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『日本人画家滞欧アルバム1922』

文化情報専攻3期生・修了 戸村知子



1.渡欧する日本人画家 ・・・・・・・・・・・・  9号(2002.9.1発行)掲載
2.巴里に到着した日本人画家 ・・・・・・・・・・・・ 10号(2002.12.1発行)掲載
3.そして今宵も芸術談義 ・・・・・・・・・・・・ 13号(2003.9.1発行)掲載
4.アンドレ・ロートとの出逢い -前- ・・・・・・・・・・・・ 14号(2003.12.1発行)掲載
5.アンドレ・ロートとの出逢い -中- ・・・・・・・・・・・・ 15号(2004.3.1発行)掲載
6.アンドレ・ロートとの出逢い -後- ・・・・・・・・・・・・ 18号(2004.12.1発行)掲載
7.飛躍の予感 ・・・・・・・・・・・・ 22号(2005.12.5発行)掲載




1.渡欧する日本人画家

 1920年代「巴里」。それは芸術家にとって魅力溢れる都市。
  ピサロ、モネ、セザンヌ、ルノワール、ゴーガンなどの作品がギャラリーに並び、マチスやヴラマンク、ユトリロ、ピカソ、シャガール等がアトリエで絵筆を握る。イサドラ・ダンカンのモダン・ダンス、ファッション界でのココ・シャネルの登場、モンパルンナスのカフェの賑わい。多くの芸術家達のジャンルを越えた交流が、新たな作品を生み出していた時代。それは日本人が油絵修業のためヨーロッパ、特にフランスへ渡るようになって、まだ半世紀にも満たない頃のこと。


 1922年。大正11年のこの年、日本では『週刊朝日』[i]『サンデー毎日』が発行され、週刊誌時代の到来を告げています。そして、美術批評家のエルマン・デルスニス氏による「フランス現代美術展」がフランス大使館の後援で開催されたのも同年5月。出展作品数が400点を越える大規模なものであった様子が、『週刊朝日』第1巻10号にも掲載されています。この展覧会は、前年に開催されて大きな反響を呼んだ倉敷文化協会主催の「第1回現代仏蘭西名画家作品展覧会」[ii]とならび、まとまった数の西洋美術の作品が国内で展示される画期的なものであったといわれています[iii]
 それまでは『白樺』や『中央美術』などの雑誌や複製写真でしか見ることができなかった西洋美術の作品。そのオリジナルを国内で間近に観賞できるようになったのも1920年代のことだったのです。そして、その後も西洋美術を紹介するこれらの展覧会が継続的に開催されたことによって、日本国内ではますますヨーロッパへの憧憬が高まったにちがいありません。また画家や画家志望者にとってオリジナル作品から受ける刺激は大きかったことでしょう。
 第一次大戦で一時減少していた巴里留学も大戦が終結すると再び盛んになり、1920年代には多くの日本人画家がヨーロッパへ渡っています。その原動力となった一つに、国内における西洋美術のオリジナル作品との接触をあげることができるのではないでしょうか。そして、この時代の新聞や雑誌に掲載されたヨーロッパからの通信・寄稿文は、留学を志す者の貴重な情報として、高い関心が寄せられたことも容易に想像がつきます。前号の電子マガジンでも取り上げた1922年の大阪時事新報紙連載記事「芸術巡礼紀行―国画創作協会同人―」も、このような時代に読まれたものでした。

 では、実際に渡欧した画家達はヨーロッパで何を見て、何を感じてきたのでしょうか。また、帰国後の活動に渡欧の影響をみることができるのでしょうか。1921年に出発した「芸術巡礼」の一行、国画創作協会の画家と黒田重太郎の足跡をたどりながら、当時の画家達の視線の先にあったものを探ってみたいと思います。第1回目の今回は、神戸港を出発して巴里に到着するまでの足跡を追ってみることにします。
 1921年10月4日(火)に神戸港を出航した賀茂丸は(写真参照・日本郵船歴史資料館所蔵)6日(木)に門司港、8日(土)には揚子江へさしかかり上海へ到着。
 小野竹喬(当時:橋)、土田麦僊、野長瀬晩夏、そして黒田重太郎の一行は、上海を見物、龍華寺の7層の御恩搭を訪れ、四馬路街を歩き、その後萬歳館に1泊。翌日は蘇州まで足を伸ばし、唐の詩人、張継が詠んだ「楓橋夜泊」で知られる寒山寺を見学。その日の夕刻に上海を出港。13日(木)に香港へ着。一行は巴里から帰国途中の知人に会い、日本への手紙を託しています。ビクトリア・ピークへケーブルカーで登り、自動車で町をまわり一泊、翌日出港。次の停泊地は新嘉坡(シンガポール)。
 19日(水)の朝9時に新嘉坡へ入港予定が雨天や暗礁のある狭い水路を通過のため午後3時に。その日は碩田館ホテルへ宿泊。写生地を求め自動車を走らせる。翌日夕方5時の出港予定時刻1時間前まで写生をして過ごす。21日(金)に馬拉加(マラッカ)に寄航。2時間ほどの自動車観光をすませる。この日、上陸するための蒸気船を待つ30分の間に土田麦僊は23枚のスケッチを終えていたという。
 22日(土)は彼南(ペナン)に到着。寺院などを見学。夜9時の出港予定が遅れ、結局23日(日)の午前4時になる。27日(木)の夕刻、古倫母(コロンボ)に着。翌日午後2時に出港。
 月がかわり、11月9日(水)に蘇土(ファイド[スエズ])に到着。ここで一度上陸し、カイロを見学。夜に駱駝で砂漠を観光、ピラミッドを見てまわる。翌日は汽車で坡西土(ポートサイド)に向かい、そこから再び乗船。地中海をすすみ、途中、ストロンボリ火山を眺め、コルシカ島山の向こうに雪を戴くアルプス連峰を見て、荒波にも遭遇。11月16日(水)馬耳塞(マルセイユ)に到着。約40日間の船旅はここで終わる。
 船を降りた一行は、マルセイユを観光。ノートルダム・ド・ラ・ガルド教会や美術館を見てまわり、少し予定を変更してアヴィニヨンに宿泊。翌17日(木)にアヴィニヨン観光をすませ、リヨンに宿泊、観光。18日(金)の午後3時半にリヨンを出発して夜10時過ぎに巴里へ到着。先に巴里入りしていた同郷の画家、田中善之助に停車場で出迎えられ、一行はホテル・ビッソンに向う。
 これから後、画家それぞれの滞欧中のドラマが展開していくことになります。   (つづく)


【マメ知識】@ 初めてフランスで絵画を学んだ日本人は誰だったのでしょうか。
 それは、画家ではなく佐賀出身の外交官、百武兼行(1842−1884)でした。
 百武は、最後の佐賀藩主・鍋島直大(なおひろ1846−1921)の従者として1871年の岩倉具視を大使とする使節団に加わり訪欧、アメリカからイギリスに渡り1874年に一時帰国しますが、その年に再度、鍋島直大の英国留学に随行します。百武自身もオックスフォードで経済学を学び、公務のかたわらイギリス人画家から油絵の指導を受け、ロイヤル・アカデミーの展覧会へ出品し入選しています。百武の才能をみてとった鍋島候は百武の研究に積極的な支援を惜しまなかったといいます。鍋島候の命により一人、巴里へ留まることになった百武は1877年にフランスへ渡ると、歴史画や肖像画を得意とする画家に1年間師事し、その重厚な写実技法を学び飛躍的に技術を高めたそうです。その後、駐伊大使となった鍋島候に随行、イタリア滞在を経て1882年に帰国、1884年に42歳の生涯を閉じています。イタリア滞在中にも優れた作品を残したという百武兼行。その短い一生のためか、日本の洋画史へ与えた影響については定かではなく、ヨーロッパで画法を習得した初期の日本人として、その名を残しています。[iv] ちなみに、日本人初のヨーロッパへ留学した画家は、土佐藩士国沢新九郎(1847−1877)で、藩からの命を受け1869年から74年に英国ロンドンで西洋画法を学んでおり、帰国後には洋画の私塾(浅井忠[v]も入門していた)、彰技堂画塾を開きました。




[i]大正11年2月25日創刊。創刊当初は<旬刊朝日>として、毎月5日・15日・25日の発行。
4月2日発売号から週刊に変更となり、日曜日ごとに発行されるようになる。 戻る>>

[ii] 倉敷紡績の大原孫三郎が洋画家児島虎次郎に委ねた名画購入による大原家蒐集作品展覧会。児島虎次郎の没後、彼の業績を称えるため大原孫三郎は美術館を建設。児島虎次郎により蒐集された西洋絵画の作品と古代エジプトの芸術品などや、児島虎次郎の作品が展示される大原美術館が誕生した。留学先のヨーロッパから「日本の芸術界のために最も有益」といって名画購入を大原に願い出た児島虎次郎の志が色褪せることなく、この美術館には息づいている。 戻る>>

