特に記載がない限り、電子マガジン11号(2003年3月発行)に掲載 |
執筆者一覧 | ||
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専攻 | 題名 | 氏名 |
国際情報 | 修士論文完成までの2年間 | 安田 守 |
国際情報 | パソコンがうまく動かない! | 三上 季彦 |
国際情報 | 忙中閑あり:生き甲斐に挑戦 | 石井忠史 |
国際情報 | 事件は現場で起こってるんじゃない!!机の上で起こってるんだ!! | 亀田 満 |
国際情報 | 研究課題を変更して大正解 | 森野 滋 |
国際情報 | 修論提出1カ月前に楽をする方 | 佐藤 友厚 |
国際情報 | ――こうすればよかった―― | 松村 泰夫 |
国際情報 | 修士論文は現在の自分! | 柏倉 淳宏 |
国際情報 | 大学院は通信制が一番! | 木村 栄宏 |
国際情報 | 『継続は力なり』・・・ | 末木 国嗣 |
国際情報 | 修士論文執筆のための前提となる情報収集 | 立石 佳代 |
国際情報 | 作業の山場を乗り切るには健康がカギ | 内山 幹子 |
国際情報 | 時間を大切に | 藤森 厚 |
国際情報 | 修士論文作成の日々を振り返って | 花岡 宏伸 |
国際情報 | 春がきて | 小関 一光 |
文化情報 | なかなか書き出せなかった修士論文 | 菊地 善太 |
文化情報 | 机はなくても書ける修論 | 戸村 知子 |
文化情報 | Ringに魅せられて | 渡部 美 |
人間科学 | ― “ヘーゲルを書きました。とても楽しかったです。”― | 才野原照子 |
人間科学 | カントと向き合った2年間 | 野明 厚夫 |
人間科学 | プロジェクト×(ペケと読む:念のため)〜それでも論文はできあがった〜 | 白倉 宏美 |
人間科学 | 修士論文提出への道 | 矢吹 祥子 |
人間科学 | なんとかなるさ | 渡邊 富子 |
人間科学 | おやじの背中 | 平田 正治 |
人間科学 | 喜びと苦しみの2年間 | 前田 和世 |
人間科学 | 修士論文を作成し終えて | 作宮 洋子 |
人間科学 | 学び――終わりのない営み | 甲斐 修 |
人間科学 | 学ぶ歓び、感謝の気持ち! | 川満 昇 |
人間科学 | ある時、閃き | 横山 典子 |
人間科学 | おばさん奮戦記 | 波田野和代 |
人間科学 | 社会人大学院生の2年間 | 宮下 明大 |
人間科学 | 修士論文はステップ方式で | 品田 松寿 |
「修士論文提出への道」 人間科学専攻 矢吹 祥子 1.大学院入学の動機 私が大学院入学を志したのは、社会人3年目になって、「できれば論文の形で、今現在の自分の考えを文章に書き残したい。」という思いを強めたからでした。このころは、「仕事」や「働くこと」について、あれこれ考えを巡らせている時期でした。そして、大学院の2年間を経て、「現代若年女性勤労者の職業観と生活観」というテーマの修士論文を完成させました。 2.入学後の日々 本大学院は社会人大学院ですので、社会人である学生には、在学中にも人事異動、配置転換、退職、転職等の仕事における変化、それに伴う転居等身の回りの変化が起こる可能性は高いと思われます。私自身も、1年生の終わりに退職、引越しをし、2年生の初めに転職をしました。 1年次は、履修科目のレポート提出に手一杯で、修士論文の準備は、インターネットで図書館のOPACから文献を探し、入手して少し読むという程度でした。 2年次には、修士論文を完成させたいという気持ちを無くした事はなかったものの、転職後の新しい仕事や職場に慣れるのに必死で、修士論文の準備が遅々として進まない日々が続きました。 3.修士論文執筆着手 2年次の10月、仲の良い友人が外国に渡ることになり、その時、「これ、本屋さんで見付つけたんだけど、論文のテーマに近いんじゃないかと思って。」と、本を1冊手渡されました。この友人の励ましが修士論文執筆スタートの合図となりました。 まとまった時間の取れる年末年始が正念場だと思ってはいたものの、冬といえばカゼ、貴重な年末年始にカゼをひいてしまっては、勝負所だ正念場だとの意気込みも泡と化すと考え、修士論文執筆に着手すると同時に、私は体を鍛えるためのトレーニング・ジム通いを始めました。 12月末、「修論追い込みがんばってね。くれぐれも体調だけは崩さないように。」とのトレーナーからのメッセージを胸に年末年始を迎え、カゼをひくこともなく、修士論文の仕上げに取り掛かることができました。 4.修士論文完成 年が明けた今年1月、修士論文の原稿を持って、新宿のkinko'sへ行き、製本してもらいました。自分の書いた論文が、幾ばくかの重量を伴った1冊の本として手にできるのはうれしいものですね。 1月末、市ヶ谷での口述試問をドキドキしながら終え、2月の今、「修士論文奮戦記」を書くに至っています。 5.本大学院で修士論文を書き終えて 修士論文を作成する2年生になって、所属する北野ゼミでは7月、8月、12月の3回、ゼミ員の皆さんの修論構想をうかがう機会がありました。その度に刺激や影響を受け、encourageされたものでした。また、体調を崩した時など、メールで気遣ってもくださいました。一方で、私が皆さんの修論作成にもっとお手伝いできることがあったのではないかと申し訳なく思っています。 社会人を対象とし、かつ通信制である本大学院では、先生や学生が直接顔を合わせる機会は多くはありません。しかし、その数少ない機会に顔を合わせた時の心の交流の深さは通学制以上かもしれません。一堂に会するゼミをたびたび開くことはできないという制約はメールのやり取りが補完しています。 メールだから言えることもあれば、直接顔を合わせてはじめて伝わることもあるという相互補完のちょうど良い関係が本大学院には備わっていると思います。非常に楽しい時間を過ごすことができました。 修士論文を提出し終えた今、5年後、10年後、自分の修士論文を読み返してみた時、「ちょっとはずかしいな」と思えるように成長していたいと思っています。 最後になりますが、これから修士論文作成にとりかかる皆さまが、あせらずあきらめず、提出の日を迎えられますよう陰ながら応援しております。 「なんとかなるさ」 人間科学専攻 渡邊 富子 研究計画は順調に進んでいるように思っていた。2001年12月ころまでは。予備的データも集め始めていた。でも、そのころからもやもやとした気分になってきた。なんか面白くない。もっと自分にとってリアリティのある研究がしたい。こんな理由で、研究テーマに悩み、教授にお伺いをたててみたら、「自分がおもしろいと思えるものをやりなさい。」という返事。その言葉にはげまされ、研究テーマの変更を決めたのが、3月。それからが大変だった。実践の中で信頼性をもった実証研究をどうやって行いうるのか。だんだん無理かもと思い始めたが、もともとのお気楽な性格が幸いして開き直って進めた。 教授の指導を受け、いささかの無謀は承知の計画をたて、「実践研究ということでいいでしょう」と教授の言葉を得てデータ集めにかかった。職場の許可をとり、予備的にデータをとり、計画を修正し、また、データをとる。その間に指導教授から9月の中間発表会で発表してはというお話があった。「データもまだなんです。」と腰がひけたが、ゼミ仲間と、「できる所まででいいからやろう」と発表を決めた。これがよかった。ここでできる限りまとめておいたことが、なんとか修士論文を完成させた原動力になったと思う。 その後の提出までの日々の緊張感はちょっと辛かった。急に何がおこるかわからない仕事や家事もしながらの研究生活は、なかなかスリリングな日常だった。何とか提出までがんばって、副本を提出したのもつかの間、面接の準備、面接で問題点を指摘され、その部分の訂正。そして気力も限界に近づいてやっと正本の提出。終了。 法学部の出身で、心理学研究はまったく未知の領域。どこをどうしていいかわからなかった。そういうときに役に立ったのは、先行研究を読むことだった。どう研究をするのか、どう書いたらいいのかなどは論文を読み、自分の研究に近い論文をなぞり、考え、教授に指導を受け、修正していった。 我ながら未熟な論文だとは思う。しかし、この論文は私に、研究の面白さ、自分の仕事の面白さを教えてくれた。共に学ぶ仲間とも知り合えた。これから一生楽しめそうだ。 思いばかりが先行する生徒をなだめながら、指導して下さった教授のご苦労は大変なものだったろうと思う。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 「Ringに魅せられて」 文化情報専攻 渡部 美 まず、最初にお断りしておきますが、私の修論奮戦記はこれから修論を書こうと考えている学生には余り参考にならないかもしれません。むしろ、「反面教師」的役割を果たしてくれたらと思っています。 私は2年次にファンタジーを研究している竹野先生が新しく着任されたことを知り、ゼミを変更させてもらいました。高校時代に少し読んだことのあったThe Lord of the Ringsのタイトルを先生の課題で目にし、3月の下旬にゼミに入れてくださるようにメールでお願いしました。その後、風邪で何日も寝込んでいたのでメールを開いていませんでした。久々にメールを開いてびっくり。その日の午後に所沢で竹野先生が待っているとの知らせが入っており、病み上がりの体に鞭撃って面接に出かけました。この機会を逃したら修了できないと考え、何が何でもゼミに入れてもらおうと思いました。竹野先生は突然押しかけてきた2年生である私を快く迎えてくれました。 研究したい作品が決まって資料を取り寄せて愕然としました。なんとThe Lord of the Ringsはうんざりするほど長い作品で、ペイパーバッグで6冊ありました。作品研究をするのに原書を読まない訳にはいかず、毎日辞書を引いてはこつこつと読み進めました。作者のJ. R. R. Tolkienは言語学者のため、言葉の使い方が上手いのです。言い換えれば、同じ言葉を使わないのです。即ち、同じことを異なる言葉で表わすために、使用している英単語の数が半端ではありませんでした。最初に通読するのに4ヶ月を費やしましたが、2度目は2ヶ月ほどで読めました。作品が長いだけに、研究できるテーマは多く、テーマを絞るのに時間がかかり、最終的にテーマが絞れたのは10月末の個別指導の時でした。 論文を書くときには作家の生まれ故郷を旅するのが私の研究の一部になっています。卒業論文を書いた時にもE. Bronteの生まれ故郷のHaworthに行って彼女が住んでいた所を見学しました。今回も夏休みを利用してOxfordに出かけ、J. R. R. Tolkienが住んでいた家やMerton Collegeを見てまわり、背景にあった環境を観察しては、どのようにしてあの様な偉大な作品を書くことが出来たかを私なりに考えました。また、Tolkienのお墓参りを行い、修論を書く予定であることを報告しました。 テーマが決まってあとは書くだけだったのですが、なかなか作業が進まず、卒業を6ヶ月延ばそうかと考えた時期もありました。他の学生が1年目から研究しているところを私は2年目から始めたので出遅れている事は確かでした。しかし、竹野先生がお正月休みまでかかっても良いといって下さったので、12月から修論完成を目指して一気に書き進めました。作品の分析は気づいたことをメモしておいたのでそれをつなげて纏めました。また、知り合いのオーストラリア人にも事情を説明してお正月は修論をチェックしてくれるように頼んでおきました。 完成したところから竹野先生にメールで送り、同時にネイティブチェックをしてもらいました。竹野先生は提出日前日深夜にも原稿を見てくださり、提出日の午前中に返信のメールをくださると言う過密スケジュールにもかかわらず、最後まで私にお付き合いをして下さいました。時間的にはぎりぎりに完成したため、引用の書き方が不適切で、試問の後も指導が入りました。最後の最後までご迷惑をかけた学生でしたが、竹野先生に対しては感謝の気持ちで一杯です。本当に有難うございました。 最後に作品を読み始めて暫くして出会った言葉をご紹介して終わりにしたいと思います。GandalfがRingを捨てる旅に出ることに躊躇しているFrodoに言った言葉ですが、この言葉に私も大いに刺激を受けました。 All we have to decide is what to do with the time that is given us. (The Lord of the Rings) 「ヘーゲルを書きました。とても楽しかったです」 人間科学専攻 才野原照子 結局、ヘーゲル哲学を題材に修士論文を150枚書きました。とても面白かったです。正直なところ、(うそではないかと思われるかもしれませんが)実際本当に私はとっても楽しかったのです。 以前、“ヘーゲルを始めると最低10年かかる”と聞いたことがあります。“ヘーゲルは本人が書いたものでも1坪くらいの部屋一杯になる、解説書や研究書をいれると教室一杯くらいの文献になる”と、そんな話も聞いたことがあります。そういえばヘーゲルを読んでいる人は、いつも重そうな本を数冊もっていて、教室の隅で静かにそれに集中していたような気がします。みんな男の人ばかりでした。そういうことがあったものだから、自分にはとうていヘーゲルは無理だなと決めこんでおりました。 佐々木先生から、今日の思想のほとんどはヘーゲルからでてきているのだし、研究者になるわけではないのだから、細かいことにたちいるのではなくて、思想そのものに触れることは価値あることではないかといわれて、その気になりました。 何の準備もないままに、(わかるわからないは別として)いきなり原文に触れました。難解さとの闘いは覚悟の上でした。半日かけて1〜2ページ程度、最初は何のことやら全くわからず時間を重ねるばかりでした。けれども“結局、いわんとしていることは一種類じゃないのか?”と気づいてくると、読解速度は上がりました。何に魅了されてこのような作業が続けられたのか?今振り返ってみると、それは人類(精神)が成熟していくその苦闘のドキュメントであったからだと思います。衝撃でした。それはもう大変大きな感動でした。思想の凄さもさることながら、ヘーゲルの作業の凄さ、人類の歴史がこういうものを生みだしたということ、それが今日にまでつながっているということ、その人類(精神)の成長の歴史の凄さにも深い敬意の念をもちました。ここから、言葉では語れないほどの希望と勇気をいただいた気がします。ひたすらそれに浸る、というのがよかったかなと思います。また、解説書から入らなかったこともよかったことかなと思います。 最初に、先生からこのゼミでは独創性は求めないといっていただいたことで、わりと気楽に、また自由に、じっくりと自分流のやり方でテキストにむかえた気がします。それと、レポート課題がたくさんありましたから、同時進行の形で、古代、中世、近代、現代、と違った時代の様々の思想を一斉に読んでおりましたので、常にいろいろの考え方が頭の中をよぎっておりまして、かなり幅広い視点から(細部にとらわれて自分を見失うというようなことなく)課題を見つめることができたように思います。 次々とでてくる疑問に対して、好奇心丸だしてそれをおっかけておりますと、終りがない作業が延々と続きます。入学式の時、どなただったか、ある教授が「君達が、あれもやりたいこれもやりたいといって勉強されるのはかまわない。だが、お願いだから、2年間でできるものに取り組んでいただきたい。」とおっしゃったことが、記憶に残っています。面白いからといって際限なくやっているものではなかろうと考えて、2年間なりのけじめをつけねばという気持ちがありました。最後の追い込みの時には、その気持ちが背中を押してくれた気がします。2年生最後の12月末のゼミの時には、まだどこまで書けるものやら、全体がどうなるものやら、イメージがまるでできておりませんでした。それが年末年始に徹底して集中することで、一挙に形が現われてきました。筆が進み始めると一気に書けてしまった。これも初めての体験でした。 こういう素晴らしい機会に恵まれまして、佐々木先生と佐々木ゼミのみなさまとのであいには心より感謝しております。“才野原さん、だいじょうぶかな?”と最初からずっと心配してくださったゼミのみなさま、“みているよ!”というその気持ちにずいぶん励まされました。先生には、最初から最後まで、それとなくレールを引いてみていてくださったのだと感じます。私は大変うまくはまっていきました。 口頭試問の後、先生を囲んでみんなで食事して、白鳥さん、野明さん、吉澤さんと順に別れて、最後に新宿駅の雑踏の中で、井上さんと木村さんと別れた時には、“もう本当にこれで終わったな”と思いました。 「忙中閑あり:生き甲斐に挑戦」 国際情報専攻 石井忠史 独立開業してから30数年間、関与先の監査、決算税務申告、調査立会等の仕事に明け暮れ、傍ら公認会計士・税理士業界や地方公共団体の役職をこなし、時間ができれば、ゴルフや旅行を楽しんではいましたが、なんとなくマンネリ化した生活を送る毎日でした。苦労しながら試行錯誤のうちに年が過ぎ、ふと、これで良いのだろうかと、疑問が頭をもたげることもありましたが、日々の仕事の忙しさに、つい流されてしまっていたのです。 まもなく20世紀も終わろうとする平成12年12月の初旬、例によって例の如く、飲んで気分よく帰宅したところ、家内が青ざめた顔で、涙していました。