2期生の修士論文奮戦記

特に記載がない限り、電子マガジン7号(2002年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 修士論文の提出を終えて 新谷眞瑜
国際情報 締切りは・遠くに見えて・すぐ近く 情野瑞穂
国際情報 修士論文は如何にして締め括られたか 淺野 章
国際情報 雨上がり決死隊 橋本信彦
国際情報 『地方都市の情報化と活性化』を書き終えて 三浦 悟
国際情報 ― 少し早めの大学院生活の感想と妻への言い訳 ― 村上恒夫
文化情報 修士論文はパソコンとの格闘の中から 竹村 茂
人間科学 「時間」との戦い、否「自分」との戦い 伊藤ちぢ代
人間科学 悪戦苦闘のドッキュメント 尾ア道江
濱田純子
吉田里美
人間科学 感謝、達成感、そして反省の今日この頃 川原律子
人間科学 論文悪戦記メモ 笹沼正典
人間科学 修士論文を書き終えて 清宮節子
人間科学 修士論文は新たな出発点! 高橋 勝
人間科学 怠惰と感動の修士論文作成 福山 俊
人間科学 修士論文終了までの道のり 矢澤香代子
人間科学 混迷の迷走パズル 山根尚子


「修士論文の提出を終えて」   国際情報専攻  新谷眞瑜

自己紹介
 私は、1945年生れで、56歳、某一部上場の化学メーカーに勤め、輸出入貿易業務に約30年従事し、残り4年で定年を迎えます。東京ヘ来てから、8年単身赴任で、生れは和歌山県です。

本大学院志望理由
 私が、本大学院総合社会情報研究科 国際情報専攻を志望した理由としては、約30年従事して来た輸出入業務のノウハウを何としても修士論文を書き上げ、無事に定年を迎えたく、是非とも一つの仕事のけじめをつけたいと念願していたからです。
        
修士論文のテーマ
 修士論文のテーマは、『国際貿易の実務分析』で、趣旨は下記の通りです。
 「日本において貿易が何故必要か」と問われると、「日本は資源がないから、輸出によって外貨を稼ぐ、そのためにエネルギー資源、工業原材料等を輸入しなければならないからだ」と答える人が多かった。こうした考え方は現在の日本の貿易を考える上で非常に時代遅れである。
 第一に、こうした考え方は、「日本には資源がない」という特殊性を余りにも強調しすぎてしまった。同じような国はほかにも沢山ある。経済にとっての資源は、単なる資源ばかりではない。人的資源、技術資源、資本等多種多様である。「資源があるか、ないか」なのではなく、各国毎に各種の資源を保有している度合いが異なることが貿易を生む、いわゆる国際分業である。
 第二に、「輸入のために輸出が必要だ」という考え方と「輸入は必需的なものであり輸出は促進されるべきもの」というこれらの二つの前提は現在においては正しくない。まず、輸入の内容は、多様であり、必ずしも必需的なものではない。例えばユニクロ・100円ショプ等のように、石油等の必需的な資源よりも、国民生活によりニーズを満たすための製品輸入が増えて来ている。
 現在に日本にとってむしろ輸入を促進することによって国民生活が豊かになり、合わせて世界経済の発展に如何に寄与するかという方向に求められている。
 一方、ここ10年間、国際貿易構造を地域的にとらえると、日本、米国、東南アジアの三極間の貿易が増加傾向にあり、特に東南アジアから米国への輸出の伸びが比較的高くなる等、三極間貿易および多極間貿易で東南アジアの存在感が増している。また、最近では、中国が一つの極となり、国際分業構造を形成している。
 こうした東南アジア域内の貿易構造の変化を直視した上で、国際貿易の実務面でどう変化して入るのかを分析した。
分析方法
 仕事を通じて、業界紙、業界誌、日本経済新聞、日経産業、朝日新聞、化学工業日報、ジェトロ・センサー、月刊ダイヤモンド、等に毎日目を通し、特に業界誌、業界紙の統計資料を集めることに力を注いだ。また、船会社、乙仲、海貨業者と直接会話を持ち、知識を深めて行った。
 また月一回のセミナーについては、事前に小松教授よりご許可を頂き、当日の午前中に個人指導を受け、その度ごとに教授からのご指摘およびご指導の受けた箇所をさらに深く調査し、次回のセミナーまでに準備し、さらに新しい論題の章、節、項目を増量して行き、またご指摘を受け、回を重ね、最終的には約120枚の原稿に達した。
 こうした学業はほ とんど毎土、日、祭日を費やし、連休が重なると大いに捗った。
 
 最後に私の人生は一生勉強だと思っております。この修士論文をベースにしてまた新しい発見をする覚悟です。


「締切りは・遠くに見えて・すぐ近く」   国際情報専攻  情野瑞穂

 私のほかからもきっと多くの修論奮闘記が寄せられていることでしょう。私のがこれから2年となる方、またこれから入学される方にプラスになるとか刺激になるとかは思われませんが、ふーんそういうこともあるかもしれないねぇ程度にお読みいただければ、と思います。
 
 1年の冬期スクーリング。ハッピーアワーで、初の卒業生である先輩が話されていました。「まず書き始めましょう。資料はあとからついてきます」そうか、じゃ、夏にはとりあえず全部書き終えて、そのあとじっくり練り直していこう。かくして、快調なスタートを切ったのでありました。
 テーマはイスラーム。イスラーム世界が概して立ち遅れてしまっているのはなぜか。イスラームが発展を阻害するものなのか。イスラームと経済、発展の関連・構図を明らかにしていこう。そう設定したのは1年の夏頃だった。そうしてどんどん資料を収集し・・・・・しかし肝心要のイスラーム経済の本や論文が見つからない。それでもあちこちの文献検索でそれとおぼしき物を取り出し、ずらぁっと並べて片っ端から斜め読みをし探した。そのうち見つかるであろう、と。
 1年も終わる頃には、意気込みよろしくテーマ設定までと論文の大筋を大体書き出し、序章などの本論の一部となりそうなものをタイプ・アップ。ところが、やっぱりメイン部分の資料がついてこない。中世の帝国時代のものばかり。現代イスラーム経済はあっても“点”で、体系的な良書と判断できたのはたったの1冊だけ。うーむ、これはどうしたものか。
 2年となり、受講した先生からご案内いただき、イスラーム研究の大家、黒田壽郎先生の公開講座を聴講しに行く好機に恵まれた。お取り計らいいただいたお陰で、講演のあと、黒田先生から直接ご教示を頂戴した。先生のひと言は効いた!!!「イスラーム経済はねぇ、難しいねぇ」私がたった1冊見つけた有効なイスラーム経済論の訳をされていたのが黒田先生で、その先生がそうおっしゃるなら、これはもう方向転換しないとダメだ・・・・・すぐ決行、それまでの大分を捨てた。
 2年の夏。とりあえず書き終えようと思っていたのに、実際はテーマ設定ができただけだった。新しいテーマに沿った参考文献をリスト・アップをするために、再度手当たり次第に当たっていくと、ん?これは前に読んだぞ、というものが続出。文献を採択していく作業で、“参考にしない文献リスト”というものを同時に作っておけばよかった・・・・・
 夏のゼミの段階で、お仲間はもう結構書いていた。私はやっと決まったテーマに、不安定なチャプタリングを施した段階。11月のゼミでやっと資料と筋とが固まった。さあ、あとはガンガン書くのみ!!!1年近く前に書いていたものもうまく使って繋げていこう。そうタカをくくっていたら、それはどうもうまくゆかない。文章が流れないのだ。これはもう始めっから書くしかない。大丈夫か?間に合うか?
 平均睡眠時間3時間の毎日が続き、締切り間近は、1日おきに徹夜となった。12月1月はパソコンのトラブルが多いらしい。私の場合は1月13日、最終の印刷をしようとしたところにプリンターが動かなくなり、慌てて父の勤めている会社の助けを借りて終了させた。そこは24時間体制の職場で、土曜日の深夜でも開いていたのである。あわや!という危機を乗り越えて14日、めでたく発送。15日必着の締切りに間に合ったのでした。
 先生方、先輩方、同期の皆さま、応援や手助けを下さった皆さま、本当にありがとうございました。機会がありましたら、後に所沢校舎に置かれることになる私の論文をご覧いただき、感想をお寄せください。これから書かれる皆さん、「為せば成る」ですゾ


「修士論文は如何にして締め括られたか」   国際情報専攻  淺野 章

(略歴)
 人間科学専攻二期生のなかで最高齢。札幌市在住。若い頃から「感謝」とは何か、を考え続けてきた。修士論文の題目は、「スピノザの宗教観――『感謝』の観念を中心として――」。
 
 すべては時間との闘いであった。なんとしても期限には間に合わせたい、少なくともこの点のみでも有終の美を。
 連日連夜これのみと言っても過言ではない執筆作業に追われ最後のページ付けも終えて急遽複写へ。さらに中央郵便局へと急ぐ。地下鉄車中で、追加した最終章「回顧と展望」に、目を走らせらせていると、180ページ目に到って文章が繋がらない。明らかに一ページ欠落している。夜を徹しての作業は機械的となり、一枚別に置いたのを気ずかぬままページ付けを済ませてしまったのだ。札幌駅より引き返しプリントのしなおし。既に14時30分を過ぎている。翌朝配達には間に合わない。自宅近くのスーパーで複写しなおし黒猫宅急エキスプレス便に収集を依頼。せかされるようにして包装を終えて手渡した。
 直後の脱力感の回復とともにこんな情景が彷彿として浮かんだ。記憶は定かでないが光景は鮮やかであった。遠くに焼け落ちるイエナの町の火を望み、陣中のかがり火の間を行き来する兵士の姿を見ながら分厚い原稿を携えて印刷所へと急ぐ一青年についてである。
 あらゆる点で比較にならぬが原稿用紙の束を抱えて心せく様にはどこか似たところがあるようにおもう。同時にすべての論文書物の持っているであろう声なき声を聴く思いがした。


