7期生の修士論文奮戦記

特に記載がない限り、電子マガジン27号 (2007年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 けれんみのない大学院 小沢 健司
国際情報 論文エゴイズム 中川 貴智
国際情報 箱根駅伝 第7区完走です! 勢川 洋之
国際情報 修士論文は3度の満足感を与えてくれる 安保 克也
国際情報 みなさまのおかげです!! 並木 有史
国際情報 楽しかった \(^O^)/ 大学院生活 田尻 邦宏
国際情報 修士論文を終えて 石内 鉄二
国際情報 Meet the deadlineと貼紙して 長谷雄 陽一
文化情報 古希を過ぎ 無限なる人生の生き方を求めて 江口 了太
文化情報 日本語の壁を乗り越えて 王  春華
文化情報 長年の夢だった若い時の夢を実現 池島 敦子
文化情報 感謝の日々――修士論文提出への道程 松本 敬子
文化情報 台湾での修士論文奮戦記 長田 朱美
文化情報 母親の勉強時間 伊藤 順子
文化情報 幸せな時間 佐藤 順子
人間科学 怒涛の二年間 岩坂 憂児
人間科学 人生最大のカルチャースクール 神山 恵美
人間科学 明けない夜はない 大崎 千恵子
人間科学 レポートの原動力 中村 哲也
人間科学 ハプニングってあるものですね! 中島 正世
人間科学 修論執筆に駆り立てたもの 矢澤 庸徳


「けれんみのない大学院」   国際情報専攻 小沢 健司

 建築について考えると、建物でも構造が決まらないと何も始まりません。修士論文も同様で、その基本構造を決めることが一番の悩みの種となります。一度構造が決まれば、すべてがスタート可能になるものの、何が良くて、何を選択すべきか決められないまま、ただ徒に月日が流れていき、その間、気が焦るばかりで期日に追われことになります。そして、最後は突貫工事となり、欠陥建築、即ち粗悪な論文となるのです。
 勿論、こうならないよう努力することが、良質な建築を作るのと同じで、論文にも必要であることは言うまでもありません。
 また、建材ばかり集めてそれを建てる技術がないと、欠陥建築に陥ることと同じように論文も資料ばかりが山積して、本文が組み立てられないという状況になりがちです。
 そして、当の私は突貫工事ならぬ、期限ぎりぎりの論文提出という悪戦苦闘の毎日でした。
 しかし、大学院生活は苦しいことばかりではありませんでした。博雅の教授と気が置けない仲間と過ごした全国へのゼミ旅行、緑陰と紅葉のゼミ合宿での語らいなど、思い出は尽きません。
 また、サイバーの利点を生かした、どこでも指導が受けられる研究形態が、私の日常を本屋通いとパソコンとの対話という生活習慣に一変してくれました。これは、何か問題が生じたら,何処からとはなく、神の声ならぬ、先輩方のサポートが解決策の助言を与えてくれることを、意味していました。
 今思い起こしてみると、このように私が大学院生活を送ることが出来たのは、多くの教授方や先輩、同期の仲間方のお陰であると痛感しております。


「論文エゴイズム」   国際情報専攻 中川 貴智

「日本語は難しい・・・」
 これが修士論文を書き終えた私の率直な感想である。
 しかしながら、私が「日本語の難しさ」に気付いたのは、修士論文を書き上げ、論文要旨の英訳に着手したときであった。自分の書いた日本語を英訳するにあたって、なかなかピリオドで文章を区切れないのである。しかも関係代名詞や仮定法的表現がなんとも多いこと・・・。

 おそらく文章というものには、書き手のエゴイズムが如実に反映されるものとおもわれる。

 私の場合は、愛読書が『三島由紀夫全集』ということもあってか、難解でありながらも巧みに設計された、精妙精緻でいて流麗華美な彼の文章表現に毒されており、無意識の内に、難解かつ装飾的(虚飾的?)な表現を好んで使うようだ。
 確かに、いわゆる文章のプロが書く難解かつ装飾的な文章表現であれば、そこに創造性や斬新な美的表現なども存在しうるであろうから、心地よく読めるかもしれないが、それが素人の文章となると「言わずもがな」である事は、私自身もよくよく承知している・・・。

 私がこうした文章表現を好んで使うのはこの際ほっとくとして、一般的に書店に出回っている専門書や学術論文においても、私の場合とは若干ニュアンスは違えども、同様の傾向が見られるのではないか。
 つまり「読み手にとって優しくない、疲れる文章」ということである。
 私も修士論文を執筆するにあたって、いっぱしの研究者気取りで、専門書や関係する学術論文などを読み漁ってきたが、それらはやはり「興味があるからこそ読むことができる!!」という類のもので、「読み手に優しい、読んでいて疲れない」というものからは甚だ懸け離れた、寧ろ苦痛を伴うものであった・・・。
 そもそも専門書とか学術論文などは、読み手として専門家や研究者を対象としているから仕方がないのかもしれないが、それにしても『頭痛が痛い!!』(注1)的な感覚を抱いたものである。

 つまり、私が何を言いたいかというと、修士論文に限らず、文章を書くにあたっての教訓として、「読み手に優しい、疲れない文章を書きましょう」ということである。
 私が、自らを反面教師としつつ考える論文作成のポイントは、以下のとおりである。

1.センテンスは短めに構成すること。
  一つのセンテンスにいろいろ詰め込みすぎると、説明過多に陥って、かえって伝えたいことが不明瞭になる。その結果、読み手が混乱して何も伝わらなくなる。

2.「注」を有効活用すること。
  論文という性質上、どうしても専門用語や説明が不可欠な言葉を使わなければならない場面に遭遇するが、それらを本文に盛り込むと「1.センテンスは短めに構成すること」を実現できない。その場合は「注」を有効活用すること。

これらは、後発の研究者にとっても大変有意義なことであるとおもわれる。

・・・というのは建前で、現実は「自分の論文を英訳する場合にラクチンだから♪」という立派なエゴイズムなわけだが。

注1)
ここでは敢えて可笑しな表現を使っている、念のため。
さらに言うと、この文のくだりについて、専門書や学術論文に『頭痛が痛い』的な誤った表現が多用されていたというわけではなく、その内容が非常に複雑で、とっつきにくかったという印象を伝えるために使っている、悪しからず。


「箱根駅伝 第7区完走です!」   国際情報専攻 勢川 洋之

   私は、二十数年前の大学入学以来、正月には、自宅から箱根駅伝のテレビ中継を見て、母校の選手を応援しています。
 しかし、今年の正月は、大好きな箱根駅伝を見ることができませんでした。時折、途中経過を家族に聞きながら、修士論文の最終調整に取り組んでいたからです。

 仕事で「子どもの幸せ」というテーマに格闘していたある日、書店で一冊の本が目に留まりました。母校、日大を紹介した本でした。今の学部内の学科編成はこうなっているんだ、と読み進めていると大学院総合社会情報研究科のことが記載されていました。大学院で研究してみたい、とぼんやりと考えていたものが現実に変わる転換点でした。
 ゼミは、メディアについてご指導いただける近藤大博教授にお願いし、2年間の大学院生活が始まることになりました。

 2年前の日本大学の入学式は二十数年前と同じ、日本武道館でありました。
 地元、鳥取の桜は美しいですが、入学式当日の東京の桜は、格別の趣がありました。
 私は、日本武道館で大学院の入学式。
 私の長男も同じ日に小学校の入学式がありました。
 「子どもの幸せ」が私の研究テーマの根幹となる部分です。仕事と子育ての両立を図りながら子どもの幸せを具現化する。これは、私自身が実践を目指すテーマでもあります。長男の入学式に出席できなかったことが、仕事と家庭と大学院の「三立」を心に誓う契機となりました。

 さて、大学院における研究について、三つのことに触れたいと思います。

 一つめは履修科目のリポートです。大学院を修了するためには、修士論文作成の他に科目の履修も行わなければなりません。1年目は、先輩の勧めもあり、5科目履修しました。前期と後期、合計20本を指定された字数のリポートにまとめて提出できるのかと不安でいっぱいでした。しかし、先輩の「最初は提出できるのか不安だったけど、それだけの字数と本数のリポートは書けてしまうよ。」という励ましの言葉を信じ、ひたすらリポート作成に取り組みました。
 1年生でも当然、修士論文の論文構成の立案と幅広い資料収集には努めましたが、実際は、履修科目のリポート作成に大半のエネルギーを使っていたように思います。しかし、履修科目のリポート作成は、たんに単位を取得する目的だけではありません。2年生になって修士論文を執筆し始めて、それが分りました。限られた時間でテーマに合った文献を探し、テーマを論述できる「基礎体力」を身につけさせる効果があったのです。
 また、私は、1年生と2年生で履修した科目で作成したリポートの内容を修士論文でも活用しました。すなわち、修士論文の内容に関係する科目を履修していたため、リポートで触れた理論を援用し、文献も活用することができました。履修科目を修士論文に取り込むことができた実益も大きいものがありました。

 二つ目は「章立て」の重要さです。私の場合は、1年生で「子どもとメディア」との関係について幅広く文献を集め、その後、テーマの絞込みを行い、章立てを決めたのは2年生の春でした。
 論文を書き進めていくと、基本的には章立てが、その後の執筆をautomaticalに進めてくれました。私の場合は4章×4節。すなわち、修士論文を16節で構成しました。自分なりですが、章立てを満足するものにできましたので、あとは章立てが自動的に論文を書いてくれたような気がします。(と、書きましたが、実際には、少し立ち止まったり、スランプに陥ったことは何回かありました。)
 しかし、章立てが論文を書いてくれるというのは、大げさな表現ではないと思います。私の場合、修士論文作成にあたっては、章立ての作成が6割方の作業という感じがしました。

 三つ目は図書館のレファレンス・サービスについてです。
 修士論文を書き進めていた秋、論旨を補強する文献が必要となりました。それまでは、論文、参考図書、ホームページなど自力で探していましたが、悩んでいたある日、職場に近い公立図書館に行って、レファレンス・サービスを受けてみました。
 「こんな資料がほしいですが・・・。」と一通り説明して2日待ちました。
 2日後、図書館のカウンターに行くと、そこには宝の山がありました。「お探しの文献かどうか・・・。」と司書の方。結局、そのほとんどの文献を引用または参考文献として利用しました。今から思えば、もう少し早い段階でレファレンス・サービスを受けてもよかったかな、という感じがします。

 日本大学は、今年の箱根駅伝で、総合準優勝と健闘してくれました。
 私たちは2年前に、日本大学大学院総合社会情報研究科に第7期生として入学しました。箱根駅伝に例えると、私たち7期生は、第7区を任されたといえるのかもしれません。私たち7期生は、2年間という目標の期間内で、第8区を走る皆さんに母校の「ピンクの襷」を渡すことができたと思います。第8区の皆さんは、総合社会情報研究科のよき伝統を次の選手につなげていってほしいと思います。
 私が、第7区を走るにあたって2年間、ご指導や叱咤激励をいただいた近藤教授、沿道から応援してくださった大学院の諸先輩、職場、図書館司書の皆さん、そして家族の支えがあって無事、2年間で完走することができました。
 ここに改めて皆様に感謝申し上げます。

 今年は暖冬でした。桜の開花も早いのでしょうか。
 春には、この3か月滞りがちだった家族サービスをして、私自身もリフレッシュします。
 そして、新たなテーマにチャレンジしようと思います!