[iii] 匠秀夫『日本の近代美術と西洋』沖積社、1991、P.31 戻る>>

[iv] 神奈川県立近代美術館『近代日本美術家列伝』美術出版社、1999 戻る>>

[v] 安政3年〜明治40年(1856〜1907) 佐倉藩士の子として江戸に生まれ、国沢新九郎の門下生を経て工部美術学校に入学、イタリア人フォンタネージの指導をうける。後、黒田清輝と並ぶ存在となる。パリ万国博の監査を兼ねてフランス留学を文部省から命ぜられ、明治33年から35年まで渡仏。滞欧中に中沢岩太博士と「肝胆相照の交わりを結んだ(というのは黒田重太郎の言葉だが)」浅井は、出会った中沢博士から京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身)の新設にともない教授就任を懇請され、帰国後すぐ、当時の美術家として最高と考えられていた東京美術学校教授を辞しての京都入りとなった。後、自宅で画塾を開き「聖護院洋画研究所」から「関西美術院」へ発展。これらは京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)の西洋画科新設にも繋がっている。黒田重太郎は浅井忠晩年の内弟子。梅原龍三郎、安井曽太郎も聖護院洋画研究所で学び、津田青楓、里見勝蔵、須田国太郎、向井潤吉、宮本三郎等、関西美術院で学んでいる。 戻る>>


目次>>






2.巴里に到着した日本人画家

 1921年10月に神戸港を出発した黒田重太郎、野長瀬晩花、土田麦僊、小野竹橋(喬)の一行は、約40日間の船旅を終え、11月16日にマルセイユ港へ到着。陸路巴里に到着したのは18日夜、滞在先はセーヌ左岸のグラン・オーギュスタン河岸の中ほどに位置する37番地にあるホテル・ビッソン。その場所柄か、夜が更けてもなお、また早朝に大きな貨物自動車が通るたび、部屋の窓ガラスを振るわせていたためゆっくりと眠ることもできないと愚痴も出る始末。しかしルーブル美術館やリュクサンブール宮まで歩いていける魅力から、しばらくそこに腰を落ち着けることになる。ただし、時事新報社の記事を執筆しなくてはならない黒田は、12月に入るとクリュニイ博物館裏にあるソンムラール街22番地のホテル・ミディに移る。

 さて、巴里に到着した一行は「洗面器とベッドと広い鏡のついた本箱と他にせまい押入れ」[i]のある一日12フラン(2円)[ii]の部屋へ落ち着いたのです。そして家族や友人知人に向けて、無事に巴里へ到着したことを葉書や手紙にしたためたことでしょう。黒田重太郎から兵庫県に住む知人の福井艸公[iii]宛にも11月25日に投函されています(写真)。
 そして荷物がホテルの部屋へ無事に届けられて一通りの整理がつくと、早速19日の午後から美術館・画廊めぐりがはじまります。それ以後、セーヌに架る橋をいく度となく往復し、ルーブル美術館、プティ・パレからマドレーヌ広場に行く途中の画廊、あふれるばかりのそれらの作品を目にするのでした。その興奮のあまり寝付けなくなり、ビリヤードをした夜もあったそうです。その中でも黒田は時事新報紙「芸術巡礼紀行」に次のような展覧会をとりあげて、その印象を書き記しています。
 ドーミエ展 (フォブル・サントノレ街 画廊バルバザンジュ)
 モーリス・ドニ展、ジュール・フランドラン展(ロワイヤル街 ドリュエ画廊)
 ヴラマンク展、クラレ展(マドレイヌ広場 ベルネイムの店)
 サロン・ドートンヌ(ルーブル美術館)
 
 また、ドリュエ画廊では、一行が巴里に到着した日まで「オディロン・ルドン展」が開催されていたので、ドニの展覧会を見に行った折に、残されているルドンの作品数十点を手に取って見ることができたとあり、後日、知り合ったボエシ街の画商の紹介でルドンを多く所有する個人のコレクションを見せてもらう機会にも恵まれ、大変な喜びを記しています。
「 ・・・・私たちは其処でも重要な作品の幾つかを見た。前に来た時[C]から、此近代画壇に独自な地位を有っている大家に対して、私の感激はより大きなものであっただけ、今度見たそれ等の作品に就ても、反って多くを語り得ない程動揺されてしまっている。此人の描いた花の一つ、蝶の一羽は束の間に燃えて、束の間に消えて行く脆い美しさと生命を限りなく優しく、深い感情に依って写し出されている。・・・・」(大阪時事新報 大正11年4月10日)
 黒田重太郎は、前回の滞欧時にもベルネイムの店でルドンの作品<岩窟聖母>他を見ていますし、美術写真画報1-1に「オディロン・ルドンの象徴」として執筆もしています。また今回の渡欧前に出版された中央美術7-8(大正10年8月1日)には「オディロン・ルドンの芸術」(エル・マルクス)が掲載されており、「自ら知覚しない先駆者として一つの道を示した芸術家」として紹介されています。そのような頃のことですから、間近で作品を鑑賞できた彼らの喜びは私たちの想像を絶するものだったにちがいありません。
 
 彼らはまた、絵画の蒐集のために画廊へ日参したり、フランス語を勉強したり、絵を描くためのモデルを探しにいったり、お金がなくなりそうになったら郵便局へいき家族、知人に電報を打っていたようです。そんな中、手紙が受け取りに大使館へ行った時など、日本からの手紙が1通も届いていないと、グレー色の巴里の空の雰囲気も手伝ってか、やけに寂しさを覚えるのでした。ホームシックにかかっていたのかもしれません。
 が、当時は黒田をはじめとする一行4人の他にも多くの日本人が巴里にいましたので、自ずと交流の輪が広がり、さまざまな情報が交換されていました。中でも、サン・ジェルマン大通りを隔ててクリュニイ博物館裏庭と斜め向かいにあったという大衆レストラン「シャルチェー」は、カルチェー・ラタン[D]やモンパルナスで生活する日本人の芸術家・学者等[E]が集う食堂で、黒田重太郎もまた、フランスの美術史家テオドル・デュレ氏が、ひどく黒田を待っているらしい、という話をその店で会った日本人画家から聞いて、早速手紙を出して会いに行っています。これは、この2度目の渡欧出発前に出版された黒田重太郎の著書『ヴァン・ゴオグ』に関わる話で、この詳細は黒田の著書『近代絵画』に収められていることを書き添えておきます。
 
 さて、巴里に到着してから一月あまり経つと、そろそろ次のイタリアとスペイン旅行の話題がもちあがってきます。さまざまな展覧会、画商や蒐集家たちのコレクションの見学、そしてルーブルをはじめとする幾つかの美術館をまわり、一通りエジプトやギリシア美術から現代のマチス、ピカソなどの作品を見た彼らが、その後たどる「芸術巡礼」の様子を時事新報の紙面から拾ってみることにします。固有名詞の表記など、現代と若干異なるところもありますが、彼らが訪れた先がおわかりいただけると思います。
 
<イタリア>

 1922年1月9日、カーニュを経由してイタリアへ出発。
  カーニュ、ニースを経てイタリアの街、ジェノバ、ピサ、ローマ、ヴァティカン市国、ナポリ、再びローマ、アッシジ、フィレンチェ、ヴェネチア、パドヴァ、ミラノを巡り2月10日午前中に巴里へ戻る。一行のうち、野長瀬晩花は風邪をひいて、この旅行には参加できなかった。また、カーニュ経由でイタリアに入ったのは、黒田と交流を深めていたテオドル・デュレの紹介で、ルノアール邸の見学が可能になったためで、次男で映画監督のジャン・ルノアール氏に出迎えられている。この旅行では、ローマで約1週間、ナポリに3泊、フィレンチェに5泊している。フィレンチェでは、国松桂渓、間部時雄、和田英作と偶然出会う。