「雨上がり決死隊」   国際情報専攻  橋本信彦

 4月3日、雨。雨だったような気がします。夫婦二人だけの食卓には、春の眩い陽射しが必要だと感じるのは、やはり中年の域に達している、そんな年齢のせいでしょうか。院生も2年目になります。昨年のあの意気込みは、なんと遠くペンタウルス星雲(そのような星雲があるかは定かではありません)の彼方へ遠のき、ただ論文論文と、それこそ子供の言い訳のように、何かといえば鼻を膨らましてブツブツつぶやく私を、当然のように冷たく醒めたキツネ目で妻は見下します。
「あのさ、やはりなんだな。論文はさ、こう、なんていうか、深いものが必要なんだよね」
「浅くてもいいからとにかく書き始めたら」
 妻はもう、それはほんとうにぐったりするほどの的確で容赦ない言葉を私にぶつけます。わたしは、返す言葉を捜す勇気も、意思も、能力さえも失い、ただうつむいて仕事に出かけます。
 6月3日、雨。たぶん雨だったのでしょう。そのころ私は、論文序文の書き出しで、しょっぱなからつまずきました。いえ、全体の構想はですよ、もうとっくに出来上がっていたのです。それはもう、ほれぼれするような構想なのです。しかし私の頭の中の、そのすばらしいほれぼれ構想が、文字となって、キーボードのカタカタ音と共にディスプレイにはなかなか現われません。なにを恥ずかしがっているのでしょうか・・・・・・
 8月3日、雨。とにかく気分は雨なのです。たしかに序文は出来上がりました。終章だって書き上げました。問題はですね、問題は序文と終章の間が、ええ、その間が少しばかり、その広大な構想が仇となって頓挫しています。悪いことは重なるものです。なんと仕事が急に忙しくなりました。え、いえ、仕事が忙しくなるのは悪くなく、急に忙しくなるのが悪いので、だからして忙しく働くことは善であり、すなわち悪は怠けていることで、而して論文は進まず・・・・もうわけわかりません。とにかく言い訳はだめですね。みっともない。
 10月3日、雨。秋の長雨はとうに過ぎ、冬の雨がわたしの小さな胸に刺さります。努力しつつも遅々として進まぬ論文に、大袈裟でなく不整脈がでているのではないかと思うほど打ち震えるこの小さな胸をですよ、非情な雨が打つのです。神よ!
 さて、このころからです。指導教授からのメール文章にキツイ言葉がチラホラとまじりだします。しかし、キツイ文章のなかにも、温情あふれる励ましの言葉がいっぱい。やはりその柔和な顔立ちのごとく精神も優しさであふれているのです。
 12月3日、雨。冬の雨は危険です。その精神の状態で凶器にもなります。指導教授はついにその本性を表し(あの、文の流れからどうしてもこのように書かなければ・・)ついに最後通告。今期の修了はあきらめろとのこと。これには参りました。妻と二人、抱き合って、眠れない夜を何夜重ねたことでしょう。しかし負けられません。ついに私は蘇りました。それからというもの睡眠の5時間以上は非国民とばかり猛然と論文を書き進めます。資料だけは充分に集めていたのです。年末押し迫るイブの夜に、不十分ながらも草稿を提出。私もやるときはやります。
 2月3日、雨。ほんとうに雨。本日は口頭試問、電車を待つ駅のホームで私は空を見上げます。普段はただボーーッとしてあらぬところを見ているだけなのに、今日は空を見上げます。新しい発見をしました。雨は斜めに落ちるのですね。


「『地方都市の情報化と活性化』を書き終えて」   国際情報専攻  三浦 悟

きのうの「夢」

 私は阪神淡路大震災の年の3月に仙台市に転勤しました。
 当時、東北6県にある支店を訪ねるついでに、それぞれの都市の経済動向などを見聞きする機会を得ました。
 バブルがはじけ、景気が後退する「失われた90年代」の真っ只中にある東北各地では、多くの誘致企業が撤退し東南アジアに進出する「産業の空洞化」を招き、街がどんどん衰退していました。
 「この空洞化現象を何らかの形で埋めることができないだろうか?」
 いつの間にかこんなことが頭の片隅に張り付くようになりました。

 財団法人東北産業活性化センターの運営委員を引き受けていたこともあり、「例えば“空洞化を情報で埋める”、なんてことを研究しませんか。」という提案をしていた直後に郡山市へ転勤してしまいました。
 当時の福島民友新聞に「空洞化している市街地をマルチメディアやインターネットを活用して、情報発信の場とし、離れて行った人々を呼び戻し、活気ある市街地にしたい。」と語っている私のインタビュー記事が載っています。(1999年3月13日)
 郡山市に赴任したのを機会に「交通の要衝である郡山を情報流通のかなめにしよう」(同紙)と何かを模索し始めていたのは確かです。
 仕事を通じて、あるいは仕事抜きでの仲間内の議論だけでは満足できず、もっと幅広くきちっと研究したいという思いが大学院へ進学する夢を実現させてくれました。
 作家の星亮一さん、福島県議の望木昌彦さんとともに『熟年三銃士』と呼ばれるきっかけになった福島民報の『日大大学院に合格 熟年パワー見聞拡大』(2000年4月8日)で語った「メディアと都市のかかわりを研究したい」のスタートです。

きょうの「希望」

 “街の空洞化をメディアで埋める”?!

 この話は軽井沢に集まった近藤ゼミの先輩、同期生から奇想天外ととらえられたようです。

 実にいろいろな意見が出ました。曖昧な状態の私に、悩みを増加させる言葉が“これでもか”、“これでもか”と浴びせられました。
 しかし多くの意見がさらに私を刺激し、いろいろなアイディアを軽井沢から持ち帰ることになりました。
 とにかく皆が話してくれたことを整理してみよう。
 もっと資料を集めて調べよう。
 でも、本当に自分が考えているのは何か。何をどうしたいのか。
 月一回のゼミは私に本気で意見を言ってもらえる場所でした。
 苦痛でもあり、楽しみでもあるゼミを区切りにしながら、自分の考えを整理していきました。
 それだけに仕事の都合などで参加できないときは残念でなりません。

 書籍、雑誌、新聞記事そしてインターネットでの情報など資料は次々集まりました。
 良かったのは、郡山市のいろいろな団体に関係していたお陰で、貴重な話を聴く機会や意見交換の場がたくさんあったことです。私自身が講師やテーマを選べる機会もあり、終了後の意見交換も含めて外部の先生方からアイディアをいただくこともできました。

 自分の考えを整理する上で役立ったのは外に向かって発信することでした。
 関係する団体で自分の考えを披瀝すること。
 外部で話をする機会に研究中のアイディアを織り込むこと。
 新聞などの座談会やインタビューの機会でも同様でした。
 人前に立つことが苦手で、口下手にはつらいことでしたが、けっこう良い場でした。
 新聞を読んでメールで意見や激励をくださる方もおりました。

 アイディアは外の刺激で膨らみ、考えは外に向かって発信しながらゼミまでに整理し、ゼミでは仲間の厳しい意見をもらう。
 この繰り返しの中で、私の論文の骨子は出来上がりました。
 問題は文章にすることです。

あすの「現実」

 論文の正本が届いたとの事務課のメールに安心して、机の周りの整理を始めました。
 実にたくさんのコピーがありました。一度しか読まなかったもの。いろいろな色で上書きされたもの。付箋紙がたくさん付いたもの。解読不能なメモ。ゼミに持って行った自分自身の資料にも、近藤先生やゼミ生の意見が書き込まれています。
 あらためて悪戦苦闘のプロセスが見えてきました。
 漠然としていた考えを何とか具体化しようとしている姿。
 進んでは後退し、右に振れては左を向く、どうしようもない様子。
 ついには投げ出してしまいそうなスランプ状態。
 これらを乗り越えることができたのは、「三浦さん、がんばっている。」とさりげなく声をかけてくれた知人や友人、そして家族の協力だと思います。
 そうしたことを思い出させるように、文章化した資料は日ごとに枚数が増えていきます。
 資料を整理しながら、あらためて「できたんだ」という満足感があふれてきました。
 
「何が不可能」だろうか?

