「北京便り」


その1 ・・・・・・・・・・・・  8号(2002.6.1発行)掲載
その2 ・・・・・・・・・・・・  9号(2002.9.1発行)掲載
その3 ・・・・・・・・・・・・ 10号(2002.12.1発行)掲載
その4 ・・・・・・・・・・・・ 11号(2003.3.1発行)掲載
その5 ・・・・・・・・・・・・ 12号(2003.6.1発行)掲載
その6 ・・・・・・・・・・・・ 13号(2003.9.1発行)掲載
その7 ・・・・・・・・・・・・ 14号(2003.12.1発行)掲載
その8 ・・・・・・・・・・・・ 15号(2004.3.1発行)掲載









国際情報専攻 4期生 諏訪一幸

【その1】

メーデーでにぎわう天安門広場。中央左の肖像画は孫文

 初めまして。本年4月より国際情報専攻コースで勉強させて頂いている諏訪と申します。仕事の関 係で当分中国北京からの参加となります(私は外務省職員です。過去1年間以上にわたり、国民の皆様にご迷惑をおかけしていることに対しお詫び申し上げます)。
 この度、近藤大博先生からのお勧めもあり、「北京便り」を執筆させて頂くことになりました。「気楽な気持ちでやってよ」とのお言葉があったので、ついついその気になってしまいましたが、さて、どんなポリシーでやったら良いのやら。考え始めると筆が進まなくなるので(「執筆」も、「筆が進まない」も、IT時代においては余り適当な表現ではないのかも知れませんが、やはりこれ以外にはないのでしょう)、ここはエイヤーの気合いで始めたいと思います。なお、申し上げるまでもありませんが、これからの記述の中で、事実関係以外のコメントや印象に関する部分はすべて私の個人的見解であることをお断りしておきます(因みに、私は現在日本大使館政治部に所属しており、内政を中心とする中国の政治情勢をフォローすることが期待されています)。

「小泉総理の靖国参拝と日中関係」

 4月21日午前10時前、小泉総理が靖国神社を参拝しました。「今日行こうと思ったのは朝」との総理発言にある通り、大部分の国民にとって(勿論、私も含まれます)、今回の参拝は電撃的なものでした。
 日中間でこうした類の政治的問題が起こった時には、わが職場である大使館の幹部が中国外交部(日本の外務省に相当)に呼び出されるのが常です。実際、当日は日曜日であるにもかかわらず、午後5時前、当館幹部らが外交部入りしました。
 外交部で待ちかまえていたのは李肇星・副部長(日本の事務次官に相当)。彼は前駐米大使。中国外交部で最も米中関係に精通した人物です。当日は日中関係担当の副部長が出張中だったため、彼が代理をつとめたようです。「午後5時」、李副部長は直ちに、「厳正なる申し入れを行う」で始まる実質的な抗議声明を読み始めました。新聞報道等を通じて多くの方がご存じかと思いますが、それは概ね次のような内容でした。
1.アジア隣国人民の強い反対を顧みず、小泉総理が中国人民の感情を傷つける誤った行動を採ったことに対し、中国側は強い不満を表明し、これに断固反対する。
2.靖国神社は東条英機を始めとする14名のA級戦犯を祭っており、また、右翼が軍国主義を鼓吹する場所である。中国側は平和と正義、そして中日関係を守るという大局的見地から、如何なる形式、如何なる時期であるかに拘わらず、日本の指導者が靖国神社を参拝することに断固反対してきている。
3.小泉総理は昨年靖国神社を参拝し、中日関係に重大な影響をもたらした。その後、昨年10月、小泉総理が中国を訪問し、侵略を認め、戦争を反省し、謝罪する内容の談話を発表したことで、中日関係は正しい道を再び歩み始めた。然るに、盧溝橋での反省がまだ記憶に残っている中で行われた今回の誤った行いは、道徳的にも、また道義的にも受け入れられるものでない。今回の事件によって、中国人民はこれまでの小泉総理の態度表明は価値が下がってしまったと思っている。
4.日本の指導者は、日本が軍国主義の誤った道を再び歩むことには日本人民も反対していることを認識すべきである。また、中国及びアジア各国人民は日本の軍国主義が起こした惨事を忘れることはできない点を認識すべきである。歴史が冒涜され、軽視され、裏切られることは許されない。
5.両国関係の発展過程から我々が得た根本的経験とは、「歴史を鑑として、未来に向かう」ということである。中国が小泉総理の参拝に強い反応を示したのも、中日関係の発展と両国人民の利益に着目したものである。日本側が本件を重視し、悪い影響を取り除き、同様なことが再度起こらないようきちんとした措置を採るよう要求する。
 以上が申し入れの要旨ですが、若干の背景説明が必要かと思います。
 まず、3.にある「これまでの小泉総理の態度表明」ですが、申し入れの中でも言及されている通り、昨年10月の小泉総理訪中(及びその際の発言)を中国側は高く評価しています。また、参拝の約10日前に中国海南島で行われた日中首脳(小泉・朱鎔基)会談も、極めて打ち解けた雰囲気の中で行われました。日中国交正常化30周年記念活動も間もなく本格化しようとしています。「このような良いムードを無視して靖国を参拝するとは何事か」という一種の不信感があるからでしょうか、こういう表現が出てきたわけです。

 次に、4.にある「中国及びアジア各国人民」という表現です。靖国神社参拝に政府として反対表明しているのは中国と韓国だけなのですが(これは今回に限らず、一般的に言えること)、中国はしばしばこういう表現を使用します。「反対しているのは中国だけではないんだ。だから日本はより慎重に」ということで、いわばこういう形で、日本から一種の譲歩を引きだそうとしているわけです。
  最後に、5.にある「同様なことが再度起こらないよう、きちんとした措置を採る」についてですが、非常に漠然とした表現となっています。これは、今後の日本の対応を見極めつつ、より具体的な対応を求めていくということに他なりません。但し、最近では、インターネットを通じた国内の「匿名の圧力」に対しても十分な考慮をしなければならないという厳しい状況に、中国外交部が置かれていることも指摘せねばなりません。「カウンターパンチ」は強すぎても、また逆に弱すぎても、中国の外交当局にとっては不都合なのです。選択肢をいたずらに狭めることになりますし、また、国内的には受けの良い「強いパンチ」も、対日関係維持の観点から見ると、「落としどころ」を探すのに苦労することになりますから。
  ここで、一言申し上げておかなければならないことがあります。こうした中国(或いは韓国)の抗議に対する日本の外交当局の基本的スタンス如何という問題です。
  日本国内には「靖国参拝は純粋に日本の国内問題。中国の批判など気にする必要はない」という声から、「戦争賛美にあたるという批判はもっともなこと。参拝などすべきでない」という声まで、百人百様の観を呈しています。「日本外交には主体性がない」との批判が根強く存在することも皆さんもご承知でしょう。ましてや、冷戦崩壊以降、主体性と呼ぶかどうかは別として、日本としての独自性を発揮できる余地は確実に増しているわけです。然し、一方で、「参拝はやめてくれ」という声が隣国から出ている。しかも、参拝によって関係が悪化するのは、程度の問題はあるものの、確実な状況にあります。特に中国に限って言えば、抗日戦争に勝ったことが中国共産党に正統性を与える一つの根拠になっているのですから、日本に対して弱腰を見せるわけにはいかない等々。
  このように考慮すべき要素は色々ありますが、右顧左眄して決断をためらっていることはできません。
  結局のところ、「良好な関係維持」と「独自性・主体性の発揮」という異なった要求を両極として、国際社会に混乱を招くことなく、如何にして「国益」を確保するかが、あらゆる国の外交当局にとって最大の問題意識として存在するのだと思います。今回の参拝の場合、日本の外交当局としては、総理が「所感」の中で述べた「不戦の誓いを堅持する」、「終戦記念日やその前後の参拝にこだわり、再び内外に不安や警戒を抱かせることは意に反する」という部分を以て、関係国の理解を得るよう努力するということになるのだと思います。
  参拝後の日中関係です(現下の日中関係をめぐる政治問題としては、靖国以外にも不審船事件、在瀋陽総領事館事件などがあります。これらの件をめぐる政府・外務省の対応については既に多くのご意見、ご批判が寄せられています。私としても若干述べたいことはありますが、現時点においてこれらの問題について言及するのは、若干機微な点があり、また、本題の主旨にも合わないので、これを避けたいと思います)。
  参拝の翌22日に中国の最高指導者である江沢民・国家主席が外遊から帰ってきました。直ちに対抗策が検討されたのでしょう。中国国防部は23日、約1週間後に予定されていた中谷防衛庁長官の訪中受け入れと5月に予定されていた中国海軍艦船の日本訪問を延期する旨、日本側に通報してきました。曾慶紅・党中央組織部長(中国共産党の次期指導グループを構成する有力な一人と目されています)の訪日が「地方交流」、「民間交流」、或いは「党間交流」という位置づけで、予定通り25日から行われたのに安堵したのも束の間。やはり、中国は怒っていました。ゴールデンウイーク期間中に中国を訪れた公明党代表団と会見した江沢民主席は、靖国参拝は「許せない」、「政治家は信義を守るべきだ」と強く非難したのです。

  今年9月29日、日中関係は国交正常化30周年を迎えます。その前後には地方交流、民間交流を中心とした様々な記念行事が行われる予定ですが、我々としては、21世紀に足を踏み入れた日中関係を華々しく祝いたいところです。
改革開放から20有余年、経済発展で確実に自信を強めつつある中国の人々から、「日本はどうした。経済も政治も、もっと頑張ってくれ」と言われることが最近よくあります。「日中間の力関係の変化」を敏感に嗅ぎ取っているのでしょうか。正直なところ、ちょっと複雑な心境です。でも、エールはやはりありがたいもの。「我々日本人自身そう思って、頑張っているんです。力を合わせてやりましょう」と応じたいと思います。
  つらつら記してきましたが、結論は一言。「雨降って地固まる」という局面をつくりだすべく、自分なりに努力していくしかない。そう考える、今日この頃です。

