「裏方物語」

国際情報専攻5期生・修了  寺井 融

1.書記か職員か ・・・・・・・・・・・・ 12号(2003.6.1発行)掲載
2.理論誌『革新』 ・・・・・・・・・・・・ 13号(2003.9.1発行)掲載
3.公募をしてみれば・・・ ・・・・・・・・・・・・ 14号(2003.12.1発行)掲載
4.「随行さん」 ・・・・・・・・・・・・ 15号(2004.3.1発行)掲載
5.選挙違反? ・・・・・・・・・・・・ 16号(2004.6.1発行)掲載
6.ハリツケ ・・・・・・・・・・・・ 17号(2004.9.1発行)掲載
7.春日常任顧問 ・・・・・・・・・・・・ 18号(2004.12.1発行)掲載
8.生涯一運動家 ・・・・・・・・・・・・ 19号(2005.3.1発行)掲載





1.書記か職員か

 いまは、新聞社に勤めている。

 先日、ある会合で中年男性にからまれた。
 「私は元自衛官です。新聞は犯罪が起こると、なぜ元自衛官ダレ・ソレと書くのですか」
 「犯人の場合ですか‥‥」
 「まぁ、その疑いがあるときにですね、もう退役していて、いまは民間会社に勤めていても、会社員とは書かずに元自衛官と書く」
 えらくご立腹の様子であった。
 いつの事件のどんな報道を指しているか、どの新聞であったのか、具体的なことを言われないので、答えようがなかった。確かに、一部マスコミが自衛隊について厳しいきらいがあった(ある?)ことは、事実である。

 ところで、当方は金銭にまつわるスキャンダルを起こしたとしよう。新聞社勤務と書かれるのか、それとも会社員か。あるいは元政策秘書、または元政党職員か。どれもが正しいのだけれど、書かれる肩書きによって、同じ人間でも随分とイメージが違ってくる気がする。
 いま勤務する全国紙には、五十二歳のとき入った。その前の三年三ヶ月は、西村真悟衆院議員の政策秘書。また、その先は新進党に一年三ヶ月、民社党に二十三年九ヶ月、計二十五年となり、四半世紀が政党本部勤務である。いわゆる党官僚というやつだ。

 さて、社会部記者生活が一年経ったときだ。三十になったかならないかの若手記者に「寺井さんって、普通の人ですね」と言われた。「エッ?」と怪訝な顔をしていると、「いゃ、悪い意味でいっているわけではないですよ。私たちと変わらないなと思いまして‥‥」と続いた。
 今度入ってくる記者は、政策秘書だった男だ、何をするのかと、保護観察中だったらしいのである。一年経って、特別強引というわけでもなく、油ぎってもいなく、金に汚いわけでもない。「ただのオジさんだ」と悟ったということらしく、仲間と認められて、少々嬉しいもあり、腹立たしくもあり、そういうものかとのあきらめもあり‥‥。

 昭和二十二年生まれである。団塊の世代で、大学時代は学生運動が荒れ狂っていた。当方も、その一翼を担い、といっても新左翼の全共闘ではなく、民青でもなく、自分でいうのも気恥ずかしいが、良識派の民社学同である。名が示すように民社党系。羽田事件の四十二年、結成に参画し、副委員長もやった。
 就職は民社党本部を希望したが、それに反対したのは両親である。「民間企業に勤めて、政治活動をやりたいのなら、そこで労働運動をやったらいい」といったのは父親であり、母親はただただ「普通の会社に」を繰り返すのみだった。
 その願いを振り切って、四十六年に民社党本部に入った。小学六年生のときからの支持者(早熟なのです)だけに、感慨無量! 組織局に配属となり、先輩のお姉さま方二人から、黄色の幅広ネクタイをプレゼントされた。
 背広を持っていなかったので、親に二万円(月給は四万円を切っていた筈)を借金して、吊るしを買った。夏のボーナスで返した。後で母親から「あげるつもりだったのに、あなたは返しにきた。可愛げがなかったわね」と言われた。ちなみに、二つ下の弟は、修士を修了し、就職の際、親に車の頭金を出してもらい、ローンは自分持ちだからと車を乗りまわしていた。甘くなった親にも、出せる実家の家計にも驚いた。
 それともうひとつ。党本部で組織局入りをきいた全繊同盟のY都支部長、この人は、昔タイプの労働運動家だったが、「組織局か、エリートやな。背広を作ってやる。事務所に遊びに来い」と言われた。忙しさにかまけて行かないでいると、ま たもや「可愛げがない」である。不興を買ってしまった。

 それはさておき、当時の民社党本部には、八十五人の事務局員(当時は書記)がいた。本部には書記局があり、組織拡大活動をする人をオルグといった。機関紙局や教宣局、青婦局もあった。後に、教宣局は広報局、青婦局は青年局と女性局に変わったが、反共政党の民社党においても、共産党ばりの名称を使っていたのである。
 選挙が弱かったので、採用も空きが出てからという時代が長く続いていた。その年は東北大法、慶應経、早稲田政経、それに中大法卒の四人を雇う。「一挙に四人は多いですよ」と反対した総務局長に、ときの西村栄一委員長(真悟代議士の実父)は、「彼らは一億円の金の玉子。党の宝なんだ」と押し切った。
 職場に入って、早速先輩たちの宴席で「お前たちの金玉は、一億円なんだってな。ここで見せてみろ」とからまれた。
 昭和も終わりの頃、名簿が配られてきた。表紙に「民社党本部職員名簿」と印刷されてあった。「職員というのはおかしいですよ。われわれは書記じゃないですか」と、既に中堅となっていた四人組のうちの一人、F君が反撥した。出来たての名簿は、すぐ回収となった。「書記なんて、共産党みたいだし、職員でいいじゃないか」と思っていた当方だけど、発言は慎んだ。Fは一年休学して仙台から上京。民社学同書記長を勤めた男である。親が猛反対で、生活費は六本木のクラブでシェーカーを振って稼いでいた。「書記」にこだわる気持がわからないでもない。その彼はいま、宮城県会議員として泥臭い日常活動に追われるかたわら、母校の大学院に通っている。