 論文が出来上がり、満足感は得たものの、まだ達成感がありません。
 「街の空洞化をメディアで埋める」という曖昧だったものが「地方都市の情報化と活性化〜空洞化する地方都市再生への提言〜」に育ちました。
 これは郡山市の行政ネットワークを市民、企業共用のバックボーン・ネットワークにして情報を発信し、それを消費する人を街に集める、そして新たな情報を生産しようとするシナリオです。
 3年前の福島民友新聞で「交通の要衝である郡山を今度は情報流通の要衝にしよう」と語っていたことの絵を描いたことになります。

 問題はこれを実現できるかどうかです。相当のエネルギーが必要です。
 私は「きのうの夢は、きょうの希望となり、あすには現実となってしまうので、何が不可能か言うことはできない。」という言葉が好きです。
 誰がどのようなときに話した言葉かは知りません。

 この2年間、いろいろありましたが、私の夢はひとまず実現しました。
 次はこれを現実の都市で実現させるための挑戦です。
 それが実現したとき、本当の達成感が得られると確信しています。まだまだハードルは高いのです。


「―少し早めの大学院生活の感想と妻への言い訳―」  国際情報専攻  村上恒夫

 修士論文が一向に進まない。嫌になる。いったいどうしたことなのだろう?最初の計画だと、もう今ごろは左団扇でふんぞり返っているところだ。今日までの大学院生活を振り返って、何がいけなかったのか考えてみよう。今のうちに嫁さんへ言い訳を考えておかなければならないのだ。
 入学試験の面接で、指導教授の乾先生から質問されたことを思い出す。「仕事をやりながら修士論文を書くことできますか」、当然のごとく私は答えた、「年度末は忙しいですが、それを外すと自由な時間が作れます」。入学したいが為の方便ではなかった。事実それまでは、夏場などは2ヶ月くらい自由な時間が取れていた。しかし、ここ2年くらいは1年を通して慢性的に多忙である。不況なので、暇になっても良いはずなのだが。
 仕事が多忙な理由を考えてみたら、やはり不況が原因だった。好景気な時には大きなコンピュータシステムの発注が多く、それも新規に作成するので非常に作成しやすい。通常6ヶ月くらいかかるシステムでも、同じようなシステムを手がけているので、物作り(プログラミング)は1ヶ月もあれば十分できる。後は書類書きと打ち合わせで1ヶ月かかるだけだ。それが不況の今、新規の大システムは無くなり、既設のシステムの細かい改造が多くなった。これがけっこう大変な作業なのだ。数万行あるプログラムのうち、数百行手直しするのだが、現に今稼動しているシステムを止めるわけにもいかず、細心の注意を必要とする。このような仕事は月に2本が限界で、3本あったらもう家には帰れないし、土日も無い。苦労が多い割には、新規システムと違い、金離れが悪く儲からない。やはり、修士論文が進んでいないのは不況が原因の一端であることはわかった。
 仕事が多忙という以外に、課外活動に力を入れたのも原因かもしれない。歴史研究会、時事問題研究会など、いろいろやった。この電子マガジンにも毎回投稿した。研修旅行で台湾にも行った。課外活動などせずに、この力を修士論文に振り向けていれば、今ごろは。。。。。。。。。非常につまらない大学院生活を送っていただろう(少し言い過ぎの感有り)。
 そもそも社会人の大学院生は何を習得すれば良いのだろうか。勿論、修士の呼称に恥ずかしくない論文を書き上げることなのだろう。しかし、これだけではあるまい。いや、むしろ論文以上の目的があるのではないだろうか(これも少し言い過ぎですね)。それは考える手法を学び取ることである。そして、仲間を作りお互いに切磋琢磨する環境を維持し、考えることを継続していくことではないだろうか。つまり、卒業しても絶えず問題意識をもち考え続ける人間になることが一番重要なのではないだろうか。
 そのためには、卒業しても参加できるゼミ、研究会、そして電子マガジンなどが重要な意味を持つことになる。そしてこれらは各人が積極的に関わっていかないと、霧散してしまうことになりはしないだろうか。これらの運営が活気あるものとして維持運営されることこそが、生涯教育の当事者として関わった我々の責務と言えないだろうか。
 
 しかしどう格好つけても修士号が欲しい、ああ頑張らないと。
 
 (原稿執筆日 2001年11月)
 
  2002年2月現在、修士論文の提出、面接試問も終えた。
 2年間の大学院生活で徹夜した回数26回、交わしたメールの数1000通を越した。
 そして、親しくなった人の数は多数――最高の宝物。
 本当に楽しく、充実した2年間でした。
 みなさん、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。
 



「修士論文はパソコンとの格闘の中から」   文化情報専攻  竹村 茂

(略歴)
 聾学校の教員です。手話の魅力にはまり、手話を研究しています。日本で初めて手の形から手話の意味を調べる『手話・日本語大辞典』を出しました。その理論的根拠を確かめるために修士論文を書きました。

修士論文テーマ:「手話言語における語彙構造の解明」
 
 修士論文では、手話という特殊な分野を扱いました。その話は専門的になりすぎると思いますので、みなさんの参考になるように、パソコン奮戦記でまとめました。
 この大学院はインターネットを使った通信制ですが、その基本にあるのはパソコンを如何に効率的に使って、勉強を進めるかだと思います。
 自分の大学生時代の勉強法と、今、息子も大学生ですが、今の大学生の勉強法はまったく違うと思います。それはパソコンの活用です。
 本棚一つを占領してしまう大百科事典が、今はパソコンのハードディスクの中に収まってしまう時代です。私のパソコンにも、平凡社の世界大百科事典とMicrosoft社のエンカルタ総合百科事典が入っています。レポートを書くのに大変重宝しました。もちろんインターネットからもいろいろな情報を仕入れましたが、インターネットの場合、情報の信頼性を吟味する必要があります。これらの百科事典は信頼性があり安心して使えます。
 そのお陰という訳ではないでしょうが、2年生になったときに古田奨学金をもらうことができました。優等生という経験がない人なので、びっくりしました。この大学院では、嫌いな理科系の勉強をしなくてよい、テストはなくレポートだけというのが幸いしたようです。
 奨学金は、夏休み、8月末のアメリカ合衆国旅行に使わせていただきました。家族そろって貴重な異文化体験をして来ましたが、訪れたワシントンのペンタゴン、ニューヨークの世界貿易センタービルが、わずか10日後に同時多発テロにあい崩壊しました。衝撃的な体験です。
 
1.イラストを切り出す 
 修士論文を作成する第1歩は『手話・日本語大辞典』の手話のイラストを一つひとつに切り離すことから始まりました。『手話・日本語大辞典』の手話のイラストはホン・ジョンさんというプロのイラストレーターに描いていただいたものです。MacintoshのIllustratorというソフトで作成してあり、10個のイラストが1つのファイルになっていました。これでは分析に不便ということで、ファイルをWindows用に変換したから、1つにイラストを1つのファイルに切り出して行きました。
 IllustratorのファイルはそのままではWordで扱えません。またIllustratorで読み込んで、Wordで扱えるbmp形式に変換して保存するという作業を3000回と繰り返しました。レポートを書く傍ら、この変換の仕事だけで1年が終わってしまったような気がします。そのおかげで、修士論文はイラストをたくさん使い、手話を知らない人にもわかりやすく書くことができたと思います。
 
2.Wordと格闘する
 この大学院はWordを使用することになっています。しかし、ずっと使って来たワープロソフトは一太郎、使い勝手がまったく違います。修士論文を書くのはWordとの格闘でした。頭の中の一太郎を捨てて、Word流の考え方に切り替えないと、レポートひとつ書けません。IMEは最後までATOKを使いましたが、修士論文が書き上がる頃にはひとかどのWord通になりました。
 
3.バックアップに気を使う 
 データのバックアップには気を使いました。2枚のMOに交互にバックアップするのを基本としましたが、別のパソコンのハードディスクにも時々バックアップしました。しかし、MOもハードディスクも電磁的な媒体であるということは同じです。いつ壊れるか分かりません。確認のために印刷したものも、いざというときはOCRがある!というので、次に同じところの印刷が終わるまで、シュレッダーには入れませんでした。最後はCD-Rにまでバックアップをとりましたが、少し病的かな?
 
4.スキャナは大活躍 
 今はスキャナはだいぶ安くなっているので、私は図やイラストは使わないという人にも「OCR」は絶対のお勧めです。レポートも楽になります。OCRとは、optical character reader の略で、紙に書かれた文字を読み取り、コンピューター上で自由に編集加工できる文字データに変換する機能です。
 参考文献を引用するときは、ほとんどOCRを使いました。キーボードで入力するのより速くなるかどうかは保証の限りではありませんが、気分転換にはなります。
 
5.発音記号を外字でせっせと作りましたが……
 手話言語を音声言語の音韻論から考察するというのが重要なテーマだったので、発音記号を外字でせっせと作りました。比較言語学のレポートでも使ったのですが、外字はその外字ファイルのあるパソコンでないと表示・印刷できないということに気が付いて愕然としました。
 大学院のレポート提出システムで提出して確認する、といっても自分のパソコンで確認するのですから、外字で作った発音記号も正しく表示されます。そんな外字は作ってない息子のパソコンを借りて確認すると外字の部分は「・」になっています。こちらの目も点になります。
 ところが最近のWindowsはUnicodeに対応しているので、発音記号が表示できることに気づきました。(でもホームページでは表示できません。)
【MS-IME2000】の場合
  IMEパッドを起動 → 1行目、一番左側で「文字一覧」を選択 → 2行目、一番左側で「Unicode」を選択 → 「Unicode」の右側で「IPA拡張」を選択 (フォントは「MS明朝」や「MSゴシック」などで表示されます。)
【ATOK14】の場合
  文字パレットで Unicode表 → IPA拡張 を選んぶ。 フォントは 「MS明朝」や「MSゴシック」「MS P 明朝」を指定する。
 それでも、どうして表記できない発音記号がひとつありましたが、ふりがな機能でなんとかそれらしく見せて、外字を使わずに修士論文を仕上げることができました。大学院に提出したCD−RからWordで印刷しても、きちんと発音記号が印刷できるはずです。
 
