修士論文を終えて
文化情報専攻 小池 雅実
ちょうど一年前の今頃、そろそろ修士論文に本格的に取り組む時期を迎えていたが、当時の私には心にある程度余裕があった。というのも、所属している竹野ゼミの先輩方の旺盛な研究活動に刺激を受け、比較的早い時期からおおよその研究テーマを設定し、小論文を書き溜めてきていたからである。後は、全体の流れや整合性に配慮しながら、それらをつなぎ合わせ、欠損部分を埋めることが出来れば、大体の形が出来上がるのではないかと考えていた。しかし、実際のところはそう甘くなかったのである。
まず、研究を始めてまもないころの論文には、認識不足に起因する誤りや、根拠に乏しい部分が目について、全体として「ワキの甘い」出来になってしまっているものが多かった。また、もう一つの誤算は、予想以上に欠損部分が多かったことである。その他、微調整や裏付けを取る作業、資料の洗い直しなどにもかなりの手間がかかったため、結果として、何とか形が整ったのは期限ぎりぎり、指導教授の竹野先生にもご迷惑をかけるという体たらくであった。そして、この間、痛感したのは、自分の英語力の無さで、仮にも英文学を専攻しているのにと、語学力の余りの乏しさを情けなく思い、落ち込んでしまったこともしばしばであった。ということで、今更ながらで汗顔の至りではあるが、この「英語力の向上」は喫緊の課題である。
そんなこんなでデッドロックに乗り上げることの多かった執筆時期、そうなった時の私の対処法は、月並みだが、「研究から離れて、別の本を読む」であった。それも、ただ漫然と読み流すのではなく、読んでいる本の内容やテーマについて出来る限り突きつめて考えてみるのである。そうすることで新鮮な空気を吸い、一歩離れた所から研究対象を相対化してみる余裕も得られ、それらの思考の結果浮かんできた事柄が自分の研究にとってのヒントになったことも一度や二度ではなかった。そして、このような条件に適うものとしては、私の場合、その多くがレポートの課題に関連した本であった。
このようにして、何とか書き進めていく途上で、意識していたことが三つある。一つは、「独善に陥らない」、もう一つは「テーマから離れるな」、いま一つは「だからどうした」である。一つ目の事項については、一人でコツコツと書いていると、論理を展開していく際に、その筋道に無理や飛躍が生じるようなことが起こりがちになるので、自分の考えに何らかの偏りがないかどうか、常に客観的な視点を失わず、検証を繰り返すように努めなければならないということ、二つ目に関して言えば、どんなに素晴らしい発見をしたとしても、それがテーマに収斂されていくようなものでなければ、潔く切り捨てることである。そして三つ目の点は、内容や記述、構造に関して、「これこれこうなっている」と書くなら、それが結果として作品の中でどのような役割を果たしているのか、或いは全体にどんな効果をもたらしているのかを書き落さないようにすることである。これらはわざわざここで挙げるようなことではなく、当たり前のことなのだろうが、修士論文のような長い文章を書いた経験の乏しい私にとっては、全体の流れの中で自分を見失ってしまわないよう、いつも胸に刻んでおく価値のあることであった。しかし、実際にしっかりと実現できていたのかどうかについては、些か心もとない。
以上、論文の完成までのことで、頭に浮かんだことを書き綴ってみたが、つくづく思うことは「よく完成させられたなあ」ということである。これも常に励ましの言葉をくださった先生方や、協力を惜しまなかった家族のおかげであり、ただただ心からの感謝を捧げるのみである。出来はともかく、まずは完成した事実に満足している。自分にとって、大変な山だったが、登ってみる価値は十分にあった、ということなのであろう。