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2.理論誌『革新』

  学卒で入った(昭和46年)民社党本部での担当は、『組織局報』(月刊)の編集と業務であった。A5判80頁のタイプ印刷(1000部)。上司は出張でほとんどいなかったから、編集長兼小使いみたいなものであった。
 あるとき、大内啓伍教宣局長(後に委員長、厚生大臣)に呼ばれた。
「来年から、本格的な理論誌を出す」
「ハイ」(噂できいていたかから驚かない)
「そこで、君に実質上の編集長をやってもらいたいんだ」
「ハッ!」(これには驚いた)
「対外的には自分だが、全面的に任せる。責任はとる。自由にやってほしい」
 スタッフはどうなっているのかと訊ねると「男二人と女一人をつける。あとはアルバイトを使ってもよい」と言われ、「『前衛』(共産党中央理論誌)に負けない雑誌にしてほしい」と念を押された。同人誌や部内誌のささやかな経験があるものの、本格的な雑誌体験は皆無。不安である。でもね、「任せる」と言われれば、燃えましたね。A5判240頁、1万部発行の理論誌『革新』(月刊)が、わずか二ヶ月の準備で創刊となった。24歳の春。独身だった。

 中央理論誌委員長(発行人)は佐々木良作書記長、委員に竹本孫一政審会長、麻生良方機関紙局長ら国会議員、事務局長(編集人)に大内氏。それら党幹部を前にして、企画原案を提示し、説明するのが私。早い話、企業でいえば、常務会に入社二年目の若造が出て、提案しているのである。
 私はいつも特集提案を十本立ててのぞんだ。そのうち、密かに本命、対抗を各一本、穴馬を二、三本決めていた。ほとんどの場合が本命か対抗で決まり、はずれても穴馬。カスは分かってはいたのだが、入れとくのである。
「A案かB案だな、なんでE案なの? 意味がないんじゃない」なんて言われれば、内心“しめた”てなもの。「いやぁ‥」と不明を恥じて一件落着。
 芝居がばれていたのか、関心が薄れたのか、委員は一人欠け二人欠けし、ついには編集人とスタッフだけの編集会議となっていった。「紅旗を立てて紅旗を撃つ。毛沢東主義を掲げながら左派攻撃が始まった」という論文で、恵比寿から批判されたことも、また別の論文で、狸穴から「反ソ的だ」との声も届いたこともある。党大会で「党見解と違う論文が載っていた」とたたかれ、「多様な考えを載せるのがうちの方針」と大内さんが反論しておしまい。後の和田春生、吉田之久氏ら歴代編集長も、細かいことは言わない。自由に作らせてもらった。

 一番困ったのは、原稿書き換えのお願いだ。西尾末廣初代党首が亡くなったとき、追悼特集を編んだ。ある高名な硬派イメージが売りの政治評論家にも、追悼文執筆を喜んで引き受けてもらった。西尾氏の足跡を偲んだ文章に続き、公民協力批判もたっぷり書かれてあり、「西尾さんも草葉の陰で嘆いているだろう」と結んであった。いくらなんでも不味い。本人宅におじゃました。
「削っていただくか、書き直していただけないでしょうか」
「それはおかしい。この間、お宅の塚本書記長に会ったとき、今回『革新』に原稿を頼まれた。『思い切って書くよ』といったら、『ぜひ、よろしくお願いします』と言われたよ」
「エッ、そうかもしれませんが……」
「ところで、君のところは、役員より職員がえらいのか?」
「いぇ、そんなことはありません」と答えたものの、書き換えに応じてくれない。二時間ねばって、やっと当該「問題」部分削除の了解をとりつけた。

 また、別のテレビでおなじみの評論家氏は「自民党の政策はすばらしい。それに比べ野党は」云々と書いてきた。これも困る。「うちも野党ですので……」
「民社を除く野党各党は」と表現を変えてもらった。

 編集者の楽しみといえば、執筆者の発掘である。大学の紀要、学会の研究会誌、そして企業のPR誌までアンテナを張って、新しい筆者を獲得した。一番供給源になったのは民社研(民主社会主義研究会議、現在は政策研究フォーラムと名称変更)の先生方である。総合雑誌には載りにくく、といって学術誌向きでないテーマでお願いした。そこから佐瀬昌盛氏の『ブラントへの道―戦後ドイツ社民党史』『チェコスロバキアの悲劇』、木村汎氏の『対ソ交渉のノウハウ』、関嘉彦氏の『ベルンシュタインと民主社会主義』といった力作が生まれた。
 現在活躍中の寺島実郎日本総合研究所理事長、伊豆見元静岡県立大教授、小林良彰慶大教授らも、若いころに登場している。ノンフィックションライターの塩田潮氏もそうだ。もっというなら、「拉致問題」を世に知らしめた荒木和博特定失踪者問題調査会会長(拓大助教授)も、目下、先鋭な指導者論で売り出し中の遠藤浩一拓大客員教授も、『革新』編集部育ち。民社党本部職員でした。
 さて、題号の『革新』だが、あるとき商標登録がどうなっているのか、気になった。調べてみると、かの著名な名誉会長が登録なされているという。慌てましたね。すでに創刊から十年近く経っている。クレームはきていない。でも……。そこで、急遽「民社党中央理論誌革新」で特許庁に申請。幸いにして認められ、異議の申し立てもなかった。
 編集者の賞味期限は三年だという。37歳のとき「いつまでも雑誌でくすぶらせておいてもいけないので、教宣本局に引き上げたから」と上司に言われた。「余計なことを」と思わぬでもなかったが、潮時であった。発行部数も2万4000部になっていた。その愛する雑誌も発行元も、いまはない。

