1 期生の修士論文奮戦記

電子マガジン3号(2001年3月発行)に掲載


執筆者一覧
専攻 題名 氏名
国際情報 今後のマルティプライアー12.5 岡野直行
国際情報 感謝の詞−修論作成を振り返って− 大槻洋子
国際情報 論文作成苦労ばなし 澤田順夫
国際情報 論文提出を終えて 高橋雅明
国際情報 卒業必要最低30単位の意味 渡辺康洋
国際情報 修士論文を終えて 添谷 進
国際情報 論文資料収集の旅 村上恒夫
文化情報 空を舞う手の意味を求めて 棚田 茂
文化情報 修士論文を書き終えて 木佐貫洋
文化情報 修士論文は、感謝の!でも、〈必然〉? 冨田和子
人間科学 ちょと一言よろしいですか 土屋八千代


「修士論文を書き終えて」   文化情報専攻  木佐貫洋

(略歴)年齢:52歳
職業:高等学校教諭(現在高3の担任をしています)
趣味:スキー,無線関係,剣道,中国旅行,ヨット(現在,友人達と共同でクルーザーを持っています。大阪湾や瀬戸内海でのクルージングを楽しんでいます。
研究活動で,これからは海に出るのが少なくなりそうです)
夢:ヨットに本とパソコンを積み,全国の港をめぐり,土地々のおいしい物を食べながらの研究活動で一生を送りたい。

論文題目 「糸瓜考・正岡子規のへなぶり精神 ―糸瓜句から見える世界―」

執筆時間の確保について
  修士論文執筆上の最大の悩みは時間の確保でした。この悩みは、仕事を持つ社会人院生の共通のものであると思います。社会人院生の場合、男女を問わず当然、日常の業務や家事、公的・私的雑用が必ずついて廻ります。それに費やす時間は圧倒的な量です。
 私の場合、通勤時間が短く(職場まで自転車で15分程度)、比較的時間の確保が容易であったと思います。ただし、修論を本格的に取り組まねばならない2年次は、高校3年生の担任となり、非常に時間が取りにくい状況がありました。とくに、昨年の9月から11月末までの3ヶ月は、連日、夜遅くまで過密な仕事となり、執筆時間が取れず、ほとんど修論に手が出せない状態が続きました。とにかく、早朝(午前3時か4時頃に起床)学習に切り替え、少しずつ書き始めましたが、3時間程度の時間では、その日の書く構想がまとまったら時間切れ、というストレスが溜まる日々が続きました。この時期は、これまで集めた資料の整理と構想が涌いたらメモをすることに専念しました。

 前述のような状況でしたので、(10月の末、妻は母親の看病に実家に行き、家事等も私の肩に掛かってきました)永岡教授のアドバイス通り、とにかく書き進めることにしました。このことが大変役に立ちました。また、ゼミの発表に向けて、無理矢理にでも論述したい方向性を模索したことは、修論の論旨を纏めていくのに大変有効であったと思います。
 12月に入ってやっと本格的に執筆が出来る環境が整い始めました。とくに22日以降は1日の睡眠時間は4時間前後、食事と生理作用以外は机に向かいました。暮れも正月もありませんでした。修論の完成は1月8日でした。400字詰原稿用紙で、420枚になりました。

『子規全集』探しについて
  正岡子規について論じるには、何をさて置いても『子規全集』(講談社版)を手に入れる必要がありました。既に絶版になっていますから、古書店で買い求めなければなりません。神田の古書街をはじめ、大阪の各地の古書店も訪ねましたが、なかなか手に入りませんでした。ネットでも探しましたが同様でした。途方にくれていた所、近所の古書店にまさかと思いつつ探してみると、驚きました。ショーウィンドウに並べられていたのです。本当に「灯台もと暗し」でした。早速、店のご主人に「おいくらですか」と訊ねました。「別巻1がないので安くしときます」という返事でした。それでも18万円ということでした。
 これはご主人が購入した値段でした。欲しいけれども、私には高い値段でした。そこで、「大学院の勉強に必要だ」ということで値段の交渉をしました。最終的には13万円で、何度かの分割での支払いということに応じてくれました。しかし、支払いが済むまでは本は渡さないという条件でした。やっと私の手に入ったのは1年次の秋でした。苦労して手に入れた『子規全集』でした。しかし、久し振りに胸がときめきました。

