学問は生きる希望

文化情報専攻 吉田 裕美

 まず、この原稿を書かせていただける日が来ることを、昨年の自分は想像出来たでしょうか。書く事を勧めて下さった松岡先生、そして長谷川先生に心よりお礼を申し上げます。
 大学院の入学オリエンテーションにてお話頂いた「働きながら学問を続けることは、並み大抵の努力では続けることが出来ません、しかしその苦労を乗り越えた時、学問以上の何かを皆さんは手にする事ができるでしょう」という真の意味を、今まさに実感しております。 私の現住所及び職場は、今や世界の「FUKUSHIMA」となってしまった福島原発から約40キロに位置する、福島県いわき市という東北の太平洋側ある小さな港町です。昨年の震災以来、漁業、農業、工業そして鉄道という全ての産業が、原発問題が解決するまで放置状態にあり、まるであの日から時が止まってしまったかのようです。
 私の職場はスーパーです。地震の翌日から店内の商品が無くなるまで、営業を続けました。福島原発が爆発した際、避難されてきた方々が当店へ掛け込んで来ました。当店は調剤薬局も併設しており、近隣体育館など避難所はすでに一杯という状況で、店を閉めるわけにはいきません。3階建ですが2、3階は崩壊し、1階の一部しか利用できず、従業員もそこで避難生活をおくりました。
 電話が繋がらず、停電、断水の中、数日後やっと携帯のメールを受信することができました。いの一番に連絡を下さったのは、修論の指導教授をして下さっている長谷川正江先生でした。後日ようやくPCが復旧した際、メールの履歴を見た時、私は震災後初めて泣いてしまいました。3月11日午後3時3分、地震直後に安否のメールを送って下さっていたのです。先生からはその後何度も励ましのメールを頂きました。また長谷川先生を修論の指導教授とする同期の友人からは、幾度も夜を徹してエールのメールを送ってもらいました。日中は、がむしゃらに働いて気を紛らわしていましたが、夜になると心配事が次々と増すばかりでした。先生と友人からのメールがなかったら、不安な気持ちに押し潰されていた事でしょう。
 友人から毎日送られてくる「修論上げるまで死ねません!」「苦しい2年間を思えば、地震だって乗り越えられる!」「一人じゃないから」というメールが、あの混乱の日々にあって、私に一つの目標を気付かせてくれました。「来年の今頃、私はきっと先生や皆と修了の喜びを分かち合っているはず。」 震災当日、私のバックには、修論の資料である西鶴の『日本永代蔵』1と長谷川先生から紹介されて参考にしていた『江戸時代の親孝行』2という二冊の本が、たまたま入っておりました。仕事の合間に同僚達と雑魚寝の中、私はいつもこの二冊の本を開いておりました。疲れてはいるものの、緊張のあまり休むことが出来ず、皆心身共に限界でした。疲労も度を越し、ページを捲ることさえ出来ない程だったので、活字を追うのではなく、ただ開いた本を「眺めていた」だけでした。
 「我を忘れて」とは言いますが、私の場合、来年という目標を誓った「我を忘れないよう」心が折れてしまわないよう、本にしがみついておりました。この二冊の本は、ページが全てバラバラになってしまい、セロテープで貼りつけてあるため、倍の厚さになっています。今手元にあるこの二冊は、私にとって、震災と修論を友人と一緒に闘った、もう一人の戦友です。
 不安の中にあって尚、人は今日の食料だけでなく、明日への期待を夢に見る。その気持ちを駆り立ててくれたのは、私にとって本であり、修論を書きあげることでした。入荷がないので食品売り場が空洞になり、いよいよ店を閉めるしかないか、という時です。子供達が鉛筆やノートを欲しいとねだっている姿が目に入りました。「学校はもうしばらくお休みなんだからいらないでしょ」というお母さんの腰に「学校に行きたいよ」と泣いて縋っているのです。この先収入がどうなるかわからない不安から、お母さん達はごく最低限の必需品しか買えません。この時ふと「避難を勧めるのは容易だけど(福島に残っている理由は)地元の復興に尽くしたい気持ちがあるから?」という長谷川先生からのメールを思い出しました。そう、今の私を支えているのは「学校」なんだ、私はこの学校に行きたいと泣いている子供達に何ができるんだろう。そう思った瞬間、同僚と店にある鉛筆やノート、画用紙をかき集め、避難している子供達に届けようと思い立ちました。