「修士論文は3度の満足感を与えてくれる」   国際情報専攻 安保 克也

 修士論文の提出を終えて、ようやくほっとしている、今日この頃だが、修士課程の2年間は色々なことがあった。 以下、これから修論を提出される方に参考になればと思い、雑文を書いてみる。大学院生活の流れは、4期に分けられるので、各期のポイントを参考のために指摘をしておく。

1. 1年前期(4月〜9月)
 右往左往しながら、レポート書きと、軽井沢合宿、スクーリングなど追われる。仕事をしながら、5教科のレポート書きは想像以上に、時間がかかる。そのため、ゼミでは修論の「タイトル」と「ねらい」(A4で1枚程度)を考えられれば良いだろう。

2. 1年後期(10月〜3月)
 ようやく大学院生活になれる時期である。レポート作成は、前期での学んだ要領を生かして書いていけば良いだろう。  スクーリングは、7月下旬に行われる夏季スクーリングと11月中旬に行われる冬季スクーリングのいずれかを受講しなければならない。内容はほぼ同じであるので、私としては夏の最中よりも気候の良い冬季スクーリングを薦めたい。
 修論に関しては、「テーマ」・「狙い」・「章立て」まで進んでいれば十分である。併せて、論文や参考文献や収集は、早めに行っておくべきである。使わないと思われても、関連しそうなものは押さえておくべきである。

3. 2年前期(4月〜9月)
 修論提出は、1月上旬なので残すところ約10ヶ月もない。しかも、指導教授に推敲論文を提出し、添削などのご指導を賜らなければならないため、考えている以上に時間はない。したがって、4月から本格的な修論に取り組むべきである。  修論を書き始めるコツは、あまりあれこれ悩まずに、とにかく全体に関して頁数は少なくても書き上げてみることである。そうすることで、不足している内容や参考文献などが発見できるのである。
 2年次のレポートは1科目なので、早めに提出するべきである。その時に、前期の課題だけではなく後期の課題も書いておくこと良いと思う。早めに書いて寝かしておけば、後期の提出期間が始まると同時に提出すれば、残りの時間は修論に集中できる。
 9月以降は、修論だけに集中するというスケジュールにしておけば、経験上からも言えるが、不測の事態が起きても対処できるからである。
 私自身、職場でのストレスが溜まり、夏に内視鏡検査を受けた。その結果、陽性ポリープの疑いがあるので、手術をした方が良いという話し合いになった。仕事の都合もあり、秋に手術を受けることにした。

4. 2年後期(10月〜3月)
 修論を書いては、修正するという作業が続く。内容によっては、タイトルをも変更しながら、悪戦苦闘が続く日々である。 11月上旬にポリープ手術を受け、その後、数週間は体調不調のため、修論はストップ状態であった。修士課程の2年間は予想以上に色々な出来事がある。早めに修論を進めておけば、このような不測の事態が起きても余りペースを崩さなくて済むので、修論の執筆にあたっては早め早めに進めておくべきである。
 手術後、修論へのラストスパートを行う。12月に入り、完成した修論を章ごとに指導教授に送り、指示を受けながら修論を修正していく作業が続く日々。多分、この作業が一番、苦しく辛い時期だと思われる。
 年明けに何とか提出し、ほっとする。その後は、面接試問(指導教授であった主査の乾一宇教授、副査の近藤大博教授、関根二三夫教授の計3名)を受けて、論文に対して厳しい指摘を受けるが、2年間は実質的にこれで終る。ここでの試問は、思い出でもあるし、今後の人生の糧になるものであった。3名の先生方には、この場を借りて御礼を申し上げる。
 修論は書き終えて一度目の満足感が沸き、面接試問を受けて二度目の満足感が沸いた。三度目の満足感は学位授与式の日であろうか。日本大学から3枚目の証書をもらえる日は、もう少しで到来する。
 最後に、日本大学に入学してから早20年が過ぎた。母校での3度目の卒業を迎えるが、毎回、母校の素晴らしさに感激している。


「みなさまのおかげです!!」   国際情報専攻 並木 有史

 修士課程に入学したのは、28歳でした。会社生活に対する不満もなく、漠然と時間だけが過ぎ去った。当時の私は30歳を前に将来の選択肢を広げるために、大学院で専門知識を身につけたいと思い、大学院選びの情報誌や学校説明会など積極的に参加していました。私の大学院選びの条件は、会社生活をしながら学ぶことでした。私が参加した学校説明会のとき、本大学院ではネット上でゼミに参加しながら情報交換や活発な議論ができると伺いました。私は日本大学文理学部哲学科を卒業し、中学・高校も日本大学の付属校出身でしたので迷わず母校日本大学の大学院と決めました。
 私の修士論文作成が参考になるかわかりませんが、修士論文を作成するために大切なことは、@テーマの選定、A資料集め、B内容構成です。できるだけ早い段階でこれらの作業をこなせると良いです。
 テーマの選定に関して、乾先生から広範囲に及ぶテーマでなく、内容を明確に絞り込むよう御指導を頂きました。入学当初の早い段階でテーマが決められたことが、学校生活のうえでプラスになりました。
 資料集めに関して、日比谷図書館に頻繁に通いました。一方、テーマに即したタイムリーな内容を随時把握しなければならないと考え、日本経済新聞の必要箇所を会社のお昼休みを利用しながら資料整理をしました。資料探しは図書館・新聞などだけでなく、インターネットの活用もお勧めです。修論を書きはじめてからも資料が必要となりますが、絶対に妥協せず資料を集めることが肝心です。
 内容構成に関して、近藤先生から着眼点を整理するため、「パワーポイント」を作成するよう御指導を頂きました。パワーポイントを作成した結果、修論を作成するうえでスランプに陥らず、順調に作成できました。また、1年目のレポート作成で近藤先生に徹底的に文章の書き方を鍛えられたことも非常に役立ちました。
 修論を作成するとき心掛けたことは、「気分転換」と「集中」です。仕事が終わり帰宅すると机に向かう気力がなくなります。そんなとき私は、会社の独身寮の周りを散歩しました。勉強は、毎日同じ時間からはじめるよう心掛けました。肝心なことは、「今しか勉強する時間がない」と思い、集中力を高めることでした。
 修士論文を書き終え、色々な意味で犠牲にしたことがありました。学費捻出のために、タバコをやめ、Yシャツは手洗い&アイロン掛けをしました。週末はほとんど図書館に通い、資料整理と修論作成をしました。私の唯一の楽しみと言えば、ホテルの喫茶店でお茶をすることでした。週末の天気の良い公園を同年代の人間が、デートしている光景が羨ましく思えました。
 忘れてならないことは、修士論文はひとりの力で完成しないことです。誰かにどこかで支えられているということを決して忘れてはなりません。私は、修士課過程2年目に部署の異動になり、精神的に落ち込みました。会社と学校のダブル生活が苦しくて仕事も勉強も辞めたい時期もありました。そんな時、短時間で的確なアドバイスをしてくれた会社の友達に感謝しております。友達自身が仕事で辛い時にも、私の相談に乗ってくれたことが本当にうれしかったです。
 私は、リクルート社から発売された「社会人&学生のための大学・大学院選び」という雑誌の中で本大学院を紹介するという大役を頂きました。私自身、取材を受けたことなどなくとても緊張しましたが、貴重な経験をさせて頂いた学校関係者の方々に感謝申し上げます。私は雑誌の発売日の朝、駅の本屋に向かい雑誌を購入してから出社しました。直ぐに友達のところに行き、雑誌を読んでもらいました。友達に喜んでもらえたことが、今でも忘れられません。本当にありがとう!!


「楽しかった \(^O^)/ 大学院生活」   国際情報専攻 田尻 邦宏

1 はじめに
   思えば私の大学院生活は、全ての「修士論文奮戦記」を印刷してファイルしたことから始まりました。研究の進め方、仕事と研究の両立方法等、先輩方の貴重なアドバイスを参考に2年間を楽しく有意義に過ごすことができたと思います。  今、この文章を読まれている皆様には、できれば全ての奮戦記に目を通すことをお勧めします。自分にあったノウハウに出会えるはずですよ。
 では、私の2年間を紹介します。

【リポート作成】
 1年次に20本、2年次に4本、都合24本のリポートを作成しました。
 指定の教材図書、参考図書全てを読むことは最低限の基本です。その上で、自分で選んだ参考書籍を1リポートに付き2〜12冊程度読みました。読んでいるうちに論点が整理され自然と筆が進んだように思います。他の科目でも役に立つ書籍も多く、修士論文にも直接・間接に役立ちます。とにかく本を読むことをお勧めします。私は2年間で170冊以上は読んだと思います。
 尚、参考図書については書店で手に入れにくい書籍もありましたが、インターネット(Amazon・eBOOK-OFF等)や図書館で全て入手できました。
 また、100円ショップで書類立てを沢山買って来て、リポートや修士論文等の、参考となりそうな新聞・雑誌の切り抜きや文献のコピーを分類して入れるようにしていました。2年次に履修する予定の科目分も含めて、手当たり次第に収集したものですが、実際リポートを書くときには大変役に立ちました。
 加えて、インターネットで検索した情報は鮮度もあり、リポートに厚みをもたせることに役立ったと思います。ただし、ネット上の情報は玉石混交ですので、きちんとしたものを見分けて利用して下さい。
 リポートは与えられた課題によって学習するものです。修士論文のように自分の問題意識を追及するものと異なり、なじみの薄い分野における体系的な知識の習得を目指すものだと思います。これまで考えたことが無かったような事柄について熟慮するよい機会となりました。初めはとまどいもありましたが、慣れてくると楽しんで執筆することができました。

