「東武練馬まるとし物語 第二部」

国際情報専攻 3期生・修了 若山 太郎

 その一 「継続の美学」

 東京都練馬区にあるとんかつ屋「まるとし」は、日々いろいろな事が起こる。お客様に喜ばれること、感動されることもあれば、叱られることもある。その度に笑ったり、驚いたり、困惑したりした。僕は、今店主である。
 「すべての答えは、お客様が決める。」
 お客様の嗜好は、千差万別、十人十色。それも、その時々の世界情勢、社会環境によっても、一瞬にして大きく変わっていく。難しい時代だけれど、やりがいはある。だからこそ、ピンチをチャンスに。先のことは何一つ分らない中で、今できることを一つ一つ大事にしていき、前向きに行こう。

 この物語は、この夏電子ブックとして、7回にわたり連載されたものが、一つにまとまったものである。内容はともかく、仕事と研究に連載、どれも息の抜けない生活から、ようやく、仕事以外は、肩の荷が下りた。
 ただ、それぞれを長く続けていたことは、ある意味自分の個性であり、生活の一部であった。「継続」というキーワードは重要であろう。
 また、継続の美学では、それにまつわる楽しいことも数々起こってくる。
 研究科の電子マガジンでの連載文は、今まで僕の友人たちが毎回とても楽しみにしてくれていた。ゼミ仲間には、発行されたら真っ先に僕の文を読んで下さる方もいる。「もうやめてしまうの?残念だ、ぜひ継続を」というアンコールの言葉もあった。
 それならばと、今回その続きを書いてみようと、気持ちを新たに話を書き出すことにした。といって、今まで同様に、日々の生活を書き連ねていくだけなのであるけれど。

 夏から秋、そして冬へ。東武東上線「東武練馬駅」南口程近くにある「まるとし」では、その季節の移り変わりと同じように、さまざまなことが起こっていた。

 8月27日、天候にも恵まれ、第47回高円寺阿波踊りが開催された。
高円寺阿波踊り1  「きたまちじゃじゃ馬連」が出場するので、定休日だった僕も子供たち3人に付き添い参加した。連は、ここ数年連続で出場しているが、僕や子供たちにとって高円寺の阿波踊りは、初めてだ。
 夕方、商店街の町会会館前に、髪を結わえ、しっかりと衣装に着替えた子供たちを連れ集合。貸切りバスに乗り、会場に向かった。
 高円寺阿波踊りは、歴史も長く、規模も大きく、踊り手も観客も多く、このひと月前に行われた地元のきたまち阿波踊りに比べ、何から何まで、桁違いの迫力を感じた。阿波踊りの品評会の場でもあるため、技術に対しての厳しさや、その華やかさの中にも、緊張や張りつめた空気があった。
高円寺阿波踊り2  夕やみが迫る本番間際、沿道には見物の人々があふれるばかりになり、出番を待つ色とりどりの衣装を着た踊り手も加わって、町はとても鮮やかな光景となった。
 子供たちはというと、その場の雰囲気に圧倒されていたものの、約3時間、連の踊りについていくことができる時もあれば、そうもいかない時もあった。連長は、「参加することが何より。夏休みのいい思い出になればいいからね。」という温かい声をかけて下さった。
 後日、今回の高円寺阿波踊りで、「きたまちじゃじゃ馬連」は、朝日さわやか賞を受賞した。子供たちが、ベテランの鳴り物や踊り手の方々の足手まといになったのではと気にかかっていたので、入賞できたと知ったときは、うれしかった。

高円寺阿波踊り3  阿波踊りに関して、10月19日に行われた第26回練馬まつりにも、参加した。
 このまつりは、「すずしろの故郷(ふるさと)にふれあいを求めて」がテーマである。カーニバルや鳴子踊りなどのパレードあり、また練馬総合運動場をメイン会場とした新鮮な物産品や生活用品を販売する露店も多く並ぶ、盛りだくさんの内容だ。
 子供たちは、踊り終わった後、ふれあい広場での折り紙教室、物産展も面白かったようだ。

 店には、いろいろなお客様がいらっしゃる。その中でも、最近特に個人的に親しくさせていただいているのは、シンガーソングライターのMORIさん、そしてユニットも組んでいるようこさんのお二人だ。
MORIさん・ようこさん  一生懸命に頑張っているお客様は応援したい、と僕は常日頃考えている。MORIさんから、「まるとし」でも機会があれば、ぜひライブをしてみたい、という話もあり、ちょうど8月30日に、大学院の先生とゼミ仲間とが集まっての修了パーティを僕の店で開催する予定もあったので、その機会にお願いすることに決まった。
 当日は、小松憲治先生ならびに、同期ゼミ修了仲間総勢6名、遠くは広島から堀内さんが、初めて来店下さった。大事な会なので、店はお客様が落ち着く、2時から5時までの時間帯を貸切とした。
 3人の子供たちが浴衣を着て、皆さんをお出迎え。挨拶をそこそこに、料理を振舞、子供たちは、争うように、料理と飲み物を運ぶ、和やかな雰囲気の会となった。

練馬まつり  1時間くらいたった頃、MORIさん・ようこさんユニットによる、お祝いのライブをやっていただいた。よう子さんの透き通る声とMORIさんのギター、ボーカル、ハーモニカ。そして、弾き語りの演奏も加わり、楽しい時を過ごせた。

 翌月の9月27日の修了式後、先生やゼミ仲間と山梨県石和温泉に出かけた。
 今回の旅行は、先生はもちろん、同期の仲間もそれぞれ皆忙しい中で、何とか集まることが出来た。それは、僕たちゼミ修了生が、今まで数々ご指導をいただき、大変お世話になった先生をご招待する形で、少しでものご恩返しにという想いから実現したものであった。

石和温泉1  僕は当日、朝の仕込みを終え、営業開始前のぎりぎりの時間まで店にいた。後のことは、妻や義父であるおやじさんに頼み、子供たち3人を連れて出発した。
 妻を抜きにした子供たちとの旅行は、初めてで、長女が妹たちの面倒(お風呂での浴衣の着せ替え等)をみなくてはとかなり心配していた。やはり僕がついているとはいえ、大人ばかりの旅行に対して、妹として気楽な次女や三女とは違い、長女の不安さが痛いほどわかった。
 その後、旅先の関口さんから子供たち宛に綺麗な魚の絵葉書が届いた。それをきっかけに、長女の心配も、少しずつ楽しみに変わっていった様子だった。
 現地のホテルに夕方着き、部屋に荷物を置き、湯につかった。お風呂では、その関口さんや井澤さんがやさしく気を配ってくれた。
石和温泉2  「あわびの踊り焼き」などの料理を、翌日には、幹事唐牛さんのご学友深沢さんに現地での案内もしていただいた。深沢さんのご実家でのぶどう狩り、時期は終わっていたにも関わらず、わざわざ僕たちのために残してくださった最高級の巨峰を堪能した。

 ハプニングもあった。帰りの電車が、中央線の配線トラブルのため、お昼過ぎに運休されるとの情報が入り、植物園の入口近くにいたにも、入らず急遽駅に行って状況を確認する事に。
 九州佐世保から来ていた西郷さんは、帰りの飛行機の時間もあり、普通電車は途中まで走っていたので、先に戻った。結局、1時間くらい待った結果、予定通りの電車が復旧、乗車できた。このことは、翌日の新聞の一面に大きな記事となった。
 子供たちの視点は、大人とは別なこともある。旅行では、ホテルのフロントの前で綺麗な鯉が泳いでいたことが一番のお気に入りであった。
 僕のゼミの同期は、研究において苦楽を共にした仲間であり、修了してからも結束が固い。通信制の大学院であったからこそ、通学制よりも限られた時間を貴重に使い、ゼミでは、それぞれの問題意識に対しての本音が飛び交い充実した日々であったと思える。今回の修了旅行は、それまでの関係の一つの区切りとなる。それでも仲間として、友人としての関係は、今後も継続していきたいし、大事にしたい。

 修了旅行の翌週の9月30日、事前にお誘いがあり、近藤ゼミ主催のサイバーゼミに参加した。店の忙しい時間が一段落する夜の9時からが開始時間だったこともあり、その時間に合わせて帰宅をし、自宅のパソコンの前に座った。
 テーマは、近藤大博先生による「アメリカ報告」。近藤先生は、8月17日から、アメリカ最古の歴史と伝統を誇る州立大学であり、日本研究で有名なミシガン大学の客員教授として招聘され渡航された。
 渡航前の8月11日には、ホテルニューオータニ東京の桂の間で行われた時事問題を語る会主催、院生有志により、壮途の安全と一層の研究と活躍を祈念しての壮行会が行われた。その時にお会いして以来、注目していた近藤先生のお言葉であった。
 今回のサイバーゼミでは、冒頭約20分間の先生によるアメリカでの現状報告と、その後の参加者によるアメリカについての討論であった。
 なかなか難しいテーマであり、個人的には、リアルタイムの、アメリカからの近藤先生の元気そうなお姿を拝見させていただけたことが、何よりも有意義なことであった。
 サイバーゼミへの参加は、個人的に通算4度目、修了してからは2度目であった。「討論を深める実質的な作業は、メールなり、対面。サイバーゼミはいわば、討論の糸口となれば、または問題把握の契機となれば」と後日先生から言葉をいただいた。定期的に継続される、サイバーゼミを使った、今後の研究科のオンライン教育の行方に、個人的に注視している。

オリンピックフェスティバル2003  季節はスポーツの秋に。10月に入り、長女と次女の小学校の運動会と三女の幼稚園の運動会があり、その後の10月13日体育の日、JOC(日本オリンピック委員会)主催、東京駒沢オリンピック公園総合運動場での「オリンピックフェスティバル2003」に出場した。
 参加種目は、開会式直後の5kmジョギング。長女と次女と一緒に走った。足に豆を作りながらの長女と、1度転んでも起き上がって負けずに走った次女。競技場のトラックから外に出て、公園を2周、特に2周目は、ほとんど歩くようになったが、無事完走。またここでも1つの思い出ができた。
 僕はいつか機会をみて、今まで経験はないけれど、将来フルマラソンにチャレンジしてみたいと考えている。今回走ってみて、小学生にとっての5キロは、長すぎると感じた。これ以上の距離は、僕一人でのチャレンジにしようと思う。ただこれからも、自分の体調と相談しながら、無理のないよう少しずつ、距離を伸ばし、目標に向かって、継続して走り続けていきたい。

 店についての大きなことも、取り上げよう。

 まず、店の沿線周辺での無料配布雑誌、スケイルデザインズの月刊「タイル」には、9月号から3ヶ月連続で広告をお願いし掲載した。そのことをきっかけに編集部から、僕に直々にインタビューをしたいという申し出があり、お受けした。
 「バッティングスタイル」というコーナーで、「裏付けがある中で、お客さんの喜ぶ変革を」という僕の言葉が、10月号で記事となった。
 生パン粉、アルカリイオン水、オリジナルブレンド油を使用。この記事では、店の原点はお米屋さんであることもお話した。練馬区平和台にまるとし米店があり、親戚のよしみで、品質のいいものを選んでもらって、お米もおいしいとよくいわれること。商店街を大切にしたいと思っていることなど。

まるとし  文化祭に商店街を紹介するとのことで、総合学習の一貫として、地元の3人の中学生が取材に来たこともあった。
 11月1日の文化の日、早速、店近くの中学校で行われた文化祭を見学に行った。
 上手に廊下を商店街の通りに見立てて、教室の壁や校舎の窓に、取材をした店舗前の写真を並べ、そこに店のアピールコメントが書かれていた。商店街の飾りとか、時計も再現されていて、立派な商店街が完成していた。

 11月13日には発売されたJTB発行の旅行ガイドブック「るるぶ練馬区」についても取材を受けることになり、店舗の紹介記事として、「まるとし」が掲載された。
 この雑誌について、練馬の経済団体や区、レジャー関連企業でつくる練馬区観光協議会が観光客を期待する目的で、企画をJTBに直接働きかけたところ実現したものである。23区単独では「るるぶ情報版」として、初めて取り上げられた。
 路地裏散策や練馬にまつわる話、隠れた一品、地元の職人などにスポットを当て、住んでいても意外に知らないような内容を重視した雑誌である。そこに小さいたたずまいながら、店が掲載された。
 練馬区内の書店では、この雑誌を紹介するのぼりを立て、区をあげて販売に積極的であるようだ。

 なお、冒頭の似顔絵は、同期の友人である落合さんの手作りによるものです。ありがとう!感謝!