修論の内容について
  論題は入学時に提出したものとは違ってきましたが、論述内容は基本的に同じでした。ゼミの永岡教授より常々「書きたいことを、しっかり書きなさい」と、アドバイスを頂いていたので、執筆のスタンスは早期に確立していたように思います。このことは大切な事であったと思います。時間が大変制限されている私達にとって、何をどのように書き進めていくかが最も重要な事であると思います。
 私の場合、正岡子規の絶筆三句
    糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
   痰一斗糸瓜の水も間にあはず
   をととひのへちまの水も取らざりき
にこだわって論旨を展開しました。「何故、子規は辞世の句として、他の植物を選ばず、糸瓜を選択したのか」という疑問からの出発でした。人生の最後の表現材料に、美しい草花を選ばず、「糸瓜」という精彩なイメージとほど遠いものを選んだのか疑問でした。最後に「糸瓜」を選んだのですから、子規の精神の到達点に「糸瓜」が大いに関与しているに違いないと思ったのです。

 各研究書を調べてみますと、さすがにこの絶筆三句について言及しているものが多くありました。とにかく、子規を評価する者も、そうでない者も絶筆三句については高く評価しているのです。
 ところが、この絶筆三句に糸瓜が何故詠まれているのか言及しているものは少なく、とくに糸瓜と子規精神の関わりについて論証されているものは意外と少なかったのです。「糸瓜」こそ子規精神のキーワードだと思いつづけてきました。
 子規は死に至る十年前より糸瓜句を詠んでいます。生涯で五十余句あります。この糸瓜句の全てを分析すれば、子規が最後に糸瓜を詠んだ理由が分かるのではないかと思いました。子規は糸瓜句の一句一句に、その理由づけを述べていません。従って、糸瓜句を詠んだ時の子規のそれぞれの感慨は、回りから攻めていくしかありませんでした。その材料探しの時間が必要でした。松山に三度、東京の子規庵に四、五回足を運びました。実際に家と職場の両方で糸瓜を育てました。とにかく、書物だけでなく体験的に糸瓜に触れてみました。そうすると、いくつかの思わぬ発見にも繋がりました。
 例えば、「病間ニ絲瓜ノ花ノ落ツル晝」(『仰臥漫録』)という糸瓜句があります。一般的には花が落ちていく場合、「散る」という語を使用します。しかし、「糸瓜の花」が散る場合は、子規がこの句で詠んでいるように「落ツル」という表現がぴったり当てはまります。実際に糸瓜を育てればよくわかります。そして子規の確かな写生の目を確認することができました。

 限られた時間で多くの資料を調べ、そして、その資料を駆使して論述するには自ずと限界があります。牽強付会的な論証になっているところもあるように思いますが、とにかく全ての糸瓜句にこだわって論証を重ねました。その中で、子規の「写生論」をはじめ、芭蕉や蕪村の精神にも触れ、「滑稽観」やユーモアや諧謔性にも目を向けながら、なにものにも阿(おもね)らない子規の「へなぶり」精神のあり方について論究しました。その精神を底で支えたのは、物事に対するニュートラルなスタンスであったように思われます。それは、子規の懐の深さを表わしています。
 絶筆三句は突然詠まれたものではなく、十年に及ぶ糸瓜句の歩みの帰結として詠まれたことを、どうにか論述できたように思います。
 ともかく時間が制限されていたからこそ様々な創意工夫もしました。何よりも得たことは、書くことは「しんどい」けれど、発見の連続であり、楽しいことであるということが分かったことです。修論を書き終え、やっと、「書きたい」ことの入り口に立ったという感慨が、私の正直な現在の気持です。また、修論の執筆を通して得た最大のものは、書かねばならない更なる課題が見つかったということのように思います。
 これからも「しんどい」けれど、楽しい研究活動に励みたいと思っております。
 



「今後のマルティプライアー12.5」   国際情報専攻  岡野直行


(略歴)外資系投資信託でマーケティングを担当。本大学院では、「確定拠出年金分野における投資信託の役割」について研究した。皆さんのご意見も聞かせて下さい。趣味はヨットで、クルージングやレースを楽しんでいる。クルー募集中ですのでご興味のある方は、連絡下さい。