咄嗟に大変なことがあったのだなと直感しましたが、思った通りでした。元気だった義父の、突然の急逝でした。義父は80歳を過ぎてから書を嗜みはじめ、努力の甲斐あって卒寿記念の個展を開くまでになっていました。その遺作のなかに、ひときわ目をひかれる作品があったのです。 『盛年重ねて来たらず 一日再び明日なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月は人を待たず』(陶淵明) この書作は、私の心に衝撃を与え、私のだらしなさを痛感しました。以来、何か勉強をしなくては、と強く思うようになったのです。「自分史」でも書こうかとも考えましたが、家族以外誰も(家族でさえも?)読んでくれないだろうし、結局仕事のことしか書けないと悩んでおりました。 そんな矢先、日本大学の社会人大学院のことを耳にしました。しかし、私はかなりの高年ですから、果たして入学が許可されるか、また、入学したとしても本当にやり遂げられるのであろうか、不安でいっぱいでした。この歳になって今までの生活を一変し、新しいことにチャレンジするのは、とても勇気のいることでしたが、「一生勉強」という自らの信念を貫くために決断しました。入学試験は、確定申告期という多忙な時期でもあり、不安と緊張の連続でしたが、幸い、五十嵐雅郎教授のもとで研究をさせていただくこととなりました。 大学院に入学した当初、一番心配したのは、限られた時間をどう調整するかという悩みでした。が、五十嵐ゼミ生と懇親を深めるうち、全員が同じ悩みを持っていることに、当然のことながら改めて驚いたと同時に、気力が充実しました。1年365日、仕事と勉強を両立させつつ、毎日充実した日々が続きました。とはいっても一人で、パソコンに向かい黙々と勉強することは、私のような高年者には、他人に語れない寂しい気持ちに陥ります。入学式の初日に、コンパがあったことは、嬉しくて今でも忘れません。自己紹介や、ユニークな雰囲気に、やる気になりました。 幸いなことに、私の修論のテーマは長年の仕事で培ってきた基礎があったため、資料や文献は、それほど苦労もなく集めることができました。しかし、実務経験があるからといって、いざ文章にするとなると、なかなか書けない、ストーリーにならないことに苛立ちを感じました。 自分は高年だから、人より早く修論に取り組まなければ、という気持ちで、入学間もない頃から、少しずつ書き始めました。なにしろ、図表の作り方、コピー、貼り付け等々のワードの使い方に大変苦労し、参考文献や、専門書を読みながら入力するにも、「超」がつくほどの低スピードでしたので、人の4倍くらい時間がかかってしまいました。又、論文の書き方など皆目わからず、断片的に番号をつけ、題名をつけて出発したことは、後々苦労することとなってしまいました。しかし、五十嵐教授の的確なアドバイスと懇切丁寧な御指導を受け、また、近藤教授の講義や、メールを隈なく吟味することにより、すこしづつレベルアップして行けたように思います。職業柄、文章を書くということに全く抵抗はなかったのですが、論文というものを軽く考えていた自分にとって、近藤教授からの「脚注、注記、引用文献、参考文献等が全く出来ていない」と言う御指摘に、自分の論文の幼稚さに気づき、愕然としてしまいました。 自分の修論は「国際会計基準」がメインテーマであり、新会計基準と中小企業を含めた幅広い金融経済に繋がる研究でしたので、どのようなストーリーとすべきか大変厳しい選択に悩まざるを得ませんでした。しかもデフレ経済下における会計基準の改革は、各業界から反発も多く、毎日のように、経済新聞に会計基準に関する記事が載っている情勢にあって、自分の論文も早めに書いたものが、日に日に陳腐化し、あるいは、改訂されたため、見直しや書き直し等々の必要に迫られ、経済情勢の進展の早さにいまさらのように厳しさを感じました。 そのためではないでしょうが、昨年1月頃から腹部が痛みはじめました。しかし、仕事が多忙な時期(所得税の確定申告期)でもあり、我慢しているうちに、背中まで痛みはじめてしまいました。ようやく4月の中旬にクライアントでもある消化器専門の医師に内視鏡検査を受けたところ、「十二指腸潰瘍が5ヶ所」もあることが判明し、医師が自分の状況を諭してくれました。もう、いい加減にしようかな、とさえ思いましたが、敵前逃亡や、挫折は死に体と同じことです。最後まで最善を尽くすことこそ、重要なことであると改めて決意しました。 毎日の新聞雑誌のスクラップ、方々の図書館での参考文献探しはなかなかの重労働でしたが、修論のテーマ自体が日々の仕事に密接に関連した事柄でもありますので、常に関心を持つようになりました。「修論は解説書ではないのだ、あくまでも、キャリアを通じた疑問点、問題点の研究、建設的意見と合理的な自論を追求しなければならない」と感じるようになりました。早めに論文骨子と本文作成に取り組み毎日11時までワードに向かい、文献にチャレンジし、土日祭日は勉強に没頭することにしました。 話は変わりますが、昨年の4月、五十嵐教授をはじめとするゼミ生の元で「経営研究会」を立ち上げることができました。ゼミ生全員が一致協力し、創立総会そして、第1回福岡、第2回仙台、第3回名古屋と立て続けに実習活動を実践しています。五十嵐教授のメインテーマに院生の研究発表等、目新しい活動を行うことによって、自己改革への原点を見つめなおすことと、修論作成の気力を促す原動力になったであろうことは、出席者の皆さんは感じられたことと思います。 そんな中で、修論の中間発表がありました。他人の発表を大いに学び、自分の修士論文に役だったことは間違いありません。このことを契機にさらに発奮しました。修論も終盤に近づき、忙しいのは理由にならないと自分に言い聞かせ、仕事の方はとりあえず目をつぶり、文献類に囲まれて、終日論文の見直しに熱中しました。これほど頑張ったことは最近覚えがありません。今思うと、指導教授陣の熱心さに惹かれたのだと思います。 修論が形になってくるにつれ、さらに研究を深めてみたいという気分になってきました。次第に納得のいく文章になりつつあることに夢中になってしまい、提出期限ギリギリまで何度も見直し加除、修正をしました。完成した時の嬉しさは言葉に言い表せません。1月26日緊張の中で修論審査を受け、正本を提出しましたが、一抹のさびしさを覚えると同時に、やっと本当の意味での研究のスタートについたのだと、気の引き締まる思いです。 日本大学大学院で学んだことは、これからの仕事と人生に大きな自信となりました。これは、自分自身で築き上げた無形の財産だと自負しています。「継続は力なり」を実行するつもりです。 「実行なき知識はゼロ」人生死ぬまで楽しく勉強したいものだと思います。 私は『仕事の教室14年12月号』で「自己改革なくして経営改革なし」、「案ずるより生むが易し」と書きました。人生の生き甲斐に挑戦し、高年で学ぶことは若さの証しではないでしょうか。
※ それぞれみなさん、修論のスケジュールを考えると思いますが、100%予定どおりに進みません。遅れます。それも大幅に!
※ これを週5日はする。できないときは、週末に修論作成時間を時間換算でまとめてする。 この間の私の3か条 その1 暇があれば修論の参考図書を読むか、寝よう! その2 どんなに気が進まなくても、まずは貸与されたパソコンの前に座ろう!(しばらくはインターネットで遊んでも構わない) その3 深酒・パチンコは厳禁【家族に誓いを立てる】!ゴルフをされる方は、ここにもう一つ追加になるかも。 4 修論作成に当たって、恐縮ながら私からみなさんへのアドバイス ・ 入学してからの2年間は「あっ」という間です。本当に本当に早いです。 ・ 課題レポートは、1年の時に取れるだけ取ったほうが絶対に楽です。(5教科20単位取る) ・ 健康第一(1年の時に体力作りをしておくのも一考)を心がけましょう。【修論には、ここ一発のがんばりが必要です】 ・ 2年の8月からは修論一色の世界に突入します。やれることは1年生のときにしちゃいましょう! ・ 電話回線でインターネットをするより、ADSLは、はるかに早く便利です。ホームページを使って調べ物をするときには、威力を発揮します。 5 留年しても良いや!と思ったときは? ・ この夜空の向こうには、同じように今、がんばっている仲間がいることを思う。 ・ 限られたお金のなかから、学費を捻出してくれた家族のことを思う。 ・ けなげにがんばっている自分ってかっこいいと思う。 6 修論の正本を提出した後の私の実感 私の指導教授も言っていた「修論作成は頭脳労働ではなく、肉体労働だ!」の意味が分かりました。 7 修論を提出し終わってみての感想 ・ ゼミなどの仲間は、人生の宝です。(社会人になってからは、異業種・異年齢・異なる地域の人たちと知り合える機会はそうないと思います。私の場合、これまでの友達にはいなかった生徒会をしたことのある人とも知り合えました。) ・ 修論を提出したときの「やった」という充実感はかなりのものです。本当に達成感があります。マラソンの有森裕子選手のように「自分で自分を誉めてあげたい」と本当に思いました。※ Qちゃんのような「楽しく勉強(マラソン)させていただきました」とはとても言えませんが。 ・ 完成した修論は、自分の子どものようにかわいいものです。愛おしさを感じます。修論の正本を提出するときは、寂しささえ感じました。(自分の子を嫁にでも出すような気持ちなのでしょうか?) 8 大学院入学時の私の目標について 「勉強」とは苦しいものでした。けれども達成したときの充実感や爽快感は、何ものにも変えがたいものでした。自分でやり遂げたという自信がつきました。 結局のところ「勉強」とは、その過程が重要なのであり、自己実現のための手段なのだというのが私の「勉強とは」の答えです。 9 おわりに 私が指導教授より紹介された本を紹介します。お時間があれば読んでみてはいかがですか。山内志朗著『ぎりぎり合格への論文マニュアル』平凡社、2001年11月。 忘れていました。私の修論のテーマは「地方自治体における情報公開とプライバシー保護の調整について」です。研究の成果は、どうか聞かないでください。 それでは、みなさんがんばって! 「修士論文はステップ方式で」 人間科学専攻 品田 松寿 私はジュニア卓球選手のボランティアの一指導者です。私は,以前から日本の青少年のスポーツ選手に対する指導の在り方に疑問を感じていました。子どもの頃から勝利至上主義,つまり「成功すること」に価値を置く指導です。そこには,競技スポーツでは勝つことがすべてであり,「勝てば楽しい」から苦しい練習が必要であるという考え方があると思います。しかし,「楽しいから勝てる」という新しい発想にもっと重点が置かれるべきだと思います。 日本では,「楽しい」という字は「楽」という字を書きますので,「楽をすること」という意味に捉えられがちです。私は自分なりに,「楽しい」とは内発的に動機づけられたときの感情というふうに解釈しています。「内発的に動機づけられた活動」とは,ある活動それ自体にワクワクしたり,ある目標を達成したときに喜びを感じたり,我を忘れて没頭できるからその活動に関われるというように,その活動以外には明白な報酬がないような活動のことです。 私は,成功よりも内発的に動機づけられた活動そのものに価値があると信じています。若い時代に内発的に動機づけられた経験が長ければ長いほど,後に自立という恩恵をもたらしてくれると信じています。また,指導者は,子ども達を指導するときに,いかに「勝てるようになるか」ということよりも,いかに「楽しく感じる環境をつくるか」ということに焦点を合わせることの方が大切だと思います。 指導者は子ども達を強くするのではなく,子ども達が自分で強くなるための力を引き出してやることに重点をおくべきだと思います。この考え方に基づいた指導は,彼らが成長したとき,最終的に大成へと導いてくれると信じています。 私は内発的動機づけの原理から,内発的動機づけが高まるには,個人が有能感を感じることが必要であるということを入学してから4ヶ月ぐらいでやっと知り,同時にジュニア卓球選手の内発的動機づけが高まるには,その個人にとって難しすぎることもなく,易しすぎることもなく,努力しさえすれば確実にクリアーできる課題を与えてやることだという考えに至りました。 そして,行動分析学の「スモールステップの原理」に基づいて,ジュニア卓球選手用の練習プログラム(ステップ)を完成させたときには,入学してから8ヶ月も過ぎていました。さて,ここまではよかったのですが,人が内発的に動機づけられているかどうかをどのように測定するかという段階になると,全く手も足も出ませんでした。私はかなり焦っていましたが, 今やるべきことに集中するように自分に言い聞かせました。そのときやるべきことは, 過去の内発的動機に関する文献を調べることでした。その結果,SMS(the Sport Motivation Scale)というアンケート調査をすることにしました。 ここまで来たら少し気が楽になりました。当初の実験計画では,ステップをある一定期間使用したグループと使用しないグループでは,内発的動機づけにどのような違いが現れるかを調べることだけでした。私は,2002年の3月卒業式で,卒業生のお祝いに駆けつけたとき,河嶋先生から,「行動面でどのような違いがあるかを調べなければ,論文としての価値は減じられる」という貴重なアドバイスをいただき,簡単な実技テストを実施することにしました。 さらにしばらく文献にあたっていると,スポーツ選手がどのようなことに成功感を感じるか,つまり,人よりも優れているときに成功感を感じるか,今までの自分よりも優れているときに成功感を感じるかについてのアンケート(TEOSQ: the Task and Ego Orientation In Sport Questionnaire)も実施したいという気持ちにかられました。これでやっと何とか研究の全体像が見えてきました。しかし,このとき,後8ヶ月しかないという焦りの気持ちでいっぱいでした。最悪の場合は3年かかってもよいという覚悟をしました。 恥ずかしい話しですが,私の論文の実験計画は初めからできあがっていたものではなく,研究を進めるに従って付け加えていったものです。しかし,やることが決まったら私は最善を尽くそうと決心しました。私は疑問な点はすべて河嶋先生にメールで尋ねました。まともに顔を見ては,とてもできそうもないような質問をメールなら簡単にできます。まさにメールでの質問と回答は,1対1のマンツーマンの授業でした。 頭の回転の鈍い私にとって,メールの良さは分かったふりをしなくてもよいということでした。分からなければ何回でも質問できました。一生懸命調べたことに対して,河嶋先生からの「その通りです」という回答によって,私の質問という行動は,行動分析学的に「強化」されたと思います。 私は少しでも論文が先に進むと一種の満足感を味わうことができました。先を見ると高すぎるハードルを, 自分なりに努力すれば越えられるスモールステップに区切って, 今超えるべきワンスモールステップをクリアーすることだけに集中するということを何回も繰り返す卓球のステップ方式が, 自分の論文を書く過程で生きたということは非常に貴重な体験でした。 最難関はt検定や分散分析という検定でした。検定について詳しい地元のある大学の教授の所へ行って質問をしましたが,その教授の説明は初めて聞く未知の世界でした。私は検定については,理屈よりも実践だと決心しました。エクセルでの操作を覚えて何とか検定を終えました。検定は同じ作業を何回も繰り返す単調な作業でしたが,ステップ方式の効果に関する検定だったのでどのような結果が出るか楽しみながらやることができました。 論文で一番楽しかった部分は考察です。結果をどのように自分の目を通して解釈するかという部分は,論文の終わりに近づいたということもあって, ワクワクした状態で書くことができました。 締め切り間際になると緊張のせいで心臓の調子がおかしくなりましたが, 時間とともにこの問題はおさまりました。ところが,最終提出があと約10日と迫った1月1日,国道を運転中に, 居眠り運転をした車が急に車線を変えて私の車線に入って来て私はなすすべもなく,ほぼ正面衝突をされました。 衝撃は強烈でしたが, 私は何とか外へ出ることができたので, 歩道に横たわっていると, 後続の車からたくさん人が降りてきて, コートをかけてくれたり, 携帯で自宅に電話するよう勧めたり, 枕をかしてくれたり, 本当に親切な人達がいるものだと思い知らされました。私は救急車で最寄りの病院に運ばれましたが, 幸い骨には以上はありませんでした。救急車の中では論文は無理かも知れないと思いましたが, 何とか完成に至りほっとしています。 論文では,ステップ方式を一定期間使用したグループと,そうでないグループの間には内発的動機づけの伸び率において有意差が表れました。そして,自分の論文のテーマであるスモールステップの効果を,自分自身でも身をもって体験できました。これからはスモールステップの効果について何らかの形で世に訴えていきたいと思っています。そして,子ども達が楽しく練習して,さらに自分の力で強くなれるような環境を整えるためにささやかな努力をしていきたいと思っています。 