10期生の修士論文奮戦記

特に記載がない限り、電子マガジン40号(2010年6月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 充実した2年間 小野 督人
国際情報 学位記を頂いて 田村 健一
文化情報 2年間を振り返って 大嶌 伸子
文化情報 実のところ 牧田 忍
人間科学 寄席にはじまり寄席で締めくくった2年間 栗崎 由貴子
人間科学 心の赴くがまま・・・ 土屋 守克
人間科学 二度目の大学院 村井 佳比子


「充実した2年間」    国際情報専攻  小野 督人

 2007年の春、私はFPの資格取得を契機に、FPに関する研究を行うことができる大学院を探していました。しかしながら、仕事の都合上、大学院への通学が困難なことから、大学院への進学を半ば諦めていました。そのような中、日本大学大学院総合社会情報研究科のことを、HPで知りました。通信制の大学院であれば、仕事の時間を気にせず自由に研究が出来ると胸を踊らせながら、さっそく指導を希望する階戸教授が出席する大学院説明会に参加しました。大学院説明会では、階戸教授と個別に相談をし、最後には名刺交換をさせて頂きました。これにより、階戸先生とメールによる連絡が可能となり、研究計画書の作成に係る事前指導を行って頂きました。今だからこそ言えますが、年初から年度末にかけては仕事が忙しかったため、事前指導を受けていなければ、仕事の忙しさを理由に受験を断念していたかもしれません。
 2008年4月、無事入学試験に合格し、大学院生として階戸ゼミに所属することになりました。入学当初は、通信制であることから、友人が出来ず、自分一人で黙々と研究を続けていくというイメージを持っていました。しかしながら、月に1度のサイバーゼミや、集合ゼミ、8月にはゼミ合宿等があり、1年に換算すれば10回程度しか顔を合わせないにも関わらず、ゼミ生とは、いつの間にか旧知の仲といった関係を築くことができました。そのため、レポートや修士論文が進まない時には、よく連絡を取り合うことでお互いを励まし合いました。同期や先輩方との関係なしには、大学院の修了はできなかったと感じています。
 次に、レポートと修士論文の作成についてですが、私は1年生の時に5科目履修をし、年間20本のレポートを作成しました。単純に計算すると、2週間に1本レポートを完成させなくてはなりません。そのため、先輩方の助言により、できるだけ早くレポートを作成し、その都度担当の先生の指導を受けました。私からも助言をすると、考えていてもレポートが進まないようであれば、未完成であっても一度レポートを提出し、先生の指導を受けるのも良いと思います。早め早めに行動していたことが功を奏したのか、1年生の時は無事5科目単位を修得することができました。
 先輩方からは、2月から修士論文の作成を手がけるよう助言を頂いておりましたが、1月に1年生のレポートを全て提出し終わったことで気が抜けたこと、また仕事が年度末、年度初めの繁忙期に差し掛かったこともあり、しばらくは参考文献のチェックや資料の収集のみに専念していました。実際、私が修士論文の作成に本腰を入れ始めた時期は、忘れもしない9月23日でした。2年生になり、残す1科目のリポートは順調に作成し提出することができましたが、相変わらず8月まで修士論文の構想を詰め切ることができず、参考文献のチェックや資料収集に徹していました。しかしながら、9月に入りさすがにもう本腰を入れないと、10月にある中間発表や、修士論文の提出に間に合わないと感じ、やっと修士論文の作成に取りかかることにしました。そのため、9月23日から1月上旬までの土日祝日や、早く仕事が終わった帰りには、近所の喫茶店でノートパソコンと睨めっこをし、修士論文を作成しました。おかげで、無事中間報告会を終了し、修士論文も提出することができました。あれだけ毎週喫茶店に通い、コーヒー1杯で粘り続けたのもこの時が初めてです。そして、1月下旬の面接試問を経て、3月に無事修了することができました。
 この2年間を振り返ると、忙しいながらも非常に充実した2年間でした。この場を借りて研究指導してくださった階戸教授、様々な助言を頂いた先輩方、お互い励まし合った同期のゼミ生、影ながら支えてくれた妻と娘に深く感謝いたします。