                     (2002年5月14日)

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【その

 暦の上では夏も終わりましたが、今年の北京はいつになく暑い夏でした。40度を越えるという猛烈な暑さを記録した日もありました。しかも、例年になく雨が多かったため、不快指数は上がりっぱなしでした。
  ただ、私が関心をもってながめている中国政治に話題を換えると、今年の夏は未だ終わっていません。しかも、この暑さはもう暫く続きそうです。というのも、5年に一回召集される中国共産党の全国代表大会が開幕する11月8日までは、党内外で様々な駆け引きが展開されるだろうからです。今回の党大会(第16回党大会)でも従来同様、人事と党規約改正の行方が注目されています。
  ここでは党規約改正、とりわけ、江沢民総書記(国家主席と中央軍事委員会主席を兼任)自らが提起した「3つの代表」論に基づく「党の性質」変更問題について、若干解説させて頂きたいと思います。
  現在の党規約によると、「中国共産党は中国労働者階級の前衛隊である」と規定されています。この位置づけは1949年の建国以前から、ほぼ一貫して保持されてきたものです。

 しかし、70年代末に改革開放政策が導入されて間もなく25年。中国社会が大きな変化をとげた結果、現実はこの規定を形骸化してしまいました。改革の名で進められている国有企業の「整頓」によって、大量の一時解雇者や失業者が吐き出されています。農村部での潜在的失業者を含めると、その総数は1億5000万人前後いるのではないかとも言われています。私自身は、現時点ではあまり深刻視していませんが、デモや陳情が各地で散発的に発生しています。都市部では浮浪者や乞食の姿を目にすることも珍しくありません。
  こうした中、文革期には「資本主義のしっぽ」と呼ばれて徹底的に痛めつけられた自営業者や私営企業主(後者は従業員が8名以上)らの経済発展に対する貢献が無視できないものになってきました。例えば、私営企業セクターの生産高がGDPに占める比率は、0.4%(1989年)から10%(2000年)へと急速に拡大しています。逆に、工業総生産に占める国有企業のシェアは、10年間で56%(89年)から28%(99年)へと半減しているのです。にもかかわらず、彼らの政治的地位は未だ低いままです。ただ、国家の最大目標とされている経済発展を今後とも継続するためには、引き続き彼らに頼らざるを得ないのも、これまた現実。マルクス主義政党といえども、経済の牽引者に、それに相応しい政治的地位や待遇を与える必要性を感じるようになってきたとしても不思議ではありません。
  私は、21世紀を迎えるにあたり、以上に述べた社会状況を、より適切に中国共産党の「党としての性質」に反映しようとして提起されたのが「3つの代表」論なのだと考えています。

  北京の「星巴克」(スターバックス)では、
月餅も売っています(写真は勿論コーヒー味)

 「3つの代表」論は2000年2月、広東省視察中の江沢民総書記によって提起されたものです。中国共産党は「先進的生産力の発展要求」、「先進的文化の前進方向」及び「最も広範な人民大衆の根本的利益」という3要素を代表するというのが、その内容です。この公式定義、正直言って、何回読んでも分かりません。
 私なりに読み替えた「3つの代表」論とは次のようなものです。人々の生活を豊かにさせ(第一の代表)、その精神生活を向上させた(第二の代表)のは共産党である。こうした成果は、大衆路線という中国共産党の伝統路線に従って、人々の願望を正しく政策に反映させた(第三の代表)共産党の功績によるのだ。江沢民総書記は、こういうことを訴えたかったのではないのでしょうか。
 この、江沢民総書記を中心に進められている「3つの代表」論という大々的な「思想改造」運動ですが、実は、全党的、全国的レベルでは未だ完全に受け入れらたわけではないのです。とりわけ、「第三の代表」に対して疑問や批判が集中しています。「中国共産党が代表するのは労働者やその同盟者である農民であって、広範な大衆などではない。階級概念は一体どこにいったのだ?党はブルジョア政党に堕落するつもりなのか?」。農民革命で身を興した人々が違和感を覚え、脅威を覚えるのももっともなことです。党は、かつては打倒の対象だった人々をも代表しようとしているのですから。
 批判を一掃し、思想を統一するため、その後、全国各地で「3つの代表」教育運動が始まりました。江沢民総書記は同時に理論武装を進めました。その結果が昨年7月1日、中国共産党誕生80周年記念大会で行われたスピーチです。「7・1講話」と称されるこのスピーチにおいて、江沢民総書記は、「私営企業主などの社会階層に属する広大な人々も、中国の特色を有する社会主義事業の建設者である。我々は、党綱領・党規約を受け入れ、党路線と党綱領のため自覚的に奮闘し、長期にわたり経験を積み、党員条件に合致する優秀分子を党内に吸収しなければならない」と述べました。提起から約1年半を経て、私営企業主、即ち、捉え方によっては「資本家」の入党すら認めるという大胆な方針が示されたのです。9月の中国共産党第15期中央委員会第6回全体会議は、中央委員レベルで、この「7・1」講話に対し正式なお墨付きを与えました。そして、今年5月31日に行われたスピーチ(「5・31」講話)で、江沢民総書記は、「わが党が中国労働者階級の前衛であると同時に、中国人民と中華民族の前衛であることを保証しなければならない」と述べたのです。「3つの代表」論で党規約を改正したい(そして、可能なら引き続き権力を保持したい)という江沢民総書記の思惑がかなりはっきりしてきました。ただ、「5・31」講話には、私営企業主の入党問題への言及どころか、「私営企業主」の一言すらありません。「3つの代表」論に対する党内の疑念が未だ払拭されていないことが窺えます。
 新たな党規約の採択は、「6・4」天安門事件で誕生した江沢民政権13年の総括でもあります。その改正振り、そして改正と密接な関係をもつ人事の行方に、人々の注目が集まっています。

                         (2002年8月末日脱稿)

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【その

  11月8日から14日まで中国共産党第16回全国代表大会が、翌15日には第16期中央委員会第1回全体会議がそれぞれ開催され、党規約の修正と最高指導部の選出が行われました。今回の「便り」では、大会の政治的特徴及び「胡錦濤共産党」の政策見通しについて考えてみたいと思います。

1.政治報告と修正党規約――「3つの代表」で、私営企業主の入党に道
 まず、前回の「便り」でも触れた「3つの代表」論ですが、大方の予想通り、党の最高イデオロギーとして党規約に書き入れられました。曰く、「“3つの代表”という重要思想は、長期にわたって堅持しなければならない党の指導思想である」。権力掌握から既に53年。100年にわたる一党支配を視野に、中国共産党は「21世紀における、新たな物質文明、精神文明、そして大衆路線の道」を歩むことになったのです。あの「ケ小平理論」という文言ですら、党規約で言及されるようになったのは、本人死後のことです。自分の名を冠することにはなりませんでしたが、6,600万を上回る党員がこれから毎日、「重要思想」を口にすることになったのですから、提唱者である江沢民さんは大満足なはずです。
 次に、今回の党大会は私営企業主の入党に道を開く決定を行いました。修正党規約は、「わが党は終始、中国労働者階級の前衛であると同時に、中国人民及び中華民族の前衛である」と、いわゆる「2つの前衛論」に基づく位置づけを行ったのです。そして、いわばその当然の帰結として、(18歳以上の労働者、農民、軍人及び知識分子のみならず)「その他の社会階層中の先進分子」の入党、即ち、私営企業主をはじめとする「中国的特色を有する社会主義事業建設者」の入党が正式に認められることとなったのです。政治報告の中で、「私有財産の法的保護」や「合法的非労働収入保護」の方針が示されたことは、党が更なる現実路線(より正確には「現状追認」路線)を歩むことを明らかにしたものです。来春の全国人民代表大会(全人代)では、懸案の「私有財産保護法」が採択されることになるでしょう。なお、今回の修正で、前文にある「マルクス・レーニン主義は人類社会の歴史的発展の普遍的規律を明らかにした」との一文から「普遍」の文字が削除されましたが、これは、中国共産党が伝統的マルクス主義路線からはますます遠い存在となりつつあることを示しています。
 中国共産党のこのような変身を「国民政党」との表現で形容する傾向がありますが、私は賛成しません。何故なら、中国共産党は依然としてイデオロギー政党であり、「国民政党」ではそのようなイメージが出てこないからです。その点で参考になるのが、11月15日付『朝日新聞』で使われた「中華党」という表現です。「3つの代表」という独自のイデオロギーを導きに、「中華民族の偉大な復興」をうたい、経済建設に邁進する今の姿を形容するのにピッタリの表現だと思います。

2.人事――最高実力者は依然として江沢民
 最も注目されたのは総書記人事です。中国共産党の最高指導部には「70歳定年制度」があると言われています。しかし、これが文書として公表されていないため、「影響力保持を望む江沢民は総書記の座から降りないのではないか」との観測が新人事正式発表の直前まで流れ続けました。結局、総書記のバトンは、結果的にみると順調に、胡錦濤へと渡されました。憲法によって三選が禁止されているため、来春の全人代では国家主席の座も同様に明け渡される見込みです。但し、中央軍事委員会主席の座は江沢民によって保持されたままであり、江沢民の次に胡錦濤、という公式報道の格付けからも、江沢民が依然として最高実力者であることが確認できます。
 次に、実質的な最高指導部である政治局常務委員会人事ですが、15期の7名より2名多い9名から構成されることとなりました。15期のメンバー中、総書記に選出された胡錦濤以外は全員が退き、新たに8名が補充されたわけですが、その多くが江沢民に近いとされる人物(とりわけ呉邦国、賈慶林、曾慶紅、黄菊及び李長春)です。このことは、江沢民による中央軍事委員会主席ポスト保持とともに、政策上の一貫性を保証する上で重要なポイントだと考えられます。なお、新指導部メンバーの中には、建国以来最大規模の脱税事件に深く関与したとされる人物がいます。これは、10年以上にわたって安定と発展を実現させた江沢民の業績と中国共産党の歴史に汚点を残すものであり、党の最大課題の一つである汚職取締の正当性に疑問を投げかけ、その実効性を多少低下させるかも知れません。しかし、このような倫理的疑義は政策の継続性と余り関係のないことなのです。これも、「中国的特色」の一つと言えるでしょう。
 透明性が低いこともあり、人事に関しては不明な点も少なくありません。私個人としては、70歳をとうに越えた江沢民が軍事委員会主席に留任「しなければならなかった」理由、そして、それを許した中国共産党の政治力学や価値観などを、引き続き研究・分析していきたいと考えています。