私が事故から学んだ親切な人々がまだ多いという事実と,スモールステップ方式で育ったスポーツをする子ども達は,きっと自立の精神をもって物事に取り組むであろうという希望とで,いずれ明るい日本がやってくるだろうと密かに期待しています。 今回論文を初めて書いたという私のような論文シロートをここまで導いて下さった河嶋先生に,この場をお借りして感謝申し上げます 「研究課題を変更して大正解」 国際情報専攻 森野 滋 入学志願書の研究課題は「日本の製造業と東アジア経済圏」でした。ところが途中で変更し、「少子化社会が男女共同参画社会を実現する」になってしまいました。この2年間大変充実した日々を送る事ができました。振り返って見ると、自分自身色々エンジョイした2年間でもありました。私の独善的な意見を交えてこの2年間を振り返って見たいと思います。 1、 修士論文の土台は一年次のレポート書き オリエンテーションの際、先生が話された言葉は印象的でした。「大学は知識を得る所、大学院は自分の考えを持つ所」これは大きな衝撃です。自分の考えがまとまっていれば良いのです。もう正解探しをする必要がないと思うと気が楽になります。レポート提出は、課題に沿って書くだけではなく、なるだけ自分の考えを織り込んで書くように心掛けました。あるレポートでは悪乗りしすぎて、「基本教材を読んだこん跡が何もない」と厳しい指摘を受けてしまいました。土日祭日しか時間が取れません。2日間でとにかく本を読み、翌週帰宅して犬の散歩をしながら、知識を消化し構成を考える。次の休みの日に一気に書いてしまう。今考えれば、これが修士論文を書くのに大変役立ちました。基本教材を使って自分の考えをどのようにまとめるかと言う訓練になったからです。 2、大学はサービス業、授業料分だけ楽しもう! 自分で稼いだお金を使って勉強するのだから、役に立つ論文にしたいと思っておりました。ところがここ数年中国の経済発展が目覚しく、製造業と関わりのある仕事をしている私には、大変な逆風です。「高いお金を払ってまで、暗い未来を研究したくない。」と考え、わが社の組織改革・組織活性化を研究課題にしました。決心したのが、4月中旬です。 価値観と動機付けは、論文にするのが難しい、泥沼に入る。このタブーに敢えて挑戦する事にしました。何も学会に新しい学説を発表するでなし、非難を浴びても怖くない。自分の考えを持つのが大学院です。書く内容は、頭の中にある。これをどう演出しようか、説得性と納得性これが社会科学と考えました。「まえがき」「あとがき」を先に書き、主な内容を5月中に書き上げました。約6000文字になりました。完成までのスケジュールは、お盆休み中に二年次のレポート、2科目合計8本を書き上げ封印してしまう。お盆過ぎから月末までの2週間で、目次を作成、資料をかき集める。その目次の中に鍵となる文章を入れ更に細分化しました。本文は9月から書き始める。5月から8月までの4ヵ月、愛犬と夜空の星を眺めながら、内容と構成を色々考えていました。9月からは、次の休日はこんな事を書こうと考えていました。散歩の時間が長くなりました。 3、 隙間分野が成功した 研究課題を変更する場合は、身近な隙間分野が良いと思います。理由は簡単、参考文献が少ない事です。それだけ自分の意見を多く述べられます。範囲を広げたければ、好きな分野に拡大できます。一年次は、修士論文を書く「基礎能力養成期間」と今になって気が付きました。「広く学び、狭く研究する。」これが定石みたいです。 「社会人大学院生の2年間」 人間科学専攻 宮下 明大 プロフィール 京都在住。 私立大学の事務職として勤務。アドミッションズオフィス(入試事務局)で入試企画、学生募集や合否判定の仕事などを担当。 進学相談などで高校生とコミュニケーションすることが元気の秘訣。 1.大学院との出会い 大学が社会的に注目を浴びるようになって久しい。国立大学の独立行政法人化、ロースクールなどの専門職大学院の構想、はたまた、大学生の事件事故や入試問題のミスまで、高等教育機関に関連した記事が新聞紙上を賑わせている。そして、我々自身もキャリア形成を考えるなかで、「学びたい欲求」に駆られて大学院の存在を意識し、再び“古くて新しい扉”をたたく。 私が、修士論文を書こうと思ったきっかけも、仕事の中で経験的に感じ、蓄積していたことを一度きちんと理論化したい、まとめたいとの気持ちからである。15歳、18歳、22歳とその時々にサボりつづけていた私が、35歳を越えて初めて“学びたい”と思ったのである。 2.修士論文が書きあがるまで 修士論文のテーマを仕事と直結した課題に設定したため、業務上の資源を有効活用できた。また、大学に勤めていることを最大限生かして図書館を利用し、統計処理は知り合いの心理学専攻の学生に応援を求めた。しかしながら、日常の忙しさのため、何度も挫折しそうになり、その度に、“学費の重み”と“学びの動機”を自分自身で確認しながら最後までつづけることができた。専門科目の履修は、興味ある科目に絞ったが、修士レベルの学び方、考え方、書き方などのスキルが身につき、論文作成に役立てることができた。 3.今、思うこと 京都の私立大学に勤務する私が、日本大学の通信制大学院に入学し、学生相談を専門分野とされる嘉部先生の指導で新しい刺激を受けた。ゼミで共に学ぶ仲間は、全国各地の高校や大学の教員、カウンセラーなど、非常に恵まれた環境で学生生活を送ることができた。そしてなにより、この2年間の学びを通じて、自分の価値観や目標などが再確認できた。何が一番大切なものであるかをよく考え、正しいと思ったことを実行する。この毎日の積み重ねを糧として、これから新しい分野に挑戦していきたい。
「修論提出1カ月前に楽をする方」 国際情報専攻 佐藤 友厚 総合社会情報研究科4期生、5期生の皆さん、乾ゼミ3期生の佐藤友厚です。 もちろん私も修論作成に苦労しましたが、タイトルにありますとおり、提出直前に焦りまくることはありませんでした。ここではそのコツについてお話したいと思います。 そのコツとは結論から言えば2点。「資料を集めまくること」と「早いうちに書き始めること」です。当たり前ですが、これがなかなかできないものなのです。 資料を集めまくることの効果は、@研究する分野で何をどのように論じているのかが分かること。A自分が論じようとしていることが、すでに論じられているかどうかが分かること。B自分の論文のネタが集まること、です。 @についてですが、例えば、「どのようにすればわが国の銀行の競争力が高まるか」とか「どのようなカウンセリングをすれば悩みを抱える人は救われるのか」といった内容は、言いふるされているようでいても多くの研究者が研究を続けていることが分かります。 それらを論じている研究者がどういうオリジナリティをもってアプローチしているのか。自分の分野の先行研究を分析すると得られるところ大です。また、同じ内容でも政治的バイアスからか結論が違うものもあります。どちらが正しいのか調べるのも楽しいです。 Aについてですが、せっかく修論を書いても、誰かに先に書かれていて、同じようなアプローチをしていたら「なんだ、丸写しか・・・」と思われるのも「しゃく」ですよね。例えば、気象予報の精度をいかに高めるかについて論じるとします。一生懸命論文を書いても、学会の論文で既に発表されていたりすると第三者からは「丸写し」と思われてしまいます。それを避けるためにも先行研究や関連情報には注意を払いましょう。 Bについてですが、自分の論を援護してくれる情報や論文があったに越したことはありません。私も修論が根拠に基づくものにするべきと考えて、集めまくりました。しかし、おびただしい資料を基に論文を書き始めても、論文の筋と関係が無かったりして、結局、捨てたものも多くありました。また、私はロシアについての論文だったので流動的な部分がありました。このため、提出日の前日まで情報を集め、自分の論が正しいかを確認しました。 スクーリングでも国際情報専攻主任の近藤先生が「あなたの修論で書こうとしている内容に関連する本をどれくらい読みましたか」と言われていたことを思い出します。 どうやって、集めるかですが、大学院のホームページにある検索サイトへのリンクは大変役に立ちます。また、アメリカ議会のホームページとか外国の研究所のホームページ、あるいは蔵書が検索できる公立図書館のホームページなど、その気になれば手段はいくら でもあります。 さて、早いうちに書き始めることについてですが、資料を読みこなすと、ある人は興味がわき、ある人は疑問がわき、また、ある人は何を書くべきかが見えてくるようです。私もその興味、疑問を基に論文計画書を作成し、書き始めました。 私は4章からなる論文だったのですが、1カ月で1章を書き、指導を受けてもう1カ月で修正、このペースで4章を8カ月で、残りの「はじめに」や要旨などをやはり2カ月で書きました。 したがって、1年生後期の2月に計画書を作成し、2年生後期12月のゼミでほぼ 書き終えたものを乾先生に見て頂くことができました。既に1度指導を受けているので、12月のゼミでは大きく変更することもなく、章のバランスだとか、細部の修正で済ませることができました。 言いかえると、2年生後期に焦るのではなく、1年生後期から自らにプレッシャーをかけて焦っていたというわけです。 昔、ある人の講演で大変感動した話がありました。オリンピックのメダリストや厳しい訓練に耐えた特殊部隊の兵士は共通してこういうことを言うそうです。「私はすごいことをしてきたわけではない。自分の限界がどこまでかを探していただけだ」と。 皆さんも修論でどこまでいいものができるか、限界を探してみてはいかがでしょうか。
「ある時、閃き」 人間科学専攻 横山 典子 先日、修士論文の最終提出をしました。論文を書くためにどのくらい時間を使っていたのかと思い返すと・・・? 仕事中−。 私の生業は言語聴覚士といって、病院で主に脳卒中の後遺症のためにことばが不自由になった人に対して、言語リハビリを行っています。患者さんの言語機能のレベルに合ったやりとりを展開するので、「やりとり」といっても、検査結果を踏まえて尚且つ実際のやりとりで可能なレベルを常に探りながら行います。 「私の話したことは患者さんに理解されているかな」、「患者さんが1番伝達し易い方法は、身振りか、描画か、あるいは・・・」と頭はいつもフル回転。・・・・していると、フル回転の中から、不意にポンっと論文のアイディアが出てくることがありました。 幸いいつも手元にメモ用紙だけはいっぱいあるので、さささっとキーワードだけメモしておきました。これらは慌てて書いたのにも関わらず、後々役立つメモとなりました。 また、職場で、自分の職種に関連の薄い勉強会に出席させられるようになりました。折りしも、論文も大詰めの時期だったので、「そんな時間があれば論文のために頭を使いたのに」と思いつつ渋々着席しました。 すると、その勉強会の先生の話が理路整然としているのに聴き入っているうちに、ポンっと、自分の論文の考察文が思い浮かびました。この時もさささっと周りの人にわからないように暗号めいたことをメモして、「何故こういう時に思い付くのか」と不思議な一方、「しめしめ。勉強会に来て良かった」とニンマリしていたのでした。 こんな訳で、パソコンに向かっていた時に限らず、頭は論文に向かっていたようです。 論文に向かっていた間は、仕事だけでは味わえない楽しさがありました。職場で嫌なことがあっても、「自分の書いた論文を指導してくれる教授がいる」ことが励みとなり、論文を書いていた期間は職場を替えずに持ち堪えることができました。 ただ、論文提出してからというもの、ポンっと閃きが出てこないので、また頭をブンブン回す目標が必要みたいです 「おばさん奮戦記」 人間科学専攻 波田野和代 同僚の「これだけ本を読んでいるんだったら大学院へ行ったら?」という一言がきっかけとなって、大学院に席をおく身となった。それまで「大学院入学」等と、大それたことを考えたことはなかった。特に高尚な本を読んでいたという訳ではなく、いわゆる乱読である。こうして始まったおばさん大学院生の誕生である。 1年生になって、初めに優等生といわれる先輩から「5月の連休に遊んでいるようでは駄目」と承ったから、「さあ大変…」。5月の連休だからと浮き足だっている訳にはいかなくなった。出かけようという夫に、「先輩優等生のおことば」が頭から離れない。しかし、「NO」とまでは言えずに外出をためらっていると、「そんなことを今から言っていたら、これからいつも出かけられない。」と不満げな夫。だから重い腰をあげて、1日しぶしぶ付き合った。いつもは寛大なおじさん(夫)を怒らせては得策(?)ではないと思ったからである。「これからは一人で遊んでね」と内心思ったが、この言葉は胸にしまっておいた。「おじさんは今、5歳児の駄々っ子」だと思ったから。おじさんだって、時には5歳児の駄々っ子になってしまいたい時があるものである。 おじさんは、私のことを「生活感を感じさせない女性」と言う。これは「ひょっとすると褒め言葉かな?」とにっこりしてみたが、朝は、ばたばたと出勤、帰ってくると主婦業もそこそこに、パソコンに向ったり、夜中に起きて机にかじりついている私への皮肉(?)とも取れないことはない。「生活感のない?」私も、休日は朝の食事が終ったかと思うと、あっという間に昼食の準備をする時間となり、勉強の時間が余りない。「おじ様はなんで3食も召し上がる?」と思ったりもする。1日中台所に立っているような気がするからである。 大体、一人でそんなに何でも出来るはずがないと思っている私は、便利な言葉を知っている。「adequate」である。辞書には「適当な、妥当な、相応な、十分な」と書かれている。主婦業なるものは、どこまでが適当か、妥当なことか。無理はせず、「できるだけのことをする」、「できることしかしない」ことにしている。 こんな私なので勉強のためには、おじさんの協力が欠かせない。おじさんは、おばさん大学院生のために、この2年間「図書館で本を借りる」、「本の検索・注文」、「放送大学の哲学講義収録」等の一手引受人となった。その甲斐あってか(?)うちのおじさんは西田哲学なるものにとても詳しくなった。なぜか「非連続の連続」、「一即多」、「絶対無」、「絶対矛盾的自己同一」などという言葉が、道を歩いていても頭に浮かんでくるのだという。(門前の小僧ならぬ、門前のおじさん?)おじさんの話はこれ位にしよう。 論文なるものを書くことに慣れていない私は、初め、どこからどのように論文を書けば良いのか分らず困ってしまった。論理的な思考をすることがない日常を送ってきた私にとって、論文は作文と違う事ぐらいしか分らない。しかし、書くしかないのである。 高校生の時から朝型人間の私は、仕事の疲れがあって夜遅くまで勉強する事が出来ないため、毎日朝4時ごろから起きて本を読んだ。人の倍努力しなければ、落第しかねない危機感を持ったからである。うちのおじさんは、唯ならぬおばさんの奮闘振りに驚きあきれ、挙句の果てには、「病気にでもなっては大変?」と思ったのか、それとも「気が変になった?」と思ったのか、突如として起きてきて「大丈夫?」と声かけを忘れない。(いまだにこの時の発言の真意について聞いていない。) 論文の書き進め方として、初めから完璧に書き進む人もいるが、私は、少しずつ書き加えていくタイプである。少しずつ書き進めていく内に、2回ひどく落込んだ。落込んで沈んだまま再び浮かび上がれないような心境になったこともある。しかし、大体私ごときが、「論文を書く」なんてことが、無茶なのかもしれない。そう思ったら少し気が楽になった。こうして、「論文修業」が始まった。落ち込みも3日位で回復し元の自分に戻った。根は単純である。おばさん大学院生は思った。「書けないからって、勉強に使った大金を無駄にする気?」と。生活感のないと言われるおばさんだって、これ位の計算(打算?)はできない訳ではない。単位を落とすまいと寝ても醒めても本と向き合った。 おかげで(というべきか)、ある日、目に水泡が出来た。眼科に行ったら、「針でその水泡の水を出すしかない」ということで、すぐ軽い(?)手術をすることになった。私に目を動かさないように医師から注意があった。目の前に現れた針は大きいもので、恐くて微妙に目を動かすらしい。医師曰く「波田野さんは恐がって目を動かすから恐い」と。お医者さんが恐いのだから私はもっと恐い。この手術を4回ぐらい繰り返している内に、2年生になって、再び5月の連休を迎えた時、目の水泡は、これまでになく大きく育った。連休が明け、お医者さんの休診日が終るのを待った。お医者さんは私には2個に見える水泡が、実際には2個の水泡の下は1個に繋がっていると言う。これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一(?)。 寝ても醒めても哲学で、おまけに「目」まで西田哲学の論理(?)が……。 そうこうしているうちに、ある日、私は夢を見た。その夢は自分が死んでしまって、自分の葬式のために自ら張り紙をしているものである。通常は「忌中」と書くはずのものに、何故か、夢の中のそれは、白い紙に長々と字が書かれてあった。この長々と書かれた文は、論文(?)のようでもあった。私は「死んでしまったんだ。」と、とても寂しい気持で目覚めた。その日、眼科に行く予定であったが、「西田哲学の目」の水泡は自然に潰れて治っていた。 「――こうすればよかった――」 国際情報専攻 松村 泰夫 修論を提出した今になって思うことは、ああすればよかった、こうすればよかったとの反省が大きかったことである。