【修士論文】
 私は、職業上持っていた問題意識を修士論文のテーマとして入学を志しましたので、入学のだいぶ以前からある程度の参考文献は収集していました。論文のテーマが地方(鹿児島県)の産業振興を目指した実証研究でしたので、特に地方紙を中心に新聞2誌(地方紙・日本経済新聞)を丹念に読み、関連記事を収集し続けました。
 また、書籍はインターネットや図書館で検索して入手し、研究論文も当大学院の図書館データベースサービスや、CiNii(論文データベース、有料)、地元の大学図書館等を活用して集めました。
 相当な数の資料を集めたことにより、論文の方向性が自然と定まってきたし、実証性を高めることもできたのでは思っています。
 尚、情報収集についてはインターネットが便利で手っ取り早いものではありますが、地方をテーマにしているだけに、県内各地に実際に出向き自分で直接収集したもの(写真・インタビュー等を含む)が論文を構成する上で大変重要になったということを付け加えたいと思います。
   論文執筆のスケジュールは自分で時間配分して行なえばいいと思います。しかし、2年次の10月に実施される「修士論文中間発表会」は是非参加して下さい。そしてこれを目標にある程度まとめ上げることを目指して下さい。多くの方から貴重なご意見、ご指摘をいただくことのできる素晴らしい機会となります。私はここで論文の方向性が最終的に固まりました。そして、最終口頭試問のリハーサルとしても精神的な自信につながります。

【ゼミ】
 私は地方在住ということもあり、集合ゼミには1回も参加できませんでした。しかし、先生に出張地方ゼミを複数回行なっていただき、親身のご指導をいただくことができました。金銭的にも時間的にも大変助かりました。また、仕事で出張した機会に研究室にお邪魔してご指導いただいたこともありました。
 尚、サイバーゼミは各地に散らばっている学生が居ながらにしてゼミに参加できる仕組みであり、すばらしいものだと実感しています。参加できなくても後で記録を見ることはできますが、Liveに勝る楽しみはないと思います。

【二足の草鞋】
 当大学院で学ぼうと志される方はほとんどが仕事を持って二足の草鞋を履かれる方でしょう。私は、修士号取得という初志を貫徹するため毎日勉強時間を取るように心がけました。結局、残業のある日も、飲み会のある日も、出張中も、休日も、お正月も、1日も欠かさず勉強することができました。「継続は力」なりを実感しています。

【最後に】
 卒業できたら、当大学院の紀要に論文を掲載する資格が得られるとのことです。2年間で基礎的な一歩を踏み出すことはできたと思いますので、今後は研究を継続して実績を積み重ねて行きたいと思っています。
 最後に、皆様が楽しい大学院生活を送れるようお祈りいたします。OBとしてゼミでお会いする機会がありましたらよろしくお願いいたします。


「修士論文を終えて」   国際情報専攻 石内 鉄二

 2007年1月、修士論文最終修正版を郵送し終え、私の第二の学生生活が終了した。辛くもありまた楽しくもありの2年間だった。もともと技術志向の学生として、約30年前に大学院工学研究科機械工学専攻の修士称号を取得し、開発技術者として大手企業に就職し、一つの大型プロジェクト終了後郷里に帰り現在の機械工具商へ入社。当社からは日大大学院へは既に2名の修士修了者が出ている。工学修士を持つ私としては、これ以上修士称号は要らないと考えていたが、日大院経営研究会主催の福岡セミナーに参加するたびに、経営修士取得の勉強に対する意欲がむらむらとわいてきた。五十嵐教授、近藤教授の社会人経験の先生方から話を伺い、受験の決心をし入学をした。
 当初の研究テーマは、自分自身の技術者的発想と経営感覚をミックスした、MOT(Management of Technology)に関する論文に取り組む予定だった。一年目は課題に対するレポート提出と、日常の仕事の中から、MOTに関する情報を集めようとした。仕事柄、ユーザー訪問により、経営者の方々から経営に関する情報を徹底的に集めたが、これを自分のテーマとしてまとめようとしても、さっぱりまとまらない。おまけに、最も困難とされる新規開拓ユーザーをターゲットとして挙げたため、日常の活動が頭の中まで一杯となり、課題消化もままならない状態に陥りかけた。自分の性格として負けず嫌いのところがあり、また、他人にあれこれと指図されるのも嫌いな性分から、好きなゴルフは絶対に犠牲にしないと心に誓い、すべてを消化する計画を立てた。晩飯後はぐったりとなり、読書どころではないため、寝たいときに寝て、目が覚めたときに課題消化と心に決め、あるときは午前1時起床、あるいは3時起床の日々が続いた。(おかげで修士論文が終わった現在でも午前3時前後の起床の習慣は変わりなし!その後二度寝中)
 そして2年の後半より修士論文のまとめの段階に入ったが、全くまとまらない。テーマもMOTから身近な中堅・中小企業の製造業に関するテーマへ変更をし、まとめに入った。新規開拓ユーザーも佳境に入り詰めの段階と重なったが、相関関係が出てきた面白いように文章が進みだした。したがって私の修士論文は決して学問を中心に書き出したものではなく、実体験と創造の世界の中から組み立てられたものとなった。しかしこれからの自分のバイブル的性質のものとなったと思っている。最後は指導教官の階戸先生よりいろいろとアドバイスを頂き、何とか論文として提出することができた。
 この二年間を通し、最大の収穫は五十嵐先生・近藤先生・階戸先生とめぐり合い、実社会の豊富な経験と、学問とを見事に融合し、実のある人生をエンジョイされている人と出会ったことである。私自身人生には常にベストで臨む主義である。遊びであれ、スポーツであれ、ノボセ性である。(もっとも、もう少し論文にのぼせたほうが良かったのだが・・・) 55歳で第二の学生になり、今年は57歳。学問に年齢は不要。後輩にも伝えたい、この大学院では必ず何かを得る事ができる。一度しかない人生、全力でぶつかることをお勧めしたい。感性を磨けば人生非常に楽しいものである。


「Meet the deadlineと貼紙して」   国際情報専攻  長谷雄 陽一

 1年生の終わり頃のサイバーゼミで近藤大博先生が「2年になったら決められた期限にきちっと物事に対応するようにしなさい」と言われたのをよく覚えています。「時間管理」「スケジュール管理」「Meet the deadline」ですね。頭ではわかってはいるのですが、これが難しい。これほど難しいことが他にあるでしょうか。とりあえず怠惰な自分は、パソコンに「Meet the deadline」と貼紙をしました。今でもそれは渋い輝きを放ちながら残っています。これは学生生活だけでなく会社生活でも大事すぎるほど大事なことで一生剥がさないでいようと秘かに思っています。
 さて、1年次ですが、5科目はきちっと期限を守り、リポート提出した方がよいと思います。自分の場合、内容には目をつむり期限だけは守ったのでなんとかセーフでした。ただよせばいいのに「英文原書購読」という非常にアカデミックな科目をとってしまい、分厚い英語の本が送られて来た時はめまいがしたのを覚えています。
 2年次はそうすると1科目だけでよいわけですが、ここでもよせばいいのに3科目も届けてしまいました。なぜなら自分は、仕事柄よく飛行機に乗るのですが、積んでるエンジンは2つとのこと。2つとも不具合だったら真っ逆さまです。ここは予備的に3つとっておこうなどと無謀な挙に出てしまいました。ここでも「Meet the deadline」でなんとか提出しましたが、2つで いいのかなと思います。余裕のある方は勉強されたほうがいいのですが。
 飛行機の話が出たついでに、こともあろうに修論を書く年に12回も海外出張が重なってしまいました。行きはそれなりの使命がありますので仕事関係、帰りの飛行機で勉強関係の本を読むようにしましたが、ふらふらな読書だったように思います。
 最後にまじめな話です。実は同ゼミのご年配の女性の方が、在学中に大変残念なことですがお亡くなりになりました。その方がサイバーゼミの時に「長谷雄さんの研究を楽しみにしてる」と言ってくれました。それを時々思い出し、自分なりに期限を守ろうとしました。この場をお借りし、改めてお礼を申し上げ、ご冥福をお祈りする次第です。


「古希を過ぎ 無限なる人生の生き方を求めて」   文化情報専攻 江口 了太

 Are thy wings plumed indeed for such far flight? 「汝の翼はかの遠き飛翔にまこと耐えうるや?」…… 私は論文の最後の1行を打ち終えたとき、これで自分の人生にひとつの区切りをつけたのだ、という思いにとらわれ、しばし窓の外、寒空の灰色を背に、黒い枝をすっくと伸ばしている老木のこずえに目をやった。100年以上は間違いない。我が家の没落の一部始終をただ黙って見つめ続けてきた椋(むく)の木である。

   私は研究計画書を提出するときテーマを何にしようか、と思い悩んだ。自分の青春時代はサルトルがもてはやされていた。行動なき文学など唾棄すべきもの、現実の政治と無関係な文学は文学にあらず、「アンガジュマン」こそ知識人の取るべき生き方、という風潮であった。今思えば私も若かった。でもそれなりに真剣であった。20世紀初頭の社会状況の中で思索した作家たちの一人、ジョージ・オーウェルに興味をもった。時は流れ私は古希を過ぎた。通信制大学で知ることになったE.M.フォースターの世界に惹きこまれたのはペンギン版の『ハワーズ・エンド』の表紙に描かれた楡の木が我が家の椋の木を彷彿させたからであった。そしてなによりも巻頭言の人間同士の結び合い “Only connect…” に惹かれたのであった。そこにこめられた思い、願いは何であるか。その思いは一生を通じてどのように形成されていったのだろうか。結局彼の「世界観」を追求するというテーマに取り組むことにした。小野寺教授との再会が大きいモメントにもなった。

 フォースターが育った家庭環境、青春時代、そしてエッセイ、短編、小説へとほぼ全部に目を通さなければならないのだが結局は現実の時間的制約の中で不可能であった。彼のケンブリッジ時代のエッセイについては原文を入手しないままに終わったし、短編の一部については提出期日の1ヶ月前にやっと入手できたものがあり、はらはらしてしまった。綱渡りである。作品を読む方法は人それぞれの工夫があると思う。最初のうちはめぼしい箇所に出会うと、ノートに出典を明記してメモを取り、入力するやり方であったがこれは旅行とかで寸時の時間を利用するときのやり方で、机に向かうときはその場で即、パソコンに入力してしまうやり方が効率的だということも、レポートの本数が増してくると次第にわかってきた。その際に論旨展開に重要な部分と思われる箇所は赤色で、感動的な、情感を刺激された箇所は青色で、という色分けも試みた。実際に論文を組み立て始めると、この色分けは両方ともに論文のなかに入ることになるから(そうならない場合もあるが)同じじゃないか、という人もあろうが、あとで読み返すとき自分の感性がわかるのも面白いものである。もひとつ触れておきたいのは同学の志を持つ人々とのふれあいがエネルギーの持続には絶対必要である。九州に住んでいるので毎月のゼミに出ることはまず無理であった。それでも一年次には6回上京した。しかし2年次には事情が変わって上京したのは論文粗稿ができてからの一度だけである。その意味で遠距離にいても「サイバーゼミ」に参加できたのが一番よかった。2年次には9回も催してもらった。きちんと発表しなくてもいい、近況報告を交換することで方向性が探られたのである。新しい資料が入手できたのもサイバーでの出会いがあったからである。