1.マルティプライアー12.5とは
  われわれは総合社会情報研究科設立の初年度に、国際情報専攻の小松憲治教授の特別研究(ゼミナール)に在籍した学生12名です。全国に点在するメンバーは年齢も職業もまちまちです。当然、研究テーマも「金融」、「経済」、「経営」などの諸分野に広がっています。一人一人の研究テーマと目的意識は多種多様ですが、IT革命の成果をフルに活用する日本最初の通信制大学院が誇る画期的な遠隔授業システムと伝統的な面接指導によるゼミの運営を通じて、各自が潜在的な能力を大きく開花させました。
 キーワードは、わがゼミの愛称「マルティプライアー12.5」です。小松先生と12名の仲間たちが研究過程で発表・討論を重ね、それが相乗的に作用して各自の修士論文に「乗数効果」を現わしたと自負しています。小松先生の説明によると、「乗数12.5の内訳は、院生の分が12で残りの0.5が教師の分」だとのことです。

2.ゼミの活動
  入学当初ゼミは毎月1回土曜日に行いました。その後、遠方の方の交通事情を考慮して隔月に1度週末(2日間)を使うようにしました。皆が社会人であるため主な学習時間は週末です。またゼミの開催も実質的に週末しかチャンスはありません。
 つまり「予算制約の下でいかに効率を高めるか」がわれわれの課題でした。

 ゼミの具体的な進め方は、
@土曜日 午前中に修士論文作成に関する個別指導(希望者)、
A午後からは各自のテーマについての発表と討論、
B夜には盛大な懇親会、
C日曜日は先生の専門分野の講義を聴講など          です。
 このアイデアは1年次秋の軽井沢ゼミの時に皆で話し合って先生に申し入れました。初めての合宿であった「軽井沢ゼミ」が、われわれの結束を固め、各自が本研究科を志願した目的である修士論文の作成に向けて前進を始めた瞬間であったといえます。

3.今後のマルティプライアー12.5
  在学中は本学のサイバーキャンパス・システムに従い「ディスカッション・ルーム」や「eメール」、ときには電話も利用してお互いに連絡をとりあってきました。ところが、本学の全課程を修了すると(本学貸与のメールアドレスが使用できなくなるなど)意思疎通に支障をきたす恐れがあります。そこで各自(個人)のメールアドレスをグループ登録し、「multiplier」を冠したホームページを開設しました。
 既にメンバーからは多くの投稿(連絡事項や今後の研究課題など)が寄せられ、活発な議論が始まっています。また秋には同窓会を「思い出の地」軽井沢で行うことも決まっています。当サイトはその連絡に活用する方針です。ライフラインを確保したことで、われわれは修了しても仲間で在り続けることが容易です。

4.マルティプライアー12.5のおかげで・・・・
  マルティプライアー12.5の一員となったことで、小生の修士論文は実力以上の仕上がりになったと存じます。ここに拙稿論文要旨を掲げるとともに本研究科でお世話になった先生方ならびに事務課の皆様およびマルティプライアー12.5各位のさらなるご発展をお祈り申し上げます。

論文要旨
  本論文のテーマは、「確定拠出型年金分野における投資信託の役割」 〜投資信託の現場から〜 である。筆者は投資信託会社に籍を置き、これまで投資信託に関連する業務のほとんどを経験してきた。本研究は、投資信託会社に勤務する者の立場から、わが国で2001年度にも導入される予定の「確定拠出型年金」の内容を見極め、投資信託の果たす役割または投資信託業界のビジネスチャンスを模索するための事前の情報収集・整理を目的としたものである。
 アメリカやイギリスなど確定拠出型年金制度の先進国では、その発展に「投資信託」の貢献を抜きに語れない。本稿では、わが国で新制度が導入されることになった経緯およびその背景を探り、わが国の投資信託業界の現状と制度先進国の状況との比較も試みながら特に以下の3点を意識しながら論を進める。
 イ)わが国で導入される確定拠出型年金制度とはいかなるものか。
 ロ)わが国の制度においても「投資信託」は主役になり得るのか。
 ハ)新しい制度の発展のために投資信託業界は何をなすべきか。