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3.公募をしてみれば・・・

 日本で、テレホンカードの発行が始まったのは1982(昭和57)年のこと、電電公社の時代である。あれはNTTとなった85(昭和60)年のことか、民社党教宣部長であった私は、民社テレカ≠作ろうと考えた。当然、お金がかかるので、「稟議書」を通さなければならない。
 「五百円分しか使えないのに、なぜ七、八百円で売ろうというの。売れないんじゃない?」と、「稟議書」を見た党幹部(国会議員)が反対する。
 「いや、デザインが良ければ売れます。悪ければ、五百円分使えるものを『定価五十円です』といっても売れません」と私。
  「カードが使える公衆電話は、田舎では見かけないよ」
 「だから、田舎で売れるんです。都会ではこういうものを使っているって…」
 幹部(患部?)をなんとか説得して、日本の政党で初めて(土井テレカは数年後)のオリジナルテレカ≠千五百枚作った。うち千二百枚は金沢の党パーティのお土産で使った。残り三百枚を八百円で販売した。一部マスコミで話題となり、流通枚数が少なかったためもあって、テレカ市場では八千円までになった。その成功を受けて、テレカと同様に新体操するデザインで、オリジナルカードラジオを五千個作った。千五百円で販売したけれど、今度はサッパリ売れなかった。在庫となったので、パーティ土産用として売りさばいた。

 広報宣伝担当となって、一番気を使うのは党の広報ポスターである。政治家はポスターが命みたいなところがあり、関心が高い。
 選挙間際に急にポスターを製作することになった。時間が足りない。写真を貸し出すラボで、バスト豊かな女性がマラソンしている写真を借りてきて(用途によって値段は違うが、当時は五万円であったと記憶する)ポスターを作った。評判が良かったのだが、後に、その写真は、サラ金業者のチラシにも使われていることが判明した。これでは党のイメージが悪くなる。慌てましたね。
 あるとき、某大手広告会社にポスター製作を依頼。デザインほかで二百万円の請求書がきた(もちろん印刷代は別)。明細を見ていくと、カメラマン代、スタイリスト代、ヘアーメーク代などに続いて、モデル代が十万円とある。もっとも高額であったのは、製作管理代の八十万円であった。次回は、これをケチろうと思った。カメラマンやスタイリストなら知っている。スタジオの手配も簡単だ。問題はモデルである。
 そこで、キャンペーンガールを募集した。プロアマ問わず、優勝者に百万円。一年間、写真モデルやイベントの司会などを務めてもらう。二百人を超える応募者があり、写真誌やスポーツ新聞の話題となった。初代のTさんは、選挙応援まで熱心にこなしてくれ、評判が良かった。
 結局、五代のキャンペーンガールが生まれる。二代目のIさんは、NHK「朝の連続ドラマ」のオーデションにも合格した。政党の現役のキャンペーンガールであることが問題となり、降ろされるハプニングがあった。真相は、同じころ関西の民放テレビ局のオーデションにも受かっており、NHKを優先したため、スポーツ紙にリークされ、たたかれたということらしい。
 応募すればどれも受かるということは、彼女自身、つまり素材そのものが素晴らしかったということだろう。だが、その後パッとした活動が伝わってこない。アマ野球の選手が好きだといっていたから、結婚して引退したのであろうか。このケースは、売り出しに焦ったプロダクションに問題があった。
 その点、四代目のKさんは違う。当時は、アフリカで井戸を掘りたいと語る私大工学部の学生さんだった。応募のきっかけは、夏休みの帰省中に父親がとっていた『週刊民社』の募集要綱を見たため。モデルやタレントの卵だらけの中で、素人っぽさがひときわ目立った。後に彼女は映画女優となり、ブルーリボン主演女優賞を獲得する。一人のスター誕生に役立ったと思えば、感慨深い。

