8期生の修士論文奮戦記

特に記載がない限り、電子マガジン31号(2008年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 トンネルを抜けると、またトンネルだった! 青山 周
国際情報 修士論文と書いて学士論文と読む 赤尾 美也子
国際情報 新たなスタートラインに立って 金 珍華
国際情報 書いては消し、書いては消し… 高村 陽一
国際情報 サイバーゼミが支えに 森本 真紀子
国際情報 修士論文は自分との戦い 安田 與子
国際情報 最後の誕生日プレゼント 柳澤 泉
国際情報 大学院の2年間を振り返って 吉澤 智也
文化情報 論文の壁 金井 治
文化情報 スポンジのようによく吸収し、竹の子のようによく伸びた 斉藤 千絵
文化情報 ゼミは私のエネルギー源 梨 光子
人間科学 2年間を振り返って・・・・。 池谷 博美
人間科学 不思議な偶然の重なりを大切にして・・・ 臼井 浩一
人間科学 山あり、谷あり、そして友得たり! 内川 久美子
人間科学 還暦なのに学生? 酒井 桂子
人間科学 はじめての研究生活 野田 幸子


「トンネルを抜けると、またトンネルだった!」   国際情報専攻  青山 周

 学術論文の書き方は、文系・理系とでは異なり、また研究テーマによっても千差万別である。文学と経済学ではかなり趣も異なる。もちろん定式化された論文の書き方があるわけではないけれど、自分なりにこれがモデルだろうと思う理念型をあげるならば、次のようなものになる。

序論  取り上げたテーマの重要性、先行研究の整理、仮説を説明。
第1章 概念整理(論文に出てくる「登場人物」や言葉の定義など)
第2章 各論。仮説の立証を試みる。
・・・・・・
結論  仮説の検証結果、理論的整理、残された課題を説明。
 

 最初に意見を述べ、次に自分の意見を裏付ける「事実」を列挙し、最後に再び事実に基づいて検証された意見を述べる。
 自分が理念型通りに論文を書いたかとなると冷や汗ものである。仮説と検証、そして理論化というきれいな流れにはなっていなかったと、早速、反省している。ということで、修士論文審査とほとんど同時に、「中国環境ビジネス論」の構築に向け、再スタートしなければ、との思いに駆られている。
 かつてマックス・ウェーバーは『職業としての学問』において、永遠に評価される芸術品と違って「進歩」が運命づけられている学問の仕事は、いずれ時代遅れになると述べている。この言葉は、筆者にとって、常に励ましであるとともに、なぐさめであった。
 キヤノンの幹部曰く、キヤノンのデジタル・カメラの製品寿命は数年であるが、実際の商業価値が保持されるのは一つの製品でせいぜい1年という。技術者が精魂こめて開発した製品も、精緻に検証された学術研究も、創造的破壊の前にはなす術がない。論語には「死して後已む」という言葉もあるが、勉強、学問の道は限りないもので、たとえ死んでしまっても、まだまだ続くのである。
 川端康成の『雪国』ではトンネルを抜けるとそこは雪国だったが、学問の世界では「トンネルを抜けると、またトンネルだった!」なのだろう。



「修士論文と書いて学士論文と読む」   国際情報専攻  赤尾 美也子

 1月14日…忘れもしない成人の日。14日を1秒でも過ぎたら、卒業ができない。午後11時、東京駅に降り立ち一目散に中央郵便局を目指した。「明日中に着きますよね?」と局員の方に問う。すると局員の男性は、少し待って欲しいと確認のためか冊子をめくった。まさか…明日中に着かないのではあるまいか。鼓動が高まる。「明日の14時に着きます」。ニヤリ。つい口元が緩む。
 この瞬間ほど「やったぞ!」と思えたことは、大学院生活の中でなかったのではないかと思う。
 私は、学部時代、大学にはほとんど行かず、旅行ばかりしていた学生だった。しかし、3回生のとき偶然パレスチナ自治区を訪れ、自分が勉強している学問とはこういった問題を解決するためにあるに違いないと感じた。帰国後、自分が衝撃を受けた占領の実態やアメリカの軍需産業、日本のメディアについて発表した。しかし最初で最後の渾身のプレゼンテーションは、論理性・説得性・信憑性に欠けるという惨憺たる評価だった。そのときの悔しさを糧に勉強を始め、せっかく勉強するならばと大学院に進学した。
 大学院生活1年目は、仕事との両立に苦慮し、2年目は育児との両立に苦心した。最後の追込みでは、8ヶ月の娘を母に預け、母乳がでなくなってもかまわないと一日中パソコンと向かい合った。
 そんな私が、修士論文を書き終え感じたことは、自分にとってこの論文は、学部時代に果たせなかった学士論文だということだ。仕事や育児に追われながらも執筆したリポートや論文。それらを通じ諸先生方からご指導を受け、学んだことは大変多かった。自分にとっては、まさに失われた学部時代を取り戻したに等しい感覚だ。リポートを執筆するたび学びへの好奇心は常にかきたてられた。私は、今後も勉強を続け、いつか真の修士論文を仕上げたいと思う。あの郵便局の瞬間は、新たな学びへのスタートだったのだ。
 私は、いつもギリギリにならないとエンジンがかけられず多くの人に迷惑をかけ、そして助けられた。修士論文は、できれば入学時から構想をそれなりに立てておかれると良いかと思う。最後に、こんな私をいつも温かく見守ってくださった近藤(大博)先生はじめ先生方には感謝しきれない。ご指導本当にありがとうございました。