なお論文は5章から構成されている。各章毎の要旨は以下を参考にされたい。
@第1章では、確定拠出型年金制度導入の背景を探る。まずわが国の既存の年金制度体系を整理して企業年金制度の問題点を整理する。そもそも確定拠出型年金導入待望論は、多くの問題を抱えながら運営されている「厚生年金基金」制度を有する母体企業から発せられた。ここでは代行返上論にも言及して厚生年金基金の抱える問題を明確にしていく。
次に2000年度(多くの企業では2001年3月期決算)から、わが国の企業会計方針は「国際会計基準」に統一される。これにより退職一時金と企業年金は「退職給付」会計に一本化される。このため退職に係る給付構造は会社組織全体、経済社会全体の問題として浮上する。
A第2章では、2001年の通常国会で審議される見通しの確定拠出型年金制度に関する法案を詳細に検証する。分析の結論は失望的で、このままではわが国で新制度が発展することは難しい。ここでは、わが国の確定拠出型年金制度が拡大するために必要な改善点または制度の内包する問題点を8項目にわたって指摘する。
B第3章では、米国の確定拠出型年金制度の歴史的変遷と投資信託業界の年金市場への取り組みを考察して、米国で「投資信託」が主役になった理由を解明する。同時にわが国の投資信託業界の現状とも重ね合わせる。
わが国で検討されている法案は米国401(k)プランを参考としているが、米国における1970年代半ばの環境でスタートすることになりそうである。規制と保護により自由化の遅れたわが国投資信託業界の取り組みも約四半世紀遅れてしまった。急いでキャッチアップするためには米国の成功体験を学習すべきである。
また英国の事例として、サッチャー政権以降の年金政策の変遷と最近の状況についても紹介する。
C第4章では、歴史は浅いものの、わが国投資信託業界の年金市場(確定給付型)への参入についてジャーディン フレミング投信・投資顧問の事例を紹介し、年金分野で投資信託を利用する際のメリットについて解説する。
年金資金の運用においても、投資信託を利用すると投資に関する複雑なプロセスの一部を標準化することが可能である。
D第5章では、「投資信託」の役割を考える。確定拠出型年金分野において、投資信託は他の金融商品に対して比較優位にある。
まず確定拠出型年金が発展するために加入者が必ず理解しなくてはならない、投資に関するリスク認識について、企業年金と個人との「測度」の差から確定拠出型年金制度にかかわる金融機関・業者は投資家(加入者)に対して「何を伝えるか」を検討する。
次に「何で伝えるか」を考察する。ここで筆者はインターネットの積極活用を提案する。「標準化」されたコンテンツであれば、インターネット(含携帯電話)による配信が最適で、新制度普及のためには有効利用が欠かせない。また、まもなく訪れるブロードバンド化されたインターネット社会での投資教育・情報発信のあり方にも言及する。
一方、インターネット上でやり取りされる標準化された情報を補完するテーラーメイドの資料の充実や一般メディアの活用も重要である。
E結論として、現在示されている法案では新制度の拡大・充実は難しい。新しい制度が既存の制度に遠慮していては経済の構造改革は進まない。閉塞感のただよう日本経済の再生には、「自助努力」をベースとする経済・金融構造の改革を進める「決心」が求められる。手遅れは許されない。
(なお、法案名は「確定拠出年金法案」であるが、本文中は従来から一般的に使用されている「確定拠出型年金」という用語を用い、「確定給付型年金」と対比している。)


「感謝の詞−修論作成を振り返って−」   国際情報専攻  大槻洋子


(略歴)金融機関勤務。激動する業態にあり,日ごろ感じている事・考えている事を学問的な裏付けをもって自分の言葉でまとめたい,というのが入学の動機です。様々な方からいろいろ刺激を受け,新しい発想のヒントを得られるのでは,と期待しております。