これから挑戦する方々のために、自分では十分にできなかった反省点に基づき、独断と偏見で「理想の姿」をイメージして、思いつくままに書かせてもらいます。 まず、最初からPowerPointを知的創作ツールとして使うことをお奨めします。項目を箇条書きにすることにより、アイディアの可視化が図れ、元気が出てきます。KJ法1をご存知の方は得意とする分野でしょう。じっと考えているだけでは、何も進まないし、1週間何も進展しない状態が続くようであれば、見通しは暗いと考えるべきです。いかにファイトを燃やすかを考えましょう。挫折したくない人は、このことをしっかり肝に銘じて下さい。 研究計画の立案、テーマ名の決定に当たっては、候補のテーマを PowerPointで書き並べてみます。テーマ選定の経緯、動機は確かなものか?人の物まね・後追いでないこと。独自性があること。新しさ・新規性があること。何か訴える内容があること。社会にとって有意義である(と確信が持てる)こと。自分に、その分野の経験や深い知識が既にあること。興味も湧き、その分野で第一人者になれそうな気がすること。ライフワークにしたいテーマであること。資料はあるのか? インターネットで検索して、参考文献を10冊選ぶこと。その本を図書館で手にとって見ること。あるいは購入して手元においてみることです。これだけで、修論に一歩近づけます。以下に、各ポイントを要約して述べます。 章立てを考えるには、単純に、序章、1章、2章、3章、4章、5章、おわりにを想定すれば、自ずと次の章立てが思い浮かびます。悩むことは全くないはずです。 序章 テーマの概要、テーマ選定の理由、本稿の読者は誰か? 目的は何か?等を書く。次に章別の概要を書く。5頁程度。 1章 現状、現象、内容を幅広く、概括的・総論的に捉えて書く。10頁程度。 2章問題点の抽出。なぜ問題となるのか? なぜ問題にするのか? 問題の状況や特質等を洗い出す。問題点の背景を明らかにする。社会的な必要性や意義の有無、将来動向等を“物差し”にして問題点を抽出すてみる。10頁程度。 3章 問題が起きた原因を分析する。原因の分類方法を幾通りにも考える。“論理的に筋の通る”分類法を一つだけ採用する、他は捨てる。その後に、現象面に現れる表面的な原因ではなく根本的な“真の原因”を追究し、反省点にまとめる。15頁程度。 4章 “真の原因”を踏まえた上で、~すべきであった、~であればよかった、と言えることを集める。自分の考えを述べる。なぜそう言えるのか? 独断ではないのか? 自己満足とか自己顕示欲が強いとかの批判は出ないか?論理の飛躍はないのか? 前に述べたことと矛盾しないか? 終始一貫しているか? 曖昧性が排除され、具体的か? 等を自己点検しつつ、反省点を改善策にまとめる。また、各方面・分野別の提言にまとめる。10頁程度。 5章 今後の課題と展望。提言の実現を阻む問題点、今後どうゆう条件が整えば提言が実現できるのか? 今後、世の中はどう変るのか・どう変るべきなのか? 5頁程度。 おわりに テーマ選定の経緯、その後の状況の変化、続編への期待、本稿を読むことにより、読者が得るものは何か? 社会的なメリットはあるのか? 謝辞。3頁程度。 もうこれで、58頁! 重複や曖昧性を排除し、具体的に書き進めば、50頁以下に納まるでしょう。具体的には、次の通りです。 構想を立案する際には、まず、PowerPointの画面上に計画や方針、述べたいこと等を箇条書きにします。順不同で思いつくままでよい。気楽に思いつくまま書き込むことで、思考が進みます。頭の中で考えてから、まとめて書くのはやめて、すぐ画面上に書き留めておいて、日を変えて何度も見直し、キーワードを更新(追加・修正・削除)します。不思議なことに、日を変えるとまた、新しいアイディアが生れます。文章の推敲も進みます。行き詰まったら、その部分は残したままにして、次の章に進みます。初めから一気に書き通すのは無理な話しですので、そんなことは考えないことにします。紙の上で下書きして、これを推敲しながら書き直すのはやめにして、画面の上で「一部を修正したり」、「入れ替えたり」、「追加したり」、「削除したり」して編集します。“没”になった画面も最後の部分に残しておきます。こうすれば、机の上にはゴミが出ませんし、整理が楽になります。 画面上に項目を箇条書きに並べてみます。表にしてもよいでしょう。表の作成には、Wordの画面の最上部分にある罫線(A)⇒挿入(I)⇒表(T)⇒表のサイズで列数(C)と行数(R)を指定します。表の形の修正には“鉛筆マーク”と“消しゴムマーク”が便利です。 集めた項目は、大項目・中項目・小項目に概念整理をします。項目をグループ分けして新しい名前を付けます。項目の内容を抽象化して大項目に集約することもあります。不足している項目を発見し、追加していくうちに新たな項目が生れまることもあります。 概念レベルを大・中・小に並べ変え、ストーリーになるように構成します。全体として本文の「あらすじ」が、PowerPointの画面上にできたことになります。 資料収集する際には、資料を見かけたらすぐにコピーを取る、キングファイルに綴じる、見出しを付けることです。ファイルの厚さが3冊、合計15cm程度まで集める必要があります。新聞・雑誌を後で切り抜くのは、やめて、すぐ切り抜く(新聞名、日付、版、面を記入する)。後でもう一度読み直すのは、やめて、読みながらマーカーペンで印を付ける。 参考文献には、赤や青で線を引いたり、書き込みを入れたり、見出し(ポスイット)を貼り付けたりして、精々汚しましょう。論文に引用したい個所には、明確な印を付けておきましょう。これらを逐次PowerPointの画面に登録しておきます。 文章を書く際は、PowerPointの画面を「あらすじ」に見た立て、Wordで文章化します。 起承転結に気をつけましょう。注や出典の表記には細心の注意が必要です。 表は、縦列2項目では、表にする意味がありません。縦列3項目以上の場合で初めて表の意味が生まれるでしょう。(文章で書くと、説明が長くなるので表にするわけです。) ユニークな表を創作しましょう。図は、物まねでは面白くありません。ユニークな図を創作して挿入して下さい。図の作成には、Wordの最下段部分の「オートシェイプ(U)」⇒(線、基本図形、ブロック矢印、フローチャート、吹き出し等)の中から好きな図形を選び、位置決めと大きさを決めれば図ができます。 目次は、Excelで作れば、縦列がきちんとそろいます。要約は、着手時に書いたものが、本文を書き進むうちに変化してしまいます。修論の途中経過報告会に提出できるように、こまめに見直しをする必要があります。 要約を、あまりかっこよく書き過ぎると、本文との整合性がとれなくなります。本文と要約は行きつ戻りつしながら書くものではないでしょうか。 ウィルス対策としては、大学院からの「お知らせ」を見て、こまめにパターン・ファイルを更新するしかありません。 データファイルは、「マイドキュメント」と[3.5インチFD(A:)]の2種類にそれぞれセイブし、親・子・孫の3世代をいつも把握しておきます。パソコン機能を過信してはいけません。案外耐久性にモロイところがあります。フロッピーの「上書き保存」は避けて、「名前を付けて保存」しましょう。ファイル名の最後には日付と改訂番号を登録しておきましょう。例えば、2.20.V5等を登録しましょう。日付だけでは不十分です、一日に何度も改訂するからです。V50程度になれば本文の“完成の域”に近づいたと言えるでしょう。 消耗品としては、フロッピーは50枚、プリント用紙は1万枚、トナーカートリッジ4本、ドラムユニット1本(プリンターの機種によります。)等を予め購入します。深夜作業中に用紙切れ等のエラーメッセージが出ると、腹が立ちます。フロッピーは、使い捨てのつもりで考えます。プリンター用紙の裏紙再使用は考えないこと。廃棄処分した方が混乱は起きません。 「修士論文は現在の自分!」 国際情報専攻 柏倉 淳宏 1. 自己紹介 私は在学中に定年を迎えた元サラリーマンです。IT革命に関心があって、本大学院に学び、パソコンを通じていろいろな情報のやり取りからインターネットでの取引まで自由に実体験をすることができました。修士論文のテーマは「電力自由化における廃棄物発電の現状と課題」です。サブタイトルを、「仙台市の廃棄物発電から」として、仙台市への提言という形で結論にしました。 2. 修士論文テーマ選定理由 修士論文テーマは、自分の仕事に関係するものです。 だからといって、あまり大きいと書き切れないので絞り込みが大事と教えられました。五十嵐教授からコミュニティーに関わりのあるものがよいとのヒントを頂いて「廃棄物発電の現状と課題」としました。何しろ「厄介物のごみ」を「資源」として活用しようという発想です。電力自由化のなかで廃棄物発電を環境ビジネスとして育てるためには先ず発電効率を高める技術力と民間活力を組み込んだ経営力が必要です。そして発電した電力を自由に融通する電力取引所が不可欠になります。 環境ビジネスが軌道に乗れば、住民のごみに対する意識が変わります。廃棄物から有価物が生まれ収益を発生します。全国規模で実施されれば大きな雇用を確保できます。そしてこれは立派な国産エネルギーです。さらに産業廃棄物不法投棄問題も産廃平野も解決できるでしょう。 3. 資料がなければ論文は書けない 「自分のやってきたことを修士論文にまとめてモットモットプロになってもらいたい。 私は必死になって(ゼミ員の)情報を集めています。 ゼミ員は相互に頼りあってもらいたい。」と話された五十嵐教授の言葉を思い出しています。 「調査は足、情報はコネ」というのも、五十嵐教授の口癖です。はじめの頃は極めて常識的に聞いていましたが、この言葉は教授の実体験のなかから醸し出された迫力に満ちた説得力のあるものでした。いざ、情報収集といっても特別なコネがあるわけではなく、どこに行ったらよいのか解りません。「情報はコネ」の可能性を信じて旧知を訪ねました。久し振りで会ったことも幸いし、実によく対応してもらえた。 また、ある時は私の知らなかった新聞情報を取って置いてくれたり、さらに実務者を対象にした専門的な講習会の案内まで頂き業界の最新情報に接することができました。情報収集の貴重な体験になっています。 4. 修士論文は現在の自分 修士論文は情報をくれた友人に御礼の気持ちで持参しました。今の気持ちはどうかと聞かれました。私はこれから少しでも実務に通用できるものにできればと願っています。 また別の友人からは生ごみのリサイクルの情報がきました。こちらは「発酵の力で土作り」です。 電話で直接見学のアポイントを申し込みました。いろいろな形で情報は展開してきますので大切にしたいと思っています。 「大学院は通信制が一番!」 国際情報専攻 木村 栄宏 2003年1月26日、修士論文の口頭試問が行われました。正直、ここまで辿り着けるかどうか、かなり心もとなかった、というよりは一時は諦めておりましたので、心は大変歓喜、歓喜で一杯でした。 といいますのも、私は大学院修士論文というと、挫折の経験がございます。10年近く前に、今ほどは騒がれていなかったですが、当時社会人向けの夜間大学院があるということで、個人的に勉強しようと入学したことがあります。しかし、社会人10年目頃であり、当時の勤務先人事部からは「仕事で無理だ、やめとけ。バックアップできない」と冷たくされました。執念?で当初通ったものの、結局休学の末に中退、修了に必要な修士論文の指導も受けられませんでした。当時、本学のような通信制による大学院があれば!!と悔しく思ったものです。 それから月日は流れ、何とあの時待ち望んだ通信制大学院があることを知り、トライしたのが2年前、その時は以前の勤務先破綻により職を変えておりましたが、通信制大学院に出会ったのも縁だ、必然だ!と勉強を開始致しました。 尊敬するゼミの恩師五十嵐先生はじめ、すばらしい先生方と同期生にも恵まれ、通信制といいながらもリアルのやり取りや研究会、勉強会など大変盛んであり、きめ細かな指導と交流と遊びもしっかりありまして、当初は修士論文は2年間あるんだから「何とかなるぜ」とおっとり構えておりました。自分の資料集めよりも同じゼミの同期生のテーマに関係ある資料を集めちゃったりして紹介なんぞしたり、と「かなり余裕」の雰囲気でした。ところが!!またまた勤務先の破綻に遭遇し、修士論文どころではない、「また挫折か・・・・よっぽど修士論文には自分は縁がないのかも・・・・」とガックリきまして、「留年」を覚悟し、まずは転職探しを優先。 おかげさまで転職しましたが、破綻した前勤務先で受注契約していた仕事が残っており、完遂させる社会的責任もあり、転職後も当初土日はそちらの作業に時間をとらざるをえない状況。こうなりますと、とても修士論文どころではありません。2年目の秋になり、いよいよこれは留年だ!と、密かに「同じように留年しそうな同期」とコンタクトをとりあい、牽制??しあいながらも、「留年するのは1人じゃないんだ」と来年に向けて頑張ろうとしておりましたが、暖かい五十嵐先生の指導とたゆまない励まし、必要資料も大変ご多忙なのにわざわざ入手のご尽力をしていただくなど、「これはとにかく先生の恩に報いるためにも期限どおり書き上げなければ人間がすたる!」と気を新たに致しました。 早速、インフルエンザの予防接種を行い(そうです、論文書くには身体が資本であります)、年末年始の長い休みには最後のスパ−トだと、何と元旦以外は家族からも離れ、友人の普段使っていないマンションの一室にこもり、集中いたしました。いよいよ提出時間が迫り、「やはりこりゃあ提出できないかも・・」とくじけそうになりつつも、最後は五十嵐先生とゼミの仲間の顔を思い浮かべ、同じように留年しそうなゼミの心の友とも励ましあい、ついに提出!致しました。 振り返れば、瞬く間の修士論文奮戦でしたが、大学院は通信制に限ります。何故なら、本当に勉強したい人が、全国各地(海外も含めて)から参加でき、ITを駆使しつつ、リアル面でも様々な年齢の方との交流ができ、本当の意味での生涯学習・リカレント教育として最適だと考えます。通信制であれば勤務先に迷惑かけることもなく、通学制の時間的・空間的制約を受けることもなく、一時のブーム?的に通学されようとする(とは言い過ぎですね、すみません!)方たちとは違い、通信制大学院という、真の勉学、向学心に溢れた学究の場に参画できたことを、心から感謝しております。これから修士論文書く皆さんも、本学での出会いを大切にして、是非頑張りましょう!! 「おやじの背中」 人間科学専攻 平田 正治 長くて短い2年であった。とにかく大変な2年であった。我が一生の大きな節目となる人生の重大イベントのすべてが集約された2年であった。 1年生の暮れに父が他界した。2年生の初冬には義父が他界、そして、暮れには転勤の打診があり、2月には転勤。ふたりの子どもは入試とめまぐるしい2年間であった。 当たり前のことであるが、論文を完成させるには研究(学習)目標を明確にし、研究計画を立て着実に実行することが重要である。大学院は、自らが進んで研究(学習)する場であり、すべてが個人の責任である。特に、通信制の場合は、常に自分自身との戦いである。 大学院の在学日数は、約665日。この期間に社会人が勉強に当てることができる時間は、週40時間として計算すると3800時間、この内レポート作成に費やす時間が約1000時間、残り2800時間が論文作成に費やすことができる時間である。わずか4ヶ月足らずの時間しかない。社会人ゆえに仕事や家庭、その他さまざまな日常の出来事に振り回され、思うように時間を作ることは難しい。できるだけ余裕を持ちたいと思い、修論完成目標日を中間発表日(9月下旬)に設定した。この時期に最も悩んだのが、科目レポートを先に済ませるか、論文(草稿)を先に済ませるかであった。結局、論文(草稿)を優先することにした。レポートは、課題が与えられ目標が明確で比較的書きやすいからである。しかし、物事は予定どおり進まないもの、時間がなく計画の大幅な変更を余儀なくされ、中間発表に間に合わすことはできなかった。 入学当初、配付された履修科目の10冊の教科書から始まった本棚も日を重ねるごとに増え、1年の秋には一杯になった。レポート1本書くのにも大変な労力と時間を要するが、提出したレポートがそれなりに評価されると、けっこう快感を憶えるものである。苦労した甲斐があった、もっと続けていきたいと思うようになり欲が出てくる。 これに比べ修士論文はそうはいかない。課題と論文構成、その研究方法などのすべてを自らが決め、実行しなければならないから大変である。入学のとき研究計画書を提出してはいるものの実際に勉強を始めると大きな壁にぶつかってしまった。長い間、このような学習から遠のいていたからなおさらである。学習を重ねていくうちに、人間科学(心理学)は人文系に分類されているが、統計分析などの知識がなければ論文は書けない。むしろこれは理科系に分類されるべき学問であるということに気付いてからは一抹の焦りを感じた。 私の属した真邉ゼミは、私たち3期生が最初で、論文作成についてのアドバイスを受ける先輩がいなかった。ゼミ生同士でいろいろ情報を交換するが手探り状態であった。 さまざまな問題に直面したとき勇気と希望を与えてくれたのが『祇園会』と称する同じ地域の院生の集まりであった。本来なら知り合うことのない者同士が同じ目的のもと情報を持寄り、杯を交わしながら語り合い、切磋琢磨した。この効果は絶大であった。このよき友人達こそ、この大学院で得た大きな財産である。 「人間は環境によって変化する。学習は環境にある。」というのが私の持論である。私が勉強することになったため、我が家の環境が大きく変化した。家中、勉強モード一色になった。女房は、「うちには学生が3人いる。」とよく言っていた。仕事から帰ると、すぐにPCに向かい深夜まで、時には徹夜になることもしばしばであった。朝、子どもと「おやすみ」、「おはよう」の挨拶を交わす場面も。そんな時、「お父さん大丈夫?無理しない方がいいよ。」と子どもの方が私のからだを気遣う始末。まるで立場が逆転してしまっていた。 「親父の背中」を実践?その効果があったかどうかは定かではないが、ふたりの子どもも受験に成功した。とにもかくにも、家族史に残る意義のある2年であった。理解、協力してくれた女房に感謝したい。 「苦しみと、悲しみと、喜びと、そして愛情」を体感した2年であった。 「やれば、できる」という自身を持たせてもらった2年でもあった。人は、苦境に立った方が能力を発揮できるのかもしれない。決して満足のいく出来ではなかったが、とにかく、修士論文は書き終えることができた。そして、学ぶ楽しさを改めて知った、習慣にもなった。今、やっと研究者?への最初の門をくぐった感がある。今日までの苦労を無駄にせぬよう、これからも勉強は続けていくつもりである。 この2年間、修士論文を書くために多大なご迷惑をかけたにもかかわらず、懇切丁寧にご指導くださった真邉一近教授ならびに各科目を通じてご指導いただいた先生方に深く感謝いたします。 「喜びと苦しみの2年間」
