『竹野先生の遺言』
橋清隆 

 C・S・ルイス研究に生涯を尽くされた竹野先生の数ある業績の一つに、ルイスの遺作となったLetters to Malcolmの翻訳がある。この本の構成は、ルイスが架空の友人であるマルカムに宛てた22信の手紙から成り立つ。内容は祈り、神学、哲学、徳、心理学など多義にわたることから、本書をルイスのキリスト者としての集大成として、また、同時に遺言としても見ることができるだろう。翻訳にあたって、竹野先生は邦題を『神と人間との対話』とし、原書にはない標題を各通信に付した。以下に簡単ではあるが、本書の概要を示すことで追悼文に代えたい。

1信:「『祈祷書』の改定をめぐって」
 ルイスは良い靴は履いていて気にならないのと同様に、完全な教会の礼拝も、我々がそれを意識しない礼拝であると主張する。
儀式文の改訂については、改訂の結果は大きく、しかも確実に望ましものにならなければならないという考えを示す。
2信:「既成の祈りの効用」
 既成の祈りの効用をルイスは三つあげる。一つ目は「健全な教義」との接触を保つこと、二つ目はどのような事柄を祈り求めたらいいか思い起こす、三つ目は儀礼の要素を備えていることである。
3信:「聖人信仰、祈りの時間・場所・姿勢」
 ルイスは、聖人たちへの祈りを要求できるなら、死者の祈りを要求してもよいはずだと考える。自分の主要な祈りを就寝前に持ち越すことはよくない。集中した心と座った姿勢の方が、跪いた姿勢で半ば眠っている心より、より良い祈りをするのに適しているとルイスは言う。
4信:「祈り―神との人格的な関係」
 多くの祈りは、神に情報を提供することから成り立っているように見える。この点に関するルイスの意見は、我々は神の知識の対象であるので、我々自身が神の知識の対象であることに気付き、心から神に知られたいと願い、そのことを態度に表し、言葉に表すことにより神に我々をはっきりと見えるようにする時、神に知られているという質の変化が生じる、というものである。
5信:「『主の祈り』の私的な解釈」
 ルイスは主の祈りに対して付与している付帯的意味(飾り)について述べる。
 ・「御国が来ますように」ルイスはそれを三様にとる。一つは、星々や木々や水や日の出や風の動きのような汚れない自然の美の実現、二つ目は、本当に良き家庭や修道院の静かで多忙な最善の人間生活の実現、三つ目は、普通の意味で神の支配の天と地上での実現である。
 ・「御心が行われますように」これは、積極的に神の御心を行うということである。
 ・「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」これは、一日のために我々が必要とする一切の物という意味である。
 ・「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」赦し続けることは難しいが、自分も他者をいかに失望させたかを思い起こす時に対処できる。
 ・「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」我々が無知であるがゆえに自分自身や他の人に益にならないこと祈るかもしれない。ルイスはそのような祈りを法外な祈りと呼び、そこからも救い出して欲しいと願う。
 ・「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。これは国は君主国家を意味し、力は主権であり、神が全能であるという意味である。
6信:「宗教という言葉、罪の意識ということ」
 人々の内にある「宗教的慣習への嗜好」によって、あらゆる種類の美的、情的、歴史的、政治的興味が誘発される。これら全てに「神聖」というレッテルを貼り偶像化するなら、手段が独立し危険になる。 
 漠然とした罪の意識は純粋に病的なものではない。なぜなら、ルイスは、(1)罪の意識を当然抱くべきであった時に抱いた人々と話したことがあり、(2)なんら罪を犯していないのに罪の自覚がある人々に出会ったことがあり、(3)罪を犯しているのに、全く罪の自覚があるように見えない人々に会ったことがあるからである。