 国際情報専攻2年、大槻洋子です。この度、「わが国の退職給付制度−わが国の雇用関係の変化と受給権の保護を巡って−」というテーマで、無事修士論文を提出することが出来ました。私の場合、締切日までの郵送では間に合わず、所沢のセンターまで持参。東所沢までの武蔵野線の電車の中で、それまでご指導・協力くださった多くの方々への期待に応えきれなかったのではないかとの反省と悔しさで思わず涙しましたが、提出後しばらく経ってようやくその解放感に浸っています。私が、論文を書くことを思い立ち、何とか形あるものにするまでを振り返ってみたいと思います。
 私は、投資顧問会社に勤務し、お客様への運用商品のご案内、契約受託後には運用状況の報告を担当しております。担当するお客様はほとんどが企業年金であり、当然企業年金制度を巡る様々な変化、今後の企業年金制度のあり方について以前より問題意識を持っていました。また、前職がアクチュアリー(企業年金の制度設計等を行う専門職)のアシスタントであり、企業年金制度を財政側(制度側)からも若干理解していたこともあって、企業年金制度を巡る問題を目先の変化だけではなく、その本質から捉えたいという希望も強く持っていました。しかし、年金制度そのものが複雑であること、様々な変化が制度に大変大きな影響を与えていること、しかもその変化が急激なものであることから、自分自身の言葉で語ることが出来ないもどかしさに悩んでいました。「自分の言葉で自分の考えをまとめたい」と思っているところに、通信制大学院が認可されることを知りました。大学院という枠組に自分を投げ入れることで、論文に取り組むことが可能となるのではないか、と入学を決意したのです。
 しかし、通学の義務の無い通信制大学院とはいえ、仕事や家庭との両立は厳しいものがありました。特に2年間の在学中には、会社の合併もあり、担当業務が拡大、プライベートでは反抗期真っ只中の子供との攻防もあり、学業の計画を立てても予定通りに進めることができず、精神的にも時間的にも辛い時期がありました。「論文を書くために大学院に入学した」という当初の目標を失うことはありませんでしたが、果たして論文など書けるのだろうか、まとまったものができるのだろうか、という不安に悩まされました。
 実際、取り組んだテーマ「受給権の観点からわが国の退職給付制度を考える」への具体的な切り口を見つけることも出来ないまま、1年以上があっという間に経ってしまいました。退職給付制度を巡る動きは目まぐるしく、大学院在学中も新聞紙上には様々なニュースが取り上げられています。ますますの規制緩和、確定拠出年金法案の提出、企業年金法(仮)に向けた取りまとめ、代行返上を巡る議論、異常なほど上昇した後下落した株式市場、等々。次々と出てくる問題の一つ一つに引っ張られてしまうと、全体を考える視点を失ってしまいます。何かを芯にして考えていかないと、と焦るばかりでした。そんな時に出会えたのが、久保知行氏の『退職給付制度の構造改革』(東洋経済新報社、1999年)でした。久保さんは、私も所属する日本アクチュアリー会の大先輩であり、内外の企業年金制度に関する著作を多く手がけ、この論文で多摩大学から博士号を授与されています。退職給付制度について受給権を核として考え、受給権保護への提案を行っているこの論文は、私にとって大変参考になると同時に大きなショックでした。既に、これだけの論文に纏め上げている方がいらして、しかもその経験・知識の差は大きすぎる。しばらくの間、論文に取り組む意欲すら萎えてしまうほどの激しいショックを受けました。ようやく、気持ちを取り直し、知り合いの方を通じて久保さんにコンタクトを取ったのが、2000年の5月です。久保さんの本を手にしてから、半年以上が経っていました。6月の多摩大学での博士論文の発表会にも参加させていただき、多くの示唆に富む意見もいただきました。