1月 9日(月) 夜8時30分、カーニュ経由でイタリアへ向かうため急行列車にのりこむ。
  10日(火) 午前2時頃、ディジョンに到着。構内食堂にて飲料用に鉱泉水を購入。
リヨン、アヴィニヨン、マルセーユを過ぎて、午後4時ニース着。オテル・オツコンノール泊。
  11日(水) 9時半、ホテルを出発。リュードフランスの停車場から10時過ぎに列車に乗り込む。
11時前にカイニュに到着。馬車でルノアール邸へ向かう。次男のジャン・ルノアール氏に迎えられ、家の中を案内してもらう。午近くまで滞在し、帰り際に庭のスケッチをさせてもらう。 ニース泊 。
  12日(木) 朝早く列車に乗り、佛伊の国境へ向かう。数多くのトンネルを抜け、10時過ぎにヴンチミルへ到着。中央大陸の時間にあわせ、時計を55分進ませる。先を急ぐためモナコ、モンテカルロの見学は予定していなかった。サンドイッチを買い込み12時に出る列車でピザへ向かう。
サンレモ、アラッシオを経て4時にサヴォーナへ到着。6時発の列車に乗りゼノアへ7時着。
オテル・ミラノに宿泊。
  13日(金) ゼノアを半日見学。パラッツオ・ロッソからヴィア・ガリバルヂを歩き、フォンタナ・マロゼの広場、ウンベルトの広場を抜ける。サンロレンゾ寺院、パラッツオ・パラビキニをまわり昼過ぎの列車でピザに向かう。夕刻到着。オテル・ネツチユノに泊。夕食後、絵葉書を求め外へ出る。
  14日(土) 朝9時、宿を出て、ピアツア・デル・ドオモへ向かう。カンポサントの壁画を見たあと、聖フランセスコ寺へ向かい、夕方6時過ぎに到着した汽車でローマに向かう。途中、下井春吉氏が乗車してきて、ナポリ、ポンペイの話を聞く。
  15日(日) 深夜2時近く、テルミニ停車場へ到着。ホテルエリートに泊。朝11時に起床。雨の中を馬車でヴルラボルゲーゼへかけつけたが日曜日のためわずかな時間差で閉館。モンテピンチオの高台からローマを眺める。聖天使城を過ぎ、聖彼得寺の広場にベルニニの柱廊を賞し、町を走らせ、宿へ引き返す。
  16日(月) ドメニカ派の寺を尋ねアンゼリコの墓、聖マリアロトンダのラファエルの墓にお参りをすませ、ピアッツアデルポポロを過ぎて、ボルゲーゼの画廊を見る。聖マリアデルポポロを見た後、西班牙広場を通りアンデルソン写真店に立ち寄る。ポルタ・サラリアから城壁伝いに宿の戸口まで戻る。
  17日(火) 朝、馬車を走らせ、アツパルタメントオ・ボルジアにあるピント・リツキオの壁画を見に行く。
  18日(水) 朝、ヴチカノを訪れ、人影もまばらなシスチナ礼拝堂でミケランゼロの「最後の審判」を見る。その後ラファエロの室房を見る。その後、聖マリアアラチェリを見て、馬車でカピトリーノの裾を廻りマルセロ劇場跡の巨大な障壁、聖ラオドロの円形堂(ローンド)、聖マリアアンチカのフレスコを見、カピトリノの背後に出て左右に広がるローマの町を眺める。 聖ピエトロの広場で案内者とおちあう。
カラカラ浴場跡からヴィア・アツピアに沿ってポルタ・サン・セバスチアノを過ぎてドミネ・クオ・ヴヂスを見て、ヴィア・アルデアチナを進む。聖ドミチラの地下墓窟を見学し、聖カリストのカタコンベを過ぎ聖セバスチアノへ。 ヴィア・アッピアを更に南、マクセンチ闘戯場をまわり、夕方になって再びパスチアノの門から入り町へ帰る。
  23日(月) 午後零時半、羅馬を立ち、ナポリに向かう。到着後、日本人の定宿になっているオテル・コンチネンタルの出迎えを受ける。食堂で下井春吉氏一家と再会。日本人定雇の案内者アントニオと翌日以降の予定の約束をする。
  24日(火) ナポリの美術館を終日見学。
  25日(水) ポンペイの遺跡を見学。
  27日(金) ナポリからローマへ引き返す。
  28日(土) 朝、小野竹橋とヴチカノへ向かうが、儀式の始まるチャッペラ・シスチナへは入ることができず、引き返す。昼過ぎにローマを発つ。夕方の6時近く、アッシジへ到着。オテル・スパシオ泊。
  29日(日) 聖フランンチェスコ寺門をくぐり、聖ダミアノへ向かい見学の後、もと来た道を登り、ヌオヴ門をくぐって聖キアラ寺でジオットのフレスコ画を見る。ミネルヴ神殿前から、聖フランチェスコ寺へ。 チマブエの「聖家族」の他ジオツトの作品等を見る。4時過ぎにホテル・スパシオを下車予定のペルジヤを略し、フィレンツェへ向かった。
  30日(月) ウヒッチ画廊、ピッチ画廊を見た後、馬車で聖マリア・デル・カルミネへ。ピアツア・デル・ヅオモの珈琲店で京都出身の洋画家国松、間部に会う。
  31日(火) 昨日落ち合った和田英作、国松桂渓、伊藤と聖マルコ僧院を訪れる。昼に和田氏等と別れ、午後からはバルゼロの一つ、ムセオ・ナチョナレを訪れる。後、パラツオ・メエツキオのギルランダイオの壁画、ロッジア・デイ・ランチの玄関にベンエヌトオ・チエリニの「ペルセエ」を見て馬車にてキエサ・アヌチャタへ行き、前廊の壁にあるバルドヴィネッチの「牧人の礼拝」を見る。
2月 1日(水) 朝、聖クロチエにてミケランゼロ、マキアベル、ダンテ、ロシニ、ドナテロ、デラ、ロビアの作品を本堂にて見る。内陣や礼拝所の壁面に残されたジオットとその派の作品は補筆の跡に煩わされてはいるものの、それらの中にあるジオット晩年の作品に強い関心を示す。その後、パラツオ・リツカルヂへえ向い、礼拝堂のゴツツオリの壁画を見る。カツサ・ブオナロチでミケランンジェロの油土の小塑像のセリイを見て彼の真価を感じる。
  3日(金) 早朝、フィレンツェに向う。午後ボロニヤに着。ヴェネチヤ行きに乗りかえる。パドヴを過ぎてモンセリチエ眺める。日が暮れてヴェネチヤに到着。ゴンドラに乗り大運河、小運河をすすみ聖マルコ広場から余り遠くない小さな橋のたもとで、宿の迎えが待っていた。
  4日(土) 朝9時に宿を出て、聖マルコ寺院へ向う。寺院の中で最も注目すべきものは彩石画であるとし、フレッシュな色彩とナイノヴな構図を持ち仔細を見て行けば飽くことを知らないと感想を残している。パラツオ・デュカレへ入り、チントレットの作品などを見る。その後、聖ジョルジオ・ヂ・マジオレ島へ向かい、寺院にあるチント・レットオの「最後の晩餐」、カルパッチオの「聖ジョルジオ」を見る。 美術学校では感心していた作品の並ぶ部屋が修繕中で、カツパッチオの「聖マルコの殉教」その他を見ることができない。巡航船に乗りフォンダコ・デ・チュルキの前で下船。市立博物館へ行き、そこでカルパッチオの「二人の遊女」を見いだす。イルフェラリの寺でチシアンの「聖母昇天」を見た後宿の近くの茶店で明日のパドヴ行きの相談をする。
  5日(日) 午後2時頃、パドヴに到着。オテル・サヴォイエに荷物を運ばせ、一行はマドンナ・デル・アレーナへ向かい、本堂のジオットの壁画を見て後、エレミタニのオエタリ礼拝堂壁画を見る。暮れ近く、聖タントニオの寺でエロナ派のアルチキエリとジアコボアヴンツオの壁画を見る。
  6日(月) 午後4時頃パドヴを出て午後9時頃ミラノへ到着。ピアッア・デル・ズオモ前のオテル・メトロポールに泊。
  7日(火) 朝、日本領事館で手続きを済ませ、ブレラ画堂へ行く。マンテニヤの「基督の屍を悲しむ」、ジオヴンニ・ベリニの「死せる基督」、ラファエロの「聖母の結婚」などを見たのち、修繕中の部屋にあるルイニの壁画を見る機会を得る。それらの中には神話的題材を扱った「ニンフの水浴」や「ナルシス」「タフネ」、「マナを集むるイスラエルの子等」といったモオゼ一代記、「聖母子と洗礼者ヨハネ」「騎士ジオワネ」等特記している。
  8日(水) 午後、聖モオリチアノのルイニの作品を見に行く。次に聖マリア・デル。グランチエのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見た後、スフォルツア城址やボルヂ・ペツツオリ、ビブリオテカ・アムブロジアナ等の美術館、聖タンブロジアナ寺などを廻る。
  9日(木) 午後1時、ミランを出発。トリノでの途中下車は取りやめて直接パリへ返ることになる。

 
<スペイン>

 1922年3月14日、巴里を出発。ボルドー、ルルドを通りピレネー山脈を越えてサンセバスティアンの海を眺め、ナバラ州、カスティリャ・レオン州ブルゴス、バリャドリッドを経てマドリッドへ。マドリード、エスコリアル、トレドを巡り3月22日に巴里へ戻る。マドリッド滞在中に留学中の須田国太郎の宿を訪ねるが留守であった。この旅行は、4月に小野竹橋(喬)が帰国することになっていたため、それまでにロンドンも見る予定であったことから、黒田もいっているように「言わばグレコ、ベラスケス、ゴヤのスペイン絵画史のダイジェストのようなもの」であった。

3月 14日(水) 午後5時過ぎ、パリを出発。
  15日(木) 夜明け頃、フランス最後の駅アンダイエに着く。その後イルンで下車、マドリッド行きに乗りかえる。途中、ナヴーラ、カスチラと州を越え、ブルゴス、ヴラドリッドを過ぎて、夜の9時にマドリッドへ到着。出発から30時間近く経っていた。構内を出ようとしたところにずらりと整列しているホテルの客引きの中から、とりあえずホテル・コンチネンタルに宿を定める。
  16日(金) 朝、プラド美術館へ行く。ホテル・コンチネンタルとは通りを隔てた向いの、グランドホテルの食堂で昼食をとったついでに、宿泊先もここへ変更する。
  17日(土) 朝の9時過ぎに起床。滞在手続きのため警察に出かけるが、業務取り扱い時間外のため、やむなくアカデミア・サン・フェルナンドへ向ったが、馬車は別の寺院のようなところに着く。仕方なく歩いているとプラド美術館に行き当たった。昨日に引き続き再度見て廻る。昼に美術館を出て再び警察に行き手続きを済ませた後、アカデア・サン・フェルナンンドを訪れる。そして近代美術館へ行く。
  19日(月) 朝7時、ホテルの女中に起こされる。8時に北の停車場に着き、20分後に汽車でエスコリアルへ向った。11時前に到着。プラツツア・デル・モナステリオを訪れる。内陣の壁上に懸けられた「聖彼得」(聖ペテロ)と「聖ユウゼニオ」と廻廊の助祭室にある「聖モオリスと其戦友の殉教」の三枚のグレコ作品に注目する。オテル・レイナ・ヴィクトアで昼食をとり、写生をする。次にカシタ・デル・プリンチイブへ行くが感激する作品には出会わなかった。後、5時過ぎの汽車を待つ間写生をする。
  20日(火) 朝6時半に起床。アトチヤ停車場からトレドへ。10時過ぎに到着。トレドの町の高所を占めるアルカツアルへ向う。サント・トメ会堂でグレコの「オルガツ伯埋葬」を見た後、グレコの家を見学。その背後にある美術館でグレコの作品を見る。シナゴガ・デル・トランシトを見学した後、2時にカテドラルが開くまでの時間、タアホの断崖近くで写生をする。カテドラルでグレコの祭壇画を見た後、寺を一軒訪れてツオコドベル広場に戻り近くのカフェで1時間ほど休み、アルカンタラ橋畔で写生をした後、夕方マドリッドへ戻る。
  21日(水) パリへ帰る。

