博士論文奮闘記

博士後期課程 総合社会情報専攻 2019年度入学 2024年度修了 蟻末 淳

はじめに

「三度目の正直」「二度あることは三度ある」
 ことわざ矛盾大賞があれば、おそらくぶっちぎりで第一位になりそうな、これらのことわざだが、一年前、私はそのどちらになるかの瀬戸際にいた。

なぜか。

私にとって博士課程は三回目の挑戦だったからである。そして、博士課程の最大在籍年数の6年目を迎えていた。

初めの博士課程

時間を遡ろう。初めの博士課程はフランスの大学でのフランスの近現代文学専攻だった。日本では国文学の学士を修了していたが、就職氷河期の中、就職活動もまともにしなかった上に、不真面目すぎて日本の大学院進学も難しかった私は(それでも、大学院進学を勧めてくれた先生はいなくはなかったが)、かつてから興味があった(と思い込んでいた)フランス文学を学ぶために、フランスに旅立った。フランス文学を専攻していたわけでもなく、週数時間のフランス語の授業を二年間受けただけで、フランスの大学院に入ろうとするのは、今考えたらかなり無謀だった。しかし、数カ月のフランス語の夏期講習の後、書類は受理され、フランスの地方の大学のフランス近代文学科の修士(Maîtrise)に入学することになる。その後、2回大学を変更することになるが、修士論文に加え、当時存在したDEA(博士準備課程)の論文も時間がかかったものの何とか提出し、フランス近現代文学の博士課程に登録することができた。これが私の博士課程一度目である。当時、博士課程の傍ら、フランスの大学で日本語を教えていた。口を糊するため、手当たり次第に日本語専攻がある大学にレターを送りつけ、幸運にも得られた職であるが、結果的にこれが私の人生の転機になる。
 その頃の私は日本語教育に魅力を感じ、博士課程に入ったものの、フランス文学からは気持ちも大きく離れていた。日本の大学や学会との関係も一切なかったため、仮にフランス文学で博士を取得したとしても、それで食べて行ける可能性は皆無だし、その気もなかった。フランス近現代文学の博士課程には結局7年間登録したが、執筆した200枚程の原稿は無駄になった。とは言え、全体で10章程度の予定の2章程度分しかなかったため、計算だけで言えば完成には30年以上必要だったことになる。そもそも仕上げられるわけがない。言うまでもないが、ゴールを設定してから、全体像をまず作り、執筆していくことが重要である。当時はそれさえもできていなかった。

二度目の博士課程

フランス文学の博士課程の最終年度では、応用言語学(言語教育を含む)を専門とするフランスの先生にコンタクトを取り、登録の可能性を探していた。何人かの先生に断られたが、かなり期限も迫った中、結局フランス文学と同じ大学の先生の元で論文を執筆することになった。これが二度目の博士課程への登録である。フランス文学とは異なり、自分の仕事と直接関係がある分野である。これなら書けるかも、という淡い期待があった。しかし、翌年、日本の独立行政法人派遣の日本語教育の専門家として採用され、フランスを離れ、ケニアに赴任することになった。ケニアは英語圏だということもあり、フランス語で研究し、論文を書くことが環境的にも難しくなった結果、動機づけを失ってしまう。そして、ケニアに続き、メキシコに赴任した直後、再度、博士課程を断念することになった。5年間の登録の間、実践は進んだものの、研究は全く進まなかった。(少なくとも当時は)フランスの博士課程にはゼミなどはほとんどなく、やるべきことは基本的に論文執筆のみであった。そのため、自由な一方、孤独な戦いを強いられる。出せる成果物がないと、指導教官に相談することも難しかった。意志が弱い上に、フランスを離れた私は、一年に一度、登録の更新のために指導教官と連絡する程度になってしまっていた。学会発表などは時々行っていたが、それを研究にうまく繋げることができず、様々なことがバラバラなまま、博士課程をやめることになった。そして、自分は「日本語教師」として現場で生きるのだ、と自分に言い聞かせていた。

そして三度目の博士課程に

メキシコでの3年間の任期を終え、その後インドに赴任した私は、もうあまり博士課程のことを考えなくなっていた(はずだった)。インドの生活は最初は慣れずに大変だったが、派遣日本語専門家の仕事は相変わらず魅力的だった。一方で、毎回試験を受けて派遣される就業形態は、やはり不安が伴う。試験に落ちてしまえば無職である。そして、日本の大学などのより安定した環境で働こうと思うと、博士号が要求されることを知っていた。ある時、この仕事を続けるにしても、博士号さえあれば、もう少し精神的に落ち着けるかもしれない、と思った。蟻末さんが博士を持っていたらなあ、と大学で働いている知人に言われることもあった。今の仕事には満足しているが、博士号があれば世界が広がるかもしれない、そう思った。いや、むしろ、二度も博士課程を断念したことで、自分は研究ができない駄目な人間だ、という劣等感を払拭したい。そういう気持ちがあったような気もする。そんな折、遠隔からも博士号が取得できる日大大学院を知った。ヴェネツィアの学会に発表にいらしていた、後の指導教官と副指導教官である保坂先生と島田先生にお会いし、お話をうかがった上で大学院を受験することになった。