「学位記を頂いて」   国際情報専攻  田村 健一

 無事に修了ができた今だからこそ書けること(やっぱり書いてはいけないかもしれませんが)ですが、「そもそも自分が大学院に受かるわけがない、まずが軽い気持ちで受験をして予行練習をしておこう」と願書を出したのでした。
 願書を出して早々に事務課の方からメールで「英語の試験を免除対象ではありません、また、卒業証明書と願書に書いてある記述が違います。」と指摘をされており、余計に予行練習と割り切って、入試前日は二日酔いになるまで深酒をしておりました。
 ただでさえ字が下手なのに、さらに何を書いているのか自分でも読めない。最後の面接を前に帰宅してしまおうかと本気で考えていたのですが、予行練習の一番の意味はこの面接にあるのだと言い聞かせて、ようやく治まった吐き気に安堵を覚えつつ面接になりました。
 そこで、大学院の案内にある通りの笑顔の階戸先生にそもそも自分の考えている研究とかみ合うと思っていなかった私も万が一受かったら入学するのもいいかもしれないと思わされてしまいました。
 そして、予想外に合格し、開講式それに直後のゼミで、階戸ゼミの同期の面々の自己紹介を聞いたときに、まさしく場違いなところに来てしまったと思いました。
 直後のサイバーゼミでのゼミ生の発表を聴いてさらに、場違い感は強くなり、さらに最初のリポート提出で近藤先生からの添削を受けてますます場違い感は強くなりました。
 それでも、諸先生方から指導を受けるたびになんとなく自分でも何とかなるかなと思えてしまったことは今でも不思議であります。

 修士論文を書くにあたり、引用した文献は基本的に行き帰りの電車の中で読んでいたのですが、ここは論文に使える家に帰ったらまずパソコンを立ち上げて即書いてしまおうと思いつつも、早く帰ったときはまだまだ時間はあるまずは夕飯、たまにはテレビをのんびりと見よう、そして明日も早く帰れるだろうから、明日にしよう、それを繰り返して結局金曜日を迎え土日にこそ二日間全部を使って、論文書くから平日に無理しなくてもいいだろう今日はやめておこうの繰り返しでした。
 そして、もちろんその土日も土曜日の朝は午後からでいいや、午後になれば夜になったら、夜になれば日曜日こそ、日曜日はいうまでもなく結局書かずじまいで月曜日を迎える繰り返しでした。
 それでもさすがに土日月と続く三連休になれば、脅迫観念に駆られて、なんとかパソコンを立ち上げても、ネットも見ず、メールをチェックせずに、論文をなんとか書こうという気になりました。
 しかし、平日に行き帰りの電車で読んだ本の内容を見事に忘れている。結局、同じ本をもう一度読むのですが、おかしいこの辺りに書こうと思ったことがあったはずなのにで、とことん非効率なことで我ながらあきれ返るばかりの日々でした。
 それでも、ごくごくたまに平日に今日こそは書かねばと思い書くのですがそれは不思議なことに、やけに忙しい日で帰宅したのがもう間もなく日が変わるといったときや、明日は朝早めに家を出ないといけない日になるのも我ながらあきれ返ることの一つでした。
 計画性がなく、自己抑制が効かない私が、無事に修了できたのは、階戸先生をはじめとする先生方、そして階戸ゼミの皆様からの刺激であったのは間違いのないことでしょう。この場を借りてお礼を申し上げさせていただきます。