 102回にわたり掲載された大阪時事新報の「巡礼紀行−国画創作協会同人―」の記事は、このスペイン紀行のマドリッドへ向かうところで最終回を迎えますが、その最終記事の余録箇所には、黒田の次のような言葉が書かれています。
 「・・・・それから、此紀行も日本を出た時から数えると既に100回を越えている。遅筆な私はその間の時間の大半を、これを書くために費やしてしまった。余り長くもない留学期間に、私のやって置きたいと思う事も随分多いので、恰度これを機会に、一時筆を擱きたいと思う。春が来て、私の窓から見下せるクリュニイの庭にも嫩葉が美しく芽出して来たこれを見ているとじっとして居られない。早く郊外へでも行ってパレットを持ちたくなって来る。・・・・」
 そして、この後4月に小野竹橋(喬)[F]、9月に野長瀬晩花[G]が先に帰国していきます。それと入れ替わるように、また日本から同郷の画家が巴里へ到着してくるのでした。次回は、黒田重太郎の巴里の部屋に集う人々を中心にしてアルバムを綴ってみたいと思います。




[i]野長瀬晩花の手記より。 戻る>>

[ii] 大正12年の日本の帝国ホテル宿泊料金は、フロ付で一人室8円。大正13年の槍ヶ岳山荘の宿泊料金が米代別で2円40銭とあるので、値段的にはこちらに近い。ちなみに、大正11年初版のポケット英和辞典「コンサイス英和辞典」(三省堂)は2円、大正10年の一升瓶の日本酒の上等酒(特級酒)が2円50銭。『値段史年表』(朝日新聞社) 戻る>>

[iii] 福井艸公との交流は黒田の1回目渡欧を終えたすぐの大正9年ごろからはじまっていて、今回の渡欧に対して少なからず経済的にも支援していたようです。新聞記事のスクラップブックが二冊現存していることからも、福井艸公が黒田の紀行文を心待ちにしていた様子が伺えます。葉書には、神戸港で見送ってもらったお礼と、大勢の中だったのでゆっくりと話す暇のなかったことを残念に思っていることや、巴里到着後すぐは他の三人の世話を引き受けていたので、何かと用事に追われていたと、書かれています。 戻る>>

[iv] 大正5年に渡欧。翌6年から7年にかけてフランスに滞在。ルドンについては『美術写真画報』(大正9年1月)に「ルドンの象徴」を執筆。 戻る>>

[v] 昔、学生がラテン語を共通語に生活していた街。学生街。 戻る>>

[vi] 1921年に巴里に滞在した主な日本人は、画家の正宗得三郎、小出楢重、田中善之助、間部時雄、国松桂渓、坂田一男、坂本繁二郎、川口軌外、長谷川潔、木内克、美術史家の矢代幸雄、児島喜久雄、音楽家の小松耕輔、文士の岡田三郎、フランス文学者の折竹錫、すでに在仏し活躍中の藤田嗣治など。 戻る>>

[vii] 小野竹喬1889-1979 本名英吉。明治22年岡山県笠岡市に生まれる。明治36年に京都の竹内栖鳳の門下となり、はじめは竹橋と号する。 42年に開設された京都市立絵画専門学校の別科第1期生。44年に卒業。在学中に田中喜作、土田麦僊らと黒猫会、仮面会の結成に参加し、新しい日本画についての研究をおこない、大正7年、その確立にむけての国画創作協会結成に参加。昭和22年から28年まで母校(後に京都市立美術大学)教授を務める。(展覧会図録−近代京都画壇と『西洋』−京都国立近代美術館、1999より) 戻る>>

[viii] 野長瀬晩花 1889-1964 本名弘男。明治22年和歌山県に生まれる。はじめ大阪に出て中川芦月に師事し、芦秋と号したが、明治40年京都に移り谷口香?塾に入る。洋画的技法に傾倒した作風は、文展には受け入れられず、大正2年の第7回文展京都会場前で秦テルヲと展覧会「バンカ・テルヲ展」を開き反官展の姿勢を明らかにする。大正7年から国画創作協会結成会員として意欲作を発表。晩年は東京北多摩に暮らす。(展覧会図録−近代京都画壇と『西洋』−京都国立近代美術館、1999より) 戻る>>


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3.そして今宵も芸術談義

 1920年代「巴里」。それは芸術家にとって魅力あふれる都市。
 洋画の真髄を学ぼうと渡欧した多くの日本人画家の姿もそこにあった。長い船旅を経て、ようやく到着した異国の地で、望郷の念に駆られながらも、何かをここで掴んで帰りたいという思いがつのる彼ら。その中で1921年、一人の日本人画家の作品が巴里で絶賛された。藤田嗣治のサロン・ドートンヌに出品された<私の部屋、目覚まし時計のある静物>だった。藤田は1913年に巴里へ到着したものの、翌年には第一次大戦が勃発して日本からの送金が途絶えた貧窮の時代を迎える。そして渡仏3年目の1916年には巴里で成功させるまでは日本に帰国しないという固い決意を父への手紙にしたためた。藤田のように、巴里へ勉強しに来るだけではなく、巴里で一流と認められることを目指した画家もいたのだ。かつての第一次大戦下巴里の藤田を知る幾人かの日本人画家が、再び巴里を訪れた1920年代。黒田重太郎もその画家の一人だった。
 
 1922年、ソンムラール街22番地のホテル・ミディには、毎夜、志を熱く語り合う日本人画家で賑わう一室がありました。黒田重太郎がその部屋に移ってきたのは、前年の12月。それからイタリアとスペインへの駆け足旅行を済ませ、3月末から5月にかけては、旅行記の原稿書きに追われていました。ようやく、以前から教えを受けようと思っていたアンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスの門を叩いたのは5月20日過ぎのことでした。その頃になると一緒に渡欧してきたメンバーのうち、小野竹喬(当時、橋)は帰国していましたし、黒田重太郎も国画創作協会同人としての役目は終わったと考えていたようです。
 当時、黒田の部屋に集ったのは、同郷の画家仲間が中心でした。ある時は美術批評家、蒐集家を交えたこともあったでしょう。まだ到着後数ヶ月しか経っていないというのに、部屋の本棚はすでに買い集めた本で満杯で、収まりきらない本が机の上に積み重ねられていました。おそらく、それらの中には、黒田が1回目のフランス滞在の折に購入したモオリス・バレスの『グレコ』も含まれていたことでしょう。今回の芸術巡礼に携えるために日本から持ってきていたようです。このように現地の言葉に不自由しない黒田は、リアルタイムで当時のヨーロッパ画壇の情報を入手できたのですから、多くの画家が彼のところに集ったことは容易に想像がつきます。画の勉強にきている仲間達は大抵、研究所や自室で制作に励み、余暇は仲間と集い、カフェにでかけたりして歓楽街を歩くこともあったようですが、黒田は仲間内で一番熱心に勉強をしていたという評判でした。そんな当時のことを伝える記述が幾つか残されています。
 
 「この宿に日本人のムッシュウ・クロダがいるよ。」
  宿主にそう言われて驚いたのは里見勝蔵(1) 。里見もまた1922年3月、イタリア旅行から帰ってきてから後、ホテル・ミディに宿泊していました。彼は先輩の部屋を度々訪ねた当時を次のように書き残しています。
  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 
  僕の部屋がムッシュウ・クロダの一階上だったので、夜、階段を下って行くと、彼の部屋のドアの隙間からは、いつも晩くまで灯がもれていた。ムッシュウ・クロダも僕も京都の出身であり、関西美術院で学び、二科の出品者であるのをユカリとして先輩のムッシュウ・クロダに挨拶するためにドアをノックした。すると、ムッシュウ・クロダは−まァおはいり−というような、まことに味気ない迎え入れ方であった。なぜなら、ムッシュウ・クロダは非常な勉強家で、朝はアンドレ・ロート、午後はビッシェールの研究所に通い、街の画商を訪ね、日曜は博物館。毎夜はフランス美術書を読破する連続であったから、僕の訪問が彼の勉強をさまたげる様子であった。しかし彼がロート、ビッシェールから学んだ絵画の法則を説き、読書や美術館や、画商を見た感想や、感激を話し合うと、夜の更けるのも知らなかった。[里見勝蔵](2)
  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 
 