 その後、それまで漠然としていた問題意識を3つの課題に絞りました。@企業が退職給付制度を保有する意義は何か? A確定給付型年金(DB型プラン、従来の退職給付制度)と確定拠出型年金(DC型プラン、米国の401(k)など)は対立するものであろうか? B受給権保護の必要性はどこから言えるのだろうか? これらに対する自分なりの解答を求めていこう、と決意しました。また、様々な文献を読み、関係する方々の意見をいただく中で、次のような知識の整理を行いました。@わが国の企業年金制度はそのほとんどが退職一時金から移行されたものであること。それ故に欧米の企業年金とは異なる性格を持っていること。A退職給付制度を巡る様々な変化(規制緩和、受託者責任の明確化、退職給付会計の導入等)はその各分野から考えれば正常な方向への動きであり、その変化が退職給付制度の本来持っているリスクを顕在化させたこと。B退職給付制度を人事戦線略のツールであると考えるのであれば、多様化しつつある雇用形態と同様、今後は多数のメニューが必要となるであろうこと。 そして、具体的に課題への切り口を、@従業員と企業との関係から退職給付制度を考える。A退職給付制度に内在するリスクを分解し、その負担者を明らかにすることで受給権を考える。と決めたのは、もう秋になっていました。
 章立てを再構成し直し、それまで部分的に書き散らかしてあったものを一部は各章に割り振り、一部は書き直し、ほとんどは新たに書き始める作業が本格化したのが、11月。その間にも、友人からケーススタディとして自社の処遇制度見直しを取り上げる提案を受け、インタビューを行いました。実際に人事担当者の話を聞いて実感したのは、退職給付制度の様々な問題を一気に解決する方法は無く、おそらく多くの企業において、従業員との関係をどう方向付けるか悩みながら制度を模索しているということでした。
 11月には悪性の風邪に悩まされ滞りがちだった論文作成も、12月に入るとさすがに本格化しました。とは言っても、平日は仕事や家事に追われほとんど進まず、土日それも溜まった家事を片付けてからの時間がまとまって取り組める時間です。実際は、土日に書いた部分を印刷して、平日にチェックするという繰返しでした。その頃には、私が通信制大学院で退職給付制度についての論文を書こうとしている、ということは周囲の人の知るところとなり、関心を示し協力を申し出てくれる人も出てきました。と言うよりも、周囲に自ら白状し協力を強要したと言った方が正確かもしれませんが…。制度面から内容を確認してくださる方、論理展開の矛盾を指摘してくださる方、誤字・脱字のチェックをしてくださる方、本当に多くの方に協力をいただきました。指摘していただいた問題点の一部は、今回の論文に反映させることが出来ず、長期的課題として預かったままになっています。
 これら多くの方の協力のおかげで、何とか論文という形にまとめることができたと感謝しています。しかし、彼らの期待に十分に応えることができたのだろうか、との反省もあり、それが冒頭の情景となります。今回の論文を、私の問題への取り組みの一里塚とし、今後も継続して考えていくことで皆さんの期待に報おうと、自らを納得させています。一里塚としては、まあ、合格点をやってもいいかな、とも思っています。
 先日、小松憲治先生の1・2年生合同ゼミがあり、2年生が修士論文の発表を行いました。残念ながら、業務の関係で一部しか参加できませんでしたが、今回の発表会はこれまでのゼミにおけるそれぞれの進捗状況の報告会とは大きく内容面で異なるものでした。自らまとめた研究を報告し、質問に回答する、その自信あふれる様子に感動しました。私自身がそれだけの発表が出来たかは不安ですが、単に問題意識を持っている段階と、自らの考えをまとめ論文を書き上げる段階とは大きな違いがあることを、改めて認識しました。曲がりなりにも論文としてまとめることが出来たのですから、この経験を途切れることなく活かしていきたいと思います。それは、ただ漠然とした問題意識を抱えているのはなく、自ら調べ、場合によっては知識と協力を人に求め、自分自身の言葉でまとめることを繰り返すことでしょう。この2年弱の自分自身の実際の取組み状況を考えると、難しいことだと思いますが、是非心がけたいと思っています。
 大学院内外を含めた多くの人と出会えたこと、論文を書くという意味を知ったこと、これが大学院における最大の収穫でした。ありがとうございました。1年生のこれからのご健闘をお祈りいたします。