 昨今は資格ブームとなってきた。学位取得で物質的なプラスを得ようとするものである。それはそれで若い人たちには貪欲に生きて欲しい。私は先に触れたように、キャリアを生かして何か具体的な行動を起こす計画などは最初からなかった。定年後看板を掲げた「英語教室」もビジネスというよりは趣味の世界となった。同世代の四分の一はあの世に渡った。生と死についてどのように受け止めて生きてゆくかは、この世にある者共通の課題である。哲学であれ、宗教であれ、自分なりに答えを出している人もいる。でもその答えが普遍的に他者に通じるとは限らない。自分なりに答えの糸口をつかみたかったのである。結局「生、死」は綾取り紐のように入り組んだ日常の中にまぎれこんでいる。それを解きほぐす「ことば」を捜す2年間であった。その意味で片山教授の「コミュニケーション論」を読み解けたのは望外の収穫であった。幾度も質問を投げかけながら、いつも懇切なご指導と励ましをいただいた先生に感謝する。上田教授の必須科目では伝統芸能の「能」とシェイクスピアの融合という試みに強く心を打たれた。悲劇は生・死のテーマをつきつける。それは夢幻能の世界に結びつく。学会誌に発表の機会を得たのも先生のご指導による。竹野教授の「文学としての聖書」もまったく新しい視点であった。否応なしにファンタジーの世界へ誘うものである。一方で神とは何か、人とは何かを考え続けた。シェイクスピアと聖書にこのような形で接し得たことは、田中菊雄の「岩波英和」に惹かれていたかつての「英学徒」にとっては、まさに冥利につきる出会いであった。

 今、私は地域の行政区長に選ばれている。人口2万の田舎町の郵便局長で定年を迎えた私は、ほとんどの人から顔を覚えられている。今回は、10年ほど前に「公民館活動」のリーダーを頼まれとき、地域の活性化に走り回っていた経験を買われての選出である。ところがこの仕事が滅法忙しい。行政の意思伝達は勿論だが、時代は人間同士の心の結び合いを困難にしてしまっている。良き伝統としての「ゲマインシャフト」は崩壊し共同体としてのコミュニテイの再生・発展は喫緊の課題である。自分のことばで語りかけること、人々に夢をあたえつづけること、それを実践にむすびつけること。今、私はそれを心から楽しんでいる。ヒポクラテスのことばに “Art is long. Life is short.” があるが、私に残された人生はまだ無限にある、という心境である。このような充足感を与えてくれた我が日本大学大学院、そこにそれぞれの情熱を結集されている諸先生がたに心からの敬意と感謝をささげ、さらに出会えた学友諸兄姉との「人間同士の結びあい」ができれば私の修士論文は名実ともに完成するのである。


「日本語の壁を乗り越えて」   文化情報専攻 王 春華

 修士論文を書き終わった!!涙も出た。夜も眠れなかった。思いが千々に乱れる。この二年間は私の人生の中の一瞬のことであるが、でも自分にとって長かった。辛かった。でもよかった!
 一番辛かったのはやはり日本語だった。日常の日本語には慣れてきたので、あまり不自由することはなくなったが、大学院に入ってから、慣れない日本文学の専門語を耳にして、何にもわからなかった。「源氏?何のこと?」「修論?何のこと?」「ユニコード?何のこと?」パソコンの使い方も分からず、すべての言葉が生まれて初めて聞くかのようだった。日本語の難しさも感じた。一字の意味を解くために何時間もかかり、いくつかの日本語辞典や中国語辞典も調べた。私の日本語はこんなに下手で、大丈夫かなと気落ちしたこともあった。昼間は授業があるし、夜も市民講座の授業がある。土日も日中関係の交流や翻訳の仕事があり、その上家事もあって、猫の手も借りたいくらい、やればやるほど仕事が終わらない。論文は毎日夜10時以降から書きはじめ、1時か2時までの辛い日々であった。でも励ましてくれ、また一番感謝したいのは指導教授の小田切先生です。先生は私を見捨てずに親切丁寧な指導で、日本語を教えながら、日本文化も教えてくれた。面倒を嫌がらずに、たくさんの資料もいただき、先生には大変お世話になった。先生!本当に 謝謝!謝謝!
 一番良かったことは大学院での勉強であった。日本に来て一番よかったと思った。辛いよりも勉強して得たものがたくさんあった。一つの言葉の由来を解くため、大量の資料を見なければならず、そこに書かれている大量の日本語を理解しないと論文を書くことができない。一字の意味を解くため、必ず日中辞典と中日辞典、そして中国語大辞典を調べる。このような勉強は時間がかかるけれど、日本語と中国語の両方の研究になる。今度の論文は「日中言語文化の対比と比較研究―江戸時代を中心として」というテーマであるが、多くの資料を参考にしなければならないので、少なくても200冊以上の資料を読んだ。日本の江戸時代の文化は中国とどういう関係があるのか、中国の白話小説は日本でどういうふうに受容されていったのか、こうしたことに関心を持った。色々な本を読めば読むほど知的好奇心が増え、常に感動も受け、勉強の楽しさが身に付いた。時々寝る時間も忘れたことがあった。この二年間の大学院での学習生活が、日本に来てから一番大変であったが、でも一番楽しかったと思う。これを出発点にして、日中文化交流の研究を続け、両国の理解と親善のために微力を尽くしていきたい。また、日本での中国文学の研究について中国に伝えることが今後の課題である。
 二年間の間に小田切先生、近藤先生、藤澤先生、竹林先生、そしてゼミの先輩たち、また事務課とヘルプデスクの八代様に大変お世話になりました。多大なご迷惑をお掛けしたことをお詫びするとともに、心からお礼を申しあげます。また支えてくれた家族に感謝します。
 最後に、小田切先生、謝謝!謝謝!!!

「長年の夢だった若い時の夢を実現」   文化情報専攻 池島 敦子

1 面接試問―緊張
 1月27日、面接試問をうけるため市ヶ谷の日本大学本部、201号室に待機していた。
予定時刻より遅れて名前を呼ばれ、指示通り9階の部屋に入った瞬間、中央に竹野先生、左に寺崎先生、右手に松岡先生が目にはいった。
 以前にお逢いした先生たちであるにもかかわらず、緊張感が伝わってきた。「よく頑張りましたね」と竹野先生の優しい声にほっとしたものの、両サイドの先生の質問に戸惑ってしまったが、アメリカ文学をもっと勉強して欲しいことだと後で理解できた。
 アメリカ文学も好きだが、大学時代に学んだだけで、フランス文学、ドイツ文学などなど、文学の領域の広さと勉強不足を痛切に感じてしまった。

2 修士論文―愛と罪
 私はローマ・カトリックに改宗したイギリス作家グレアム・グリーンのカトリック的色彩の濃い4作品(『ブライトン・ロック』(Brighton Rock 1938)、『力と栄光』(The Power and the Glory ,1940)、『事件の核心』(The Heart of the Matter,1948 )、『情事の終わり』(The End of the Affair,1951)の根底に流れている愛と罪を描いてみた。これらの作品を読んでカトリシズムが抱えている愛の本質とはどのようなものであるかなど、どの宗派にも共通する困難な問題であると悟った。フォースターが安易に「愛などと言うな」と言われたように愛とは永遠の問題であり、実行することの困難さを痛感した。罪は人間である以上誰でも犯すこと、そのためにキリストがこの世に人間の姿としてあらわれ、譬えを用いて我々に理解させようとして、人間性と神性を備えて2000年前にこの世に生まれたことを確信することが出来た。
 面接試問を終え、力量のふがいなさに後悔が残る。だが文化情報専攻、竹野ゼミに所属できたことはわが人生に新たな一ページが追加されたことになる。夢のような二年間を過ごせたことは幻だったのかとも感じている。年齢の違いを超越して、共に学ぶ姿勢を持った人達が待っていてくれたからこそ、ゼミへの参加が可能であったと実感している。

3 竹野ゼミ―楽しいひと時
 竹野ゼミは午後1時30分から休憩時間15分を挟んで5時、6時まで行われる。そのあと食事をしながら貴重な話を聞くことができる懇親会が待っている。毎回ゼミに参加するたびに新たな修士論文の構想が生まれることは間違いなかった。結果的にいつも満足のいくものとなっていた。8月の軽井沢ゼミは勉学+αがあり、楽しみも最高であった。我ながら年がいもなく夜更かしをしたのは何十年来のことであった。このような経験も大学院ならでは、と少し若返ったような気分にさせられた。
 今でも忘れられない函館ゼミは2006年3月に行われた。異国情緒が漂うイギリス領事館でのゼミは夕方までかかった。3月中旬というのに雪と寒さに震えながらも夕食と懇親会は絶妙な温かさを醸しだしてくれた。
 翌日は車で当別厳律シトー会灯台の聖母トラピスト男子修道院を見学した。修道院の内部は男性のみ、女性は客室で絵画を見ていた。トラピストクッキーと牛乳のサービスがあり、心から温められた。帰りは修道院所属の当別カトリック教会で、竹野先生のオルガン伴奏に合わせてゼミ生の皆さんと歌った聖歌は忘れられない。
 秋のゼミあたりから、真剣に修士論文を書かなくてはと焦りを感じ始めた。1年目は4教科のリポートに苦しめられた。

4 夢の実現―人生は旅
 私は昔、大学進学を諦めて家庭に入り、長年の夢だった若い時の夢を今実現しているのだ。入学時に決心した毎月のゼミに参加する希望は直前に腰を痛めて、スタートから困難さを暗示しているかのようだった。医者の忠告も聞かず、函館から特急スーパー白鳥、新幹線に乗り替え7時間かけて東京に向った。東京函館間は飛行機の方が早く、なぜ?と思われるかもしれませんが、函館-東京間往復早割り切符のほうが2万6千円と安いのだ。入学式に或る先生と出会った。「よくお金がありますね、家内が言ってましたよ」といわれ、内心どきりとした。「お金はありませんよ、お金は作り出すものですよ、」と大声でいいたかった。
 JRの旅は決して楽ではない。長時間、同じ姿勢であり、飽きあきしてくる。その苦痛も列車内でリポート課題の本を読み、一石二鳥であることがわかり、苦痛もプラス思考に考え活用することにした。まさに「人生は旅である」と実感した次第である。今頃勉強してどうなるのかと思われるが、短い人生を無駄にしたくなかった。
 1年次の必修科目のスクーリングで、「勉強に終わりはありませんよ」と上田先生が言われた。そうだ霊魂は永遠に生き続けるのだ。何歳であろうと勉強は無駄にならないのだ。好きなことをやっても苦労、きらいなことをやっても苦労、いいじゃないか私のやっていることは生きることの一部なのだ。月並みな言葉が浮かんでくる。
 だが現実は子宝にめぐまれ、孫が増え続けているおばあさんなのだ。時には、毎日のように孫の世話を頼まれて、リポートの提出と修論の準備が気になり、自分の運命を恨めしく思う時があった。また朝早く起き、朝食の前にパソコンに向かいながら、今までに経験したことがない新鮮な感覚を楽しんでいることに気がつく時もあった。