 以下、次号。


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 その二 「新しい書斎」

 家は、毎日の生活で、誰にとって最も基本となる場所である。
 10月におやじさんの家を増改築する工事が着工、12月中旬には完成した。店のお客様で気心も通じている会社に工事を依頼したので、建築にあたっての心配は何もなかった。
書斎  部屋のデザインやレイアウトは妻にまかせた。唯一、僕が注文したことは僕の書斎を作ることと、今まで研究した書物を収納する、壁に備え付けの本棚を設けることだけである。
 築15年ほど経っている家なので、2階部分を改築する他にも、壁の吹き付けやお風呂など、この機会に直すことになった。
 お風呂は、使い心地がよいものになるよう、義母や妻が建築士の方と、ショールームも見学して、いろいろと話し合ったようだ。そして、限られたスペースにもかかわらず、従来の物と比べて、使いやすく、明るく広々とした印象の‘バスルーム’になった。
 バリヤフリーや手すりを付けたり、浴槽はベンチ付きのものにして、半年ほど前に手術をした義母は、立ったり座ったりがかなり楽になり、とても喜んでいる。
 収納スペースや部屋のレイアウトで、いろいろ迷いはしたものの、1階に洋間、おやじさんのスペースである書斎も作った。実際に住んでみると、家にそれぞれの居場所があるのは、とても大切でよかったと思う。
 子供も、自分たちの部屋の壁紙を、赤毛のアン風に花模様に選んだりして、とても気に入っているようだ。

 本当は、いくら仲良く店でおやじさんと仕事をしているとはいえ、同居して一緒に住むことは、気が進まないものである。しかし、自分のことはさておき、店や家族にとって大きな意味があると考えていたことから実現させた。
 「景気のなかなか上向かない昨今、経営する店の売上に左右されないような体制、店の変革だけでなく、家計も見直すことが必要であろう。」
 今まで住んでいたマンションの家賃は、これから増えるであろう子供たちの教育費や習い事にかかる費用に振り分ける。家で事務の仕事に専念するようになった義母に代わり、おかみさんとなった妻が、子供の心配をせずに、安心して店で働けるようにするためにも。
 近年新聞やテレビのニュースなどでは、思いもよらぬ凶悪事件が立て続けに起こり、治安の悪化には僕も心を痛めている。時に少年犯罪も珍しいものでなく、他人事ではない。もちろん、一日のほとんどの時間を店で過ごす僕にできることは限られている。だからこそ、出来るだけたくさんの家族の目が子供たちに向けられる家庭こそ、安心していられる。
 さらには、おやじさん夫婦にとっても、若い人たちと生活を共にすることは、よい意味で日々の張りが出たらいいなぁと思う。

完成した家  完成した家の2階に僕たち家族、そして、1階におやじさん夫婦が住むことになった。子供部屋には、妻が使っていた机を長女、僕の実の兄が使っていた机を次女、そして今回同居するにあたって、幼稚園児である三女にも義妹の使っていた机と、三つの机が並んだのは壮観である。
 僕の書斎は、その子供部屋や二段ベッドを置いた子供たちの寝室に追いやられ、前より狭くなったのは、仕方がない。これからこの家の主役は、子供たちになるのだから。
 そういえば、家について振返ってみると、僕が妻と結婚して初めて住んだのは、店から程近い、練馬区にある6畳2間とキッチンのアパートの2階。そこで、長女、次女と子供に恵まれた。
 そのアパートは見た目きれいだったけれど、壁が薄く、歩くだけでも、みしみしと音がした。特に長女が、はいはいからよちよち歩き、そして自由に動けるようになり、うれしいのか、やたらジャンプをした。
 その都度、1階に住む人にその音が直撃、これは迷惑だろうこと、そして、家族4人での生活もこのスペースでは手狭となり始めたこともあり、近くのマンションに引越をした。今から7年程前のことである。
 そのマンションでは、初めて僕のスペースである書斎が持てた。がっしりとした建物の1階、部屋数も増え、隣がマンションの集会所ということもあり、近所のことを気にすることはなくなった。そして、三女も生まれ、子供たちも順調にのびのびと育っていった。
 以前に比べ、さらに店からはやや離れたももの、地下鉄の駅に近く、生活する上では、環境が申し分ないと思われた。でも、どんな家でも悩みは生じるもので、住んで何年か経つと、建物の構造や風通しの問題なのか、あちこちの壁にカビが生えた。
 僕の書斎は、このマンションに住んでいる時に、研究科に入学し研究を続けたこともあり、ぞくぞくと集めた本や資料で部屋は狭くなった。修了してからは、今まで以上に、店に力を入れていたことから、それはそのままの状態となっていた。今回引越をするにあたって、それを整理するのは大変だった。

 当初は11月上旬ぐらいには完成予定だった。しかし改築部分を変更,付け加えたりなどもあり、実際に完成したのは、予定より1ヶ月も後の12月半ばであった。それも、直前まで見通しもたたない状態だった。
 引越の荷造りは、使っていない物から少しずつしていった。それからの1ヶ月はとてもしんどい毎日になった。店が終わって帰宅するのが11時半から12時ぐらいで、それから 晩ご飯をとってから、引越しの荷造りという日課が続いた。
 2週間に1度の休みを、普段の生活でさえも勉強やたまった雑務に追われてしまって終わってしまう。その上に、引越しの作業が、加わったのだから、今、振返っても、よくなんとかなったと思う。
 好きでとってある新聞や切抜き、趣味や勉強のための雑誌や本など、雑然と自分の部屋に積み上げてあったものを、地道に片付けていくのである。年末になって、店の方も忙しくなり、家に帰って引越の片付けをするつもりでも、気が付けば眠っていたという状態だった。
 また逆に、忘れていたような昔の写真や手紙を見つけて、面白くなってしまって、読み続けてしまうこともあった。学生の頃から手帳や手紙、また印象的な新聞なども捨てずに取っておくので、かなりの量のものがある。
 引越の荷物も運んでみると、目処が立ちそうで、なかなか減らないものである。僕の書斎には、実は今現在もダンボールが4箱ほど、そのまま部屋の隅に置かれている。

 引越の準備を進めている最中の11月29日、研究科の所沢キャンパスで、3期生修了記念植樹式が開催され、僕も参加した。
3期生修了記念植樹式  当日は朝からあいにくな雨の中、僕たち3期修了生のための、桜の植樹が順調にとり行われた。 植樹式後の懇親会では、2期生の3名を含め20人以上の修了生と、先生方や事務の方々10人余りの方がご出席され、去年に比べても、かなり多い参加者となったそうである。
 お弁当を食べながらの、自己紹介や近況報告。修了生は、やはり皆いろいろな角度から自分の研究を続けていきたいという積極的な方が多かった。
 先生方は、自分の研究活動について、ここぞとばかりにアピールをされているのが印象的であった。この場で紹介された公開講座やシンポジウムなどへは、僕も足を運んだ。

 「今年の春には、1期生、2期生の桜に並んで、3期生記念の満開の桜が咲きますことを、心から願っている。」

 近年、店の近くに、いくつかのケアサービスの会社が営業を始め、その講習会の折に、まとまった数のお弁当の配達を頼まれた。こういうことからも福祉社会という時代の流れを身近に感じるようになった。
 12月6日、新座市市民会館で開催された、研究科のサークルである「IT社会創造研究会」と「ケア問題ネットワーク」共催による「福祉社会のこれからを考える」というテーマの公開講座に参加した。
公開講座  昨年の同時期、同じ会場での公開講座の帰りに、先生方や関係者の方々が、僕の店にお越し下さった。今年は、機会があれば、ぜひこの公開講座には参加したいと思っていた。
 この日は、まず、人間科学の冬期スクーリングでも熱のこもった講義でお世話になったばかりの佐々木健先生の「ケアリングとインフォームド・コンセント―福祉・医療の根本をさぐる―」というテーマの講演が行われた。
<  福祉と医療の根底にある「ケア」・「ケアリング」の本質についての考察、インフォームド・コンセントという概念について、その意味を治療者と患者という関係から福祉・医療(制度)の「原点」を問う視点が特に興味深い講演であった。
 続いて、五十嵐雅郎先生の「超高齢者社会における介護保険の課題」についての講演では、さらに福祉社会について、老人医療・介護の現状に対しての問題点をより具体例・数字を挙げて指摘、老人福祉、特に公的介護制度の改善策への有意義な提言をされていた。
 研究科では現在9つの自主的な研究会が修了生と院生で運営されている。僕もIT社会創造・経営・歴史と3つの研究会に所属している。このような公開講座は、それぞれの研究会が独自に主催し開かれるものである。誰にとっても、得るものは多いので、機会があれば、ぜひ多くの方々が参加されることを期待したい。

 さらに続いて、12月11日、下高井戸にある日本大学文理学部百周年記念館で、日本大学総長指定総合研究シンポジウム『グローバル化時代の社会経済危機の諸相』にも参加した。
百周年記念館  この日の基調講演は、ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授、コーディネーターには日本大学文理学部の青木一能教授、そして、パネリストとして、ご指導いただいた小松憲治先生が参加されていることもあり、僕の他に、ゼミ仲間3人も出席した。
 エズラ・ヴォーゲル教授は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者としてアメリカにおける日本およびアジア研究の第一人者としての立場から、小松先生は、国際金融の視点から「21世紀における国際秩序はいかにあるべきか」という観点からの報告を、他にもイスラーム原理主義からの視点・地球情報化の視点で日本大学の松永泰行助教授・岩淵美克複教授を含め、総合的に討論がなされたことは、何より意義のあるシンポジウムであった。
 このような機会、特に気さくで語り口が柔らかく、言葉を一つ一つ丁寧に話されるエズラ・ヴォーゲル教授と小松先生が親しく言葉のやりとりをされている姿は、ゼミ生として誇らしく、うれしいものであった。

 今回も店のことについて、取り上げてみたい。
 店のお客様の中には、商店街や地域の活性化に、大変思い入れのある方がいらっしゃる。
 2年ほど前から、商店街では、地域の活性化を図り、地域住民の親睦を深めるために尽力されている練馬区在住の落語家・柳家小きんさんが主になって、「北町初!」の地域寄席『北町寄席』が開催されるようになった。
 この地域寄席は、この『北町寄席』に続いて、隣の商店街でも別に『下練馬寄席』も定期的に開催され、新聞などにも取り上げられるほど話題となり、それぞれの寄席に多くの方々が集まっている。
 寄席が隔月の土曜日に、商店街でも寄席をやっているとは知っていながら、なかなか足を運ぶ機会はなかった。
 そんな時に先日、この寄席を始めるきっかけを作られたお客様が、ぜひ僕に小きんさんを会わせたいという話になり、お店に連れて来て下さった。
 小きんさんは僕と同世代であり、きたまち阿波踊りでも子供たちと同じ連で踊られていたということを後で知った。店にも何度か来て下さっていたようで、お顔をお見かけしたことがあると感じた。
 「北町に笑いを!」「北町に生の落語を!」小きんさんに「一期一会」と色紙を書いていただいた。