 修士論文は、手話のイラストを多数使ったので、A4で200枚を超えました。印刷はレザープリンタですが、審査用の3部を印刷するのにとても気を使いました。レポートも修士論文もできればインクジェットプリンタよりレザープリンタの方が快適できれいです。A4の個人用ならインクジェットプリンタより少し高いくらいのお値段で買えますから、お勧めです。
 さて、200枚を超えてしまうと、市販のバインダーでは読みにくい、ワシントンにあったキンコーズ(kinko's)が日本にもあるというので、インターネットで探してhttp://www.kinkos.co.jp/)、、200枚×4(提出用3+自分用1)を抱えて上野まで行きました。2時間程待つと、1冊わずか300円で製本をしてくれます。せっかく書いた修士論文、読みやすく読んでもらうためには絶対のお勧めです。


「「時間」との戦い、否「自分」との戦い」   人間科学専攻  伊藤ちぢ代

 思い起こせば2年前、正月明けの日本経済新聞夕刊の「日本大学通信制大学院」学生募集の公告に目がとまった。その瞬間に、「これだ」と思い始めていた。しかし、現実には日常の仕事に追われ、母親としての役割はもちろん家族の健康に気を遣うゆとりすらない現状であった。
 通信制で学ぶことは、当然、現在の役割を継続した上で新たに院生として許されて、その機会を生かすことである。そして、何よりも最高学府での学びが主体的なもので成り立つことは言うまでもないことである。現実と希望に葛藤があり、2月を迎えた。もう今年は無理であろうと迷いながら、家族に協力を求めた。「これ以上忙しくなって、どうしてそこまで」と反対されることは予測できた。ところが、賛成と共に激励を得ることができた。募集要項を取り寄せ、締め切りまで仕事の傍らで必死に奔走した。それは2年間を予告するめまぐるしさであった。
 
 修士論文を書くにあたって、先ず十分に自覚しなければならないことは、誰のためでもなく、自分自身のために書くということである。論文は自ら問題を設定し、展開し、処置するのがすべて自分にまかせられているということである。とても魅力のあることである。と同時に、困ったことに誰もが一度は思うように、自由はしばしば不安の源でもある。この不安はどうしようという問いとと共につきまとうのである。
 そこで心強いのがゼミの指導教授と仲間であった。佐々木先生には自分が何を書きたいのか、何を書こうとしているのかどの時代に立っているのか、どのような立場で論じる必要があるのかを明らかにできるように、辛抱強く指導していただいた。そして、もうこれ以上書けないと思っているときに、仲間に視点を変えてこういうところが書けているのではないかと励まされた。
 そして、最終追い込みの10月のゼミから12月の修論最終確認まで全く書けなくなってしまったのである。それでも、日に日に時間は過ぎていった。仕事は忙しくて、それでも毎晩机に向かった。佐々木先生から「三木の論理にのれば、後はひとりでに手が動いて書ける。」とアドバイスをしていただいていた。その言葉の意味を考えた。私の三木への迫り方はどうか。三木の思想の何を理解しているのか。いったい修論とはなにか、私は何を書こうとしているのか、そういったことをここで休みながら考えたのである。
 私は「三木の論理」が自分のものになっていなかったことを痛感した。そして、見えてきた。三木の緻密な思考や現実への対峙、凄いと改めて圧倒された。
 そこから本当の奮戦が始まった。資料を一から読み直し、これまでのメモノートを見直した。三木の論理の展開がどう組み立てられているのかを三木の世界の中から理解しようと迫った。今までは時代の流れの中で、言わば外から迫っていたのであった。この時、世間ではクリスマスを迎えていた。そして、年末年始にかけて、兎に角、書きつづけた。ここで来年に延ばしては、この現実から逃げることになる。この時点でできることは精一杯しておこう。そして、もう一度、来年になったらそれでいい。後悔しないように、今何ができるか書きつづけることであった。その時、書くことは生きていると実感することであった。書くことが苦しかったからである。
 
 この取り組みに対して、佐々木先生よりぎりぎりまで丁寧なコメントをいただいた。それがまた励みになって書けるところまで書きつづけることができたのである。
 修士論文に対して如何に奮戦したかと自分に問えば、「時間」との戦いと同時に「自分」との戦いであったと言うことができる。
 この現実は苦しかったと言うより、今はこの機会があったことにとても感謝している。

「悪戦苦闘のドッキュメント(※1)
   人間科学専攻 小坂ゼミ三羽鳥(※2):尾ア道江・濱田純子・吉田里美

序章  日本語なのにわからない
 私たちの指導教授、小坂國繼先生は、西田哲学の研究者である。ここだけの話、三羽烏は入学するまで西田幾多郎という哲学者のことをほとんど知らなかった。先生の話を通して興味をもち、いざ、ゼミの読書会で西田の『私と汝』という論文を読み始めてみたものの・・・これ、確かに日本語のはずだけど・・・

道:論文のテーマを看護における人間関係について学問的に考察したいと漠然と考えていた頃、小坂先生から、西田の「私と汝」と「生の哲学について」を繰り返し読むことを薦められた。まずは原典から、と『西田幾多郎全集』を繙いた。ところが漢字が読めない。辞書で調べて読み始めても今度は、意味が分からない。「時は永遠の今の中に回転する」「私の底に汝があり、汝の底に私がある」「非連続の連続」・・・数え上げればきりがない。とりあえず分からないところは飛ばして読もうとすると、あっという間に最後になってしまう。しかたがないので1行ずつノートにとって自分なりの解釈を試みたが進まない。先生からは、「まだ、君と僕の立場から見ているんですよ・・・分からないことはどんなことでもいいですから聞いて下さい」と繰り返し声をかけては頂いたが、しかし疑問そのものが疑問だった。こうして私の悪戦苦闘の修士論文が始まった。

純:大学院入学時には、あるドイツの思想家について研究しようと思っていた私。修士レヴェルでは、その思想家の原典を読みこなす必要があるということを知り、ドイツ語の全くできない私は、ショックを受ける。そして、西田哲学に造詣の深い小坂先生やゼミ生の方々の影響を受けて、いつしか西田哲学を論文のテーマとして意識するようになった。ドイツ語と違って日本語なのだから、西田哲学初心者の私でも、なんとかなるかしらと思ったのが甘かった。暫くして西田の論文を理解するには、外国語を一つマスターするくらいのエネルギーを要する!ということに気づかされるのである。

里:最初、「キタロウ」を「イクタロウ」と読んでいた私。小坂先生が開口一番「西田哲学は難しいです。これは、どうしようもない。難しいんですよ」とおっしゃったことの意味は、すぐにわかった。・・・何だか、すごそうだけど、スゴスギル・・・何はともあれ、漢和辞典を買うところから始めなければならなかった。読書会に参加してもなかなか理解が進まない。お姉様たちの苦労を聞くたび、西田哲学を論文テーマに選ばなかったことを心から喜んだ。しかし、正直なところ、西田を雄弁に語れるようになっていく姉達を見て、羨ましく思っている。これから、2人に教えてもらいながら(ちゃっかり!)私もなんとか深い話についていけるようになっていきたいと思う。

第1章 何てすごいの、小坂ゼミ
 「すごいよね」、「ね〜え」、「ホントに」。何がすごい? 小坂先生がすごい。そのやさしさと、とことん丁寧な指導(忍耐力含む)がすごい。それに、なにやら、すごい学者らしい。NHKラジオ講座の講師も務められるという。何も知らずに偶然小坂ゼミに入った三羽烏は、自分達の幸運をいつも話題にせずにいられない。
 そして、一期生の先輩がこれまたすごい。先生をその気にさせ、月1回の研究会兼読書会開催や、『眼睛』(小坂ゼミ有志による小冊子)の発行まで、ささっと実現させてしまう積極的実力派揃いである。我等二期生は、入学当初からその研究会に参加させていただき、一期生のフロンティア精神の恩恵を享受した。二期生の中にも、先生とのやり取りやその一言一言がいつも三羽烏を唸らせるツワモノがいたりして、同期生からも多くのことを教わった(同期生といっても、さすがは通信制大学院。いろんな経歴の持ち主が集まっているのである)。さらに二年次には三期生にも見守られ、励まされたのであった。 
道:「私と汝」が理解できず、途方に暮れた私は、小坂先生のラジオ講座のテープを繰り返し聞き、(『NHK こころをよむ、西田幾多郎の思想』)幸いにも開催された読書会にせっせと出かけた。そして迎えた二回目の軽井沢の夏季合宿。この段階でもまだ方向性は確定してはいなかった。そんな私に対して、先生は諦めずに付き合って下さった。やっと方向が見えて来た時、既に消灯時間は、過ぎていた。私に予定されていた時間も遥かに過ぎていた。部屋に戻ると、三羽烏の次女・末娘は、とても心配してくれて、皆で噂をしていたのよと言った。「きっと、先生と一字一句検討しているんだよ・・・」一字一句どころか、私の修士論文は、紆余曲折を極めた。8月11日(土)の軽井沢の夜のことであった。

第2章  テーマが決まらない 

さて、修士論文の構想を具体的に練り始めた三羽烏。しかし肝心のテーマがなかなか決まらない。あっちへウロウロ、こっちへウロウロ。目先はキョロキョロ。本人達はオロオロ。先生はハラハラ・・・