「新たなスタートラインに立って」   国際情報専攻  金 珍華

 修士論文を郵送するため郵便局に向かう途中、ふと入学式のことを思い出した。一昨年4月入学式を終え、その日の夜自分のブログに、桜が満開の武道館を背景に撮った自分の写真を載せながら、確か「新たなスタートライン」とタイトルをつけたのを覚えている。そして、新たなことにチャレンジできるチャンスを与えられたという、また、学生に戻れたというその当時の嬉しさをいまだに覚えている。
 しかし、そこからの2年間は、入学式で撮った写真の中の微笑みとは程遠いものだった。今振り返ると、この2年間は“果たして”という思い悩みの連続だったのではないかと思う。数年間の社会生活を経て、アウトプットばかりではなく何か自分にインプットできることをやりたい、日本と韓国の社会についてもっと勉強がしたいという強い希望から大学院という道を選んだものの、仕事と学業の両立はそう容易ではなかった。
 本格的にリポートの作成や修士論文の準備に取り組んでいくうち、“果たして自分の選択が最善だっただろうか”、“私には仕事と勉強の両立なんてやはりムリ?”、“外国人である私が果たして最後まで投げずにやり遂げるだろうか”、“今の自分の取り組み方は果たして正しいだろうか”などなど、この“果たして”という疑問と不安は常にあったかもしれない。それに一年生後期、仕事が急に忙しくなり、“やはり私に勉強なんてとても無理”と半分あきらめていた頃は、“今の努力や苦労で果たして何を得られるだろう”と懐疑に陥ったこともある。その頃、近藤先生からいただいたメールで“最後まで頑張って”と励まされたとき、いつも“果たして” という不安な気持ちに甘えている自分がとても恥ずかしく感じられたことを覚えている。“ 100%自分の意思で決めたことだから、やっぱり自分で最後までやり遂げないと! ”、“ まだまだ間に合う!”と気持ちを切り替えることは出来たものの、そこからがまた大変だった。“修士論文、何を書けば良いだろう” 、“どうやって書こう?” という新たな悩みの種が・・・。入学当時から、韓国と日本の放送コンテンツについて研究したいとは考えていたものの、修士論文のテーマをはっきり決めないまま、あれもこれもと欲張ってしまったせいで、研究テーマの範囲は広がる一方だった。結局、論文の作成を始めるまで、かなり時間がかかってしまった。今考えると、本格的に修士論文の作成に取り組むまでの、悩んだり、迷ったりしていた時間が、あまりにももったいなく思われる。“何について書こう”ではなく、“何を書こう” と研究テーマを思い切って早めに決めるべきだった。
 そうやって何とか修士論文を書き上げることができた今振り返ると、この2年間持ち続けていた“果たして”という不安や疑問も、いつの間にか消えているのが分かった。リポートや論文の作成のため、教材を読んだり、他の書籍や論文、雑誌などを調べているうち、自分が知りたかった部分が少しずつ見えてきて、またそれによってさらに仕事や社会全般に興味を持てるようになった自分がいた。“知る”ことに興味を持ち、楽しめるようになったことこそが、この2年間の最も大きな成果ではないかと思う。
 2年間の大学院生活を終えようとする今、再び新たなスタートラインに立っているような気がする。これから見えてくるもの、これから経験するものは、確かに2年前までのそれとは違うことを信じている。より“知る”ことを楽しめるだろう。この満足感と期待感は、これから論文作成を準備している一年目の方々や大学院入学を考えている方々にぜひ味わってほしいものである。


「書いては消し、書いては消し…」   国際情報専攻  高村 陽一

 修士論文提出締切日の前日…すなわち、宅配便で大学院事務課に送付するべきギリギリの当日に、修士論文を完成させることが出来た。家を出ねばならない10分前のことであった。焦りと不安を感じながら時計と睨めっこしていただけに、終えた時の安堵感、そして込み上げてきた反省点の数々は、これからもずっと忘れることはないだろう。
 入学後、仕事上の環境変化、資格や免許取得、それまで持っていた資格の更新勉強などの必要に駆られ、1つが終わればまた1つと、レポートや修士論文準備など全てが後手に回ってしまった。まさに自転車操業状態であった。特に修士論文のテーマ選定やその構想においては、入学時に抱いていた自身の考えや内容に固執してしまい、後手に回ってしまったことと併せ、最終的にテーマを決定したのは2年目の冬になっていた。ここから構成や資料収集をやり直し、提出に至るまで悪戦苦闘の日々であった。端的に言ってしまえば、この状況を作り出した自分自身が悪いのであるが、提出にこぎ着けるまでに参考になったことを、簡単に書かせて頂きたいと思う。
 まず、諸先輩方が書かれている修士論文奮闘記を隅から隅まで読むことであった。これによって、自身が何をすべきなのか掴めてくる。また修士論文を手がけている途中に、手を焼くことや不明な点が生じても、大抵のヒントを貰うことが出来た。その上で、図書館のレファレンスや郵送による文献複写サービスの活用、インターネットによる情報検索や文献購入などによって、自身のテーマに関連する資料を幅広く集める。それが出来たら、どんどん書くことである。書いては消し、書いては消し…この繰り返しでも気にせず、書き進めることである。そして、書き上げることが出来たら、頭をリセットするために、時間を空けて校正に取り掛かる。その際には、声を出して読み直すことが有用であった。落ち着くことにより、誤字や脱字の見直し、そして新たな発見に繋がり易くなるからである。これを繰り返すことによって、納得出来るものに仕上がっていくと思う。無事提出が出来たら、あとはドキドキしながら面接試問を待つだけです…(汗)。
 最後に、ご迷惑をおかけした近藤大博先生やゼミの方々、そして、入学への後押しをしてくれ、その後も応援してくれた上司など、関係する方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。