 ポスターといえば、コピーである。選挙用ポスターの「コピー公募」を提案した。「コピーって複写機のことか」とは、海兵出の上司、いまは亡きY代議士のご下問である。るる説明すると「あっ、スロガーンのことか」だって…。糸井重里氏や林真理子さんが脚光を浴び、『萬流コピー塾』なる週刊誌連載があった時代の出来事である。Y氏は、バランス感覚のとれた常識人だった。しかし、このときばかりは“政治家は世事にうとい”と思った。妥協の結果、「キャッチフレーズ募集」ということになり、賞金は百万円とする。
 プロアマ問わずのはずだったのだが、ある労働組合の幹部から「一本百万円ではなく、たくさんの応募者に賞金がいくように、優秀作品に十万円。十本出したらよい」との意見があった。結局、身内(民社・同盟系)だけの“公募”となってしまい、当初の狙いである、マスコミを通じての盛り上げは、薄れてしまった。それでも、約六千通の応募がある。「汗と税、ムダにしません。民社党」などが生まれた。そのときの選挙は、勝利した。
 公募といえば、もう一つ。結党二十周年懸賞論文を募集した。最優秀作には西独行き航空チケットと賞金七十万円。当時、民社党の月刊誌に関嘉彦都立大名誉教授が「ベルンシュタインと民主社会主義」を連載しており、先生は原稿料を受け取ろうとなさらず、ならばそれを生かそうと、原稿料を賞金の原資として実施したのだ。党幹部に交渉して、党側にはチケット代と選考経費を持たせた。当方は一次審査を厳粛にやりたい、と主張し、ホテルオークラの和室を借りてこもった。檜風呂が気持ち良かったことだけを覚えている。

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4.「随行さん」

 源氏鶏太の短編に『随行さん』があった。社長の鞄持ちの若いサラリーマンが主人公。失敗あり、女性にもてる話もありで、いま手元に残っていないので、確かなストリーを覚えてはいないが、ユーモアあふれる佳品であった(と思う)。
 当方の「鞄持ち」の第1回目は、昭和56(1981)年のこと。佐々木良作民社党委員長の訪米である。団長が佐々木委員長、団員が大内啓伍政策審議会長(後に委員長、厚相)と神田厚農林水産対策委員長(後に国会対策委員長、防衛庁長官)、随員が私であった。
 委員長のあだ名は「瞬間湯沸かし器」。大内氏もどちらかといえば「完璧主義者」である。「気が休まるときがないだろう」と、職場の仲間に同情された。
 準備を進めていると、委員長に呼ばれた。「航空チケットの手配は、どうなっているか」のご下問である。「ファーストクラス3枚とエコノミークラス1枚を用意しています」と答えると、「駄目だ」という。いぶかっていると「君は仕事で行くのだ。僕の傍にいる必要がある。ファーストを4枚にしろ」との指示であった。当時、党の「海外出張旅費規定」では、飛行機はエコノミー、ホテルは一泊百五十jから二百j(国によって違っていたはず)ではなかったか。差額は当事者払いで、団長が面倒を見るのが慣例であった。佐々木委員長の配慮で、初めてファーストを経験した。
 
 まずロスで一泊する。次にニューヨークで一泊。そして、ワシントンに入った。レーガン大統領の時代で、ブッシュ副大統領(後に大統領、現大統領の父)、ワインバーガー国防長官らと会談をし、小生はもっぱら写真と記録を受け持った。
 通訳は、日本大使館にお願いする。沼田貞昭一等書記官(後にパキスタン大使)が務めた。借り上げ車代等は、実費を払った。
 最後の晩、日本食レストランに行った。江戸前寿司が出てきた。大変な美味なので「シャリが、一粒一粒が立って、光り輝いているでしょ。日本からの輸入米ですな」と神田氏は力説する。「果たしてそうかな」と懐疑的なのは、委員長であった。奥で確かめてみると、カルフォルニア米と分かり、「とんだ農政通だな」と冷やかされていた。
 またニューヨークに戻る。観光をし、お供の当方に「千jで、黒のハンドバックを三個選べ」とご下命する。「一つは大内に、一つは神田に、残りは君だ」と手渡される。辞退すると「お前にやるんじゃない。奥さんにだ」ときつくたしなめられた。旅で初めてのお叱りだった。
 ニューヨーク総領事主催の晩餐会の後、ピアノバーに行った。委員長は「荒城の月」を朗々と歌った。十時前にホテルに帰った。前日のマッサージ師に「明日の十時に、また来い」と予約していたそうだ。「俺の英語で通じたかな」と心配していたが、まもなくマッサージ師はやってきた。「お休みなさい」と言って、神田代議士と夜の街に繰り出して、飲みなおした。
 ハワイで時差ぼけをとり、十日間の旅を終えた。
 
 目の衰えが目立つ委員長のため、拡大コピーで資料をつくって、フロントページに概要をつけていたことや、両手に腕時計をはめ、現地と日本の双方の時間を、瞬時にわかるようにしていたこと、それに1jのチップのはてまで、克明に出納簿をつけていたことなどが評価され、以後信頼されるようになった。

 昭和62(1987)年の3月、佐々木常任顧問を団長とする第7次訪中団が派遣された。団長は佐々木、団員が橋本孝一郎参院議員、随行が佐々木夫人の総子さんと当方であった。
 北京では、李先念国家主席との会談もあった。記者会見は「君がやれ、俺がついているから」と言われた。佐々木団長か橋本議員がやるものとばかり思っていた当方だが、無難にこなせた。
 
 某全国紙の「佐々木手記」の第一稿は、当方が書いた。広州から深?までの列車の中で、常任顧問は朱を入れた。しまった文章となり、「中国は蛇行しながら前進する」と論じた。胡耀邦総書記が失脚し、また紅(教条派)と専(実権派)の対立が起こるのでないか、と見られていたときだけに話題を呼んだ。ある党本部の幹部職員が「あれは良かったですね」とゴマをすったところ、「そうだろう、あれは寺井が書いたんだ」とおっしゃったそうだ。
 香港で、奥様が当方にネクタイ、妻へと、またバックを買ってくださった。
 旅の最後に「今回は、最高のメンバーで来たかったんだ。どうもありがとう」と手を握られ、「もう、中国に来ることがないかもしれないな」と涙ぐまれた。衰えを感じていたのかもしれない。やがて病に倒れ、長い闘病生活の末、平成12年3月13日に亡くなられた。享年85歳だった。
 『産経新聞』の社会部記者となっていた私は、ニューヨークの夜の「荒城の月」独唱についてふれ、「旧制高校時代の心を忘れない人だった」と書いた(『産経』平成12年3月15日付「葬送」)。
 それを読まれた総子夫人から「主人は、人様の前で歌うこともあるんですか」と訊ねられた。「もっと、主人の話をおきかせくださいね」とも言われた。「はい、お宅にお伺いします」と答えたのだが、それも果たせぬまま、三年半後、奥様も亡くなられた。同行の橋本議員も、既に鬼籍に入られている。