道:これがあの軽井沢の夜・・・

純:私の場合、西田哲学で論文を書こうと思ってから、西田哲学を学びはじめたので、テーマを決定するには必然的にかなりの時間を要した。プラス自分でも呆れるほど呑気な性格も禍して、最終的にテーマが定まったのは、なんと2年の夏合宿の頃。論文提出まであと半年…という時期であった。三羽烏のしっかり者でいつも引っ張ってくれるお姉さん、コツコツ努力型で着実に先を行く妹の後ろ姿を追いかけながら、まだ飛び立てずにヨタヨタ歩いている次女であった。

里:入学当初の身のほど知らずの壮大なテーマは、現実の壁にぶつかって、見るも無残に変形し、炸裂し、破片となってコロリコロリと転がっていった。章と節の構成を考える作業は、まるで福笑いのよう。お願い、何とか落ち着くところに落ち着いて! せめて、ぱっと見だけでも! 二転三転、四転コテン(アイタタタ・・・)、ロクに進まず七転八倒。目次は最後の最後まで書き換え続けられ、当初の予定はどこへやら。いつしかとり上げるテーマは半分だけに・・・

第3章  書けない

 いざ、「修士レヴェルの論文」目指して、おっかなびっくり書きはじめてはみたものの・・・

道:高くて厚い壁でした・・・やっと一章を書き終わって、やれやれとしたのもつかの間、次から次へと待ち受けるのは、まるでジャンダルムのようなさらに高い壁でした。この壁にとりついてしまったら、もう後には戻れません・・・西田哲学が頭の中を駆け巡って、寝ても覚めても西田哲学。

純:本を読むのも、理解するのもトロかったが、それを自分の言葉で書くという段階で、トロさは加速度を増していった。この頃、家の隣にコンビニがOPENして、書けないストレス→夜食を買いにコンビニへ・・・という行動がすっかり定着してしまう。友人曰く、「身を削って論文を書くというのは聞いたことあるけど・・・まるまるとしていくのは何故?」着実に増えていくのは、論文の枚数ではなく体重のみであった。

里:私も、「やめられない・とまらない」と、おやつの回数が異常に増えた。そして弱虫末っ子のもう一つのストレス解消法は、姉達を巻き込む愚痴&弱気メール連発作戦であった。「焦っています(内容、愚痴のみです)」「またもや・・・毎度毎度の計画倒れ」「私、進みません。どうしたものか・・・」「不安で心にも北風ビュービュー」・・・

第4章  時間が足りない

  一年次はリポート4科目から5科目をこなすのに精一杯で、修論は棚上げにせざるを得なかった三羽烏。論文に時間がかかることは、わかっちゃぁいたけれど、いかんともし難いこの事実。スタートが出遅れ、途中でくたびれ、ゴール間近になってよれよれ。11月あたりからはさすがに皆弱気になり・・・

道:留年の2文字が駆け巡って・・・中途半端で提出するのなら修了延ばしてもいいかな・・・延ばしても書けるとも限らないし・・・

純:このままでは、9月卒業かなぁ。でも、学費と増えつづける体重のことを考えると、この生活から早く抜け出したい・・・少しは飛べるようになったものの、重い身体での低空飛行。落ちたくないと羽をばたつかせ、必死にもがく次女であった。

里:提出期限まで、後何日? 指折り数えて確かめる日々。何度数えても、増えるはずもなく・・・。しかし、折れる指の数は確実に減っていったのであった。残ったのは、意味もなく指を折って数える癖だけ。

第5章  今だけよ、今だけ、もう直ぐ終わるから  

 修士論文の奮闘騒動に巻き込まれてしまった家族は、それはまあ、お気の毒。いや、ごめんなさい、すみません。もうちょっと我慢してね、ありがと、ほんとにありがとう!!
道:「さあ、頑張らなくちゃ!」週末だけ書いていた私も、さすがに11月〜12月になってくるとそうもいかず、仕事から帰宅すると直ぐに、パソコンに向かった。夕食後の家族団欒の私の家族は、急にそわそわとして、それぞれが自室にこもった。そのうちに娘に「今度言ったら罰金ね」と言われた。どうして罰金なんだろう。数日してから、主人の言葉で罰金の意味がやっと分かった。主人曰く「黙って始めればいいだろう。まるで俺が何かやらなければいけないような気がする。ここのところずっと追い立てられているようだ・・・」

純:家の中は、ひっちゃかめっちゃか。手抜き料理の並ぶ日々。・・・家族には、本当に迷惑をかけてしまった。でも、論文の事で頭がいっぱいになると、家事が何もできなくなるという体験から、仕事人間の夫のことも少しは理解できるようになったのは収穫かな。夫は、「書けない、書けない。」とブツブツ言う私を随分励ましてくれた。また、小3の息子は、私にうるさく干渉されず、のびのび遊べて良かったかもしれない。

里:大きめの本棚を買ったはずなのに・・・。可視床面積は小さくなり、部屋は徐々に狭くなっていった。床にびっしり、整然と並べられた本。その本の山には色とりどりの付箋の花が咲いていた。当初は、家事の合間をぬって、夫に知られない程度にこっそり勉強するはずであったが、結婚しても私の不器用さは変らなかった。いつしか家事は二の次になり、クリスマスあたりからは、論文のこと以外、何もかもが開店休業。お正月は、義母の作ってくれたおせちでしのいだ。妙なことをやっていると承知の上で、家族は見守り、助けてくれた。差し入れもいっぱい届いた。嬉しかった。グスン。

終章  とにかく出しちゃった!

  まだ、充分じゃない、このままじゃあ提出したくはないけれど、けど、でも・・・。提出期限は容赦なくやってきた。ひとりでは不安なので、三羽烏はアタフタと電話で声を掛け合い、エイ、ヤ!の勢いで論文を提出してしまったのであった。
  着実な計画性と「創造性」で勝負した者、土壇場の底力による驚異的スピードで勝負した者、とにもかくにも論文の量と脚注の多さで勝負した者など、それぞれに個性が出たようである。

道:指折り待っていた年末年始の長期休暇。こんなに休みが嬉しいとは小学生以来?これで論文が完成できるかなぁ。周囲の慌しさを全く無視して、自室に篭もった私の耳に聞こえてくるのは、三人の娘達のため息。そして、主人の言葉。「早く提出しなさいよ。出してしまえば諦めもつくだろう・・・」

純:小学校が冬休みに入ると同時に息子を実家に預け、年末年始西田の論文と格闘する。今まで呑気にしていたことを後悔しても、もう遅い。内容はともかく、論文の形式だけでも整えて提出しなくては・・・。十数年前、自動車教習所で受けた性格診断のことをふと思い出した。「あなたは普段おっとりしているくせに、パニック状態になると、とんでもないスピード事故を起こすようなところがあります。」・・・ぎりぎりになって、慌てふためいて、とにかく論文提出したものの、とんでもない事故を起こして撃沈?という恐怖は拭えない・・・。

里:激務や子育てを抱えるお姉様達に比べて、時間的には私が一番恵まれていたが、肝心の最後の提出期限に関しては一番不利。大阪に住んでいるので、締め切り前日に宅急便で送らなければならなかった。後一日あれば、ひょっとしたら結論がもっと良くなったかも・・・ウジウジしていると、飛んできたのは「2年もあったんやから、もっと早くしあげられへんのか」という我が家の外野の声。はい、おっしゃるとおりです。

  とにかく終わった。今は、安堵感の中にも一抹の寂しさをかかえ、旅立ちの春を待つ三羽烏達である。最後に、このようなドタバタを暖かく見守って下さった小坂先生、ゼミの皆様、家族の皆様に、そして、辛い時期、共に励ましあい助け合った三羽烏の友情に感謝の意を表して、この「悪戦苦闘のドッキュメント」、幕を閉じることにする。

補論  本にまつわるホンとの話(・・・本論?)
(吉田家・夫の日記より抜粋)
1.4月△日 妻が論文を書くのに参考文献がいるという。結婚当初、家の中がかたづかないから、本は実家に置いておこうと決めたのだが、この前、妻の実家に行って私が見たものは、ダンボールに入れられた本やノートの山。義父母、義妹に申し訳なく思っていた私は、妻に「少しなら、こっちへ本をもってきたらいいじゃない」と言ってしまった。その日から、毎日のように少しずつ、しかし確実に我が家の本は増えていった。そして、今では、我が家の本棚の95%は妻の本が占拠している。のこりの5%は、新婚旅行で妻が買った、妻曰く「私達の本」である。(ちなみに私の本はダンボールに詰められた)
2.6月□日 今日買い物にでかけた。帰りのリュックは妻の買った数冊の分厚い本でかなり重くなっていた。駅から家まで歩いて帰る途中で、雨が降り出してきた。私が慌てて傘をさすと、妻は私の傘を後ろからグイとひっぱって「もっとうまくささないと、リュックが濡れるわよ」と言い放った。私が「リュックに雨がかからないようにすると、俺が濡れるだろう」と抗議すると、妻は真顔で即座に答えた。「あなたは、帰って拭けばいいけど、本が濡れるとこまるでしょ」。私は言葉を失って立ち尽くしてしまった。
3.9月×日 今日誤ってお茶をひっくり返してしまった。私が雑巾で床を拭いていると、血相をかえた妻が飛んできて、泣きながら本を拭いていた。びっくりした。(台所に本があることも不思議だが)
4. 12月○日 私は常々不思議に思っていることがある。それは、妻の読んでいる本には、付箋が多すぎることだ。普通、付箋は重要なページにつけるものだろうが、妻の読んでいる本は、まるでハリネズミのようである。「そんなに貼っては意味ないんじゃないの」と問い掛けると「どこが重要か考えている時間がないので、とりあえず貼っているのよ」と怒られた。どこが重要かわからないならなぜ付箋をつけるのか、妻の行動はどうしても理解できない。同じ本を何度も読み返している妻をみて、付箋をつけなければ図書館ですぐ本をかえせるのにと思わずにはいられない。