 しかし町にはすでにガソリンも無く、車が出せません。さらに屋内退避指示で、通りを歩く人は誰もいません。風評被害で、物流が茨城、仙台で止まっていた時期でした。考えあぐねている所に、私宛に宅急便が届いたのです。緊急物資の輸送で、民間の宅急便業者は稼働しておりましたが、個人宛に荷物が届くのは稀な事でビックリ。いったい誰からだろうと宛名を見ると、文化情報専攻の先輩からでした。大量の水や乾麵、タオルや石鹸が届きました。発送日は半月も前でしたが、勇気ある宅急便のドライバーさんが届けてくれたのです。早速このドライバーさんに事の次第を相談し、子供達に文房具を届けることができました。
 幾日かして、店に幼稚園の先生や、小学校の先生達が私を訪ねて来るようになりました。子供達が描いた絵を持ってきてくれたのです。送った画用紙と同じ枚数の1200枚もの絵が私のもとへ帰ってきました。私は全ての絵を店内に飾りました。学校は遠くなっても学ぶ心は離れない。当研究科の学生は、世界中に点在しながらも、その精神は一つの学び舎にある、まるで日大大学院総合社会情報研究科の姿勢そのもののようです。
 先輩と友人は、電車が復旧したぎりぎりの駅まで来てくれて「今こそ修論をがんばろう」と励ましてくれました。長谷川先生も、なんと参考資料を携えて、遥々地元まで来て下さいました。「皆あなたを案じている!」という長谷川先生からのエールは、この「学び舎」という言葉の真の意味に気付かせてくれた気がします。長谷川先生はじめ大学院全ての先生方、事務課の皆様のご尽力により、数多くの支援をいただき、勉学を続けさせて頂く事ができました。
 多くの職場の同僚がこの町を去りました。家屋全壊にも関わらず、私はなぜこの地に残って学び、働くのか。それはこの日大から教えていただいた「学び舎」の精神を、福島の子供達に伝える使命があるからです。学問は希望、学ぶ事で見えてくる未来がある。
 私は仕事の一環で、小学生を対象にした、環境学習クラブを運営しております。先日子供達が「いつ電車が走るの?」「どうしてうちでは、もうお米つくらないのかな」と聞いてきました。その日はカリキュラムを変え「世界中の小学生への宿題」というタイトルで壁新聞を描かせました。「なんでボクらの宿題なの?大人のせいじゃん」と頬を膨らませる子供達に「今の大人ではだーれも解けない問題だから」と答えると「答がわかったらスゴイ?褒めてくれる?」と意気込むので「世界中の人たちがみんなの答えをまってるぞ〜!」とみんなを抱きしめました。
 今年卒業の高校生は地元に職がなく、やむなく県外への斡旋を受け入れています。若年層の人口減少は、地域経済の衰退を加速させる一方です。連日の報道でもお分りのように、今の福島、特に相双いわき沿岸部では、健康面においても経済面においても、これからの人生を生きていく若者にとって、困難な状況は続くでしょう。人と人とが思いやり、支え合うことを学ぶことができた人は、幸せです。私はこの日大大学院総合社会情報研究科で「人に寄り添う尊さ」を学びました。
 震災の3月、私達は雪降る夜に震えておりました。あの日から一年が過ぎ、東北にまた春が巡ってきました。みちのくに春を告げるのは桜ではなく梅の花です。ある日の厳冬の朝、雪を被った老木に、堅い蕾を僅かに広げ、静かに佇む梅の姿は、やがて咲く桜の季節を迎えるために寒さと闘っているようでした。そしてこの梅の花が、私を支え、励ましてくれた先生、友人、そして私の選択をずっと陰ながら応援してくれていた家族と重なって見えました。
 さあ、これからがスタートです。たくさんの人達が、眩しい桜の花を咲かせられるよう、これからの私の人生は、この梅の花のようでありたいと願っております。我が母校よ、どうぞこれからも私を見守っていて下さい。


1 井原西鶴 堀切実訳注『日本永代蔵』角川学芸出版2009年
2 湯浅邦弘編著『江戸時代の親孝行』大阪大学出版会2009年



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