 ある日、里見は画室を訪ねて歩いているうち、アンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスを知り、かねがねロートを尊敬していたムッシュウ・クロダに早速報告します。また、里見はオーヴェル・シュル・オアーズに写生に出かけた折に出会ったヴラマンクについて、彼の里見に対する批評や感想を黒田に話して聞かせていましたが、黒田もその話から教えられることが多く、充分肯定すべきものがあると感じていましたので、二人は話し合った末、各自の性に適した路を行くことを決めたのです。里見はオーヴェルへ向い、黒田はアカデミー・モンパルナスへとでかけることになりました。二人が如何に芸術談義に夢中になっていたか、次の里見の記述からもうかがい知ることができます。
 
  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 
 ―里見君、羊羹がある― 日本茶を入れて画の話、毎夜毎夜画話。
  ロートの新説は全く私をおどろかせた。実に合理的だ。それはすべての古画が立証する。乃ちセザンヌの所謂―絵画の法則―である。ある時はルーブルに行ってベニス派プッサンの画の前に立って説明を乞ふた。私にとってはこれが実に実に有益であった。それは私がかつて日本にいて美術学校や色々な先生達から一言たりとも聞いた事では無かった。一方、私がヴラマンクとの交友によって自然と絵画単純、写実、物質固有色等の話を伝えた。
  私は画商を見て歩いた。黒田氏の知識欲は多くの絵画書を集めそして私達にその新知識を話された。私達はルオ、シャガル、ピキアソ、ウトリヨ、ドラン、ヴラマンク、スゴンザック、ブラック、マチス等を好んで話した。その頃の黒田氏の巨大な本箱は本で満ちてなおほ机の上にうづ高く積まれた。日一日に本は増して行った。宿の下男はこの室の掃除に困った。そして云う。―日本人は狂人だ、リーヴル本、リーヴル本、リーヴル本(黒田氏の為に)ヴィオロン、ヴィオロン、ヴィオロン(私の為に)そしてパンチユール画、パンチユール画、パンチユール画、毎日毎夜よく厭きないね―と。この下男日本より将来の羊羹を鋏で切って試食した―。[里見勝蔵]
(3)
  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 
 
 また、黒田の部屋に多くの仲間が集う時は様々な駄洒落が飛び交っていたようでうす。須田国太郎がスペインからパリに来ている時は、ソンムラール街のこのホテルを常宿としていましたから、その時は闘牛や音楽の新しい傾向についての話題で盛り上がったようです。そして、ある時などは、グレコの作品が大原コレクションに加わった話題に、歓喜の声が部屋に響いたりと、話題に事欠かない様子です。
 
  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇                
 ある夜、訪問すると、須田国太郎に紹介された。多くの画家はパリを目指して勉学に来るのに、須田はマドリッドに定住して、スペインが大変気に入っているということで、ムッシュウ・クロダと須田はグレコやゴヤと闘牛について話し合っていた。それはマドリッドからベルリンへ行く途中、パリに寄ったのであった。[里見勝蔵] (4)
 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 
 須田国太郎さんがマドリードから来たという速達プネマチックを受けて、度々黒田さんの宿に出かけたことがあった。児島虎次郎さんがややおくれて到着。今グレコの「ヨハネ」(受胎告知)を手に入れたという吉報がもたらされた。その時、最近スイスでドイツに売られる瀬戸際のセガンチニの牧場の絵(アルプスの昼時)を国境まで追い駆けて漸く買収に成功したという苦労話も聞かされて黒田さん、須田さんと喜びを共にした。 [川端弥之助] (5)
 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 

  なお、里見勝蔵(1895-1981)は、その後さらにヴラマンクと交流を深め、中山巍や前田寛治、そして佐伯祐三をヴラマンクに紹介したことは、しばしば語られていることです。また、川端弥之助(1893-1981) は、三輪四郎と共に1922年秋にパリへ到着。その後、黒田の紹介で両氏はアカデミー・グランド・ショミエールのシャルル・ゲランに師事しています。今のように情報があふれている時代ではないからこそ、人と人の繋がりが、その人の画業に、あるいは人生に大きな影響を与えていた時代でした。大原コレクションの基盤をつくったことで知られる児島虎次郎も、当時の絵画蒐集では現地での彼の人脈が最大限に生かされたといえるでしょう。(7)
 ところで黒田重太郎が里見からアンドレ・ロートのアカデミー・モンパルナスの話を聞いた時のその喜びは、言葉に表せ得ないものだったといいます。というのも、この年の春に独立派展覧会および「佛國絵画の百年」展覧会でロートの作品を目にして以来「袋路へ入つてどうしても先へ突き抜けられない様な私の思索を、一つの大道へ導くに就いて、可成りな啓示となった。」と言わしめるほどの感動を受けて、すぐに書店でアンドレ・ロートに関する評伝を1冊購入し、彼の画論と作風に共鳴していた黒田だったからです。ちょうどその年にアンドレ・ロートはモンパルナス駅近くに研究所を開設していたのでした。
 しかし、じつのところ彼はアンドレ・ロートに師事するか否か、悩んでいたのでした。新しい画論を受け入れるには、それまでの彼自身の「経験から一歩を踏み出す勇気」や「たとへ一時にしろ根本から覆へされるだけの覚悟」が必要だったのです。自己の内にある様々な葛藤を乗り越える留学中の画家たち。まさに異国の地における修行の何ものでもない巴里生活を送る彼ら。その中で、日本の画壇を担っていく使命感を持つ人々の深い情熱を感じさせる日々の交流。80年を経てもなお、色褪せることなく、日本画壇のアルバムに納められているのです。



[i]1859年−1981年。京都生まれ。父時三は緒方洪庵塾で医学を学び、大阪医学校を卒業後、明治3年に新設された京都の粟田病院(後、共同病院)に21歳の時に参加。当時、26歳の田村宗立(洋画家)が事務長を勤めていた。里見勝蔵は1908年、京都府立第2中学校(現京都府立洛南高校)に入学。同級生の野村光一(後、音楽評論家)と親交を深める。1913年に卒業後、関西美術院に入り鹿子木孟郎に洋画の手ほどきを受けた後、1914年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画に入学。在学中の1917年第4回二科展、第4回再興日本美術院展に入選。卒業後は京都へ戻り1年後に結婚。1921年に1回目の渡仏。5月に巴里へ到着。1925年1月日本へ向け巴里を発つ。翌年に上京、「1930年協会」を木下孝則・小島善太郎・佐伯祐三・前田寛治らと設立し、第1回展に滞欧作を出品(1929年、二科会会員に推挙されたため退会)。1930年には児島善三郎ら13名と独立美術協会を設立(1937年に脱退)。1954年国画会に入会。後58年まで2回目の渡仏、ヴラマンクに再会(里見が帰国して3ヶ月後にヴラマンクが死去、里見の追悼文が東京新聞に掲載される)。1972年77歳にして同志と「写実画壇」を作成。同年12月に3回目の渡仏、翌年2月に帰国。 戻る>>

[ii] 黒田重太郎が「関西の洋画壇 そのZ」(『木』梅田画廊、1971年12月) に引用しているものから 戻る>>

[iii] 『中央美術』「巴里に於ける黒田氏」12-1。戻る>>

[iv] 黒田重太郎が「関西の洋画壇 そのZ」(『木』梅田画廊、1971年12月) に引用しているものから。戻る>>

[v] 『木』梅田画廊No.8、1970.12。戻る>>

[vi]  1893年〜1981年。京都生まれ。慶應大学を卒業して京都に戻り、澤部清五郎に洋画の指導を受ける。1920に二科展に初入選。1922年から1925年まで滞欧、シャルル・ゲランに師事。1933年に春陽会会員となる。1949年より1963年まで京都市立美術大学、1971年から嵯峨美術短期大学で教鞭をとる。
 (叢書『京都の美術』U・京都の洋画 資料研究、京都市美術館、1980年 より)


[vii] 児島虎次郎の大原コレクション蒐集活動に関しては、『児島虎次郎伝』(児島直平、児島虎次郎伝記編纂室、平成4年再版)、もしくは『児島虎次郎』(松岡智子・時任英人編著、山陽新聞社、1999年)に詳しい。戻る>>


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4.アンドレ・ロートとの出逢い -前-

 モンパルナス停車場の脇、デパール街にある古い工場の2階。その大きな部屋はなんとか画室として使える程度のもので、しかもその部屋の天井には傾斜がなく、中央にある明かり窓は、お昼になるとモデルに光が直射して未熟な画塾生を困らせる。また一方の壁は、一面がガラス窓になっていて、近所の工場の屋根や煙突が見えている。これは習作を描くとき、背景の構図に役立っていた。1922年に始動したアカデミー・モンパルナスの教室の一風景より。
 
 1922年5月。黒田重太郎は、アンドレ・ロートに師事するためにモンパルナス停車場近くの画塾へ通い始めます。アカデミー・モンパルナスです。黒田が初めてその画塾を訪れた日、そこの経営者であり生徒でもあるスウェーデン人の女性から、だしぬけに「何しに来た」、「指導者の名前を知っているのか」と尋ねられ、「先生の名を知らないで習いにくるやつがあるものか、知っている」と黒田が答えると、「ロート氏はえらい人だ、聡明な師匠だ」と新米に言い聞かせるように、言われたといいます。
 じつは、黒田はその年の4月に開催された『フランス絵画の百年間』という展覧会に出展されたロートの作品に接し、また、同展覧会の目録に寄せられたロート氏の言葉によって深く感銘を受けていたことは、前回のアルバムにも綴ったところです。そのアンドレ・ロートについて黒田は、雑誌『中央美術』に「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」という一文を寄せ、このヨーロッパ滞在中に教えを受けた二人の師を紹介しています。また雑誌『アトリエ』の「ロートの人と芸術」もロートを知りうる貴重な記述と言えるでしょう。
 