 僕が店主になって初めてということもあり、店は年末年始、今年は休まず営業してみた。元旦、2日に店を開けたことは、前例がない。おやじさんは例年通り、大晦日は夕方まで、新年は3日から働いてもらうこととし、僕と妻の2人で店をやった。特に独身の常連のお客様に、「助かるなぁ」と、大変喜ばれた。
 ここ数年、商店街の古くからの店が、色々な事情で、店をたたんでしまう。寂しいと思うのと同時に、自分にも何か出来ることがあるかと考え、年末年始の営業を続けた。それまで頼りなく思えていた妻の頑張りに、おかみさんとして一皮むけたように感じた。

   1月24日、第十一回「北町寄席」の柳家小きん独演会に、子供たちと一緒に参加した。配られたかわら版には、支援者として店や僕の名前もあった。
 そのかわら版には、「落語は一人で全てを演じるという、世界でも極めてめずらしい形態の、日本独自の話芸。まさに落語の醍醐味は、客の雰囲気に合わせた、落語家の噺を寄席で聞くことにつきます。」との言葉。さりげなく噺の中に、まるとしという言葉を使う、粋なはからいをして下さり、聴衆の笑いを誘っていた。
 135人という大勢の熱気にあふれた“新春・初笑い”として、「お楽しみ大抽選大会」も開催された。くじ引きの度にハラハラ、ドキドキ、子供たちも大喜びであった。

 僕の新しい書斎の本棚にも、落語の本が加わった。やはり落語の世界も奥深いものである。グローバル化、国際化が進めば進むほど、伝統的なところへ気持ちが戻るようなところがあるのだろうか。

 以下、次号。


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 その三 「スタートライン」

 研究科の博士前期(修士)課程を修了して1年が経った。

長野・福寿草  事業主になって1年、子供たちの春休みということもあり、練馬区の保養所の武石に行ってみた。東京では桜が咲き始めていたが、長野では、まだ福寿草があちらこちらに群生していた。

 科目等履修生として、人間科学の必修科目である「社会哲学特講」と心理学についても学ぼうと「心理学史特講」の今まで専攻してきた国際情報とは別の分野の科目を選択した。
 なかなか思うように書き進まなかった科目履修に必要なリポートも、探していた答えを別の視点からまとめる技術もあらためて学べたと思う。
 「社会哲学特講」の佐々木健先生からいただいた資料、特に文章作成に関するものは、何より有意義であった。今後かなり時間はかかってでも、改めてその内容を自分の研究に生かしていきたい。
 自力では見つけられなかった課題の重要な部分について、先生方の迅速な添削、核心をついたコメントによってヒントをいただき、リポートを書き上げることができた。
 単位履修表が郵送された。「心理学史特講」の大山先生から、「ご多忙中自分で努力され、私の助言を真摯に受け取られた結果と思います」という、これからの自分にとっても励みになる言葉をいただいた。

 3月、僕はこの4月から新設された、研究科の修了者を対象とした研究生への受験をしようと考えていた。
 研究生とは、在学期間は1年。ただ,継続して研究を希望する場合,年度ごとに願い出ることで,原則として3年を限度として在学を許可され、ご指導いただく先生の個人指導による研究成果報告書の作成をするものである。
 不況のためか、最近よくいろいろな経営者が、従業員に対して、自ら主体的に考えて行動する商人という言葉を使うようになった。この商人について、また商店経営に関しても、自分なりに調べてみたいと考えていた。

 研究生への受験を前に、その試験日の2週間ほど前の3月7日、僕は一つの賭けに出た。
 この日の「第22回三浦国際市民マラソン」の10kmレースで、制限時間の70分以内にゴール出来たら、願書を提出しようと決めた。
三浦海岸  研究を続ける決心をするのに、更なる困難を克服する精神力を試すためにも。当日、今回ばかりは、僕一人だけの単独参加となった。
 三浦国際市民マラソンは日本陸連公認のコースであり、自分のシューズの靴紐にはRCチップを装着、記録の計測が行われる。
 天候は晴れ。気温6.1℃。湿度42.0%。北東の風平均3.5m。当日のコースの状態である。
 朝9時30分のスタート時間に合わせて、6時には電車に乗った。会場に近くの京浜急行の車内には、停車するごとに、続々と、練習を重ねたであろう、馬のような鍛え抜かれた足を持つ短パン姿のランナーたちが乗車してきた。
 僕はというと、その車内から会場にかけて、その雰囲気に圧倒されっぱなしだった。
第22回三浦国際市民マラソン  指定された更衣室で着替えを済ませ、ゼッケンをつけた。集合時間にスタート時点に行くとすでに完走予想タイムごとに長い列が出来ていた。
 ゴールした後に、すぐ店に戻らなければならないので、無理なペース配分でケガをしないよう、60分程度の位置に並んだ。
 そして、スタート。丘稜コースを含む、起伏のあるコース、走りながら時折三浦海岸の海も見られるも、景色を楽しむ余裕は最初だけであった。
 日々仕事に追われ、満足な練習もできていない状態の僕としては、上り坂が特にきつかった。1キロごとにプラカードで走った距離が分かるので、折り返しの5キロを過ぎた時点は、タイム的には完走の目処が立った。
 後半下り坂でスピードを出しすぎないように。そして、ゴール。完走することができた。このことが転機となり、後日、研究生の試験に合格することもでき、今後も学究を続けることになった。
 「僕がこうして、走ることや学問をすることが好きなのは、お金では簡単に買えない楽しみを大切に思うからだ」
 なお、今年度の研究生は27名、科目等履修生は13名、僕以外にもたくさんの研究仲間が入学した。

 3月25日、第4期の修了祝賀会に同席する形での、アルカディア市ヶ谷で行われた「第3回同窓会」に修了生として、子供たち3人を伴って僕も参加した。
修了祝賀会  ご指導いただいた先生方を囲み今期修了生の方々の健闘を称え親睦を図るという主旨に、賛同したからだ。この日初めて直接ご挨拶した、大山先生とは、メールで何度もやりとりをしたことで初対面のようには思えなかった。佐々木先生へも、子供たち共々、もちろんご挨拶をした。
 アナバーのミシガン大学に出張し無事帰国された近藤大博先生には、久々にお会いした。アメリカから絵葉書をいただいたお礼もできた。また、この日の翌日から、学校からの派遣で、ドイツとスイスに出張される小松憲治先生に壮途のご挨拶ができた。
 面接試問前日に店に奥様とお越しいただき、今期無事修了された同じゼミの長谷川さんにもお祝いの声をかけた。

 会の進行も進み、時に司会の菅宮さんに促がされ、お料理を食べ終えた子供たち3人が壇上でインタビューを受け、場を和ませた。以前店にお越しいただけた河島孝先生ともお話することができ、うれしかった。

桜  季節は春になった。4月、昨年11月の所沢キャンパスで植樹した桜を、仕事の合間に見に行った。1期・2期・3期、それぞれの桜が見事に咲いていた。
 子供たちも、上から、小学4年生・2年生、そして幼稚園年長と、それぞれ順調に進級した。僕はというと、変わらず毎朝、三女を登園のため自転車で送っている。それもあと9ヵ月くらいなのかと思うと、ペダルに力が入る。

 家庭内のことも、ふれてみる。
 平日、家では、妻が店の経理の伝票を書いている側で、長女と次女が勉強をしている。家庭で自習用に親が添削する教材を、各自でやってもらい、翌日妻が丸付けをするのが日課だ。学校よりも先に予習の形で勉強をすることで、授業での先生の話が理解しやすいだろう。
 子供たちが分からない時には、妻がそばに居れば、その場で見る。丸つけをしているとどこが分からないか気が付くのだそうで、週末の朝、教えることもあり、そんな姿を僕は「勉強ばかり、休みの朝からさせなくてもいいじゃない」などと言う。
 妻が店に出ない日は、夕飯の支度を妻と子供たちで一緒にする。
 話に聞いて知ったのだが、義母だとあまり手伝わない次女が、妻の時だとすごく張り切って手伝いをする。この前のロールキャベツでは、次女と三女が具をこねていた。手を良く洗うようにとの言いつけを忠実に守ったためか、ハンドソープの香りつきの料理が食卓に並んだ。
 週末は、晴れていたら自宅近くの光が丘公園や夏の雲公園へ行くそうだ。大縄跳びやボール投げをしたり、アスレチックで遊んだりする。

 長女は、ドッチボールで、しっかりとキャッチをし、ボールを強く投げられるようになりたがっている。妻が練習相手になるも、時々よそのお父さんの姿を見てうらやましがっているらしい。僕が相手になれればいいのだけれど、仕事柄なかなか時間が取れないのが残念だ。
 三女は、この時期、自転車の補助なしに乗れるようになりたがっていて、リンドグレーンの『ロッタちゃんと自転車』に大いに刺激された。
 すぐにでも乗れるようになると思い込んでいたらしく、初めて乗った時には、すいすいこげると錯覚して、そうならない自分に、公園のベンチで悔し涙を流していた。
 そんな三女を上の2人が、「私たちなんか、この位乗れるようになるまで、かなりかかった。恐がってないから、すぐにちょっとこげたりするのだから、凄いじゃん」となぐさめていた。
 幼稚園から帰り、ちょっとでも時間があると練習をしたがっている。

 同居するようになってから、義母に甘えてしまい、子供たちはお手伝いをあまりしなくなってしまった。妻は、店に出ていて、実際注意も出来ずにいて、どうしたものかと考えていた。
<  ちょうどその頃、3人ともゲームボーイに夢中になっていた。そこで、洗濯物の畳み当番と、その畳んだ洋服を自分たちのタンスにしまうという役割を果たした人はゲームをしてもよいという約束をした。
 すると、競って畳んでくれるようになったと、とても助かっているそうだ。時々、それぞれのタンスの引出しを見てみると、グチャグチャと丸めて突っ込んで入れてあることもあり、妻や義母がこっそり片付けておく。
 ゲームボーイ熱も最近は下火で、読書好きな長女はシリーズ物の本を友達と交換をして読みっこをすることに、手先が器用な次女は、トイレットペーパーの芯とコンビニの袋、ティッシュとストローで作る自分人形の作成に、三女は強固な泥団子作りにそれぞれ熱中している。泥団子は、幼稚園と自宅に、それぞれあって、フリースでピカピカに磨かれ黒光りしている。

 絵日記は、3年前の長女が小学校に入学をして、初めての夏休みの宿題をきっかけに始まった。今では、3人の絵日記を数えると10冊にもなっている。
 ちょうど絵日記を書き始めた頃から、妻が夕方から店に出る日も増えて、子供たちとゆっくり話をする時間もなくなった。そこで、子供の絵日記に返事を書いたらいいのではと思ったようだ。
 ある時、長女が「ママ、今日は何も書くことないよ、つまらないことばかりだった」と言うので、「そういうことも書いてごらん」と返事をしたら、姉妹ゲンカのことも書くようになった。
 そうこうしているうちに、店から帰宅するとテーブルの上に、長女の日記帳と、その姿に影響された次女の大胆な絵の書かれた日記帳、そして、まだ文字を覚えつつある難解な文字の、三女の日記帳も並べて置かれるようになった。
 その日記帳のお陰もあったのか、先日、店近くのスーパーから電話がかかってきた。どうも、何気なく出した、「第28回マイカルのお母さんの似顔絵全国コンテスト」で、長女がマイカル佳作賞に入選したのだ。
似顔絵全国コンテスト  5月9日、とても喜んだ長女の表彰式があり、皆で出席した。この日は僕の実の母も呼んで、式の後に、母の日と絡めて、お祝いの食事会をした。惜しくも入選にはいたらなかった次女や三女の絵もそれに引けを取らず、気持ちがこもった素敵な絵だったと僕は思っている。