 


「論文作成苦労ばなし」   国際情報専攻  澤田順夫


(略歴)高齢化社会における「情報による社会的支援」を研究テーマにしている。これまで東芝総合研究所で情報・通信の研究をしてきた。テーマはパターン認識,知識DB等。 3年前に定年(扱い)退職し,日本社会事業大学に学び,社会福祉士になった。情報を社会的な面からとらえ直そうと,日大大学院で学んでいる。趣味は旅行で一般旅行業務取扱主任者の資格をH8年に収得した。現在,情報処理学会会員。

 テーマ・論文題目「高齢者支援のためのボランタリズム〜ブラジル・アルゼンチンの日系社会に学ぶ〜」
 文化系と理科系とを区別するのは余り好ましいことでない。しかし、国際情報専攻は政治経済分野をベースにしているようである。理学部数学科出身でコンピュータサイエンスの研究をしてきた者にとっては、理科系を意識せざるをえない。そこで、理科系の研究者が苦労する立場を代表することにする。
 研究テーマを設定する時、一番問題になるのがオリジナリティの点である。30年間程認知科学の研究をしていると、研究の流行とかくり返しのようなことが分かる。10年毎に人工知能の研究のはやりすたれがある。その節目毎に研究が飛躍的に進歩して、その後停滞に陥る。そして主要な内外の論文誌に目を通していると、研究のオリジナリティは見分けがつくようになる。そして、情報処理学会などで論文の査読行う時には、評価が簡単に下せる。
 しかし、人文社会科学の分野では全くの素人である。自分の研究テーマに対して、オリジナリティの判定が難しい。特に、歴史的な積み重ねがあり、どの程度の先行研究があるかが分からない。そして、研究を進めていくうちに、自己の研究が既に手掛けられたものと分かった時は、取り返しがつかない。研究中そのような煩悶は絶えずつきまとう。そこで、その悩みを払拭するには、研究のポジショニングを上手に行う必要がある。
 テーマを誰もまだ行っていないと確信が出来るところに設定するのである。それはとりも直さず現在の自分しか出来ないことである。その確信があれば、研究に対する取り組みに真剣になれるものである。
 どれ程のプロフェショナル性があるかを別にして、旅行業者の資格一般旅行取扱主任者を持つ。そして、中南米を含めて数十ヶ国を旅行している。そのような経験から、中南米の日系社会を対象にする。それが出来るのは、旅行業のノウハウと若干のスペイン語の能力があるからである。
 次に、日系社会の研究はその社会自体で移民の歴史という形で研究されている。しかし高齢者福祉に関しては、日系社会の内部でも先行研究は多くない。また日本側からはほとんどない。このようなポジショニングの結果、その社会調査のオリジナリティに関しては問題がないと確信できる。
 研究ではないが日本の国際援助という形で、日系社会に対して高齢者福祉の援助が行われている。そこで、援助という枠を越えて日系社会から学ぶという姿勢を設定した。この点は互酬性という点で国際援助を考える際に、非常に重要な観点を与えるものである。実際、社会調査を進めていく過程で、この学ぶという姿勢は好感をもって迎えられた。
 論文に対してオリジナリティと有用性に重きを置き、その問題設定の範囲や取り組みの難易は問題にしなかった。自分が理科系の論文を査読する場合、オリジナリティと有用性がないものは、「その」論文誌にふさわしくないとして採択してこなかったからである。
 システムエンジニアSEという専門職がある。それはコンピュータの利用者にシステムを設計する仕事である。(ボランティアの)社会福祉士となり社会福祉のSEと自分を位置付けている。介護保険で導入されたケアマネージャの支援システムを設計する。あるいは、介護福祉で情報共有のためのシステムを考える。そのようなことが自分に適している使命である。
 しかし、この研究では最初の電子マガジンで述べたように、情報による支援からボランタリズムに変更した。そのために、対象は同じであるが、情報が後ろに隠れた。そして、システム設計のためのニーズ調査から、介護を含む高齢者福祉のヒアリング調査へと変わった。
 現地では日系二世のボランティアの方々と一緒に要介護の高齢者の訪問を継続した。多くは会話の相手であった。麻痺部分のマッサージや体位交換や車椅子への移乗を援助したりもした。このような高齢者介護は、社会福祉士の施設実習以来の経験であった。しかし、これら自体は普通の高齢者介護である。論文の材料としては役に立つとはほとんど考えられない。
 そこで週末に入植地などに行き、精力的に人的ネットワークを広げた。そして、出来るだけ高齢者の集まるところへ出かけていった。それは、県人会やゲートボール大会であったり、キリスト教の教会であったりした。また、集会ではないが養老院であったり老人ホームであったりした。それらの場で、これまでの日系社会で行われてきた助け合いについて教えていただいた。
 それらの内容に対して詳細にメモを毎日作っていった。そのメモをインターネットのメールで日本に送り、レスポンスが来るところを更に掘り下げていった。この社会調査は後日まとめたものでなく、リアルタイムに近い形で進行していった。そしてレスポンスに対してまた掘り下げた内容をメールで送るという往復書簡の型で進めた。
 あるときは、逆に日本社会や組織の悩みをカウンセリングをするようなところもあった。そのような心理的な葛藤の内容も、背景を日系社会あるいは南米社会に移して論文の材料にした。論文の具体的なテーマは幾つかに別れ、それぞれ有る程度独立している。そのようなテーマをブラジル・アルゼンチンの日系社会について十程度作成した。
 日本に帰国してから、それらをまとめる意味で日系社会から学ぶという位置付けの第三章を作成した。そして、テーマに併せて結論を付け加えた。結論部分は従来からのくり返しである。しかし南米日系社会の社会調査を行うことにより、少し進展がみられた。
 後の作業は、論文のスリム化である。最初に叙述する時にはなるべく多く盛り込むようにした。後から足りない部分を補強するのは多大の労力を必要とする。それに対して、スリム化をはかるには、若干の言い回しの変更はある。基本的には削除であるからエディタで容易に行える。まず、第一章のボランタリズムについてを半分程度に圧縮した。特に直接引用が多い部分は、まるめた表現にして量を減らした。特に、列挙してあるところは、論旨に大きな影響はないのでキーワードだけにした。
 その後で、英文のアブストラクトを作成した。これはダイレクトに書き下した。
 次に、第2章の社会調査の部分で日系社会など重複して出てくる内容は全面的に削除した。そして社会調査の場に出てくる必要最低限度に留めた。この部分も結局スリム化の一環と言える。このようにして、一章、二章の大部分は全体を書き終えてから全面的に手を入れて、内容のコンパクト化をはかった。
 最後に日本語の論文要旨を作成した。これは英文のアブストラクトとは全然別のものである。書き残した部分は時間の許す範囲で、帰国後資料を調査し書き加え追加した。