 さて、「随行さん」は塚本三郎委員長、大内啓伍委員長などで、何度か体験している。そのエピソードは、別の機会に譲りたい。


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5.選挙違反?

 三分の一世紀以上、政治活動に携わってきたのだから、もちろん選挙運動の経験は多い。といっても、選挙違反は犯していない。
 ―と書いてきて、一つだけ思い出した。

 あれはたしか大学二年生のころである。参議院選挙に東京選挙区から松下正寿氏が立候補することになった。”事前運動”の時期にあたるころだから四月か五月のことだと思うが、長方形のステッカーと称するビラ貼りをやった。政治スローガンと松下氏の名前を書いたステッカー数種を、夜陰にまぎれて、電柱に貼って歩いた。
 東京葛飾区の立石あたりではなかったか。昭和43(1968)年当時は、住宅もそれほど建っておらず、金魚池もあって、卸売り業者もいた。糊バケツを持って、友人と二人歩いていると、自転車に乗った警官に呼び止められた。
「君ら、何やっているの?」
「えぇ、まぁ‥」
「そのバケツ、見せなさい」と懐中電灯を点けられ、糊が見つかった。
「どこで、何を貼ってきたか」となる。
「‥‥」
 黙っていると、「金魚泥棒じゃないようだし‥‥」と畳かけてくる。
 そこで「冗談じゃないですよ」となり、泥棒じゃない証明として、ステッカーを貼ってきた電柱に案内する羽目となる。パトカーがやってきて、電柱の写真がとられた。そのままパトカーに乗せられ、本田警察署に連れて行かれた。
 
 “現行犯逮捕でもないのに”と思ったが、もう遅い。電柱にステッカーを貼ったから“美化条例違反”、説諭で“始末書が相場だな”と踏んでいたら、いきなり取調室に入れられた。
 まず「選挙の事前運動にあたる」とかまされる。
「政治活動です」と反論。

「いくらもらった?」とも訊かれた。
「学生党員ですから、もらっていません。党活動です」
「ウソを言うな。向こうの子はもらっていると言っているぞ」
 二人は別々にされていたのだ。引っ掛けだと分かっていたから、それは食わない。
「そうですか、おかしいなぁ」ととぼけた。
「向こうの子は泣いているぞ。お前は、可愛げのないやつだなぁ」と言われた(後で友に確認すると、彼も「向こうは泣いている」と言われたそうだ)。
 夜明け近くから始まった取調べも、お昼ごろになった。
「お腹が空いてきました。何か食わせてください」と言ったら、カツドンをとってくれて、「調書」をとられ、釈放された。
 後に、霞ヶ関の東京地検に呼ばれる。若い検事に「お前は法科だろう。後輩のようだが、法の精神のなんたるかを知っているか」と説教をきかされ、簡単な取調べで「不起訴処分が適当」となった。
 それにしても、たかがステッカー貼りである。仰々しい取り組みだが、検察側はわれわれの小さな“事件”から、松下選対全体のお金の流れをつかみたかったようだ。

 “事件”のあと、北海道の母から手紙がきた。母の友人に小生に対する聞き込みに入ったらしい。「警察が、あんたのことを根ほり葉ほり聞いていったそうよ。学生運動がらみでないかと、心配しています」と書かれてあった。「私が入っている民社学同は民社党系で、過激なことは一切していない。電柱に、選挙がらみのビラを貼っただけである」と返事をしたためた。
「安心した」との短い便りが返ってきて、五百円札が一枚入っていた。

 話は替わる。
 民社党本部に入って、選挙になると本部詰めが多かった。
 三日に二日ぐらい、泊まっていたこともある。ある日、『産経新聞』の近藤紘一記者(『サイゴンから来た妻と娘』の大宅賞作家)が本部にやってきた。彼が外信部から『夕刊フジ』にまわっていたときではなかったか。通産省(当時)に、堺屋太一氏の原稿取りに行ってきた帰りだ、と言っていた。
「ところで、寝泊りはどこでするんですか」
「ここですよ」
「ここって‥?」
 夜になると、応接セットを横にどけて、即席のスペースを作り、そこにゴザを敷いて、貸布団で寝ると説明したら、「エッ」と絶句された。

 翌日の午後、近藤さんが又あらわれる。
「これっ、差し入れ」と言って、オールドパーを差し出された。「僕、飲まないから」と続け、「もらいものだから‥」と笑っていた。ありがたくいただいた。
 外国土産の定番がジョニ黒にジョニ赤、角さん(田中角栄元総理)の愛飲酒がオールドパーで、庶民はレッドから角に格上げされてきていた時代の話である。

