連載・どうでもいいことばかり(第4回)        

    右翼、左翼、正翼

                              国際情報専攻 5期生・修了 寺井 融

   

「私は右翼と呼ばれている。10・21ストに反対した為か、頓にそんな悪罵を投げつけられるようになった。勿論左翼と称する人達からである。そもそも右翼とは何ぞや、左翼とは何ぞや……。そんな定義のあろう筈はない。所詮議席の目安にすぎなかったのだから。反体制を叫び、時代の趨勢に逆行する者が左翼であり、社会の進歩と革新を求め、科学技術の振興を計る者を右翼と言うのなら、進んで右翼と呼ばれよう。自由と民主主義を圧殺し、前衛の名の下で搾取と独裁をくりひろげる者が左翼であり、基本的人権を守り、いかなる全体主義と闘う者が右翼なら、喜んで右翼の裃を着よう。今や“右翼”とはファシストの反意語なのである」
  ――以上の生硬な文章はまぎれもなく当方のものである。「民社学同新聞」(昭和43年11月20日付)に書いた。大学2年生のときであるから、21歳になったばかりではなかったか。
 大島康正東京教育(現筑波)大学教授に、読売の「論壇時評」(昭和43年11月26日付)で、次のように批評していただいた。
「私はこれを読んで快哉(かいさい)を覚えた。戦後二十余年間のこの日本の社会では、左翼はいつも善玉、右翼は逆に悪玉と考えられてきた。そして共産主義者、ないしそれに近い者が左翼すなわち立派な人であり、そうでないものは中立も何もない、みんな右翼で後ろめたい人間であるというような分類法のムードが、知識層の間に流れてきた。こういう分類法はおかしいと私など何どか口にしたが、マスコミの一部にもそういう発想が根強く流れていてどうにもならなかった。ところが、右翼と呼びたいのならそれも結構、よろこんで呼ばれてやろうという青年が民主社会主義者のなかに現われてきた。恐らく今のチェコスロバキアの青年のなかには、そういう気もちの者はいっぱいいるであろう。しかし私がうれしいのは、日本の学生のなかにも、そういう気もちを堂々と表明する者が現われたことである」
 ――気恥ずかしくなるほどの“絶賛”である。大島教授が民社研(民主社会主義研究会議、現政策研究フォーラム)の主要メンバーの一人であったから、いささか身びいきの感がなきにしもあらずだが、率直に嬉しかった。掲載していたコラムが名物化した。

 昭和43(1968)年といえば、国内では佐藤政権のもと、高度経済成長が続いてはいたが、学園紛争が多発し、新左翼と呼ばれる極左派が暴れまくっていた。一方、8月21日にはソ連軍などが「社会主義兄弟国」の論理により、「チェコスロバキア国内の自由主義・分散主義を正す」と称して、公然たる軍事侵略が展開された(※日本で最初にソ連大使館へ抗議活動を行った話は、当連載第1回目に書いた)
 大学では、よくストが行われていた。スト反対派であったためか、キャンパスに出向くと、「右翼帰れ」と罵声を浴びせられ、牛乳瓶を投げつけられたり、囲まれて蹴飛ばされたり、一度だけだが首を締められたりと、とにかく物騒であった。その全共闘(当方の大学では全中闘と称していた)派もずるいところがあって、黒ヘルに日の丸を入れた民族派は襲わない。日本刀をぶら下げて、殴りこみをかけられる恐れがあったからである。

  話は替わる。西村真悟代議士のところで政策秘書をしていたときのことだから、平成10年頃だと思うが「左翼」と言われた経験がある。代議士の後援者たちとミャンマー旅行に行き、ガイド役を務めた。鹿児島から来た熱血漢タイプの中年男性(といっても、当方より一回りぐらい若いが)と、何度か議論をたたかわせた。仮にA君としておこうか。
「菅直人は怪しからん。全共闘だったくせに……」とA君は息巻く。
「違うと思うよ。彼は全共闘でもノンセクト・ラジカルでもない筈」と私。
「そんなことはない。左翼だ。過激派シンパだ」
「彼は東工大でね、ノンセクト・リベラルと称した改革派にいたと聞いているけど……」
「うそだ」とA君はがんばる。
  “うそ”と言われても困りましたね、当時私は、民社学同のメンバーやシンパを集めて「中大改革協議会」と称する組織を作っており、東大、東工大、慶大、上智大、武蔵工大、神奈川大などの同傾向の学生組織と連携を保つ動きをしていたのである。たしか、東工大で菅氏もその種組織に所属していたと、彼の学生時代の友人から聞いている。未確認ではあるが、相当確度の高い情報であると思うので、苦笑せざるをえなかった。
 A君はまた「日本はビルマ独立のために戦った。英軍を駆逐し、独立させたのだ。ビルマ国民は日本軍に感謝している」と述べる。
  そこで「ビルマに入った目的の第一は援蒋ルートの遮断。英軍を追い払っても、軍政をひいて、すぐには独立を認めていない」と反論した。
「大東亜戦争はアジア解放のためだ」と彼は力む。
「たしかに、独立に寄与した事実は誇ってもよいと思う。でも、最初から崇高な目的だけだったのかな。日本の自存自衛のために戦ったのが第一義さ……」とまぜっかえす。
 彼の顔が高調してきて「ナニッ」となった。かまわず「自存自衛のために戦ったのが、悪いと言っている訳ではないよ」と述べ、アウンサン将軍など30人の“ビルマ独立の志士”を指導した“南機関”の鈴木敬司機関長は「ビルマの即時独立を認めろ」と主張。南方方面軍参謀たちと対立し、その“南機関”が解散させられた話をした。
  それで納得したと思っていた。ところが帰鹿して、「西村の秘書にとんでもない左翼がいる」とふれまわっていたらしい。その話を伝え聞き、学生時代の友人に報告したら「エッ、お前が左翼」と笑う。「右翼って言われるのも嫌だけど、左翼もなぁ」と私。「じゃ、中道か」「それもなぁ、正翼がいいかな」と答えたら、「若いときは強かったけどなぁ」だって。
  オイオイ間違えてもらっては困るんだよ。“性欲”ではなくて、“正翼”だってば……。
  それはそうと、「頓に」「勿論」「所詮」なんて、当時は漢字で書いていたんですな。いまはひらがなで用いていますけれど……。歳をとると、なんでもやわらかくなっていくようです。もう右翼でも左翼でも正翼でも、何とでも呼んでくれえ、という心境です。

 


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