 ゼミに毎回参加することは「意味ある逃避ですよ」と、竹野先生に言われたときは「真実ですよ」と答えたくなる。現実からの逃避、好きな言葉である。好きなことをしている現在、わがままな人間であったのか、ふとそれが生きている喜びなんだと笑顔になる。
 JRの旅もあと数回で終わりになるのか、一抹の虚しさが襲ってきそうだ。たしか竹野先生は「終生ゼミに参加できますよ」といわれたはず、それが本当なら都合のつく時は特急スーパー白鳥に飛び乗り遠慮なく参加させて頂こうと修士論文提出を終えた今、密かに誓うのである。 


「感謝の日々――修士論文提出への道程」   文化情報専攻 松本 敬子

1.はじめに
 この2年間を振り返り、まず最初に、指導教授である竹野先生をはじめとする先生方や、ゼミの皆さん、陰ながら支えてくださった事務の方々、そして家族など、私を支えてくださった多くの方々へ感謝の言葉を述べたいと思う。何か一つでも、自分ひとりでできたなどと思ったことはなかった。恥ずかしながら、体が丈夫ではない私は、人並みにゼミにも参加できず、竹野先生の指導もメールでのやり取りがほとんどであった。お世辞にも模範的な学生とはいえなかったと思う。だから、周囲への迷惑は、多大なものであったと思う。病院と図書館、時には大学院まで送り迎えしてもらったこともあった。それでも、ゼミやスクーリングへの参加は非常に楽しみではあった。しかし、常に体温計の数字を気にしながら、多量の薬の服用と副作用、しかもその効き目の遅さにも焦り、苦痛をこらえての受験や受講ではあった。パソコンに向かっていても、この2年間痛みを感じずにいたことはなかった。だが、入院や手術を経験しながら、論文を書き上げた院生もいらっしゃるというのだから、私の苦労などはまだまだ大したことではない。しかし、多少はハンディを抱えているような私が、修士論文を無事に書き上げることができたのは、自分以外の多くの方々のおかげとしか思えない。だから、まず何よりもはじめに、謝意を述べたいのである。

2.原点を見つめて
 これから修士論文に執りかかる方のために、何か一つでも役に立つことを申し上げられればよいのだが、突出したところもないので、自分のことを書かせていただきたいと思う。大学院に入学する前に、「問題意識を常に持つこと」をアドバイスされた。社会人学生なら、特に自分の身近にあることがよいという。社会に出て貢献している人たちにとっては、よく考えてみれば、意外といろいろ気が付くことがあるだろう。そうした問題意識は、自分自身の内面からくるものであるように思える。そうした自分の原点のようなものを、常に念頭に置きながら論文作成を試みられると、最後までぶれずに、論を展開することができると思われる。このようなことはあらためて申し上げることでもないのだが、自分の場合、意外にそんな当たり前のことが難しかった。文献をあたったり、知識が増えれば増えるほど、書きたいことや書かねばならないと思えることが際限なく増えていく。最後は結局、何を書かないか、ということが問題になってしまったからである。
 社会貢献もしていない、ハンディキャップだらけの自分に向き合うことから、私の研究は始まった。私の問題意識は、ある意味、他の方々より多くて、大きいものだといえるのかもしれない。このような私が選んだ研究テーマは、宗教の世界であった。昔ボランティアでお世話になった、イエズス会やフランシスコ会の神父さんたちの、『聖書』の崇高で時にストイックな、救いに満ちた尊い精神性、そして何百年にもわたり自分の体に流れる、神道という、古代からの日本人の素朴で身近な、清い精神性に対する思いであった。
 宗教というと、とかく日本人には敬遠、むしろアレルギー的な反応を示す人も見られるが、それは一部の過激な原理主義や宗教まがいのカルトによるものと思われる。本物の宗教は、我々の生活の基盤となっている文化を形成しているものであると考える。特に、神道とは我々日本人の生活そのものであり、生活を離れた信仰というものを日本人はもっていない、と春日大社の葉室宮司は言っている。これは、『聖書』でも同じことが言えるのではないだろうか。『聖書』の経典とする宗教は、キリスト教をあげるまでもなく、世界宗教をふくんでいる。『聖書』の世界観や精神性というものは、それを信じる人々の生活の一部となり、今日までその文化を育んできたのではないだろうかと思うからである。 私の中では、これら全く違う信仰形態を持つ宗教性は、決して相反発することなく、むしろ共存し共生して、現在の自分を形成していると思われるのである。私にとって、「生」は当たり前ではない。むしろ、今「生かされていること」を強く感じている。自分の「生」は、かりそめに過ぎない。だからこそ、「生きていること」や森羅万象の妙なる美しさを感じることもできるのかもしれない。そう思えたとき、美しさを感じることができることほど、幸せなことはないように思えた。そうした人間にとって、また「生きる」ということについて、もしかしたら最も大切なことかもしれない世界観や人生観を教えてくれた宗教という文化の、広大で清らかな宇宙に触れたいという思いが、私の原動力であった。

  3.2年間を振り返って
 文献を探す上では、意外というか、思っていたとおりというべきか、神道と『聖書』を比較研究している文献や研究者は決して多くはないようで、先行研究を探すのは容易ではなかった。しかし、ものは考えようである。先行研究を気にせず、自由に自分の考えで比較し、論を展開することもできる、とも考えることは可能だからである。そう考えれば、ありがたいことでもある。
 竹野先生も、海のものとも山のものとも知れぬ、取り留めのない私の研究テーマを、忍耐強く聞いてくださり、何とか形になるよう、自分でも気付かぬ論点を引き出そうとして、的確で丁寧なアドバイスを下さり、その上で、非常に自由に研究させていただけたと思う。その点でも、私は非常に恵まれていたと思い、竹野先生には感謝しきれない。 科目の履修も、とても有意義なものであった。特に、「宗教哲学特講」と「哲学史特講」は、他の専攻からの履修にもかかわらず、専攻違いの私にも、忍耐強く大変丁寧に指導していただけたことは、大変ありがたいことであったと感じている。自分の研究自体も含めて、突き放して客観的に、かつ批判的に見るという視点を教えられたように思えるからである。



   エリアーデは、宗教学の文化的指命として、次のように言っている。

 人文科学の中でも、学問であると同時に、入門教育的かつ精神的なテクニックでもある少数の中に属するだろうとし、近い将来に第1級の文化的役割を果たすだろう。
また、リクールは、次のように言う。
 現代の我々の有様は、聖なるものの忘却と、その結果としての人間全体的な喪失である。これが、人間にとって最も基本的な場である言語の場で生じているのが、現代性の特色である。

 これは、文化全体にもいえることなのかもしれない。我々人間にとって文化というものは、人間の生活そのものであり、離れて存在することができないものなのではないだろうか。現代の我々は、文化というものの意味を科学技術や物質的なものというような狭義な意味にとらえすぎているように見える。しかし、文化は本来、物質的なものだけを指しているのではない。精神的なもの、心を豊かにするものをも指している。その忘却は、まさにリクールの言う「人間全体的な喪失」につながっていくのかもしれない。そうした意味で、文化は大切なものであり、私にとって人生で最も大切な大学院の2年間を、文化情報専攻に席をおくことができ、そこで学び、研究できたことを、心からありがたく、幸いなことであったと思う。

 最後にもう一度、私のようなものを支えて導いて下さった、竹野先生をはじめとする皆様方に感謝の意を表したい。また、これから論文を書かれる方々にも、微力ながら、エールを送らせていただきたいと思う。時間だけはどんな人にも平等に与えられているが、それを自由に使うことは難しいことと思われる。だが、決してあきらめないでいただきたいと思う。様々な事情をお持ちで、学業との両立は大変難しいこととご推察申し上げるが、皆様は決して一人ではなく、またすばらしい可能性をお持ちだと思うからである。


「台湾での修士論文奮戦記」   文化情報専攻 長田 朱美

 大学を卒業してから10年。まさか自分が大学院に進学しようとは夢にも思いませんでした。しかし、こうして修士論文を書き上げて、振り返ってみると思い出す一文があります。「学ぶ準備が整ったときに師が現れる」(1)これは、一年次に受講した「比較文化・比較文学特講」の課題図書の中で出会ったものです。自分とはまったく縁のないところだと思っていた大学院に私が進学したのは、まさに私の中で準備が整ったからこそ、授けられた機会だったように思えるのです。

 久しぶりの学生生活が始まり、履修登録のときは夢が広がりました。勉強してみたいと思うような魅力的な科目がたくさん並んでいたので、選ぶのに困ってしまったのです。なんとか自分の研究テーマに関係するものに絞って、履修できる上限まで欲張って登録しました。しかし、届いた教科書をめくってすぐに後悔しました。大学院の勉強なのですから当たり前のことですが、とても難しいのです。通学して勉強するのなら、時間になれば授業に出席して勉強するわけですが、通信制の場合は、自分で計画を立てて勉強しなければなりません。言うのは簡単ですが、実行するのはとても難しいのです。それも課題が難しければなおのこと、仕事の忙しさを理由に勉強から遠ざかり、がんばって勉強を始めても、教科書をめくるたびに自分の知能の限界を思い知らされ、私なんかには、大学院は無理だったのかもしれないと思うことの繰り返しでした。しかし、そんな私がなんとかレポートを仕上げることができたのは、メールで質問すればすぐにていねいにご指導くださる先生方のバックアップがあったからです。先生方のお人柄が表れたメールをいただくのは、とても待ち遠しいものでした。添削していただいたレポートから、新たな視点を発見することも多く、また、思いもかけずほめていただくと、単純な私は次もがんばろうという気になることができました。毎月のアクセスチェックの時も、入学式やスクーリングでであった仲間の顔を思い出し、一人で勉強しているのではないのだという気持ちになることができました。