3.今後の見通し――基調は安定と発展

 胡錦濤を最高指導者(現時点では「形式上の」最高指導者、としたほうがより正確かも知れません)に選んだ中国共産党は今後、どのような道を歩むのでしょうか。中国政治は改革開放政策の下、超法規的な「個人独裁」型指導体制から、規則や手続をより重視する「集団指導」体制へと移行しつつあります。また、中国の内外情勢は、指導者個人が政策上のフリーハンドを発揮できる余地をますます狭めつつあります。このような意味から、また、「3つの代表」論と上記の主要人事によって、大会で示された方針・政策は、良くも悪くも忠実に実施に移されるでしょう。胡錦濤さんとしては当然、早期に独自色を出し、指導力を発揮したいと考えるでしょうし、やがてそうなるのでしょうが、当面は難しいように思えます。
 経済第一路線を突き進む中国にとっては、国内の政治的安定確保が何よりも重要です。ただ、中国の未来は決してバラ色というわけではなく、国内の安定を脅かす要因も少なくありません。しかし、修正党規約は「ゆとりある社会(「小康社会」)の全面的建設」を新たな目標に掲げ、政治報告では2020年のGDPを2000年の4倍にするとの具体的目標も示されました。また、腐敗・汚職問題では、「腐敗を断固取り締まらなければ、執政党としての党の地位は危うくなり、党は自壊の道を歩むことになる」として、断固たる闘争が呼びかけられました。所得格差是正に関しても、「(都市と農村間に見られる)地域間格差の拡大傾向は未だ好転していない」との認識が示され、「理にかなった分配関係」実現がうたわれています。こうした認識が果たして適切な政策に反映されるかは今後の状況を見極めなければなりません。私がここで指摘したいのは、党は少なくとも、改革開放期における自己の唯一の正当性が経済発展、即ち、経済改革推進によって人々の生活を豊かにすることにある点、そして、大衆が如何なる不満を抱いているかといった点をある程度正確に「認識」している、ということなのです。
 解決を要するこれらの問題はいずれも、共産党の一党独裁体制そのものに直接繋がる問題です。従って、この制度が改められない限り、上記の課題が最終的、徹底的に解決されることはないでしょう。しかし、建国50余年の歴史、とりわけ改革開放期の実践を振り返った時、中国共産党は自ら描いた青写真を概ね実施に移し、しかも実現させてきたと私は理解しています。矛盾点を認識した上で、経済的恩恵(アメ)と党指導強化(ムチ)を使い分ける。つまり、共産党的表現を用いれば、「両者を弁証法的に統一させる」。価値観を抜きにして言うと、党の権威崩壊(一歩進んで、党そのものの崩壊)を避けるためにとられるこのような手法は、この国では依然として有効であるように思われます。経済が好調な現在の中国では、例えば「6・4」の記憶などは、遥か忘却の彼方へと追いやられてしまっているのです。
 中国の崩壊を期待するのは、いわれのない中国脅威論同様、非現実的なものです。20年後には現在の日本に匹敵する経済力を持とうという強い意志のある国と付き合っていくのだという現実を、私たちはしっかりと認識する必要があるのではないのでしょうか。

(写真説明。党大会終了を受け、市内には大会決議をしっかり学ぶよう呼びかけたポスターが至るところに掲示されています。
上:団地敷地内の黒板に書かれた宣伝文。下:市内で見かけた宣伝ポスター)。


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【その

1月中旬、四川省の農村に4日間調査出張しました。今回はその時の様子や感想をお話ししたいと思います。
  調査目的は、村民委員会選挙の実態把握にありました。中国農村の行政組織は、多少単純化して述べれば、日本の市や郡に該当する「県」と、町や村に相当する「鎮(或いは郷)」から構成されています。今回の便りで話題になる「村」(規模的には数十軒から数百軒程度)は鎮の下の「自治組織」とされ、その指導部が「村民委員会」なのです。そして、村民委員会を構成する数名の世話役は「村民選挙によって選出される」旨、憲法は規定しているのです。01年冬から02年春にかけて、中国のほぼ全土で、村民委員会選挙が実施されました。
  私は、村民委員会選挙をめぐる現在の最大の焦点は「14号文件」の実施状況如何にあると考えています。この「14号文件」とは、昨年7月に出された党と政府の連名による通知のことで、村の共産党支部書記が村民委員会主任を兼任する(これを中国語で「一肩挑」と言います)よう求めた内容となっています。「村民委員会は党組織ではない。あくまでも、農村住民の自治組織のはず。書記が主任を兼任するよう求めるのは、自治の原則と、改革開放期の大きな流れである党政分離の方針に背くのではないか」。このような疑問に自分なりの回答を出すべく、農家の方々からヒアリング調査を行いました。
  以下、まずヒアリング回答の要点を、そのあとで若干の感想を記したいと思います。

<ヒアリング回答>
1.A村(村民A氏からのヒアリング)
  村としては2回目の村民委員会選挙が01年に行われ、我が家は一家総出で投票に行きました。自分が支持した候補者が主任に当選しました。出稼ぎに出ていった人も殆ど帰ってきましたが、帰れなかった人の多くは家族が代理投票しました。選挙では5人(うち女性1名)が選出されましたが、彼らは全て非党員でした。
  選挙は厳密な意味での「海選」(自由な立候補による競争選挙)ではありませんでした。前期村民委員会が第一次候補者をあげ、このリストに基づいて、村民代表や村民小組が会議を開いた結果、正式候補者が決まったのです。勿論、自ら立候補することも可能で、実際、そういう人間はいましたが、彼(彼女)は落選しました。前期村民委員会があげたリストには同期の村民委員会メンバーも含まれていましたが、協議の過程或いは選挙の結果、全員が落選しました。つまり、再選者はいなかったのです。
  不幸なことに、村民委員会主任が02年12月に病死しました。30代の若さでした。そこで、鎮の決定に従い、今は村党支部書記が主任を暫定的に兼任しています。次回選挙は今年12月に行われるはずですが、前倒しになるかも知れません。
  村民委員会会議が開催されるのは週一回程度です。

2.B村(村党支部書記、村民委員会主任等からのヒアリング)
  01年12月1日に第3回村民委員会選挙が行われました。海選、差額(主任は2名から1名を、委員は6名から4名をそれぞれ選出)、無記名の秘密投票でした。
  投票に先だって、10〜15戸から1名の割合で、従って、計20数名の村民代表を我々は選出しました。そして、選挙民から全権を委任された各村民代表は、全村を対象に候補者(複数可)をピックアップしました。自薦も可能です。その結果、最終的には数十名の候補者リストができました。次に、全村民代表の投票によって、数十名の候補者の中から、主任候補者2名とメンバー候補者6名が選出され、12月1日の正式投票日を迎えたわけです。全村民有権者を対象とした委員会選挙の投票率は90%でした。委員会を構成する5名中、会計担当者だけが非党員です。
  選挙では、3名からなる選挙管理委員会が監督にあたりました。書記、村民小組長によって推薦された2名がそのメンバーです。組長は当然、書記が務めました。
  「両委」(党支部と村民委員会)の関係は良好です。現在の書記は、村民委員会選挙の約1ヶ月前、村民も参与した選挙によって選出されました。選挙では、まず、39名の党員と20数名の村民代表(村民代表の中には少なからぬ党員がいるため、両者を合計すると計40数名)によって、第一次書記候補者3名が選出され、次に、39名の党員が無記名投票によって、正式候補者を2名に絞りました。そして、この2名につき、39名の党員が再度投票を行ったのです。2名とは、当選した現在の書記と、落選したもののその後村民委員会主任になった人物です。村では村民委員会メンバー5名と支部書記を併せた計6名で輪番制をとっています。当番の人間は毎日(9〜12時、15〜18時)、村民委員会事務所に詰め、村民の苦情処理等にあたっています。書記が村民委員会主任を兼任するという方針はなく、「14号文件」の存在も知りません。

3.C村(村民委員会主任)
  現在の村民委員会は01年12月に選出されました。6人のメンバー中、5名が党員です。
  選挙は海選、差額のスタイルで行われました。村では88年以来、一家から一人(大体が家長)、従って、全村では200名余りの村民代表を選出していますが、選挙では、まず、この村民代表が全村を対象に主任候補者1名と委員候補者(複数可)を推薦しました。但し、第一次候補者となれるのは、10人以上の村民代表から推薦があった者だけです。勿論、自ら候補者に名乗りを上げることもできますが、やはり、村民代表10名の推薦を得なければなりません。その結果、主任候補者として3名、メンバー候補者として7名がノミネートされました。これを受け、全村民代表の協議を通じ、主任候補者が2名、メンバー候補者が6名に絞られました。絞り込みの基準は、村の経済発展実現のために指導力を発揮することができるか否かです。最終選挙での投票率は90%を上回り、圧倒的多数をもって、現主任が選出されました。落選者も党員です。
  村民委員会メンバーには鎮政府から手当が出ています。主任が最も多く、月300元です。党支部書記にも、鎮政府から300元余りの手当が出ています。
両委関係は良好です。関係が悪いと、村全体を豊かにすることはできません。書記は党員選挙によって選出されたもので、非党員は参与しませんでした。現書記はかつて村民委員会主任を務めていた人物で、98年の選挙によって書記に選出され、現在第二期目を務めています。
  書記が村民委員会主任を兼任するという構想はありません。両委はあくまでも別の組織です。鎮内13村のうち、書記が主任を兼任しているケースは1件だけです。尤も、これは村民委員会主任が病気のために務まらなくなったという特殊ケースで、鎮政府の指示に基づき、次期村民委員会選挙までということで、支部書記が一時的に兼任しているものです。