「2年間を振り返って」   文化情報専攻  大嶌 伸子

 私は博士前期課程在籍の2年間、Barry Natusch先生のご指導の下、機械翻訳の活用に関わる研究に取り組みました。先生は日本語がお上手で、日本語でもいいですよと言って下さっていましたが、先生とのコミュニケーションは基本的に英語でした。メールも直接お話する時もサーバーゼミも、もちろん修士論文と最後の口頭試問も英語でした。正直なところ、海外生活経験のない私には、先生の言って下さることが完全には理解できていないこともありました。しかし、日本の大学院に在籍していながら、英語が主言語に近い状態で研究に取り組む機会を得られたのは、本当に幸運だったと思います。
 学部時代、専攻の英作文の授業で論文の書き方の基礎を学び、4年次で1500語程度のミニ論文を計3部まとめました。そのせいで、どちらかというとリポートは英語の方が慣れているという思いがあり、むしろ1年生の前期、日本語のリポートに苦戦していました。しかし、修士論文となると事情は変わります。さすがにそんなに長い英文を書いたことがありません。本当に書けるのか、不安もありました。でも、とにかく書き進めるしかありません。執筆中、日本語だったら楽だったのにと思う時と、英語で良かったと思う時の両方がありました。また、研究テーマの関係上、全文を英語で通すことができず、機械翻訳にかける前の原文は必ず日本語で書かなければなりません。先生のご意見を伺った結果、日本語の文字が読めない方も論文を読んで下さる可能性を考え、日本語表記にはローマ字を併記することにしました。さらに、日本語の著書や論文からの引用では引用部分を英訳しますが、本文がほぼ出来上がった後、Reference用にタイトルも英訳しなければならないことに気づき、英語論文の大変さを改めて感じました。このように修士論文完成まで様々な苦労がありましたが、具体的にどのような道程を経て完成に至ったのかをここで振り返りたいと思います。
 先行研究は、開講式直後から始まりました。最先端技術に関する分野ということもあり、まずは、インターネットでの情報検索、ニュース記事チェックによって、関連があると思われるものを集め、引用候補リストを日々更新していきました。
 先生のご指導を受けるのはメールのやり取りが中心でしたが、1年生の夏のスクーリングの頃、電話スクーリングがありました。同じゼミの同期のリクエストによるもので、1人ずつでした。先生から事前に、対象の読者、研究方法、論文の構成等考えておくように言われました。もともと、研究の中心として考えていたのが複数の翻訳サイトを対象としたビジネス分野の翻訳実験でしたが、それに加えてこのお電話で先生から提案されたのが、アンケートの実施でした。思い通りに行かないのが世の常、試行錯誤を繰り返し、当初の予定とは対象も方法も大幅に変わり、質問がほぼ確定した頃にはもう冬でした。しかし、これによって結果的に広い視野から機械翻訳使用者の状況を確認できるようになったと思います。
 1年生の冬のスクーリングの時には、先生がわざわざ所沢まで面接スクーリングをしに来て下さいました。夏のスクーリングの課題で既に論文の仮題を決め、目次も作っていましたが、この面接スクーリングで、私の希望や計画を基に先生が改めて一緒に目次を考えて下さいました。この時、私はまだ実際にどのような論文になるのか明確にはイメージできていない状況でしたが、先生が結果を想像してわくわくしていらっしゃるのがわかりました。1つ衝撃的だったのは、修士論文をすぐに書き始め、6月頃までに全体を書き終えるように言われたことでした。とは言えこれは、それぐらいのつもりで進めたらゆっくり修正する期間が取れ、良いものができるという先生の優しさだったと思います。実際、その時期が近づいて私がとても焦っている時も、先生からの催促は全くありませんでした。