人間科学専攻 前田和世 「修士論文を作成し終えて」 人間科学専攻 作宮洋子 大学院修学の二年間も終わりに近づいてきています。 論文作成の過程において、励まし指導してくださった指導教官の河嶋教授、大学職員の方々、アンケートに協力していただいた地域の対人専門職の方々にお礼を申しあげたい気持ちでいっぱいです。本当にお世話になり、ありがとうございます。 論文作成は、復路のない登り坂の道路を、初めはゆっくりと、そして、少しずつスピードを上げながら、最後はエンジン全開でゴールにたどりつくレースに似ていると思います。 振り返ると、論文作成までの道程には大きな三つのステージがあったと思われます。その最初のステージは、一年次の河嶋教授のグループゼミまでであったと思います。9月に藤沢市の日本大学湘南キャンパスで開催され、一年生は自己の課題に関する先行研究のプレビュー及び今後の研究計画を発表しました。 次のステージは翌年のゼミまでで、8月に大学の軽井沢研修所で開催され、二年生は自己の研究の進捗状況を発表しました。一年から二年までの一年間に、研究の具体的実施方法を再計画し、仮説の設定、調査項目の決定、調査票の作成、プレテストの実施、調査票の再検討・修正、調査施設への依頼、調査の実施、回収、回収したデータの入力、集計などでした。第二ステージは時間との競争でした。研究計画を自分で実践に移していかなければ調査は出来ないため、自分で決めた計画はとにかく実行するようにしました。調査の回答数をできるだけ多く得たいため、大学の先輩や母校、子供の卒業した学校、知人などに調査の趣旨説明をし、あらかじめ調査内容をお見せするなどして承諾をもらいました。調査回答の獲得は相手の協力が得られなければならず、自分が努力することでは得られないため、一連の作業の中で何よりも大変だったように思われます。回収した調査票は郵便が届いた日の夜にすべて設定したエクセルの入力表にデータとして整理するようにしていきました。入力後の集計処理は単純集計・クロス集計は順調にいきました。集計の半分位を終え、軽井沢ゼミに持参して結果説明に用いました。 第三ステージは軽井沢ゼミの後、9月から1月提出までの間で、この期間は期間的には短いが多くの処理作業とその迅速性を要し、ハードな期間であったと思います。軽井沢ゼミの後、計画していた集計テーブルを整理し、9月末には簡単な検定計算式を作成して、結果整理はほぼ終えていました。しかし、『すべてがわかる アンケートデータの分析』『多変量解析ガイド』『すぐわかる多変量解析』『心理学研究法入門』『図解でわかる多変量解析』『すぐわかるExcelによる多変量解析』『基礎 統計学ハンドブック』『ホントにやさしい多変量統計分析』・・・などの統計の本を読んでいくうちに、ソフトを用いて検定計算や多変量解析についても実施してみたくなりました。そして、エクセル2002の導入によりアドインソフトを使うことを試みました。何回か使用するうちに、自己のパソコンが操作不能になりました。その後、大学の貸与マシンも動かなくなって、ヘルプデスクに修理を依頼しました。最終的には、多変量解析ソフト,アドインソフトを自己のパソコンにインストールすることに成功したのですが、この間約二週間は機械が使えない状態で、メールの送受信ができないことを本当に不便だと痛感しました。幸い、ヘルプデスクの方の御配慮により過去のメールの記録だは残しておいていただくことができたので本当に助かりました。基本的には、パーソナル2000にはエクセル2002は基本的になじまないとのことでした。この時点で11月の中ごろでした。二台のパソコンはほぼ買ったときの状態になっていましたが、その後はフロッピーに残っていたデータをかき集め、足りないものは作り直し、ソフトを活用してひたすら分散分析とをしました。 年末年始の休暇の家事は最小限に止め、自分の思いどおりに研究に打ち込むことができて、今までで一番良い休暇となりました。 論文が完成し、現在、しばし小休止と言ったところですが、目標をなくした寂しさもあり、止まることなく、次の目標に向かって歩き続けたい、機会があったら統計学を学びたい、etc・・・との希望もあり、率直に言って複雑な心境で過ごしています。 「学び――終わりのない営み」 人間科学専攻 甲斐 修 社会人学生にとって,最大の課題は「時間の確保」ではないでしょうか。勉強の方法は人それぞれですので,自分の生活パターンにあった勉強法を早く見つけることが大切です。 高校教諭の私は,企業に勤務されている方と比べれば,勉強をしやすい環境にあります。しかし,学校週5日制に伴い,平日に済ませなければならない仕事が増え,自宅に持ち帰ることも多々あります。帰宅して一息つけるのは午後10時過ぎというのが日常です。私にとって,それから勉強するのはかなり大変に思えたので,勉強は完全に朝型で行ないました。 毎朝4時前に起床し,朝食までの約3時間を論文やリポート課題のための読書に充てました。さらに往復60分の徒歩通勤の時間も思索のための時間にしました。毎朝読んだ本の内容を歩きながら反芻することは,アイディアを再構築するのに効果的です。論文の構想やリポート課題の執筆は,主に土曜日・日曜日の午前中に行ないました。 近隣に大型専門書店がない地方在住者にとって,参考文献は主に公共図書館,またはインターネットによる検索や購入が頼りです。また,自分の研究テーマの「高校生の進路意識」に関連する調査資料や文献は,上石神井にある日本労働研究機構の労働図書館まで出かけ,資料を分けていただきました。国立国会図書館が,平成15年1月から雑誌記事・蔵書の郵送複写サービスを開始しましたので,これから研究を進める方は大いに利用されるとよいでしょう。 論文の構想と章立てが出来ても,仕事やその日の体調によって,執筆は予定通りには進まないものです。計画では11月末には論文を完成させ,12月のゼミの中間発表会に臨むつもりでした。しかし,12月中旬時点で出来上がっていたのは全体の4割に満たない分量でした。気が重い状態ながらもゼミに参加,ゼミ生のみなさんの発表や研究に取り組む姿に勇気付けられました。 それを機に,一昨年の1月に大学院の受験を決意したときの自分の意志に立ち返り,年末年始にかけて追い込みに入りました。いざ集中すると,堰を切ったように文章が出てきました。これまで筆は進まないながらも本や資料をくり返し読み,論文の構想や展開について毎日考えつづけていたことが効を奏したと思われます。 ところで,理学部出身で卒業研究はゼミ形式であった私は,学生時代を通して論文なるものを書いたことがありません。本大学院で課される3000―4000字のリポート課題でさえ,入学当初は自分に書けるのか不安でした。しかし,論文の書き方に関する本や大学受験生向けの小論文参考書を数冊読破することで,その不安は解消されました。 指導教授の北野先生からは,リポート課題のような短い文章で練習を積み重ねることが,論文作成力に繋がるとの助言をいただきました。また,リポート課題作成時には,社会哲学特講の佐々木先生による『レポート作成の手引き』を常に参照することで論文執筆の基本形を学びました。結局,1年次からのリポート課題に対して,基本教材や参考図書を読み込んで自分の頭で考察し,文章を少しずつ練り上げていくことが,修士論文を書く上での大きな力になることがわかりました。 論文を書くには,このように地道な努力が必要とされます。それだけに完成したときの喜びと充実感は大きいといえます。また,論文が完成しても,その道筋に新たな疑問や問題点の発見,そして反省があります。それらが次の学びへの動機になります。学ぶことは,まさにネバー・エンディング,終わりのない営みです。そのことを実感できたこの2年間は,私にとって至宝の時間というべきものかもしれません。 最後に,論文提出締め切り間際に学んだ教訓を二つ。 @ 論文本体が完成しても,読み直しや文字の誤変換の修正など,納得して仕上げるまでに最低1週間はかかります。提出締め切り日から逆算して執筆計画を立てる必要があります。 A ワープロソフトには「文末脚注挿入」や「目次のページ番号挿入」など,論文作成に便利な機能があります。このようなWordの基本操作は,時間に余裕のある時期に習得しておく方がよいと思われます。 ご指導いただいた先生方,北野ゼミの皆様,大学院事務課の皆様,この場を借りて御礼申し上げます。 「『継続は力なり』・・・」 国際情報専攻 末木国嗣 通信教育のMBAに挑戦してみようと考えていた矢先に新聞広告で目にとまった通信制大学院、年齢等を考慮すればMBAよりはここで修士を目指して研究してみようということで日本大学大学院総合社会情報研究科の国際情報専攻として入学させて頂くことができた。流行のインターネットを駆使しているという点も魅力のひとつであった。 現在、私は医薬品メーカーに勤務しており、自分の仕事をベースに医薬品の製造という立場からみた全体最適化について問題提起し解決策を探っていこうと考えていた。しかしながら一年目からデータの収集でまずつまずくことになった。直ぐに集められそうで意外とデータが入手できない。成功事例ならたくさんあるが失敗の事例を開示しているところがほとんどなく入手が困難であることがわかった。論文自体の構想の練り直しが求められた。 そうこうしているうちに一年が過ぎ、さあこれから本格的に文章を書こうという二年目に巡ってきた追加のプロジェクト的な仕事、サラリーマンゆえに仕事を拒否するわけにはいかない。時間が削られることになる。入学した当時は会社を辞めてでも修士論文と思っていたが、当大学院は社会人に対する高度な専門知識の提供と再教育を行うことを目的としているとあるので、やはり社会人として仕事を優先し、残された時間で論文を作成することに決めた。 時間との厳しい戦いが始まった。論文もさることながら特講のレポートもあり、特に休日には集中して書籍を読破しポイントをおさえておくことが必要だった。またインターネットを利用して各企業のホームページからのデータの収集も有効な手段であった。社会人になって一番忙しい時間を迎えていたが、医薬品という産業をいろいろな角度から眺めることができた2年間であった。 2002年から2003年にかけての年末年始は最後の追い込みで一日3〜4時間程度の睡眠しか取れなかったが、この歳でも集中してやれば結構出来るものだなと自己満足に浸っている。論文は当初の構想からはずいぶん様変わりしてしまったが、これからも時間の許すかぎり研究は続けていきたいと思っている。 『継続は力なり』・・・私の一番好きな言葉である。しかし間違わないで頂きたい。同じことを繰り返すという意味ではない。常に創造と変革を継続するということである。 実は今までに通信教育というものにも何度か挑戦してきましたが、いつも途中で挫折していました。通信制で修了できたのは今回が初めてのことであり、そして修士という立派な肩書きまで頂くことができました。これも担当してくださった五十嵐教授をはじめ熱心な教授の皆様、そして五十嵐ゼミの同期の皆様に支えられてきた賜物と感謝しております。この場をお借りしてお礼を申しあげたいと思います。本当に有り難うございました 「修士論文執筆のための前提となる情報収集 」 国際情報専攻 立石佳代 大学院に入学して、すでに2年が過ぎようとしている。この2年間は時間に追われていたが、充実した日々であった。入学して、すぐに修士論文のテーマを確定した。修士論文題目を「日米自動車メーカーの国際化戦略の比較」とし、研究の目的を「どのような理由から日本自動車メーカーが、世界のトップクラスの競争力を維持しているかを検証し、さらなる国際競争力を強化するための国際化戦略について、米国自動車メーカーと比較しながら明らかにする」とした。 日本の産業競争力は、1993年の世界第2位から、2002年には第30位に転落している(IMD=国際経営開発研究所による)。製造業の集積「世界の工場」と呼ばれる中国の台頭により、日本産業の空洞化が進行し、日本企業の競争力が衰弱していくのではないかという懸念が持たれている。すでに、多くの日本の製造業が、業績悪化、株価低迷、海外投資の収益率の低下など、大きな課題を抱えている。日本産業の国際競争力が低下するなか、自動車など、一部の産業では世界トップクラスの国際競争力を有し、国際化戦略を優位に進めている。国際競争力をどのように捉えるかは、企業の属する産業の歴史や置かれた条件などよって違ってくるが、自動車などのクローズドアーキテクチャの製品では、日本企業は国際競争力を持っている。 最近、燃料電池車が話題となっているが、燃料電池車などの次世代技術開発も自動車メーカーの国際競争力を計る1つの指数となる。これまで自動車メーカーは低公害化に向け、ガソリンエンジンの燃費改善やハイブリット車(電気とガソリン)、燃料電池車などの開発に取り組んできた。燃料電池車は、エンジンがないことが特徴である。その仕組みは、水を電気分解すると酸素と水素が発生する。この反応を逆にして酸素と水素を化学反応させて電気を取り出す。反応後は電気と水しか出ないため、CO2、NoXなどの有害ガスが発生しない。燃料電池車は、電気自動車の一種であるが、電気自動車が蓄電された電気しか使えないのに対し、燃料電池車は発電しながら走行するため、スピードや走行距離などの性能が高い。燃料となる水素の発生と貯蔵手段の開発、水素と酸素から電気を発生させる発電装置の効率と制御の改善、燃料システム全体の小型化など技術的には高い壁がいくつもある。この燃料電池車で実用化に成功したのが、トヨタ自動車と本田技研工業である。燃料電池車の開発により、日本の環境技術水準の高さが世界に示され、この分野でデファクトスタンダードの争奪戦を有利に進められことになった。 この他、世界の自動車メーカーに関する調査、生産方式、サプライヤーシステム、モジュール化の動向等、調査することは山ほどあった。図書や学術論文などからの情報収集の他に、実地調査も行った。例えば、名古屋市が市民・事業者の低公害車への理解を深め、普及促進を図ろうと開催した「低公害車フェアなごや2002エコカーフェスティバル」に出向き、1時間も並んで順を待ち、低公害車に試乗した。電気自動車、天然ガス自動車、ハイブリッド自動車、LPガス自動車の区別がつかず、開発したメーカーに説明を求めた。また、自動車に関する施設を回り、自動車メーカーの歴史や自動車の仕組み、生産方式を観察した。さらに、自動車販売ディーラーに行き、プラットフォームを共通しているモデルがどれかといった質問などをした。このような質問をする訪問者は、奇妙に見えたかもしれない。修士論文執筆の前提となるのが、こうした調査による情報収集である。 五十嵐雅郎教授のゼミ生に対する熱心な指導ぶりは半端なものではなかった。尊敬する師をディレクターやコンダクターと思い、指揮に従って進めることにした。最初は、ディレクターの指導どおりにならなかったし、コンダクターの指揮どおりの音を奏でることはできなかった。それでも、コンダクターの指揮のもと、美しい音色を奏でたといは言えないかもしれないが、少しずつ音を奏でていく自分の姿が見えるようになってきた。教授の熱心な指導とフォローがなければ、落ちこぼれていたかもしれない。 今、修士論文を提出して、何だか自分の手を離れたような淋しい気持ちになっている。 参考 『日本経済新聞』2002年8月20日・特集「ニーズで知る経済・燃料電池車が走り出す」 『経済Trend8月号』2002年8月1日、「日本企業は国際競争力を喪失したのか」 「作業の山場を乗り切るには健康がカギ」 国際情報専攻 内山幹子 論文テーマ:国際連合世界食糧計画(WFP)日本事務所5年間の活動実績の検討と提言 〜 グローバル社会における市民・自治体・国際機関の連携 〜 目次: はじめに 作業日程 論文テーマの具体化、やっと1年後の桜の季節に 暑い夏に資料の打ち込み 秋の中間発表会後、論文構成を修正 作業の山場は仕事の山場 やり残した課題はこれからの課題 ○ はじめに 2月15日、論文正本受領を伝える大学院事務課からのメールを確認し、ほっと一息です。