「サイバーゼミが支えに」   国際情報専攻  森本 真紀子

 思えば2年前、この大学院を選んだ最大の理由が、サイバーゼミの存在でした。そしてそれは、論文に取り組む上でも3つの点で大きな力となりました。

1.サイバーゼミの発表で考えを整理
 定期的に発表の機会が訪れるサイバーゼミ。それまで漫然と調べていたことを、パワーポイントで発表します。パワーポイントのよい点は、考えていることを箇条書きで整理できることです。しかし、パワーポイントという形になると、まとまった気になってしまうのも欠点です。論文の追い込みでは、文章できちんと表現することが大変な作業であることを痛感しました。論文の構成によって異なりますが、複数のリポートを書いて組み立てるつもりで、気負いすぎずに少しずつ書きためることをお勧めします。

2.同期や先輩の意見・アドバイスを聞く
 同期には、大学の講師で研究がすでに進んでいる方、同じ分野の仕事をしながら研究に取り組む方など様々、テーマも十人十色です。そうした方々に向けた発表から学ぶことが多くありました。自分の研究のどこに関心があるのか。何が足りないのか、疑問があるのか。うまく説明できているのか。役にたったのは、具体的な質問やアドバイスだけではありません。一時期、資料の分析に埋没し、研究をした気に陥っていました。「この研究は最終的にどこに着地するのか」という冷静な質問は、研究のテーマを見つめなおす機会になりました。

3.同期や先輩方の存在を支えに
 ゼミ科目のリポートが進まない、研究が進まない、大学院とは関係ないけれども仕事も進まない。ゼミに出て先生や同期に合わせる顔がない…そんな「一人で蛸壺」状態がたびたびありました。しかし、とにかくゼミに出ることで、大学院に通っている自覚を思い起こし、喝を入れることができました。自分の中途半端な研究でも、真剣に聞き、よくしようとアドバイスをしてくれる人がいる、その人たちの顔がサイバーゼミでは見えるということが大きな支えでした。

 通信制だと孤立するのではないか、最後まで続けられるか。2年前に大学院を受ける際に心配していたことは、サイバーゼミによって回避できたといっても過言ではありません。これから研究に取り掛かられる方も、行き詰ったら、ゼミに参加してみてください。必ず知恵と勇気がもらえることと思います。


「修士論文は自分との戦い」   国際情報専攻  安田 與子
 

◇ご縁と出会い
 大学院のご縁は私の心に訴えてくる次なる御言葉Never too old to learn (学ぶのに年をとり過ぎたという事はない)ことと、−求めよさらば与えられん、尋ねよさらば見出さん、門を叩けさらば開かれん『新約聖書』「マタイ伝」第7−の声なき声を受容したことである。
 高度な学業を全うする自信がない私は諸先輩(石ゼミ長)の励ましと一押がご縁を決定した。動機は何であれ私は学ぶために日本大学大学院総合社会情報研究科国際情報専攻の門を叩いた。開かれた大学院には有名な近藤大博先生と研究心の高い院生が集まっていた。「さあ、やるぞ」瞬間湯沸かし器で三日坊主の私はこれまでの感覚との違いを察知した。

◇学業・仕事・家事・老い・健康のバランス
 学業に徹するためには不必要なハンディを除いて身軽いに越したことはない。若さと健康に恵まれ・経済的・時間的にゆとりを持って学ぶことができたらしあわせである。しかし、私の場合は学業・仕事・家事・老い・不健康というハンディが全部揃い、途中、自分勝手に限界や能力がないと決めつけ投げ出して誰かに替わって貰いたい気分になった。その度にこれは自分しかできないと潔くした。学業・仕事・家事・老い・健康のバランスに気をつけて2年間無事に完走するぞと何度も気持ちを引き締めたものである。

◇「履修科目の配分」と「タイトルと章立て」
 大学院を修了するには取得単位が定められている。そのため1年目は20単位を必ずゲットして、2年目は修論に集中できるように履修科目の配分を考えた。履修科目の選択の出来不出来は後々影響するというのが率直な意見である。入学当初は多面に及ぶ準備で見過しがちなので心すべきである。
 修士論文のタイトルは2年目の6月初旬に提出する。研究が進むと当初の章立てを若干変更せざるを得なかった。更に進むと迷い決め兼ねていたタイトルがはっきりしてきたが、提出期限ギリギリまで大いに悩み考えた。

◇パソコン操作に奮闘
 大学院ではITを駆使する。特に所属した近藤ゼミではサイバーゼミが頻繁だった。インターネット、サイバーゼミ、プレゼンテ−ション、パワーポイント、リポートの文書作成とワード・ソフト操作、大学院用テンプレートのリポート提出と指導返信操作、修士論文の仮製本までの文書作成及び大学院の事務連絡等それらはすべて情報処理技術である。よって、私は学習をスムーズに進めるため荒関仁志先生の情報処理技術を履修した。一年目はパソコン操作の習得に必死であった。なお、コンピュータは突然フリーズし故障するのでI Tに強い友達が必要であると痛感した。  

◇解らないことは現状を曝け出すここと、恥をかくことを恐れるな
 人前での発言は緊張したり不安になったりする。大切なことは諸ゼミの発表現場で恥じかくことを恐れないことと、研究の窮地から逃げないことである。解らないことは思い切って現状を曝け出すことや、研究の進捗報告は自分の研究不足で恥かしい思いをする。このことが研究方法の「骨」を掴むことになる。また、サイバーゼミ、スクーリング及び集合ゼミ等に出席して得ることが多く参考になった。ゼミの盛り上がる議論の中でパット何かが閃き、あるいは教授の講義や院生等のアドバイスからヒントが出てくることがある。さらに、その場のコミュニケーションはよき師よき院生等の以外な一面に接し信頼を深める機会となった。