 選挙開票日は、その貸布団も充分な数がなく、机の上に横になり、新聞をかけて仮眠をとったこともある。それも、時代とともに、泊まりは本部近くのビジネスホテルが定宿となっていき、選挙も弱くなっていって、民社党は解散した。
 近藤さんは四十五歳の若さで亡くなったが、自分はいま、彼が勤めていた産経新聞社で仕事をしている。実母は健在で、一緒に住んでいます。
 

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6.ハリツケ

 選挙といえば、政党にとって最大のイベントである。民社党では、党本部詰めと現地派遣とにスタッフを分けていた。派遣組は、国政選挙ともなると、現地勤務が何ヶ月にもわたるので、“ハリツケ”と言われていた。
 あるとき本部に、「○○さん、お願いします?」と電話があった。電話交換手が「ハイ、彼はハリツケです」と答えたところ、「エッ!」と絶句されたそうである。 
 広報担当が長かった当方は、本部詰めが多かった。それでも4回、そのハリツケを経験している。
 
 第1回目は、党本部に入りたての昭和46(1971)年のことである。学生時代から党活動をしていた東京・豊島区の区議選であった。新人のT候補支援のため、後輩たちと学生ボランティア隊を作った。泊り込みのため、部屋も確保する。食事は、候補者宅で、奥さんの手料理であった。幼子が走る中、納豆とご飯とみそ汁といったシンプルな朝食がうまかった。
 3ヶ月前から、選挙準備に本腰を入れていたので、本来、都議選以上であったハリツケを、本部は特例として認めてくれた。事務長を務め、見事高位当選させる。候補者、後援会長に続いて、私の胴上げもあった。23歳であった。
 
 第2回目は、それから8年経っている。大学の先輩のYさんが練馬の区議選に出馬することになった。明日から選挙スタートという日、選挙事務所を訪れた。運動員が数人しかおらず、翌日の宣伝カーの運転手も決まっていない。
 候補者と票読みをすると、彼は「この前の都議会の補選に出馬して、8000票を獲得した。1万を越える名簿もある。機関紙号外の投げ入れもやった。少なくても、4000票は取れる」と豪語する。当方は「選挙が違う。候補者の数も、票に対する締め付けも、まるで違う。前回の票はあてにならない。何よりも、運動員がいないじゃないですか」と主張した。
「10票出してくれる人は誰と誰、5票は誰と誰というふうに、顔が見える形で、票読みをやり直してみましょう」といって、計算をしてみると、最小で450票、最大で600票しか読めない。当選ラインは2400票ぐらいだから、公党の公認候補としては、異常な少なさとなる。供託金も没収される。
 その指摘に、候補者もさすが蒼くなりましたね。「大学の同窓会名簿で、手紙を出そう」と言い出した。「それは違反です。区議選には、同じ大学から何人も出ているではないですか。効果も薄いし、金もかかる」と反論した。「文書違反なんか、たいしたことがないよ」という候補者に、「私が全面的に応援 しますから」とあきらめさせた。
 すぐさま党本部に電話し、自らハリツケ志願する。「党の名誉がかかっているから」と説得し、またもや特例が認められて、2回目の事務長となった。
 つてをたどってお金のかからない運動員を集め、個人演説会も企画する。佐々木良作委員長の日程担当のSさんに「とにかく助けてほしい」と泣きを入れた。Sさんは「寺井が苦労しているから」と委員長を口説いてくれた。弁士に招くことに成功する(区議選レベルでの党首投入は、きわめて異例である)。佐々木委員長がくるからと、二つの団体に動員と、あと100票の積み増しもお願いした。
 運動員として、党本部から若手のK君も派遣されてきた。その彼は、賄いの小母さんたちから「候補者がKさんのほうが良かったのに…。練馬に移っていらっしゃい」と言われ、後に板橋から練馬に転居した。可愛げがあったのであろう、後ほど衆議院議員となり、現在は民主党の中堅幹部の一人となっている。
 肝心の選挙結果は、約1200票。もちろん落選ではあったが、供託金の没収とはならず、政党公認候補として、本人と党の名誉は保てた。
 さて、Y先輩である。選挙で当方が印刷会社に保証した63万円のチラシ代が、払えなくなった。ガードマンをしながら、毎月2万円、銀行振り込みで返した。3年経ったある日、池袋の小料理屋に呼ばれ、「おかげさまで、返すことができました」と御礼を言われた。先輩は、後に隣の保谷市議を1期務めた。
 
 第3回目は、平成元(1989)年の参議院選挙である。東京選挙区の候補者の成り手がなかなか見つからず、5月になって党本部の女性職員・江戸妙子嬢に白羽の矢が立った。若く(30歳)、独身であったことと、才色兼備で明るい姉御肌。後輩に慕われていたことによる。当時の永末英一委員長が、候補者の父君に挨拶に行ったところ、「うちの娘でいいんですか。親としては、候補者になるより、早く結婚して欲しいんですがねぇ…」と言われたそうだ。
 参謀となって、さぁ、どうするか。残り3ヶ月を切っている。イメージ作戦で行くしかない。ポスターは、ニュースキャスターふうに仕立てあげようと思い、スタジオではなく、雑然とした党本部オフィスをバックに写真を撮った。ポスターにつけるコピーは単純明快に「東京は江戸」と決めた。エスカルゴ型の小型車を宣伝カーにし、随行者を、ピザパイを配達するような三輪オートバイで走らせることにした。候補者も運動員も若い女性たちでかためた。一部マスコミで話題となった。
 結果は約20万票。当選者の約3分の1であったが、狙い通り、比例区票の上積みにつながり、満足の行くものであった。彼女はその後、党本部にいたO君と職場結婚した。いまは1男2女の子持ちである。