 時期が少し戻りますが、1年生の後期に入った頃、とにかく、翻訳データを蓄積しようと考えました。多くのデータはそう簡単に集められませんので、できるだけ毎日何か機械翻訳にかけてみようと決めました。日本語らしい、省略の多い、しかもよく使う表現から訳し始めました。次に、仕事で使う専門用語を訳してみました。さらにことわざなども訳しました。ここまでにかなりのデータが集まりましたが、先行研究から早く具体的な原文作成方針や評価基準を決めなければ、データだけ集めても自分の研究にはなりません。機械的な作業も結構時間がかかり、そのせいでリポートや他の調査が進まないのではと思ってしまうこともありました。そんな中続けてきた毎日の習慣でしたが、思い切って中断し、仮説を先に確定させることにしました。1年生の最後の頃のことです。
 この頃までに簡単にまとめていたのが、機械翻訳の歴史と研究対象とした翻訳サイトの運営会社・翻訳システムメーカー・付属サービスの調査でした。この翻訳サイトの背景調査はちょっとした息抜きのつもりでしたが、先生におもしろいと言って頂き、研究の中の1要素として追加することになりました。ここで、最終的にMethodologyとして採用した3つの要素、翻訳サイトの背景調査、翻訳実験、アンケート調査が揃いました。その一方で、もともとの専門である社会言語学的要素を何とか盛り込めないかと考えていました。そして、2年生の4月に出会った『日本語に主語はいらない』(金谷, 2002)をきっかけに日本語学、発想の違い、翻訳論等を本格的に調査することになります。この後約2ヶ月間は、この関係の文献や論文を調査するだけで、先生に途中報告もできませんでした。そのため、とてもあせっていて、ずっと机に向かっていないと不安でしかたがありませんでした。この結果を研究に盛り込むための方向性がほぼ固まり、翻訳実験を再開できたのは、6月に入ってからでした。
 修士論文本文はと言いますと、2月に着手したものの、IntroductionとConclusionの第1稿程度。6月に先行研究部分を本格的に書き始めましたが、Title確定後の7月にAbstract第1稿を挟んだ後、9月になっても研究の中心部分にはほど遠い状態でした。10月の中間発表時、頭の中では内容がほぼ固まっていました。発表に加えてそこまでに書き上げた荒い状態の論文を基に面接スクーリングをして頂き、Abstractを基準に本文を膨らませるようご指導頂きましたが、その後も中心部分は覚書状態から遅々として進まず、12月上旬にようやく大変荒い状態のDiscussionを書き上げました。リポート優先のため一旦完全中断とした後、全体がそれなりの状態となって先生に提出したのは、12月31日の夜9時でした。同じゼミ所属のもう1人の同期と年末年始に先生をメール攻めにすることになり、本当に申し訳なかったです。私の場合、データを大量に付けていたので、どんどん膨らんでいくページに、これ以上増やしてはいけない、でも説明が必要、あるいは、表を小さくおさめたい、でも先生方に読んで頂くために少しでも大きなフォントを選択したい、というような葛藤のために手が止まることもしばしばでした。全体提出後も細かな修正を行い、最後に長年愛用しているプリンターで6時間以上要して3部の副本を印刷して、何とか1日の余裕をもって副本を発送することができました。
 終わってみると、時間的、体力的、経済的(!?)にはつらい2年間でしたが、充実した本当に楽しい2年間でもありました。関西在住ですが在学中東京に行かなければならないのは数回だけ、と安心して入学したはずなのに、パソコン研修や必須のスクーリングに参加して、先生方だけでなく、同期や先輩方と交流する場でわくわくする経験をしてからは、高い交通費・宿泊費をものともせず、必須以外の行事に何度も東京に通いました。修了を迎えるに当たり、頑張った結果として学位を受け取ることができるのがうれしい反面、励まし合って頑張ってきた同期やお世話になった先生方、先輩方とお会いすることが難しくなってしまうことに寂しさを覚えました。むしろ、うれしさより寂しさの方が強かったかもしれません。各自仕事を持ったままという厳しい条件の下で一緒に学んだ同期は、恐らくこれまで出会った中でもっともわかり合い、助け合える友人となると思います。通信制でありながらそのような友人を得られたことも大変貴重な経験となりました。この大学院で出会ったすべての人、すべての機会に感謝したいと思います。本当にありがとうございました。