 アンドレ・ロート(Andre LHOTE)は1885年7月5日、フランスのボルドーに生まれ、1898年から1904年の間に美術学校で学び、このときは絵画ではなく装飾彫刻を受講したようです[i]。これは、後のロートの画風確立に深く関わっていったと考えられています。展覧会にその作品が並ぶようになったのは、1906年のアンデパンダン展、そして1907年のサロン・ドートンヌでした。
 ちょうどその時代は後に「立体派(キュビズム)」と呼ばれる作風が幾人かの画家によって描かれ出し始めた頃です。中でも良く知られているのが黒人彫刻に影響を受けたピカソ(Pablo PICASSO 1881-1973)そしてブラック(Georges BRAQUE 1882-1963)やドラン(Andre DERAIN 1880-1954)ですが、当時彼らの住んでいたモンマルトル界隈だけでなく、ロートのようにモンパルナスにもキュビズの中心的な画家が住んでいたのです[ii]。そしてロートはその芸術を論じる理論家としても名を成した画家でした。
 セザンヌの作品やその画論からも強く影響を受けた「立体派」の画家たちは「セザンヌ的キュビズム」と呼ばれますが、次第にそれぞれの求めるところにより「分析的キュビズム」から「綜合的キュビズム」へと変遷を見せます。その中にあってロートが求めたものは何であったのか、探り出すと本題からそれてしまいますから、機会を別にゆずることにしましょう。
 
 ところで、画塾へ通っていた頃のことを黒田は次のように記しています。
 
  かねて覚悟はしていたが、最初私に対するロオト氏の批評は随分手厳しいものだった。正直に云うと、私よりまづそうな画を描いているお嬢さんたちだって、こんなに手酷くやられたことはない。寧ろロート氏は多くの場合生徒たちのいい点をあげて、力づける方なのだが、何故こんなに私だけ仇敵のように扱われるのだろうと、時に馬鹿な嫉も起らないではなかった・・・[iii]
  ・・・やれ印象派だ、ゴオギャンだ、浮世絵だとやられたものです。断っておきますが、ここに印象派の、ゴオギャンの、浮世絵のと云ったのは云うまでもなくいい意味ではありません。色彩がクールで、描法がシエマチックで、表現が小さすぎる意味だったのです。[
iv]
 
 その習い初めの苦悩に満ちた黒田の様子を見かねたのでしょうか、例のその画塾の経営者兼生徒のスウェーデン人の女性(黒田の記述では”A嬢”となっている)が、「あれであなたが懲りてもうやって来ないかと心配した」と黒田に言ったそうです。そして通い始めて一月余りが過ぎた頃、黒田はようやくロートに認められるようになるのです。
 
  ・・・・「君も彫刻家のように描き出したこの彫刻するように描くと云う事を忘れぬようにしたまえ」と、始めて承認の言葉を与えられたのはものの一ヶ月も経ってからであった。
  何でも六月の末近い或る週間であった。午後のクウルに男のモデルを使って、ドメニカン僧侶の風をさせた事があるが此アカデミイとしては少々珍しいものだったので、こうした題材に慣れない生徒は次第に仕事を中止して、二人減り、三人減り、しまいには私独り残ってしまった。その時氏は私にルーヴルへ行ってグレコやリベラ、ズルバランあたりのスペインのものをよく見るように忠告され、そして私の作とそれ等のものとを比べて、至らぬ所を指摘されたが、週間の終わりになって、「いろいろの小言は云うけれど、君の今描いているものは此アカデミイ始まって以来のメイユールだよ。いいかい。どんな場合にも失望しないで仕事を続けたまえ」と囁くように云われた。
[v]
 
 この時の作品が<一脩道僧の像>であり、はじめてフォルムが掴めたといってロートに喜ばれた作品でした。そしてこれ以後、ロートの指導はより厳格なものになってはいきましたが、師弟の絆もより一層、強められていったのでした。     



[i]「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、pp.4-5
 ;Alexandre MERCEREAU,ANDRE LHOTE(Paris;Povolozky,1921),p9
アンドレ・ロートの修行中に関する記述には、次のようなものがある。
「・・・・小学校を中退し、装飾木彫の工房で10年余り働く。独学で絵を修得し、20歳のとき画家を志す。・・・・」(展覧会図録『モンパルナスの大冒険1910-1930』読売新聞社・美術館連絡協議会、1988、p.40)
また、2003年6月15日から9月28日の間にMusee de Valence でアンドレ・ロートの回顧展が開催されており、美術館のホームページ上に掲載された展覧会の記録〔DOSSIER DE PRESSE、ANDRE RHOTE(1885-1962)RETROSPECTIVE〕にロートの略年表が含まれていた(http://musee-valence.org/)。
その記載内容と先にあげたものとを総合すると、1898年に初等義務教育を中退し、装飾木彫の工房に従事しながら、ボルドーの美術学校で装飾彫刻のコースを受講しており、1905年に画家への道を志した、ということになる。 戻る>>

[ii] 展覧会図録『モンパルナスの大冒険1910-1930』読売新聞社・美術館連絡協議会、1988、p.171 戻る>>

[iii] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.18 戻る>>

[iv] 「ロートの人と芸術」『アトリエ』4-8、1927、p.49 戻る>>

[v] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.18 戻る>>


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5.アンドレ・ロートとの出逢い -中-

   1922年6月初め ― 黒田重太郎が<一修道僧の像>を描く少し前 ― に、吹田草牧[i](1890−1983)が巴里に到着した。草牧は日本画家で重太郎の母方の従弟にあたる。今回の渡欧の計画が持ち上がらなければ、一緒に伊豆の真鶴で写生をすることになっていた。何ヶ月ぶりかで再会した二人は、早速、巴里の美術館や画廊を見て廻った。重太郎のホテルに戻った草牧は、興奮を抑えきれずにいたにちがいない。

草牧:「重さん(草牧は黒田をこう呼んでいた)、私はすっかりまいってしまいましたよ。今日、連れて行っていただいた、あのボエシィの通りの、そう、ロオザンベエル美術店で見た19世紀絵画の展覧会。セザンヌやゴオグ(ゴッホ)にゴオガン(ゴーギャン)、ルノアル(ルノアール)にピサロ、それからクウルベエ(クールベ)とモネエ(モネ)と、シスレエと、それから、、、。」
重太郎:「マネエもあったし、ロオトレエク(ロートレック)も。」
草牧:「まだありましたね、ルドン、ドガア(ドガ)、ルッソオ(ルソー)。そうだ、ミレエやコロオ、アングル。それにシャヴァンヌやドラクロア。ドオミエも見ましたね。すごかったなぁ。どれもこれも、私に強い力で迫ってくるのだから、ほんとうにすごかった。写真で見てよく知っている絵もたくさんありましたね。私は感心しきってしまいましたよ。でも・・・でもね、重さん。これだけの立派な芸術を本当に理解できるまでになるのも簡単じゃないだろうなぁ。」
重太郎:「そんなすぐにはわかりっこないだろうね。」
草牧:「・・・そうはっきり言わなくたって。ね、だからね重さん、私はフランスにできるだけ永く居て、誰かいい先生について、デッサンを充分に勉強しなきゃならないんじゃないかと思うんです。デッサン力の乏しいのが私の欠点ではないかと。」
重太郎:「デッサンは大切だからな。芸術の真の力に触れたいと思うなら、まずアカデミイにでも通って、真面目に勉強することだね。そうすれば、立派な芸術はきっと向こうから働きかけてくれるものだよ。」
草牧:「だ・か・ら、・・そこなんですよ。日本を発つ時は伊太利の古い芸術を見ることばかり楽しみにしていたのだけれど、こちらに着いてみて、どうも仏蘭西の近代美術の方が私には必要なもののように思えてならないのです。重さんの書いたものを読んだりして伊太利に憧れていたのだけれど、やはり今は仏蘭西で勉強しようかと、本当にそう考えはじめているんです。」
重太郎:「君がそう考えているのなら、誰か先生を世話してもいい。私も先月からアンドレ・ロオト(アンドレ・ロート)の画塾へ通っているが、これがなかなか勉強になる。だってね、今の仏蘭西の現代芸術が大きな仕事をなしとげつつあるように、確かにそう思えるんだよ。上手く言えないがね、ロオトは絵画の備えるべき必要条件を幾何学な理論で研究していて、絵画とは決して直観的な印象や感じだけで描くべきでないというんだ。ロオトの作品は、まず、その敏感性が私の胸を打ち、このうえもなく堅固な構成と魂の律動的なアラベスクに、それまで朧げながらにも、私が追究していたものを目の当たりに見る気がするよ[ii]。ロオトの指導はどうかだって?それは、それは、厳しいものだよ。それでも君、先生についてよかったとつくづく思うよ。だんだんではあるけれど、芸術観もはっきりとしてきたようだし。さて、まぁお茶でも飲みたまえ。羊羹もある。このまえ、このホテルのギャルソンはこれを鋏で切って食べていたよ。里見君と大いに笑ったものさ。明日はどこを案内しようか・・・」


