「皆さんの協力で完成した論文」
国際情報専攻 加藤 坦弘
私はサラリーマンを定年になってから日大の通信制大学で歴史学を学び、その延長として当大学院で勉強させていただいた。思えば「ウン十年前」の高校時代には、「大学院」で学べるなどということは夢にも思わなかった。それが修士論文を書き終えた今、これで大学院を修了できるのかと思うと「夢ではないか」と思えるほど嬉しさが込み上げてくる。
しかし、論文を書き上げるまでの道のりは苦難の連続であった。まず入学できるかどうかが問題であった。英語はまるっきり駄目、論文も即席で作ることが困難、論文テーマも決まってないという有様であった。そこで日大通信教育部校友会の事務長をなさっている石大三郎先生(当大学院一期生)に相談したところ「入学するなら国際情報を専攻し『荘光ゼミ』に所属することになるだろう」ということであった。
それなら修士論文は中国関係の問題をテーマにしようと決めた。そして中国関係なら、子供の頃から疑問に感じていた「戦争がなぜ起こったのか」という問題をこの機会に考えてみようと思った。それで私は論文テーマを「満州事変についての一考察」として登録した。しかし、石先生からは「テーマが大きすぎる、もっと絞り込め」とのアドバイスがあり、その後、テーマを「満州事変の問題点についての一考察」と変更した。この時点では、近現代史の知識がまったくなかったので、うまく論述できるかどうか非常に心配であった。何しろ満州にいる日本の軍隊をなぜ「関東軍」というのかも知らなかったのだから無理もなかった。
一年目は五科目のリポート提出にほとんどの精力を傾注した。与えられた教材は講義概要を見ながら少なくとも五回は読み返した。多いものでは十回ぐらい読んだ。それでも論点がつかめないものもあった。時々「学術論文は読む人に分からないように書くものなのか」と恨めしい気持ちになることもあった。それでも何とか五科目のリポートを提出することが出来た。
修士論文のことも気になっていたので、一年目はリポートの作成と並行して論文テーマに関係しそうな文献の収集作業を行った。収集作業といっても詳しく読む余裕はなかったので、図書館で論文テーマに関係しそうな参考文献にざっと目を通し、忘れないように本の題名と目次をコピーした。また、ゼミなどで都心に行ったときは、関係書籍を出来るだけ購入し、一通り読むようにした。おかげでかなりの資料が手元に集まった。
リポート提出に目途がついた十二月頃から本格的に論文の作成準備に取り掛かった。最初に行ったのは参考文献の読み込みであった。図書館で題名と目次をコピーしておいた本をもう一度図書館へ行って読み、重要と思われるところはコピーをするようにした。ところが、すべての箇所が重要と思えてしまい、結局すべてをコピーする破目になることもしばしばあった。
こうして満州事変の全体像がつかめた段階で論文のストーリー作りに取り掛かった。ストーリーは、「まえがき」のところで問題提起、第一章、第二章で事実関係、第三章、第四章で考え方を述べるという構想で目次をつくり、二月の「荘光ゼミ」に提出した。荘光ゼミでは荘光教授、石ゼミ長から「まあ、いいだろう」というお言葉と、「特に第三章と第四章がいちばん重要な部分だから、ここで自分の考えを明確に述べるように」とのアドバイスを受け、一先ずホット胸をなでおろしたのを今でもはっきりと脳裏に焼きついている。
私は近藤ゼミと荘光ゼミという二つのゼミに所属させていただき、大変恵まれた環境で論文を書き進めることができた。近藤ゼミでは、同期のゼミ生九名によるパソコンを使った「サイバーゼミ」が毎月一回行われた。私はこのゼミで同期の人たちから鋭い質問を受け、これによって自分では気づかなかった問題点を論文に反映することができた。サイバーゼミは顔が見えないという欠点があるが、何回かやっているうちにだんだん親しみがわき、いつしか同級生として気楽に話が出来るようになった。これは大きな収穫であった。
また荘光ゼミは先生陣に恵まれていた。ゼミ生がたった二人(後から三人になった)なのに先生方は近藤教授、荘光教授という二人の教授のほかに、石ゼミ長、後期博士課程の山本さん、五期生の齋藤さんの五名の方が毎月のゼミに参加され、論文の進捗を温かく見守ってくださった。時には「食い足りない」「長すぎる」などの指摘を受け、翌月のゼミに変更したものを再提出して、また講評を受けるという作業を繰り返した。特に第三章、第四章になると歴史観が微妙に絡んでくるので、その指摘は一段と鋭くなった。一時はどう書けばよいのかまったく分からなくなり、パソコンの前で一日中悩んだこともあった。
それで思ったのは「自分の論点は変えないほうが良い」ということであった。論点というのは、「この論文でなにを訴えたいか」という自分なりの考え方・主張の着眼点であり、これが変わると全体の構成そのものが変わってしまうことになる。それだけに「まえがき」は重要だと感じた。論文を着手するにあたっては、まず「まえがき」と「目次」に時間をかけ、十分にすり合わせてから本論の叙述に入るべきだった。これが私の反省点である。
今考えると、この二年間は山登りと同じだった。重い荷物を背負ってヒーヒー言いながら山を登っている、そんな感じだった。今は頂上にたどり着いた爽快感を味わっている。どれもこれも皆さんのお陰と感謝している。特に私のようなものを快く大学院に受け入れてくださり、温かくご指導くださった近藤教授、荘光教授に心よりお礼申し上げます。
また荘光ゼミを取り纏めてくださった石先生にはことのほかお世話になった。石先生は私たち二名のゼミ生を弟や妹を労わるように見てくださった。最後には誤字・脱字まで確認していただいた。私は石先生に出会わなければ、大学院に入学することも、修了することも恐らくできなかったであろうと思う。それを思うと私は石先生に出会えたことが、私の人生で最高の幸運だったと思っている。本当にありがとうございました。
これで大学院は一応終わるのかもしれない。しかし、私は修士論文に取り組んできて、また新たな疑問が湧いてきた。私は近現代史を理解しようとして修士論文に取り組んだつもりであったが、逆にわからないことが多くなったというのが現状である。修士論文では一応結論らしきものを導き出しておいたが、すべてにわたって納得しているわけではない。「なぜそうなったのか」という視点で見ると、まだまだ分からないことが多い。今回のテーマについては、これからもさらにいろいろな視点から研究を深めようと思っている。

「充実したスクールライフ」
国際情報専攻 高橋健太郎
2006年2月11日、保存のために正式に製本すべき修士論文原稿を脱稿することができた。同日、速達で大学院事務課に郵送。正本提出が同月13日。綱渡りの日程。決して褒められる話ではないことは承知している。
それでも「自分のことは棚に上げて」(ごめんなさい)本学入試から修士論文作成まで学事日程に沿って、時系列に述べる。特に本学を志願する方やこれから修士論文に取り組まれる方にとって参考になれば幸いである。ただし修士論文作成上、必要となる技術的な記述はしない(人様にお話できるような大学院生活は送っていません) 。
本学入試に臨む際「研究計画書」の提出を求められるが、私の場合は「近代政治」を修めるつもりだったので「近代政治と政治的無関心層」について作成した。
指導教授は、学部時代に学んだ「政治学」の教科書(『現代政治の基本知識』北樹出版)を書かれた関根二三夫先生(学部時代の恩師と先輩後輩の関係)にお願いするつもりであった。
関根先生とは一面識もなかったが、院の案内に先生のお名前を見つけ「指導教授になっていただければ」と一方的に考えた。
志願書を提出後、大学院事務課より電話をいただいた。「関根先生は通信教育学部の教授と兼任されるためゼミを担当されない」という内容であった。
さらに「今、指導教授を決めて下さい」
咄嗟に「近藤ダイハク先生のゼミを希望します」
「近藤大博(もとひろ)先生ですか」
「あっはい」
「志願書については、締め切りが近いので研究計画書はこのままで結構です」
近藤先生とは一方的なお付き合いがあった。高校時代より『中央公論』『文藝春秋』『噂の真相』(2004年3月で黒字休刊)など、日本を代表する総合雑誌を講読していた私にとって「近藤ダイハク編集長」のお名前は知っていた。
先生が編集長時代に世に問うた『脳死』(ライターは立花隆)や編集者として参与した『清沢列』(北岡伸一)などの新書を購入していた。
入試当日。小論文は2問出題(院では入試問題は公表しない方針なので内容については触れない)された。口頭試問では、研究計画書に沿って説明しなければいけないが、前述した事情により「ぶっつけ本番」で臨んだ。
入試当日は食が細る。昼食は近くの寿司屋で「鰻丼」経済学部1階の喫茶室で「タラコパスタセット」。
近藤先生と高綱博文先生が試験官であった。
近藤先生は、開口一番「君、なんで背広でないの。背広を着ていないのは君だけだよ。いじわるで言っているんじゃないけど」
この後、合コンに参加するため背広を着ていなかった。
「礼を失したことはお詫びします。あえて背広を着ませんでした。学部時代の若々しい気分で口頭試問に臨むためです」苦し紛れの答弁。
諮問の内容については触れないが、高校時代より『日本経済新聞』や総合雑誌を愛読していた旨を話した。高綱先生の「早熟だったのですね」という言葉が耳に残った。
無口な私ではあったが、入試会場では近藤ゼミの同期生となる橋本稔氏や渡邉幸雄氏(乾ゼミ)と親しくなることができた。開講式は私用で欠席した。
2004年4月20日。パソコン研修1日目。パソコンの基本操作から教えてして頂く。人見知りの激しい私ではあったが、近藤ゼミの同期生、増子保志氏と親しくなることができた。渡邉氏と再会する。 昼食を忘れたため、1人で近くの和食店(店名は忘れた)にてランチビール100円(1人1杯)を飲みながら「C定焼魚定食ライス大盛り」「塩辛」「唐揚」を食べて、午後の研修に臨んだ。
夜は所沢市内のホテルに宿泊。初めての地だったため、ホテル内の和食店で済ませる。4人架けテーブルに陣取る。「やきとりセット」「天ぷら盛り合わせ」「お刺身盛り合わせ」「稲荷寿司」「ざるそば」ビール・そば焼酎。日経・読売・朝日・東京の夕刊を読みながら1人で小宴。店内には中華料理店があったため、食後には「五目チャーハン」を頼む予定だったが「今夜は貸しきり」とのこと。
2日目。航空公園駅側のコンビニで昼食と『埼玉新聞』『東京新聞』『日本経済新聞』『フジサンケイビジネスアイ』を買う。「朝食バイキング」を盛大に済ませたため軽食にする。「お握り5個」と「魚肉ソーセージ」「お茶」「キャラメル」。缶ビールを購入するか迷ったが「買わない」。
5月21日軽井沢ゼミ。「日大軽井沢セミナーハウス」は軽井沢駅からハイヤーで3分。軽井沢ゼミは2泊3日。「軟禁状態」で1日8時間のゼミを行う。一つ上にあたる5期生の方の学識に圧倒された。多岐に渡る研究テーマ。真摯に研究活動に取り組まれる姿勢に刺激を受ける。研究テーマの決め方、論文の書き方など参考になった。5期生の皆様の存在がなければ修士論文は1行も書けなかっただろう。
私は地方紙を研究テーマにしているため、在住する福島県の地方紙『福島民報』『福島民友新聞』東北のブロック紙『河北新報』・関東甲信越の地方紙『埼玉新聞』『信濃毎日新聞』『上毛新聞』『東京新聞』などを持参する。
1日目の夕食は「骨付唐揚チーズ和え」「サラダ」など。食堂内ではジュースの類は飲み放題。深夜もゼミは続く。2日目の昼食で食べたいもの相談。「焼肉」と答えるが2秒で却下される。
2日目の朝食は和洋食のバイキング。昼食は外食。軽井沢を散策。湖畔近くの瀟洒なレストランに入る。人数が多いため「できれば同じメニューを」とのこと。「ビーフカレー」(私はカレーが苦手)を注文。
皆さんが軽井沢銀座を散策している間、増子氏と私は、蕎麦屋で1杯。夕食のメニューは思い出せない。しかし個人的には1日目よりは充実していたと記憶している。深夜もゼミは続く。近藤先生から「君はこれでも飲んでろよ」と焼酎を渡される。銘柄は「島流し」 。
3日目朝食。和洋食バイキング。昼食は分散会を兼ね館内で摂る。寿司が旨い。合宿を通して先生や先輩方の親睦を深めることができ、有意義な経験となった。
7月23日夏期スクーリング。国際経済・心理学・哲学などの講義が充実していた。昼食はコンビニで買った「お握り5個」「魚肉ソーセージ」「海草サラダ」など。近藤先生は、「冷やし中華」「しじみの味噌汁」「海草サラダ」を召し上がる。
終了後はハッピーアワー。夕食は所沢市内の飲み屋で増子・西尾・橋本稔氏と「焼肉バイキング」。勉学に励んだため食が進まない。先にホテルに戻る。
2日目。朝食バイキング。早い時間のためか、客は私のみ。テーブルに戻ろうとすると「お早うございます」。近藤先生の声。先生も同じホテルに宿泊しているとは知らなかった。
「昨夜は勉学の疲れから一足早くホテルに戻りました」
「君、二日酔いだろう」
午後は「総合雑誌は必要か否か」をテーマにディべートに参加する予定であったが、体調を崩しホテルで休養。
3日目。魅力的な教授陣による授業が終了した。
11月20日冬期スクーリング。出席の必要はなかったが、向学心を押さえることができなかった。
3月25日修了式。5期生の方の終了祝賀会に出席させて頂く。2次会は近くの居酒屋、蛸の刺身が美味い。3次会は中華料理店。満腹だったので、ビールと「ラーメン」「五目焼ソバ」「餃子」を注文。なぜか同席した方が唖然とした表情。
2005年4月23日。新年度第1回のゼミ。7期生の幹事長、小沢健司氏と親しくなれた。
7月23日。夏期スクーリング。出席の必要はなかったが、魅力的な授業を聴講するため出席。ディベートに出席。近藤先生から7期生の皆さんに「これは流れ者です」と紹介される。
9月24日。近藤ゼミイン福島。皆さんのご協力で成功裏に終わることができた。
10月22日。前期課程中間発表。「はじめに」しか書いていないが発表する。緊張のため昼食が喉を通らない。日大本館地下食堂で「豚角煮丼」と「日替わり定食」のみ。他の皆さんの修士論文の内容、プレゼン力に圧倒される。
終了後、近くの鳥料理専門店で反省会。板わさ・焼鳥・そばが美味い。そばをお代わりする。福島に向かう新幹線で缶ビールと「日光おこわ弁当」。
本格的に修士論文に取り組んだのは12月に入ってから。大晦日と元旦以外はパソコンに向かった。
2006年1月28日。修士課程口頭試問。修士論文の副本を基に諮問に答えなければならない。
早めに昼食。1人で私学会館内の中華料理店で「日替わりランチ」。その後、午前中に口頭試問を終えた鳥居雄司・増子・吉野毅らと日替わり定食。皆さんはビールも注文。橋本氏の「諮問の前にビールはまずい」という助言に従って「ウーロン茶」を頼む。
口頭試問では、研究の目的・独自性などが問われた(諮問の詳細については記述しない)。
これらの学事行事の合間に「サイバーゼミ」に参加し、近藤先生や同期生の・修了生などの皆様から数々の助言を頂いた。
入試から修士論文の口頭試問までを時系列で想起しましたが、近藤大博先生を始め各先生方・事務スタッフ・教員補助の皆様は、真摯に学生の良き伴走者としてご指導して頂きました。修了を前に改めて感謝しています。ありがとうございました。皆様のご研究の深化とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
これから「修士論文」を書かれるすべての皆様へ。「修士論文」より「修士論文奮戦記」の方が数倍、楽しく書けます。