 うれしいことはもう1つあった。何かと言うと、義妹のお腹に2人目の赤ちゃんを授かったことだ。妊娠6ヶ月、出産は8月の予定。年子になると知ってびっくり。

 今年に入って、店のすぐ近く、9月完成予定のマンションが建設中である。お昼には、その工事現場の作業の方や営業マンの方などが頻繁にご来店くださる。
 それまで店は隔週の水曜日、月2回の休みをとっていた。周りの店が水曜日に皆休みになるので、この4月から、その休みの日も朝から夕方位まで、特別に営業することにしている。
 先日、そのマンションの営業マンの方が、「自分で食事をしておいしいので、ぜひモデルルームで、店の案内のチラシを作り置かせていただきたい」というお話があり、快くお受けした。出来上がったその内容を以下紹介する。

 古き良き定食屋さんの雰囲気をたたえた店内。お肉の素材にこだわり、おいしさを追求する。とんかつ以外にも、魚介類のフライやコロッケを組み合わせたり、しょうが焼きをメニューに加えたりしている。またソースも、とんかつ用に調整した「まるとしブレンドソース」、野菜と果物で作った無着色の「グルメソース」、他に「特級とんかつソース」から選べ、ごはんは厳選したお米のみで炊き上げている。「アサヒ樽生クオリティセミナー」修了店なので、生ビールの注ぎの腕はお墨付きで、クリーミーな泡立ちがたまらない。等々。

 このセミナーには妻と2人で参加した。生ビールをおいしくするには、樽の温度管理、空気圧の最適化、ビールサーバーの毎日の洗浄、ジョッキの手洗いなどを、毎日徹底することが必要である。
 ビールのお通しも、常連のお客様の好みなども考えて、ちょっとずつ変え、さっぱり、こってり、甘い、辛いなど、いろいろとお出ししている。

 5月19日、例年どおり、商店街の総会が行われた。僕はこの総会で正式に理事に選任された。理事長も代わられ、不況の影響による個店の閉店・撤退が続く商店街も今回思い切って、世代の若返りをはかったようだ。
 この辺りのことは、まだ入り口に立ったばかりだ。店の更なる活性化を図りながら、自分はどのくらいの関わりをもって、理事として商店街にできることを模索していきたいと思っている。

 以下、次号。


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 その四 「地域と共に歩む」

 商店街の理事になったことが1つの転機となって、店周辺地域に対して、何かしら貢献したいという気持ちが今までより強くなった。

似顔絵全国コンテスト1  僕はまず、店近くの小学校に連絡をした。店頭に「ひまわり110番」のステッカーを張るためだ。きっかけは区報の特集記事を読んだこと。
 「ひまわり100番」とは、PTA会員・町会・商店などの地域の目で、子供たちを見守り、励ますためのものである。
 その役割は3つある。1つは、子供が店に駆け込んで、助けを求めた場合、子供の保護はもちろん、場合によっては、110番通報、警察署・小学校・保護者に電話をする。
 また、不審者を見かけたらすぐに110番、警察署もしくは、最寄りの交番に通報する。
 さらに、店内において、大人と一緒にいる子供の様子が不自然だったら、子供に声をかける。
 子供3人の親として、子供たちに何かあった時にも、近くに助けを求められる店、大人の目が光り、安心して過ごせる町は、心強い。そういう意味で、商店街としての役割は大きい。

 6月9日、商店街のイベントとして毎回好評、その第22弾となる、わくわく生鮮市に、店として、初めて食材を提供した。
 生鮮市とは、商店街が発行している「きたまちわくわくカード」の会員が、その加盟店で買い物などをしてためたポイントを、毎月9日に、旬な生鮮品と、わずかなポイントで交換できるものである。とてもお得なイベントである。
 この日は、夕飯の食材シリーズとして、とんかつ二人前セット。80gの国産ロース肉2枚・生パン粉100g・滋養卵4個の豪華版。僕はその内の肉とパン粉を担当した。
 準備としては、店で使っているものと同じ鮮度の良い生肉を、そのままスーパーで売っているようにトレーにのせてパッキング。パン粉は計量し袋に小分けして詰めた。
 まったく初めての作業で量も多く不安もあった。前日には、時間をかけ一枚一枚丁寧に肉を下ごしらえし、慣れないパッキングも皆で手分けをして、どこに出しても恥ずかしくないものを用意することができた。
 そして、当日。今まで行われた生鮮市では、一番長い行列ができ、お客様には大変喜ばれたそうだ。深夜まで準備をしたことが報われた。
 前回の話では、母の日の似顔絵コンテストで長女の絵が入選したことを書いた。そのことを喜んだのもつかのま、再び電話があった。

 どうも、長女に続き、父の日記念「第2回マイカルのお父さんの似顔絵全国コンテスト」で、次女が産経新聞社賞(絵はパソコンで勉強している僕の姿)、三女が金賞(絵は仕事をしている時の白衣姿)に入選したそうだ。
 長女が受賞した時の賞品のクレヨンを使い、それぞれの絵を仕上げたものだった。
 6月20日、スーパーの店内で、表彰式があった。その日は、たまたま小学校の日曜参観日と重なってしまい心配した。
 しかし、率直に、次女の担任の先生にお伝えすると「滅多にあることではないし、本人も楽しみにしているようなので」とおっしゃっていただき、表彰式の時間の2時間ほどを退席させてもらい、受賞式に参加させてもらった。
似顔絵全国コンテスト2  長女が入選した時は、ひどくうらやましがっていた、次女は、本当にうれしそうだった。僕の両親も見に来てくれて、次女、三女が店長から表彰状をもらっている姿を見てもらった。
 ちなみに、賞品は賞状と絵の具。そして、紹介記事とともに入賞者として次女や三女の名前も掲載された6月16日付の産経新聞も記念にとプレゼントをされた。
 3人の賞状は、額に入れて僕の書斎に飾ってある。

 本格的な夏の訪れも間近な7月に入ると、近くの中学校の、2年生による総合学習の時間の職業体験を受け入れた。女生徒1人から直接電話があり、店として、これも初めての取り組みだ。
 その内容は生徒たちが自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え判断し解決していく学習活動になっているようである。そして、変化の激しい社会の中にあっても強くたくましく生きる力の育成をめざしているのがねらいだそうだ。
 この職業体験を通して、より具体的には、働く意義・仕事の大変さ・勤労の尊さ・生き甲斐・創意工夫を学び、その内容を通して、生きている経済を実感する・人々と関わることにより社会性を養う・啓発的体験を通して勤労観を高める・今後の進路について考えることなどを捉えさせたいと考えているとのこと。
似顔絵全国コンテスト3  意義のあることなので、僕は、事前に店でどのようなことをしてもらおうか、その主旨に少しでも意味があることにしたいと思案した。
 7月8日、午前中の約束の時間に、その生徒は来てくれた。事前にお願いしていたのは、3時間ほどの限られた時間である。
 営業前は、店内清掃や準備を手伝ってもらった。
 営業中は、接客やお料理の出し下げ、お出しするお料理のお皿の準備(付け合せのキャベツ・レモン・トマト・パセリなどの皿盛り)、その合間をみての仕込みは、肉やエビの下ごしらえやレンジ前でのクリームコロッケの手作り等々。
 その少しシャイな生徒は、何事にも一所懸命、積極的に仕事に取り組んでくれた。お客様に対しては堂々ととても立派な応対だった。
 僕としては、百聞は一見にしかず、机上で学ぶだけでなく、今回のような職業体験はその生徒にとって貴重なことだと思う。

 そして、夏休み前の終業式の帰りに、その生徒が店に寄って、思いがけずお礼の手紙をくれた。

 「礼儀や仕事の大変さなど体験を通して知りました。普段から挨拶などには気をつけるように言われていたことでした。働いてみると非常に難しいことでも基礎がとても大切だということを改めて思いました。自分の意志で職場に行ったのだからそれを態度で示すこともよく分かりました。今後、いろんな場面で今回のことを生かし、役立たせたいと思います。」

 学校と商店の連携は、治安を含めても不可欠ではなかろうか。そこで必要なのは、互いを思いやる意志。義理と人情、そんな使い古された言葉がそこにはあった。

 毎年、商店街では、夏に屋台祭りや阿波踊りなどのイベントが行われる。
 7月5日、サマーフェスタ大抽選会のオープニングイベントとして、商店街のコミュニティセンター前では、お昼から屋台祭りが行われ、僕も朝早くからその準備に駆けつけた。
まるとし  屋台は、焼きそば・焼きトウモロコシ・かき氷・水ヨーヨーなど。商店街の有志が、手分けをしてその準備に集まった。テント張りやテーブルなどの設置、会場を作りから食材、僕はトウモロコシのへたを取り蒸す用意、それと水ヨーヨー作りを担当した。
 手が空いた人から昼食をとり、開始時間に合わせて再び集まる。僕はお昼時の忙しい時間帯の店が気になり、昼食はとらずまっすぐ戻り、ぎりぎりの時間まで料理を作った。
 当日は日差しの強い暑い日だった。親子連れのお客様が続々と会場に集まった。イベントのスタッフに戻ると、焼きそばを担当。開始してすぐに、僕の子供たちも来て、長女が帰り際「パパ頑張ってね」と声をかけていった。
きたまちじゃじゃ馬連1  終了予定時間を前に、焼きそばやトウモロコシは完売した。順番に、やはり手分けをして、その後、片し作業に入る。その合間や作業終了後には、暑いので、かき氷や飲み物をいただいた。

 僕は理事になったと同時に、店近くのブロック長にもなった。毎年恒例、今年で第12回目のきたまち阿波踊りに関してのポスター、パンフレット、提灯を取り付けてくれた店への特典のうちわ、などを事前に配ることなど、また、裏方の作業として、提灯の汚れや破損、店ごとの個数の確認、ブロック別仕分けなどもした。
 もちろん、屋台祭り同様、7月30日の阿波踊り当日、有志が朝から集まり手伝う。本部席設営や桟敷席の準備も行なった。テント設営・椅子、テーブル、給水所などの準備セッティング、桟敷席には紅白テープや紅白の幕取り付けなど。夕方には、来賓者用の記念品の準備にとりかかった。
 昨年に引き続き今年も、娘たち3人は、地元の連「きたまちじゃじゃ馬連」に参加した。今回は妻に代わり、僕が子供たちの付き添いに行くことにした。街の熱気を一度は体感したかったからだ。
 今年は女の子の髪飾りが豆絞りでなく、かわいいものに変わっていて、娘たちが大変それを喜んだ。
きたまちじゃじゃ馬連2  踊りが綺麗な長女は子供踊りの先頭に立ち、懸命でいて正確な踊りを心掛け、次女は、三女と並び、後ろで、笑顔いっぱいに踊っていた。昨年は途中で踊れなくなった三女も、今年は愚痴1つ言わず、最初は表情が硬く心配するも、見るからに踊りを楽しんだ。
 途中から長女は「疲れた」と言い、力が抜けてしまった。「どうした?」と聞くと、「最初の方で力を入れ過ぎた」と言って、気持ちよさそうに笑った。
 僕が見るに、連全体として、地元であり、気合に満ち溢れたよい踊りであったと思う。女踊りは去年とは違った動きを入れ、息がぴったり。男踊りの内の2人が、空を飛ぶたことたこあげの動きをし、時に側転するなど、踊りの幅が明らかに広がっていた。
 僕は、阿波踊りが終わった後、娘たちに「すごく上手だったよ」と誉めた。