7信:「請願の祈りは愚かなことか?」
 新約聖書にはゲツセマネでのイエスの請願がある。これは神に請願し続ける強力な理由である。 
8信:「ゲツセマネの主イエスの祈り」
 この祈りは、苦難に先立つイエスの不安が神の意志であり、かつ、人間の運命の一部であることを表しているとルイスは考える。
9信:「祈りの出来事との因果関係」
 ある出来事が何かの後に起こったからといっても、必ずしもその何かが出来事の原因であるとは限らないのは理にかなっている。ルイスは厳密な因果関係思考が神と人間との関係に適用されるならば、それは一層不適切となると考える。
10信:「聖書解釈への二つの規則、理神論批判」
 ルイスは、(1)比喩を文字どおりに取らないこと。(2)比喩の主意が、神学的抽象概念と衝突すると思われる場合は、いつでも比喩の主意を信頼することを念頭に置き聖書解釈をする。
 ルイスは、「第一原因たる全能の神は、特定の法則によらず、一般法則によって行為する」というポープの格言に反対する。そこには有害な神人同型同性説がより微妙に隠されているからである。
11信:「マルコ福音書11章24節をめぐって」
 ルイスは「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」というマルコ11:24のイエスの言葉の真意を(a)観察された事実、(b)「あなたの御心であるならば」と限定をつけて祈るという一般に考えられている見解から探る。ルイスはキリスト者の祈りが全て聞かれないのは歴史が示しているという。無知のために、自分自身や他の人に益にならないことを祈ったり、本質的に不可能なことを祈ったりすることがあるからである。では、強い願いを持って祈れば、なんでも与えられるのか。ルイスは、強い想像力に基づいて生まれる死に物狂いの欲求が織りなす心の状態はキリスト教信仰ではないと主張する。
12信:「神秘主義について」
 ルイスは、神秘主義に共通しているのは我々の時空意識や散漫な知性を一時的に打破することであるという。
13信:「祈りは独白か」
 バーフィールドは神を自分以外の他者と見なさない人は、決して宗教を持っているとはいえず、また他方において、仲間や対象一般は自分以外の他者であるというような意味で、神を自分以外の他者と考えるなら、神を自分と類似のものと考えているとし、神を偶像にしているという。ルイスは、神は我々の存在の根拠であり、我々の内にいると同時に、我々を超越していると考える。
14信:「神の遍在と臨在」
 ルイスはオーウェンの「あらゆる被造物は神と異質、つまり、比類なき他者であり、かつ、神は被造物の内にその実在の根拠、源、絶えざる供給源として存在する」との見解に固執する。それは、ルイスが汎神論と、理神論との二つの前線と戦うことを意味する。汎神論者に対しては被造物の個々の、相対的な独立を強調しなければならず、理神論者には被造物の中にいる神の臨在を強調しなければならない。我々は神の臨在を無視するかも知れない。しかし世界は神で充満しているので逃れることできないという。
15信:「神の表象と「わたし」」
 ルイスは祈りを始めるとき、二つの観念が現れるという。一方は、神を表象する心の中の不鮮明な明るさであり、他方は、わたしが「わたし」と呼ぶ観念である。その観念をどのように払拭するのであろうか。まず、不透明な明るさを一掃することは、偶像を打破することといえる。ルイスは、物質が持つ想像もつかない数字的なものに深く侵入することにより不透明さを解消することができると考える。また、「わたし」とは意識のことであり、そこに深く潜水すれば、ありのままの代物に到達できると考える。 
16信:「祈りにおいてイメージの果たす役割」
 ルイスはイメージを、外的イメージと内的イメージの二者に分類する。外的イメージとは材料にすぎず、用途にも限りがある。それは集中の助けになる場合がある。内的イメージに関しては、ルイスの内に、意志、思考、情緒の働きを生じさせる点で役立つが、それが最も役立つのは、うつろいやすく断片的な時である。
17信:「喜びについて」