【引用文献】
 金谷武洋(2002) 『日本語に主語はいらない』 東京:講談社


「実のところ」   文化情報専攻  牧田 忍

 奮戦らしいことはあまりしていないのです。僕が「奮戦しました」などと言ったら姉たちからは大爆笑され、合戦などで本当に奮戦死した落ち武者に化けてでられそうな気がします。甥っ子は、宿題は泣きながらやるのに大好きなゲームに関しては一日中、テレビの前でピコピコとやっています。その叔父さんにあたる僕は好きなことをやるために大学院に入学し、四六時中、パソコンに向かってカチャカチャとキーボードを叩いていたというわけです。もちろん、学問とテレビゲームを一緒くたに論じるつもりはありません。僕が言いたいのは〈好きなこと〉を〈楽しく〉やることの効能です。
 社会人学生であるかぎり、仕事と学業の両立や家族・人間関係、経済問題などの試練が無いわけではないのです。けれども「夢中」とはよく言ったもので、好きなことに取り組んでいると別の世界にいるような元気がみなぎり些細な困難は気になりません。多少の不愉快や妨害があったとしても、そこのけそこのけお馬が通る、といった感覚で不安要素を蹴散らしながら邁進することができました。
 僕は風体こそモッサリとしていますが心身ともにタフな人間とは程遠く、興味や関心の無いことには人一倍面倒くさがり屋で、人づきあいも苦手です。しかし、この大学院では多くの方々とふれ合うことで刺激や影響をうけ、様々なことに夢中になれました。いくら自分が好きなことをやりたいと言っても、楽しく取り組める環境が整っていなかったら瑣末な悩みに足元をすくわれて夢中になるのは大変です。けれどもずばり、この研究科では好きなことを実にリラックスして取り組むことができる土壌が整っていました。日常社会には〈七人の敵〉がいたとしても、学内には〈敵〉など足元にも及ばない心強いお味方たちが僕を支えてくれました。修士論文のご指導を頂いた近藤健史先生、スクーリング等でお世話になり修士論文の副査をつとめていただいた竹野先生をはじめ教職員の方々、学友の皆様には深く感謝しています。
 昨今、幕末ブームでイケメン歌手が演じる坂本龍馬に姉たちはテレビの前にクギ付けです。龍馬は西郷隆盛を評して〈小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く〉釣り鐘のような人物と語ったと言われています。本研究科も西郷どんに似ているところがあると思います。もちろん、これは〈はかりしれない器量を備えている〉という意味のたとえ話で、所沢キャンパスに西郷像が建っているわけではありません。貸与されたパソコンは放っておいたら単なるインテリアですが、大きな可能性を秘めた道具でもあります。勉強の環境は各自さまざまであると思いますが、響かせもしないで鳴らないと嘆くのではなく、どうせやるなら大きく響かせたほうが楽しい思い出となるものと思われます。とは言え、くれぐれも実際のパソコンや人、モノ、ネコなどをぶっ叩かないでください。
 文化情報専攻で学んだことは物事を多角的に深くみるということに尽きると思います。一見、何気ない物事でも色々な見方をしていると、今まで見えていなかったものが見えてきたりして楽しいのです。霊能力の話ではなく物事の捉え方の話をしているわけですが、その意味で言えば、自分が辛いとか大変であると感じていることが見方を変えればすごく幸せなことである場合もありえるということを知りました。このことこそが僕にとっての〈奮戦〉の戦利品であり、皆様にお分けしたいと思います。


「寄席にはじまり寄席で締めくくった2年間」    人間科学専攻  栗崎 由貴子

 生きている目的を問われれば「落語を聴くため」と即答するほど落語好きの私。そんな私の大学院進学の楽しみは「学割で寄席に入れる!」だった。
 入学式当日。式典終了後、私は久々の学生証を握りしめて、スーツ姿のまま新宿末広亭へ行った。念願の学割で入場。そこで大爆笑して大満喫、「学割ブラボー!」と歓喜・・・するはずだった。
 しかし、実のところ、その日の演目のほとんどを覚えていない。なぜなら、はじまった大学院生活は初日から甘くはなかったからだ。ガイダンスで配布されたシラバスにはワケのわからない専門用語ばかり載っているし、指定教科書は何冊もあるし、佐々木健先生から「研究テーマのために読んでください」と言われた本は著者が誰かすらも知らないものだったし・・・・。客席の座布団の上で体育座りをしながら、すでに私は「とんでもなく無謀なことを始めてしまったのではないだろうか・・・」という不安でいっぱいになっていた。2階席で落語をBGMにわが身の行く末を案じているうちに、いつの間にか寄席は終演していた。初日からそんなあり様だった。
 この2年間は、入学初日に案じた以上に想像を絶する闘いの日々だった。しかも、闘いの最中に、あわよくば落語、自分へのご褒美と言っては落語、と好きなことをさらさら我慢する気はないものだから、時間のないこと至極である。
 そして、無事むかえた修了式の翌日、私は再び新宿末広亭に向かった。一般料金で入場した時、「ああ、本当に修士課程が終わったんだな」と実感した。2年前と同じ2階席に腰かけると、様々な出来事が走馬灯のようによみがえってきた。
 仕事でくたびれきった心身にムチ打ちながら、レポートや修論を書いては絨毯の上で仮眠をとり、また仕事に出かけるという毎日。追いつめられた夢ばかりみて、ろくに眠れなかった夜。何度も頭をよぎった休学や退学の二文字。佐々木先生とさしで(!?)一献かたむけた時、最後まで先生の酒量ペースに付き合うことができた己のたくましさにほくそ笑んだ日のこと。オープン大学院in金沢で、皆さんとゆっくり語り合った素敵な時間。同期ゼミ生全員で迎えることができた修了式の晴々しい喜び・・・・いろいろいろいろ。先生方や先輩に励まされ、友の頑張りに勇気づけられ、周囲の人たちに助けられながら、2年間で私が学んだことははかりしれない。
 私にはもう学割はないけれど、今は2年間で得た力がある。たくさんの思い出を糧にして、社会に「帰ろう」と思う。
 2年間支えてくださった皆様、本当にありがとうございました。