「大学院での充実した2年間を振り返って」
国際情報専攻 西尾 安正
思えばあっという間の2年間であった。レベルの高い環境に身を置いて自分を磨き、その成果として、修士論文を書き上げるという目標を掲げた私は、日本大学の通信制大学院の門をたたいた。
夢にまで見た大学院生としての生活は、決して楽なものではなかった。当初、一番大変だったのはパソコンを使いこなすことだった。通信制ということで、実際の研究活動にパソコンは欠かせないものであったが、それまで私はパソコンをまったく使ったことがなかったのである。パソコンと格闘する日々が続いたが、毎日メールを出したり、リポートを書いたりしていくうちに、パソコン操作に対する不安感が徐々に払拭されていった。それと、所属した近藤大博教授のゼミがサイバーゼミを頻繁に行なっていたので、サイバーゼミへ参加するためには、必然的にパソコンを使いこなさなければならず、結果的にパソコンに早く慣れることができた。
またリポート作成もとても大変な作業だった。とりわけ日々の仕事をこなしながら、リポート作成の時間を作ることは至難の業だった。いきおい睡眠時間を削っての作業となってしまい、精神的にも肉体的にも大変きついものだった。しかし、今考えると、リポートにしっかり取り組んだことが、後の修士論文作成におおいに役立ったことは相違ない。つまり、書く分量が多いか少ないかの違いだけで、書き方自体に変わりはないのである。その意味で、リポートを修士論文執筆の予行演習と位置付けて取り組んでいくことは大変重要である。それと忘れてはいけないのは、必ず一年目で五科目分のリポートを提出して、単位を取得しておくことである。私自身は忙しさにかまけて、一年目に三科目分のリポートしか提出できなかったため、二年目に大変苦労をするはめになった。したがって、二年目に修士論文の執筆に専念するためにもこのことは必須事項であるといえる。
社会人大学院生の一年は思いのほか早く過ぎ去る。あっという間に修士論文を書くべき二年目を迎える。修士論文を書く上で、一番重要なことは論文テーマの選定である。論文テーマさえ決まってしまえば、修士論文は半分完成したといっても過言ではない。それくらい重要なのだが、実際、修士論文にふさわしいテーマをみつけることは容易なことではない。私の場合も、大枠での論文テーマは入学時にはすでに決めていたものの、それをどのような切り口で研究していくのかという点については、なかなかよいアイディアがうかばず、二年目になっても論文テーマを決めかねていた。しかし、前述したように近藤ゼミは、サイバーゼミを頻繁に開催していたので、ゼミでの研究発表を通じて先生やゼミ生からさまざまなアドバイスをしていただき、最終的には納得のいく論文テーマをみつけることができた。もちろん、研究というのは本来自分の力で切り開いていくものではあるが、優秀なゼミ生との討論は自分の研究をより深化させる役割を果たしてくれるのである。したがって、集合ゼミにせよ、サイバーゼミにせよ、チャンスがあれば積極的に研究発表をしていくことは、常に自分の研究を深化させていくためには大変重要なのである。
また付随していえば、二年目の秋に行なわれる修士論文の中間発表会には、必ず参加して研究発表をすることが望ましいといえる。なぜなら、この中間発表会が行なわれる時期は、タイミング的には修士論文の本格的な執筆に取り掛かる直前であり、修士論文の方向性を軌道修正するにはラストチャンスとなるし、指導教授以外の先生や、他ゼミ生など多くの人に自分の研究発表を聞いてもらえるので、さまざまな質問を受けることができて、さらに自分の研究に生かしていくことが可能となるからである。私は中間発表会を欠席したのだが、たまたま地元の名古屋で「オープン大学院in名古屋」が開催されたので、そこで研究発表をさせていただき、そのことが結果的に修士論文の執筆に弾みをつけることにつながったので、とてもラッキーであった。
さて、中間発表会が終って年末を迎えると、後はひたすら論文を書くのみである。とにかく時間との勝負である。世間が浮ついたムードに包まれる年末年始に、黙々とパソコンに向かって論文を書き続けることは、とてもつらい作業であった。しかし、それに耐えることができたのは、私の場合、ゼミの同期生の存在が大きかった。一般的に通信制は孤独であるといわれるが、メールやインターネット回線を利用したスカイプ通話によって、ゼミ生同士の連絡が密に行なわれたので、実際、孤独とは全く無縁であった。このことは私が修士論文を書く上で、最も大きなポイントであったといえる。
以上、修士論文が完成するまでの二年間を振り返ってきたが、もちろんこれは自分ひとりの力によるものではない。おおよそ計画性がなく、怠け者の私が修士論文を期限までにきちんと提出できたのは、ひとえに指導教授の近藤先生の温かいご指導と、優秀なゼミ生の適切なアドバイスがあったからこそである。近藤先生とゼミの仲間には感謝の気持ちでいっぱいである。また、修士論文の完成はひとつのけじめにはちがいないが、研究活動はむしろこれからが本番である。今回の修士論文の執筆で得た経験や研究成果を土台にして、今度は博士後期課程を目指してさらに精進を重ねていきたい。

「修論を終えて」
国際情報専攻 橋本 稔
これが最初で最後だろうか。これほどまでにキーボードを打ち続けたことは、いまだかつてない。打って変換、決定。打って変換、決定。少し考えてからまた打つ。しばらく考えてからBackspace。そしてまた打つ。2年間、この繰り返しであった。
「2年間で修了するためにも、1年次に必修科目、選択科目の5科目の単位修得をお勧め致します」との諸先輩からのアドバイスに従い、1年次には5科目の単位修得に努めた。しかし、限られた時間の中で、リポート課題に対する意味をしっかりと把握し、教材から回答を導き出す作業は、物凄く大変であった。途中、「何故こんなに選んでしまったのだろうか」と思いながら、キーボードを打つ手も徐々に遅くなりがちであった。
2年次は、1年次に苦労していた科目履修から解放され、修士論文へ本格的に取り組みを始めた。修士論文は1年次からいろいろと考え、悩み、何度も何度も書き直しをしていた。資料の収集は主に図書館を活用し、出向きながら情報を収集していった。
2年次の殆どが修士論文主筆の作業に費やすことが出来た。これも1年次当初の諸先輩からの「5科目単位修得」のアドバイスがあったからこそ出来たのだと思う。
修士論文執筆の作業において、書式の箇条書き、目次や段落番号の設定、脚注などワープロの機能を最大限に生かした。論文を書く上で章や項目の付け方、引用や参考文献の書き方などのルールは事前に頭に叩き込んだ。幾らワープロといえども、操作する側がしっかりその辺について理解しなければ思うようには動いてくれない。このことについて、担当教授より送って頂いた「論文の注の表記について」は非常役に立った。
修士論文執筆は、時には真夜中まで行っていた。時にはBEというピヤニストのような格好で、キーボードに手を置いたまま熟睡することもあった。11月から年末年始にかけての追い込みでは、熟睡する暇もなくキーボードを打った。その甲斐もあり提出期限内に提出することが出来た。
この2年間を振り返り思うことは、「時間をもっと有効に使えたらよかったのかも知れない」ということである。しかし、限られた時期に、限られたことをやるという意味ではよくやった方ではないかと思う。
この2年間を無駄にしないよう、今後に繋げていかなければならないと思う。

「初心にかえれ! 頑張ろう!」
国際情報専攻 前田 保
愛知県岩倉市の市役所に地方公務員として勤務しています。勤務先の岩倉市の事例に基づいて、地方税の収納向上策をテーマにして修士論文を書き上げました。
今日、地方分権一括法の制定、e―JAPAN計画などにより、地方自治は大きな変革期を迎えています。岩倉市も近隣の市長村との合併を検討・議論しています。合併問題以外にも、種々問題を抱えています。まずは、交付税等の減額を受け、行政運営の変革を余儀なく迫られています。地方分権は「対等・協力」を基本とする国と地方の新しい関係を構築し、さらに個性豊かで活力に満ちた地域社会を実現するためが主眼であるはずです。ところが、歳入減の状況下で、その目的を達成し、地方自治の本旨である住民の福祉の増進を図っていくということが、極めて困難となっています。行政運営の効率化は真っ先に職員削減という手法に現れ、それは行政運営の根幹部分であるマンパワーの低下を意味します。さらに、電子政府―電子自治体というIT化の波が急激なスピードで押し迫ってきます。
これらの今私たちが直面している大きな変革の中で、地方自治体の未来図を鮮明に思い描くに足りる力をつけたいという願いを持って、日本大学大学院総合社会情報研究科に入学したのです。地方公務員として、岩倉市を良くしたい、地域を繁栄させたいという思いをどうすれば形にできるのか。ITによるコミュニケーションで、自治を発展させることができるのか。いろいろな疑問があります。地方自治が抱える問題や自分自身の中の様々な命題を解決していくためには、しっかりとした基礎知識と新しいものを取り入れていく柔軟な思考が必要であると考えます。憲法―地方自治法などの法的な知識と、今後の地方行政の民主的、能率的運営を図るためのNPM(ニューパブリックマネージメント)のような新しい手法などを学び、その基礎知識の上に総合的な政策形成能力や行政管理能力を身につけていきたいと思ったのです。
特に、研究したいことは、ITシステムの活用でした。情報公開やプライバシー保護、政策形成と日本以外での情報化社会のおける危機管理について、IT革命による情報の変質と政治・社会の変化の関係……、以上のようなことが研究対象となります。
パソコンを活用できるかどうかで、学習の能率に大きく差が生じる時代になりました。
総合社会情報研究科は、ITを駆使する通信制です。通信制は仕事と学習を両立させることができます。さらに、学習・研究を主に自宅のパソコンで行える点が魅力です。私はパソコンを使うのが好きですし、メールやインターネットなどにも習熟していました。研究科は、専門が多岐にわたる教授陣を擁しています。だから、研究科で研究・学習をすることにしたのです。
これからは、パソコンは、よりいっそう教育研究活動に影響を与えます。これにより、地域間の格差が縮小できる可能性もあります。パソコンを活用する新しい教育体制のよりいっそうの充実が求められています。研究科は最先端を担っていますが、さらなる発展が望まれます。
いまでは懐かしい限りですが、 レポートでは苦労しました。奮闘しました。草稿提出、添削、検討、修正の過程を経、最終提出となるのでした。最終提出となると、本当にホッとしたものでした。
自分に何ができ、何ができないかを把握できるようになりたい、との問題意識をもって、レポートなどに取り組んできました。仕事を今までとは違った視点で理解できうるようになりたいとも願って、学習・研究をしてきました。今後も以上のような問題意識や願いを堅持していきます。
最終的には、論文題目は「地方税支払い不払のマネージメントシステムの研究」になりました。何度も、何度も、添削されました。修正、検討し、変えました。しかし、修士論文をとうとう完成させることができたのです。このことは、今後の大きな励みとなります。
初心にかえれ! 頑張ろう!