 これは吹田草牧が姉(しず)宛ての書簡をもとにした[iii]想像の会話ですが、もとのその書簡を読んでいきますと、草牧もロオトの作品を見て感銘を受けたようですし、七月初旬には毎日午後にアカデミー・グランド・ショオミエールで、デッサンを研究していました。そして9月下旬から10月初め頃。さらに勉強ぶりを発揮する重太郎の熱心な姿を羨む草牧でした。

 ・・・・相変わらず素張らしい勉強ぶりです。夏の間に田舎で随分かいて来ましたが、これから定めしいいものが生れるだらうと、希望を感じさせるやうな絵です。今、三十号くらひに、女を二人かいて居ますが、中々よくなりさうです。重さんは日本の洋画のために、きつといいものをもたらしてくれるだらうと思ひます。美術評論の方も中々勉強して居ます。帰朝後は現代のフランスに就いて著述するさうです。あの人の精力は羨ましくなります。[iv]
  重さんの今やつてる製作はだんだんよくなりさうです。日本人の絵としては、余程すぐれたものです。あのやうに勉強してだんだん効果の現はれて行く人を見ると実に羨しい気がします。
[v]

  これは重太郎がアンドレ・ロートの画塾へ通って5ヶ月あまりが過ぎた頃の話ですが、すでに重太郎はその頃、帰国した後の美術雑誌へのヨーロッパ美術に関する寄稿を決意していたことがうかがえて、興味深い記述です。一人の画家として、ただ単に技術を磨くだけではない、なにか別な志を感じる一面であるといえるでしょう。それはまた、当時のロートの活躍ぶりに少なからず共通するものがあります。ロートもまた、絵画の制作のみならず、アカデミーでの指導や雑誌への執筆に情熱を持った画家だったのです。    



[i]大阪市生まれ、本名は憲一という。明治41(1908)年に京都へ移り、黒田重太郎の影響で洋画家を志し関西美術院で鹿子木の指導を受けるが、後に日本画へ転向。大正3年に竹内栖鳳の門下となり、先輩の土田麦僊の指導を受ける。国画創作協会・新樹社・帝展・に出品。戦後は日展に出品することなくと東京に移り住んでからは主に洋画を描いていた。 −近代京都画壇と『西洋』展図録、京都新聞社、1999、p.110− 戻る>>

[ii] 「アンドレ・ロート氏とロジェ・ビッシェール氏」『中央美術』9-7、1923、p.15 戻る>>

[iii] 「吹田草牧のヨーロッパからの書簡」『美学美術史論集』第8号第3部.成城大学大学院文学研究科、1991年3月、p.58,59,63,77 戻る>>

[iv] 同注A、p.126 戻る>>

[v] 同注A、p.128 戻る>>


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6.アンドレ・ロートとの出逢い -後-

 黒田重太郎の作品を、もしも今ここで年代順に並べてお見せできるなら、おそらく多くの人はその作風が明らかに変化していったことに気づくだろう。まったく、作品を前にすると、同一人物が描いたのかと思うほどである。が、しかしそれはまた、黒田が常に何らかの影響を大きく受けているということに他ならない。機会があれば、ぜひ作品の前に立たれることをおすすめしたい。

 黒田がロートのアカデミィに通い始めてから其処を去るまでの間、幾枚もの作品が仕上げられたことでしょう。ただその中でも、<一修道僧の像><エスカール(後の「港の女」)><水浴の女>の3作は、彼の第二次滞欧作を代表するものといえます。

  ・・・・それから一月ばかりして「一脩道僧の像」を描いて、はじめてフォルムが掴めたと云つて喜んでくれ、「エスカール」を描いて「君のこれ迄の傑作だ」と云はれ、「水浴の女」で最も成功の域に達したと褒めてくれました。但しこの時私はもうロオトのアカデミィを去る時分になっていたのです。   「ロオトの人と芸術」

   ・・・私は一旦信じて師に就いた以上、少なくも教えを受けている間は、その教訓に徹するために、できるだけ自分勝手な解釈や、やり方を慎んだ。「一修道僧の像」「港の女」「水浴の女」等、当時の作が証するように、忠実にロートの作風を受け入れていた。しかし私はこれをもって生涯終始する考えはなかった。   「関西の洋画壇」

  つまり、それらの作品はあくまでも黒田がロートの教えを自分の中に取り込む過程のもの、後年振り返ってみれば、独自の作風を確立させるための通過点であったようです。
 そしてロートもまたアカデミィに学びにくる人々に対して、いつまでも彼の作風に忠実でいることを望んではいなかったのです。

  いよいよ日本へ帰る事が決まつて、その事をロートに告げますと、「さうか、それは大変名残惜しい、だが君も私から取り入れるだけのものは既に取り入れた筈だ。この点では私も心残りでない。この上は何処に居ても君自身が君を教へねばならぬ時になつているのだ。これは云ふ迄もなく私と一所にやつている時よりむづかしい。併し君はこれもやり通さねばならぬ」と云ひました。手っ取り早く云へば何時迄も俺の真似をしていてはいけないと云つたのらしいです。   「ロオトの人と芸術」

 また、彼は黒田の帰国後の制作に対しても関心を示し、日本で制作した作品の写真を送るように頼むのでした。― 黒田が写真を送ると、ロートから感想が返ってくる。 ― 書簡の往復があってかどうかは定かではありませんが、1924年にロートは日本においてアスランやビッシェールと共に二科会の在外画家会員に推挙されました。その前年、つまり黒田が帰国した年の1923年9月に記念すべき第10回二科展が東京で開催されて、仏蘭西現代画家諸作の特別陳列も企画されました。それら作品群の中にすでにロートのものも含まれ、十数点展示されていたようです。

 しかし、東京・上野の会場は初日に大震災に見舞われ急遽閉鎖となりました。会場にいた黒田はじめ小出楢重、国枝金三らは、仏蘭西からの預かり作品に気を配りつつ、他の諸対応を一段落させて、やっとのこと救援物資を積んできた郵便船の帰航に便乗して大阪へ戻るのですが、その途中で大阪・京都など、東京以外での地域で第10回二科展を開催する案が持ち上がり、大阪へ到着するやいなやすぐに朝日新聞社へ相談に行きました。その成果あって無事に開催を実現させることができたのでした。当時の図録の序文には次のように記されています。

  日本最近の美術界に著しく勃興して来たアンデパンダンの潮流に先駆して、二科会が起されたのは実に十年以前であった。この間新しい機運を誘導するために、二科会が奇興した所を考へて見るとその効績必ずしも鮮少なものであるまい。この思ひ出多き第十回の誕辰を迎へるに当って、二科会の企画した所は一にして止まらなかった現代仏蘭西の独立派芸術の各傾向を代表する所のマチス・ピカソ・デュフィ・ブラック・ロオト等錚々たる人々に嘱して、その人等の光彩ある作品を一堂の下に集めたのもそれである。これに依て吾人は、現在世界の美術界を横断して流れる、新しい精神と呼吸を合わせる事が出来る。また従来二科会にその作品を発表して認められていた所の気鋭の作家達を新たに挙げ会員としたのもそれである。これに依って此団体は日と共に新たな地歩を占めやうとする日本の新しい芸術に、貢献する所であらうと考へたに外ならなかった。斯くてすべては準備せられ上野の秋のセエゾンに魁して、二科会がその新しい陣容を以って公衆の前にあらはれたのは九月一日であつた。然も開催僅かに半日、夫の帝都をはじめ、関東一帯を襲った大地震の為に、中止の止むなきに至つたのであるが、?に紹介された日本及び佛国の作家の尊敬す可き努力をして、空しく葬られ了せしむる事は独り二科会其者のみならず、広く日本の新しき文運のために甚だ悲しむ可き事としなければならない。幸にして災厄を免れた殆ど全部の作品を挙げて関西に移し、万難を排して先づ大阪に開会の運びとするに至つたのも偏に此微衷の然らしむる所である。

 日本国内で一般市民が同時代の仏蘭西国の画家の作品を観ることができるようになったのは、日本洋画史1920年代の特筆すべきことと言えるでしょう。さらに、在外会員として外国人画家を会員に推挙した当時の二科会の意気込みがうかがえます。この第10回二科展は、大阪会場の後に京都と福岡で開催されました。
  黒田とロートの親交の軌跡をたどると、そこにはおのずと日本洋画史における一つの潮流を見出すことができます。一人黒田のみならず、自国の芸術興隆に情熱をそそぐ人々が集う街、1922年巴里はそんな横顔も持っているのです。黒田はロートから学びえたことを晩年まで忘れることはありませんでした。     


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7.飛躍の予感

 1922年巴里。黒田と同じように、ここを再び訪れている日本人画家がいた。正宗得三郎(1883−1962)である。彼が最初に巴里の地を踏んだのは1914年。第一次大戦勃発のため1916年に帰国した。当時、新帰朝者として目覚しい活躍を見せた正宗は、1921年から再びフランス絵画受容の旅にでた。黒田重太郎たち一行が巡礼紀行を始めた頃、すでに巴里のソンムラール街17番地の宿でドイツ帰りの小出楢重と画論を交わしていた。新しい出会いと過去の出会いが交差する街巴里。1923年の扉が開かれる頃、黒田がその地を離れる時期も間近となる。

