連載・どうでもいいことばかり(第1回)

      私にとっての8月

    

                    国際情報専攻 5期生 ・修了 寺井 融

   


「8月になると、一部マスコミでは漢字の広島、長崎がカタカナのヒロシマ、ナガサキとなる」と喝破したのは、熊坂隆光・日本工業新聞社長(『フジサンケイビジネス アイ』発行)である。8月といえば原爆投下もあればソ連参戦もある。そして8月15日である。

巷間「終戦記念日」と呼ばれているが、「玉音放送の日であり、終戦は9月2日のミズリー号における降伏文書調印の日である」というのが当方の考えである。小堀桂一郎東大名誉教授は、サンフランシスコ講和条約が発効した「昭和271952)年4月28日説」をとっている。停戦があり、占領を経て、主権回復があってはじめて終戦というのが、「小堀説」である。

 最近、「終戦の“世界標準”からすれば、玉音放送があった『八・一五=終戦』ではなく、ポツダム宣言を受諾した八月一四日か、降伏文書に調印した九月二日が終戦の日である」(佐藤卓己著『八月十五日の神話』ちくま新書)が出版されて、長年の胸のつかえが取れた思いだ。それにしても「負けたのに“記念日”とは面白くない」という素朴な感情もあり、いずれ先の戦争について、自分なりに考えを整理してみたい。

 ここでは、私にとって思い出深い、もう一つの8月について語る。

 いま手元に「ソ連大使館に抗議デモ、門閉ざすチェコ大使館」という『毎日新聞』のスクラップ(昭和43年8月22日付)をおきながら書いている。1968年だから、かれこれ37年前になる。その『毎日』社会面の3段の記事は「『ソ連軍、チェコに軍事介入』の外電があわただしく飛込んできた二十一日、東京・狸穴のソ連大使館には学生、文化人、アメリカ、カナダの留学生などが、深夜まで次々に抗議につめかけ、一時は機動隊も出動するなど、緊張した空気がただよった」との書き出しで始まる。「軍事介入か、軍事侵略そのものではないか」と思わぬでもないが、いまは問わない。

 続いて「抗議の一番手は中大、早大などの『チェコ民主化を支持する会』の学生七人。午後三時半すぎ大使館前に現われ『軍事介入反対』のシュプレヒコールをくり返しイワノフ副領事に抗議文を手渡した」とあり、3段の写真に「ソ連大使館へ抗議デモに押しかけ、警官と押し問答をする学生たち」というキャプションがつけられている。

 実は私、その「押し問答をする学生たち」の一人として、写っているのである。あの日、虎ノ門の民社学同本部にいた。お昼のテレビニュースで「ソ連のチェコ侵攻」を知り、早大の中島寿一先輩(現在評論家)と立正大の池田(下の名前は失念した)兄(たしか後に河合楽器に入ったはず)と、「ただちに抗議に行こう」と即断即決した。

プラカードを作り、抗議文も書いた。草案は当方が書き、両先輩の意見を入れて完成させた。当時、当方は民社党系の民社学同(日本民主社会主義学生同盟)中央執行委員機関紙委員長であった。中島先輩の「民社学同というより、国民的問題だからベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)にならって市民団体を作ろう」との主張を入れて、「チェコ民主化を支持する会」と称したのである。

「学生七人」とあるが、残りの4人は大使館前に来ていた一般学生であり、にわかメンバーである。「会」は、先輩が願ったようなベ平連のような市民団体に発展しなかった。

ただ、「学生に続け」と、民社党と同盟が8月27日に芝公園に約1000人を集め、「チェコ侵略抗議国民集会」を開いた。芝公園から狸穴までデモ行進をし、ソ連大使館前で気勢をあげた。私は、大型宣伝車の上で、学生を代表してアジ演説をぶった。

なぜ、迅速にソ大に駆けつけたのかといえば、前から私たち民社学同のメンバーは、東欧諸国の共産化過程や、民主化を求めて弾圧されたハンガリー事件(1956年)についても、勉強会を開いたりもしていたのである。68年の「チェコの春」と呼ばれた、ドプチェク首相らの「人間の顔をした社会主義」や、民主化を求める体操の女王・チャフラフスカや人間機関車・ザトペックほかによる「2000語宣言」にも、好意的な関心を持っており、「ハンガリーの例もあるから、大丈夫かな」と心配もしていたから、行動が早かったのである。

それから13年、1981(昭和56)年の8月に「日本青少年代表団」のリーダーとして、まだ共産主義体制だったチェコスロバキアやポーランドを訪れた。プラハにはウィーンから汽車で入った。落ち着いた町だった。市民の服装がオーストリーに比べて劣って見えた。街中で、若者に「何かスタイルブックはないか」と声をかけられた。

夜、団員の一人と地下のバーに入った。ビールを一杯飲んで「チェツクアウト・プリーズ」と言ったら、「17ドル」と言われた。冗談ではない。彼の地の平均月収の半分ぐらいではなかったか。「高い」と抗議した。「警官を呼べ」とも言った。私が「チェコスロバキア・クレージー・カントリー」と叫び、連れの学生が「ヒェー」と空手の組み手を示した。支配人が出てきて、5ドルとなった。それでも高いと思ったが、支払った。市内のあちこちで、ここが、市民がソ連の戦車に向けて素手で抗議した地か、カレル大のヤンパラシュ君が抗議自殺した(1969年1月)ところかと、胸が痛んだ。

チェコでもポーランドでも、闇ドル買いがしつこく迫ってきた。ワルシャワのホテルでは、メイドが公然と「マネーチェンジ」を求めてきた。「チェンジしても買うものがないよ」と事前注意をしておいたのにかかわらず、公定レートの10倍に目がくらんだ団員は、ドルを現地通貨に換え、出国する際、「どうしよう」と持て余していた。1989(平成元)年にフサーク政権が倒れ、民主化されていったのは、ご存知の通りである。

話は突然替わる。

このごろ重光葵元外相のことが気にかかる。1945(昭和20)年9月2日のあの日、ミズリー号に足を引きずりながらも毅然と艦上への階段をのぼり、堂々と「降伏文書」に調印している。彼は、後に東京裁判でA級戦犯として禁固7年の判決を受けた。自由の身となって改進党を率いたが、首相にはなれなかった。いまの“靖国騒ぎ”をどう見ているのか、生きておられたならば、聞いてみたいところである。

 一度、民主化されたチェコを訪れてみたいと思ってはいるが、実現していない。