「修士論文調理法」
国際情報専攻 増子 保志
「修士論文!」「うーん、何を書こう?どうやって書こう?」と考えてはみたもののいざ、パソコンを前にしても何も思い浮かばない。一応、入学した時の研究計画書はあるけれど、今一度眺めてみると何か色あせてるし……こんなのが論文になるのかな……『論文の書き方』の本を何冊も読んで書けるわけではないし……そんなこんなで、結局全然進まない。ただ時間だけは無意味に過ぎていき、「やばい!」状態になっていく。このままじゃいけない。気持ちはあせる! そんな時、外見と違って根が真面目な私を気の毒がって、どこぞの神様がありがたい「ご啓示」を下さった。そう、修士論文の調理の仕方を……夢の中で……
神様は調理法をこう教えてくれた。まず、何を書きたいか「献立」を決める。
料理であれば、自分が一番食べたいもの、作りやすいものを考える。冷蔵庫を開けて何が作れそうか考えることもある。論文も同じこと。自分が書きたいもの、書きやすいものを考えるのだ。頭の中の冷蔵庫と相談しながら。
次はこの献立を作るにはどの様に調理したらよいか調べてみる。そう「レシピ」である。一般的にどの様に作られているのか、どの様な作り方があるのか調べてみる。修士論文では「先行研究」であり、「方法論」の勉強にもなるのだ。
さて、ある程度、方針が決まったら、次は「材料」の買出しである。図書館や本屋で資料、参考文献を集める。材料を吟味する目も数多くの材料に触れれば、自ずと付いてくる。材料がぼちぼち集まったら、次は料理の段取りを考えねば……材料をどの様な「切り口」で切るか、料理の仕方はどうするか。蒸す、焼く、炒める……味付けはどうするか? 調味料をどこで加えて、材料の持ち味を生かすか? さらに自分自身の「独自性」をどうだすかだ。人まねじゃ美味しい料理は出来ないし、論文じゃ剽窃になっちゃう。料理でも論文でも段取りは重要だ。論文では「起承転結」だね。ここで論文の味が決まってしまうといっても過言ではない。
さぁ、ここまできたら、80%は完成したも同然だ。一気に料理を始めよう。途中で指を切ったり、まわりにこぼしたり、うっかりして焦がしてしまうこともあるけど、気にしない気にしない。作り直しが出来るのだから。さらに今まで勉強してきた成果を「隠し味」として加えよう。これが後からきいてくるんだ。とりあえず、出来たものを「試食」してもらうのも大事なことだ。ゼミなどで他人の意見、感想を聞けば、自分本位の味に修正ができる。
もうあと一息だ。ここで気を緩めてはいけない。盛り付けとテーブルセッテイングだ。そう論文の「お作法」を忘れてはいけない。注を付けたり、句読点や引用の仕方に気を配ろう。このお作法が完璧にできれば、完成だ!万歳!
と思ったら、最後の難関、舌のこえた先生方に召し上がってもらわねば……
「うーん、美味しそうに食べてくれた」「満足げな表情だ」やったね。感涙にむせぶ私はここで目が覚めた。真っ白なWordの画面に涎をたらしながら……

「『リベンジ!』〜私の修士論文奮戦記〜」
国際情報専攻 吉野 毅
1 はじめに〜大学院と私
大学院といえば、私には苦い思い出がある。
今から10年ほど前のことである。私のいる会社では、当時、大学院研修という制度があった。2年間職場を離れて勉学に専念できるもので、国内留学といってもよいものである。私はこれに応募した。それまで、バタバタと走ってきて、少し深呼吸したくなったのである。また、年齢、職位からして最後のチャンスであったからでもある。入学試験は特になく、会社での選考で決まってしまうという、今から思えば、とても“おいしい”ものであった。上司への根回しも終え、心は院生、いや、既に修士であった。ところが……
ところが、である。結論から言うと、私は選考に落ちた。通ったのは、10歳近く若い女性であった。後から聞こえてきたところによれば、どうも当時の社長の側近だった幹部が、社長の意向を深読みして女性に決めたという。そして、社長もやはり「これからは女性の時代だから……」の一言で幹部の決定案を支持したという。また、幹部の一人が、私を落とすために、全然仕事の接点のない、したがって知り合いでもない私についての悪口を選考会議の場で言ったという。つまらない時代であり、つまらない幹部だなあ、これがわが社の現実かと思うと、涙も出なかった。以来、「大学院」は私のトラウマになった。それ以降、その話題からずっと遠ざかっていた。日本大学に通信制の大学院ができたということは、風の便りに聞いていたが、トラウマは、……やはり、消えていなかった。
しかし、10年を経て、ある仕事をきっかけに勉学の意志が再び強くなった。もう、過去のトラウマにも訣別し、リベンジしたい、そう思うようになった。そこで思い出したのである、通信制の大学院の存在を。仕事を続けながら、勉強ができる。これは私にうってつけだと思った。しかし、その一方で、通信制の大学院が私に何を与えてくれるのか、疑問でもあった。煩悶しているとき、妻がぽつりと言った。「大学院が自分に何をくれるかではなくて、自分の興味を持っていることが研究できるかどうかが大事なんでしょ」。漫画の擬音ではないが、まさに「がーん」であった。そうなのである。その後の詳細は省略するが、この言葉をきっかけに、私はこの大学院へ入学することができた(妻に感謝)。こうして私の大学院への「リベンジ」、そして「再生」への旅が始まったのである。
2 修士論文雑感
ところで、本稿は修士論文奮戦記である。やや感傷的な前書きが長すぎた。本論に入ろう。とはいっても、論文ではない。修士論文を書いていて考えたこと、思ったことを気楽に書いていこう。
(1)私はいかにして修士論文を作成したか
私の研究テーマは、一般論的なものであった。そのため、入学早々のサイバーゼミで、先輩や同期の方々から異口同音に受けたアドバイスが、「テーマを絞れ!」であった。私の論文題目は「危機管理」である。危機管理の定義や概念がはっきりしない現状を疑問視し、現場での対応者の立場から見て有用な基礎理論を探る、というのがその内容であった。
以後、「テーマを絞れ」は2年次の春まで私を悩ませた。4月の終わりに、年度初めの決意表明のためのゼミが所沢で開催された。まだウジウジしていた私に、指導教官の近藤教授は「君の書きたいこと、思いを論文にぶつければいいんだよ」と厳しくアドバイスをしてくださった。思いは当初から決まっている、よし、これで行こう、と決意し、最終的なテーマとなったものに決めた。
その後、5月の合宿で章立てをほぼ決めた。合宿では、私の発表前夜、同期の増子氏が夜中の2時までプレゼミ(?)に付き合ってくれた。私の章立てについて、2人でディスカッションをしたのである。大変建設的な意見を多く頂戴し、私のテーマに対する思いは、より強固なものになった。また、この合宿で5期生の坊農氏が論文を書くためのパソコンの効率的な利用法を講義してくださった。これが大変私には幸運だった。両氏に「感謝」である。さて、その後、合宿の成果(テーマ、章立て)を教授にお伝えし、了承をいただくことができた。「早速書き始めるのがいいでしょう」とのこと。「さあやるぞ!」と決意も新たに論文を書き進めた……というわけには、しかし、いかなかった。
夏ごろから、仕事の関係で抱えていた研究会が立ち上げに向けて動き出し、ロジも含めた運営を担当しなければならなくなった。現在でも継続中であるが、これが大変で、特に、秋の立ち上げ時期には、論文執筆がまったく進まなかった。それどころか履修科目のリポートもままならない状態になってしまったのである。何とか態勢を立て直してリポートを仕上げ、研究会の目処をつけたのが10月末だった。当然、中間報告会の内容も、夏前から大きくは進捗していないものになってしまった。
したがって、本格的に書き始めることができたのは、11月からである。ここからは大変であった。章立ての中味を膨らませるべく、メモをストックしていった。サイバーゼミなどで書き溜めたレジュメのフレーズや内容をブラッシュアップして(した……つもりかも)、関係する項目に本文として付していった。ここで、坊農氏に教わったパソコンの利用法を復習し、ただひたすら項目と項目の間を埋めていった。
しかし、時は容赦なく過ぎていく。12月の半ばになり、やっと4章構成の2章くらいまでの未定稿を近藤教授にお送りした。すぐにメールで返事をいただき、「このまま最後まで安心して書き上げるように」とのこと。以降、1月半ばの副本提出日まで、ひたすら書き続けた。幸い、書きたいことは決まっており、もう悩まなかった。しかし、どう書くかは別問題であり、時間的に許される限り悩み抜いた。そして、何とか完成。教授にメールで草稿を送るとともに、御了解を得て大学院事務課に提出した。
(2)ポイントは何であったのか〜雑感的アドバイス
このような経緯の中から考えた、陳腐ではあるが、私なりのノウハウに相当する部分についてまとめると次のとおりである(あくまで「私なりの」である。念のため)。
ア 論文の書き方
私は、学部は(日大ではないが)法学部を卒業した。どこでもそうだと思うが、法学部では卒業論文はない。したがって、論文の書き方がわからない。この論文の書き方については、特に神経質になった。何冊か本も読んだ。全面的に参照したものはないが、部分的に方法を取り入れるなどして、自分なりにどのように書いていくかを決めた(結果的にただひたすら書くだけだったような気もするが……)。その時点で22本書いていたリポートの作成過程で培った文章作成力を信じて込んで書いたというのが実感である。
イ パソコンの効率的使用
これは重要である。まず個々のノウハウの前に、ブラインドタッチを習得することが望ましい。私は、入学前に練習し、ブラインドタッチ(もどき?)を身につけた。そして、個々のノウハウを活用した。具体的には、先述のとおり坊農氏の講義の内容をほぼそのまま利用したのである。これが私にとって大変有効であった。特に、時間のない人はパソコンをストレスなく使用する最低限の技術を執筆前に習得しておくことが望ましいと思う。
ウ 常に論文と共にあること〜通勤途上のメモの活用
その日に書こうと思っている部分について、どのような構成にするか、通勤電車の中で考えた。そして、手のひらサイズの廉価なメモ帳に書きなぐった。こうしておくと、その日に書くことが一応決まっており、帰宅してからすぐに執筆にかかれる(ことが多かった)。私の場合、通勤時間が片道10分程度なので、どうしてもまとまらない時は、駅前のコーヒーショップなどでなんとなく気になっている部分をメモしてから(安心して)帰路についたこともある。これは気持ちの問題であるが……
エ ゼミの活用
ゼミは時間が許す限り積極的に参加した方がよい。近藤ゼミの場合、平成16年度は集合ゼミが月に1回程度開催された。17年度は、集合ゼミはほとんどなく、サイバーゼミが主流であったが、形はともかく、ゼミでの発表も積極的に行う方がよい。私の場合は、都合3回発表したが、その時々の作成資料は何らかの形で論文に生かすことができた。思考を煮詰めていくためにもゼミは重要である。違ったテーマを持ち、異なるバックグラウンドを持つ仲間の意見を聞くことは、時として独りよがりになりがちな通信制の欠点を補ってくれる。その意味で、ゼミの仲間は研究への協力者であり、一生の宝物でもある。
オ 教授のアドバイス
節目節目における近藤教授からの助言は、まさに「うっ」と唸るものであった。また、私は自意識過剰であり、やや我田引水的なところがあるので、一般論的なアドバイスも「あっ、これは自分へのアドバイスだ!自分へのお叱りだ!」と勝手に解釈して、それを自分への戒めとして気を引き締めた。テーマに悩んでいる時、なかなか進まない時、やっと乗って来た時―その時々に私をうまく乗せてくれたようである。
カ 健康づくり
健康は本当に大切である。一般論ではない。修士論文作成に当たって、である。社会人大学院生はその年齢に鑑み、やはり健康には十分注意する必要がある。普段から、適度な運動と十分な栄養、そして休養を心がけるべきであると思う(これは反省からである)。
キ 開き直り
最後は、開き直りである。追い詰められたらこう考えよう。修士論文は、学問の世界への入り口だと心得よう。完全なものを書くことなんかできないと開き直ろう。今は、修士にふさわしい学力をつけることが肝要なのである、と。
3 終わりに
随分と偉そうなことを長々と書いてきてしまった。お前の論文の出来はどうなんだ、との声が聞こえてきそうである。武士の情け、それは聞かないことにしてほしい。これから修士論文を書く方々にいくらかでも参考になればと思い、恥をさらしたものである。
2年間にわたる「リベンジ」の旅が今、終わろうとしている。そして、「旅をして良かった」―これが私の感想である。ちっぽけなリベンジなどもうどうでもよくなっていた。リベンジというやや後ろ向きな旅を終え、新たな目標に向けてスタートを切れるような気がしている。そして……この旅は、まだまだ続きそうである。
終わりに、近藤教授をはじめとした各先生方、同期の仲間たち(中でも、折にふれメール等で励ましあった西尾氏)、先輩諸兄姉、そして、妻……関係するすべての方々に感謝の気持ちを述べさせていただきたい。
「本当にありがとうございました」