と同時に、これまでの2年間を振り返る余裕がやっと出てきました。これから論文をお書きになる方々の何かの参考になればと、2年間をまとめてみました。 論文テーマをもっと具体的に絞るべきと、入学直後に近藤教授から助言いただき、行政及び市民活動関連の本を読みあさって終わったのが1年目です。このテーマでいけそうとの目途がたったのは、2002年3月。論文を仕上げるまで、ゼミや中間発表会でいただいた助言を受け止め、考え、論文に生かしていくという作業の連続でした。ご指導いただきました近藤教授はじめ、乾教授、真邉教授その他の先生方と近藤ゼミの皆様に、お礼申し上げます。 論文作業山場の2002年11月以降は、不運にも、仕事の山場とも重なり、時間のやりくりに苦労しました。幸い、健康に恵まれ、2002年春に患った腱鞘炎も再発せずに、無事作業を終えることができました。時間の制約上、自治体とNGOとの具体的な協力関係については、十分触れることができませんでした。これは、引き続き考えていきたい課題です。将来、いつかまとめてみたいと思っています。 ○ 作業日程 2001年4月〜 論文テーマ具体化のため、自分の問題意識にあった、行政、市民活動関連の本、雑誌を乱読 2001年秋〜 行政と市民とのパートナーシップをテーマ案に考えるが、踏み切れず 2002年3月 国連世界食糧計画(WFP)日本事務所の活動をテーマにしようと決意。それから、飢餓・食糧関連の資料を集め始める 2002年4〜8月 集めた資料、書籍から引用個所をパソコンに入力 2002年9月29日(中間発表会) 真邉教授、近藤教授など参加者から助言をいただく 2002年10〜11月 いただいた助言をもとに論文の焦点を自治体の国際交流・協力(民際外交)に置くことに決め、民際外交関連の資料を収集 2002年12月 論文の構成を修正し、「民際外交のはじまり」を第1章に。同月14日の最終ゼミ以降、論文の体裁にする作業へ。論文作業の間に、経済開発論の後期レポートを作成。 2003年1月 年末に近藤教授からいただいた助言をもとに修正。年末年始の休日9日間のうち6日間作業。そのうち4晩は徹夜となる。校正作業(誤字脱字の有無や入力データのチェック)に予想以上に時間がかかることが判明。同月9日に副本を発送。20日までに英語表現法の後期レポートを仕上げ、その後、要旨英訳と論文の最終確認。 2003年2月 面接の2日の前日に、修正後の論文を印字。面接後、最終章を見直し、正本を12日に発送。 ○ 論文テーマの具体化、やっと1年後の桜の季節に 大学院入学試験時の私の研究テーマは「情報化社会における、地球的規模の問題の解決に向けた自治体の役割」。入学後、テーマをもっと具体化すべき、1年目の始めは乱読の時期との助言を近藤教授からいただく。2001年5月から横浜市中央図書館に1〜2週間に1回は通うことになる。行政関連のコーナーに立ち、情報政策関連、市民活動関連の本を読みあさる。自治体の情報政策関連では、多くの自治体では、経済活性化のために情報関連企業を誘致したいとしている事情がわかり、自分の問題意識に合わないため、この分野はテーマ案からはずす。2001年夏から秋にかけては、行政と市民のパートナーシップに関する本に目を通す。資料を追っているうちに、横浜市ではこの分野でモデル事業を実施しており、実績があることがわかる。と同時に、この分野を扱い、論文に独自性を出すことは困難であろうと悩む。論文テーマに悩みながら、11月以降後期レポートにとりかかる。時間的に苦戦しながら、2002年1月に仕上げる。その間、環境社会学のレポート作業中に、自分が仕事で担当している、国連世界食糧計画(WFP)日本事務所への横浜市の支援は論文テーマになり得るとひらめく。後期レポート提出後の2月から、その関連で、飢餓や食糧問題に関する資料を集め始める。 ということで、何とか2002年3月には論文テーマと主な参考文献を挙げることができました。しかし、論文を書かずに大学を卒業した私にとっては、修士論文が初めての論文であり、論文を仕上げることができるのかと不安でした。3月25日、二期生の方々の修了祝賀会にお手伝いに行きました。2002年は例年になく桜の開花が早く、当日は桜の美しい日でしたが、自分の論文の行方を思うと不安で一杯だったのを覚えています。 ○ 暑い夏に資料の打ち込み 集めた資料、参考文献に印をつけ、引用したい個所をパソコンに入力し始めたのが、5月の連休から。この作業にかかる時間は1か月くらいと予想していましたが、見事に外れて、結局8月半ばまでかかりました。入力しながら、あれこれと悩みますし、7月に入ると、暑さのせいで能率が低下します。8月のゼミで提出できたのは、資料・データを入力しただけのものでした。しかし、この時点で、30ページを超えていたので、何とか論文になるかもしれないと、不安感は多少減少していました。 ○ 秋の中間発表会後、論文構成を修正 他の専攻の方々も一緒に参加した、中間発表会が9月29日に開催されました。この段階で、構成上、WFP日本事務所への横浜市の支援、飢餓の問題、市民活動の活性化が、うまくつながらずに悩んでいました。発表会後、真邉教授から、焦点を自治体側に置くのか、飢餓・食糧の問題に置くのかはっきりさせた方が良いとの助言をいただきました。また、近藤教授からは、民際外交に関する本はもっとあるはずとの助言を。全体の構成について考えた結果、飢餓・食糧問題への言及を最小限に留め、自治体の国際交流・協力(民際外交)に焦点を当てることにしました。飢餓・食糧問題に関しては、資料をパソコンに打ち込んだ後だったので、私としては、残念でしたが、全体の構成を考えての、やむを得ない判断でした。その結果、論文の構成は、次のとおりに。結局、最終的にこれでいきました。 第1章 民際外交のはじまり 第2章 国際連合世界食糧計画(WFP)日本事務所の横浜市への誘致 第3章 市民活動の活性化 第4章 自治体の国際政策 ○ 作業の山場は仕事の山場 中間発表会の後、10月には横浜市中央図書館にある民際外交関連の本に目を通す。11月には引用したい個所をパソコンに入力。12月には、不要部分を削除し、結論部分を書いてみる。12月14日のゼミには、構成を修正したものを提出。この時点では、まだ引用資料の注は、章末ではなく、文中に入っていました。そのため、近藤教授より注のつけ方を指導いただきました。 論文作業山場の11月以降は、週末には自宅近くのジムに行く以外は、自宅でパソコンと格闘。11月に入って、仕事の面でも山場を迎え、週末勤務も何日か。平日の夜も論文作業のためにはあてにできませんでした。唯一幸運だったのは、風邪などもひかずに、健康上の問題で作業が遅れることはなかったことです。 ○ やり残した課題はこれからの課題 民際外交のはじまりから始まる論文の結論部分では、開発途上国への効果的な支援のために、自治体は途上国現地の状況を把握すべきであり、そのためにNGOなどの関連団体と情報交換・政策交流する必要があると述べました。しかし、それ以上の、より具体的な提言はできませんでした。途上国やNGOに関する調査が不十分だったためです。私自身、1980年半ばにフィリピンに半年滞在する機会があり、途上国の現場やNGOの活動については多少、知っているつもりです。しかし、80年代から現在にかけて、途上国やNGOの状況は変わり、その状況を把握することは時間の制約上できませんでした。これから、途上国やNGOなどについて調べていき、将来、機会があれば、まとめてみたいと思います。 「時間を大切に」 国際情報専攻 藤森 厚 今、こうして修論奮戦記を記していること、五十嵐教授を始め、多くの先生方や大学院事務の方々、それにゼミの皆様に、まず御礼と感謝を申し上げます。 さて、私が大学院に入学が許されてから早いもので2年が経ちました。市ヶ谷で入講式が行われ、五十嵐ゼミ生が201教室に集合。この方々と共に2年間学ぶのだと気合を入れてつもりでしたが、当初はリポートを提出することで精一杯でした。 夏のスクーリングに集い、皆さんがリポートを順調に提出されていることで焦りを感じ、レポートを作成したことを思い出します。 『修論が重要です』とのアドバイスを頂いて、資料収集に駈けずり廻り、時に関係団体にインタビューに出かけてこともありました。私は「SCM」(サプライチェーンマネジメント)をテーマに取り組もうと、入学当初から描いていましたが、なかなか修論の章立てが決まらず、何度も構成を直し、走りながら考えようとしたことが、結果、良かったのではと考えています。 修士論文について グローバル時代におけるバルブ業界の現状と課題 〜SCM適用の可能性についての一考察〜 近年、日本経済はデフレと言われていますが、バルブ業界も同様、未曾有の生産縮小・販売価格の低下に歯止めがかからず、年々、売上の低迷が続いております。しかし、私達は、この状況を受け止め、立ち向かわなくてはなりません。すなわち、日々改革を推し進めていく必要があるのです。では、何処に向かって改革を進めるのでしょうか。ただ、闇雲に改革を進めても、企業体力を消耗するばかりで効果が生まれません。 @ 市場動向を正確に把握し、 A 科学的数値に基づき、 B 意識革命・企業改革 を推し進めるのです。 多くのSCM関連の文献には、ヒントは書かれていますが、具体的にどうしたらよいか判りません。その答えは、企業に属する私達が自ら学び取らなければなりません。そして実務に生かし、成果を上げることが目的です。 その為に、私達の学び舎、日本大学大学院があるのです。 ちょっとだけ、先輩ずらをすれば、 @ 修論の構成を早く決めること。 A 資料をできるだけ多く集めること。 B 資料を整理しておくこと。 C 無理をすること。(体は大事にして) 自分一人で、戦って居る訳ではありません。多くの先生方・ゼミの仲間が居ます。私も何回と無く、助けて頂きました。人生の主人公は自分なのです。頑張りましょう。 最後にもう一度、『感謝』の言葉と共にペンを置きます。有難うございました。今後共、ご指導お願い致します。 「修士論文作成の日々を振り返って」 国際情報専攻 花岡 宏伸 平成13年2月24日(土)の朝10時頃、入試会場に入った時の張り詰めた雰囲気と緊張が今でも思い出される。早いものであれから2年が経過した。そして平成15年3月25日には大学院生活も終わりを迎えようとしている。 入学したころ、論文作成について先生、同僚から次の様な話を聞かされた。@資料集めが大切、1年目に資料、情報をしっかりと収集すること。A1年目に教科選択を極力多くし、2年目は修論に集中すること。B1年目に研究テーマと研究計画書を具体化し、ストーリーを明確にすること、等々である。 私は、前年の秋に長年勤めた機械メーカを定年退職、新しい仕事をスタートさせたばかりで、時間に余裕があった。そこでAについては、推奨を忠実に守り5教科を選択した。夏から秋にかけて、少し仕事が入り忙しくなったが、それでも全単位を取得できた。 @については、業界誌を友人等から借用し約2年分から必要なところを集めた。書籍は、府及び周辺の市の図書館で捜した。終戦後に発行された経済白書、技術白書などは、紙質と表装が悪く、変色して頁がバラバラに外れているものから引用したが、当時の経済情勢が実感できるものであった。先生の紹介で東京の日科技連の図書館では貴重な資料を入手できたし、政府刊行物専門の書店、日本規格協会の本部、大阪支部にも通い最新の刊行物を手に入れた。また、先生からは情報の入手先と貴重な文献の紹介を戴いた。 Bについては、月1〜2回開催されたゼミに合わせて少しずつ充実させるように心掛けた。ゼミの同僚の進み具合は励みとなり、また互いに議論しアイデアを出し合う場でもあったことから、内容が自然に豊富となり深みが増していったように思う。その意味で、平均年齢は少し高いが、ゼミではすばらしい同僚に恵まれたと思っている。 論文のアイデアを出すため散歩、仕事で移動中にアイデアが浮かんだら徹底してメモをした。新幹線の中でメモしたイメージ図はそのまま論文に採用した。また、枕もとにメモと鉛筆を置き、寝る数分前に出るアルファー波を利用したが、これが大いに役立った。今でもあちこちにメモ書きが残っているが、そのほとんどは論文のどこかに使われている。 私の場合、今から思えば1年目の教科選択、資料と情報集めに力を注ぎ込んだことが効を奏したのである。2年目も1年目と同様あまり忙しくないと予想していたのが見事に外れ、2年目に入ると一変して、急に忙しくなった。そして研究や論文を書く時間が無くなり、9月頃まで全く進まなかった。そこで10、11、12月の3ヶ月間、仕事をなくして論文に集中しようとしたが、結局11、12月の2ヶ月間となり、それでも足らず、正月もアルコール抜きで2〜3時まで頑張った。先生の言われた「ゼミ生全員が上位を独占する」が最後まで気になった。また、これが大きな励みになったことも確かである。ともかく締切の前日の夕方まで掛かりやっと宅配便で送付することができたが、その間全く余裕がなく、私事を構わずに仕上げたというのが実状である。 修士論文を終えて思うことは、苦労をしたが終えてみると、実に貴重な良い体験をした、やれば出来るとの実感であり、晴れ晴れとした心地良い気分である。今後、大学院で学んだこと、研究したことを、バブル崩壊後の激動の日本社会、企業の役に立てたいとの、新たな希望と勇気が湧いてきたというのが現在の心境である。 「春がきて」 国際情報専攻 小関 一光 忘れもしない、2年前の入学試験の面接、五十嵐先生曰く「修士論文を書くというのは大変なことですよ、入学すると家族に迷惑がかかりますよ。家族だんらんもなくなりますよ。それでも良いですか?」そんなに、大変なのか(本当かな?)…本当でした。卒業生の「修士論文奮戦記」には苦労談も半信半疑であったが、やはり本当だった。 リポートと毎月のゼミ、1年次は書いても、書いても終わらないリポートには参ったなと思った。ゼミにおいて進行状況の報告、ゼミの先輩方は結構進んでいる。かなり進んでいる人もいる。1年次はリポートに気を取られていて、修論への取り組みは遅れていた。 「自分には時間がある。時間をつくれる」と思っていた。(思い込んでいた)仕事のあき時間にリポートも修論も書いてしまおう。…そんなに甘くはなかった。そんなことはできなっかった。 本格的に論文に取り組んだの2年になってからであった。資料や書籍類の収集を始めたのはこのころからであった。テーマも絞り、やっと自分が書く論文の輪郭が浮かんできた。 しかし、あっという間に時間は過ぎもたもたしていたら夏が過ぎ、秋になっていた。気がついたら中間発表会の時期を迎えていた… 「まずい、どうしよう」 ラスト・スパートをかけなければいけない11月、朝起きたら横っ腹が痛い、じっとしていても歩いても痛い。医者に行くと「入院してください」との一言が、目の前が白くなった。修論が終わらない。留年…、結局、どうしても入院できないと伝え、毎日点滴を打ちつつ薬を飲み修論作成を続けた。下旬、修論(下書)を持って所沢に来るよう先生に言われた。何とか、下書を持って所沢へ。 12月、先生に指摘を受けた箇所を修正、大晦日、家の中では紅白歌合戦から中島みゆきの歌が聞こえてくるが自分はパソコンとにらめっこ。年が明けて何とか完成、今年は正月気分は全くない。今までになかった経験をすることとなった。怠惰なツケの結果だ。 1月の口頭試問、久しぶりにゼミの仲間に会う。皆、分厚い修論のコピーを持っている。皆もやってるな。(若手は自分と同じだったのかな?)2月、正本とMOを提出してようやく全て終わった。達成感がある反面、もう少し時間に余裕を持って取り組めばもっと良いものができたような気がしており反省している。 修論作成が終わり、心にも余裕がもてるようになった。入学試験の時に先生が言った、家族団らんや家族に迷惑がかかるというのは本当だった。 最後に、五十嵐先生、同期の皆様、ご指導や手助けくださった皆様本当にありがとうございました。この2年間、先生やゼミの仲間と接するにつけ自分が過ごして狭い世界とは違った世界を垣間見ることができました 「なかなか書き出せなかった修士論文」 文化情報専攻 菊地善太 1.はじめに 大学院の修士課程では、学生は皆、修士論文を書くために日夜頑張っているに違いない。そう思っておられる方は大勢いらっしゃると思います。日本大学大学院総合社会情報研究科の修士課程では三専攻とも修士論文の作成・提出はその修了要件の一つになっていて、たしかに入学前に受験願書を出した時からずっと、私たちの頭の中には修士論文作成という課題があり、それに関わる努力をしてきています。 しかしながら、大学院という所には色々な目的を持った人が集まります。研究者を目指す人もいれば、単に教養を高めたいと言う人もいます。資格や学位の取得が目的の人もいれば、それは二の次と言う人もいます。修士論文の作成にしても、その重みは一人ひとり異なり、色々な取り組み方がなされていることでしょう。 ここでは私の修士論文への取り組みについて、少し書いてみたいと思います。読者諸氏のご参考になれば幸いです。 2.いつ、書くか さて、私にとって修士課程は、楽しく勉学をして何らかの社会貢献ができるように自分を高めることが目的であり、学位の取得は主たる目的ではありません。