<感想>
  今回の調査で得た第一の収穫は、「北京にいるだけでは中国は分からない」という単純な道理を改めて確認できたことです。以下、2つの例でこれを説明したいと思います。
  私は当初、「14号文件」は村の隅々まで徹底的に宣伝されているのだろうと思っていたのですが、上述の通り、その存在すら、誰も知りませんでした。つまり、本件に関する限り、党の政策は農村末端まで届いていなかったのです。しかし、これをもって共産党弱体化の結論を引き出すことはできないでしょう。確かに、「一肩挑」の例を確認することはできませんでした。しかし、書記選挙で落選した党員が主任を行っていること、村民が「村のナンバーワンは当然書記」と認識していること、村民委員会の当番体制には党支部書記も含まれていること(以上、B村)、書記は村民委員会主任経験者であること(C村)、両委事務所が同一であること(A、B村)などによって、結果的及び実質的には党の指導を貫徹する体制が確保されていました。なお、村民の振る舞いから感じたのは、以上の現象は何らかの指導や強制によった結果というよりは、むしろ小さな農村コミュニティーがうまく機能していることによってもたらされたごく自然的結果なのではないかとの思いです。従って、「一肩挑」が進んでいる農村では村党支部と村民委員会の関係が逆にうまくいっていないのではないか、兼任を進めるのはそのような村が多いと党が認識し、危機感を抱いているからなのではないか。そのように感じました。
  次に、村民委員会に対する鎮政府の行いの中には、その枠を外れる命令的要素があったことです。今回訪れた3つの村のうち2つの村では、村民委員会メンバー(及び書記)に対する手当ては村民委員会からではなく鎮政府から支給されていました。また、A村では、村民委員会主任が死亡したのを受け、その代理は党支部書記が務めるようにとの指示が鎮政府からあったとの話がありました。これらは、明らかな越権行為です。しかし、それを問題視している村民は誰一人としていませんでした。要するに、結果オーライなのです。「上に政策あれば、下に対策あり」の実態、共産主義のイメージとは異なった柔軟性に富む社会の実態を垣間見た気がしました。
  第二に、「多様性」の問題です。例えば、「海選」です。これを日本語に直訳すると、恐らくは「自由選挙」となるのでしょうが、実態は決してそうではありません。ただ、選挙実施に至るある段階まで(或いはある段階において)は、一定の「自由」が存在し、その理解の仕方も、村によって異なっていました。また、村民委員会の活動も、活発、不活発とまちまちでした。A村でのヒアリング終了後、私は、A氏の家から数百メートルほど離れた村民委員会事務所を訪れましたが、村党支部事務所を兼ねた事務所は施錠されたままでした。そこで感じるのは、今回、四川省側が視察対象を決定した際の判断基準は、私の問題意識とは必ずしも一致していなかったのではないかという点です。つまり、彼らの頭の中では、外国人に見せてもよい農村とは、「経済的に進んでいるところ」なのであって、「一肩挑が忠実に実行に移されているところ」というものではないのではないかとの思いです。第一点とも関連しますが、農村問題の核心はあくまでも経済にあり、経済発展が実現され、また、両委関係に問題がない限り、村民委員会の実態は特段問題視しないとの認識が地方では共有されているのかもしれません。
  第三は、農村基層自治に対する実務者の取り組み姿勢に関する問題です。調査の最終日、私は、四川省民政庁を訪れ、農村自治行政に関わっている関係者からヒアリングを行いましたが、彼らの取り組み姿勢は極めて柔軟、かつ現実的なものでした。私は、面積が広く地形が複雑で、少数民族が多いという四川省の特徴をしっかり認識し、臨機応変に事態に対処するというスタイルを彼らが身につけているように感じました。村民委員会選挙において生じた問題点は的確に理解しているが、それによって大きな混乱が生じていない限り、その解決は決して焦らないといったふうでもありました。例えば、鎮政府が手当を支給している点について疑問を呈すると、彼らからは、「鎮のやり方は適切でない。村民委員会メンバーはあくまでも村民の代表なのであるから、彼らの手当ては村から支給されてしかるべきである」との回答が即座にありました。ただし、同時に、「過渡期としては仕方のない面もある」とのことでした。また、死亡した村民委員会主任の職を党支部書記が務めるよう指示した鎮政府の行為についても、「余り適当なやり方とは言えない」としつつも、「農民から見ると、選挙は確かに面倒であり、しかもコストがかかるという点は理解する必要がある」との指摘がありました。見方によっては、これは極めて無責任な発言ですが、私は逆に、「何と柔軟な発想だろう」と感心してしまいました。

  最後になりましたが、選挙というものが、当局にとってはまだまだ神経質な問題なのだということが、思いがけず判明したことも、今回の大きな収穫でした。実は、私は当初、鎮長の直接選挙について調査したいと考えていたのです。と言うのも、中国では鎮という農村末端行政組織(村は自治組織であって、行政組織ではありません)の長である鎮長の直接選挙は未だ違法視されているのですが、四川省のある地方では既に2回実施されているからです。しかも、中央政府はその結果を、どうやら黙認しているのです。そこで、見てやろうということになったのですが、残念なことに、当の四川省側からは、「鎮長選挙は敏感な問題なのでアレンジできない。ただ、村民委員会選挙なら問題ない」との返事があったのです。瓢箪から駒、とでも言いましょうか。
  期間は短かったものの、実り多い旅でした。「群盲、象を撫でる」の格言があります。その含蓄の深さを改めて、そして、実感をもって感じるとともに、中国農村に対する認識の浅さを反省した次第です。中国は多様・多層で、柔軟な構造をもった社会なのです。

(写真説明:春節(旧正月)期間中、市内各地に縁日が立ちました。私は木彫りの瓢箪を携帯用ストラップとして購入しました。中国語の「瓢箪」は「福禄」の発音と近いため、当地では縁起物とされています)。


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【その

 死者が328名と177名。感染者(累計)が5328名と2520名。疑似感染者が1042名と760名。大体ご想像がつくかと思いますが、これが5月30日現在の中国全土(香港、マカオ、台湾を除く)と北京それぞれのSARS(重症急性呼吸器症候群)被害です。WHOが香港と広東に出していた渡航延期勧告が解除され、北京における新たな感染者も1日あたり一桁台にまで減少しました。街にもだいぶ活気が戻ってきましたが、SARS撲滅宣言を出すにはもう少し時間がかかりそうです。外務省が4月29日に出した、「一時的に離れることが可能な在留邦人は、帰国の可能性を含め検討することをお勧めします」という、北京を対象とした事実上の退避勧告はまだ取り消されていません。長期在留邦人数はSARS禍開始前の半数以下にまで減少したとも言われています。日系企業にも少なからぬ被害が生じています。ただ、幸運と言うべきなのでしょうか、北京を含め、日本人感染者は報告されていません。私も無事、勤務を続けています。

  「非典」。「非典型肺炎」の略称です。中国ではSARSをこう記述します。多少不謹慎ではありますが、「非典」問題をめぐる今回の当局の対応とそれを巡る一連の動きは、今後の中国政治のあり方を考える上で、私にとって格好のケーススタディーの機会となりました。
  まず、SARS騒動の発生から多少落ち着くまでの経緯を振り返ってみたいと思います。
  初めての患者は昨年11月、広東省で発生したと言われています。「怪病」の噂は既にこの頃から北京にも伝わっていましたが、誰もが他人事だと思っていました。今年2月11日、国営新華社通信は広東省における「非典型肺炎」被害について報じたようですが、主要各紙はこの報道をキャリーしませんでした。当時の私ですが、中国伝統の民間療法(?)に絶対的信頼をおく市民の噂などを基に、「酢で室内消毒すれば菌は死ぬようだ」的な漠然とした、今思えば、恥ずかしくなるようなイメージしかありませんでした。
  SARSが全国的問題として取り上げられるようになったのは、4月に入ってからのことです。2日、WHOが広東省と香港に渡航延期勧告を出しました。そして、3日の各紙は、国務院常務会議の開催を伝える記事の中で、「非典型肺炎」という表現を初めて公式に使ったのです。ただし、「状況は既に効果的にコントロールされている」との認識が示されていました。WHOの専門家チームがSARS被害の実情調査のため広東入りしたのも、この日のことです。中国側から言えば、これは国際組織に対する一種の協力姿勢の現れとなるのでしょうが、政府衛生部門のトップである張文康・衛生部長は同日の記者会見で、「中国は安全だ」と述べています。また、翌4日の記者会見では、「WHOが広東を疫病区に指定したのは、彼らが実情を知らないからだ」とも批判しています。ところが、6日、ILO(国際労働機関)の局長が出張先の北京で死亡します。被害が首都に及び、しかも国際機関で働く外国人が亡くなったということで、世界の目が俄かに北京に向き始めたのです。
  指導部の動きが目に見えて慌しくなりました。10日、中国政府はSARSを法定伝染病に指定しました。党のトップである胡錦濤総書記(国家主席)がこの日、広東省入りし、これ以降続く「胡総書記地方行脚」の幕が切って落とされたのです。12日には、温家宝総理も北京市内の病院を視察しました。当局はこの頃、5日に一回、SARSの被害状況を発表していましたが、16日に北京で記者会見を開いたWHO専門家チームは、「北京には報告されているよりも多くの感染者がいる。軍の病院は市の衛生当局に報告するシステムになっていない」と述べ、中国側の対応に不備があるとしています。
  4月20日、大きな展開がありました。この日開かれた記者会見で、高強・衛生部常務副部長が衝撃の事実を告白したのです。「4月18日現在、SARS感染者は全国で1807名、死者79名。うち、北京については感染者が339名、死者が18名に達している」。15日の発表では北京の感染者は37名、死者は4名とされていたのですから、これは発表されてきた数字が実は実際の数字よりも遙かに少なかったことを当局が認めたことに他なりません。この杜撰さに誰もが驚きました。そして、発表直後、張文康・衛生部長と孟学農・北京市長の事実上の解任が発表されました。大臣クラスの人間が一度に二人も引責辞任に追い込まれたということはかつてなかったことなので、これはSARS撲滅にかける指導部の強い意気込みを表したと言うことができるかも知れません。しかし、トップ以下の対応に一貫性があったこと、被害に関する情報が途中で握りつぶされていたとは考えにくいことから判断すれば、彼らはスケープゴートにされたのだと思います。
  23〜24日にかけて、市民は買いだめに走りました。一度患者が出ると居住区全体が封鎖される、食料品の供給がストップするなど、様々な噂が飛び交ったための自衛手段です。普段は見向きもされない高級スーパーの棚からも、一時的ながら、保存の利く食糧・食料品が突如として消えました。
  「国務院防治非典型肺炎指揮部」、つまり、政府の対策本部が23日にやっと立ち上がり、「中国のサッチャー」と称される呉儀副総理が最高責任者に就任しました。これ以降、矢継ぎ早の措置が取られ(学校休校、隔離、移動制限、娯楽施設封鎖、大型活動禁止、消毒強化、指示に従わない公務員の解雇、法整備など)、今日に至ります。
 