「修士論文は、恋人?」
国際情報専攻 米山 正子
はじめに
修士論文は、「修士論文作成」という壮大な恋をさせてくれるのではと、私は思う。
論文を提出し終わったいま、もう一度、引用した参考文献・論文や資料を読み返したいと思っている。そこには私の求める庭があるから。修士論文はその庭に咲かせていただいた小さな花であり恋人だ。
修士論文は書く内容や目的によって、表現方法や資料収集の条件の違いがあると思う。私の場合は、論題が日本と中国現代史関係をテーマにした「張作霖爆殺事件と町野武馬の関係についての一考察」なので、必然的に参考文献を多く見つけたり、読んだりする時間が欠かせなかった。さらに、文章表現はどうしても硬くなり、固有名詞が多く使われた。
今回、「修士論文奮戦記」では、私のケースの実務的なことを書かせて頂こうと思う。
1 修士論文という、自分がさがす恋人との出会い。
どんな恋人と出会うかは、自分のテーマ選びにかかっている。私は、「張作霖」と「軍事顧問町野武馬」と出会った。引き合わせてくれたのは、「満州」で、今の中国東北部である。その満州からの引揚者である私は生地の「満州」ついて、論文のテーマにしたいと思っていた。
そこで、満州について書いてある易しい本を探して読んだ。易しいのから読み出したのは、単に私は難しいのだと理解力がついていけないからだった。つぎに満州に駐屯した日本陸軍の部隊「関東軍」について読んだ。その結果、関東軍参謀河本大作らの手で爆殺された北京政府を操った大元帥張作霖に、当時、福島県会津若松市出身の軍事顧問町野武馬という陸軍軍人がついていたことを知った。では、日本人の軍事顧問がついていながら何故、張作霖は河本大作に殺されたのだろうか、事前に察知して助けることはできなかったのだろうか、という疑問を持った。
そこで、今まで余り知られていない町野武馬について資料を集めた結果、20余りそれを手にすることが出来た。それで、「張作霖爆殺事件と町野武馬の関係についての一考察」を論文のテーマに疑問を追及することにしたのである。
2 修士論文作成は、その恋人との長い恋愛期間である。
恋愛はマメでしかも熱くなくては、ハッピーエンドにならない。私の場合は修士論文を提出できることがハッピーエンドであった。
(1) 資料集め
まず、参考文献が載っている、自分のテーマに関係ある論文や著書を読んだ。そして、必要な参考文献を取り寄せて、読んだり確認したりした。参考文献の元がさらにあるのなら、それを取り寄せたり、訪れて確認した。
(2) フィールドワーク
フィールドワークといえるか分らないが、ともかくわずかな時間を利用して資料探しをした。国会図書館。県・市立図書館。福島の県・市立図書館。防衛庁防衛研究所図書館資料室。大学図書館。外務省外交資料館。横浜市のビデオライブラリー・新聞ライブラリー。会津若松市の町野武馬の生家や菩提寺や鶴ヶ城。町野武馬と交流があった方々と面会などをした。これは多くの時間を費やすことになったが、私にとって欠かすことの出来ない、貴重な生きた時間であった。
(3) 章立て
一番、苦労したのが、「章立て」であった。何故なら、全体が未だつかめない内に作らなければならなかったから。勿論、個人差が大きく、すべて把握できていて章立てを作成する人が大半だろうし、そうあるべきだろう。だが、私の場合はそこまで到達していなかったので、一度出来上がった「章立て」を論文作成途中で、内容によって一部、節の題を変更させて頂いたりした。しかし、それが可能だったのは、大きな救いであった。
3 修士論文作成のための小さなコツは、恋人への花束プレゼント
恋人への花束は、自分の思いを伝えるメッセージ。修士論文作成のための小さなコツは、論文への思いを伝える新鮮なプレゼントである。
(1) 章立て袋の活用:「章立て」が出来たら、各節ごとに章立てを貼り付けたA4用紙が入る袋を作った。私の場合は4章4節だったので、「はじめに」と「おわりに」を足して全部で18袋を作った。その袋の中には、内容に関係のあるメモや参考資料の一覧表および薄い資料のコピーを入れた。まあ、簡単に言えば付録の袋みたいなものである。ただし、これは便利で大いに活用した。
ちなみに、リポート作成に当たっても、この方法を活用し、課題を袋の上に張った。1科目で4袋を作り、中に集めた資料を入れておいた。そうすると何時でも、リポート作成に取り掛かりやすかった。勿論、提出リポートも入れておく。
(2) パソコン機能の活用 (1):私は満州を時代背景にしたので、論文内の言葉がちょっと難しかったり、反復継続して同じ固有名詞が出る。そのため時間短縮目的で固有名詞などは、メニューバーの「編集」から「日本語入力辞書への単語登録」をしておいた。例えば、「町野武馬」だったら「まちの」と打つだけで、「町野武馬」が出てくるようにしておく。「張作霖」という名も「ちょうさくりん」と打っても、一度では希望の字が出てこないので「ちょう」と、打つだけで目的の「張作霖」の名前が出るようにしておいた。
パソコン機能の活用 (2):同様に、「TMEパッドの手書き認識」からでないと出ない、中国名の「呉佩孚」「楊宇霆」「郭松齢」「馮玉祥」などの難解な字は、認識で出した後、やはり「日本語入力辞書への単語登録」をしておいた。根気の要ることだがボディ・ブローのように、後になって時間の短縮や誤字脱字の防止にしっかり効いた。
パソコン機能の活用 (3):さらに、修論作成中「注」の挿入を利用した。これは、同輩に教えていただいた方法だが、メニューバーの「挿入」から「参照」、そして「脚注」を出して「文末脚注」を出し、最後に「挿入」をクリックすると、「注」が文章の目的箇所と文末に同じ番号が出てくる。これは、文章と連動してくれるので、優れものであった。
以上の「パソコン機能の活用」については、入学後、初めてパソコンを取り扱った私での話で、非常に重宝した経験として書いた。
(3) 次回執筆時の自分へのメッセージ:論文を長い期間をかけ、途中で他の仕事をしながら作成していると、どこまで進めたか分らなくなることがあった。また、前回の自分はどういうことを考えながら書いていたのか、忘れてしまうことがあった。そこで登場させたのが、次回パソコンに向かう自分に対しての「メッセージ」をしておくことだった。
作成途中の論文の最後の行に、日付をカラー文字にしてメッセージしておく。例えば私の2005年6月12日の場合、
【6月12日、23時20分終了。次回には、第1章第2節 日本の満州経営政策 「遼東守備軍から関東総督府の誕生まで」について書くこと。参考文献は (1)陸軍省編『明治軍事史 下』原書房、1979年、1399−1400頁。(2)園田一亀『張作霖』東京中華堂、1922年、47頁。(3)森克己「小村寿太郎とルーズベルト」『日本歴史』通巻第295号、吉川弘文館、1972年、62−63頁。」次回の私、頑張って!】
と、書いた。マア、メッセージといっても自分専用のナビと応援歌みたいなもの。そうすると、次回、どんなにぬけた頭の状態の時でも、前回の自分が次回の自分に道筋をつけてくれて、それを見るとギアーが3速に進むのが早くなるのだった。
(4)事前に集めた論文や参考文献の、修士論文に関係あるところを打ち出して、パソコン内にファイルを作っておいた。
例えば、
≪佐々木到一『ある軍人の自伝』普通社、1963年8月10日 「町野武馬」掲載119頁。「彼は予を奉天顧問と見誤り……当時の奉天顧問は松井七夫、町野武馬、儀我誠也らにて……」193頁 「町野は塘沽で下車、律義者の儀我だけは共に遭難して……」≫
と、論文内容に使いたいものや、重要な内容を打ち出しておいた。すると著書名だけでは思い出しにくいことも、甦りやすかった。
4 壮大な恋には大きな時間の流れが欠かせない。修士論文作成はもっと時間が欠かせない。
論文作成をしていて、一番時間がかかったのがパソコンで打つことだった。無論、2年前はパソコンとは無縁の生活であったせいもあるが、文章を打つのに考えながら打ったり、まったく手が止まって進まなかったり、一次資料の読み込みに時間がかかったりした。時には同じ内容を別なセクションで重複して打っており、その読み返しと訂正で、論文作成のギアーがバックに入ってしまい、少しも進まないことが再々であった。
しかも、文章力のなさが如実に出て、それではと論文にふさわしい表現を探し出し始めると、もう迷宮の世界にはいり込んでしまう。
つまり、壮大な恋と同じで、私にとっての修士論文作成は、実に多くの時間が欠かせなかった。と同時に、最後の最後まで時間に追われっぱなしであった。
だが、忘れることの出来ないひとつの言葉が、いつも私を励ましてくれていた。それは、修士論文作成のためのあるサイバーゼミの時、近藤教授がゼミ生の私達に「一字でも一行でも書いてください」と、言われたことだった。それまでは完全でなければ論文の文章化は駄目なのではと、私は勝手に思い込んでいた。しかし、その言葉を聞いてからは「そうか!一字でも一行でも良いのか、それなら固有名詞だけでも書いてみよう」と思うことができ、論文作成に向かうことが出来た。余りにも単純な受け止め方ではあるが、論理より行動ありきだったのだ。とくにこの言葉は行き詰った時に有難かった。
おわりに
この2年間私は修士論文作成という、壮大で熱い恋をさせて頂いた。指導教授である近藤教授をはじめ、荘光ゼミでと個別にご指導を仰いだ荘光教授、大学院の諸先生方そして入学時から支えて下さった石先生、ゼミの皆様がたのご指導やアドバイスを頂くことによって、その熱い恋である修士論文作成を成就することができた。これほど贅沢な思いを持てたことは終生忘れえぬことと、心から心から、感謝し尽せない思いである。
そして、この2年間を生かすよう、今後に向けてつなげていかなければと思うのである。

「研究活動の原点」
文化情報専攻 清水利宏
◇ はじめに
この2年間の修士課程を振り返り、これから修士論文を執筆しようとする皆さんに、私からお伝えできることがあるとすれば、それは「原点の大切さ」だと思います。原点とは、大学院での研究を志した時の初心であり、スタート地点で掲げられた研究目標を意味します。「何のために、研究をするのか」。それは人それぞれ異なって当然ですが、自分自身の研究目標やその社会的意義を強く意識できるほど、日々の研究や執筆活動がスムーズに進むように感じます。ここでは、これから修士論文の執筆を目指す方々へのアドバイスとして、いくつかの私見を述べたいと思います。
◇ 原点の大切さ
修士課程で研究をされる皆さんは、当然ながら(私自身もそうであったように)修士論文を書くのは初めてのことでしょう。最初は、未知の課題に圧倒される不安もあるかと思います。あるいは気負いに似た情熱を抱くことがあるかもしれません。そんな時は、まず心を中立にして、ご自身の原点である初心や研究目標について、和やかな雰囲気のもとで指導教授とお話をされることをお勧めしたいと思います。指導教授との何気ない会話の中から、修士論文執筆のための重要なヒントが得られることは珍しくありません。また、修士論文という「未知の壁」に不安を覚えた際には、最寄りの大学図書館等で、実際の修士論文や紀要論文に“広く浅く”触れられることをお勧めします。それにより、これから執筆しようとする「完成品の概観図」がイメージでき、未知なるものへの不安が和らぐのではないかと思います。本研究科の学生証を持ち、研究生として他大学の図書館を訪問するのは、とても貴重な刺激になるはずです。ちなみに、私にとっての「原点」は、ヘアスタイリスト(理容師・美容師)のためのモティベーション本位の実務英語教育を研究することでした。その根底には、自分自身がかつて英語学習を嫌っていた経験から、「英語嫌いな人を救いたい」という思いがありました。そうした私の「研究活動の原点」について、入学当初より、快く意見交換の機会を設けていただいた指導教授には、今も心から感謝をしております。
◇ 履修科目と原点との接点
履修科目に関しては、1年次になるべく多く(5科目)を選択して見聞を広め、個々の科目内容と、自身の原点との“接点”を意識し続けることが大切だと思います。レポート執筆のための文献研究の際も、修士論文の研究目標を常に念頭に置き、それらの関連性を探る気持ちで臨めば、研究意欲が向上するだけでなく、必然的に独自性や実践性を伴ったレポートに仕上がってゆくのではないでしょうか。もちろん、そうして完成したレポートは、修士研究の一端として、何らかの形で修士論文に織り込むことも可能です。1年次の幅広い科目履修を通じて培った見識は、修士論文の執筆に大きく役立つと思います。
◇ 思い切って忘れてみる
それでも、修士論文執筆の過程においては、スランプと呼ばれる時期もあろうかと思います。苦境を乗り越える方法は先輩方からの貴重な助言をご参照いただくとして、私はあえて「そんな時はしばらくすべてを忘れてはどうか」とアドバイスをしたいと思います。ひたすらに取り組む執筆活動から距離を置くことで、新鮮な視点や思考力が蘇ってくることがあります。私は2年次の9月に、60ページほど書き進んでいた修士論文の草稿をすべて破棄し、気持ちを完全にリセットする経験をしました。その理由は、執筆中の草稿では自身の原点(研究の目的)が明確に反映されないことに気付いたからでした。締め切りがジリジリと迫る中、論文構成の全面的な見直しを指導教授に相談したのち、約2ヶ月間、私は思い切って執筆作業から離れました。今思えば、ずいぶん危険な賭けだったのかもしれません。大胆なリフレッシュ期間を終えた私は、文字通り心を入れ替えて、これまでに蓄積したデータや文献を“新鮮な判断力”で一気に整理し、みずからの原点である「ヘアスタイリストのための実務英語教育」に特化した“新・修士論文”をゼロから書き上げることができました。その頃、ちょうど年末年始の慌しい時期であったにもかかわらず、指導教授は、80ページ以上にわたる新たな論文を丁寧に添削してくださいました。そのご指導のおかげで、私の修士論文は結果的に、入学時の研究計画書に記した原点に回帰する研究成果に仕上がっていたのです。「迷った時は、研究活動の原点へ戻ること」。これから修士論文を執筆される方々にはぜひ、ご自身の「原点」を常に意識され、“自分だけにしか書くことのできない修士論文”を完成させていただきたいと願っています。
◇ 謝辞
最後となりましたが、2年間の修士課程を通じ、私を修了へと導いていただいた伊藤典子教授をはじめ、本研究科の先生方に改めて御礼を申し上げます。また、日頃の情報交換を通じ、互いに励ましあってきた同窓生にも、感謝と労いの気持ちを伝えたいと思います。ありがとうございました。