◇感謝
 修士論文は始めての取り組みなので私は真剣になった。教えること教わることは双方にとって大変根気がいる。振り返れば、教え指導いただいた近藤大博先生はリポートをはじめ修士論文に至るまで人目に晒して恥ずかしくないように根気よく最後までご指導をして下さった。これは私一人のみならず国際情報専攻の全ての院生に指導されるのである。普通の体力では到底持たない、心身ともにタフで指導力の高い近藤先生へ心から頭を垂れて敬服すると共に感謝の気持ちで一杯である。
 それからヘルプデスクの八代様、事務局の高井様、サイバーゼミの山本様、石ゼミの皆様、7期生の勢川様、そのほか多くの方々に大変お世話になった。「ありがとう」(合掌)


「最後の誕生日プレゼント」   国際情報専攻  柳澤 泉
 

 そもそも大学院へ行こうと思った動機からして不純であった。中年のおばちゃんにありがちな「感性だけで突っ走る」ことを地で行っていた私は、実際そのことに少なからず引け目を感じていた。人脈と度胸だけを武器に、傍若無人に振舞ってきた我が人生を振り返り、何を血迷ったのか、ちょっとだけ理論武装の手法を身につけようと思い始めたのである。一旦そうすると決めたら、後はもう粛々と事を運ぶだけである。必要書類をさっさと揃え、アマゾンで「小論文の書き方」を買い求め、入学試験当日に備えた。
 晴れてン十年ぶりの学生証を手にしたときは、(2年間、学割で映画を見まくり、アカデミック価格でソフトを買いまくるぞ)と、幸せ気分に浸っていたのである。しかし、そんな楽しい気分も、リポート草稿提出を機に吹っ飛んだ。リポート構成を全く無視した私のリポートを目にした時の先生の驚きは、想像に難くない。おそらく今まで指導してきたどんな学生にもいないタイプだったろう。こういう学生を修士論文完成まで引っ張り上げるためにどれほど頭を悩ませたか、いつか先生にこっそり聞いてみたいものだ。経営者の資質以上には企業が繁栄しないように、己の器以上の論文など書けない。そんな当たり前のことすら忘れて欲張りな私は、あれも書きたい・これも書こうと両頬にいっぱいの食べ物を含んだまま、いつまで経っても飲み込めないサルのような状態で時間ばかりをやり過ごしていた。
 修士2年目に入り、夏が終わる頃にはさすがにそろそろ手をつけないとまずいのではないかと思うようになってきた。しかし、ちょうど時を同じくして、闘病中の実父の容体に変化が生じ始めた。これ以上の治療も望めずターミナルケアに入った段階で、娘の私が引き取ることになったのである。「要介護5」の認定は想像以上の介護生活を意味していた。生活全般にわたる補助や病院通いは、私の使える時間のほとんど全てを奪っていったのである。修士論文完成などほぼ諦めかけた頃、呆気なく実父は逝った。11月28日、私の誕生日であるその日に。考えれば考えるほど、これが私への最後の誕生日プレゼントだったのかなと思う。これ以上娘に迷惑をかけないために、まるで自分で命の期限の線引きを決めたかのように。そう思ったら、何が何でも書き上げなくてはならないという思いがこみあげてきた。指導教授である階戸先生の「できる、絶対大丈夫だから」という言葉に背中を押されて、怒涛の年末年始を経て完成を見たときには、嬉しさよりも約束を果たせた安堵感で満たされていた。
 一年の計は元旦にあり。お正月はお餅食べてゴロゴロすると決め込んでいたのに、やっぱりできなかった。今年もまた忙しい一年になるだろう。リポートや修士論文のために数多くの企業や格付け会社のWebサイトに登録して、送られてくるニュースやメルマガを読んでいた。課題や修士論文全てを提出し終わった今でも、なぜか登録解除する気になれない。必死だった日々をもう少し記憶に留めておくことにしよう。
 大学院で得たことは、現在、行政や国の機関への事業報告書作成に大いに役立っている。社会に向けて何がしかの還元ができれば、私にとって望外の喜びである。


「大学院の2年間を振り返って」   国際情報専攻  吉澤 智也
 

 はじめに、指導教授である近藤大博先生をはじめ、近藤ゼミの皆さん、大学院事務課の方々へ感謝の言葉を述べたいと思う。弱輩者の私が修士論文を無事に書き上げることができたのは、大学院に入学してからの2年間、常に支えてくださった多くの方々のおかげとしか思えない。何よりもはじめに、謝意を述べたい。
 通信制の社会人大学院ということもあり、入学者の多くの方々が社会経験も知識も豊富な立派な先輩方であり、大学を卒業したばかりの私にとっては学術的な面ばかりでなく、貴重な社会経験を与えてくれた場であった様に感じる。特に、集合ゼミやスクーリング、サイバーゼミ、ゼミ研修等の参加は非常に有意義なものであったと思う。この2年間は、長いようで短く、辛くもあり楽しかった。
 1年目はリポートに追われ、頭の中は単位を無事に修得することしかなかった。結局、修士論文に取りかかったのは2年の8月頃になってしまった。今思えば、もっと早くから取り組むべきであった・・・。修論テーマ、論文構成、情報収集を考えれば、2年の前期には全て準備ができ、後期には修論を書き始まらなくてはならない。入学当初は修論へ向けてのスケジュールが頭の中ではできていたが、実際に取りかかってみると思うようにいかない。書き出そうと思いPCに向かっても中々進まない。頭では早くやらねばと思いつつも、計画通りにはいかないものである。仕事も同じであるが、勉学も計画的に進めなければならないと改めて実感させられた。
 「一度しかない人生、二つと無い命」、悔いのない大学院生活を送ったつもりではあるが、もう少し勉学に励むべきであったかという思いもする。一方、この2年間でめぐり合った多くの方々との出会いは、一生の宝である。最後にもう一度、弱輩者の私を支えて下さった近藤先生をはじめ、多くの方々に感謝を表したい。そして、今後、修論に取りかかる方々のご健闘をお祈りしたい。