 こうして書くと地域のことばかり熱心である印象をもたれるかもしれない。今年に入ってから、店はお陰様で好調である。特に4月から平均した売上の数字をみてみると、前年と比較して、平均12.4%アップしている。
きたまちじゃじゃ馬連3  昨年は一進一退の売上の動き、店に対して朝から晩まで時間をかけ、いろいろな角度から努力し働いても、ようやく前年と同じになる程度であった。
 その状況を変えることになったのは、自分で考えられた知恵やアイディアを1つずつ実行することで、お客様にそれが伝わったことが大きいと思う。

 以前紹介したように、ちょうど1年前に作った東京ウォーカーのグルメサイトに店のホームページを持ち、店の魅力をさりげなく対外的に伝えたこと。遠くにお住まいのお客様がご来店いただき、その中には、何度もお越しいただける常連になっていただいたお客様もいらっしゃる。
 ホームページ内の「オンライン黒板」の機能がリニューアルし、画像を入れ込む、色味を工夫する等、更新できる内容が充実、また、TOPページ「注目情報」や「クーポン」も店舗側で変更できるようになった。
 契約期間は1年であったが、更新することにした。

 昨年12月、新しく配達のメニューを作った。営業が終わってからポイントをしぼってポスティングをしてみて、気がついたことがある。
 「まるとし」のような小さな店は、ポスティングをすることも必要だが、何よりお客様に手渡しをすることが大事であるということ。配達メニューの内容にも思い入れがあるので、その内容も読まずして捨てられてしまうのには、悲しいものがある。
 僕がメモしていない、新メニューをお持ちでないお客様には、必ず配達時にメニューを手渡す。地道なことをコツコツと。そして、店内に置いた配達メニューをお持ちになるお客様には、笑顔を。
 100円引き4枚つづりキリトリ線の入ったクーポン券もつくった。これは、店内がいっぱいになって入れないお客様に対して、お詫びの意味を込めて、お渡しする。時にお急ぎのお客様には、駆け足で追いかけて、「またよろしくお願いします」との言葉を添える。
 店内では、お料理の下ごしらえにこだわるだけでなく、お客様の気持ちを読んで、今まで以上に声をかけるようにしている。
 何気ない一言が、お客様の笑顔を誘う。時にその雑談から、商売をする上でのヒントをいただけることもある。
 「商売は急がば回れ。目先にとらわれず、長い目で商いをすること。今自分のしている仕事の延長線上から、創意工夫を積み重ねること。そして何より必要なのは、笑顔。」

 夏休み前、三女が幼稚園で鈴虫の幼虫をもらってきた。
 鈴虫は8匹ぐらいいる。このことを次女は1体、2体と呼んでいる。それを長女が「違うよ」と教えても、次女は頑なにふざけて間違ったまま呼んでいる。
 三女に聞いたところ、オスは3匹らしい。毎日数回霧吹きで水をやり、餌はカボチャ、リンゴ、ナスなど。土は取り替えないで、餌だけ替えてやるらしい。8月も半ばになると、ようやく脱皮して成虫となり羽が出来上がり、夜中から朝まで鳴くようになった。
 三女は鈴虫の性別を簡単に見分けていた。鈴虫をよく見ると、メスの尻尾みたいのは3つ、オスは2つある。もらってきた時には本当に鳴くようになるのか、半信半疑だったので、初めて鳴き声を聞いた時には、皆で喜んだ。
 最初少しだった鳴き方も、だんだん長くなったらしい。子供の観察力はするどい。

 子供たちのことで、もう1つ、プールについて書こう。
 今年の夏は猛暑だった。子供たちは、自宅から自転車で20分ほどの距離、豊島園のプールに行くのをずっと楽しみにしていた。 
豊島園  次女の誕生日である8月4日、僕は仕事があったので、午前中に妻や子供たちに先に行っていてもらい、夕方近くに合流した。
 僕は子供たちに、「パパ、絶対に平泳ぎを見てね」とか、「泳げるようになったよ」など聞かされていた通り、まず、シャワーの水さえ嫌がっていた次女は、ばた足で泳げるようになっていた。
 浮き輪をしていても、水が恐いと言っていた三女も、少し浮かべるようになっていた。
 5月の終わり、まだ次女が水に顔さえつけられない状態の時、すごく心配をして、区立の体育館プールを借りて行なっている、水泳サークルを三女のクラスメートから教えてもらい、参加することになった。
豊島園  それからというもの、家族は毎日、お風呂の中で何度も顔をつけ練習している様子を見せられている。
 学校の検定日に、次女がばた足で5m泳げるようになり、合格したとすごく喜んで興奮して帰ってきた。

 最後に店内のことも1つ。店の入っているビルの二階には、よく挨拶し合う感じのよい家族の方が住んでいらっしゃる。皆さん、お客様でもある。
 その家族の長男のお兄さんは、年に何度か仕事の休みをとり、SLの写真を撮影しに行くことが趣味であるとお聞きした。
SL  手持ちのカメラのセットだけでも、車一台は買える程の熱の入れよう。その写真を見せていただいた。
 SLが出発時点から撮影すると、次のポイントまで車で追いかけ、次から次へと写真を撮るそうだ。場所によっては、車を降り、リックをしょって、山の上から橋の上の汽車を撮影するのは珍しいことではないらしい。
 それも、シャッタースピードを調節しピントを合わせる、季節感を出すために、時に桜や新緑などをバックに、汽車とのバランスもこだわりがある。
 お兄さんの特にお気に入りの写真を店内に飾れないかとお話したら、快く写真を額ごと2枚お貸ししてくれた。
 店内の写真に、「僕も写真が趣味だ」、とか、「景色が綺麗だね」などと、お話下さるお客様もいらっしゃる。店の中も外でも、笑顔の輪が広がる今日このごろである。

 以下、次号。


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 その五 「家族の力」

 夏の終わり、家族で北海道に出掛けた。道南の函館や登別の温泉に宿泊、レンタカーを使い、その周辺を観光した。
北海道ドライブ  18年間ペーパードライバーだった妻が教習所で講習を受け、再び車を運転するようになって3か月目のことである。
 この旅行は高円寺阿波踊りの4日前で、子供たちが参加する連とは別の地元の連から、踊り終わってからの打ち上げ用にと、カツサンド105人前の注文をいただいていた。
 僕は、そのカツの下ごしらえの為、旅行に出発する早朝30分前まで、店でたった一人、その作業に取り組んでいた。
 その日、店のテレビでは、生中継で、アテネオリンピック女子レスリング決勝のメダルラッシュの映像が流れていた。その実況を聞きつつ、仕込みの肉に自然と気合が入る。結局、一睡もせずに出発することになった。
 飛行機の中で爆睡したものの、気分はフラフラだった。そこで、函館空港からのレンタカーでの運転は妻に任せることになった。
 長距離の運転に不慣れな妻は、ドキドキと緊張していたようだ。
 流れに乗り切れずに、マイペースで慎重な運転していた妻にとって、道の広い北海道を運転することは、絶好の機会だと思う。
 観光シーズンのレンタカーの営業所は大忙しだった。そこで配車された車が普段乗っているタイプとは違うギアだった。
 さらに輪をかけて焦った妻は、「不安だから」と、かなり迷惑そうな配置する係の方に頼み、車を代えてもらう1幕も。
 何とか無事に車をスタートさせ、トラピスチヌ修道院、五稜郭をまわった。
 一車線に車が二台走っていることがあり、妻が車線の流れなどに慣れるまで、「あれっ」と戸惑うことや、いつもの癖が出ていたので「もっとスピードを出した方がスムーズになるよ」と僕にアドバイスを受けることもあった。
 車についているカーナビの案内も分かりやすく、迷わなかった。徐々に雰囲気にも慣れ始め、リラックスムードで楽しいドライブとなってきた。

 五稜郭は、北方防備の目的で造られた、日本初のフランス築城方式の星型要塞。幕軍と官軍の最後の戦いである箱館戦争の舞台となったことでも有名である。実際歩いてみると、広々として、綺麗な所であった。
 僕はこの時、また睡魔に襲われ、ベンチで睡眠をとった。妻や子供たちは歩きまわって楽しんでいたようだ。
 今まで休みなく働いた自分へのご褒美として、また、この3日間の旅行をすることは、妻や子供たちへの家族サービスのためでもある。
 函館は、研究科の同期で、友人である落合さんの住んでいる所である。
 五稜郭タワーでは、落合さんの昼休みの、わずかな時間に再会できた。
 以前、店で彼女の修士論文をみせてもらった。函館をサハリン沖の油田開発の関連ビジネスで経済活性化策を論じたその内容にとても興味があり、機会があれば、1度は訪れてみたいと思っていた。
 落合さんは、現在地元のFMのラジオ番組でDJとしても活躍されている。今年の4月には、番組を録音されたテープを直接送ってくれた。
 大学院での研究成果をさりげなく社会に発信、実践しているその姿を耳にし、研究科の同期として、何よりうれしく思った。

 夜は世界三大夜景といわれる函館の夜景もくっきりとみえて満足した。標高334m、山頂へはロープウェイを使う。さすがに展望台からの夜景は世界一との評価を受けているだけはあった。
 妻とは子供たちが生まれる前旅行した際に、香港の夜景を見たことがある。天候の影響もあるとはいえ、僕にとって函館の夜景が優っていた。

 一晩ぐっすりと眠り、2日目からは、僕を中心に交代で運転をすることになった。大自然の大沼国定公園で散策、ボートをこいで、ゆったりと時を過ごす。
 登別から支笏湖までの道のりは、高速道路を使わずに、山沿いの国道を通った。
支笏湖  ほとんどすれ違う車もなく、美しい風景が続く。動物注意の標識が何本もあり、実際キタキツネが日向ぼっこをしているのを、見かけたりした。
 支笏湖もとても美しく、周りにゴチャゴチャした建物がなく、のんびりとしていた。
 自分たちのペースで無理なく移動できるので、レンタカーを借りて旅行した甲斐があったと、つくづく感じた。

 子供たちが喜ぶ、動物とのふれあいもあった。
 昭和新山の熊牧場では、小熊や大きな熊がいくつもの檻の中にいた。次女は、人間が檻に入って熊に囲まれると思い込んでいたようだ。
 子供たちが餌のクッキーを檻の外から投げ入れると、熊がキャッチボールをする態勢となり、叫び声を出す。
 上手く自分のお気に入りの熊に餌が届く、届かなかったと、子供も熊も興奮していた。
 空港近くのノーザンホースパークでは、調教師の方がついて、家族全員が馬に乗った。
 特に三女は、馬が見られることに大喜び。目の前を馬車が横切った時、自然の摂理で排便をしていったことは、かなりの衝撃だったらしく、目を丸くしていた。
 この旅行で妻は、車の運転に対して自信がついたようだ。今では、おやじさんがいない時に、雨でも安心して配達してくれている。店にとって何よりの成果だった。