 ルイスは喜びを、神を崇める経路にしようと努める。果実が源泉である果樹園を偲ばせるように、喜びもその源泉である神を偲ばせるものである。しかし、その喜びを奪うものが三つある。不注意、誤った類の注意、貪欲や傲慢である。
18信:「懺悔」
 ルイスは懺悔を「犯した罪の罰を軽減するために、ただひたすら許しを請い願う祈り」とみなすことに反発する。神の前での懺悔は、公正な怒りを抱く君主と似たものがある。正当かつ高潔な熱き憤りは、懺悔する者を再び喜び迎えようとする熱き愛へと移行する。では自分が犯した罪とそれを悔やむ感情の関係はどのようなものか。ルイスは自分の犯した罪に対して自分が感じる恥じらいや嫌悪の程度は罪の重さについて自分の理性が告げるものとは一致しないことに気づく。
19信:「聖餐式」
 ルイスは馴れ親しむ時間が与えられさえすれば、いかなる形式でも十分礼拝できるという。その証拠に、今まで参加した中で一番優れた聖餐式の一つが立派な教会の件物ではなく、組立兵舎の中でなされたものであるからだ。
ルイスが、聖餐式について今まで書かなかったのは、自分は神学者ではないこと、二つ目は、ルイス自身がある種の聖餐式に関する教義に共感を持たないが、他のキリスト者がその教義を伝統的であり有益であると認めているならばその概念を動揺させたくないからである。
20信:「死者のための祈り、煉獄」
 ルイスは死者のために祈る。なぜなら、他界した大部分の最愛の友のために神に祈りたいという気持ちがあるからである。では、彼らはどこにいるのだろうか。もし地獄にいるなら彼らのために祈るのは無益であるし、同様に天国で救われていても、彼らへの祈りは無益になる。彼らが煉獄にいるがゆえに祈るのである。
 プロテルタントでは煉獄を認めないが、ルイスはそれをニューマンの『夢』の中で描かれるように浄化の場所とする。ルイスが好む煉獄のイメージは、歯科医の座席に腰かけた状況に由来する。歯が引き抜かれ、徐々に「意識を回復する」時に、「これで口の中をすすぎなさい」という声がする。それを煉獄に例える。 
21信:「なぜ祈りは義務として感じられるのか?」
 ルイスは、祈りは面倒だという。その原因は我々の罪に由来する。さらに、最悪な類の神に対する恐れにも由来する。祈りが喜びとならない理由は、我々が創造された目的である活動そのものが自分自身、および、他の人々の内なる悪によって妨害されてしまうからである。しかし、その活動をしないことは、人間性を放棄することになる。
22信:「永遠の生命への希望―復活」
 ルイスは肉体の復活に関して意見を述べる。粉々になってしまっているか、あるいは消散して、自然界の他の有機物の一部となってしまった死者の肉体を、再び身につけた魂という昔ながらの考えはばかげたものであるとルイスはいう。ルイスは復活の肉体を、空間の中に神がいるのではなく、神の中に空間が存在するように、霊魂の内部に肉体があると考える。物質は感覚になることにより、あるいは、概念になることによって、すなわち霊魂になることによって我々の経験に入り込む。物質が霊魂になり、その霊魂の構成分子が、甦り、栄光を与えられるとルイスは考える。

 この本を読み進めると、ユーモアにあふれる賢いルイスが、友のマルカムと共に自己探求をしている錯覚に陥ることがある。実際、多くの読者はマルカムを実在の人物として想定した。これは、ルイスの架空の話を作り上げる能力や、文学的技能の高さを示すものであろう。また、1964年3月7日号の≪サンデー・レヴュー≫が「ルイスの数多くの神学的弁証論のなかでもっとも深みの作品である」と評していることから、本書は神学的価値も十分にある。それにもかかわらず、未だに日本において本書に関する学術的研究がなされていない。内容が難解極まるからであろう。しかし、竹野先生は生前に「ベストを尽くして難解なテクスト解読に雄々しくチャレンジする」ことをいつも学生に要望していた。ベストを尽くし、本書に関する研究成果を発表することが竹野先生の筆者に対しての遺言であるように思えてならない。




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