「論文の壁」   文化情報専攻  金井 治
 

 
 私の場合、10年ほど前から「人間死んだらどうなるか」ということに関心を抱いて臨死体験、神智学、精神世界の書物などに目を通しながら自分なりに研究してきた。それゆえ、修士論文の基本的テーマも「死」に関する内容にすると決めていた。当初は、日大通信教育部の卒業論文で取り上げた「ヘミングウェイ作品にみる臨死体験」を更に掘り下げて、文学で「死」がどのように語られ、描写されているかについて取り組むつもりであった。ところが、1年目に『国際融合文化学会』誌に、同趣旨の小論文を発表した後、なんとなくヘミングウェイ作品に取り組む意欲が薄れてしまった。
 それなのに、次の具体的な題材はなかなか思いつかない。年が明け、2月の松岡ゼミで修士論文計画書を提出することになっていたが、結局まとまらなかった。多少、焦りにも似た気持ちが募るなかで、ふと脳裏に浮かんだのが1年目の松岡教授のリポート科目「日米比較文化・比較文学特講」のテキストになった村上春樹という作家だった。彼は、現代日本の文学界を代表する作家であり、その作品は世界40か国近くで翻訳されている国境を越えた存在でもある。しかも、彼の小説には人間の「死」が頻出し、「死の文学」と呼ばれていることも、自分が関心を抱いてきた「死とは何か」のテーマに合致していると思った。
 2月末のサイバーゼミで、改めて計画書を提示したところ、指導教授である松岡先生も村上春樹を研究対象にしているので、すぐにゴー・サインを出してくれた。さっそく村上春樹作品の収集を始めたが、幸いなことに、私の住む町(東京都江東区)の周囲にはBook offという古本屋が4軒もあり、どの本も半額以下で売られていた。人気作家である村上春樹の小説類は、大半が店頭に置かれていて容易に入手できる。あるときは、買った本の中に1万円札が挟んであるというラッキーなこともあった。参考資料は、インターネットを開くと一目瞭然で開示されており、評論集などは近所の本屋に注文して取り寄せてもらい、執筆のお膳立てだけは、どうやら出来た気がした。
 すると、松岡先生からは、4月からの面談ゼミとサイバーゼミにおいて、必ず修士論文の執筆内容を発表するように厳命が下された。まだ、ゴールまでは先があるとのんびり構えていたのに、早くもムチが入ったのである。
 率直にいって、本格的な論文に取り組むのは初めての経験である。何をどのように書けばいいのか、さっぱり見当がつかない。そこで、やむをえず、論文の書き方に関する本を何冊か図書館で借りたり、購入したりした。それらの本の中で、自分にとって比較的理解しやすかったのは、泉忠司著『文化系必修論文作成術』(夏目書房、2003年)である。しかし、読んだからといってすぐに書けるものではない。まず、論点が定まらないし、タイトルも決まらず、構成もはっきりしない。まさに、五里霧中の状態である。
 それでも、4月の面談ゼミでは、なんとか「序論」を書いてとりあえず発表し、5月には、「第1章」、6月には「第2章」、7月には「第3章」と、あまり内容を吟味せずにとにかく分量だけを稼ぐ感じで書き上げてゼミで発表した。その都度、松岡先生をはじめ、出席者から不明確な点などを指摘され、修正を加える。
 そして、3章構成で50ページほどになったとき、松岡先生から論文全体に統一性が欠けているとの重大な指摘を受ける。特に第1章の内容が問題になるが、自分では即座に対応することができない。今更、全てを捨てて書き直しする気力もわかず、しばらく休筆状態となる。仕方がないので、8月・9月のゼミではリポート内容について発表してお茶を濁した。
 しかし、いつまでも休筆しているわけにもいかない状況がでてきた。松岡先生から10月中旬に修士論文の中間発表会があるので、ゼミ生は全員参加するようにとの指示があった。そのため、私も重い腰を上げて再び修士論文に立ち向かうことにした。ようやくにして論文全体の統一性を図り、なんとか結論をまとめたのは12月末であった。その間、松岡先生からは、何回も貴重な指摘と添削をしてもらった。論文のタイトルは10回ぐらい変わり、50ページ以上あった内容も余分な部分をそぎ落として、最終的には41ページにまとめた。まさに、論文とはいかに絞り込むかであることを実感する結果になった。
 修士論文を書き上げて思うことは、論文の壁は厚く、高かったということである。その壁に挑み、なんとか登攀できて、只今の気分は爽快そのものである。最後に、指導教授の松岡先生はもちろんのこと、関係の諸先生方に心から謝意を表して拙稿を締めくくりたい。


「スポンジのようによく吸収し、竹の子のようによく伸びた」   文化情報専攻  斉藤 千絵
 

はじめに
 松岡ゼミ初の面談に出席したときのことは、今でもよく覚えている。これまでの人生をかけたような論文テーマを引っさげて上田ゼミから編入してきた二年生と、人生経験豊かな貫禄に満ちたもう一人の一年生に、呆気にとられるばかりであった。松岡先生を加えた三方による議論に、圧倒されながら、ただ聞いていた。さらに履修要項を見て、修了できないかもしれないと判断し、大学院生になったことはもう誰にも言わないでおこうと決心した記憶がある。一年次に五科目選択したのも、一、二科目落としても良いように、という理由からであった。入学当時は、自分は遅れているという意識があり、全く自信がなかったが、できるところまで頑張ってみようと決心した。まずは、タイピング・ソフトの練習から始めた。夏のスクーリングまでは、PCの扱い、テキストの講読、月に一度のゼミ発表だけで精一杯であった。しかし、次第に自分なりに大学院生生活に慣れていき、沢山のことを学ぶことができるようになっていった。