  経験的かつ一般的に言うと、「こうだ」と方針を決めた後の中国政府の動きは迅速かつ断固たるものであることを最大の特徴とします。中国共産党による一党支配の「長所」なのかも知れません。従って、SARSがこれほど急速に蔓延したのは、被害に対する認識が甘かったため、中国政府が「こうだ」という方針を示せなかった(従って、政府の失策だった)ことを図らずも証明したのだと思います。仮に、4月中旬までの対応が中国共産党の伝統的手法なのだとすれば、そのようなやり方は既に時代遅れになってしまったということなのかも知れません。
  党・政府として取り組むべき課題は余りに多いと言わざるを得ません。都市部に比べて医療条件が格段劣る農村部への拡散を防げるのか。対応の遅れと事実上の隠蔽で失墜した国際信用を如何に回復し、そして、初動でのつまずきによって増大した国民の対政府不信感を如何にして取り除くのか。経済、とりわけ観光業、飲食業、小売業等への影響を如何にして最小限に抑えるのか(ある中国人研究者は、「SARSのあおりで、今年の中国のGDPは1〜2%下がる」としています)。増加するであろう失業がもたらす社会不安を抑え込むことができるのか。「SARS撲滅に積極的なのは胡錦濤と温家宝だけ。残り7人の政治局常務委員と地方のトップは、"まずはお手並み拝見"と高みの見物」と言われるような内部不協和音説が生まれる土壌をなくすことができるのか。不安材料は尽きません。
  下の写真はメーデー休み前後の風景です。「北京銀座」王井府を写したのは4月29日、天安門広場は5月5日です(左の天安門広場は昨年5月3日に写したものです)。今では街ゆく人もかなり増えましたが、メーデー前後の北京市内はまさにゴーストタウンと化していました。私は、89年「6・4」天安門事件の時も北京にいましたが、今まだ続く街の静けさと人々の持つ緊張感や不安感は、当時を遙かに上回るものです。事態はそれほど深刻なのです。

      

  しかし、見方によっては、今回の混乱は誕生間もない胡錦濤・温家宝体制にとって、災いを転じて福となすための、絶好の機会になるかも知れないのです。では、福をもたらすための課題とは何なのでしょうか。私は以下の3点に期待しています。
  第一に、言論自由化への期待です。SARSが深刻化する前の3月28日に開催された政治局会議は、「会議関連報道と指導的立場にある同志の活動に関する報道を更に改善すること」について議論しました。要するに、指導者を中心としたこれまでの報道姿勢を改め、今後は大衆が関心をもつことをより多く報じようということです。実際、4月上旬、ある有力紙は、「スポークスマンは信用できるのか」と題する衛生部批判記事を掲載しました。聖域とされる軍事分野についても、驚くべき報道がありました。5月3日の各紙は、潜水艦事故で70名が死亡したと報道したのです。SARS被害の統計問題をめぐり、政府における軍の位置づけが問われ、疑惑の目が軍に向けられている中で、軍の不祥事が伝えられたのです。これまでの報道姿勢に基づくなら、「安定団結」の御旗の下、事実は確実に抹殺されていたでしょう。「衛生部は患者隠しを行っている」とする告発文を内外報道機関に送った解放軍医師の身に何か起こったという話も耳にしません。現在の非常事態が収まり、社会に平穏が戻ってきた時の中国の言論状況に注目しています。
  次に、外交姿勢の問題があります。SARSで国際交流が激減しました。「世界知的財産サミット」や「ボーアオ・サミット」(「中国版ダボス会議」)など、政府の肝いりで準備の進められていた会議が次々と延期されています。中国人であることを理由に、入国を認めなくなった国さえあります。そうした中、私は、4月下旬にタイで開催されたASEAN+1の緊急首脳会議に出席した温家宝総理が「中国のSARS対応は不適切だった」と、自己批判を行ったことに驚きました。中国の公式報道もこの発言を伝えています。誇り高い中国人が、しかも政府のトップが、国際会議の場で自らの誤りを認めたのです。「SARS発生の原因と責任が中国にあると証明されたわけではない」と開き直るなど、どう考えても不可能な現実があったわけですが、私は、それでも異例の出来事だったと思います。このような姿勢は、最近の中国がしばしば口にする「責任ある大国」となるための一つの実践過程なのかも知れません。私は、中国がこれまで一定の距離をおいてきたサミット(エビアン)への胡錦濤主席の参加が、中国の進める「大国外交」の行方に如何なる影響をもたらすのか、米国的国際秩序への挑戦姿勢に果たして変化が生じていくのかにも注目しています。今後の日中関係も変わっていく可能性があります。さる19日に行われた与党三幹事長との会談の席で、胡主席自らが、「小泉総理と会談するのを楽しみにしている」と述べたのです。次のステップとして、小泉政権下における日中首脳相互訪問実現のための唯一、最大のネックである靖国問題は「過去のこと」になるのでしょうか。

 

 

 両岸関係(中台関係)にも何らかの変化が生まれるかも知れません。「中国政府の同意」があったのを受け、SARS対策のため、WHOの専門家が5月3日に台湾入りしました。一部では、99年夏の「二国論」発言以降行き詰まり状態にあった両岸関係が、SARSという非常事態をきっかけに打開されるのではとの期待感も生まれました。しかし、例年以上に注目されていたWHO総会ではありますが、やはり今年も中国の反対があり、台湾のオブザーバー参加は認められませんでした。「WHOは主権国家のみが参加できる国際機関である。中国の一つの省である台湾には、たとえオブザーバー参加であっても参加する資格はない。台湾住民の健康維持は中国政府が責任をもって行う」というのが中国政府のスタンスです。しかし、これは原則論に過ぎず、現実とは甚だしく乖離したものです。新たな両岸関係構築のためには、台湾側においては自制をもった国際社会への参与の姿勢が、そして、中国側においては台湾住民の意思を尊重する寛容さが、それぞれ求められているのだと思います。
  私は理想像を語るのが好きではありません。また、以上で指摘した私の考える課題実現が、中国唯一の舵取りである中国共産党自身にとって、果たして理想的な将来像であるかも別問題です。ここ数日の動きは、私の主張が単なる書生論にしか過ぎないことを示唆しているかのようにも思えます。ただ、より長期的視野にたった時、これらの問題は共産党にとっても真剣な検討に値するものだと考えるのです。現在見舞われている危機が深刻であるがゆえ、トンネルを抜け出た後の中国には、これまで想像できなかったようなドラスティックな変化が訪れるかも知れない。今回は、中国に対する私なりの期待感を整理し、記してみました。

(左の写真は、5月19日に発売された「心を合わせ、みんなでSARSに立ち向かおう」切手です。売り上げは全て医療関係部門に寄付されるそうです)。

                     (5月30日記


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【その

 6月24日、WHOは北京をSARS感染指定地域から除外することを決定しました。北京、そして、中国は、約2ヶ月間に及んだSARS禍からとりあえず脱したのです。今月16日には、最後の患者の退院が伝えられました。
  北京は急速に元の姿をとり戻しつつあります。前回の便りでご紹介したゴーストタウンのような王府井にも、多くの観光客が戻ってきました。変化もあります。
最も実感するのは、朝夕の交通渋滞が以前にもまして激しくなったことです。北京の人々もそう感じているようで、SARS期間中に公共輸送手段の利用を避けた多くの市民が自家用車を購入したのが原因だ、と彼らは言っています。

 前回は新指導部(胡錦濤・温家宝体制)に対する期待感を表明しました。今回は新指導部が進める外交、内政政策の特徴について、極力感情を抑えつつ、考察してみたいと思います。
  執務スタイルのことを中国語で「工作作風」と言いますが、現指導部には前指導部と異なった作風を見てとることができます。それは、大衆との近さや実務性を強調するというものです。「SARS撲滅の最前線で陣頭指揮をとった胡錦濤総書記(国家主席)と温家宝総理、そして呉儀副総理こそが3つの代表だ」との声も聞こえてくるように、この作風は一般大衆から好意的に受け止められています。江沢民中央軍事委員会主席(前国家主席、前党総書記)が提起した「3つの代表」というやや抽象的概念を、「この3人こそが大衆の代表だ」と読み替えているのです。