 黒田重太郎にとって二度目の巴里。一度目の滞欧はちょうど第一次大戦中だったこともあり、美術館へ訪れても満足な作品鑑賞ができなかった悔しい思い出を残しています。しかし一方で、夏に訪れたブルターニュでは、当時戦争中であることを忘れてしまうほど、のどかな日々を過ごすこともできました。そのなかから一度目の滞欧作を代表する作品<ケルグロエの夏>や紀行文『憧憬の地』が生まれています。再び訪れた巴里の空の下で黒田はその頃を懐かしく思い出していたことでしょう。
 そしてまた、一度目の巴里滞在で実現することのなかった「師について学ぶ」ことが叶ったことは、その後の大きな糧となったのでした。アンドレ・ロートのもとで学び、その仲間と夏季講習会に参加した黒田のもとを、吹田草牧が訪問した時にはすでに78枚の油絵があったといいます。

9月17日(日曜日)
 9時半起床。ノオトルダアムの勤行の音を久し振りできく。入江君のところへ行くと伏原さんが来て居る。三人で重さんの処へ行く。重さんは丁度在宿。78枚も油絵が出来ていたが、重さんが一生懸命に勉強して居る様子がよくわかった。よく纏まっては居なかったが、これからいゝものが生まれやうとするのが解るやうな作品であった。羨ましくなった。久し振りでいろいろと話して、皆でシャルチエエへ午餐をしに行く。・・・・4時宿へ帰って入江君のところで話をして居ると、そこへ重さんが来た。一緒に出てサルチエエで晩餐をする。それから重さんの所へ行く。間もなく伏原さんも来た。三人で重さんから伊太利亜旅行の順序や行程を教はって、筆記をする。12時までかゝってへなへなになってやっと筆記を終へた。しかしこのために大変見当がついて楽になった。それから少し話をして帰る。サン・ミッシェルのカフェでシオコラアを飲んで帰る。私もとうとう来月早々伏原さんや入江君と一緒にイタリヤへ行くことにした。一時半就寝。

 吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第319号、連載]Z「近代美術資料」)より

 吹田草牧がイタリアへ旅立ってしまったので、その間の黒田の巴里での様子は彼の日記から知ることはできず、年が明けて1923年2月27日の記述を待たなくてはなりません。その間に、巴里へまた一人の日本人画家が到着しています。石井伯亭です。1月6日にサン・ラザアル駅に到着した彼は、その足で正宗得三郎と坂本繁二郎を訪ねます。そして正宗得三郎の案内でレカミエエというホテルに宿を定め、ちょうど其処に滞在中の木下杢太郎と三人、カルチェ・ラタンの中華飯店へ出かけると、その店の常連である児島虎次郎に出遭います。今回の石井伯亭の渡仏の目的は、二科会創立十周年を記念してサロン・ドートンヌに日本部を設立するための交渉でした。
 石井伯亭は梅原龍三郎の紹介でサロンの陳列委員長のモーリス・アスランを1月13日に訪ね、日本の近代画を一室に展示する快諾を得ました。19日にはアスラン氏よりサロンの委員会から正式に日本部開設の連絡を受けます。そして早速、正宗得三郎、斉藤豊作、坂本繁二郎とサロンの会員である藤田嗣治を在巴里の委員として、東京を代表しての山下新太郎を加え、1923年秋の展示に向けた準備が開始されました。これは日本現代美術が巴里でまとまって紹介される機会として、1922年春にグラン・パレでのナショナル・デ・ボザールサロンに日本美術展設置に続くものです。この春の展示では帝展出品作を中心に新画と古美術を合わせて450点が展示されたようですが、今回の秋のサロンへは二科会員の作品を中心に60点余りの展示にするという厳選されたものが計画されました。これはサロンおよび二科の権威のためであったのです。黒田はこのサロンに<母子像>と<雪霽>を出品することになります。
 巴里へ到着して間もない石井伯亭の行動振りを見ても、当時の二科会の勢いを感じ取ることができます。一方、黒田も帰国を3月に控えて慌しい日々を送っていました。石井伯亭が黒田の部屋を訪れた1月14日は、ロンドン旅行から帰ってきて間もなく、また二度目のイタリア旅行へ出発する数日前でした。17日には出発前の晩餐を日本人倶楽部で石井伯亭、正宗得三郎、坂本繁二郎らとともに過ごしました。そして一ヶ月あまりのイタリア旅行から戻ると、久しぶりに吹田草牧が訪ねてきます。

2月27日(火曜日)
  9時頃起きて、午前中は室内で製作。土田さんが来て、昨夜重さんと石崎、広田両氏が来て名刺をおいて行った、と云ふので、これから行かないかとの事だったが、私は絵がかきたいから、やめる。それから1時前から出る。・・・・それからメトロでアカデミーへ行く。テンペラでやって見たが、中々むづかしくって、うまく行かない。それでも4時まで一心に勉強した。帰途ブランシエへ行き、そして重さんの宿へ訪ねて見たが留守。サン・ミッシェルの本屋へ行ってみると、重さんと石崎さんとに出遭う。久潤を叙した。それから一緒に重さんの買物につき合ってサン・ジエルマン・デ・プレまで行き、あの人たちの宿、オテル・デュ・ミディへ行く。・・・・メトロでマイヨオまで行って、日本人倶楽部へ行く。牛肉の鋤焼たべた。それからまたメトロでひきかへす。重さんの部屋で久しぶりにやうかんをたべる。里見君が来る。・・・・そのあとへ国松氏が来る。いろいろとみなでイタリアの話をする。重さんの、ジッシエエルの絵を見て、つくづく感心した。・・・・
  吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第384-385号、連載59・60「近代美術資料」)より

3月2日(金曜日)
  9時過起床。朝餐後オテル・デュ・ミディへ行く。重さんの処へ行くと、今朝書留が来たので見ると、郵船からので、首尾よく北野丸の船室がとれたと云ふことであった。まあよかったとよろこぶ。石崎さんや広田さんの部屋を交々訪れる。・・・・三時頃から重さんの買物をつき合って、ギャルリイ・ラ・ファイエットへ行く。そこで毛糸や卓掛を買って、それからベルジャルディニエエルへ行って、重さんの洋服や、子供たちの洋服を買ふ。・・・・

 吹田草牧『滞欧日記』(京都国立近代美術館機関紙『視る』第385号、連載60「近代美術資料」)より

 黒田の巴里出発の日を数日後に控えた3月はじめ、吹田草牧の日記は慌しい日々が綴られています。黒田がみやげ物を買ふのに困っているのを見かねて、百貨店やおもちゃ屋などへの買い物を手伝うかたわら、病気になった石崎光瑤の看病も託され、生活のリズムがすっかりかわってしまって、疲れも出てきたようです。そんな草牧へ黒田はブルターニュ行きをすすめるのでした。
 そして3月5日の夜、草牧が訪れた黒田の部屋では、国松桂溪はじめ3人の画家を前にしてイタリアの講義が繰り広げられていていました。かつて草牧がしたように筆記する彼らの姿がありました。7日には、日本人倶楽部で送別会が開かれ、黒田は8日の夜の電車で巴里を離れたのでした。その後、草牧は4月中旬にブルターニュへ向います。4月1日付けの姉への手紙にも「ブルタアニュと云っても広いものですが、私はそのうちの巴里から西南の海岸の方へ行かうと思ひます。前に重さんが行って居た所です。林檎の樹が多いので、その花を見たいと思ふのです。」と書いています。一方、帰国の途についた黒田は船上で、おそらく日本で帰りを待つ家族の笑顔、そして開花間近の桜に思いを馳せていたのかもしれません。

 「巴里といふ所は、絵の勉強でもしようと思ふと、一向につまらない処だが、お金をどつさり持って、買い物でもしたり、ぜい沢していれば、それこそ何年居ってもあきないかもしれん」と言って(だからと言って巴里での思い出は深い)、滞欧数ヶ月で帰国してしまった小出楢重は、黒田と対照的な存在ではありますが、二科会員として、また大阪信濃橋洋画研究所の講師陣として、まさに好敵手となる人物でした。もう一人、同じく1922年に渡欧している鍋井克之も忘れてはなりません。ただ、黒田は鍋井とは巴里で出会うことなく帰国しているのです。鍋井とは信濃橋洋画研究所の設立準備の頃から親しくなり、それ以来晩年まで40年以上もの交流が続く間柄となるのでした。
 国画創作協会の画家三人との「欧州芸術巡礼紀行」で始まった黒田の二度目の渡欧は、一度目の滞欧経験とともに彼の画業の大きな転機となりました。帰国後は西欧画壇の新しい思潮や画家・作品の紹介者として日本洋画壇の欧化主義者の一人に数えられましたが、ロートもそう望んだように、黒田はいつまでも西欧画壇の作風に固執していたわけでありませんでした。帰国後数年を経て、ロートやビッシェール、セザンヌ風の画面を抜け出し、独自の画風を確立していくのでした。

 これまで取り上げてきた巴里での日本人画家達の交流は、ほんのアルバムの1ページ。いつの日かまた、アルバムを手にすることがあれば、そこには新たな風景が繰り広げられることだろう。その日の訪れを楽しみに、ひとまず「日本人画家滞欧アルバム1922」を閉じることにする。      

黒田重太郎<ケルグロエの夏>1919年


(参考文献)
・『史料・画家正宗得三郎の生涯』村山鎮雄 1996年 美術の図書三好企画
・「吹田草牧のヨーロッパからの書簡」田中日佐夫 『美学美術史論集』第8第2部 1991年 成城大学大学院文学研究科 
・『美術と自然 滞欧手記』石井伯亭 1925年 中央美術社
・『大切な雰囲気』小出楢重・匠秀夫編 1975年 昭森社



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