以上、これは吉田家のうそのような本との話である。
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※1 このタイトルは、西田幾多郎が著書『自覚に於ける直観と反省』の序の中で、「此書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである」と述べていることにあやかってつけられたものである。

※2 三羽烏とは、私達の敬愛する小坂先生による呼称である。烏というのはちょっぴり不満(?)でもあり、白鳥にして、などと大胆な意見を述べる者もいる。巷では、「三バカ烏の間違いではないか」と言う声も・・・。いつか白鳥になれるまで、と、手を取り合って励ましあい、頑張っている3人組、という辺りが妥当な定義であろうか。


「感謝、達成感、そして反省の今日この頃」   人間科学専攻  川原律子

(略歴)都内某心療内科にて臨床心理の仕事をしている。
 私の修論テーマは「コラージュ作品に見られる人物の表情表現に関する研究「表情スケール」制作の試み ―心理テスト「EPPS性格検査」との関連による― というものです。心理療法の一技法に、コラージュ療法というものがあります。これは、雑誌やパンフレットの切抜きを画用紙に貼り付けて作品を制作するものです。言葉での表現とは異なった、心の中からの表現が作品となって表されるのですが、この作品をどのように理解したらよいのか、また、制作者の状況をどのように理解したらよいのかという点につい現在は研究段階にあります。そこで、人物の表情をスケール化した「表情スケール」を制作することにより、コラージュ作品の理解・評価・解釈と制作者の心性を理解する一助としようというのが、本研究の目的です。
 おかげさまで何とか研究を終えることが出来ましたが、修論制作にあたり自己の反省を基に、気になりました点を以下のようにまとめました。

1.データ収集は早めにスタートする
 研究の内容は、すでに決まっておりました通り実施することとしましたので、1年目からデータ収集を始めました。私の研究では、コラージュ作品と、心理検査の施行が同時に出来ることが1つの条件となっておりましたので、臨床場面でこの条件が可能な症例に限りがあることが問題でした。私の勤務する心療内科と、他科のクライエント、および対象群としての非受診者などデータ数を確保することに時間を費やしました。ぎりぎりまで収集しつづけましたが、集めたデータの中には今回は使えないデータも含まれており、充分な対象数とはなりませんでした。従って、収集はなるべく早くスタートすることと、対象数は予定例数の20%位は多めに設定することが必要と考えます。

2.統計の知識が重要
 データが揃ってようやく研究本番となった時、統計についての知識不足を実感しました。これまで専門的な統計学を学んだことが無く、最低限必要な知識をあらためて学びながら進める研究は失敗の連続でした。計算結果だけでなく、散布図で見ないといけないとご注意を頂いていたにも関わらず、やっと得られた相関係数に基本的ミスを発見し、嘉部教授にお詫びを申し上げた時には血の気が引いて行くようでした。これは私の知識不足によるものではありますが、出来ましたら統計の科目を設けて頂けることを大学サイドにお願いしたいと思いました。

3.統計ソフトについて
 大学から貸与されているコンピュータにはエクセルが入っていますが、統計処理を行うには充分なソフトとは言えませんでした。バージョンアップを試みましたが私のPC本体が不安定なためか上手くいかず、結局SPSSを入手し乗り切りました。これも締め切り間近になりようやく入手出来たもので、エクセルからデータを入力し直すなど時間がかかってしまいました。個人でこのようなソフトを入手することは大変困難ですので、使用期限付きであっても、貸与されることが可能でしたら皆さんも助かったのではないでしょうか。

 以上思いつくままに並べましたが、どれも実感した事柄です。
 それでも、なんとかここまでたどり着きましたのは、本当にお世話をお掛けいたしました嘉部教授、レポートでお世話になりました諸先生方、2年間サポートしてくださった事務局の皆さん、そして共に励まし合い、ご意見をくださった嘉部ゼミの皆さんのおかげです。ここに、心より御礼申し上げます。

 


「論文悪戦記メモ」   人間科学専攻  笹沼正典

(第一の戦い)
 社会人であるが故の、時間と気持ちのゆとりを勝ち取る戦いがある。話は一昨年の12月に始まる。私は出向先のB社社長に「生半な気持ちでは修士論文は取組めない。ついては、修士論文を仕上げるために、修士課程2年目を迎える来年4月から1カ年間休職をしたい。それが無理であれば3月末をもって退職でも結構である」と申し入れた。私にとって、これはキャリアの節目における大きな決断であった。34年間勤続したA社(出向元)の人事サイドとの遣り取りの末、結局私は一端A社を退職し、改めてB社に再雇用してもらうこととなったのだが、その時の雇用契約は次のような前例のないものである。<週のうち、出社日は2日のみ、SOHO(といっても自宅のこと)勤務が2日、残り1日はフリーとする。> 即ち、経済的損失を代償として、より重要な価値を有すると判断された時間を購ったのである。
 かくして私は、新しい2足の草鞋の体勢を作ることが出来たことによって、修士論文を仕上げるための最大の障害を現実的に取り除くことが出来るであろうと確信したのである。

(第二の戦い)
 文系の出の私にとって、統計の理論と手法ほど縁遠い領域はない。ところが、論文のテーマは中高年キャリアに関する“実証的”アプローチを謳っている。データを収集し、因子分析や相関分析を施し、統計的結果を解釈しなければならない。私は、手がかりを求めてあちこちと彷徨うことになる。先ず、因子分析に関するWeb情報を漁る。Web上で知った幾つかの無料ソフトを試してみるが失敗する。統計関係の本を数冊買い込む。では、Excelによる多変量解析はどうか。これも上手くいかない。厚かましく、先輩研究者のアドバイスを求める。結局、こうした回り道をして、SPSSに辿り付いた。統計処理の試行錯誤の旅は、論文の完成間際まで続くことになる。
 私は、大学院当局に、修士課程1年目の選択的な基礎研修コースとして、是非「基礎統計の理論と手法」を開講していただくことをお願いしたい。

(第三の戦い)
 寧ろ修士課程2年目に入ってからが、計画した通りには進捗していない論文作成作業の道筋が一向に見えてこない不安や自分に対する懐疑との戦いとなる。そこには、必要な文献が入手できない苛立ち、論文の構成が揺らいでくる動揺、未完成で時間切れになることへの恐怖なども沸沸と沸いてくる。今回の私は、幾人かの先輩研究者の研究室をお尋ねしたり、e-mailの交換でご教授を願ったりしたことによって、論文とその作成の道筋が見えてきた喜びを味わうことが出来た。これを可能としたのは、私が予め先行研究者についての情報あるいは人脈をある程度もっていたからである。後続の皆さんには、望むべくは論文計画の段階でこの点の見通しを検討しておくことの重要性を強調したいと思う。

(かくして)
 昨年4月末の実父の死や8月末のぎっくり腰(今も治療中)に見舞われながらも、辛うじて修士論文が成立しえたのは、これらの3つの戦線における悪戦苦闘の結果であると言ってよい。最大の支援者は、妻であったことは言うまでもない。


「修士論文を書き終えて」   人間科学専攻  清宮節子

 この寄稿を書き始め、題の中の「書き」を入力しようとしたところ何度も「欠き」と入力してしまい、やはり、修士論文がまだまだ「欠く」ことが多い不十分なものだったのを象徴しているのかなと改めて思いました。
 
 私がこの修士課程を志したのは、本当に偶然でした。たまたま新聞記事を見た夫が勧めてくれたのです(しかも締め切りぎりぎりでした)。しかし、このような勉強の機会を無意識に待っていたのではないかと思います。
 私は、保健婦として10年以上の経験を積んできた中で三度の転職を経験しました。その職場ごとに仕事や職場の同僚から得た多くの経験は、自分を成長させるのに十分役立つものでしたが、実際の仕事から得られるものは、雑多な情報の集まりになってしまっているように思えていました。自分のこれからの生き方を考えたとき、「何か自分の在り方の根拠となるようなものが欲しかった」というのが、今回大学院を志した理由ではないかと思います。いま卒業を目の前にして、この根拠を手に入れたとは言えませんが、自分が進むべき道がおぼろげながら見えてきたような気がします。
 
 修学中は、退職されて時間的余裕ができた方とか、専業主婦の方をとてもうらやましいと何度も思っていました。確かに自分の場合、夫の単身赴任、小学生子ども二人の世話、また仕事では機構変更のためのごたごた(ついには修士論文の追い込み時期の出向)など、公私共に忙しい毎日でした。
 しかし私の場合、自分の意志に関係なく外部から要求される仕事が忙しくなればなるほど、自分のための活動を多くしていくことは、精神衛生上とても良いことと感じました。体力的にはかなり負担でしたし、家族に負担となったことも多かったと思いますが、それ以上の充実感が得られました。
 そして、もっともありがたかったのが、メールでの先生のアドバイスです。ずうずうしいくらいに何度も何度も送りつけられる未熟な草稿を迅速丁寧にご指導していただきました。指導教授には御礼の言いようがないくらいに助けていただきました。ありがとうございました。また、2〜3ヶ月に1回のペースでもたれた集まりでのゼミ仲間とのやり取りは、私にとってはとても楽しみでした。2年間は本当に短い期間でした。皆さんありがとうございました。
 