 旅行の翌日、昨年に続き3人の子供たちが、第48回高円寺阿波踊りに参加した。
 僕はというと、夜の約束の時間に間に合うように、朝早くから再び肉の仕込みからパンの準備を、店をやりながら、最終的には無事用意することが出来た。力を入れただけに、カツサンドは好評だったようだ。
 長女が夏休みの出来事で、阿波踊りのこと(自分の参加した連・きたまちじゃじゃ馬連が、杉並区長賞をもらえたこと)をクラスのみんなの前でお話したら、担任の先生が、クラスだよりで、そのことにふれてくれたという。

 うれしいことがまた1つ。義妹が無事二人目の赤ちゃんを出産したと連絡があった。元気な女の子だ。
 義妹は、当初逆子だと、不安や悩みを抱えていた。病院の先生と話し合って、帝王切開より自然分娩を優先する方針でその日を迎えた。僕たち家族は、心配することしかできなかった。
 出産の2日前、おやじさん夫婦で、直接義妹を訪ねた。その時に、周りに気兼ねして言えず、なかなか実現しなかった、神社をお参りに行くことができたらしい。家族は、顔を合わすだけでも、力になるものだ。
 産後、落ち着いてから、義妹は里帰りをした。前回の物語でも書いたように、年子である。僕の子供たちはそれぞれ2歳違い。
 滞在中の20日ほど、年子の子育ての大変さをかいま見た。深夜僕のいる2階まで泣き声が聞こえた。
 上の子と赤ちゃんのどちらかが泣いているか、同時に泣き始めるかで、両方一度に抱っこするような大わらわ。まだ上の子といっても1歳2カ月、赤ちゃんに嫉妬することもある。逆に、義妹が赤ちゃんを抱っこしていると、こわれものに触るよう寄り添っている。こんなに小さくても我慢するんだなぁと皆で感心した。

 妻もその姿を昼夜問わず見るにつけ、3人同時に泣かれて切ない思いをした覚えがあると言っていた。
 それはお風呂の時である。長女が4歳、次女が2歳、三女が生まれたばかりの頃。眠くなったり、機嫌が悪かったり、子供の1人が泣き出すと次々連鎖して泣き出す。それがお風呂だから響いて、泣き声の大音響、自分も泣きたくなるような思いもしたそうだ。
 義妹の場合、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこして上の子にミルクをあげる。オムツやミルクも2人分必要になり、今だけを見ると、一度に濃縮された子育て期間が来ている感じだった。
 実家だから食事や洗濯、掃除、そのどれを1つとっても、気を使わず、気軽に義母や妻に頼めることは、育児には大きなことのようだ。
 赤ちゃんがいると、家が明るくなる。僕の子供たちも、赤ちゃんを抱っこした。学校や幼稚園から帰ると、真っ先に上の子と一緒に遊んであげて、少しでも義妹を助けようとしているらしい。
 おやじさんも、朝、上の子を散歩に連れ出していた。僕もほんの少しだけ、店に行く前の短い時間、遊んであげたりもした。家族全員でのバックアップ。
 義母や妻の気使いは相当なものでだった。特に義母は、昼に夜にと頑張りすぎたためか、義妹が家に戻った何日かは、ぐったりとしていた。
 すっかり実家で居心地がよくなった義妹は、家に戻ったらどんな風かと案じていた。同居のよさで、上の子はすでに向こうのお母さんになついており、助かっているらしい。何かと外に連れ出してくれる。旦那さんも割と早く帰宅するので、お風呂も入れてもらえるそうだ。

 9月5日、店近くの氷川神社祭礼の神輿巡行が行われた。2年に1度のこと、今まで経験がない僕は、今年こそ参加したいと考えていた。
 祭礼の数日前、経験のある、駅前の花屋さんが食事に来られた際、何気なくその話をすると、ハッピがすぐに届いた。足袋やさらしなど自分で用意するものがあると、アドバイスもいただいた。
氷川神社祭礼  神輿を担ぐ場合、ハッピの下、肩の部分に、タオルを縫いつけておかないと、皮がむけてしまうそうだ。担がないでぶらさがる人もいるらしく、僕はどちらかというと、背が高い方なので、注意するように言われた。
 当日は、朝から雨模様。スタートの時間に近づくと、雨脚は土砂降りとなり、皆で手分けをして、神輿にビニールをかぶせた。
 この日は僕の子供たちも皆、小神輿を担ぐようにと参加してもらった。

 午後1時のスタート時には、不思議と雨が上がり、きたまち商店街中程にある浅間神社から地域の子供たちが引っ張る山車を先頭に、大中小三機のお神輿が街へと出発した。
 小神輿は小学校低学年の子供たちを中心に、中神輿は小学校高学年の子供たち。そして、一番大きな神輿は、町会・商店街・自衛隊官舎・地域の方々によって担ぎ出された。
 「わっしょい!わっしょい!」「カーン!カーン!」威勢のいい声と拍子木の音を響かせながら、神輿は街を練り歩いた。
 神社から、僕の店の前までは、「オリャ!」「オリャ!」という、独特のみこしを担ぐ乗りに、必死について行き、何とか担ぎきることができた。
 神輿は阿波踊りの時とは違い、沿道の見物人はそれほど多くはない。見ると言うより、担ぐものではないかと思い、今回担ぎ手になった。
 神輿は商店街を一通り進み、真ん中で1度雨脚が激しくなり、一時中断、担ぎ手は一斉に雨宿りをした。その後、自衛隊の官舎の中へと入る。官舎を抜けると神輿はもう一度商店街の方へと進み、この頃から見物人がかなり増えてきた。
 1度神社の前を通り過ぎて、駅前に向かい、再び宮入れのために浅間神社に向かう。残り少なくなった神輿に、みんな群がった。
 午後4時、予定通り浅間神社にお神輿が還ってきた。「ヨー!シャンシャンシャン....」三本締めで無事に今年の神輿巡行が終わった。

 10月に入ると、僕にはもう1つやるべきことがあった。
 それは、11月14日に行なわれる「第23回ねりま光が丘ロードレース」の20キロの種目にエントリーし、そのための練習をすることである。
 制限時間は2時間。完走をするためには、遅くとも1ヶ月は練習を重ねないと無理だと考えていた。
 当日はトラックを2周、光が丘公園内のジョギングコースを1周、そして外周を5周。練習では、日々店が忙しく、疲れて家に戻ってすぐ寝てしまう日も多く、深夜、公園外周を1周から始め、何日かおきに走った。
 走ることを重ねていくと、距離が段々と短く感じた。練習を始めてから一週間後、距離を倍にして、2周、翌週を3周、当日一週間前には、4周まで走ることができた。
 ただ、あまり無理すると体を壊す危険もあり、当日は気分だけでもゆっくりと、あせらず、完走を目標にしたいと思っていた。

 当日。天候は曇、やや肌寒いくらいの陽気だった。
 仕事を終えてからの深夜、事前の練習量としては、距離はトータルで20周弱まで走ったことになる。1周するタイムも3分ほど短縮できるようになっていた。いつものペースを守れば、ゴールが見えると思った。
 朝、スタート時の僕が走っている姿を、子供たち3人に見てもらえればと考えていた。
 逆に、走っている姿を見てもらうことで、子供たちへ、何事にもあきらめない気持ちが伝わるのでは、という願いを心に秘めて。
 トラックではランナーの真中の位置で飛ばした。陸上経験があるわけでもない僕の実力では、制限時間ぎりぎりの完走が目標であり、行けるところまで行くつもりだった。
 子供たちの姿が見えなくなると、途端に息が上がってきた。しかし、途中で投げ出すわけには行かない。
 仕事にしろ、研究にしろ、そして走ることも、地道な一歩が、明日につながるのだ。
 結果としては、何とか制限時間に間に合い、ゴールすることができた。
 完走できたことで、少しずつ体力がついてきたと思える。来年フルマラソンへの初チャレンジが更なる目標である。とにかく、これで一区切りついた。

店についてとりあげることにする。お話をいただいたことを2つ。

   9月29日から11月30日まで、練馬区産業経済部商工観光課が主体となって練馬の散歩道を利用した、「練馬区観光ポイント巡り」のスタンプラリーが実施されていた。
 練馬区初めての取り組み、今回は2つのコースでスタンプラリーをやっていて、「まるとし」もこのポイント巡りでは、『ねりまの散歩道・城北中央公園コース』地域のサービス協力店として、参加した。スタンプ設置店は、商店街で1店舗、サービス協力店は3店舗である。
 この城北中央公園コースでは、スタンプ設置店が10店舗、サービス協力店が26店舗あった。
 ガイドブックがよく出来ていて、練馬の名木のあるところ・練馬の名品が買えるお店の場所もわかりやすいだけでなく、散歩ルートの見所や、散歩の途中で寄れる、スタンプやサービス協力店のある店なども掲載されていた。
 「まるとし」では、このガイドブックをご持参いただいた方には、ソフトドリンクもしくはグラスビール1杯のサービスをした。
 スタンプを4つ集めると、ホテルでのお食事招待券や豊島園の招待券、区内共通商品券など抽選で当たる。
 「まるとし」にとって、お客様も増えることでもあり、また、街歩きで地域を知る機会が増えることは、歓迎すべきよい企画であると思う。

 また、10月に取材を受け、11月17日発売のマガジンハウス発行の雑誌「HANAKO」11月24日812号に、「まるとし」のことが掲載された。
 取材前、ライターの方がお忍びで食事をして下さった時、美味しかったからとのお話だった。
 「老舗の味は、胃もたれしない軽い仕上がり。 サックリ歯触りのいい衣に、肉のうまみがしみ出るとんかつ。おいしさの秘密は青森の健康豚と生パン粉、数種ブレンドの揚げ油に愛情! 先代の技を守りつつ、新味に挑戦する3代目に常連客もエールを送る。」
 「老若男女、新旧店舗混在で活気づくトウネリ」というテーマの記事で、商店街でも他に何店舗か取り上げられた。
いろんなお話をいただいて、とてもありがたい気持ちである。

以下、次号。


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 その六 「人との縁」

 「袖振りあうも他生の縁」という言葉がある。限られた時間の中で、多くの人とめぐりあえることは、考えてみれば不思議なことである。
 店を営業していれば、お客様との出会いは、常にある。「毎日が出会い」の連続のよう。
 家族のように、頻繁にお会いする常連のお客様、週や月に何度か確実にご来店して下さる方もいれば、いろいろな理由があって1年、2年、時に10年近く経つような方もいらっしゃる。
 他生とは、前世のこと。この世でのちょっとした関係でも、実は前世からの因縁によるものだとしたら、出会えた月日の数は意味のないことかもしれない。

 僕が「まるとし」の店主となって、この4月で2年となる。
 名実ともに店の看板を背負うことになって、何事にも試行錯誤、前向きに取り組んできた。
 話し始めたら切りがないことを振り返ると、店でのことはすべて、お客様に喜んでいただけたらという思いだった。それらが少しずつ実を結び、昨年は売上や利益も前年同月を上回るようになった。
 大事にしていることは、いつも笑顔でいること。お客様がお話のありそうなご様子の時には、さりげなく声をかけてみる。人とのつき合い、特に常連のお客様との距離感は、一人一人違いはあれ、肩の力を抜いて自然体で接することに行き着いた。
 お客様からお酒をご馳走したい、などと時に誘われることもある。店の忙しさから、都合をつけられないことも多いけれど、大事な時にはお付き合いすることもある。