「素直さが勝負――私の修士論文奮戦記――」
文化情報専攻 外村佳代子
「トリビアみたいな論文だな」私の論文を読んだ主人の第一声だった。主人は仕事柄論文慣れしている。ゆえに一番見せたくない相手だった。
面接諮問の際、「日本語がおかしい。誰か傍に日本語のチェックをしてくれる人いる?」となんとも予期せぬコメントをいただいた。一様その日に備えて『面接諮問の受け方』なる本も読みそれなりに質疑応答の準備もしていたのだが、あまりに意表をついたお言葉に言葉に詰まってしまった。
「なによ。トリビアって」ちょっとむっとした私。「本文と関係ない無駄知識が突然出てくる」と主人は笑いながら言った。さらに少々いぶかしげな表情を見せながら、「この論文、通ったの?」とペン立てから赤ペンを指先で探しながら言った。「いいわよ! 自分でやるから。」と、乱暴に論文をひったくった。私はムッとしてはいたものの結局見て貰う事に(見てもらえばいい)なるだろうとタカをくくっていた。
「注釈が少なすぎる、出所ソースをもっとたくさん挙げるように。」という先生方からのご指示を頂き、その作業に数日を費やした。一度閉じてしまった本からその出所箇所を探すのは結構難しい……・。どこかからの引用なのだから必ずどこかにあるはずなのだが、数十冊の参考文献の中からの数行はなかなかみあたらない。
英国に居を構えている私は、1月21日の面接諮問のあと所用で1週間日本に滞在しなければならなかった。提出期限は2月13日必着。英国からの郵送日数を考えると、2月5日が発送タイムリミットである。つまり正味わずか1週間ですべてを終わらせなければならなかった。
この2年間、日本と英国の距離にいつも悩まされていた。なかなかゼミに出ることも儘(まま)ならずフラストレーションがたまる。通常企業の駐在や長期滞在のならば2〜3年で帰れるだろうし、日本に一時帰国をする機会も多いだろうが、私はすでに住民票も移してしまっている身、学校に通う子どものことを考えてもおいそれとは帰れない。レポート期限が迫るたびに参考図書が手に入らずどれほど“アマゾン”や“OCS”のお世話になったかわからない。ちなみにアマゾンの海外向け最低ハンドリングチャージは、4,000円である。つまり520円の文庫本1冊が4,520円になるのである。注文数が増えればその分送料が加算され、しかも専門書やハードカバーは大きくて重い。いつも送料だけで10,000円を越えていた。さらにインターネット上で買える文献の数は少ない。私が選べるのはその狭い種類からのみで、しかも中身を見て選ぶのではないからタイトルに裏切られることもしばしばである。少々余談話になるが、英国はストライキが好きな国である。日本では信じられないだろうが、消防署ですら3ヶ月というストライキを決行する。その間に何かあれば軍隊が出動するのでそれほどの大問題にはならない(とはいえ、駐屯地からの軍隊の到着が遅れ、母子が火災で焼死したことがある)。だが、郵便配達となると軍隊というわけにはいかないのだろう。日本の実家経由で送られてくるはずの教科書が、ストライキのために郵便局に3週間も足止めを食らってしまった。実際は3週間のストライキの後たまった郵便物の配達が始まるので、手元に届いたのは5週間後だった。結局この時もリポート提出に間に合わなくなるので、まったく同じ本を日本の書店に注文し、日本に主張に行く主人の滞在先のホテルに送り届けてもらい、かろうじて提出期限内に間に合わせることができた。リポート提出のたびに少しずつ賢い方法を身につけてはきたのだが、一度はどうしても参考図書が手に入らず、リポート期限にももう間に合わない。やむをえず従姉妹に飛行機代を渡し、購入して英国まで持ってきてもらったこともある。
こんなことを書いてしまうと、気の毒に……なんて思われがちだが、障害が多くなれば多くなるほどそれにかけるエネルギーは増大し燃え上がるものである。ちょっと恋愛に似ているかも知れない。大学院との長距離恋愛に手を変え品を変え、頭を使いどうにか2年間を成就したのである。
自分の短気な性格をこれほど後悔したことはない。提出2日前のことである。可能な限り出所ソースを探し、内容をいじっている余裕はもう無かったので面接諮問時に先生方からいただいたコメント箇所、数点を修正しあとは主人が帰宅したら日本語のあやふやな箇所のチェックをしてもらうだけ。となった晩である。夜半に出張先のドイツにいる主人から電話があった。「直接バーレーンに行く」というものであった。冗談じゃない!私はどうなるのよ、と怒鳴りたい衝動を抑え、事情を話した。とにかく添付ファイルで論文を送るように。ということだったが、主人のパソコンは日本語対応になっていない。すったもんだの挙句、結局主人のチェックを受けることができなかった。ああ、あの時素直に“赤いれ”をお願いしていたらよかったのに……。はあっ……。
後悔―日没―Time Up
土地柄、論文慣れした日本人大学教授や学者さんはたくさんいる。彼らにもお願いをすることは十分可能であったはずであるが、親しければ親しいほど気が引けてしまい論文添削などお願いができない。いつでも見てあげるよ。なんて言われていても、提出2日前になって「よろしく」なんて言えるはずがない。人間、素直さが勝負を分けることがあると松下幸之助氏も言っていた……。
私の『奮戦記』はあまり参考にはならないかもしれない。だが強いて生意気を承知で、意識をなさったほうがいいと申し上げたい点は2つある。
どんな小さな引用であっても、出所ソースは必ずメモをしておくことをお奨めする。膨大な資料を前にあらためて探すとなると、とんでもない時間がかかる。
そしてもうひとつは、何事も前倒しに期限を考え、不慮の出来事に供えることである。締切日を締切日にしたら、何か別のことに時間と体をとられるとリカバリーが利かなくなってしまう(そう、12月27日に修論の為のリサーチでエジプトに行ったが、そこで病気にかかり1週間以上寝たり起きたりになってしまった。そんなの想定外。結局、後期リポートは2教科提出できず) 。
そして何より、どんな環境下であっても楽しんでしまえばいいのである。

「FORWARD」
文化情報専攻 ニコル美里
はじめに
二年間は早かった。修士論文は楽しかった。大学院生活は決して楽ではなかったけれど。思い返せば入学式から冠婚葬祭と重なってやむなく欠席、と思ったら、中間発表も論文提出期間までも、まるで合わせたかのように身内の結婚式が重り海外へ出ねばならなかった。月々のゼミに参加したくてもベビーシッターを見つけなければ家を空けられない。週末忙しい家族に無理をして頼み込んだこともあった。それでも月々のゼミのほとんどを欠席する結果になってしまった。ゼミを断るたびに「こんなはずじゃなかった」と無力感に苛まれた。昼間している仕事にも波があって、リポート提出や合宿が迫るときまって忙しくなるように感じた。最初に白状するが、私は模範的院生ではなかった。
ハンディ
幼子を抱える母親は家族の協力と時間の工夫なしに研究の継続は不可能だ。しかし何をするにせよ、傍らで笑いかけるこどもの笑顔を見逃すほど価値のあるものがこの世にあるのだろうか。とにかく一度決めたことだ、やれる範囲で精一杯やるしかない。早起きして午前中に仕事を片付け、午後はこどもを目一杯遊ばせ(出来るだけ体力の消耗する外遊びが良い)、夜は八時にさっさと寝かしつけ、その後に私の学習時間を確保する。確かそういう予定であったが、日中目一杯こどもと遊ぶと先に眠り込むのはいつも私であった。幼子を抱える母親は何でも予定通りに物事が進まないことには慣れている。真夜中にボーっと起きてきてコンピュータへ向かう私はきっと論文への執念にとりつかれた亡霊のように夫の目に映ったことだろう。
しかし、通信制大学院へ通う生徒は皆忙しい。ハンディは私だけが抱えていることじゃない。皆そうやって頑張っているのだ。思い返せば二年間、数は少なかったが合宿やゼミ参加のため朝一番の新幹線に乗り込む私を、早起きして見送ってくれたこどもたちや、仕事を休んでベビーシッターを受けてくれた家族や、コンピュータに向かう亡霊にそっとコーヒーを入れてくれた夫のことを思うたび、萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、良い論文をかこうという思いを強く持ち続けてきた。恩返しはそれしかない。今思えば、ハンディに思えた色々なことは、実際ハンディではなかった。
ゼミ
ゼミに満足に出席できないことを引け目に感じながら、それでも合宿には3回参加できた。これは本当に良かった。S先輩の発表を最初に聞いたのはサイバーゼミだったと記憶しているが、とても面白かった。感動と共感がともなったからだ。私も発表するなら、聞いている人が「おもしろい」と興味を持って聞いてくれるような発表がしたくなった。せっかく参加している皆様に、眠りをお誘いするようなものでは申し訳ない。発表のためせっせと原稿を書き、自分の言っていることを皆に納得してもらうために資料集めにも力を入れたが、実際それ以上に自分の研究の幅を広げてくれたのは、発表後に頂いた皆からの質問やコメント、アイデア、励ましや反応であった。論文を書く上で是非、ゼミを前向きに上手く利用することをお勧めする。自分の気づきや、それがどの辺りに位置づくのかを確認する良いチャンスになることは間違いない。
課題
修士論文の中で論を展開する上で、大いに役立ったのが履修科目の課題に取り組むことであった。履修科目の登録は、自分の興味の向くままに登録した。「なんでこんなばらばらな領域なの?」という同期生からのコメントも頂いたが、それで良いのだ。論文を書き上げてみたら、論文のテーマを通して全ての科目がつながった。自分で開けた箱の中から何を取り出すかは自分次第なのだ。それから諸先輩方の助言のとおり、履修登録は最初の年に頑張って一つでも多く履修することがお勧めだ。二年になったとき論文に集中できる。ただ、私の場合、論文と同時進行で進めたリポートが、論文を書くのにとても役に立ったのは事実だ。むしろ同時進行だったから書けた部分もある。リポートのアイデアを論文に取り入れたり、論展開のヒントを見つけることがままあった。二つ以上のことを同時進行でするという技は主婦にとっては特別なことではない。時には三つも四つも同時進行だ。料理をしながらこどもの宿題を見て、パンを焼きながら掃除と洗濯をして、夫の話を聞きながらウトウト眠り――相変わらず魚は焦げるし、朝洗った洗濯物が夜まで洗濯機に入っているし、夫の言ったことを全然覚えてなかったりするけれど、とにかくそうやって毎日鍛えていることが、論文と課題の同時進行に役に立ったのかもしれない。論文もリポート課題も家事も仕事も育児も全部ひっくるめて、それらをどうやって上手く両立させて完成させるか、それが主婦としての私の本当の課題なのだ。
テーマ
論文にしても何にしても、書くということは、心の中に問題意識がないと難しい。常に問題と向き合って解決しよう、解決できなくてもせめて自分なりの答えを出そうと努力する過程が私の論展開で、その記録が結果として修論になった。答えを出したい色々な問題をいつも抱えている、という意味では、私は非常にラッキーであった。少なくとも子育てや結婚生活を通して私は毎日頭を抱え込むような色々な問題に直面せざるを得ない。次から次へと現れる問題には終わりというものがない(誤解を避けるためにあえて補足させてもらうが、私が論文で扱ったのは、決して不倫や浮気や幼児虐待や離婚問題ではない)。私の研究対象は児童文学が中心になるが、そこには私の求めるテーマが織り込まれていて、なおかつその探求の動機にも方向性にも同じものを見て共感するからである。自分の抱える問題意識と強く結びつき、またそれを解決しようという強い動機に下支えされたテーマは論文を書く上で最も大切なものの一つであると考える。
御礼
最後に私の指導教授に、こんな私の立場にいつも理解を示して頂き、さらに伸び伸びと自由に研究を続ける環境を与えて下さり、辛抱強く見守り続けて頂いたことに心から感謝申し上げたい。一生徒として、希望した指導教授から直接指導が受けられることは本当に幸運なことである。今見えているテーマに取り組むのにはもう少し時間がいるので、相応しい時がきたらその時はまた先生のドアをノックしたいと思う。