 大学院進学から半年して、台湾に住むこととなりました。通信制の大学院でなければ勉強を続けることはできなかったでしょう。パソコンがあり、インターネットにアクセスすることができれば、世界のどこにいても勉強できるということに改めて感心しました。国際比較がテーマだったために、台湾に住んだおかげで、かえって研究をより深く掘り下げることができました。語学学校に通ったので、同級生は多国籍で、研究のヒントをもらうこともできましたし、アンケート調査に協力してもらうことができたのです。しかし、困ったのは、参考図書でした。先行研究を見つけることや関連する論文を調べることなどは、インターネットでできましたが、参考図書に関しては、手に入れることが難しく、日本に帰るたびに調べたり、日本に一時帰国する友人に頼んで運んでもらったり、送ってもらうしか方法がなかったのです。特に辛かったのが、2年の11月からでした。後期の課題レポートの参考図書は、なかなか手に入らない、修士論文はまとめなければならないうえに、語学学校での中国語の勉強もどんどん難しくなり、学校の予習、復習、課題レポート、論文とやることが多く、期限までに仕上げることができるのかと常に不安でいっぱいでした。12月31日もパソコンを打ちながらの年越しでした。しかし、台湾は、2月の旧正月をお祝いするので、1月1日こそ祝日ですが、2日から平日なので新年のムードはどこにもなく、かえって、お正月返上して勉強するという悲壮感に駆られることなく勉強を進めることができました。また、年末には台湾南部で発生した地震により、海底のケーブルが破損し、インターネット回線がつながりにくくなるというハプニングにも見舞われました。メールもなかなか届かず、ファイルを添付した重たいメールなどは、送っている最中にインターネットが遮断され、送れないということが続きました。通常通りに戻るのが1月末と発表されましたが、レポートと論文の期限はそれよりも前。回線がすいている夜中に起きて、インターネットをつないだりして、なんとか期限内にすべてを提出することができました。

 入学するときは、二年間という時間がとても長いものに思いましたが、過ぎてしまえばあっという間でした。しかし、先生方との出会い、一生繰り返し読みたいと思う本との出会いなど、自分の視野や考え方が大きく広がったことは、何にも変えがたい貴重な経験で充実した時間でした。何度もくじけそうになりながらも何とか修了することができたのも、学ぶ準備が整ったときに最良の学び舎で勉強することができたからだと思います。これから修士論文に取り組む方には、この通信制のメリットを大いに活用して充実した研究をしていただければと思います。また自分自身がインターネットのトラブルに出会った経験から、提出期限よりも余裕を持って仕上げることが大切だと思いました。研究やレポートが進まず苦しいときもあるかとは思いますが、辛いのは一時だけで、終わってみれば、とてもよい経験に変わると信じて前進してほしいと思います。

(1)E.キューブラ・ロス(伊藤ちぐさ訳)、『死後の真実』、日本教文社


「母親の勉強時間」   文化情報専攻 伊藤 順子

 思えば今から2年前、息子が小学校へ入学するのに合わせて、私も学校に戻りたいと思ったことがことの始まりでした。子供に手がかかるので、毎日の通学は不可能でした。そこで通信教育で学べるところを探したのです。幸いにも、日本大学大学院総合社会情報研究科の文化情報では、広い分野の研究を通信教育で受け入れて下さり、自由闊達な雰囲気の中で学ぶことが出来ました。
 特に初年度は、シェイクスピアと能という思いもかけないコラボレーションから本当に多くのことを教えて頂きました。このときの能の実体験が、私の修士論文の動機となったほどです。
 月1度のゼミでは、当分子連れの参加で、皆様には大変ご迷惑をおかけしました。先生方をはじめゼミの皆様は、いつも暖かく迎えて下さり心から感謝しています。ただ2年生も後半になってくると、だんだんにお留守番が出来るようになり、子供の成長に嬉しくもあり寂しくもありといったところでした。
 子供は確実に成長するものの、私はこの2年間、一体どれだけ学習出来たのでしょうか。それを振り返る前に、まず母親の毎日とはどんなものなのかをお伝えしたいと思います。

 朝7時に子供を起こし、お風呂に入れます。
 その間に、手早くベッドメイクをして主人の洋服と子供の洋服を用意します。
 その後朝ご飯の支度をし、食事をさせてから、学校まで送ります。
 帰ってから、自分の朝ご飯をすませ、洗濯や掃除、家の雑務を行います。
 子供のお迎えのあと、サッカーだのピアノだの水泳だのと、曜日によっての送り迎えを  します。
 夕方は、お風呂、食事とめまぐるしく、9時の就寝までバタバタします。
 そして子供と一緒におやすみなさい。

 これらが整然と行われるわけもなく、怒ったり、叫んだり、笑ったり、ふざけたりしながら進んでいくのです。私はいつ、論文を書いたのでしょうか。結局、子供と一緒に寝てから、朝4時とか5時とかに起きて書いていました。今、思い返してもよく最後までたどり着けたものだと思います。ひとえに、先生方のご指導とゼミの皆様のお蔭です。この場をお借りして、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。また、家族にもたくさん協力してもらいました。ゼミの間、子供を預かってくれた主人や義父母には、本当にお世話になりました。
 こうして終わってみると、1人でなしえた事など何もないことに気付きます。必ずどこか何かで、誰かの助けを借りているということに。1つの論文を書き終え、最も学んだことは、感謝ということかもしれません。


「幸せな時間」   文化情報専攻 佐藤 順子

1 はじめに ―ハラをククってきました!―

 「ハラをククってきました!」
2005年4月、大学院生となって初めて、指導教授である永岡先生の研究室を訪ねた際に、私が発した言葉だ。―ハラをククる―決死の覚悟をしてこの場に居ます。ということである。
 大学院入学くらいで何も大げさな・・・とお思いかも知れない。しかし、巷で「団塊ジュニア」と呼ばれている私の世代は、三浦展氏の言葉を借りて言えば「難民世代」である。同世代の人口の多さとバブル崩壊した景気に威圧されながら、受験や就職など、人生の大切な節目には、常に必要以上の覚悟を余儀なくされてきたのである。豊かな社会に身を置きながらもどこか腹ペコ。世間ではジェンダーがどうのと論議されているが、だいたい「ジェンダー」「フェミニズム」とか、そんなのモテない女の僻みでしょ!男女雇用機会均等法?だから何?それ以前に、私たちには求人が無いんだ!生きてゆくためには、派遣だろうがフリーターだろうが、時には「女らしさ」を売り物にしたってやるしかない。・・・そう思いながら生きてきたのだ。そんな私が大学院での研究対象に「女性論」を選んだ。まさに腹を括るのに相応しい「負の選択」だった。

2 永岡ゼミの「ナガオカマジック」

「おやおや、怖いなぁ。」
意気込んでやってきた私を、永岡先生は柔和な笑顔で出迎えて下さった。大学時代からの、お馴染みの笑顔だ。こちらもつい釣られて笑顔になってしまう。この笑顔に言葉が加わり、学生たちの研究意欲がどんどん引き出されてゆくのである。これぞナガオカマジック!私の体験を踏まえながらいくつか紹介しよう。
@「面白いね!」「いいじゃない!」という魔法
 研究の初期段階では、先生と研究についての案を提示や、調査した文献についての報告をしたりする。私の場合は、婦人解放運動の出発点を探るべく、近代の新聞や婦人雑誌を片っ端から目を通した。週に3回は大学の図書館や国会図書館に通い、そこに所蔵していない雑誌は、他大学へ出向いた。毎回収穫があるとは限らないし、スカも多い。気が遠くなるくらい地道な作業だ。それでも何とか得たものを永岡先生に報告すると、まずはその中で良い点を見つけて「面白いね」「いいんじゃない」と学生の努力を笑顔で受け入れて下さる。褒められることにとても弱い私は、挫けそうになる気持ちが起る間もなく、先生のアドバイスを受け取って、意気揚々と、更なる収穫を求めて研究室を飛び出していくのであった。
A「おやおや」という魔法
 あれこれと収穫物を広げすぎて、本来の研究へと戻れなくなりそうな時に使用される。修士論文を書く上で、研究の幅を広げることや無駄だと思うことをしてみることも大切でしだ。しかし、逸れてしまっては大変なことになる。私は婦人雑誌を扱っていたが、余りにも広げすぎて気がついたら近代のエロ本や現代の男性向成人雑誌にまで手を伸ばしていた。いつだか、永岡先生の研究室で女の子3人、キャーキャーと「袋とじ」に鋏を入れている姿に「おやおや」と・・・。困ったような笑顔を浮かべている先生を見て、反省ひとしきり。早急に軌道修正を加えたのであった。
B「大丈夫。書ける、書ける!」という呪文
 いくら資料を収集しても論文というかたちにしなければ何にもならない。特に2年目の夏以降は、文章にすることに労力を費やしてゆくことが大切である。わかっているけれど、でも書けない。時間だけがただ流れていった。「早く書け」と急かされて当然の状況下で、永岡先生は「大丈夫。書ける、書ける!」と何度も繰り返し唱えて下さった。そう言われると不思議なことに書ける気になってしまうのだ。もう脱帽である。私は2年生の12月になるまで一文字も書くことができずにいた。それでも諦めずに為し遂げられたことに、今更ながらこの上ない驚きを感じている。

3 ハッピーアワー

 大学院の最終目的は、修士論文を書き切ることにあるが、それだけに囚われていては勿体ない。せっかく大学院という学び場にいるのだから、存分に楽しもうではないか!私がそう思うようになったのは、2年生になってからだった。大学院1年目、たまたま永岡ゼミ生が私以外にいなかったことや必修科目を履修しなかったこともあり、学生同士の接点がないまま1年間を過ごした。指導教授を独り占め出来るという優越感に浸りながらも、仲間とのコミュニケーションがないことで不安も過ぎっていた。
「このまま大学院生活が終わっちゃうのかなぁ。寂しいなぁ・・・」
そんなことはない!1年目に履修しなかった必修科目のスクーリングでは、沢山の仲間と会うことができたのだ。
 3日間という短い時間の中で、文化情報専攻の必修科目である比較文化・文学特講の講義では、キリスト教に触れることで、欧米の文化について学んだ。それは、私たちひとりひとりが、自分の生きるべき生き方を選び取ってゆくことが大切であるということを痛感するものでもあった。そして、講義終了後には、「ハッピーアワー」と名づけられた懇親会があり、そこでは他専攻の学生や先生方とも気軽にお酒を酌み交わせる、楽しいひとときが待っていた。「ハッピーアワー」は瞬く間に過ぎていったが、今振り返ってみると、スクーリングの3日間という全ての時間が私にとっての「ハッピーアワー」だったと思う。