 第4回目はそれから3年後の参院選で、あの永遠の青春スター・森田健作候補の参謀となったのだが、面白い話が多過ぎるので、次の機会にする。

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7.春日常任顧問

 そのとき、九段会館大ホールの壇上にいた。民社党大会の書記をやっていた。舞台の袖から、春日一幸常任顧問の秘書のNさんが、手招きしている。
「春日が呼んでいるので、ご足労、願えますか」
 Nさんについて、奥の小部屋に行く。春日、中村正雄の両常任顧問が座って待っていた。
「やぁ申し訳ない。委員長はどんな挨拶している?」
「たんたんと運動方針について答弁していますよ」
「そうか。興奮していないか」
 “瞬間湯沸し器”の異名を持つ佐々木委員長が、どんな反応を示しているか、気になったのであろう。その日の朝、春日、佐々木良作の両者は、小会議室で灰皿を持って睨みあっていたのだ。

 第30回党大会(昭和60年)は、荒れ模様だった。佐々木委員長の後継が、塚本三郎委員長、永末英一副委員長、大内啓伍書記長でスムーズに決定するはずだった。副委員長に擬せられた永末国対委員長が、第1日目の「国対報告」の最中、党運営に異議を唱えた。それに対し、春日常任顧問が演壇に立ち、「五臓六腑が煮え繰り返る」とやり返した。そして、“灰皿事件”となったのである。
 46年の党大会で春日・曾禰両氏による党首選があったが、47年総選挙の敗北で、派閥活動は急速に薄らぐ。佐々木委員長時代の話だが、春日常任顧問にある若手国会議員が「佐々木委員長は面倒見が悪い」などと言いつのり、「党内に、佐々木派なんてほとんどいませんよ。みんな春日派です」とゴマをすった。黙ってきいていた春日は、喜ぶかと思いきや、「そんなことはない。我輩が佐々木派だ。ああのこうのと言わずに、委員長を助けることだ」と一喝したそうだ。

 春日・佐々木の仲は、肌合いは合わないが、お互いが認めた永遠のライバルであり、同士であった。
 55年の「大平内閣不信任案」では、春日が「提出すれば可決され、選挙となる」と反対し、佐々木は「野党である以上、不信任案を提出すべき」と対立。結果は春日のヨミ通りとなったが、党は選挙を乗り切った。
 塚本委員長が、リクルート問題で退陣要求が出たときも、二人は対立する。春日は徹底的に塚本擁護に走り、党大会の前に記者会見を行う。当方は広報の担当として立ち会うことにした。院内の民社党控室へ、春日はゆったり歩いてくる。当方を見とめると、右手を上げる独特のポーズで「やぁ、お主、元気か」と声をかけてきた。秘書のK君から「風邪をひいて、39度を越える熱を出しています」ときいていただけに驚いた。控室を埋めた数十人の記者たちを前に、1時間半に渡って熱弁をふるった。火を吹く男・春日の仁王立ちであった。その話をもれ伝えきいた自民党の浜田幸一は、総務会で「春日先生は男ですなぁ」と感にたえたという。浜田がラスベガス賭博問題や予算委員長辞任のとき、誰も仁王立ちしてくれなかった我が身と、比較していたのかもしれない。
 仁王立ちのかいもなく、塚本は退陣し、永末が委員長となった。春日は風邪をこじらせ、病床に伏せる。佐々木は名古屋の春日宅を訪れ、枕もとで盛りそばをたぐったという。春日は3ヶ月も持たずに他界した。
 
 名古屋の自宅には、取材で行ったことがある。お屋敷とはほど遠い普通の民家であった。政治家の家らしかったのは、小ぶりだが応接間があったこと。
 和服であらわれた常任顧問の最初の一言が「○○が世話になっているなぁ」であった。○○とは、当方の部下である。彼が春日の娘と結婚し、女婿となっていたのだ。
「それで貴公、生国はどちらかな」
「北海道です」
「そうか、蝦夷の国か。あそこは、1区が空いているだろう、2区も3区も空いている。4区は小平君がいるからだめだ。5区も空いている。どうだ、立たないか。男なら、一国一城の主になるべきだ」
 これは、“春日の人たらし”と言って、人を見れば、という頻度で、声をかけているのを知っているので、当方は驚かない。丁重にお断りする。

 春日の秘書であったU君は、「お前が立て」と言われて、名古屋で最も弱い区で県議選に立った。準備期間も短く、予想通り、落選した。夏になった。突然、春日が借家に訪ねてきた。
「Uよ、海老を持ってきた」
 生きた車海老の籠が、20籠あった。
「これに、俺の名刺とお前の名刺をはって、支援者宅をまわれ」
 U君は涙が出そうになったという。
「それにしても、あばら屋だな、俺が保証人になってやる。家を建てろ。城を持って戦え」
 春日の援助と保証で家を建てた。次の選挙でU君は当選した。
 春日も佐々木も雑誌の対談予定を組むと、相手の本を読み、事前に勉強する。ゲラもチェックし、1行削ったら1行加えることも同じであった。若手議員が対談会場にやってきて、「ところで今日の相手、どんな人?」と照れもなく編集者である当方に確認する。「よく知らないから、サポートをよろしく」と言われ、対談の予定が鼎談となり、当方の発言を議員の発言にして対談にととのえた、といった無様なことは決して生じなかった。