「感謝の気持ちを忘れずに」
文化情報専攻 毛利 雅子
はじめに
長かったような短かったような2年間も、もうすぐ終わる時が来る。大学院進学を考えてからも含めると約3年間、やはり短かったと言うほうが正しいかもしれない。
怒涛のような女子学生(!)生活を終えるにあたり、自分の中での一区切りとして修士論文奮戦記(いや、戦闘記かも?)を記しておくこととした。
1.学業と仕事のバランス
この大学院に入学していらっしゃる方は、ほぼ大半の方が職業人であると思われるが、私もその中の1人である。そういう意味では、仕事が多忙であることが学業の遅れの言い訳にはならないが、現実は想像以上に過酷なものだった。
2005年3月から9月まで愛知県で開催された「愛・地球博」の期間、仕事に忙殺されることはあらかじめわかっていたが、敢えて私は2004年に入学した。つまり万博期間中は修士2年生で、修士論文を書かなければならない時期だったのである。しかしそれでも入学を決意したのは、「思い立ったが吉日」で決めた以上はすぐに勉強を始めたかったのと、修論も万博終了後に集中してやれば何とかなるのではないかという甘い見込みからであった。
だが、現実はやはり厳しかった。万博だけでなく他の仕事も含め、「千手観音くらい手が欲しい! メデゥーサみたくヘビの頭でもいいから余分に欲しい!」という状況になり、学業は全くと言っていいほど捗らなかった。また仕事上、土日も関係ない状況になり、1ヶ月間全く無休ということもあったりして、実は丸々何もできなかった時期が多々あったことも事実である。
しかし、いつもハンドバッグの中に資料やテキストを入れて持ち歩き、移動時間に1ページでもいいから読もうという気持ちだけは維持していた(とはいうものの、実際は電車で爆睡しているところを随分と学生に目撃され、かなり恥ずかしい思いをしたのも事実である) 。
2.テーマ決定と資料収集
ただ、そんな私でも救われたのには理由がある。まず1つには、修論テーマは入学時からはっきりと決まっていたので迷いがなかったこと、もう1つの理由としては、テーマが決まっていたので1年次から資料収集を始め、早い段階である程度の先行文献が見つかっていたことである。物理的な意味での図書館、書店を始め、バーチャルライブラリーもいろいろと検索したが、数をこなすことで背表紙や概要を見た段階で、それが自分の必要としているものかどうかが、すぐに判断できるようになってくる。これは仕事柄、常にいろいろな分野の文献を見なければいけないところから訓練されてきた賜物だと思うが、そのおかげで資料収集だけは苦労せずに済んだような気がする。
とはいえ、資料収集は早い段階から始めるに越したことはない。思いがけない文献が出てくることもあれば、思ったように見つからない時もある。また図書館から借りるとなると時間的制約も考慮しなければならないので、資料収集は早め早めが肝心と実感した。
3.パソコンの使い方
しかし、いくら資料が集まっても入力して実際の論文に仕上げなければ意味がない。そこで私が実施したのは、まず簡単に目次を決めて書式設定することであった。あらかじめ目次を決めておき、何か気づいた時にその項目に引用などを入力しておけば、あとでいくらでもコピー&ペーストが出来るからである。また最初から目次などの書式設定をしておけば、最後に目次を作成する時も苦労せずに済むことがわかっていたので、とにかくラフでもいいから、と目次を決めて書式だけはきちんと設定した。
もう1つ必ずやっていたことは、資料を見ていて気づいたこと、また引用できそうな部分については、即座にその場で入力することであった。またあとで……などと言っていては、一体いつになったら出来るかわからない。「気づいた時にアクションを起こす!」ということだけは自分に課していた。
実際、これが私の場合は非常に役に立った。10月の中間発表までに引用するテキスト(原文)の入力を済ませたため、その後は自分の論点を展開することに主力を注ぐことが出来たからである。そんなことは当然……と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実は入力作業というのは意外に時間のかかるものである。データエントリーのスピードでは今まで人に負けたことがない(人材派遣会社ではいつもスピード記録を更新していた)私でも、修論作成にはかなり時間を費やした。もちろんここには考える時間は含まれていない。単純な作業時間に恐ろしく時間がかかったのである。よって、文献は読みながらインプットしながら、という並行作業で進めることとなった。
その他パソコンの使い方としては、データ保存に気をつけていた。というのも、ハードディスクに入れておいてパソコンが使用できなくなった場合、お先真っ暗だからである。そのためハードディスクに入れると共に、外部メディア(私の場合はUSBとコンパクトフラッシュの2種類)を使って、常に保存していた。さらに几帳面な(?)O型の私は、アップデートしたものをプリントアウトするまではその前に出力したものを保存しておいた。外部メディアで十分ではないかと思われるかもしれないが、そこはやはり何が起きるかわからない。電子データは一瞬にして消え去る可能性がある。そういう最悪のケースを想定して、スキャナーで読み込めるようにハードコピーも必ず1部は手元においておくこととした。
もう1つ気をつけていたことは、ディスククリーンアップとデフラグである。ネットでいろいろ検索をしていると、いつの間にかディスクに不要な情報が溜まっていたりする。またクッキーにも不要なものが溜まっていたりするので、時々ディスククリーンアップをしてハードディスクのお掃除を心がけた。またデフラグもたまに行い、マシンランがスムーズになるようにも気をつけていた。
4.生みの苦しみ
と、ここまでなら、非常にスムーズに事が運んだように見える。しかしそれは大きな誤解であって、ここから先が本当に苦しかった。
中間発表でいろいろご指導・ご指摘を頂いてから、いよいよ追い込みという時に大スランプに陥ったのである。中間発表が終わったことで気が抜けてしまったこと、また発表直前に追い込みをかけたため、そこで一瞬バーンアウトしてしまったのである。それからはなかなか論理がまとまらず、パソコンを開いても1行も書き進められないという日々がずっと続いた。また秋のハイシーズンで仕事が再びピークとなったため、時間に追われ全く進まない事態に陥ってしまったのである。
気持ちは焦るが、頭がついてこない……。日々、本当に焦るばかりだったが、こればかりはどうしようもなく、結局、何でもいいから1日1文字でも……という気持ちに切り替え、本当にカメの歩み状態でしばらく過ごしていた。
とはいえ、時間は確実に過ぎていく。焦る気持ちとは裏腹に、いくら画面とにらめっこしていてもなかなか先には進まない。正直この時ばかりは、「3月修了は難しいかも……?」とか「半年延期した方がいいのではないだろうか……?」など、いろいろと弱気なことばかりが頭をよぎった。10月までの勢いはどこへやら、ほとほと途方にくれてしまった。
こうしたスランプから脱出できないまま、あっという間に12月を迎えた。街はクリスマスイルミネーションで華やいでいたが、精神的にはそれを楽しむ余裕は全くなく、この頃が一番悪循環に陥っていた時期でもあった。さらに誕生日が12月の私にとって年末は例年ならイベントシーズンなのだが、修論を目の前にしてそれを楽しむ余裕もなくなっていた。が、そんな私を友人が救ってくれた。「そんなに根詰めてやっていても、行き詰まってしまい効率が悪いだけでは?」と誘い出してくれたのである。「どうしよう……? 1分でも惜しい時期なのに……でもいくら画面を見つめていても、少しも進まない……」と自分の中で逡巡していたが、いっそのこと全てを忘れたら気持ちも切り替わって、何かが生まれてくるかもしれない、と思い切って出かけることにした(ご指導頂きました先生方、ごめんなさい。年末はかなり飲んでいました……汗)。
結局、これが好転するきっかけになった。久しぶりにリフレッシュしたおかげで、頭の中のモヤモヤがすっきりした。それからは、秋の大スランプが何だったのかというくらい、快調に進めることが出来たのである。
こうして、私は何とか修論提出日にこぎつけることが出来た。とはいえ、これで全てが終わったわけではない。口頭試問、さらには正本提出とまだまだ山は続いたが、やはり副本提出までが一番苦しかったと感じている。
5.最後に
こうして、今は修論奮戦記をしたためることが出来る環境となった。が、ここに至るまでには本当に多くの方々にお世話になったことを忘れてはならないと思う。自分1人だけの力で成し得た修士論文ではないのである。
ご指導頂いた先生方はもちろんのこと、家族、友人、仕事仲間など、周囲の協力がなければこの2年間は成り立たなかった。多くの方々に支えられた2年間は、私にとっては大きな実りある時間ともなった。また、修士論文を提出したことが、こういった皆さんへの謝辞になるかと思う。しかしそれ以上に、自分を支えてくれた方々への感謝の気持ちを忘れてはならないと思う。
ここに改めて皆様に感謝を申し上げることで、奮戦記を締めくくりたい。

「理科の教員、文科の学徒となる」
文化情報専攻 山本勝久
真夜中は別の顔
私はふだん大学受験生に生物を教えている。かつては小中学生から社会人まで受験指導をしていたこともあるが、今はもっぱら高校生である。当然のごとく理科系の人間と思われていて、同僚と話をしていて大学院のことが話題にのぼったとき「研究のテーマは?」と聞かれたので「芭蕉と杜甫」と答えると、彼は「芭蕉は日本各地を歩きましたからねえ」といった。どうやら彼は「芭蕉と徒歩」と勘違いしたらしい。まあ、そのほうが生物の先生らしいかもしれない。こちらはまったくの理科系人間というわけではない。大学は教育学部の情報教育コースという中途半端な学科の出身であり、学生時代以来手ばなさなかったのはパソコンではなく『福田恆存全集』の方である。いずれにせよ昼間「DNAの二重らせん構造」だの「血液凝固のしくみ」だのを講じ、深夜『校本芭蕉全集』や『和刻本漢詩集成』等を開く日々と相なった。シドニィ・シェルダンの小説ではないが「真夜中は別の顔」である。
資料集めと論文書き
論文の資料集めは楽しい。資料読みはチト苦しい。論文書きは苦行である。世の中には苦もなく文章をものする人がいて、たとえばG.K.チェスタトンなどはお金がなくなると、ワインとロールパンを持って人気シリーズ「ブラウン神父もの」の短編小説を一気に書き上げたそうである。もちろん私にこんな芸当ができるわけもなく論文書きには苦心惨憺した。それにくらべて資料をさがすのは楽しい。ゼミや学会出席のため上京すれば必ず神田神保町の書店街へ足を運んだ。この界隈のうれしいところは、書店のみならず飲食店も昔のまま頑張っている店があることである。すずらん通りの洋食屋のカツカレーは学生時代のままだし、白山通りの喫茶店は今もワイシャツに蝶ネクタイのウェイターが給仕してくれる。これもまた資料集めの楽しみのひとつであった。しかし、好事魔多しというか、調子に乗って大失敗。昨年のクリスマスに入手した『エリオット全集』がずいぶんおもしろく、 これはぜひ論文に取り入れねばと実行に移すも、重大な箇所での誤読を先生から指摘され大幅に書き直すコトに。論文書きは苦行である。しかし、部分的に書き直すのはもっと苦しい。いっそのことはじめから書き直すことも考えたが提出期限一週間前とあってはそれも無理。いっこうにはかどらぬ論文を尻目に日数だけはすぎていく。布団に入ることもなく仮眠をとっていると、崩れ落ちてきた本の下敷きになって死ぬ夢を見る。もはや寝ている場合ではないと意を決し、二日間徹夜して修論副本提出期限日の昼頃仕上げる。周囲の目を気にしつつ新幹線車中で製本作業。パソコンの前にすわりつづけて具合の悪くなったひざをカクカクさせながら所沢の大学院にたどり着いたときには日が暮れていた。
吹雪の秋葉原
私は一見したところパソコン好きに見えるらしい。そんな人相があるのか疑問に思うが「趣味はパソコンですか」と聞かれたことが一再ならずある。「能が趣味です」と答えると相手はなるほどそれでわかったという顔をする。これまた不思議なはなしではある。コンピュータは大学のときにはじめて手に触れた。その同じ頃、上田邦義先生率いる能シェイクスピアグループの一員であったので、コンピュータも能も同じ時期に出会ったことになるが、機械モノは性にあわなかった。それゆえ秋葉原にも縁がなかったのであるが、修論審査の日にたまたま顔をあわせた同じゼミの院生4人、『電車男』さながらにメイド・カフェで打ち上げをしようということになり、吹雪のなかを秋葉原へむかった。「13番の番号札をお持ちのご主人様、お嬢さまぁ」との声に、「その日本語おかしくないか?」と思いつつ「こっち、こっち」とタレントの乙葉似のメイド(職種上はウェイトレスであろうが)を呼び寄せる。アイボリーとピンクの二種類のメイド服があるのを疑問に思い質問すると、スタッフの数が増えて制服がたりなくなったので新人のコにはピンクのものを着せているとのお答え。繁盛しているらしい。森永卓郎先生のいうように「萌え経済」が消費の牽引車となるのであろか。もっともこちらとしては景気回復よりも論文審査のパスに一息ついているところである。思えばこの二年間はひどく忙しかった。十年後に同じことをやれといわれても無理かもしれない。しかし、振り返れば楽しいことの方が多かったのもまた事実である。年齢も職種も居住地も違う四人がこうして集まって話しをしていることも不思議な縁である。大学院に入らなければありえなかったであろう。駅で皆とわかれたときはその場から立ち去りがたい気分であった。

「セカンドバッグは買い物カゴ!?」
人間科学専攻 石津希代子
大学院生活で、いつの間にか、私の通勤には、買い物カゴが欠かせないものになっていた。スーパーの食品売り場などで見かける、例の買い物カゴのことである。お気に入りの洋服を着て颯爽と(?)ジャケットをはおり、携帯や財布、化粧品など入れたバッグを肩にかけ、そして片手に、青い大きな買い物カゴを持って出勤していたのである。一般的な女性の通勤スタイルとしては、ちょっとどころか、大きくはずれている気がするが、私は、毎日、これを片手に出勤した。
さて、何ゆえに通勤に買い物カゴなのか――。私は、大抵、仕事が終わると、そのまま職場(学校)で、レポート作成をしたり、研究をまとめたりすることが多かった。放課後、そして夜の職場(学校)は、恐ろしく静かであり、私にとって作業が最もはかどる場所であったからである。そこで、問題となったのが、自宅と職場間の資料の持ち運びである。レポート作成や研究には、何冊もの書籍や、多くの文献が必要であった。そのため、これらの資料を入れることができる大容量で取り出しやすい入れ物、必要なものが探しやすく、なおかつ、運びやすい入れ物が求められた。これに、買い物カゴが最適であったというわけである。形態上、物の出し入れがしやすく、ひと目で何が入っているかがわかる。整頓して入れなくても、バサッと放り込んで、サッと出かけることができる。それに、どんなに重くなったとしても、持ちあげられる重さであれば、多くの荷物を効率よく運搬できるのである。
ということで、朝は、買い物カゴに、その日に必要になりそうな書籍や資料を、とりあえず放り込んで出勤し、夜は、自宅で使いそうなものを詰め込んで帰宅した。必要なものを吟味して持ち歩くのではなく、必要になったときにスグ使えるように、使う可能性のあるものを持ち歩いていたのである。この冬も、買い物カゴは、やはり大活躍であった。修士論文執筆に必要な文献や資料は山のようにあった。これらの資料を全て、ときにはパソコンも買い物カゴに入れ、毎日、持ち歩いた。休日や年末年始に、これらを持って職場に行き、執筆した事もあった。
このように、私の大学院生活には、買い物カゴは必須であった。これは、田舎の職場に自家用車通勤、しかも歩く歩数がドアからドアへ数十歩という、私の通勤環境から生まれた、買い物カゴのセカンドバッグ化といえる。もし電車通勤だったら、あるいは通勤で長い距離を歩く必要があったら、きっと出来なかったことだろう。
修士論文を書き終えた現在、買い物カゴに入っていた書籍は本棚に戻し、文献や資料も整理し片付けた。それとともに、私の通勤スタイルは、やっと普通に戻ったところである。