したがって修士論文も、是が非でも作成すべきものとは考えておりませんでした。しかしながら修士論文の作成は、研究成果を他人に伝える手法を修得することとして意味があり、修士課程でチャレンジしたい一課題として、最後は真剣に取り組みました。 この二年間を振り返って、自分は修士論文作成を入学当初からコツコツと頑張ってきたわけではありません。この二年間興味を持ち続けて研究してきたことを、最後に論文形式にまとめて修士論文として提出しました。私の場合は、テーマに沿った勉学は入学以来ずっと続けておりましたが、実際にパソコンに向かって論文を書いたのは、恥ずかしながら本当に最後の二ヶ月ほどであり、構想から書き上げまで、慌てて一気に仕上げました。 これは、自分が怠け者だったという面もありますが、ギリギリまで構想が立てられず書き出せなかったのは、研究対象である能について、基本的なことを理解するのにも多大な時間がかかったという理由があります。当たり前ですが、修士論文は、単に自分が知らないだけで研究者の間では常識になっているようなことを、さも自分が発見したように書くことはできません。対象について学び、先行研究について調べ、考える時間がどうしても必要なのです。私は能とシェイクスピア作品について論じる修士論文に取り組みましたが、特に能については全くの素人であり、せめて観能を重ね、謡や舞の初歩を習い、世阿弥の伝書を読もうとすると、それだけでも二年間はあっと言う間に過ぎてしまいました。 なかなか書きづらいテーマであり、途中でもっとコツコツと書けるテーマに変更しようかと悩んだこともありましたが、結局は今のテーマを押し通しました。なんとか論文の提出まで持っていけたので、悔いはありません。研究テーマについてある程度の基礎があり、初めからコツコツと書き進められる方は大勢いることでしょう。でも、そうはいかないテーマもあるということを、この二年間の試行錯誤で実感しました。 3.何を書くか 私の修士論文のタイトルは、「シェイクスピア能」研究(A Study of Shakespearean Noh Plays)です。ここでシェイクスピア能とは、シェイクスピアの作品を能の様式で表現した謡曲であり、私の指導教授の上田邦義先生が、1970年代から80年代にかけて、世界で初めてシェイクスピアの英詩原文を用いた能の翻案を試み、実際に上演し、シェイクスピア英語能という全く新しい創作能の世界を切り拓いたものです。以来、現在にいたるまで、上田先生はシェイクスピア英語能を上演され続けています。 この研究テーマについては、私は上田先生に師事しており、先生の著作を入手し、実際にこの目で先生のシェイクスピア能舞を観能する機会に何度も恵まれましたが、先行研究は殆ど上田先生の手によるもの以外にありません。 凡そ自分の書いた論文が意味を為すとすれば、それはその論文に他人では書けない何かが含まれている場合ですが、今回の修士論文の場合、もとより師の業績紹介では意味を為さず、自分なりの視点を持って師の業績を論じる必要がありました。私がこのテーマで修士論文を書くということは、まさに「釈迦に説法」、身のほども顧みずに恩師にもの申すことを意味します。 それでは何を書いたか。シェイクスピア能について書くのはもちろんですが、今回は、欧米諸国の能楽受容の歴史を踏まえ、シェイクピア能が果たせる社会・文化への貢献、そこに焦点をあてて基本文献を読み直し、修士論文にまとめていきました。 それは、沢山本を読み進めていく中で、能楽が海外、とりわけ欧米の人々に驚きと感動をもって受容されていった史実が、私には特に印象に残り、とても面白いと思ったからです。シェイクスピア能が今後世界に受け入れられていくとすれば、特に西欧文化にとって新しい能楽受容のかたちであり、それはこれまでの能楽受容の延長上にあるはずだと考えられることに気づいたからです。かくして私は修士論文を書き始めました。 私の修士論文は、結果として、明治以降、欧米文化が能を受容してきたことを論じ、シェイクスピア能の特長を論じ、能が世界無形遺産たる世界の能として普及していくために、今後シェイクスピア能が貢献していく可能性について論じるものになりました。 まだまだ研究としては、最初の一歩を踏み出そうとして少し足を持ち上げた程度のものに過ぎませんが、たとえ拙い内容でも、曲がりなりにも論文を一本書けたということは、私にとっては大きな自信となり、喜びとなりました。 今後も研究を続けていきたいと思います。 4.最後に 最終的に修士論文を書くのは学生一人ひとりですが、修士論文の作成にあたって、指導教授のご指導や、同期の仲間からの励ましの声は、これは本当にありがたいものでした。どれだけ助けられ、励まされたかしれません。修士論文作成を通して、自分がいかに多くの人に支えられていたかに気づきました。今年度、私が修士論文を提出できたのは、ひとえに励ましてくださった皆様のお陰です。 この紙面を借りて、改めてお礼申し上げます。皆様、どうもありがとうございました。 「プロジェクト×(ペケと読む:念のため)
何事にも、正式なものには、お作法というのがあります。 結納にはするめと昆布とエビがつきもので、宮中晩餐会には洋装の女性は小さなヘッドドレスと肘までの手袋が必要で、 論文には論文の決まり事があるわけです。 「なんで?」と聞いてはいけないのです。そうなってるのです。 長いものには、巻かれなければなりません。ぜひとも。 しかし、私は、論文のお作法を研究しに大学院に入ったわけではないので、 フィンドレイの本に付箋で小さな見出しをつけました。辞書というか、手引きというか、手元において、 論文を書きながら分からないときにすぐに必要なページが見つかるように。 これは、とっても便利でした。付箋なら、すぐはがせるので本も傷みませんし、汚くなったら簡単に貼り替えられます。お試しあれ。 14.先行研究や論文はインターネットでも探せる 私は、先行研究を探すのは、原則としてすべてインターネットで自分で探しました。昼間の時間、図書館に入り浸るというのは働きながらは不可能ですが、夜になって、パソコンに向かって、自分の時間内で検索をするのは、時間の制限もないので、自分のペースでできます。インターネットのサイトは、24時間営業。勝手な時間に読みにいけます。まず、関係のある本を読み、後ろの引用文献で本文とのかかわりで、 関係ありそうな論文をインターネットで検索してみました。英語の論文で、古典と言われるようなものは、ほぼすべて、インターネットで読むことができました。日本語の論文も多くがインターネットで読むことができました。英文文献の単語は、手では辞書を引かず、インターネットの無料の翻訳サイトや無料の英和辞書を使いました。 せっかくテキストの形(紙に印刷されたものではなく、入力する必要なしに使える文字情報と言う意味)があるのですから、なんでも利用しました。 ただし、語学として習得するためには、この方法はむきません。外国語で書かれた論文を読みながら、語学も勉強しようと思われるなら、辞書を手で引いてください。記憶の働きから見ても、その方が覚えがいいはずです。今回、レポートや論文を書くのに使ったの辞書、辞典のたぐいは、心理学事典と百科事典だけでした。 百科事典は、CD-ROM版を購入していましたので、それを利用しました。 月あたりいくらか支払えば、インターネットで利用できる百科事典もあります。 15.レポート提出システムでの失敗 ある科目の前期のレポートの草稿を期限間際に提出しました。 そして、先生に提出の連絡のメールを送りました。お返事がなかったので、間際に出し過ぎたからなあ、 と反省しながら、そのまま、最終提出しました。 それから、ずーっとずーっと経って、後期の提出の時に、レポート提出システムの中に、 前期の草稿が添削されて帰ってきていたことを発見したときは、思わず、パソコンに向かって土下座しました。 先生方の所には、提出期限間際には、駆け込み草稿と、余裕の最終提出が入り乱れて送られてきます。 ですから、添削戻しのメールが来ないこともあるわけです。先生方も人間ですから。 添削が戻っているかどうか、自分で大学院にアクセスして確認をしましょう。 賞味期限前に添削済みを味わうために。 16.材料を集めてパズルをする データもできあがり、統計もできたら、後は論文のストーリーを作ることになります。 まずは、ワードで、自分が用意しなければいけないものの台紙を作りました。 要旨の表紙、要旨本文、論文表紙、目次、本文(序論、研究の方法、結果、考察)、文献、添付、謝辞です。 出来るところから、メモのような箇条書きを書いては、保存をして、だんだんに肉をつけていきました。 私は、蓄積してきた情報の中から使えそうなものや、関係のありそうなものを引っ張り出し、 コレクトの情報カード5×3に書きました。 (本当は、もともと、仕事の経験で、そういうことには慣れていたので、ワードを使って印刷したり、 プリントアウトを貼り付けたりしました。) このカードは、もともと、大学院に入ってから、既読論文の整理のためにも使えることを学んだあのカードです (8章参照)。 そして、統計の結果の概略も書いて、それを、自分の考えたストーリーに添ってならべて、 それから、論文を書き始めました。 17.論文は誰のため? 私は、大学院に入って、初めて大学院生を含めた研究者の仕事は、研究の成果を論文にまとめて、 世の中の人のために役に立てることだと知りました。 教授に教えてもらって、それを一生懸命覚えていた大学生活の思い出から抜けられず、 研究は自分でするものだということ、大学院生は研究者の端くれであること、それらを全く意識していませんでした。 それを大学院に入って初めて知って、目から鱗が落ちる思いでした。 そこで、論文を書くとき、今更、基本的文章力はどうしようもないにしても、せめて、読みやすい、 わかりやすい文章を書こうと思いました。 そのためには、文章は短い方がわかりやすいので、むやみやたらと接続詞で繋がないこと、そして、 社会哲学で佐々木先生に教えて頂いた、レポートの書き方の憲法をきっちり守ることにしました。 改めて、佐々木先生のメールの添付文書のファイルを取り出し、印刷して、デスクの前に貼りました。 そして、もうひとつ、本気で心がけたこと。 大好きな人に説明するつもりで、丁寧に書くこと。 必要以上に難しい表現を使ったり、文章を長く繋げて、何が書いてあるのか、 わかりにくくしたりしないようにしました。 18.謝辞について フィンドレイのお作法の本には、謝辞について、とっても短い説明があります。 同級生の中には、書かなかった方もちらほらあったやに漏れ聞いております。 しかし、私たちは専門家ではなく、社会人をしながら研究をし、論文を書くと言うことで、 先生方にはほんとうにお世話になっています。 私の若い友人達で、大学からすんなり修士課程に進んでいる人たちに比べたら、私は、 自分の指導教授にほんとうにお手数をおかけしたと思っています。 専門知識がないから、私にはわからない落とし穴やドブ、見えない木の枝などがあって、事実上、 修士論文そのものが頓挫したり、或いは重要な論点や検討すべき点を見逃したりするような失敗も しているかもしれません。 そもそも、そこにそれが存在することを知らないのですから、見つかるはず、気が付くはずがないのです。 それを丹念に教えて頂き、落とし穴は気づかないうちに埋めてくださり、ドブには板が渡され、 木の枝はその存在を教えてくださって、私は今日を迎えています。 さんざんお世話になりました。そして、そのことに、正式にたった一度、研究者として本気でお礼を言えるチャンス、 それが謝辞だと私は思いました。 謝辞については、指導教授から、「ぼくにありがとうって書いてね」と言うに等しいのに、 何か指示やコメントがあることはまずないと思います。 しかし、慣習として、常識として、「謝辞は必ず書くものである」、と夫は大学で習ったと申しました。 また、感謝する相手は、指導教授だけではなく、資料を集めるのを手伝ってくれた人、黙って支えてくれた家族、 色々な人があると思います。どうぞ、それらの人々に正式に「ありがとう」を言うチャンスを有効に利用してください。 19.研究しようと思っていたことがだめだったとき 私は、入学して数ヶ月で、研究しようと思っていたことが、 色々な公的な制約で実現するのに大変な時間と費用を要するようなことに成ってしまうことに気が付きました。 その時点で、研究テーマの変更の必要がありました。 そこで、あわてて、インターネット+心理学の二つのキーワードで書籍をしらべ、それを読みあさりました。 その次は、朝日新聞の記事データベースの会員になって、似たようなキーワードで、過去の記事を調べました。 使ったキーワードは、そのほかにEメール、対人関係、出会い、サイト、ホームページ、携帯メール、携帯、 パソコン、自己表現などでした。 そして、やっと「Eメールでの印象形成」にたどり着きました。 その間、私の指導教授は、「論文が書けるということは確かに大前提で、大切だけれど、 なにより興味のないことを研究したって時間の無駄ですよ。やりたいことを見つけて、 どうやってやったらいいかをすこし考えて、相談してください」とおっしゃっていました。 結果的に、またもや、指導教授のご専門分野とは全く関係ないことを研究することに決心して、 アンケート調査をやりたいとご相談したとき、指導教授と同じ研究室にいらっしゃった先生が 助けてくださることになりました。 その先生は、質問紙調査のプロで、カウンセリングもプロでした。 質問紙の作成から、統計の読みとり方、有りとあらゆることを教えて頂きました。 分からないことを書きためては、質問をさせて頂きました。本もたくさん貸していただきました。 日大は大きな大学です。 ですから、考えようによっては、同じ学内のどこかに、あなたのやりたい何かのプロがいらっしゃる可能性が高いのです。 指導はしていただけないまでも、直接お話ぐらいしていただけるかもしれません。 Eメールならお返事が頂けるかもしれません。 実は、私は、これが日本大学大学院の一番の強みだと、そのとき、思いました。 もうひとつ、敢えてあげれば、もしかしたら、学生の中にも、その分野のプロフェッショナルが密かに 紛れ込んでいる可能性もあるのです。 社会人大学院なので、学生はみんな、研究を専門にやってきたと言うわけではありません。 仕事や色々な関係での必要性や、素朴な興味から、勉強をしたくて進学してきているわけです。 研究の対象は、実に多種多様で、バリエーションに富み、ゼミでその内容を伺っても、ただひたすら感心するばかりです。当然、ほんの一握りの大学院の先生方に、そのすべてがカバーできるはずもないのです。それでも、先生方は研究のプロです。だから、細かなエッセンスは学生が自力で掘り出して見つけだして来るにしても、それを心理学なりなんなりの論文にまとめると言う作業そのものは、指導していただけます。そういう意味では、自分の知りたいことを調べ、または、研究する、その材料をそろえれば、後は、自分のゼミの先生に相談が出来るわけです。そして、その手前までの作業については、本を読んだり、調べたりしながら、同時に、日大の中の自分の専門の特定分野についてのプロに、「同じ日大の学生です。質問があります」と、相談できる、これは、ものすごい財産だと私は思いました。 20.絶対あきらめない 極めて私事ながら、この2年間、色々なことがありました。 研究計画は入学早々に計画倒れしました。 とある事件があって、対人恐怖症になりました。 ごたごたを起こしたせいで、大学院と心理的距離が開いて、一人で勉強を続ける方法を模索しながら、退学も考えました。 2年の前期のレポート提出の頃に、義父が8月30日、父が9月2日に亡くなりました。 前期のレポートは正直、何を書いたのやら。 再構築した論文のプランの方は、やっとアウトラインが出来たくらいのところだったので、 もう書けないかと思いました。 卒業を延ばそうかとも考えましたが、それで、何かが解決するとは思えませんでした。 一人じゃだめだ、このままではだめだと思って、指導教授に会いに行きました。 何度も何度も行きました。11月の終わり、なりふり構わず、 ありとあらゆるところでインターネットのアンケート頼みました。 1日で、アンケート依頼のメールを120通書きました。 「今頃何やってる、修士課程をなめてんのか」と見ず知らずの、どうも研究職という感じのオヤジに メールで研究計画の遅れについて説教食いました。 紅白歌合戦の中島みゆきの「地上の星」を背中で聞きながら、エクセルのグラフ作ってました。 「あたしのは、プロジェクトXじゃなくて、ペケだわさ」と言いながら。 お正月は、元旦の朝からまだ統計やってました。 最後は夫も統計してくれました。猫たちはしっぽ振ってくれました。 締め切りの前の日にやっとできあがって、電車に乗って所沢まで届けに行きました。 口頭試問の日は、何が出来てなかったのか、これからどうやって研究したらいいか、教えて頂きました。 一所懸命、修正をして提出しました。 でも、今は、あきらめなくて良かったと思っています。 何が言いたいかというと、私の場合、働きながら家族と生活し、友人とつきあいもしながら、 自分の勉強をするということは、人生がいきなり何倍も濃密になるみたいな、 今まではごく普通の水を泳いでいたのに、急にゼリーの中を泳いでいくことになったような、 何ともいえない重圧を感じ、いつもの何倍もの気力と体力を必要としました。 