4 おわりに―これから修士論文を書く方、大学院を希望する方へ―

 研究は自ら行動し、掴み取ってゆくものだ。だからと言って、ひとりよがりになってしまっては、決して良い方向へは行かない。大学院で学ぶ学生として、仲間や先生方(それは研究指導教授のみならず)との交流を大切にし、信頼関係を気づいてゆくことが大きな原動力となり、宝物となるのではないかと思う。この大学院は、通信制の大学院ということもあって、直接コミュニケーションを取ることはなかなか難しいかも知れないが、その分、スクーリングが凝縮されたコミュニケーションの場となっている。また、メールやサイバーゼミを上手く活用してゆくことで、先生や事務スタッフ、そして仲間との積極的な意思疎通が可能であり、より充実した大学院ライフを過ごすことができる。  そして何よりも、学生からのメッセージを喜んで受け入れて下さる先生方が勢揃いしている。だから躊躇わずにその送信ボタンを押してしまおう!
 きっと、今より良くなる。 ―幸せな時間を―


「怒涛の二年間」   人間科学専攻 岩坂 憂児

 今にして思い出すと、眞邉ゼミでは驚かされる事ばかりだった。入学式の日からゼミへの参加。その中で飛び交わされる難解な専門用語。「果たしてこの中で私は二年間で無事に終了する事が出来るのだろうか?」「とんでもないところに来てしまったのではないだろうか?」これが私の最初の本音だった。
 その予感はある部分では的中し、ある部分では大きく外れてしまった。
厳しいゼミでのやり取りを離れると同じ仲間同士の和気藹々とした雰囲気がこのゼミの本質なのだと分かるのに時間はかからなかった。

 このゼミに参加することは大変であったと同時に大変な楽しみでもあった。忙しい仕事の中、時間を工面し、自分のアイデアをまとめスライドにし、それを発表する。その作業と同時進行で他のレポート課題を提出し、とおおよそこれまでの人生の中でして来なかった勉強をこの二年間でやってしまうような感じさえした。しかし、それはけっして苦痛だけではなく、むしろ学ぶ楽しみを再確認するような作業であった。これまで自分の学んできたものとは質を異にする学問を学ぶ事は、私の小さな灰色の脳細胞をとても刺激するものであった。さらに、普通の人生を送っているだけでは決して出会う事はなかったであろう仲間達との出会いは、私の、ともすれば安楽な方向に流されてしまう怠惰な性格を徐々に修正し、レポートへの原動力ともなっていった。

 いよいよ修士論文を書く段階に入って、怒涛のような日は加速していった。データの収集と処理、そこから導き出される考察・・・。正月休みは休みであって休みにならないほど慌しく過ぎ去っていった。この時も仲間とのやりとりで救われた。自分だけが苦しいわけではなく、皆同じなのだと。仲間のありがたさを痛感する時間でもあった。

 論文の副本の提出、口頭試問とただただあわただしい時間が過ぎていき、今日に至っている。終盤の忙しさは、筆舌にしがたいものであったとしか良いようがない。
ただ、口頭試問が終わった今、ゆっくり考えると、この忙しかった時間はとても素晴らしい時間だったのだと感じている。
特にこの二年は自分自身においても結婚、妊娠とまさに人生のターニングポイントを迎えた非常に中身の濃い二年であった。
徐々に、生活が以前のような平凡なものになりつつある今、この二年という短い、しかしとても充実した時間がより素晴らしい輝きを放ち始めている。
この二年は私にとって忘れられない期間であったし、価値のある期間であった。最後に、根気よく指導してくださった眞邉先生、この素晴らしい期間を共に過ごしてくれた同級生の皆さん、先輩、後輩の皆さん、そして支えてくれた家族に心より感謝したい。


「人生最大のカルチャースクール」   人間科学専攻  神山 恵美

 ちょうど2年前、仕事を続けながら大学院にも通える当大学院を見つけたことから私の学生生活が始まりました。大学時代は、進学希望でしたが家庭の都合で就職しなくてはならず、就職して落ち着いたらいつかは大学院で勉強したいと漠然と考えていました。
 沖縄からの参加であるため、交通面での不安はありましたが、滅多に東京に行くことがないので旅行気分でゼミに参加できるかなとかなり軽い気持ちだったのを覚えています。
 大学院入って、皆さんには当たり前かもしれませんが初体験がたくさんありました。時々迷いますが、おかげさまで何とか電車に乗れるようになりました。また、春はハラハラと散る桜を生まれて初めて見て感動し、夏はゼミ旅行で縄文杉を見に屋久島へ、秋は紅葉で街並みが茶色に変わり、冬は風の冷たさを知り、巡る四季の中で長いようで短いような2年間だったと思います。
 レポート提出時期は、仕事を終えた夕方や週末は図書館に引きこもって、時間が経つと集中力が続かず、歯がゆさを感じることがしばしばでした。メールのやりとり等、ゼミ生同士で励ましあえたことが、自分は一人ではなく同じように頑張っている方がいるという起爆剤にもなりました。在学中に転勤、引越しがあり、新しい職場や新しい住環境に慣れず体調が悪かった時期もあり苦しかったけど、今思うとサイバーゼミの発表やレポート作成が気分転換の一つになっていたのかもしれません。
 カルチャースクールが好きで、これまでいろいろな習い事に手を出しては中断してばかりでした。でも、大学院は何とか投げ出さずに修了できました。大学院自体も私にとっては、人生最大のカルチャースクールなのでしょうか。 在学中の充実した時間と入学しなければ会うことのなかった先生はじめ、ゼミ生との出会いは何事にもかえられないものになりました。感謝です。
本当にありがとうございました。



「明けない夜はない」   人間科学専攻 大崎 千恵子

 2年前の4月、日本大学の大学会館で開講式を終えた私は、川べりのベンチに座ってサンドイッチを食べていました。桜の花が満開ののどかな日。行楽にきた家族連れのなかで、スーツ姿の私は明らかに浮いていたのですが、そんなことはまったく気にしません。そこにいることのほうが嬉しかったことを覚えています。
 しかし! ゼミに参加して愕然。会話は外国語?いえ、日本語ですが、なんだかさっぱりわかりません。初めの1年間はテキスト持参。じっと黙ってひたすら聞くだけ。おまけに、ゼミに参加したからには発表は必須。初めてのゼミ発表は5月のサイバーゼミでしたが、そのときのスライドはテーマと目的のたった2枚ぽっちです。
 2年間のゼミで発表し続けた資料をこのたび一列に並べてみました。パワーポイントのファイル数は29個。内容を見直してみると、もちろん枚数もサイズも増えましたが、回を重ねるごとに内容がすこしずつまともになっています。でも2年生になったころの資料では、テーマに独立変数と従属変数が入ってきて、なんとなく筋が通っているようにもみえますけど、実際にはなにを言いたいんだか分からない、といったほほえましい(?)序論のままだったり。ラストスパートの中間発表のあたりでやっと焦点が定まっているという感じでしょうか。
 そのころの私は、7月にやっと予備実験が終わった段階でも本実験の従属変数が決まらず、一番測定したいものが測定できないというジレンマに陥っていました。このころは、「看護職に必要な能力ってなに?」「どうすれば測定できるの?」という難題に頭を抱え、こうなったら違う研究テーマを考えちゃおうか・・。という考えがいつも頭をかすめていました。結局、自分は何がやりたいんだろう、と自問自答の繰り返しでしたが、その疑問はゼミに参加することで解決していきました。ゼミの仲間から素朴でシャープな意見を頂き、落とし穴から抜け出せて、また次のゼミではつまづき。やっと修了できるのも落とし穴から拾い上げてくれた眞邉先生をはじめ、仲間や先輩のおかげです!感謝!感謝!
この2年を振り返って思うもの。とにかくゼミに参加して、意見を交わすことの大切さ。はじめの1年間、「何がしたいのかわからない」といわれ続け、途中で自分でも何がしたいんだか分からなくなり。しかしなんとかゼミに参加し続けました。参加だけはしようと心に決めていました。いまになれば、これが一番の近道だったと感じます。そして何よりも仲間との出会い。こっそりとメールを飛ばしながら、携帯メールのある時代でよかった。と秘かに思うこともしばしば。明けない夜はないということを実感した2年間でした。
 修士は研究の方法を学ぶところ。眞邉先生がしばしばおっしゃる言葉です。この大学院での学びをさらに積み重ねて、もっともっと現場に還元できる研究を続けていけるように、これからもガンバリマス。


「レポートの原動力」   人間科学専攻  中村 哲也

 通信制大学院という言葉に誘われて気軽な気持ちで入学。月に1回ぐらい自己研鑽という口実のもとに東京に行って、ついでに美味しいもの食べて・・・なんて思っていました。そんな甘い生活が打ち砕かれたのが、1年生の前期レポート提出1ヶ月前。「そろそろレポート始めないとなぁ」と思って、レポート提出期限までの日数をレポート提出本数で割ってみたら、電卓には気を失いそうな数字が表示されていました。「このレポートを終わらせるためには他にストレスがあってはいけない」という勝手な判断のもと、毎日コンビニで大量のお菓子を購入し、お菓子を食べながらレポートに励む日々が続きました。きっと、コンビニの店員さんには大家族だと思われていたことでしょう。お菓子の成果もあってか、無事に提出期限前に全てを出し終えることができましたが、同時に体重増加というおまけまでついてきました。
 「後期こそはコツコツと頑張るぞ!」という誓いを立てたものの、記憶障害かと思うくらいにそんな誓いはすっかり忘れてしまい、また1ヶ月前に電卓を弾いて気を失いそうに。後期もお菓子の力を借りて無事に乗り切りましたが、体重計に乗ったら5キロも太っていることが判明し、また気を失いそうになってしまいました(2年生の修士論文の作成のときにも何度か気を失いかけましたが)。
 お菓子の力を借りてレポートを書き上げたということは冗談にしても、仕事をしながらという状況で無事に大学院を修了できたのは、ゼミの同級生同士で連絡し合っていたことが大きかったのかなと思います。通信制というシステムでは、自宅において一人で頑張らなければいけないということが挫折の要因として大きいように思います。ゼミの同級生同士で連絡を取り合って励ましあうことで、何とか最後までこられたような気がしています。最後に、追い込まれたときにしかラストスパートしない私達を寛容に指導していただいた眞邉先生、同級生の皆さん、ゼミの方々に感謝いたします。
 今度は増えた体重を戻すべく断食道場にでも行こうかなと計画しています。

 