 新たな作風には次のような具体例があります。
 内政面では、昨年12月、胡錦濤総書記は同職就任後初の視察地として、50年前の革命聖地である西柏坡を選び、ここで「2つの責務」(謙虚さを失わないこと、刻苦奮闘の精神を保持すること)を提起しました。これは、幹部(とりわけ党内高級幹部)に対し、襟を正し、大衆の身になって職務を遂行することを求めたもので、民衆の間に広く存在する幹部の汚職や腐敗に対する強い不満を念頭において発言したものと思われます。また、今年1月に内モンゴルの寒村を視察した折にも、胡総書記は「3つの代表とは結局のところ人民大衆の利益を守ることだ」と述べ、大衆の側に立ち、大衆とともに歩もうとする指導部の姿勢をアピールしました。中国のテレビニュースというと、これまでは主要指導者の活動紹介がメインでしたが、新指導部はこのような方針を改めることを決定しました。また、共産党指導部は毎年、概ね7月中旬から8月中旬までの約1ヶ月間、避暑地で、人事問題や経済政策をめぐる密室の会議を断続的に開催してきました。これが世にいわれる「北戴河会議」ですが、この会議の開催が今年は見送られました。SARSの影響から完全には脱していない現状に鑑みれば、賢明な判断だと思います。
  このような新たな作風は外交分野でも確認できます。党・国家指導者の外国訪問に際しての儀式簡素化が決定されました。5月末から6月初めかけて、胡錦濤国家主席は初の外遊を行いましたが、恒例となっていた人民大会堂での見送りと出迎えは実際行われませんでした。外国要人との会談でも、新たな作風は感じられます。私は仕事柄、中国の指導者を近くで見る機会が少なくありませんが、胡錦濤主席は「淡々と」会談をこなし、温家宝総理は「丁寧に」議論を展開します。二人の作風は、外国語の歌を披露するといったパフォーマンスを好んだ江沢民前国家主席や、時として相手を威圧するような雰囲気を持っていた朱鎔基前総理とは、いずれも違ったものです。新しさはこんなところにも窺えるのです。
 新指導部のこうした実務重視、大衆重視の新たな作風は、ある程度まで実際の政策にも反映されています。
  SARS関連事実の隠蔽や潜水艦事故の発生を理由に大臣クラスの幹部を引責辞任させたことは、幹部に対し明確な説明責任を求めようという新指導部の厳しい姿勢を実践に移したものだと考えられます。解放軍の実態は今でも依然として厚いベールに覆われていますが、このような解放軍において発生した事故という不祥事を公にし、関係者の責任を追及したことは、国内世論に新作風をアピールすることとなりました。
  現指導部は、国内における経済建設のため、良好な国際環境を構築すること、とりわけ、周辺国との関係強化を積極的に推進しています。胡錦濤主席は、国家主席就任後初の公式訪問先として、隣国であるロシア、カザフスタン及びモンゴルを選びました。また、インド首相の訪中が10年振りに実現しました。焦点となっている北朝鮮の核問題についても、同地域の平和と安定は中国にとって不可欠であるとの認識に基づき、大きな注意と努力を傾注しています。その結果、第二回北京協議(前回は三者協議、今回は六者協議)が間もなく開催される運びとなっています。
  大衆を重視し、実務を重視するという新たな作風の登場にはどのような背景があるのでしょうか。私は、共産党政権の正統性保持に対する指導部の危機感の表明であると認識しています。
  70年代末以降の改革開放、とりわけ92年初のケ小平南巡以降、高度成長の道を歩み続けた中国は、国際的地位を徐々にではありますが、確実に高めてきました。しかし、このような成長は、多数の弱者を切り捨て、ごく一部の富める者に依って実現した「いびつな発展」であるというのが実態です。地域間、業種間の貧富の格差は縮まるどころか、逆に拡大しつつあるのです。労働争議や住居移転拒否の抗議活動が全国各地で発生しています。賃金不払いを訴える集団抗議行動を私も目撃したことがありますが、参加していたのは、ほとんどが弱者と言うべき高齢者でした。成金の脱税や官吏の汚職は止まるところを知りません。当局の厳しい取り締まりにも拘わらず、法輪功がいまだ根強い影響力を保持しているのは、共産党以外の精神的拠り所を求める民衆が決して少なくないことを示しているのだと思います。こうした社会的混乱状況は、共産党政権の屋台骨を揺るがすまでの脅威には未だ至っていませんが、改革開放政策の金属疲労現象であることは明らかであり、これ以上放置できない状況になってきています。
  そこで、こうした状況に対処すべく、新指導部は、江沢民中央軍事委員会主席が残した「3つの代表」の御旗の下、改革開放の「影」の部分を代表する社会的弱者救済の姿勢を示し始めたのです。国家としての経済発展を維持しさえすれば共産党政権は安泰という時期は既に過ぎ去った。久しく見捨てられた存在であった社会的弱者に焦点をあて、彼らの支持を確保することがこれからの課題であると、新指導部は認識しているのではないのでしょうか。
 新指導部に見られる新たな作風を以って、前指導部への挑戦ととらえる見方が少なからず流布していますが、私は与しません。勿論、両者の間に軋轢やせめぎあいが存在するであろうことを私は否定しません。むしろ、存在すると考えたほうが正しいと思います。要は、木ばかり見ているのでなく、森も見なければいけない、ということなのです。政治局常務委員として10年もの間帝王学を学んできた胡錦濤総書記と、「6・4」天安門事件という修羅場を無傷で乗り切った温家宝総理が、いまだ強い江沢民主席の影響力を無視して急進的な改革を進めるような賭けに出るとはとても思えないのです。実際、作風という抽象的なベールの下には、前指導部時代の路線を基本的に継承した政策が少なくありません。
  中国の人々は、SARSが最も深刻な時に断行された衛生部長、北京市長、そして海軍司令員・政治委員らの解任を好意的に受け止めていますが、一回のミスでも首にするという「一発解任」政策は、前指導部時代から実施に移されていたものです。SARS対策に追われた混乱期に見られた百家争鳴的現象を根拠に、言論の自由化や党内の民主化を期待するのも時期尚早だと思います。党の中央機関が引き締め実行を決意したとされて以降、当地の言論状況は明らかに低調になってきています。また、わが国の少なからぬ報道機関は、「共産党創設82周年の7月1日に行われる胡錦濤演説では民主化推進の方針が示されるのではないか」との期待感を表明しましたが、ふたを開けると、このような発言は一切用意されてなかったのです。
  周辺国との関係強化という外交政策の方向性も、胡−温指導部成立以前からの既定路線です。最近のキャッチフレーズ「与隣為善、以隣為伴」(隣国との関係を適切に処理し、隣国をパートナーとする)にしても、江沢民中央軍事委員会主席が昨年11月の第16回党大会報告で使用したものです。

 最後に、日中関係に目を向けてみたいと思います。
  昨年末から今年初めにかけて有力理論誌『戦略と管理』に掲載された2本の対日論文、「対日関係に関する新しい思考」と「中日接近と“外交革命”」が話題になっています。とりわけ、「中国に対する日本の謝罪の歴史は既に終わった。過去の歴史にとらわれることなく対日関係を発展させるべきである」と指摘する前者の言論については、「新指導部の対日重視政策の現れである」とする見方が少なくありません。しかし、私は、このような楽観論には根拠がないと思っています。勿論、歴史問題が水に流されるのなら、日中関係は劇的に変わるでしょうし、我々としてはある意味、そのような方向にもっていくべきだとも思います。ただ、中国の指導部からは、そこまで確実なメッセージは未だ伝わってきていません。わが国指導者の靖国神社参拝問題に対する対応に明確な変化が見られるか否かが、中国の対日政策の本質的変化を判断するメルクマールである点に変化はないのだと思います。また、後者の論文が展開する対日重視論は、単純な友好論などでは決してなく、対米戦略を優位に進め、台湾統一を実現するという、中国自身の国益への奉仕を第一に置いたものです。対日重視論が公に議論されていることを以って楽観的になるのではなく、如何なる観点から対日関係を「重視」しているのか、その内容を慎重に検討する必要があると思います。
 新指導部に見られる変化は、総じて言うに、「作風」というパフォーマンスのレベルに止まっています。私は、新指導部の大衆重視、実務重視のパフォーマンスが、果たして今後更なる具体的政策の形をとって、実際に社会的弱者を救済していくことになるのかに、注目していきたいと思っています。この点において改善が確認できれば、それ以外の内政政策や外交政策にも、実務性は反映されていくのではないでしょうか。ただし、注意すべき点が一点あります。大衆に頼りすぎると、政権としての主導的な動きがとれなくなってしまう恐れがあるということです。「水(大衆)は船(指導者)を載せることもできるが、転覆させることもできる」とは、中国人なら誰でも知っている格言です。そう考えると、「ムチ」を手放すわけにはいかないし、方針が変わるかも知れない。私自身、比較的良い印象をもって見ている新指導部ですが、手放しで明るい未来像を描けない理由は、この辺にもあるのです。

(8月22日記)


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【その

  11月7日、北京に初雪が降りました。いつになく早い冬の到来です。市の集中暖房システムは、例年通り15日稼働だったので、多くの市民が寒い一週間を耐えました。

            

(写真は、初雪翌日の北京です。雪の重さに耐えられずに折れた街路樹の枝が路上に散乱
  していました。全市で1347万株が被害に遭ったそうです)