「修士論文は新たな出発点!」   人間科学専攻  高橋 勝

T.テーマと科目選択
 私の修士論文のテーマは「地域に根ざした総合学習の創造をめざしてー総合学習の実践的検討―」です。テーマを決めるにあたって、自分の仕事の中に課題を見つけ出し、理論化する方向を選びました。現職の教員である私にとって実践をもとにして理論化し、更に実践を積み重ねていくことが課題だと考えたからです。サブタイトルに実践的検討としたのもそのためです。この方向は受験時から決まっていたので受講科目も関連科目プラス興味のある科目ということで、必修の社会哲学特講をはじめ、教育思想史特講、生涯学習論特講、学習心理学特講、イギリス思想史特講、社会心理学特講を選びました。いずれの科目・課題も知的興奮を覚えるようなものばかりで多忙な中にも学ぶ喜びを日々味わうことができました。具体的な執筆にあたっては、総合学習の思想史的な系譜をたどる上では教育思想史特講のJ・デユーイの思想(「学校と社会」岩波書店および講談社)は「総合学習」の端緒となっただけではなく、今日的な問題を解明する上でも有効でしたし、各科目での学習は労働、平和、人権などの問題を深く捉えるためにも有効でした。「地域」にこだわるのは私自身の生き方にかかわることなので、特に実践的・理論的に把握しておきたいと考えました。そのためには生涯教育論特講はもちろん、テキストとして、「学習:秘められた宝〔ユネスコ21世紀教育国際委員会報告書〕」(ぎょうせい)や、「World Studies」(KKめこん1991年)が有効でした。

2.年表作成や研究会参加による実践の整理
 実践の歴史的な記録をたどるのには「資料日本教育実践史1〜5」(三省堂1979年)が役立ちました。このような先行的な実践や理論を調べ記録しながら、自分自身の実践を整理するために「授業実践年表」を作成し、子どもたちとの交流を思い出しながら関連する項目を選定していきました。私の場合にはさまざま研究会で発表した授業実践に関わる冊子やプリント類を読み直し整理をしました。また、テーマに関わる分野はリアルタイムで進められている実践だけにそれらを把握するためには各種教育研究会にも出席するとともに、インターネット上での公開実践を把握することに努めました。その中では、全国到達度評価研究会の学力問題からの総合学習批判は理論化する上で参考になりましたし、国立教育政策研究所の資料は全国的な研究実践の趨勢を把握するうえで有効でした。

3.研究は土日と夏期・冬期休暇
 普段は帰宅後、学級通信作成や、明日の授業の準備に追われるので研究は土日しかできませんでした。土日になるとこれらの資料を整理し、7月頃までにはほぼ用意が終わり、本格的に文章化したのは学校が夏休みに入ってからでした。仕事がら夏休みがありましたので、6、7時間ぐらいパソコンに向かう日が続きました。実際に書くにあたっては夏期合宿で「内容を絞ること、論点を明確にすること。」などについて担当の先生〔杉村・北野両先生〕のご指導をいただきました。もちろん同じゼミ仲間の研究の進め方や意気込みが大いに刺激になったことは言うまでもありません。何しろ8月の合宿の時点でほぼ出来上がっていた人もいたのですから否応なしに燃えざるを得ませんでした。上記のほか特に参考になったテキストは「人間科学研究法ハンドブック」〔ナカニシヤ出版〕でした。多様な研究法の紹介と論文のまとめ方などは具体的で活用できるものでした。

4.論文をまとめるにあたって難しかった点
 論文をまとめるにあたって難しかった点の一つは、自分の実践を客観化することでした。ともすればその実践をした時点での思いや子どもたちとも交流が頭を過ぎりがちなので、いくつかの観点をもとにできるだけ客観的に見るようにしたつもりです。二つ目の難点は、絞ると言うことでした。私の場合には、総合学習についてですが、どうしても教育政策全般との関わりやその問題点に触れざるを得ない面が多くあるのですが、手を広げては焦点が曖昧になると指摘されてからは、広げたい誘惑にのらずにサブテーマの「実践的検討」という面に絞りました。また、文章表現上注意したことは、むやみにカタカナ語を使わないようにし、できるだけ平易な日本語を使うと言うことでした。これはふだん子どもや父母に向かって文を書くときにも注意していることです。

5.修士論文作成は、ひとつの新しい出発点
 修士論文作成は、ひとつの新しい出発点です。教師になったときから教育実践を大事にしながらも、「20坪に安住するな」と教えられ、地域の教育条件をよりよくする実践にも関わってきて、今このような学校教育と地域にかかわる論文を書くに至り、新たな課題が提示された思いです。学校の転換点にあたり、地域とともに歩む「開かれた学校」にするための教師間の課題、管理職への働きかけなど実践的な課題は山積しています。また過去のささやかな遺産を食いつぶすだけの実践〔経験主義〕ではなく、地域の先達についての研究を更に深めていく決意です。そういう意味では、私にとって修士論文作成は終点ではなく、実践的・理論的な研究の新たな出発点にもなっています。最後になりましたが2年間にわたりご指導賜わりました先生方に厚くお礼申し上げます。

*追記:修士論文奮闘記と言うことで経験を中心に書きました。社会人の場合には、仕事と家族があり、その中で悩むことが多いのではないでしょうか。私の場合には、職場は学校で長期休暇があること、子どもが成人であり、妻が理解してくれていたので幸いでした。仕事も家族も両立させたうえでの研究をするためには、計画的な生活により健康が何より求められます。これからチャレンジされるみなさんの検討をお祈りいたします。

「怠惰と感動の修士論文作成」   人間科学専攻  福山 俊

(略歴)
 特別研究は小坂國繼教授の下で「西田哲学と環境論理学」の研究をめざしましたが、「自己とは何か」という問いが終生のテーマです。鈴木大拙の弟子、故・秋月龍a老師のもとで伝統的臨済禅を修め、「祖徹」という居士号を持っています。仕事は化学職の地方公務員として長年環境行政に携わっています。趣味は合気道で、週一回は子供クラスと大人クラスで教えています。
1 怠惰の思い
 電子マガジン第3号に掲載された一期生の修士論文奮戦記はすばらしいものでした。実際に自分が書くときにはたいへん参考になったことだと思います。妙な言い方をしたのは、この先輩の奮戦記をじっくりと読んだのが、実は自分の修士論文を書き終えてからだったからです。電子マガジン実務担当の先生方からは何という不謹慎な奴かと怒られるかもしれません。
 正直に言えば、一度だけちらりと読んだことがありました。でも、みなさんの修士論文への取り組みの印象が用意周到で、このためプレッシャーがかかり、じっくり読むのをやめてしまったのです。怠惰な性格を思い、とてもそのようにはできそうもないと自分の力量を図ったり、予想されるたいへんな毎日の生活を思ってうんざりしたりと、いろいろな思いが出てきたからです。前期、後期のレポートさえ、いつも期限ぎりぎりで仕上げていたくらいでしたから、いかに修士論文とはいえ、また、自ら望んで入学したとはいえ、スケジュールを立てて論文を書き上げることはいかにもつらい思いがありました。そこで、刺激になるものは敢えて見ないようにし、自分のペースをかろうじて確保しながら論文に取り組んできたというのが実態ですが、作業全体としてはなかなか書けなくて、考えている時間の方が長かったという思いがあります。草稿論文ですら事務局への提出期限間近に二週間足らずで一気に書き上げる羽目になりました。やはり、いかに自分が怠け者であるかということを思い知らされたのが、修士論文奮戦記の結論の一部です。しかし、残りの結論部分は何ともすばらしいものでした。それは、ほんとうに書きたいものを書くという作業の中から、長年求めていたものが何なのかがはっきりと形をとって現れたということでした。自己との思いがけない感動の出会いです。

2「宗教心について―自己の探求―」というテーマのしぼり込み
 大学院に入学した動機は、日本人としてはじめて独創的な体系を打ち建てたといわれる西田幾多郎の哲学、世に言う西田哲学を研究し、その積極的な部分を改めて見直すことにより、今日の地球規模にまで拡大された環境問題の根本的な解決の方向を模索することにありました。若い学問である環境倫理学に対する不満がその根底にあったからです。また、化学職の地方公務員として、長年環境行政に携わってきた実感から、環境問題の根底には近代合理主義のマイナス面が如実に現れているという思いもあったからです。
 しかし、入学当初の思いは一年次に履修した小坂国継教授の「宗教哲学特講」のレポートを書いた時点でテーマの軌道修正を行うことになりました。小坂教授から「宗教の本質」について学んだことが決定的な要因となり、私自身の長年の問いそのものをテーマにしようと決めました。それが一番気になっているものだったからです。
「私とは何か」という問いは、死に直面する経験を重ねたせいか、子供のころからの私の長年の問いで、ほかならぬこの「私」が死ぬという、その「私」自体の解明に向けて様々な試みを行ってきました。その問いは、ときには強く、ときには日常に埋没し、問いそのものの存在をすら忘れるほどに皆無となるようなあり方で、私の生の奥深くから私を規定し続けていたものです。この問いは古来より菩提心と呼ばれ、「真の自己」を求める自己として、広くは宗教心と言われるものです。ほんとうに書きたいのはこのことだということに気が付いたのです。そこで、西田哲学を、宗教心を哲学的に解明した哲学という視点から論じて見ようと考えました。こうして「宗教心について」をテーマとし、副題を「自己の探求」としました。環境問題を後回しにし、一番書きたいことを書こうと決めたことは、テーマの選定に当たり、当然のこととはいえ、たいへん重要なことだったと思います。しかも、特別研究ではなく、授業科目の勉強の中でテーマ選定のきっかけが得られたわけですから、履修科目の選択自体も修士論文に関わる大切なことだったということになります。

