化が決まってしまったのである。まさに決定的瞬間であった。木の上のサルたちは人間になるチャンスをそこで逃した。
 大学院では「師事を受ける」と学生たちが言う。師事を受けるとは学問の師匠を持つことである。動物の世界には親子はあるが、師弟はない。人間だけが師匠を持ち、師弟の絆を結ぶ。師弟関係は親子関係よりもはるかに崇高である。
 毎年スウェーデンではノーベル賞の発表がされる。ノーベル賞受賞者たちのコメントの内容をみると意外なことがわかる。歓喜あふれる笑顔をした受賞者の多くが自分を育ててくれた師匠がいたからこそ成功したと発言をしている。人類の偉大なる業績の多くは師弟関係から成り立っているといっても過言ではない。
 人は生きているあいだにどれだけ多くの人に出会うのか。そして自分に影響を与える人がいたとしたら、その数はさらに少なくなる。人生はよき先生、よき先輩、そしてよき友人で決まる。幸福も不幸もまわりの人たちで決まってしまうことが案外多いのではないだろうか。
 ここで私が論文を書くときに一番気を使ったことを紹介しよう。それは書き出しの三行の部分だ。冒頭の部分が良くないと、どんなに内容が良くても読んではもらえない。私は書きだし三行を良くすることを「三行革命」と呼んでいる。「三行変われば文章よくなる」というものである。
 伝えたいことを、いかに伝えるかが重要になる。言葉は弾丸である。ゆえに自分の言いたいことが手元に残ってしまうというのは言葉ではない。まして文章でもなければ、論文でもない。
 難しいことをよりわかりやすく、当たり前のことをより面白く、すでに解明されていることをさらに深く追求してこそ、論文は面白くなる。さらに言葉も生きてくる。何度も推敲を重ねて、読む側の気持ちで書くことが大切なのだ。
 環境は自分で作るものである。自分の今いる場所を情熱で変えていくことが成功につながる。私は論文を書くのに特別なことや神業といえるようなことはしていない。並みの能力で当たり前のことをしただけだった。大切なのは希望を持つことである。自分の可能性を最後まで信じることが全てを可能にする。

「我が家の書斎はファミリーレストラン」   人間科学専攻  井上 高明
 

 大学院に在籍されている皆さん同じだとおもいますが、仕事が忙しく、帰宅がかなり遅くったりすることが良くあると思います。そうしたとき、帰宅するとほっと一息ついてしまい、なかなか机に向かう気が起きなかったり、集中できなかったりということはないでしょうか。また、私は一人住まいですからまだ自由な方でしたが、家族がいらっしゃる方はまとまった時間を作るのがとても大変ではないかと思います。
 そんなこんなで論文作成がはかどらない日が続き、なんとかこの事態を改善できるようにならないものか、と考えていました。
 そうしたときに、ふと思い立ったのがファミリーレストラン(以下ファミレス)です。通勤で利用している駅のすぐ近くに、24時間営業のファミレスがあります。いつぞやその前を通ったとき、学生でしょうか、テーブルの上にパソコンやノート、辞書などを広げて勉強していたのを思い出しました。大学が近くにあることも手伝ってか、結構そんな利用者が多いように感じました。また、夜遅くはそんなに混んでいないので、長い時間居座っても迷惑を掛けることもないだろうし、おまけに300円ほど払えば、ホット・アイス問わずドリンク飲み放題で、これを逃す手はないと思った次第です。
 ただ、最初は1人で入るのに勇気を必要としました。ファミレスに入っているのはそれこそ家族連れか、サークル帰りの団体や若者などという先入観が強く、「オヤジが1人ではちょっと、、、、」と、思いついてから実行に移すまで少し躊躇しました(その割には、居酒屋なんかには気にせず1人で入っていますが)。
 しかし、案ずるより産むが易し、入ってみてそんな心配は何処へやら、でした。
 テーブルに新聞とノートパソコンを広げたビジネスマン、勉強している学生、コンパ帰りとおぼしき一団など、いろんな人がいて、特段気に病むほどのことではありませんでした。
 かくして、仕事帰りにPHSカードと携帯用のノートパソコンを持ち込んで、ファミレスは我が家の書斎(勉強部屋)と化したのでした。
 これが意外にはかどるもので、テーブルは広々と使えるし、あたかも図書館の自習室という感じです。騒がしいから嫌だという向きもあるかもしれませんが、私は適度にざわついている方が良いみたいです。自宅だとネットの閲覧やゲームという誘惑に負けてしまうこともありますが、さすがに深夜のファミレスでノートパソコン広げてゲームしたり、居眠りなどするわけにもいきません。結構集中して論文作成に取り組めました。論文の完成にたどりついたのは、ファミレスのおかげも少しあるかなと思っております。
 これから論文に取り組まれる方に参考になればと思い、私の体験の一部をご披露させていただいた次第です。



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