「ハプニングってあるものですね!」   人間科学専攻 中島 正世

 私は、いつもぎりぎりになってから慌ててやり始める傾向があるので、早めにやらなくてはと、1年の11月に研究1の調査を実施して2年の4月に集計し、5月から研究2を実施して9月に結果をまとめました。しかし、10月の中間発表会に欠席してから12月まで手につかず、12月になってあせって問題と考察に着手し始めました。せめて、草稿を年末の休みに入るまでに、担当の先生に提出したかったのですか、問題や考察に時間がかかってしまいました。そのため、年末年始はずーっとパソコンにむかって草稿が提出できたのが元旦でした。本当に伊坂先生申し訳ありませんでした。
 私は、何度も修士論文の完成は無理かなと思って、2年での卒業をあきらめることがありました。そんな時、力になったのが、ゼミの同期の皆様や伊坂先生でした。そこで、私の奮戦記を記念に残します。

<研究1(自記式質問紙法)でのエピソード>
 自記式質問紙は、内容をとりあえず、自分の主旨にあう既存の質問項目が載っている先行文献から3つ選択して、あとは、安心と思っていました。しかし、この“とりあえず”が悲惨な結果に・・・、問題・考察を書く時点の昨年の12月初旬に、私の参考にした研究報告がアンケートの育ての親であることに気づいたのです。とてもあせりました。それから、アンケートの産みの親を探すのが大変でした。そうです、私が参考にしていたのは、育ての親ばかりでした。この時、質問項目の出典を早期に明確にしていた方が、良かったと反省しました。(私ぐらいですかね)
 何件法で実施しようか、調査研究法で「中心化傾向を防止のために偶数が良い」と学び、SPSSの講習会では、「統計的に活用するためには5件法以上が望ましい」、ということは、6件法ですか、私の対象者は、多忙な方々なので6件法を依頼することを躊躇して5件法で実施しました。その結果、ほとんど“1”、“3”、“5”という人も少しいました。もちろん良く考えて1、3、5かもしれませんね。そして、次の研究で6件法のアンケートを実施したところ、6件法でも大丈夫でした。私の考えすぎでしたね。中心化傾向を防ぐためには、6件法でも十分大丈夫でした。
 質問紙の印刷は、紙の節約のために両面印刷をして、実施した結果、最後の裏面を忘れてしまう人が何人かいて、ショックでしたね。つまり、質問紙の印刷で両面に印刷する場合は、最後の裏面を使わない方がいいですね。

<研究2(実験調査法)でのエピソード>
 実験調査では、何とか7月からの夏季休暇に入る前にすべての調査を終了しないと、個々のイベントやそれぞれ夏季休暇をとるために、人員も最小限の人数での業務となるため、調査結果に影響がでる。そのため、5月の初旬に調査依頼をした。私は、個々に紙面で実験協力者を募集することにしていたのですが、調査依頼時に集合説明会を開くこととなった。その時点から、説明会用のポスターを作成して説明会を2施設2回ずつ実施した。その結果、説明会は、5月末日と6月初旬にA施設は、1回目3名、2回目5名、B施設は、1回目2名、2回目0名と合計でも10名でした。これでは、実験調査の統制群・実験A・実験Bの3群を計画して、最低でも50名を期待していたので、40名も不足してしまう。私はとにかくあせりました。まずい研究2が実施できない。
そこで、とにかく個人交渉しかない。しかも、研究2の調査期間が、実験デザイン:ABAデザインを予定しているために、最低でも2週間はかかる。さらに、調査対象者が交替勤務制なので、依頼や回収にも日数がかかる。とにかく次の日から、休み時間やアフター5を利用して、各部署をめぐり、個々人に実験調査依頼をした。2施設11部署をめぐり、まるでセールスマンのようであった。時には、ミーティングの時間と重なり、終わるのを待ってみたり、各部署で知っている人の勤務を聞いて再度訪問したり、相手は仕事中なので、調査の説明には7〜8分かかるために、次回のアポをとったり、何度施設内をうろうろしたことか解りません。 
その結果、55名の協力者が得られた。しかし、中には、匿名希望で名前がなかったり、実験方法がアロマテラピーを枕に挿入する方法と一定のつぼをタップする思考場療法の2つを計画していることを話していたので、「アロマだったら」とか「アロマは柑橘系しかだめなの」など、さまざまで結果的に50名の協力者となった。
 さてさて、これからがまた大変でした。まずグループ分けをして、50名に個別に実験調査依頼をしなければならなかった。調査対象者の勤務帯を確認しながら、2施設11部署をかけめぐり、調査依頼だけで6月19日から開始して1週間はかかりました。これで、一安心、最終調査終了予定は、7月1日となり、またまた、回収に時間がかかりました。6月の一ヶ月間は、仕事よりも研究の方が主な毎日でした。

<中間発表会のエピソード>
 10月の中旬に中間発表会がありました。もちろん、中間発表会で発表する予定でした。しかし、中間発表会の前日に主人が一泊入院しました。この時は、まだ良かったのですが、同日の夕方に中学2年生の息子が「お腹が痛い!」と言い始めました。この時私は、またいつもの腹痛かなと思っていました。しかし、息子の腹痛は、夜の9時になってもおさまらず、腹痛の部位が中央から右下腹部へ移動してしまい。私は、「もしかして、虫垂炎、今から病院に行けば、今から手術してもらえて、明日は発表会に行けるぞ!」と息子を連れて、夜間の外来に受診しました。ところが、診察して検査して診断されて入院が決定したのが、発表会当日の1時で、入院したのが3時、手術が日勤帯の医師がきてから実施することになりました。私と8歳の娘が家に帰ったのは、発表会当日の朝の3時だったでしょうか?この時、中間発表会の発表を断念して、伊坂先生と事務局に中間発表会の欠席のメールを送りました。何と伊坂先生は、こんな時間なのに、すぐに返事をくれました。いつも、気にかけてくださって本当にびっくりしました。
 その後、娘のオペラの出演のために娘中心の生活を続け、もちろん仕事は常勤です。その結果、修士論文は、まったく手つかずとなり2ヶ月が過ぎ、12月のゼミで、面接試問の練習・・・・。私は、自分の修士論文の内容を少し忘れてしまったようで、ちんぷんかんぷんの発表練習となって自己嫌悪に陥ってしまいました。そこで、修士論文は、2週間に一度は目を通すべきだったと反省しました。
 おわりに、自分に、いつ何が起こるかわからないですね。しかし、自分に悔いが残らないように、最後まであきらめないことが大事ですね。最後まで、見守って下さった伊坂先生、本当に有難うございました。


「修論執筆に駆り立てたもの」   人間科学専攻 矢澤 庸徳

 入学当初の私の研究テーマは「情報教育の現状と問題点について」という程度の大雑把なものでした。もちろん研究方法も漠然としていました。モチベーションだけはあったのですが、面接ゼミ・サイバーゼミで研究テーマについて発表を繰り返すうちに、個人的な思い込みや、付け焼き刃の浅い知識では良い研究はできないという事がはっきりとわかってきました。正しく研究を進めていくには、研究法の基本的な考え方や心理学の基礎知識、そして何よりも科学的な思考を養う必要がありました。研究の基礎知識となったのは、やはりレポート学習でした。はじめて心理学や研究法を本格的に学ぶ私にとって、指定参考図書の内容はスムーズに頭に入らず、戸惑ってばかりいました。時には、なんて事を始めてしまったのかと、後悔の念が浮かぶ事すらありました。仕事をしながらの修学であったため、学習時間を確保するために、やりたいことも我慢し、どうしたらやる気が維持できるか考えました。例えば、1年前期はレポートを書き終わったら、見たい映画を見てもいい、と自分に楽しみを与えたりもしました。しかし、不思議なことに後期になると、学習に取り組み、課題を理解する事自体が、嬉しさに変化してきました。
 2年生になると、テーマも徐々に絞られてきて「携帯メールの応答反応時間による印象の変化」について研究しようと考えるようになりました。早い返信の方がメールの印象が良くなるという一般的な感覚が、事実として正しい事なのか、実証的に明らかにできないかと考えたのです。しかし、どのような研究方法が適切なのか全く見当がつかなかったので、先行研究を調べたり、小さな事前調査を繰り返したりしました。そんな中から、何となく研究方法の道筋が見えてきて、研究に対する意欲も日に日に増加してきました。そして、最終的には研究の流れを、事前調査・予備調査・本調査・実験とする事に決めました。調査標本数の目標は、統計的に、より説得力のある1,000件とし、その調査結果を元に最終的に実験を行うという筋道になりました。しかし、内容が具体的になるにつれて、徐々に恐怖感が湧いてきました。それは、手順を間違えたら、多くのデータが無駄になってしまう、または適切な結果が出なくなってしまうという怖さでした。そんな時、私を救ってくれたのは、ゼミの皆さんや先生のアドバイスでした。少しでも不安な事があると、ゼミやメールを活用して皆さんに助言を求め、何回も助けていただきました。驚いたのは、現役のゼミ生だけでなく、修了生・研究生の方たちまでも、サポートしてくださったという事でした。通信制の大学院なので、孤独な勉強が多くなると思っていたのですが、本当に予想外でした。お陰様で、こんな私でも牛歩の如くではありますが、研究を進めて行くことができました。調査では、ゼミ生・修了生・研究生の方や友人、さらには河嶋先生・眞邉先生までも協力してくださり、最終的に1,516通を回収することができました。データは自力ですべてを入力することは、どう考えても不可能であったため、職場の同僚や学生さんの手を借りる事にしました。膨大かつ細かいデータであるため、一体何人の方が手伝ってくれるか不安でしたが、ありがたいことに多くの方の助力を賜り、予想より短期間で入力作業が終了しました。最終段階である実験参加者の確保も、協力してくれるという学生さんが何人も手を挙げてくれたので、これも助かりました。実験では、返信時間の統制が必要であったため、友人のプログラマーが、システム開発に協力してくれました。一時はどうなるかと思いましたが、結果的にデータは比較的明確なものが得られました。
 この時点で提出締切りまでの期限は1ヶ月を切っていました。基本的にズボラでのんびり屋なのですが、この時は不思議と集中力が高まりました。そんな力はどこから来るのか、今から考えると不思議に思います。何かが私を執筆に駆り立てていたと感じています。それは、自分自身から涌き起こる内的な動機付けでした。そして、これを与えてくれたのは、周囲の皆さんの存在でした。ここまで支えてもらったのだから、何とか論文にまとめたいと思ったのです。正しい研究方法に則り、真実は何なのかを探求してゆく事がこんなにも楽しいものだと感じられるようになったのも、支えてくれた皆さんのお陰です。また、"evidence-based"の考え方をはじめとする研究の手続きは、より客観的で正しい結果へと私を導いてくれました。
 修士論文の正本を提出する段階になり、この2年間で学んだ事を思い出すと、すべてが今後の人生に役立つことばかりだと感じています。今心の中は、修了になってしまうという寂しさもありますが、安堵感や達成感、そして、何より、ゼミの皆さんや先生・応援してくれたすべての皆さんに対する感謝の念で溢れています。

本当にありがとうございました。

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