冷静に分析すれば、私の三度目の博士課程は、不安感と劣等感に苛まれた結果だと言えるのかもしれない。どうしても研究したいテーマがあるとかの情熱もなければ、日本語教育に貢献したい、という使命感もなかった。つくづく小さい人間である。しかし、メタ認知と学習を研究テーマにしたいとは考えていた。そんな中、書店にあった「メタ認知」と「自己調整学習」の書籍を購入したことが、最終的なテーマの選択に繋がった。フランス文学の研究のマネごとをしていたころから、メタ小説や自己言及、語りなどをテーマにしていたこともあり、少しは関係があることがいいと思ったのも理由の一つである。

研究が進まない

過去の失敗から考え、できるだけ自分の業務に関係した、現場に密着した研究をしたいと考えていたが、なかなか研究が進まなかった。その理由の一つに、業務の中心が教師研修で、学習者向けの直接的な授業を持っていなかったこと、そして、数年ごとに赴任先が変わり、環境も業務内容も変わることから、業務と関係した長いスパンでの研究計画が立てられないことがあった。インドでは、いくつか小さい研究を行ったものの、結実せず、コロナ禍で日本に緊急帰国することになった。そしてその半年後、コロナ禍が収まらない中、エジプトに赴任することになった。コロナと一緒に自分の研究も仕切り直しとなったが、結果的にエジプトの教師養成講座での実践が博士論文のテーマとなった。ある国立大学の大学院相当のコースであるが、それもたまたま先方が協力を要請してきた事業である。運営には様々な問題があったが、その偶然のお蔭で私は博士号を取得できたわけで、特に、コースに参加し、研究に協力してくれた優秀な学生たちには心から感謝している。
 エジプトには3年と少し滞在し、研究データを集めることができた。そして、そこから2本の査読つき論文を書くことができた。しかし、博士論文を書き終える予定だったが、提出することはできず、帰国した。
 帰国後も思ったより論文に集中することができないまま、春を迎える。そして、最終年度が始まった直後、4ヶ月メキシコへの赴任となった。メキシコでの業務はそこまで大変ではないと高をくくっていたが、それは大間違いであった。出張も多く、日常の業務も多忙であった。出勤前の論文執筆を習慣化しようとしていたが、思ったように進まなかった。結局、論文執筆は終わらず、夏に日本に帰国することになる。日本での2か月弱の一時滞在で仕上げようと決心していたが、そうは行かなかった。

三度目の正直

そして、一年前である。数日前に日本を発った私は、パリの短期滞在のアパルトマンにいた。パリはもうすっかり秋だった。朝3時ぐらいに起き出し、フランスの遅い夜明けを待ちながら、博士論文の最後の追い込みをしていた。崖っぷちである。新しい職場に通う前の毎朝数時間が勝負の時間だった。仕事はまだ本格的に開始していないとは言え、引き継ぎなどで毎日予定が詰め込まれており、休む余裕はなかった。ちなみに、パリへの出発一週間前には人生初の入院と手術をしていた。手術自体は成功したのだが、パリでも一度だけ血尿が出た。想定範囲内ではあったのだが、前日に飲んだ赤ワインが出てきたのかと一瞬錯覚するぐらいは焦った。
 毎日、指導教官の保坂先生からは、修正箇所とアドバイスをもらっていた。どうも構成がしっくり行かなかったので、ある時、ふと順番を変えてみようと思った。順番を変えるには、他にも直さないといけない箇所が多く、提出まで一週間もない中、そうするのは無謀に思われたが、それによって論理がすっと通るようになった。また、最後の最後に図を追加したことで、全体の内容がまとまった。ぎりぎりでの思い切りが功を奏して、何とか書き上げることができた。海外からの提出になるので、印刷やデータの送付も様々な人にお世話になったが、無事提出することができた。
 他にも色々大変だったような気がするが、もうあまり覚えていない。博士論文を無事執筆できたのは、指導教官の保坂先生の提出ぎりぎりまで続いた懇切丁寧なご指導と、ゼミの仲間たちのサポートのお蔭だった。本当にありがとうございます。

かくして、私の博士課程は「三度目の正直」となった。考えてみれば、フランスで断念した博士課程を、まさにそのフランスに赴任したタイミングで取得できたことは、奇跡であり、感動的ですらある。
 ……と思ったが、それはただ単に、論文が予定した時期に書き終えられず、たまたまフランスまで持って来てしまっただけで、何も褒められたものではない。ちなみに、私は日本で学部に入学してから、去年の博士課程修了まで、計28年、学生であった。人生の半分以上学生だったのだ。この学生生活に終止符を打てたのは寂しくもある。

今、コメディ・フランセーズでモリエールを見るのが週末の楽しみである。断念したフランス文学の博士に再挑戦をするのもいいかもしれない。または、全く違う分野でゼロから学生生活を再開するのもいいかもしれない。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるとは、このことなのだろう。




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