 以前紹介した、“北町初!”の地域寄席の「北町寄席」は今年で4年目を向かえた。
北町寄席  地域の活性化を図り、地域住民の親睦を図りたいという想いから、練馬区在住の落語家である柳家小きんさんを迎えたこの寄席、そのきっかけを作られたご夫婦は、「まるとし」のお客様でもある。
 そのお客様から、小きんさんと僕とで、ぜひお酒の席をと、お声をいただいた。実現したのは、11月の寄席の終わった後のことである。そのお店は、地元の入船さん。やさしいマスターやおかみさんが温かく迎えてくれた。
 この小きんさんと同席するにあたって、店近くの、長年不動産業を営んでいらっしゃる「まるとし」の常連のお客様もご一緒していただいた。
 このお客様とお話をしていて、昨年亡くなられた、小きんさんの実父、柳家つば女さんに、このお客様が歴史の先生をなさっていたことがあるとお聞きしたからだ。
 先生は、地元の阿波踊りを開催することを考案された方であり、店にいらした時は小きんさんのことも話題になる。
 お話する度に小きんさんを交えてお話する場をもちたいと思っていた。折角の機会、ご一緒にとお声をおかけしたことで、念願がかなった。
 昔話に花が咲く。お酒がすすむごとに、同世代の小きんさんは自然と落語口調となりまるで寄席のよう。歴史の先生お得意の詩吟も初めて聴くことができ、心から感動した。
 今回それぞれ忙しい中、集まれたことに意義があるように、また、何らかのご縁と感じられた。

 「北町寄席」は、今年の1月で17回目となった。毎回100人を超える大勢の観客にその地元への想いが支えられている。
 お正月の寄席は、恒例の“初笑い・新春大抽選会”として開催され、世話人の方々のご好意で、子供も楽しめるおもちゃなど、景品プレゼントが演目の一つとなっている。
 僕も何とか都合をつけて、次女、三女と共に、1年ぶりに寄席にうかがった。小きんさんの落語には、その言葉の一つ一つに対しての奥行きがさらに広がったように感じた。
 『「笑い」にも、温かく笑える笑いもあれば、人を馬鹿にしたり、いじめたり、心の底から笑えない笑いもある。今の世の中まさに落語に見られるような「人情あふれる笑い」がもっとも大切なのではないでしょうか。』
 このような小きんさんの「温かな笑い」を、大きく育ててほしいと思う。

 話変わって、店のほど近く、練馬区には峰崎部屋という二所ノ関一門の相撲部屋がある。ご存知の方もいらっしゃるのではないか。
 親方は、最高位前頭2枚目の元三杉磯の峰崎親方。この峰崎部屋のHPをいつものように夜帰ってから開くと、そのトップページに僕の名前が出ていた。
 2005年1月20日午前4時7分30秒、幸運にもHPの100,000人目のアクセス者となったからだ。
 「まるとし」と峰崎部屋の力士の方とのご縁は、残念ながら昨年引退された力士の方が、スポーツクラブに通う帰りによくお食事に来て下さったことから始まった。
 時に、仲間の力士の方とご一緒にお越しになることもあった。ご来店の際、決まって一番大きなカツにアジフライを一枚追加注文された。僕はいつも気合を込めてカツを作っていた。
 峰崎部屋の力士の方々は、礼儀正しく、素直で誠実な印象がある。相撲でこれからも残すべきよい伝統である「品格」が感じられた。
 峰崎部屋は、親方とおかみさん、お子さん2人に、力士6人、呼び出し1人、行事1人、阿佐ヶ谷に本拠があって、そこへも練習に通っているそうだ。普段朝は4時起床、昼寝が2時から4時。就寝は11時だという。
 場所前には、番付表をお持ちいただき、店内に飾ることも度々あった。大きな身体で、壁に飾られた番付表を見下ろし、「ちょっと曲がっています」などと直していただいたことも何度かあった。
 峰崎親方ともぜひお会いしたいと思っていた。
 2月1日、その願いが通じたのか、10万人目にアクセスした方には、親方から直接、豪華な記念品をいただけるということで、お忙しい中、親方自らご来店して下さった。
 楽しみであったその中身は、お酒(長野県佐久市の地酒雷電)、部屋の名前付きの大きなとっくりとおちょこ(店のサンプルケースに飾ることにした)、お皿2枚(店で使うことに)、それにポスターとカレンダーなどなど、他にも親方や一緒に来られた力士の方のサインもいただいた。
 現在部屋には関取(十両以上)はいないのだけれど、店に来られたことのある力士の方は、皆気さくで、思わず応援したくなる。実力主義の厳しい世界、それでも負けずに、100人中8人しかなれないとされる、関取目指して、峰崎部屋の力士の方には、頑張ってもらいたい。

 2月3日、店近くの氷川神社で、初めて、節分の豆まきをした。
 毎年、この神社では、近くの子供たちなど多くの方々が集まり、にぎやかなのである。
 豆まきの順番は最後の方だったので、あまり拾えていない子供や高齢な方々に豆(おかしなども)が届くよう、「鬼は外、福は内」と言いながら、2升まいた。
 「まるとし」のように、地域密着型の店では、やはり地域のお祭りやイベントに、こうして積極的に参加することも大事だと思う。豆まきは、浅間神社が主催、町会や商店街が協賛という形である。
 僕が豆をまいている時にも、「まるとしさん、こっちに投げて」などとお客さんや商店仲間から、声をかけていただき、そのねらいが的中しようものなら、今まで以上に親近感や好感を持っていただけたりする。もちろん、開催するにあたって準備される関係者の方も顔なじみだ。
豆まき  子供たちにも参加してほしかった。長女と次女は小学校の下校時間で間に合わず、三女は、中耳炎にかかっていて、来られないのは残念だった。
 去年末の商店街の抽選会オープニングイベントでは、僕はチョコバナナを担当、手をチョコまみれにし悪戦苦闘、製造販売したこともあった。
 地域のお祭りやイベントに参加されない方に限って、「そんなことは意味がない」と言われる。でもそこには、今の時代、最も大事な、人と人とのふれあいがある。

 話は前後する。商店街関連で昨年来、頼まれていたことがあった。
 1月12日、川崎産業振興会館、経済産業省関東経済局主催「中心市街地活性化シンポジウム」のパネラーとしての依頼だった。
 事例研究として、NPO北町大家族の地域密着型事業の紹介を、地元商店街の店主ということでの参加だ。
 当日午前中に、パネリストは会場に集合した。関係者の控え室で、段取りの説明を受けている時に、思わぬ再会があった。
 それは、事例研究の別のグループ、司会役のコーディネーターの先生が、2年半ほど前、日本小売業協会主催、ウォルマートの発祥の地(アメリカのアーカンソー州ベントンビル)を訪ねる視察旅行でご一緒した方だったのだ。
 世間は狭いとはいえ、こういった形で、コンサルティング業務や講演、研修、雑誌・新聞など多方面でご活躍の長原紀子先生にお会いできるとは思ってもみなかった。これも何かのご縁と、近況を簡単にお話し、店へお越しいただける機会をつくっていただけることになった。
 パネルディスカッションでは、NPOの代表の方と共に参加した。研究テーマの顧客の笑顔が映える街として、商店街が運営する「NPO北町大家族」を母体として、乳幼児親子の広場「かるがも親子の家」・高齢者のたまり場「北町いこいの家」、そして商店街の活性化につなげる地域通貨「ガウ」の紹介を行なった。
 北は北海道から南は九州まで、この「NPO北町大家族」に視察に来られる方は、決まってお昼のお食事は、「まるとし」に来て下さる。その方々は、この地域通貨を商店街で購入して、実際に店で使われる。
 会場には多くの方がつめかけて、反応も上々、何とか無事にその役目を終えることができた。

 人前で発表をするといえば、2月16日、東京都中小企業振興公社での「若手商人研究発表会」にも参加した。
 この発表会では、やる気のある若手商店主を中心に、商店経営、商店街事業において今日課題となっている8つのテーマについて、実践的に役立つ方策を研究し、その成果を発表するものである。
 担当した研究発表は、「お客様の購買意欲を高める販売促進」について。8月から12月にかけて6回、練馬区の商店主を中心に、石神井の商店街事務所にコーディネーターの中小企業診断士・二瓶哲先生のもとに集まり学んだ。その販売促進研究会の発表となった。
 僕は店の中での情報発信について話をした。
 従来POPというと、価格や割引率を表示する、いわゆるプライスカードが大方を占めていた。しかし、昨今、商品使用による生活提案、店員が商品を実際使用したことによる感想、お客様の求める細かい商品情報を文章で提供する、いわゆるショーカードがかなり増えてきている。
 「まるとし」でも、店頭や各テーブル横に、店に関する情報を手書きで書いたものを飾っている。この手書きは、お客様にこちらの気持ちをより身近にお伝えできればと思うからだ。

 「豚肉は、天然ハーブ入り飼料と麦を加えた飼料でうまみをアップした青森県青森けんこう豚を使用しております。鶏肉は臭みが少なく、ジューシーでビタミンEがいっぱいの国産鶏肉桜姫を使用しております。米(ごはん)は福島県会津地方の地域限定ひとめぼれをアルカリイオン水で洗米して炊いております」

 店内の壁には、メニュー以外の、お客様への心配りを縦長の紙に、手書きしてみた。

 ・ ご飯の量加減は(半ライス・軽くなど)遠慮なく申し付けて下さい。
 ・ お好きな揚げ物をご注文のお品に追加できます。(イカ1ヶ・エビ1本・コロッケ1ヶなど)
 ・ お車でご来店のお客様へ 近隣のコインパーキング代は負担させていただきますので遠慮なく声をかけて下さい。
 等々。

 他にも、店のテイクアウトメニューや配達のメニューに関してのこともお話した。
まるとし店内  それは、単なるポスティングよりも、量より質を重視した手渡しが大事であること。僕は、配達の注文をいただいたお客様を、すべてメモしている。
 ここ1年だけでもそのお客様の数は、500を超える。毎日、店が終わってから、同じお客様の注文であれば、日付をその横に書き加える。
 新しく内容に改定したメニューを作ったら、そこに書かれたお客様へ、次にご注文の際手渡しをしていくのである。もちろん店内にもメニューは置いてあるので、気に入ってくださったお客様はメニューをお持ちになる。
 僕の発表が終わった後に、会場で聞いていらした初対面の経営コンサルタントの先生からは、「自信をもって説明されていて、とても良かったです。今度食べに行きます。」と声をかけていただいた。

 以下、次号。

http://www.minezaki.com/index.html

http://www.nerima.jp/daikazoku/


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 その七 「強い心」

 梅が香り、桜が咲く、春が訪れた。

 この2年、三女の幼稚園の行事には、登園はもちろん、親子で遊ぼうデー、参観日、餅つき大会など、仕事の合間を見つけて、極力参加するようにした。
 入園式や運動会、卒園式などの節目には多くのお父さん方にお会いする、それ以外の行事に来られるお父さんは少なかった。子供のことはほとんどお母さん任せ。行事にお父さんの姿がある子は誇らしげだった。
 時が経つのは速いもので、今年、三女も小学校に入学、5年生、3年生、に進級した長女や次女と登校する。
 妻が日頃3人に言って聞かせることがある。姉妹喧嘩の時は必ず話すのが、「3人は力を合わせて生きていくんだからね」。
 ある時三女が「3人の中で、一番しっかりしているのはお姉ちゃん(長女)」というので、妻は「お姉ちゃん(長女)は物事を進めたり、決めたりする時にしっかり者、次女は新しいことにチャレンジする時、積極的に取り組むところがしっかりしている。あなたは見たことや、人が漠然と思っていたようなことを適確に、その場にぴったりした言葉でお話するのが上手。3人揃ったら最強だね。それぞれしっかりしているところが違うのだから」と話していた。