「心の赴くがまま・・・」  人間科学専攻  土屋 守克

 心の赴くがまま,と表現するのが適切かわかりませんが,それほど具体的な目標も無いまま入学した私。
修論の奮戦記ということになっていますが,奮戦というよりも・・・むしろ心地よかったというのが率直な気持ち。

 すべては自分が無知ゆえの問題ですが,入学時の頭の中と言えば,まるでパズルを無理やりはめ込んで完成させようとしていたかのよう。
 それが2年をかけて,頭の中を少しずつ整理してパズルを完成させるような修論執筆の過程は,私にとって何にも代え難い時間でした。


 ふとどこかの人の言葉に,"connecting dots"というものがあったのを思い出します。

 点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく,そう信じることで己の心の赴くまま生きていくことができるという意味のようです。
 信じるだけではなんとも不安はありますが,心の赴くままに選んだ今回の2年間という「点」が,はたして今後どのような「点」と繋がって,どのような「線」を形づくるのかが楽しみです。
 意外にどうしようもない「線」だったりして・・・。

 眞邉先生,ゼミ生の皆さま方,2年間本当にありがとうございました。
 そして,今後ともよろしくお願いします。

 


「二度目の大学院」    人間科学専攻  村井 佳比子

 私にとって日本大学大学院は2回目の修士課程になります。一度目は臨床心理士の資格取得のために修了しました。とても勤勉とはいえない私が再度大学院に入学しようという大それた考えを抱いたのは、日々変化していく臨床の問題にどう取り組めばいいのかがわからなくなってきていたことと、若い研究者たちが新しい理論を学び、思いもつかない方法を生み出して道を切り開いていくのを目の当たりにしたからでした。

 大学院を選ぶにあたっては、私なりの2つの条件を持っておりました。ひとつめは行動分析学の基礎的な研究を指導していただけること、そしてもうひとつは社会人の指導に慣れておられることでした。この条件に合致していたのが本学でした。受験するかどうかはギリギリまで悩みました。思い切って指導教授である眞邉先生にコンタクトを取り、ご相談させていただいたところ、「指導しますよ」と気持ちよく受けてくださったおかげで迷いが吹っ切れました。その言葉に力を得て、それこそ清水の舞台から飛び降りる思いで受験しました。

 晴れて入学したものの、それからの2年間は本当に怒涛のような毎日でした。これまで常識だと思い込んでいた考えが覆り、いかに自分が大雑把だったかがわかりました。修士論文のための詳細な実験計画を立てるまでに1年を費やしました。その間、ゼミでピントのズレた発表を何度も何度も繰り返し、何度も何度も眞邉先生にご指導いただきました。ゼミ生や他大学の院生にも協力してもらって、2年目に入るころにはなんとか使える実験計画になっていきました。6月からは予備実験に取り掛かり、本実験に移ったのが9月。データを取り終えて結果をまとめたものの、なぜそんな結果になったのかがわからず、頭を抱えたのが11月。修了生が駆けつけて助けてくださったおかげで、ようやく自分で説明できるようになったときには12月も半ばを過ぎていました。

 論文なんてとても完成しそうにないと、途方に暮れてしまったことが一度、二度、いえ、もう数えきれないほどありました。しかしながらその都度、眞邉先生が粘り強くご指導くださり、ゼミ生や修了生のみなさんが励まし、協力してくださいました。時には眞邉先生の「すぐできるよ」「簡単だよ」という言葉に騙されながら、時にはゼミ生同士で「これスゴイ研究だよね!」と大口をたたきながら、苦労を笑いに変えて乗り切ることができました。

 今、無事に修了することができて嬉しい半面、身の引き締まる思いがしています。私の修士論文は、本学において素晴らしい先生やゼミ生のみなさんと出会えたおかげで完成することができました。これを無駄にすることなく、これから歩むべき方向へ生かせていけたらと願っています。
 ありがとうございました。



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