「合言葉は『修論提出までの我慢』」
人間科学専攻 岡本 陽子
ピピピピ……けたたましい金属音の目覚まし時計をやっとの思いで止める。
ふーっ、眠い……が、とりあえず起きるか……。
カーテンを開けると猛吹雪、ホワイトアウトである。午前3時。
まだまだ外は暗い。いや真っ白である。遠くに新潟港の魚市場の明かりが透ける。
パソコンに向かい電源を入れる。パソコンが立ち上がるまで、床の上で大の字になる。
なぜこんなことしているのだろう。
なにをしようとしているのだ。
大学院なんて自分には無理だったんだ。
別に書きあがらなくてもいいじゃないか、誰に頼まれたわけでもないし。
楽しくなければ。苦しいならばやめればいい……。
……自分への言い訳の言葉が縦横無尽に頭の中を駆け巡る。
おもむろに机に目をやると、パソコンは立ち上がっている。健気だ。
メールをチェックする。ゼミ仲間からついさっきのメールが入っている。
ああ、さっきまでやっていたんだな。がんばるなあ、みんな。
こっちもやるかぁ。
―――しらじらと夜が明ける。
ああ、今日は燃えないごみの日だ。そろそろコーヒー淹れるかな。
もう少し……そろそろパンを焼かなきゃ。
もう少し……このファイル先生にみてもらわなきゃあ。
もう少し……うわあぁあ! ファイル添付を忘れてメールおくっちゃったぁ!
こんな日々を送った2年であった。
40才直前、自分の今までの人生をやり直したくなった。これからは本当の自分の人生を探したくなった。女四十にして惑うこと、惑うこと。そして仕事を辞め、一つのテーマを抱えて大学院へ。それからパートをしながら院生の生活が始まった。1年次はひたすら5科目の履修課題をこなすことが精一杯、修論のことは文献を集めることと自分のテーマを固めることくらいであった。
修論は2年次からが本番であった。しかし、このときから同時に2つの仕事を掛け持ちすることになる。予定していたこととはいえこれが非常に大変だった。新しい仕事を同時に2つ、休日は日曜日のみ、しかも家事がある。家に仕事を持ち帰ることが多い。皆さん、ほとんどの社会人大学院生は同じ状況であると推測するが、仕事と家事と院の時間的分配に苦労した。新しい仕事の環境に慣れず、夕飯を食べながら睡魔に襲われ、食べながらうとうと寝ること数知れず。それでもなんとか夕食の後片付けをして机に向かっても頭が回らず少しもはかどらない。仕事から頭を切り替えるために一度寝て、夜中におきてから勉強をするというスタイルに変更する。なにが欲しいって、知力も欲しいが体力が欲しい!!睡眠時間の確保はゼミの仲間内でも話題になり、仕事中トイレで仮眠することを聞き納得。
修論ではなにを血迷ったか、調査分析をすることに。数字がからきしダメだから、文系に行ったのに、どうしてこんなことをしてしまったか。でもやりたい。これが思ったより時間が取られ、分析を何度もやり直した。そのとき誰かが耳元でささやく。「別に誰も貴方に何も求めてないよ」。同時に見も知らずの院生の論文のためにアンケートに協力してくれた人たちのメッセージが浮かぶ。「ぜひ、がんばってください」。「よくぞ私たちに光をむけてくれました」。……これらのメッセージを無駄にはできない。やおら思いなおす。
とにかく、時間が取れない。体がついていかない。気持ちだけが焦る。諦めの気持ちと粘りたい気持ちが交差する。特に年も迫ってくると、仕事も家の雑務もますます多くなり、それまでにまして時間と体力との戦いになる。年末年始は嫁業にシフト。家族で箱根マラソンを見ながら、「こんなことしている場合じゃないだろうが」と焦る。時間が取れないことに加えて、知力が足りなすぎる。何度も諦めようと思ったが、駄文にも関わらず諦めずに指導・添削してくださる指導教官の田中先生、ゼミ仲間の人たちのメールに励まされた。「こうなったら力技で出してしまおう」とゼミ仲間から年賀状をもらったときからエンジン全開。修論締め切り前日に郵便局にて郵送したときの帰り道はさすがにジーンと胸に迫るものがあった。転職、引越し、中越地震、といろいろあったなぁ。
修論提出の直後は中途半端な仕上がりに、達成感や満足感とはほど遠いものであったが、こうして奮闘記を書かせていただいていると、やはり浮かぶ言葉は「感謝」である。この年令でアリストテレスに触れる機会、若い異業種の人たちと接する機会、新しいことを学べる機会、自分の体感でしかなかったことを理論と結び付けてまとめることのできる機会、周囲の人たちから助けられていることを実感できる機会、様々な機会を与えていただいた。これらのことは非常に贅沢なことであり、入学当初は考えてもいない収穫であった。
入学当時「(大学院に)行ってもいいが家に影響をだすな」と消極的賛成で、合宿やスクーリングから帰ると不機嫌そのものであった夫も、最後は外食も埃が舞う部屋も資料等で占領されたリビングダイニングも何も言わずに我慢してくれた。合言葉は「修論提出までの我慢」。今少しずつ生活は落ち着きを取り戻しつつある。
指導教官の田中堅一郎先生、大学院事務課の皆様、ヘルプディスクの八代さん、図書室の皆様、履修課目の先生方、本当にお世話になりました。重ねがさね深謝いたします。そして、落ち着きのない私を最後までお守りをしてくれたゼミの皆さんに感謝いたします。
最後に、後輩の皆様には何の参考になりませんが、要するに「諦めないこと」でしょう。

「距離を越えて……」
人間科学専攻 柏田三千代
入学
私が日本大学大学院を選んだ理由は、まず仕事をしながら勉強が出来る通信制であること、次に「ものの考え方」を学びたいと考えていたので、「哲学」が学べる大学院であることでした。これらの要因をインターネットで検索したところ、全国の大学院で日本大学大学院1校だけだったので、なんら迷うことなく、私は日本大学大学院を受験することを決めました。
受験前日、関西に住んでいる私は飛行機で東京へ向かいました。宿泊は両国の某ホテルでした。私は自分自身の学力では、まず不合格になるだろうと思っていたので、受験記念に「せっかく両国に来たのだから“ちゃんこ鍋”を食べよう」と、1人で“ちゃんこ鍋”を食べていました。
試験当日、筆記試験を終えてから面接がありましたが、以前から学校の資料に載っている佐々木先生の写真を何度も眺めていたので、実際に佐々木先生に初めてお会いしたとき、「うわぁ〜、本物の佐々木先生だ!」と、感激と緊張が入り混じった心境でした。
このような私ですが、その後に驚きの合格通知が届きました。
一年次
佐々木先生のゼミは、埼玉県所沢市の本学で2ヶ月に一度、2日間にわたって行なわれます。先生は1人1人の院生に対して、丁寧に1時間以上かけて指導をして下さり、ゼミ終了後には懇親会も行なわれます。また、ゼミ生は全国各地から集まった人たちで、職業も年齢もさまざまですが、すぐに打ち解け仲良くなることが出来ました。
当初、私の修士論文の題名は「一般病院における患者尊厳への改善案と倫理教育方法」でしたが、初めてのゼミでは何をしていいのかわからず、文献検索の結果発表で終わってしまいました。
夏のスクーリングが終わり8月の軽井沢合宿でも、まだ自分の方向性が不確かだったので、取り留めのない発表に終わってしまいました。しかし、合宿の懇親会の時、私が「先生、哲学って何ですか?」「哲学がものの本質を問うものだとすれば、どうして医学や看護には概論や倫理があって哲学がないのでしょうか?」と質問しました。すると私の問いかけに対して、先生をはじめゼミ生皆が考えてくれました。
それから12月までの間、私の修士論文で一番問題としている尊厳について、「尊厳を問うためには、哲学が必要なのだろうか」ということを悩み続けました。そして、12月のゼミで、それまで私が悩んでいたことを話し、題名や内容の変更を先生へ申し出すると、先生は快く承諾して下さいました。ここで、ようやく修士論文の方向性が見えてきました。
2月のゼミでは、題名を新たに「医療における患者の尊厳―新たな医療・看護哲学をめざして―」と変更し、序章を考えました。この序章を書いたことで、自分が問題としていること、何を明らかにしたいのかということが見えてきました。
二年次
二度目の春を向かえた頃、修士論文は序章に次いで、章立てを考えました。章立ては序章に沿って考えましたが、まだまだ大雑把なものでした。章立てに関しては、佐々木先生から何度も指導が入り、8月夏の軽井沢合宿時には本文の第2章まで書いていたのですが、先生からは章立ての指導を受け続け、それより先に指導を受けることも出来ませんでした。章立てから先に進むことが出来ない私に、同ゼミの友人たちから、いろいろなアドバイスや励ましの言葉を頂き、先生の指導や友人たちの言葉を思い出しながら、修士論文の修正や本文を進めていきました。
10月のゼミでは、本文の第3章まで書き進めました。この頃からようやく本文第1章から第3章までの指導を先生から受けることができ、修正を行なっていきました。しかし、残り本文第4章と終章を考える前に、年末年始は修士論文に集中するため、履修科目のレポートを早々に着手し、12月には全てのレポートを最終提出しました。
12月のゼミが最終となるため、ゼミまでに取り敢えず残りの本文第4章と終章を書き終えて、先生からの指導が受けられるようにしました。しかし、この第4章で哲学に触れるため、かなりの時間を要しました。いろいろな哲学者の本を読み、学び、考え、最終的にどの哲学者を論文に取り上げるかと悩みました。そして終章を書き終えた時に、もう一度題名について考え、「医療における人間の尊厳―医療・看護哲学をめざして―」と最終変更することにしました。ゼミでは第4章を中心に先生より指導を受け、私の哲学者の捉え方についてゼミ生皆も意見やアドバイスを与えてくれましたが、1日では話が着かず、話は翌日まで持ち越されました。
最終ゼミを終え、関西へ戻った私は、序章から第3章までの修正・追加、第4章と終章の書き直しと、やらなければならないことがたくさんありました。そのため、遊びに行くことやベッドでゆっくり休んではいけないように思え、仕事以外は自宅で過ごし、自宅の和室に大学院貸し出しのノートパソコンを置き、周囲には本と資料、そこで眠ることが出来るように枕と毛布を置いていました。しかし、体調を崩しては修士論文が書けなくなるため、風邪を引かないように気をつけ、体調を維持しました。
お正月が過ぎ、このような生活をして一ヶ月、ようやく修士論文が完成しました。しかし、修士論文と要旨が完成したのは1月12日午後でした。提出期限が13日郵送必着となっていたので、普通の郵便では間に合わないと思い、慌てて近所の宅配センターへ駆け込みました。最近の宅急便は早く、関西からでも「13日の午前中には届きますよ」と聞き、安心しました。
1月21日口述試問当日、関西では雪は降っていませんでしたが、関東が大雪のため飛行機は延着しました。まるで紙吹雪のような大きな雪が深々と降り続ける中、「こんな東京の大雪の日に口述試問を受けるなんて、生涯忘れられないだろうなぁ〜」と思いながら、足をツルツルと滑らせ口述試問会場に向かいました。口述試問では、いろいろな質問や指導がありましたが、無事終えることが出来ました。
最終提出は2月13日郵送必着ということだったので、口述試問からしばらく期間がありました。以前に国際情報の近藤先生より、「修士論文が完成すれば、しばらく論文を寝かせてから、もう一度論文を読んでみると、それまで気づかなかった誤字・脱字などがよく見えてくるよ」と教えて頂いていたので、私はしばらく修士論文に目を通すことはありませんでした。2月10日、私は久しぶりに修士論文を読むと、自分が書いた修士論文だというのに、新鮮な気持ちで読むことが出来ました。すると今まで気が付かなかった誤字・脱字や文章の不足しているところがわかりました。最終修正を終えて、2月12日に再び宅配センターから郵送しました。翌日13日には大学院事務課より「正本提出確認」のメールが届きました。
2年間を振り返り
私にとって大学院での生活は、とても楽しく充実したものでした。私が住んでいる兵庫県宝塚市から本学の埼玉県所沢市までは、かなり「遠い距離」があります。しかし、私にはこの「遠い距離」が全く苦にはなりませんでした。むしろ、まるで御近所の大学院に通学するかのような感覚さえありました。私にこの「遠い距離」を「近い距離」に変えてくれたのは、「佐々木ゼミ」だと思っています。ゼミでは私の考えに対して、熱心に指導して下さる佐々木先生や、自分の問題のように一緒に考えてくれる友人たちがいます。また、友人たちの発表や懇親会の語らいの中から、私は多くの事を学ばせて頂きました。そんなゼミに行くことが、私はとても楽しみでした。私はこれからも「佐々木ゼミ」で育てて頂いた「ものの考え方」を大切にし、哲学の語源である古代ギリシア語「philosophia(知を愛する)」を続けていきたいと思います。
最後になりましたが、適切な御指導と温かい激励の言葉を頂きました佐々木先生、近藤先生をはじめ諸先生方、佐々木ゼミの皆さん、GSSC関西の皆さんへ、心から深く感謝を申し上げます。