論文執筆の基盤
 入学して間もなく、ニューヨークとロサンジェルスの友人が来日し、その食事会に松岡先生も参加してくださった。そしてこの会食は、論文のテーマの決定に大きく影響し、結局、入学当初の予定を大幅に変更するきっかけになった。はじめは漠然と、アメリカでの日本文化・日本語教育に結びつく勉強をと考えていたのだが、最終的には、ラップ・ミュージックの起源を60年代公民権運動の弁論に探るというものになった。アフリカ系アメリカンの音楽が自分にとっていかに重要なものであるかを自覚した結果であった。一年次は、論文執筆の基盤づくり、論文テーマ決定の時期に相当し、選択した五科目は、どれも論文執筆に役立つ内容であったと思う。比較文化・文学の研究への意欲と興味をそそるものばかりであり、限られた時間の中で効率良く、楽しく学ぶことができた。特に五科目選択したため、常にレポートを書くことを意識して課題文献を読むという習慣を早々と身につけることができたことは有難かった。しかし、実際には、なかなか書く時間を作ることができず、結局締切りギリギリまで書き続けるはめになった。それが最大の反省点である。

論文執筆
 一年次の末、松岡先生と相談し、テーマを決定した。それからは、すぐに先行研究、参考文献の収集に取り掛かった。時間を有効に使うため、借りるよりは購入して家に置いておき、いつでも学べるように努めた。主に、松岡先生から教えていただいたり、アマゾンやアメリカの本屋で見つけたりして購入した。資料を読んだり聞いたりするリサーチは大変楽しい作業であった。先輩の論文のように、多くの知識を凝縮した論文となるように努力した。中には全く必要なかったもの、封を開けてもいないCDもある。使えそうな箇所に付箋を貼る作業を地道に続けた。しかし、学べば学ぶほど知らないことが多いことに気づき、時間をかければかけるほど論文の出来栄えは良くなる気がして、いつまで経ってもリサーチに満足できないのである。リサーチばかりで、なかなか執筆が進まないので、松岡先生に半年延期したいと申し出たこともあった。しかし、斉藤さんは大丈夫!と明るく言われてしまい、ああ、松岡先生が大丈夫と言うのなら大丈夫なのかな、と思えてしまうのだ。先生方、仲間、友人がくれた沢山の印象深い言葉の中に、松岡先生の「始まりの終わり」という言葉がある。長い人生の研究活動の中で、論文執筆を始めて、それが一つ終わるだけで、研究は続くということを話してくださった。人生、一生勉強なのだ。それを聞いて、その時点での自分が持っている最高の力を論文の中に出し切ればよい、ということがわかったのだ。結果、自分を向上させてくれる、良い論文に仕上がったと思う。

最後に
 自分の短所にうんざりし、長所に気付いた二年間であった。綱渡りのようなギリギリの毎日でありながら、勉強、仕事、そして家庭の全てをどうにかこなすことができた。発表が苦手であった私が、中間発表を無事終えることができたのも自分にとっては奇跡的な出来事であったが、松岡先生や他の研究科の先生方、そして、ゼミ仲間の思いやりと援助が道を開いてくれたということなのだろう。我ながらこの二年間、スポンジのようによく吸収し、竹の子のようによく伸びたと思う。やっと大学院生らしくなった、自信を持てるようになったというところで修了の時期である。全ては、優秀なゼミ・メイトに手を引かれながら学んだこと、松岡先生を始めとする先生方のご指導の賜物である。どんなに感謝の言葉を探してみても、納得いく表現は見当たらない。


「ゼミは私のエネルギー源」   文化情報専攻  梨 光子
 

 修士論文執筆という大きな目標を掲げた大学院生活は、リポート提出、参考文献への取り組みなど猛勉強の2年間でした。一日一日、今日は何が出来るだろうか、そして、今日出来る最大限のことをやっていこう、その先にゴールが見えてくるに違いない、そんな毎日だったような気がします。2年間頑張り続ける事ができたのは、ゼミに参加し、先生や目的を同じくする皆さんとお会いし、励ましていただいたお蔭です。
 論文は、松岡ゼミの修士論文執筆予定に従い、作家、作品を決定し、題目、論旨を検討し、大まかなアウトラインにそって書き進めました。毎月の面談ゼミ、サイバー・ゼミを有効に使うように心がけ、ゼミでは少しでも発表して先生のコメントをいただこうと思いました。結果、ゼミを節目として文章作成作業が進み、原稿が少しずつ増えていきました。とにかく、書かなければ何も始まらないと考え、論文草稿を添付ファイルで先生に提出し添削していただき、手直ししながら少しずつ積み重ねていきました。とは言え、文章化する事の難しさを痛感し、さらに、語彙不足は致命的で、何度も行き詰まり、情けない思いに駆られたものです。9月頃には、予定からずれ込み始めました。夏バテも重なり苦しい時期でした。
 10月に行われた中間発表は、それまで書き上げてきた論文を整理し、論文全体を見るいい機会になりました。後期は、年末年始も重なり、研究活動にあてる時間はかなり短くなります。さらに、1月の副本提出、面接試問と、待ったなしの日程が追い討ちをかけてきます。そこで、クリスマスまでには修士論文を最終稿までもっていこうと決意を新たにしました。ご苦労ばかりおかけしている松岡先生にも、年末年始はリポートや修士論文から離れて過ごしていただきたいという気持ちもありました。
 先生にご指導いただき、12月末には最終稿の許可をいただくまでに至りました。論文の方は、なんとか年末には先が見え、ひと安心というところまで漕ぎ着けたのですが、気がつけば我が家の窓ガラスの先の見通しが悪くなって、透明ガラスがいつの間にか曇りガラス状態。年末には手抜きしていた家事に専念し、新年は論文のことを忘れて家族と楽しく過ごす事が出来ました。
 修士論文執筆という目標に向って突き進んだ2年間が今終わろうとしています。これまでは、就寝時間も1時が1時半になり、2時になり、そして時には3時になり、明日こそ早く寝なければと反省しつつ、又夜更かしという繰り返しの日々でした。ひと昔前に流行した、山口洋子作詞の「うそ」という歌謡曲の歌詞に「あなた残した悪い癖、夜中に電話かける癖、鍵をかけずに眠る癖・・・」というのがありましたが、大学院生活が私に残した悪い癖、それは、夜更かしする癖、夜中にメールする癖・・・。
 これからは、そろそろ歳のことも考えてこの2年間で身についた悪い習慣を改め、無理の無い勉強を続けていこうと考えています。今は、修士論文を書き終えた安堵感、そして、充実した2年間を振り返り満足感に浸っております。これも、ご指導くださった先生方、励ましてくださったゼミの皆様、そして協力してくれた家族のお蔭と、感謝の気持ちでいっぱいです。