初雪直前、日中関係に炎があがりかけました。我々日本人にも馴染みの深い西安で発生した「西北大学事件」です。発生から一応の決着に至る経緯は、概ね次のようなものでした。10月29日に行われた同大学外国人留学生による「文芸の夕べ」で4人の日本人が演じた劇に、中国人学生が激怒。翌30日、千人を上回る数の中国人学生らが留学生宿舎を取り囲み、謝罪を要求。その過程で、激昂した一部学生が宿舎に乱入し、事件とは無関係の日本人留学生2人を殴打するという事件も発生。また、その後、少なからぬ中国人学生が街頭デモを行い、多くの民衆を巻き込み暴徒化したことで、事態が悪化。しかし、4人が謝罪文を大学側に提出し、11月3日に帰国(実質的な強制退去処分)したことにより、事態は一応鎮静化。
 事件発生当初から、私は強い疑問を感じていました。ここまで事態が悪化した理由は一体何なのか。中国のお国柄を理解しない日本人留学生らの軽率さがきっかけだったことは否定できないにしても、「意外と脆い日中関係」という単純な枠組みだけでは全体像を把握できないのではないか。現場入りした同僚の印象や報告、各種報道をもとに、以下、「疑問」について考えてみたいと思います。多少の憶測が含まれているかも知れませんが。

 前後逆になりますが、まず、事件の発生・拡大の背景には「日中」以外の要素もあるのではないかと思うに至った理由です。「日本人留学生らの下品な寸劇に中国人学生が激怒」との第一報に接した時の私の最大の関心事は、不謹慎のそしりを受けることを覚悟で申し上げると、「学生は一体どんなシュプレヒコールをあげたのだろうか」というものでした。そして、私は、「ハレンチ日本人。珠海の次は西安か!」とか、「毒ガスでチチハルを、亜流文化で古都西安を侵略する日本人は出て行け!」といったものをイメージしました。全く関係ない複数の事象に何らかの共通点や関連性を見出そうという中国人の思考様式、或いは、「歴史に対して反省しない日本人」というステレオタイプ的な対日イメージに基づけば、多分そんなところだろうと思ったわけです。しかし、私の予想は見事に裏切られました。「中国人を馬鹿にするな!」。これが回答だったのです。私は、「学生の抗議行動は反日という要素だけでは理解できない」と考え始めました。事態がその後、大方の予想をはるかに上回る程度にまで深刻化したのは、まさに、複合的原因が存在していたからなのです。
 では、反日以外の要素とは一体何なのでしょうか。私は、3つあると考えます。
 第一に、中国人大学生に共通する特性という問題があります。「中国人を馬鹿にするな」。日本と異なり、中国社会において大学生は確実にエリートです。社会主義市場経済の荒海をこれからどうやって泳いで行くべきかを彼らは真剣に模索しています。政治、経済、文化、あらゆる領域からの情報収集に努めているのです。「文芸の夕べ」で彼らが期待していたのが宴会芸などでなかったことは、容易に想像できます。そして近年、このようなエリート意識に、自信と民族主義的愛国主義という2つの要素が新たに加わりました。自信は、国内的には猛烈な経済発展(その象徴が有人宇宙飛行船「神舟5号」の打ち上げ成功)に、国際的には国連安保理常任理事国或いはアジアの大国としての活躍(その象徴が六者協議のコーディネート)に基づくものです。民族主義的愛国主義は、私はこれを批判的にとらえていますが、近代中国の「屈辱と悲惨さ」を過度に強調した歴史教育と、唯一の超大国である米国への対抗意識から生まれた内政不干渉政策に基づくものです。異文化理解のTPOとして、自信と民族主義的愛国主義に満ち溢れたエリートである中国人大学生との付き合いには、それなりの心の準備が必要なのです。自省の念を込めて書きます。「もっと勉強しよう、日本人」。
 第二に、「古都」、「学園都市」、そして、「内陸都市」という3つの顔をもつ西安という街の土地柄です。まず、「古都」についてですが、ある中国人の友人は、「西安人は古い歴史を誇りとしているだけに、中国で最も保守的な人々」と断言して憚りません。私には「最も保守的」であるかを判断する材料はありません。しかし、海外との交流の盛んな沿海都市(例えば上海)にある大学での出来事であれば、今回程度のパフォーマンスなら、学生達はこれを受け流していたでしょう。次に、「学園都市」西安の顔です。全国の大学卒業者数が今年から大幅に増加し、しかも、就職率が余り高くなかったことから、内陸屈指の学園都市である西安で学ぶ多くの大学生は自分の将来に強い不安を抱いていたと想像されます。これも導火線のひとつだったのだと思います。最後に、「内陸都市」についてですが、今回の事件は、内陸都市一般が抱える「現代中国社会の陰(治安の悪化や公序良俗の衰退)」の部分が瞬間的に噴出したのだと考えられます。ある中国誌によると、今年1月から8月中旬までの間に西安では4件もの爆発事件が発生、とりわけ、7月14日の事件では5名が死亡しています(犯人は既に逮捕)。いずれも、個人的恨みが原因のようです。また、昨年3月には、サッカーの判定を不満とする約3万人の観衆が暴徒化し、スタジアムに火を放つなどの騒ぎも起こっています。内陸に位置するという地理的制限と厳しい風土とにより、高い知名度が与えるイメージほどには経済発展を遂げることができない。そのような悶々としたムードが街を覆っているのかも知れません(事柄の性質上、厳しい内容になりましたが、私の意図は決して西安批判にはありません。西安は私が好きな中国の街の一つです)。
 かつては可能だった、自らの境遇を厳しくさせ得る事態を未然に防ぐ、或いは火種のうちに収拾するということが、当局にはますます困難になってきているという一般的状況があります。これが第三の理由です。寸劇を演じた当事者にはそのつもりはなかったようですが、それを見ていた中国人学生が抱いた「馬鹿にされた」との怒りは、インターネットを通じて、瞬く間に中国全土に広がりました。サイトの書き込みは、日本や日本人への痛罵で溢れました。そして、意外にも、中国政府から日本政府に対して申し入れが行われましたが、それは、「政府としてもっと留学生を教育して欲しい」という趣旨のものでした。これは、「子供の喧嘩に親」的な、双方にとって非常に恥ずかしいやりとりだったわけですが、中国政府がこうした措置をとった理由は、一義的には国内世論の鎮静化にあったというのが私の判断です。ひと昔前であれば、「良好な日中関係に影響を及ぼさない」ことを理由に一部の過激な意見を封殺することも可能だったでしょう。しかし、IT革命の波に洗われているのは、中国とて例外ではないのです。「軟弱な対応は許さない」という民衆の声(そのほとんどがネット上での匿名意見)を当局は無視することができなくなってきているのです。
民の側に立つ姿勢を示すことで大衆的支持を得ようとしている、そして、かなりの程度支持を獲得してきた胡錦濤・温家宝指導部ですが、大衆の声を重視するが故に対応に苦慮するという事態が今後今後一層増えていくかも知れません。警察力の早期・大量投入に学生が反発したことも事態悪化の一因だったようです。「ガス抜きはかえって危険。そうなるうちに芽を摘み取る」。逆説的ではありますが、今回の対応は取り締まりにあたる現場責任者がそう考えた結果だったとも思えるのです。
 以上見てきたように、「西北大学事件」発生・拡大の背景は複雑かつ多面的なものです。しかし、事件のきっかけをつくったのが日本人でなくても同様の経緯をたどったでしょうか。私はそうは思いません。やはり、日中関係における政治の現状といった要素抜きには今回の事件は語れないのだと思います。国交正常化から既に31年もの歳月が流れましたが、歴史認識問題を背景に、「“日本”が理由なら、政府も多少のことには目をつぶるだろう」といった政治的土壌が今でも中国社会に根強く存在していることは否定できない事実です。私がこう述べる主たる目的は、中国の人々や中国政府を非難することにあるのではありません。交流の土台は相手の実情の正確な理解にあるということを言いたいのです。互いの相違点を認識し、しかも、それを尊重しつつ交流を行えるほどには、日中関係は未だ成熟していないのです。政府として成すべき仕事は少なくありません。
 89年、私は北京大学に語学留学していました。ですから、4月中旬に始まった学生運動を内部からつぶさに観察できる立場にあったのですが、それが「6・4」天安門事件という形で悲劇的な結末を迎えるなどとは、全く予想できませんでした。背景も、また、性質も、「6・4」とは全く異なる今回の事件ですが、事態の展開を正確に予測できなかったという点では、私にとって同じ結果でした。中国人大学生の「てごわさ」を改めて痛感した次第です。

(2003年11月29日記)


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【その

 日々変化を続け、国際社会に対する影響力を拡大しつつある中国ですが、そのような中国の「民主化」について語られることが最近増えてきています。今回の「便り」は、昨年12月に北京市で行われた人民代表選挙の見学後記です。
 今回行われたのは、北京市管轄下にある各区及び県の人民代表大会代表(わが国で言えば、区議会議員のイメージ)を選出するための選挙です。これは5年に1度行われるもので、12月10日を最大の山場として、6日から15日にかけて実施されました。6,748名の候補者から4,403名の代表が選出されたので、平均競争倍率は1.53倍ということになります。これとは別に、95.3%という数字も紹介されました。何と投票率です。驚異的な高投票率は、中国の選挙に見られる大きな特徴の一つです。
 今回は、見学などを通じて確認できた、中国の選挙に見られる制度的特徴を中心にまとめることに主眼を置いていますが、その前に、「候補者の名称」問題に触れておきたいと思います。