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8.生涯一運動家

 毎年、1月24日が定例日。昭和35(1960)年1月24日が、民社党の結党記念日なので、「OB会総会」が行われる。スタートは、民社党本部事務局職員のOB会であったのだが、現在は国会議員や秘書も加わっている。毎回7,80人は集まる。
 第1部が講演会で、第2部が「総会」と立食パーティである。中央には、いまはなき民社党旗が掲げられ、はじめに民社党歌を歌う。「ヒットラーユーゲントのOB会みたいだね」と、口さがない人は笑う。会場では「やぁ、しばらく」とか、「いま、何をやっているの?」といった言葉が飛びかう。

 解党10年となったが、ところで、本当に「何をしている」のか。もうリタイアしている人、民主党本部をはじめ政治関係で働いている人、完全に畑違いの民間会社でがんばっている人など、人様々だ。
 といっても、かつて政治活動家であっただけに、「三つ子の魂、百までも」で、ボランティア活動や市民運動を行っている人も多い。
 たとえば、「拉致問題」である。横田めぐみさんの拉致について、国会ではじめてとりあげられたのは、平成9(1997)年2月3日の衆院予算委員会の西村真悟質問である。質問するきっかけは、現在、特定失踪者問題調査会代表を務めている荒木和博拓大教授から、「国会で質してほしい」と要望があったからである。荒木教授も西村代議士も民社育ちである。

 蛇足ながら、当方はその西村代議士のもとで、3年3ヶ月にわたって政策秘書を務めた。もちろん国費で支給された手当ては全額もらった。本人は清貧の人で、いまどき珍しい雨漏りのする家に住んでいても、恬淡としている。風呂桶がこわれたときも修繕しようとせず、銭湯通い。支援者が見かねて修繕をかってでたという話もある。「ボロは着てても心は錦」タイプで、虚飾を嫌う。鞄は秘書に持たせない。奥さんが寝込んだときも、本人が買出しをして、カレーをたっぷり作り置きしていた。その彼の尖閣列島上陸や、北朝鮮のテポドン発射への抗議集会で、「裏方」を務めたことが誇りである。

 また荒木氏は、手弁当で「拉致救出国民運動」を始めた。池袋で行われた「救う会」の第1回集会では、頼まれて受付などを手伝った。特定失踪者調査会は、彼の印税の寄付でスタートしたときいている。
「当時はまだ一般の関心は薄く、拉致を本気にしない人も少なくなかった。その上『北朝鮮は怖い』という意識も強かったから、運動にしていくのはたやすいことではなかった。そんな中で裏方回り、地道に運動を支えてくれたのが民社・友愛の仲間たちだった」(財団法人富士社会教育センター発行『富士ネットワーク』第20号)と、荒木氏は述懐する。事実、各地の「救う会」で献身的に活動しているメンバーの中にも旧民社関係者が多く、特定失踪者調査会の真鍋貞樹専務理事、杉野正治理事も、民社党本部の仲間である。
 「新しい歴史教科書をつくる会」では、評論家で拓大客員教授の遠藤浩一氏が、副会長として活躍している。彼は「平成六年暮れの解党まで民社党本部の書記として、比較的気持ちよく働くことができた。それは民社党といふ政党には、他党にはない『勇気』があつたからだと思ふ。四十も半ばを過ぎて、あのときかうしてゐればよかつたと後悔することがほとんどない。…民社党では給料をもらひながら生きた政治学を勉強することができた」(高橋正則著『回顧九十年』富士社会教育センター刊「解説」より)と述べている。
 荒木、遠藤の両氏は、かつて当方とともに民社党月刊誌の編集に携わっていた時代があった。後輩の活躍で、誇らしい気分である。

 彼らだけではない。ある高齢者向けフェステバルで「あらっ、寺井さん」と声をかけられた。兼松信之君であった。彼は「NPO法人働き盛りの会」の名刺をくれた。私も、自分が創設にかかわった「NPO法人アジア母子福祉協会(AMCWA)」の名刺を差し出す。
 二人して「NPO法人ねぇ…」と声があがった。政治活動ではないものの、“民社っ子”は何らかの社会運動に携わっていたいのである。当方の団体は、ミャンマーへの「里親制度」で設けたり、子供たちにノートを贈ったり、超音波の医療機器を送ったり、ボランティア活動を展開している。
 彼の団体は、性別や年齢で働き盛りが退職させられていく日本の現実を、改革するのが目的だという。ほかにも、ボランティアでお年寄りに本格的なマッサージを施して喜ばれている仲間もいる。
 おのおのが得意分野で、昔の党活動の延長線として、社会貢献を果たしているといってもよい。

 いまの政党本部には、どんなタイプの人間が入ってくるのであろうか。また、政策秘書など公設秘書にはどのような人が雇われるのか。
 私の時代には、とにかく「党が好き」なり、「議員が好き」の“惚れ込み型”が多かった。もちろん、「ほかに勤め口がなかったから」とか「ただなんとなく」という人も、いるにはいた。それでも一宿一飯ではないが、同じ釜の飯を食っていると、愛着が湧いてくるものである。党や政治家に対するロイヤリティは、それなりに高かった。裏方が活躍する余地も大きかった。現在はそうではないらしい。所属政党が気楽に替わるのは、議員同様、裏方たちにも起こっている。政党に個性と魅力を失えば、「昨日佐幕、今日勤皇」なのも、いたしかたないのかもしれない。寂しい! 


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(電子マガジン12号から19号まで連載されたものをまとめました)

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