「2年間を振り返って・・・・。」   人間科学専攻  池谷 博美
 

この2年間、何度となく自分に言ってきた言葉、

    「大丈夫、やればできる子だ!」(笑)。

研究テーマが全然しぼれなかったときも、
レポートに追われていたときも、
研究のデザインを考えていたときも、
データを収集していたときも、
そして修論を書いていたときも。
よくこの言葉をココロの中で言っていたものです。

いつも、うわぁ〜っと焦ってくるときは、
先が見えなくなるときで、あるとき気づいたのです。

    ・・・そうか、遠くを見すぎるから見えなくなるんだ。

なので、まずは「やり始める(手をつける)」ことからスタート。
ちょっとしか進まなくてOK☆ 
やり始めたことに意義があるぞ!

    ほら、やればできるじゃんっ♪

そして、今度は今週中に○○を終わらせよう!と決める。
ここでさらにやる気アップの手段として・・・、
「やればできる子作戦」に加えて、ちょっとしたご褒美を設定すること☆
例えば、買い物に行くとか、誰かとご飯を食べに行くとか。
ご褒美は楽しく過ごしたいっっ!!
・・という気持ちが大きくなるので、
よっしゃ!やるぞ〜!!と目標に向かって頑張る。
(買い物やライブ、バンド活動など・・
 こまめなご褒美ができる趣味持ちでよかった)。

もし、その目標が達成できなくても、うまくできなくて凹んでも、
なるべく早く復活する。

    こないだが出来たんだから大丈夫だ!!

自分に合わない無理な目標はたてないこと、
定期的なご褒美で自分のテンションをあげること。
そうやって頑張った時に得られる達成感。

うまく自分をコントロールしながら
なんとか、研究を終え、無事に修論を提出することができました。

    やればできるじゃんっ♪

思いおこしてみたら・・・
しっかり、これって・・・
修士論文で利用した、行動分析学の強化の原理になっている?!

ちゃんと学んだことが生かせてるっていうことかな。

うん、やればできる子だ♪



「不思議な偶然の重なりを大切にして・・・」   人間科学専攻  臼井 浩一
 

 修士論文のテーマを決めてから私がまず行ったことは,テーマに関連する分野の学会に出席し,必要な知識や情報を集め始めたことです。私の場合,専門外の学会でしたが,後々とても役立ちました。学会では通常,書籍の販売をしていますが,その時に偶然見つけた1冊の専門誌は論文を書く際のヒントとなる重要な文献となりました。学会でお会いした方や学会を通じてのネットワークから,新たな知識や助言が得られる場合もあります。私が修士論文を書けたのは、眞邉先生、石津先輩、宇野木先輩をはじめ、多くの仲間に支えられたからです。加えて、困難に出会った時に、幾つかの不思議な偶然が私を助けました。

 私は2年生の秋になるまで,大学院に通っていることを職場の上司に伝えずにいましたが,研究の実験参加者を,職場の利用者にお願いすることとしたため,大学院のことや研究のことを上司に伝える必要がありました。“今頃になって,どのような形で上司に伝えようか”と思い悩んでいる時に,同じ法人内の別の職場にいる方が,私の職場の上司に研究の許可を得たいがどうしたらいいかと偶然,私を尋ねてきたのです。彼も私の職場の利用者に実験参加者になって頂きたかったのです。しかも,記録のためビデオ撮影することまで偶然に同じでした。私は非常に驚くと同時に“これは今,どうしてもやらなければならない時期だ”と思いました。結局,彼の研究のことを上司にお願いすると同時に,自分の研究のことも伝える機会となり,結果的に,二人揃って研究の許可を得ることができました。研究に関して困っている時に,偶然,協力者や賛同者を得ることができたり,思わぬ巡り合わせで,うまくいったりする場合もあるかもしれませんから,最後まで諦めないで,研究実現に向けて,がんばりましょう。