 中国の選挙では、選挙に至るプロセスの前段階と後段階とで、候補者名称が異なっています。候補者は当初、「初歩的代表候補者」と呼ばれるのが一般的なのですが、今回の選挙では4万人余りの初歩的代表候補者が「推薦」されました。市の関連規定によると、初歩的代表候補者は「政党や人民団体の連名或いは単独の推薦によるか、或いは、10名以上の有権者の推薦による」となっています。この初歩的代表候補者の中から選出されるのが、選挙の洗礼を実際に受ける「正式代表候補者」です。彼らは、「各選挙区の正式代表候補者数は選出すべき代表数の1.33倍から2倍」という規定に則り、「各選挙区有権者による民主的協議」と「多くの有権者の意見」を基に確定されることになっています。
 投票に至る過程で確認できた特徴としては、次のようなものがあります。
  選出されるべき代表の構成比率に一定の「目安」が事前に設けられている点が第一の特徴です。今回の選挙では、「共産党籍を有する代表は代表者総数の65%を超えない」、「女性代表は28%より低くない」、「35歳以下の代表は8%より幾分多めにする」、「短大(大専)卒以上の高学歴者代表は84%より多くする」、「政党や人民団体の連名或いは単独の推薦による代表は20%を超えない」などの基準が設けられていました。私は、上述の「民主的協議」が誰の主導によって、どのように進められるのかに強い関心を抱いています。その実態は残念ながら明らかにされていませんが、ここであげたいくつかの目安に基づいて、このような協議が行われていることだけは確かだと思います。
  第二に、「自由な立候補」が実は認められていないことに関連する問題があります。わが国の各報道機関は、「今回の選挙では独立候補者が現れた」と、お手盛りだった中国の選挙にも自由化の波が押し寄せていることをとりあげ、これを強調していました。この「独立候補者」とは、共産党組織などの「他薦」によるのでなく、専ら自らの意思で立候補を表明し、10名以上の有権者の支持を獲得した「自薦による初歩的代表候補者」のことです。

中国の報道機関によると、23名(一説では24名)の独立候補者が初歩的代表候補者として立候補しましたが、文言上はほぼ自由な(初歩的代表候補者としての)立候補も、実際にはそれほど自由ではないようです。根拠は次の2点です。第一に、独立候補者の一人が私に語った裏話があります。彼によると、「初歩的代表候補者として立候補するためには、有権者10名の推薦があればいいということになっている。しかし、自分の所属する選挙区の管理委員会は、『10名とは、有権者であれば誰でもよいというわけではなく、立候補希望者と同じ有権者グループに属する10名でなければならない』と、いちゃもんをつけてきた」というのです。第二に、私が見学した2つの選挙区での実践方法です。それぞれの選挙区では、「有権者代表者会議を2回開催し、有権者グループ代表10名の連名により」、或いは、「有権者による民主的協議、選挙区工作組長・副組長会議、招集人会議、有権者小組会議等を開催し、有権者10名以上の連名により」、初歩的代表候補者が選出されていました。 style="VERTICAL-ALIGN: baseline; TEXT-INDENT: 10.9pt; punctuation-wrap: simple">23名のうち果たして何名が「民主的協議」などのハードルをクリアし、正式選挙に臨むことができたかは、実は明らかになっていません。ただ、中国側の報道によると、最終的には2名(或いは3名)の独立候補者が晴れて代表に当選したようです。彼らが今後、どのような「独立」した活動を行うのかに注目していきたいと思います。
  第三に、「一票の格差」に関連する問題です。私が見学した2つの選挙区を比較すると、有権者2,814名の選挙区から3名の代表が選出されたのに対し、有権者4,064名の選挙区の定員はわずか1名だったのです。中国(少なくとも北京市)においては「1票の格差」はあまり重視・問題視されていないようです。
  次に、投票現場を見学して感じたことを記したいと思います。私は、当選させたいと思っている候補者をほぼ予定通り当選させることのできる共産党の選挙システムの実態を目の当たりにし、大いに驚き、そして興奮しました。
  投票所に到着すると、その入り口近くで、ある音楽に合わせて踊る20名ほどの老婦人グループの姿が目に飛び込んできました。その音楽とは、中国の人なら誰でも知っている「共産党がなければ新中国もない」でした。たあいもない光景ですが、当局の意図するところがはっきりうかがえるものでした。
  第二に、候補者紹介の仕方です。私が見学した選挙区は2名の候補者から1名を選出する小選挙区でしたが、投票所入り口脇に掲示された2名の略歴の内容及びスタイルからも、当局の意図を読み取ることができました。候補者A氏は、選挙区が所属する地区にある共産党組織、従って選挙作業を指導する立場にある組織のトップ(党委員会書記)でした。そのA氏に関する紹介は、「A同志は云々」と、権威ある第三者がA氏を推薦する文体で書いてあったのです。これに対し、非共産党員とおぼしき候補者B氏についてはそのような主語もなく、また、A氏に比べて若いという要素を差し引いても、その紹介内容は驚くほど簡単なものでした。
  最も驚いたのは、投票結果を誘導する上で、「代書処」係員なる人物が決定的役割を果たしていたことです。投票所に入った有権者は、投票用紙を受け取ると、「代書処」で用紙に記入するよう指導されていました。「代書処」と書かれた場所を目にした時、私は、「首都北京でも代書係をおかなければならないほど、中国の教育水準は低いのか」とショックを受けたのですが、実はこの代書処係員、その役割は、文盲者の手助けをすることにあるのではなかったのです。彼には3つの役割がありました。第一の役割は、有権者に投票方法を説明することです。その説明とは、党書記であるA氏の名前を指しつつ、「代表として適当と思う候補者の名前の上には○を」、B氏の名前を指しつつ、「適当でないと思う候補者の名前の上には×を」というものでした。実際、私が観察している間に投票したすべての有権者は、係員のこうした説明を何ら抵抗なく受け入れ、候補者A氏に○をつけていました。第二の役割は、有権者にA氏を推薦することです。投票所にやってきた有権者の多くが候補者の名前すら聞いたことがない、といった様子の人々だったのですが、くだんの係員氏は、「A候補は有権者のために仕事をする人物だ」などと、同候補を盛んに推薦していました。第三の役目とは、有権者に代わってA候補に○を付けることです。少なからぬ有権者は、2人のいずれが当選しようと全く関心がないといったように見受けられました。そのような時、係員氏はエイやと自らペンを取りあげ、A候補に○を付けるのでした。
  勿論、A候補が当選しました。同選挙区選挙管理委員会関係者によると、彼の得票率は何と98%にも達したそうです。
  第四に、「代理投票」の実態です。代理投票制度は高得票率を確保するための手段と考えられますが、投票所内に貼られた説明書によると、何らかの理由で投票にいけない有権者の便宜を図るため、その親族などは、委託書とともに、最大3名までの代理投票を行うことができるとされていました。しかし、選挙当日、委託書を持参した有権者は見あたりませんでしたし、ある老人は、「家族全員の分」と称して、一人で5票も投票していました。老人が代書処係員の指導に従い、A候補の名前の上に5つの○を付けたのは言うまでもありません。
  第五に、有権者は候補者を良く知らないままに投票するという実態です。投票所で配布された資料によると、12月8日までに「対面式」(有権者代表を前に候補者が自己アピールするという、「中国的立会演説会」)を行った選挙区は、北京市全選挙区の僅か3分の1に止まっていたというのです。このことから、多くの有権者が候補者の人となりを知ることなく投票を行ったであろうことが想像されます。代書処係員の指導に有権者が従順に従う背景には、政治への無関心以外に、このような制度的要因も存在するように思われます。
  最後に、当局は秘密投票制度を推進しようとしていますが、実際の投票が極めて「オープン」だった点です。その背景については、二つの考えかたが可能かと思います。第一に、「中国の基層レベルでは秘密投票を当然視する意識が未だ育っていない」とする見方です。私が訪れた投票所には、他人の目を遮ることのできる「秘密写票処」が設けられていましたが(ただし、一ヵ所)、利用者は一人もいませんでした。また、秘密投票場所の設置場所を訪ねる有権者もいませんでした。第二に、「オープンにせざるを得ない理由があるのではないか」との考えかたです。一般的に言って、都市部の住民は人民代表選挙などに余り関心がありません。そのような人々の投票結果を当局にとって望ましいと思われる方向に誘導するためには、代書係制度の導入などによってオープンにせざるを得ない、と考えることはできないでしょうか。
  私は、今回の人民代表大会代表選出選挙で、共産党は強い指導力を発揮し、選挙という制度を通じて、党としての意思を国家意思に転換することに成功したと考えています。投票結果は、事前に設定された代表構成比率の目安を概ね満足させるものでした(「女性28%以上」の結果は32.5%、「35歳以下8%以上」は11.5%、「高学歴者84%以上」は79%、「政党・団体推薦20%以下」は16.8%。「共産党員65%以下」については不明)。ただ、詳細に観察すると、党のコントロールが効いていない部分や、中国の人々が決して「政治第一人間」ではない点も確認できました。最後に2つのエピソードをご紹介したいと思います。
  エピソード1。
 報道によると、2,336選挙区中の34選挙区で、第一回目の投票において規定数の代表を選出することができなかった(つまり、有効投票数の過半数を獲得した候補者が定員数を満たさなかった)ため、再選挙が行われたそうです。実際、私は、2名の候補者から1名の代表を選出する某選挙区において、「いずれの候補者も投票総数の過半数の賛成票を獲得できなかったので、12日に再投票を行う」と書かれた通知が掲示されているのを確認しています。

エピソード2
 私は、市内のある投票所で、次のようなやりとりを耳にしました。
  係 員:(投票所の前を素通りしようとした知人を見つけて)「投票しないの?」。
  有権者:「しない。適当に書いといて」。
  係 員:「OK」。
 政治に対する無関心さ、選挙管理の杜撰さを物語るこの光景、このやりとりに、私は思わず吹き出してしまいました。

           
                「秘密投票箱」                                    中央男性が「代書処」係員 (2枚の写真は駒見一善氏からご提供頂きました)

  変わる中国、変わらぬ中国。深刻な問題を数多く抱えながらも、結果オーライ路線をバク進する中国。何でもありの中国は、秩序と混乱で織り成された一大世界でした。

  なお、2月12日、私は3年半近くに及んだ北京生活を終え、帰国しました。
  「北京便り」もこれが最後となります。長らくのお付き合い、ありがとうございました。


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電子マガジン8号(2002年6月1日発行)から15号(2004年3月1日発行)まで連載された。


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