「最終コースは全力疾走」
人間科学専攻 大学 和子
私の場合は、博士前期課程に3年間かかってしまいました。「人生は計画通りには行かないものである」ということを実感した月日でした。
これから頑張ろうという4月入学直後、実母の具合が思わしくなくなり、6月に脳梗塞の再発で入院しました。2ヶ月あまりで退院し、介護保険のお世話になりました。しかし、病人の生活を軌道に乗せていくことは大変でした。ケアマネージャー、介護認定のための保健師、レンタル業者、リホームのための大工さん、住宅支援による手すりの設置業者、宅配弁当の業者、安全センター会社などとの打ち合わせ、申請、契約、実施で、リホームが済み一段落したのは大晦日でした。この年、私が提出できたリポートは1科目だけでした。
面接ゼミやサイバーゼミは休みがちでしたが、ゼミのメンバーに支えられながら参加していました。何故そんなに忙しいのと思われることでしょう。実母の介護もありますが、介護関係者との調整に時間をとられてしまうのです。ケアマネージャーは計画書を作成するだけで、実施するのはヘルパーさんでした。ヘルパーさんは「私、車椅子を押すのは初めてです」と不安を隠せません。私はケアマネージャーがヘルパーの教育や指導を行うと思い込んでいましたが、それは誤りでした。私はこれから来るヘルパーさんのために時間を記入した行動別のフローチャートと手順書を作成しました。交通手段に関する手順、移動に関する手順、料金支払いの手順、受診の手順、予約の手順、薬をもらうまでの手順、散歩用の手順、買い物同行用の手順、実母に関する健康上の注意事項(トイレの介助方法、水分の摂取、食事のこと、緊急時の連絡先)を作成し、日替わりのヘルパーさんが安心して介護できるようにしました。ヘルパーさんが安心できることは、実母にとって良い介護を受けることができるにつながるのです。また、受診の際には1ヶ月の血圧やその他の変化を担当医用に記入し、ヘルパーさんに私の代行をしてもらうようにしました。毎月のケアー計画も私が作成し、ケアマネージャーに送っていました。私の抱えている問題の根本は、医療や看護の専門家でない人間が高齢者や病人の世話をすることには無理があるということなのです。その間隙を埋めるために、私は自身の専門知識と技術を活用せざるを得なかったということです。
2年目、なんとか頑張り抜きたいと思いはあっても、仕事、家事、介護、大学院では、すべきことがありすぎて体がついてきません。実母の難聴もひどくなり意思の疎通も難しくなってきました。そこで、お掃除と日中の実母の見守りを自費でお願いすることにしました。この際お金がかかると言っていられなかったのです。お陰で、この年は3科目を履修することができました。
しかし、3年目の7月これから研究の実施に取りかかろうと思っていた矢先のこと、お掃除に来てくれていた方の体調が優れず、私を応援してくれる人がいなくなってしまったのです。8月、目の前は真っ暗になりました。あと2科目の履修と実験を行わなければならない。更に9月からは看護学生の2年生の臨地実習で1ヶ月余り身動きが取れなくなる。10月に実験の実施を計画しました。実験参加者と協力者(学生)と実験者(私)の調整は難しく、実験期間は6週余りを費やしてしまいました。12月、今度は看護学生1年生で初めての臨地実習です。そして、実習が終了したのは12月16日でした。実験は行ったものの修士論文は書き始めていません。これからが最後の勝負と思っていたら、26日に再度、実母の入院で、年末年始は修士論文に専念したいとの考えは泡のように消えてしまいました。しかし、10日余りの入院でしたので数日は大変でしたが、以降は連日パソコンと本棚とを行き来しながら、未完成で失礼とは思いつつ、担当教授に細切れ論文を送信し指導を受けながら、1月13日、論文必着日に所沢まで持参し、論文を受けて頂きました。13日17時30分でした。
1月21日は口頭試問です。その週には練習のためのサイバーゼミが2回行われました。15分間で何をどのように伝えるか。とても勉強になりました。しかし、発表用の紙芝居を作成する必要があり(パワーポイントが使用できない)、前日深夜にコンビニでカラーコピーをして、厚紙に糊付けをしました。もう時間がありません。紙芝居の裏面に発表用の内容を貼らなければならないのです。少し仮眠をとってからと思ったのですが、目覚ましも携帯も握りしめたまま、気が付くと時間がない。電車では間に合いそうもなく、自宅からタクシーを飛ばし、何とタクシーの中で、運転手さんに「どうぞ、私にお構いなく」と言って、裏面の糊付け作業をしました。色々なことがありましたが、何とか口頭試問を終了することができました。後はご指導頂いた内容を追加または修正することです。2月12日クロネコヤマト宅急便に修士論文を託して13日必着、これで完了です。
おまけの顛末、2月14日、バレンタインデーです。私は朝の満員電車の中で、立ったまま気を失ってしまいました。気がつくと「大丈夫ですか」という女性の声。電車の座席に座っていました。「あ・あ・済みません」これが精一杯の私の声でした。看護関係者なんて言えない。恥かしかった。
これから修士論文をお書きになる皆様へ、こんな私ですが教授やゼミの仲間に支えられて論文を書くことができました。最後まであきらめないことがポイントのようです。

「寝ても覚めてもパソコン」
人間科学専攻 田畑きみ代
思い起こせば2年前、大学院説明会から始まったパソコン騒動。パソコンに触れたこともない私でも入学出来るものかどうかお尋ねしたところ、「大丈夫、80歳の方でも修了しましたよ」という言葉に何の疑問も持たず試験を受け入学が決まった。
さていよいよ本格的に授業?の開始、開校式当日、目の前でゼミが行われ、目が点になり、身も心も固まってしまった。「私は場違いなところへ来てしまった」と後悔の念に駆られました。また、通信制なら年に数回東京へ行けば良いはず、と軽く考えていた事も年間スケジュールを見て、大きな勘違いだったと知った。そして周りの人は皆さん素晴らしい人ばかりで増々気後れし、不安になった事を思い出します。気後れしていても、場違いなところへ来てしまったと後悔している間にも、大学院の荒波の中にどんどん押し流されて行きました。
4月にパソコン研修を受け、初級クラスは電源の繋ぎ方から、立ち上げ方、マウス操作など初歩の第一歩から教えて頂きました。この研修で、お仕事でアメリカ在住の国際情報専攻の方とも知り合いになり、アメリカに着いてから、メールのやり取りをして、お互いにパソコンの練習をしました。「おはようございます」とメールを入れると、「今晩は、今こちらは夜中です」などと、瞬時にお返事が届くインターネットの素晴らしさに感心しました。
5月末、やっとパソコンが繋がり、自宅で使用出来るようになりました。パソコンを開けると、眞邉ゼミの皆さんからのお祝いメールがたくさん入っていて驚き、また感激しました。まず、そのメールへ返信することから始まりました。返信先を間違えたり、空メール、変換ミスで変な文章のまま送ったり、考えられないようなミスをたくさんしました。
パソコンが繋がってから、時間があればパソコンに向かっていました。文字通り寝ても覚めてもパソコン状態が続いていました。毎晩寝るのは3時頃でした。頭の中はパソコンの解らない事でいっぱい、解決しないまま眠るので、脳が悲鳴をあげたのか、不可解な寝言を頻繁に言うようになり、主人から「パソコンに根を詰め過ぎじゃないか」と言われて少し早めにパソコンを閉じて寝るようにした事もありました。しかし、先生から送られて来るメールに答えて行くには、寝る時間を割いてでもしないと出来ませんでした。
私は名古屋でピアノを教えていますが、「ピアノが弾ければパソコンもすぐ出来るでしょ」とよく言われましたが、文字を打つことだけならそう言えるかも知れませんが、Excelやpptを行うには、ピアノのように指を速く動かすことではなく、それよりは技術習得や記憶力が何より必要だと身を持って体験しました。
私には先生からの課題は、ピアノの生徒に置き換えて考えた時、ドレミファソをやっと覚えたところに、次回はショパンのノクターンを弾いて下さい。と言われたのと同じ位に感じていました。毎日がステップアップで、序々に進歩などと生温い事を言っている場合ではないという思いで必死に階段を駆け上がって行きました。また、毎月市ヶ谷で行われるゼミでは、「必ず発表をするもの」と先輩から伺っていましたので、初回からずっと発表して来ました。振り返ってみれば、ほぼ皆勤賞でした。開校式に毎月東京へ行く事に驚いていましたが、考えてみれば、発表の度にpptと格闘し大変でしたが、初年度は東京の娘の下宿に宿泊し、2年目はホテルに宿泊してゼミの為に東京へ行く事が楽しみになっていました。
もう一つ眞邉ゼミで毎月行われていたサイバーゼミでは、なかなか上手く入れず、先生から「写っていますが、声が聞こえません。こちらの声が聞こえたら○聞こえなかったら×を手振りでして下さい」という会話をよくしました。まるで大縄跳びに入れない人のようでした。
このようなパソコン技術習得が大変な時期にも科目履修という大きな難題が始まっていました。1年間で5科目まで履修可ですので、先の大変さも考えず5科目履修届けを出しました。1科目に取り掛かって、最終提出までの道のりの大変さに気付きました。しかしやるしかありません。前期リポート提出期日が迫り、5科目目を今日提出しないと危ないという日に、名古屋に大きな地震がありました。その地震の中でも揺れながらパソコンを打っていた事もありました。後期リポートではお正月も無く、リポートに追われていました。先輩が「後期は提出期限が短いので、お布団で寝たのは何日あったかな?」というお話しは伺っていましたが、やはり自分も同じ事を後輩に言ってしまいました。
毎回自転車操業のように研究内容・科目の勉強に追われ、パソコンの技術習得をして来ましたが、気が付けば修士論文の中間発表の時期を迎えていました。あんなに何も出来なかった私でしたが、pptを使って発表出来るまでなっていました。アニメーションも使えるようになり面白くなって、たくさん取り入れてしまい、先生から「あれは使いすぎです」と言われてしまいました。想像以上にパソコンが出来るようになった事に感謝しています。
ここまで来るまでには、眞邉先生、ゼミの先輩・同級生、友達には大変お世話になり、多大なご迷惑をお掛けして来ました。最後まで見捨てず懇切丁寧にご指導頂きまして本当にありがとうございました。また、寛大な心で支えてくれた家族に感謝しています。

「人生の宝箱」
人間科学専攻 新田 勝枝
大学院で学んだ2年間は私にとって人生の宝箱のような貴重な期間でした。30年以上前の大学生時代から哲学を学びたいと望み、また、これまで人間に関して秘かに抱いてきた様々な疑問に対する答えは、専攻した人間科学の中で見つけることができました。
例えば、強い自意識で悩んでいた20代のころ、遠藤周作の著書に「講演の後には自意識で苦しみ、悶々として眠れないことが度々ある」という文言をみつけ安心したことを覚えていますが、人にはなぜ自意識があるのか、自意識とは何かということの答えは、大学院で学ぶまで見つけることができませんでした。
さらに、読書が最大の楽しみである私は、大学院で学ぶ2年間、私的な読書はぜったいにしないと悲壮な決意をし、学生生活に必要な読書に徹しましたが、必要な読書もまた楽しく、非常に満足度の高いものでした。そこには常に発見と感動があり、知的好奇心が刺激されました。後には、レポート執筆という苦しみが待っていましたが、その苦しみもまた、教授陣の丁寧な指導の下、「書き上げた」という達成感を得る源となりました。
そして、丁寧な指導をしてくださった教授陣は、30年前は非常に遠い存在でしたが、院生になってからはとてもフレンドリーで、愚問にも丁寧に答えてくださるたいへん近しい存在でした。メールを通して届く言葉は常に優しく語りかけ、お会いしてお話するよりも心が通い合うような気がしました。指導教授とのゼミ後の酒席はまるで同窓のような雰囲気で、これもまた楽しみのひとつでした。
このように宝箱の中には社会人生活では得られない彩り豊かな宝石がたくさん入っていますが、この時期に励ましあった学友たちとの出会いもまた大きな収穫でした。真夜中過ぎの電話とインターネットを使ったやりとりは、遠く離れていても目的をひとつにして取り組む強さと勇気、励ましをくれました。
大学院で学んだことは今後、社会に還元していかなければなりませんが、指導教授である眞邉一近教授の「修了は研究者としての入り口」という言葉を心に刻み、これからも自己研鑽を重ね、より多くの人に役立つよう努めていきたいと考えています。

「修論を書き終えて」
人間科学専攻 河原 昌浩
記述編
博士前期課程では、入学後に論文を完成させなければならない期間が実際には丸2年もないので、合格発表後すぐに研究テーマ(コンプライアンスと帰属意識)に関連する資料の収集を始めようと思い立った。そこで先ず身近で簡単に出来ることを考え、研究テーマに関連する新聞記事のスクラップを行い始めた。
実際にこの試みを始めると、スクラップ作業はけっこう1日の生活の中での時間を圧迫し、それを盆・正月休みに関係なく2年間行うのは辛いことになった。しかし、この2年間で収集したスクラップ記事の量は、気がつけばファイルホルダー7冊分となり、その関連記事を毎日地道に余さず目を通してきたことによって、飛躍的に自分自身のレベルアップに繋げることができた。
また他方では、論文を作成するにあたって地方在学生(宮城県在住)としての苦しみもあった。当然、論文を作成するのには先行する関連文献を読まなければならない。幸いにも、GSSCは電子図書館機能の充実によって遠隔地からでも簡単に論文や専門書の取り寄せはできる。
しかし、そういう文献を収集するにあたっても、単に論文や専門書の題名がホームページ上で羅列してあるだけでは、自分が望む内容の文献かどうかわからない場合がある。こうした場合には、直接に図書館に行って1冊1冊手にとって目次などから内容を確かめなければならないことも多くある。そんな時、やはり地方在学生として、日本大学の各図書館が集中する首都圏に居住していないことに対する不利を感じた。
ただ、不利だとばかり思ってはいられないので、地方は地方なりに身近に利用できる図書館を最大限に活用しようと考え、県立図書館や市立図書館、そしてより専門色の濃い文献探しには国立大学の図書館と幅広く活動域を広めた。それが今となっては貴重な経験となり、楽しい思い出にもなった。
調査編
人間科学専攻の場合、概ね修士論文を作成するためには何らかのデータを得なければならない。もちろん、絶対に自らが調査や実験を行わねばならないというものではないが、できれば自分の主観を整理するためにも、客観的なデータの収集は自分の手で行った方が良いように思う。特に社会人の場合は、日頃実社会で感じている疑問や関心を研究テーマにしている場合が多いと思われるので、個人の先入観などを排除するためにも必要になる作業といえるかもしれない。
ただ社会人学生はほとんどの場合、仕事との両立で単位履修と研究を進めているので、現実問題として実証研究を行う時間の都合をつけるのが困難になる。私の場合も、今回は面接調査を行ったが、何かと環境的に厳しいことも多かった。もともと出身は大阪なので、現在居住する宮城より大阪の方が調査の依頼はしやすかった。そのために、何度か面接調査を実施しに大阪に行くことになった。一方では、面接協力者から得られるデータの地域色も薄めようと考えたため、東京でも同様に面接調査を行ったので、最終的には調査にかかる別のコストも馬鹿にならないものになり、負担が増えた。
しかし、いざ修士論文を書き終えて感じることは、多くの環境的制約を乗り越えて調査を行ったことで、逆に調査開始前には考えもしなかった角度からデータの内容が得られる結果となったことはいえる。それが、入学当初想定していた内容より幅のある論文を書くことに繋がったとは思っている。
ゼミ編
そんなこんなで、いろいろと2年間は試行錯誤を繰り返しながら修士論文を書き終えることになったが、振り返ってみればやはりゼミでの指導教官や同じゼミ生との交流や支え合いの中で、無事に修論完成という目標を達成できたと思う。特に所属した田中ゼミは、その専門領域が幅の広い産業・組織心理学という分野もあって、日頃全く接点のない分野で職業生活を送っているゼミ生との交流があり、ゼミでの活発な意見交換から今までにない新鮮な視点を別の角度から与えられた。このことは、修論の作成にとって柔軟な思考をもたらしてくれていたとも思う。今振り返ってみれば、まさしく環境に恵まれたとしか言いようがない2年間だったと痛感している。

|