 僕は子供たちに言葉で何か伝えるのではなく、自分の身体でそれを表現しようと心掛けている。
 3月20日、「第8回東京・荒川市民マラソン」、30代のうちに挑戦してみたかったフルマラソンの完走を目標に、1年前から走り始めた。
東京・荒川市民マラソン  この大会は、日本陸連公認コースによる、東京で唯一の市民参加型フルマラソンである。約2万人ほどのランナーが全国から集まる。制限時間が7時間、完走者数で日本一、全国ランニング大会100撰でも2年連続で1位に選ばれている。メイン会場は、僕が小学生だった頃、野球をよくしていた場所だ。
 昨年3月に出場した「三浦国際市民マラソン」では10キロ、次いで、11月には「ねりま光が丘ロードレース」で20キロを走った。過去に陸上経験がない僕としては、1つの大会にエントリーしてから、時間制限内に走ることを目標に練習をする。
 今回もこれまで同様、店を終えた深夜、自宅近くの光が丘公園の外周を走った。翌日の店の忙しさも予測、自分の体調とあわせて走る日を決め、練習量を調整する。無理をすると身体を壊すことになりかねないのは重々承知だ。慎重の上にも、慎重を重ねた。
 大会当日は、やや肌寒い天候だった。戸田橋そばのスタート地点から、荒川河川敷を走り、江戸川区の荒川大橋を折り返し、ゴールを目指す。
 スタートしてからの調子はまずまず、「フルマラソンは前半飛ばすと後半息切れし、結局タイムは遅くなる。また、レース前にエネルギーをたっぷりと補給していても、25キロ過ぎにはすべて使い切ってしまう。」と経験者の方に聞いていたので、自分のいつもの練習ペースで10キロ、20キロを走った。
 中間地点を過ぎ、ペース配分を大事にしつつ、ゴールまでの15ヵ所の給水所では、ドリンク以外にもぶどう糖、バナナ、オレンジ、パンなどの補給食を摂っていった。
 30キロ手前までは快調なペース、走りながら、店に出ている妻に、そろそろ子供たちを連れてゴール地点に来てくれるよう携帯電話で連絡した。事前登録もしていたので、妻の携帯には10キロごとの僕のタイムと予想ゴールタイムがすでに記録速報(GT−Mails)となり届いている。
 30キロを過ぎて、ゴールに近づくと、だんだん足が重く動かなくなってくる。そこで、歩かないように、腕を大きく振り身体を前に押し出すようにした。
 35キロ地点、ここまで走らないと食べられないという、シャーベットステーションも無事通過、ゴールを目前に、子供たちの姿が目に入る。急に力が戻り、思いっきりラストスパート。皆が見守る中、ネットタイム5時間20分でゴールすることができた。
 この後、給水所の側で、初マラソン体験者インタビューを受けた。これがきっかけで、後日店の取材をしていただくことに。

 「ランナーズ」2005年7月号、ランナーの店を紹介する「ランナー大好き」というコーナーで掲載された。
 「ランナーズ」は、ランナーにとって貴重な情報を、毎号きめ細かく紹介している雑誌である。
 料理や店の7枚の写真。記事には、僕のコメント「『トンカツ=カロリーが高くて、運動する人向けのメニューではない』と思っている方も多いでしょう。それは違うと、私がフルマラソンを完走することで証明したかったんです」。
 マラソン後、妻や子供たちと合流した。「顔中に、粉がふいたようになっているけど、それ何?」と妻に言われ、触ってみると、乾いた汗が塩となってざらざらしていた。
 大会広場では、しばらくぶりに子供たちとバトミントンをしたり、自分が子供の頃に、可愛がっていた犬を川で泳がせた想い出の場所に行ってみたりした。
 今回フルマラソンを完走することで、「何事も諦めない気持ち、1つのことを継続すること、強い心を持つこと」を伝えられればと思っていたけれど、子供たちにとっては、僕と一緒に遊ぶ事の方がうれしかったようだ。でも何かしら心に残っただろう。
 走り終わって時間が経つにつれ、だんだん足が動かなくなってきた。そんな姿を見て、次女や三女が率先して、肩につかまってと杖代わりに小さな肩を貸してくれる。そのやさしい気持ちはうれしかった。  この春、僕が挑戦したことをもう1つ。それは、4月24日、練馬の二大祭りの一つ、「第18回照姫まつり」に初参加したことである。参加のキッカケは、昨年店が好調であり、何かしら地域貢献をしたいと思っていたからだ。
 昨年5月から参加した練馬区主催「若手後継者商人カレッジ」は石神井公園区民センターで行われた。講師の勧めで、その後、東京都中小企業振興公社主催「若手商人研究会」の「販売促進研究会」に引き続き参加。それは石神井公園商店街の事務所で行われた。たまたま石神井公園地域にご縁があったことから、「照姫まつり」への一般協賛を決めた。
 一般協賛をすると、HPの協賛団体の欄に店名が掲載され、そこから店のHPにリンクできる。また、パンフレットにも協賛団体として、店名が掲載される。
 照姫伝説とは、室町時代の文明9年(1477)、石神井城が太田道灌の攻撃によって落城した際、城主豊島泰経とともに三宝寺池に入水した泰経の娘「照姫」の伝説である。その伝説にちなんで「照姫まつり」がうまれた。
 当日は、オーディションで選ばれた華やかな衣装の照姫を中心に、勇ましい鎧姿の武士団など選抜された総勢109名で構成される行列が石神井公園の野外ステージを出発する。公園周辺の約2.5キロを練り歩き、「野外ステージ」と「石神井公園駅前」では、照姫伝説の紹介とともに、照姫行列の華麗な舞やパフォーマンスが披露される。
照姫まつり1  地域貢献として「照姫まつり」に協賛するだけではなく、重臣役に応募してみることにした。鎧姿が立派な重臣役は人気らしく、無理だろうと思うも、抽選の結果その役に選ばれた。今回同じ役に決まった人の中には、過去4回違う役をやってからようやく当選した方もいた。
 10日ほど前にまつり全体の流れを把握するための説明会と、3日前のリハーサルがある。
 説明会では、役柄ごとに席の位置が決まっていて、ご一緒する方々と顔合わせをした。まつり当日のタイムスケジュールは、朝7時45分に石神井公園の野外ステージに集合してから、15時25分の列退場まで、細かく進行が決められていた。
 いくつかの注意点の中で印象に残ったことの1つに、当日は極力水分を取らないという点。衣装に着替えた時から終わるまで、トイレに行けないので、これはかなりプレッシャーだった。
 時間が経つにつれて痛くなりそうな肩などや、鎧などの重さで紐があたる部分には予めタオルを乗せて着付けしてもらう。他にも、草履は実際の足のサイズよりも小さめになるため、予め親指・ひとさし指にバンドエイド等でテーピングをする。
 行列の間隔は2メートルほどで、道路のガードレールなどを目安に距離感を保つといった細かい指示もあった。

 説明を聞いていて、何だか、えらいことになったと不安になった。当日は役柄ごとにスタッフの方がつくと聞き、次のリハーサルの日を迎えた。
 ステージ内容は、第1部が、春の華やぎと香りと彩り、平和な時のお祝いの舞を踊り。そして、第2部が、 突然、豊島家の領土を襲う太田道灌の槍先と軍勢、一瞬の絶望、戦場の悲惨さを表現するというもの。それぞれ、10分、10分で、トータル20分。
 日が近づいてくるにつれて、行列はともかく、このステージ演技がどんなものか、心配になってきた。重臣役は最後の方で泰経公と共にステージに登場し、扇で攻め落とされる前の最後の舞を披露する内容だった。
照姫まつり2  自分たちの演技を順番に指示され、それぞれの役柄のコンビネーションをとりながらの通しのリハーサルに入る。2回、3回、細かい調整と、音楽と動き、そして演技を合わせていく。この日は、4回ほどこれを繰り返した。
 そして、晴天に恵まれ、「照姫まつり」当日を迎えた。
 改めて、「水と緑と歴史のふるさと」といわれる石神井公園を実感する。練馬区民として、こんなに綺麗な公園があるのだと胸を張るような気持ちになった。
 ステージ演技の前に撮影した集合写真は、自分が履いた草履とともに、店に飾ってある。
 いよいよ野外ステージでの行列出陣式。
 短期的に集中して、何度もリハーサルを繰り返したことで、演技の方での緊張は、全くなかった。ただ、鎧や草履をつけての動きはこの時がぶっつけ本番だった。泰経役の阿部六郎さんが役者である以外は、皆一般の方々、よく考えると「照姫まつり」は、区民のための区民による温かい気持ちにあふれたイベントである。
 大行列の109人、重臣役の6人は、ただ歩いているだけではつまらないと、時に刀を抜いてポーズをとる、ときの声(「エイエイ」「オー」)をあげる。
 沿道では沢山の方々からカメラ。この日の観客は、10万5000人ほどだったという。
 行列の途中、和田堀公園で休憩時、妻や子供たちがシャッターチャンスとばかり、応援に来て、写真を撮った。話を聞くと、野外ステージも観てもらえたようだ。子供たちにとってもいい思い出になったのではないか。
 時が経つにつれて晴天により気温も上がる。鎧の重さがずっしり身体に、また草履も履きなれないので痛くなる。それでも、駅前パフォーマンスや公園に戻り帰還式に参加、無事にその役割を終えた。疲れはしたけれど、とても楽しい経験だった。

 最後に店についての話をしよう。昨年10月に「一生懸命働いて下さる方」と特記して店の壁に求人を出し、2人のアルバイトが店に入った。1人は中学校の後輩で大学生、そしてもう1人は、若いお姉さん。半年経ち仕事にも慣れ、店はより活気にあふれた。
 お客様へのサービスとして、例えばテーブルの上にゆかり(ビタミンAをはじめカルシウムなどを含む赤しそ)や黒ゴマなど置くこと、新しいメニュー開発も続けている。店近くの電柱に広告を出すことで、お客様を迎え入れる道案内、新しいチャレンジも続けている。
 また、昨年知り合えた同世代の商店主仲間とは、お互いの店を行き来している。大泉学園町/和菓子店「あわ家惣兵衛」・洋菓子店「ナカタヤ」・呉服店「かたやま」、東大泉/和菓子店「竹紫堂」、桜台/文具店「千草屋」、武蔵関/和菓子店「武州庵いぐち」、石神井町/茶店「赤井茶店」。僕の行動は、店近くのことから、練馬区内へと広がりをみせている。

 他にも、「練馬区観光ポイント巡り」を実施していた際、偶然に立ち寄られたことで、知り合えた、東大泉/もんじゃ焼きお好み焼き店「わらべ」の若旦那とは、練馬区の商業活性化のため、練馬区内で商売を営む人たちの情報交換の場である「練馬区商店主ML」で連携を取っている。
 「商人にとって必要なのは、自立性と状況を判断する想像力。強い心を持って、一つ一つやるべきことを積み上げていきたい」それが今の気持ちである。
 僕は、この4月から、東京都産業労働局ならびに東京都中小企業振興公社主催、経営意欲あふれる若手商店主を対象とした、平成17年度「商人大学校」で経営に実践的に役立つ講義を受ける機会を持った。

 なお、この連載文は今回が最後となります。長々とお読みいただきました、読者の皆様、そして、編集にお力をいただいた電子マガジンの実務担当者様方、本当にありがとうございました。

 まるとしは、今日も元気に営業している。

http://www.runnet.co.jp/mag/run/0507/

http://www.city.nerima.tokyo.jp/teruhime/kyosan/kyosan.html



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