「山あり、谷あり、そして友得たり!」   人間科学専攻  内川 久美子
 

 私の大学院生活は、山あり、谷あり、谷あり・・であった。
 入学できたことを山と考えると、入学後は自分自身の勉強不足がすぐに露呈して、予想以上の谷の連続であった。
 本来、好きなテーマで研究をするのであるから、研究自体は楽しいはずである。つまり山である。
 ところが好きな研究であっても、研究論文にまとめるとなると簡単には山とはいかなかった。
 アンケート調査にしても、考えていた以上に被験者が少なかったり、なかなか調査が前に進まない。次々に想定外のことがたくさん起こる。時間も迫ってくる。
 谷から谷へと渡り歩いていくような、どんよりした気持ちにもなった。
 しかし、今、晴れ晴れした気持ちで、この奮戦記に向かうことが出来る幸せは、まさに山に登った爽やかな気持ちと同じである。
 指導下さった眞邉先生はじめ、大学院の先生方、また、ゼミの仲間がいたから辿り着くことができた山であり、心から感謝の気持ちを伝えたい。
 人生の折り返し地点に近づいて、生涯付き合えるような友と出会えるような機会は少ないだろう。谷が長かった分、友との絆は深まった。
 感謝の山は、友という宝に出会えた山でもあった。
 人生、山あり、谷あり、そして友得たり!である。


「還暦なのに学生?」   人間科学専攻  酒井 桂子
 

 ある職場関係者に「勉強していますか?」と言われたのが、入学動機である。一念発起して、家族に話したところ、「還暦だというのに今から学生? 隣の奥さんも、○○さんも悠々自適で海外旅行やら、趣味を楽しんでいるじゃないか。何考えてー」と夫と長男夫婦が声をそろえて呆れました。
 「還暦なのに…」の意味が分かってきたのは、研究を始めた頃からです。新しい分野のことがなかなか馴染まないのです。文献検索し、関係ありそうなものは、文献リストを作成、アルファベット順に整理し保存しました。後日、良い論文を見つけたぞ。とカードを作ってファイルしようとすると、すでに出来ているではありませんか。このショックの大きいこと。もっと問題なのは、パソコン操作でした。どこを触ったのか分からないのに、ポストのマークが無くなった!メールができない。職場をこっそり抜け出して自宅からヘルプデスクに連絡、ようやくメールが復旧ということがありました。サイバーゼミに参加したのはいいのですが、音声が届かない。「酒井さん、Ctrl押しながらですよ。Shiftではないですよ」と眞邉先生の声は聞こえるのですが、こちらの声は届かず。練習してから再チャレンジでした。次回困らない様に操作手順をメモにしたのですが、困った時に出てこない。これが問題なのです。ヘルプデスクさんはやさしいので、つい甘えてまたまたSOS。
 未知への遭遇は困難を極め、挫折感を味わってばかりでしたが、先輩の石津さんの呼びかけで北陸ゼミを企画していただき、同期の臼井さんと私の3人で毎月加賀市のファミレスに集合していました。2年目の6月から12月の忘年会まで7回。心理学研究法の基礎を勉強したいと取り組みましたが、知っている手法は理解が深まるのですが、体験のない一事例実験のことになるとさっぱりでした。実験したくても倫理委員会を説得できる説明ができず、断念しかけた時、分かりやすい石津さんのご助言と臼井さんの励ましで「やれるかもしれない」から「絶対できる」と気持ちが変化したのです。そして、この頃からチャレンジすることの楽しさをじわじわ感じていました。“還暦だって、知識がつかなくても知恵があるじゃないか。生きる力もあるぞ。”修論の仕上げ間近な12月8日、還暦を迎えました。
 こうして眞邉先生、ゼミの皆様、さらに特に北陸ゼミでの石津さん、臼井さんにたくさん助けられてどうにか論文をまとめることができました。仲間がいる実感はたいへん貴重でした。皆様に心より感謝しています。今まで日曜日というのに一人で食事をしていた夫に、海外旅行とまではいきませんが、秘湯の露天風呂で雪見酒のお付き合いをいたしましょう。


「はじめての研究生活」   人間科学専攻  野田 幸子
 

 振り返ると、お正月のある日、「そうだ今年は大学院で勉強しよう」という気持ちが本気になったことからすべてははじまった。そして入学。のほほんとする暇もなく、気がつくとレポートに忙殺され、所沢でのスクーリング、名古屋ゼミで食べた焼き鳥の味を懐かしみながらの予備調査、そして実験1へというように、あっという間に大学院生活にはまっていった。
 月に1回の市ヶ谷での面接ゼミが私の生活のルーチンとなった。面接ゼミに参加すると研究が一歩ずつ進むことを実感した。面接ゼミにコンスタントに出席することが、研究を推し進める原動力であった。そしてほぼ毎日、大学院CONTENTSとAL−Mailを見ることが、弁別刺激として大学院生活を楽しむ効果になった。
 そんないつもの市ヶ谷を飛び出した職場訪問ゼミ。1年目の2月には、博士後期課程の東矢さんが勤務されている琉球大学でのゼミ、美ら海水族館の感動的な巨大水槽の中で泳ぐジンベイザメや回遊する魚群の優雅な姿に見とれ、時間の経つのも忘れるとはこういう感動かと思ったりした。慶良間諸島付近でのホエールウォッチングを楽しんだ後は、琉球料理に舌鼓。趣味と実益を満喫したような沖縄ゼミとなった。
 そして2年目の9月には、修了生の長谷川さんが勤務されている天使大学でのゼミ、函館のレンガ倉庫前での写真撮影会、富良野での乗馬やジェットコースター街道のドライブと北海道ゼミも大いに楽しんだ。!?
 修士論文執筆の冬を迎え、口頭試問が終わった今、さらに研究をしていきたいと思う。大学院の修了は研究の始まりなのだと感じた。今後は、どのようにして研究をしていこうかと思案中である。
 眞邉先生をはじめとする教授陣の先生方とゼミ生の皆様のおかげで期待以上の大学院生活を送ることができました。本当にありがとうございました。


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