結局、ほぼ2年間、遊びらしい遊びもせず、「白倉は大学院と心中したと思って!」と言い放ち、 友人達には迷惑もかけました。仕事先には話をしませんでしたが、最後の3ヶ月は、ずいぶん、 前倒しだの期限遅れだのと、タイムスケジュールを守れない最悪の業者になりさがりました。 それでも、時間は容赦なく過ぎ去っていきます。 だから、どうぞ、何があっても最後まであきらめないでがんばって下さい。 今日の努力の向こうに、きっと卒業が待っています。 あきらめさえしなければ、明けない夜はなく、できない論文もありません。 きっと... 大学院に入ってから、もうじき2年。 あと数日で、冷たい雨の降る土曜日に、受験会場へ出かけた日から、丸2年になります。 このあいだに、修士論文を書くという最終目的に向かって、色々やってみたこと、実行したことをまとめてみました。 自分の苦いにがい経験から、多少、余分に筆が滑ったところもあります。 感情が入っていて、なんだか、告白文のようになってしまったところもあります。 論文ではなく、マガジンの記事として書いたので、エッセイのような、読み物のような、 キメラのようになってしまったけれど、参考にはならないまでも、何か伝えることができれば、幸いです。 「修士論文完成までの2年間」 国際情報専攻 安田 守 ちょうど2年前の今頃、花粉の飛散が始まった頃でした(何を隠そう私は花粉症歴20年!)。仕事の予定も立ち、何とか大学院の為に2年間時間を作れそうだと思っていました。明日に大学院の受験を控え、午後から仕事を早退しようと考えていた朝に上司から呼び出されました。「部署を移動してくれ」と・・・・。頭に描いていた計画が音を立てて崩れ行く瞬間でした。そのまま心の動揺を抑える事もできずに、京都から東京まで移動しました。 何とか無事に合格し、2年間の大学院生活がスタートしました。慣れない仕事と大学院のリポートが重なり、精神的に余裕の無い日々が延々と続きました。論文のテーマは「市町村合併問題」で、軽井沢の合宿を契機に1年目の6月には具体的な道筋が決定しました。 ただ、私の論文テーマは今の仕事と全く関係がありませんので、仕事を利用しての資料収集や、仕事の経験を基に論じる事はできませんでした。 「まあ、資料は何とかなるさ!」と高を括っているうちに、一年はあっというまに過ぎて行きました。もちろん自分には「市町村関係の資料は年々変化するから、最新のものを用いなきゃ」と言い聞かせていましたが・・・・。 そんなこんなで、2年目の夏も過ぎようとしていました。もちろん論文の流れと、序章は書き終えていましたが、主たる章がどうにもまとまりませんでした。中間発表会は何とかこなせましたが(論文の到達点は自分なりに少しは見えていましたので)、論文の完成はまだまだ見えないところにありました。 秋を迎えるころには、徐々に焦りだしました。毎日毎日机には向かい、少しずつ少しずつ論文も進んでいるのですが、どう考えても年末までに仕上がる計算になりません。また役所の資料を集めるにはどうしても平日に行動しなければならず、有給休暇を取りにくい環境とあいまって、精神的に段々と追い詰められてきました。この頃から何をやっていても頭の隅に「論文」という二文字が離れなくなりました。 「秋風や のらくら者の うしろ吹く」 いや、決して怠けてはいません。しかし時間が取れないのです。仕事や会合、付き合い・・・更には子供の相手・・・焦る気持ちと裏腹に時間は止まることなく過ぎてゆきます。 師走になりました。この頃には仕事を時間までに無理矢理終わらせ、帰宅するとすぐに入浴と食事。そのあとすぐに机、いやパソコンに向かいました。子供と顔を合わす時間も無くなり、論文の進行とともに父親の威厳(いや、もともと有りませんが・・・)も失墜して行くような気がしてなりませんでした。 12月の半ばに最後のゼミがありました。それなりに用意して臨みましたが、論文の書き方を全面的に変更することになりました。正直焦りました。しかし四の五の言うよりも実行あるのみです。自分の予定も考えず、ゼミの後1週間強で書き直すと宣言して京都まで帰ったのでした(もちろんゼミの後に宴会には参加しましたが・・・)。約束どおり60ページ余りの論文を約1週間で書き直しました。時間ですか?それはもう一言ではいえません。でもクリスマスの前には何とか草稿を書き終えることができました。その後、年内に2回ほど書き直しましたが、2002年最後の12月31日(紅白歌合戦の始まる前)に一応の完成をみました。 年が明けてから文章の流れと誤字脱字のチェックを行い、副本を提出。副本の提出と前後して、論文要旨の英訳を行いました。更に面接日までに文章の整合性と誤字脱字のチェックをまたまた行い、面接日前日(いや、時間的には当日でしたが・・・)の真夜中に最終的な副本を印刷して終了しました。最後の1枚をプリントアウトしたときに、プリンタも故障するといったオマケ付きで・・・。 さあこれで万全と思い、就寝したのはよかったのですが、夜中の4時に悪寒と身体の震えで目が覚めました。そのときの体温は38.5℃。最後まで順調には終わらせてくれませんでしたが、重い身体を引きずり、何とか面接をこなす事ができたのでした。 最後に真面目に論文作成のポイントを! 1.「注」及び「参考文献」はその都度挿入する事。後から整理するのはかなりの労力を要します。 2.可能であれば、他人の目で確認を。自分の書いた文章ですから、ついつい読み飛ばしてしまいます。誤字脱字等を見つけるのは他人の目が一番かと思います。 3.時間のある限りゼミに参加を。ゼミに参加する事により、他のゼミ生の進捗状況を知る事ができ、さらに他人の目からみたアドバイスがもらえます。ある一定の間隔での刺激とプレッシャーは私にとって一番重要なものでした。 これから論文作成される皆様、時間は絶対に足りません。余裕を持った行動を! 「パソコンがうまく動かない!」 国際情報専攻 三上季彦 1 檄が飛ぶ 我々五十嵐ゼミの仲間は10人在籍しているが、入学早々「早急に資料集めにかかりたまえ」、「時間は有効に使いなさい」、「上から10位以内をめざせ」など檄が飛び、2年間ずっと強烈な刺激の中で過ごしてきた。またゼミの仲間でもとくに小生を含め(Sixty+α)years oldのメンバーが4人在籍して、互いに切磋琢磨しかつ刺激があり、有意義な2年間であった。 2 テーマは「スーパーゼネコンの現状と将来展望」 スーパーゼネコン4社の現在における財務状態の分析を行い評価すること及び将来の建設業界のあり方などをテーマに論述した。資料としてはスーパーゼネコン4社の昭和36年頃より現在までの有価証券報告書の財務諸表を参考にした。コピーをするだけで3ケ月ほどかかった。 3 時間が足りない 1年目、2年目の前半とも科目のレポート書き並びに修士論文の参考文献を探すのみに過ごしてしまったのが悔やまれる。その上テーマに関する書籍を読むだけでもこれまた、相当の時間がかかってしまった。7月頃からようやく書き始めてみると意外や意外、時間のかかることこの上ない。データや参考文献をどのように纏めるかだけでもあっという間に2月が経過してしまった。このころになると焦ってきた。 4.パソコンがうまく使いこなせない データを元に解析してゆき、論文を書き上げるのであるが、パソコンがうまく使いこなせない、とうとうデータの入力は外部に依頼して論文作成に専念することにした。財務分析はバックデータが分析の証拠となる唯一のものなので、グラフ化してみないと論文の筆が進まないという弱点があったが、これで間一髪切り抜けることができた。 5.この2年間で得たもの @論文作成技術を習得したこと。A好学心に燃えている仲間に会え、それぞれ考え方の違いのあることがわかったこと。B私自身、専門の書籍を数多く読んだこと並びにこれからも益々読もうという気になってきたこと。更に「東洋経済」または「エコノミスト」を週一回はひろい読みするようになったこと。C 研究会に入会し、論文の発表する機会があることがわかったこと、等である。 「机はなくても書ける修論」 文化情報専攻 戸村 知子 何事も、スタイルからはじめる人がいる。私もそうだ。 仲間と登山の計画が入ると、まず、登山用具・服装の新調をする。その後で、ふだん鍛えていない脚のことを思い出す始末である。 ところが2年前に入学して以来、大学院でのレポートの山を踏破するために勉強机を新調することは、結局なかった。就職して少し経った頃に大型ゴミにしてしまって以来、私は机を持っていない。大学院から貸与されたパソコンを置くスペースがあれば事足りた。むしろ、本棚の空きスペースが必要であった。レポートや論文を実際にまとめ始めると、みるみるうちに、床やベッドの上が、新たに購入したり、借りてきた図書に埋もれていった。「足の踏み場もない」経験をした。 2年目の冬、家族の協力のもと、ほとんど自室から出ることのなかった年末年始を過ごし、修士論文の正本提出を終えてやっと、お正月を祝った。訪れた芦の湖畔の眺めは、芽吹く前の木々で被われた山々がほっこりとしてあたたかかった。 桃源台から箱根までの遊覧船にゆられながら、2年間をふりかえる。入学できた喜びもつかのま、課題図書がなかなか読破できなくて不安を覚え、勉強用の読書術を身につける必要を感じたものだ。とにかく、まずは読書だと思った。それから構想を練るための集中した時間も欲しかった。仕事と家事を済ませ、余暇の殆どを費やしてもなお足りない勉強時間。通勤途中で15分間の集中できる時間を確保する。往復30分。この集中した30分はとても貴重なものとなり、レポートの構成を思いつくのも大概この往復の電車の中だった。 私は大学院へ進学する前から修士論文のテーマは決まっていた。なんとしても書きたかった。もちろん、書き上げるだけの力量は備わっていない。でも、まとめたかった。入学するまでの約3年間に集めた資料は、とても私の手に負えるものではないようにさえ感じ始めていた。誰か専門家に資料を提供して、立派なものを書いてもらえたら、そんなことまで考えたこともあった。でもある時「貴女がまとめなくては」と言ってくれた人がいた。書き終えた今、つくづくこの言葉の重みを感じる。 すでに資料集めのその時から、私なりの視点というものがあったことに気がついたのだ。資料集めは、それこそネットサーフィンのような作業だから、検索のためのキーワードを入力するのは私なのだ。集められた情報だけ見せられても、そのキーワードがわからなければ、他人からみれば煩雑な資料でさえあるかもしれない。また、興味や好奇心を優先させただけの資料集めでは、定まった視点を持つことは難しい。「論文」にしなければならないのだから。 修了を前にした今、論文を提出できた達成感よりも何よりも、感謝の気持ちであふれている。資料を提供してくれた方々、研究成果が形になるのを楽しみにしてくれている方々、なによりも指導してくださった先生方、そして励ましあい喜びを分かち合った仲間達、あたたかく見守ってくれた家族。これだけの人々に支えられて過ごしてきた。まとめたものは拙いものだが、大声で言いたい。「おかげさまで、ここまでまとめることができました」と。 そして今、あらためて今後も研究を続けていく決心をしている。 文化情報専攻。私が2年間の大学院生活で在籍した専攻。文化は人々の心を育む。豊かな心を持った人々が活躍する社会は、一層、豊かな文化を生む。文化は社会の潤滑油でもある。その一滴(ひとしずく)を作り出す。そう、これが、これからの私の目標なのだ。 芦ノ湖から帰って一週間。書棚に収まりきらない本を整理し始めて思う。私の中の好奇心が「机」だった。今、その引き出しの一つを整理し終えたのだ。その引き出しからあふれてしまったもの、入りきらなかったもの、まだ開けていない引き出しもある。 これから時間をかけて整理していこう。こればかりは、誰にも手伝ってもらうことができないのだから。 「カントと向き合った2年間」 人間科学専攻 野明 厚夫 私が論文のテーマとしてとりあげたのは、「カント実践哲学における自律Autonomieの概念」であった。このテーマに行きついたのは、20世紀後半、科学技術の進展の渦中にあって科学技術教育の振興政策を推し進めている我国教育行政の仕事、特に最近の20年間、世界的規模で問題とされている環境倫理や生命倫理と深く関わる大学医学部の倫理委員会や臓器移植実施・遺伝子治療実施のための学内委員会の運営等にも携わってきたなかで、21世紀は、科学技術の専門知を、いかに人類のために用いるかという人間の叡智(人間知)が試される時になってきたと感じたからであった。脳死者からの臓器移植や遺伝子医療と名づける技術はどこまで許されるのか、人間に出来ることが増えるにつれ、出来るが故にしてはならないことも増えるはずであるにもかかわらず、そのことが忘れられているのではないか、という漠然とした不安感、また、現代の世相をみると今私たちに要請されている人間の本当の生き方ないし倫理とは何だろうかという思い等から、自らの哲学の課題として「人は何を知りうるか」「人は何をなしうるか」「人は何を望むことができるか」をあげ「人間とは何か」を最終課題とするカントの人間知の追求ともいうべき哲学を対象として取り上げ、考えてみたいと思った。 18世紀ドイツの彼の哲学、特に人間の主観が対象たる世界を構成するとみる考えに発する「自律」の精神は、人間は現象界たる自然の因果の世界に生きるだけではなく、叡智界の側面では自由をもって生き、人間の知で解決できないと思われるようなことまでも、理念として希求することはできる、とする。このような近代的ヒューマニズム、近代的自由は、自分の幸福のあくことなき追求、人間による自然の支配、ひいては環境破壊や人間社会の荒廃等に突き進んだとして、ポストモダンと称される現代思想や環境倫理・生命倫理の立場からも厳しい批判にさらされている。しかし、近代の目指したものは本当に終わったのか。ハーバーマス等は、近代を「未完のプロジェクト」としてとらえ、この面からも、科学的認識や道徳的規範の歴史性・多元性を看過した独断的な普遍主義(自律の強調は他者理解を可能とするのか)としてカント的理性を批判する。カントの思想は、本当にそのようなものだったのだろうか。彼の哲学は、現代においてなお意味をもつのか。この辺に焦点を合わせて論じようとして研究計画書を書き、そのため考察の視点も、彼の思想の時代的・地域的制約を越えた普遍的意味を探るため、無謀ではあったが、彼の人生の足跡や、大学卒業論文から晩年の著作まで幅広く触れようと計画した。指導教授の佐々木先生からは「頭が幾つもあるような論文は書かないこと」というアドバイスだけで、この研究方針は任せていただけた。 1年目は、必修の社会哲学(特にヘーゲル)のほか、イギリス思想史、哲学史、生命倫理学、社会思想史等の特講の内容をカントとの繋がりを模索しながら履修した。この年9月の同時多発テロの発生、10月アフガン戦争の開始から、「戦争と平和の倫理」の重要さを見過ごすわけにはいかないと考え、10月に行われた「歴史研究会」では『永遠平和のために』の概要の一端を報告、論文でもカント政治哲学への具体化として、その平和論を述べることとした。 2年目は、1・2科目に絞り、論文に専念することを考えたが、やはり1年目の方針を踏襲し、宗教哲学、科学哲学、教育思想史の各特講を履修、これら科目のカントとの関連を思索した。このほか、他専攻の現代文化・文学論特講(欧米共通の文化伝統)を履修、新旧聖書を始めて読破、創世記と生命倫理学の課題との関連やカント的二世界論にも触れているゲーテの『ファウスト』の魅力等を論じることができた。また、9月の論文中間発表会の教授陣を含めた質疑応答は、論文をまとめる過程で参考になった。 2年間、これらの学習とともに、膨大なカントの三批判書を始め基本的な著書の内容については、彼の「自律」の概念がどのように捉えられているかだけをひたすら追いかけ、頭が二つ以上にならないような論文をこころがけた。そして終章で、「戦争と平和の倫理」、「環境倫理」、「生命倫理」の現代的課題に対し、彼の実践哲学は、人間として到達できる知の限界を知り、かつ、それを超えたところにある知(理念)を希求し、その溝を埋めるための善き生を実践することに他ならない、そのため、その根源的視座ともいうべき「自律」の概念は、現代においても決して見失われてはならないであろう、という結論とした。 先日の新聞紙上で、ノーベル賞受賞の小柴昌俊氏も、「人間については、科学でわからないことがたくさんある」といっている。それでも知ろう、分かろうとするのが科学であり、そこに科学の意義がある。しかし、科学を人間の為に役立てようとするとき、どうしても目的・理念という概念が出てくる。カント哲学は、率直にそのことを語っているようである。「永遠平和」は、あくまでも理念かもしれないけれども、永遠平和に向けてのシステムを構築することは決して無意義ではない。この2月15日の世界の動きは、そのことを示している。カント哲学は、近代の目指したものから、我々が現代という激流を渡るための未来への懸け橋になってくれるのではないか。そんな思いをもってこれからもカント哲学等を通して、ささやかながら自分なりの思索を進めていきたい。 佐々木先生の誠意あふれるご指導と、熱心にかつ楽しく学習できたゼミやスクーリングそして研究会の皆さんとの交流は、生涯忘れられないものとなりました。後続の皆さんも、このような本院のシステムを最大限活用され、そのなかで、皆さんが21世紀を生き抜いていくコアとなるものを見つけられますことを期待しております。 |