3 毎月の小坂ゼミ
 しかし、基本的なテーマが決まったとしても、それをどのような内容で書くかは別の問題でした。論文全体の見通しと構成を決めること、そして必要な文献の収集と検討がなければ具体的に書く作業に入れません。ところが、先に話したように、ちらりと先輩の奮戦記を見たのが、一年次の終わりから二年次の始めにかけてのこの時期でした。うんざりした気持ちと怠惰な日々がずいぶん続きました。
 こうした状況を否応なしに打開してくれたのが、小坂教授が毎月開催されたゼミでした。そこでは修士論文の指導と西田哲学の読書会が行われ、 通信制にもかかわらず、教授のご好意により毎月直接の指導を受けることができたのです。このゼミへの参加によって、論文作成の準備が少しずつ進み、二年時の夏の合宿において集中的に詰めを行い、おおよその構成ができあがりました。
 最終的な構成は、親鸞と道元に共通して見られる宗教心の深化を確認し、そこに見られる真の自己の構造を西田哲学の場所的論理によって跡付けるというものです。そのため、彼の最初と最後の論文である『善の研究』と『場所的論理と宗教的世界観』を整理し、さらに親鸞の「自然法爾」、道元の「本証妙修」の思想をも西田哲学との関連において考察することになりました。
 この作業によって、真の自己は場所的絶対無において始めて存在するものであることが確認でき、さらに宗教心が仏の呼び声によって起こること、すなわち、自己とは何かと問うのは、場所的絶対無のいわば促しによって行われていたということを理解することができたわけです。こうして、「私とは何か」という長年の問いの対象である「私」そのものが明らかとなり、同時に問いそのものの由来も了解できたのでした。

4 30年の総括
 30年前の大学時代、学園紛争で騒然としていたキャンパスはマルキシズム一辺倒でした。しかし、マルクスによっては長年の問いは解決を得られないことを直観していた私は、毎日のように一人大学の図書館にこもって必死にもがいていました。今、やっとその答えが修士論文を書く作業の中で目の前に現れた思いがしています。いわば30年の総括ができたとも言える思いです。修士論文奮戦記は、同時に私の30年の奮戦記でもありました。
 小坂先生にはほんとうに感謝をしております。ゼミにおける西田哲学の読書会は、師のもとで西田が読めるありがたさをつくづく感じさせるものです。西田の難解な文章の一行一行を先生とともに追っていくことにより、薄皮が一枚一枚はがれていく思いでした。修士論文を書く際の一番の助けはこの読書会でした。ありがとうございます。

「修士論文終了までの道のり」   人間科学専攻  矢澤香代子
 


 修士論文終了まで大変な道のりでした。
 何度も、後1年延ばそうとの思いに駆られ、諦めようとする気持ちとなんとかまとめようとする気持ちが揺れ動いていました。もう1年延ばしてゆっくりじっくり、修士論文に取り組みたいと何度も思いました。
 その理由は、修士論文以外の科目のレポートがなかなか進まず、修士論文のためのゼミの準備とレポートの作成と、どちらを優先させるかその時々によって苦痛な選択だったことです。その上、仕事にも追われ、仕事はできるだけ残業してでも職場で終了させ、家事は手を抜くしかない状態だったからです。
 
 では、これから奮闘する人のために、多少でも役に立つことがあればと、アドバイスをしたいと思います。

 1、「延ばしても果たしてよい成果が上がるかは分からない」
 これは私が1年延ばして修士論文に取り組みたいとふと漏らしたとき、担当のゼミの先生がおっしゃった言葉でした。そう言われてみると、私の場合、そう当てはまると思ったのです。

 2、終了までの計画を立てておく。
 終了締め切り日を確認して、日付を逆算させていき、1ヶ月前にはほぼ終了となれるように日程を決めていきます。そうすると進めるペースの目安が分かってきます。

 3、修士論文の形態を作っておく。
 目次、本文の章立て、結論、引用参考文献などの形態を作っておき、できるところから書き始め、埋めていきます。

 4、修士論文、提出上の形式にきちんと合わせた状態にしておく。
 表紙や目次、書式設定、ページ設定など決められている形式にきちんとしておかないと最後になかなかうまくいかず焦ったりします。私は目次を抜かすページ設定ができず、また、どういうわけか本文途中の2ページがページの表示がされないというアクシデントに3日間悪戦苦闘してしまいました。

 5、修士論文の保存は、その都度本体と、フロッピーに保存しておく。
 私はフロッピーが開かなくなってしまうという出来事が2回起きました。

 このように書いている私は、ゼミの前になっては、修士論文の方に力を注ぎ、ゼミが終わると少し休み、レポートの締め切りが事務課から知らされると、あわててレポートに取り組むという波のある取り組みをしていました。決して模範的なことはありませんことをお断りしておきます。
 しかし、今、レポートから解放され、修士論文の正本を提出してしまうと、日曜日がこんなにのんびりできることを久しぶりに感じています。手を抜いていた家事も掃除できなかったところに少しずつ手をかけ、食事も手づくりの品が増えてきました。家族や友人と出かける予定を考えられるようになり、仕事にはゆとりができてきました。
 修士論文を締め切りの関係上、不十分なまま打ち切りにして終了としてしまったので、提出した後、満足感や、達成感など感じられずにいました。しかし、1ヶ月たってやっと2年間大変だったけれど、やっと課題を終了させ、やり終えたのだという、やり終えたことへの達成感が出てきました。
 これからの皆様、ご健闘をお祈りいたします。

「混迷の迷走パズル」   人間科学専攻  山根尚子

  学生の時もっと勉強しておけば良かった、と人は言う。私もそう思う一人だった。そして、その思いを実現するべく通信制の大学院に入った。
 入学後気付かされたのは、修士課程の第一目的は、修士論文を書くことにあるということ。つまり、受け身の勉強ではかなわない現実。危機迫る実感。間違ってしまったかも……。
 そうこうするうちにレポートを書くだけの一年が過ぎた。私の研究したいものとは家族についてなのだが、どのように取り上げたいのか、社会との関わりにおいてなのか、家族内における関係なのか、女性の立場からなのか、視点が定まらず夏を迎えた。まさに雲をつかむような状態。ゼミでは佐々木先生から、コレコレしかじかを取り上げてみたらどうか、という提案がなされた。形となって現れてこないテーマをひたすら浮き上がらせようとする日々。千載一遇の勉強のチャンスを手に入れて論文を書くのであれば自分の意に沿う内容を取り扱いたかった。そして、そうでなければ、最後まで根気強く、そして楽しんで修論を書き続けられないだろうという思いがあった。
 新聞に現代世相を映し出すかの如く家族問題の記事が載る。未成年者の犯罪が起これば、家庭に問題はなかったのかどうか一億人総検証される。社会の原点ともいえる家族とは……。100家族あれば100通りの形態がある。それをどのようにテーマとして取り上げ成り立たせるのか。
 家族に関する書物も多い。俗っぽいもの、流行りものから学術的系統ものまでひたすら読む作業が続いた。佐々木先生から借りた神島二郎の著作、紹介されたE・フロム、I・イリイチの本に感銘を受け、それらは修士論文を支える重要な基礎となった。また、家族社会学という学問の領域を知った。読み進む本には重要箇所に付箋をつけ、その都度パソコン内にまとめるようにした。この作業が11月末まで続いた。そして次にそれらひとつひとつのパズルをはめ合わせていく作業となった。これを序章に、それは第二章にもってきて……。すると、私が取り上げたかったテーマがその通りに現れ、主張が貫かれている(気がした)ではないか。その後は各章を見直し、まとめ直した。その頃には既に年末・年始の休みに入っていた。
 修論の書き方はさまざまであろう。研究テーマ、題材が明確であれば、目次から書いてそれを膨らませていく方法もある。しかし、私の場合、データを取り扱わない、頭に浮かんだもろもろのことをまとめるということで、その方法は有効ではなかった。おそらくこの邪道我流パズル方式しかなかったのかもしれない。
 最後に、実生活では仕事・家事・育児と学業との両立で時間の貴重さを思い知らされた。削られたのはテレビを見る時間、掃除の時間、睡眠時間。平日の夜の作業は遅々として進まず、休日にどれだけ進められるかにかかった。娘の高校受験と重なり、緊迫して双方が正月休みもなく机に向かえることができたのはよかった。たぶん娘にとっても。私のほうが娘より一足早くゴール。彼女のゴールももうすぐ。そしてそのゴールは新生活へのスタートにつながっている。私はといえば次のスタート地点を探しているところである。  




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