「論文提出を終えて」   国際情報専攻  高橋雅明


(略歴)昭和38年北海道出身,現在は日本橋にあります証券会社勤務です。
趣味はスポーツ全般,とくに野球が好きで,また最近は運動不足解消も兼ね
月に2回位ハイキングに行っています。
もしご都合が宜しい方はぜひ一緒に行きましょう。とても気持ちがいいですよ。

 今回の研究論文提出に関して、また色々な自己発見をしたようです。もちろんいい意味での発見ではありません。その発見および感想を多少噛み砕いてご説明いたします。
 まずはスタート(時期)についてです。私は研究論文のタイトルを「企業至上主義からの脱却」として一応の提出を完了させましたが、実際に提出用として本文を書き始めたのが昨年9月に入ってからでした。
 入学して研究論文の提出時期が明示されているのにもかかわらず(つまり約2年もの時間がある)、長期的・中期的・短期的どのレベルでの計画も立てられず、カレンダーの締め切りから逆算した仕上げぎりぎりの日にちから書き始めた次第です。これはレポート提出でも同じ事でした。不思議なもので取組んでいない時期を他の遊び等に振り替えていたと思われるでしょうが、実際の形は“遊んで”いても心ここにあらずで、案件が常に気になっていました。これは論文、レポートとも共通の状況でした。結果的には失われた時間は悩んでいただけであったようです。やらねばならない事を忘れさせてくれないのは人間がモラルを失わない為に備わった警告機能かもしれません。私としましてはギリギリ=プレッシャーも今回の大学院と一緒に卒業したいと願っています。
 次に進捗状況です。スタート時は人それぞれ異なります。進捗状況もこれまた人により差があるものです。これは書き方によっても違ってきます。初めから順番に書き進めていく人、資料を充実させて短期間で一気に書き上げる人、とにかく書けるところから書いていく人など、持ち時間によっても変わりますが、私の場合はどちらかというと書けるところから書いていくタイプだと思っていました。これはいつも時間に追われ、限られた時間で“とりあえず”の完成を最優先させる癖がそのままついたのか、あるいはギリギリを未だに続けているかのどちらかで、自分では決して良い方法とは思っておりません。ただし、一度書き始めると「進んでいる」という実感が湧きますので、スタート時期が相応のものならばお勧めできる書き方ではないかと思います。話が多少それましたが、進捗というくくりでは実際に「書く」にはどれが自分にあっているかで決めたほうが良いと思います。その為には構想ではなく「実際」に書く時期をとにかく早くする事である。考える事と形に現すことは似て非なるものである。こう書くと違和感を感じる方もいると思います。考えなければ形にできないではないかと。しかし考えても動かなければ決して形にはなりえない。そして動けば考えなくても何らかの形になるものである。我々は考えを「形」で提出するのである。ですから実際に動く事が何より大切である。動きながら考えればいいのであって、何も考えないで動くことなんて所詮できないのである。また進捗に関してもう一つ大切なことは「刺激」である。これは他人との情報交換の中で自分自身の現在の位置を確認することである。「通信教育」は誰かから監視されているわけではないので、何もしなければあっという間に月日は経ってしまう。自主的に動く事の難しさは殆どの人々が理解しているはずであり、いつでも時間を有効に活用できる反面、時間の使い方がどうにでも変わってしまうのである。人間はやはり比較、競争する事によって張りあいや喜びが生まれる一面も持っているので、常日頃から他の学生との意見交換が自分の進捗状況をチェックする上で重要であると思う。
 三番目に自分の年齢です。これは何歳だからどうのこうのというものではなく、私の場合、生涯学習のスタートとして日本大学の通信制大学院に入りました。と言うのはうそでして当初はキャリアアップの為に(つまり学歴を上げるため)に入学しました。ところがレポートおよび論文にとりかかり時間が経っていくうちに、決して苦痛ではないプレッシャーを感じ始めました。私は現在37歳で普通の会社員ですけども、会社では味わう事のできない「自分だけのプレッシャー」「自分だけの世界」があることに気が付いてきました。
 楽ではないだけに「終わった爽快感」が味わえる自分を見つけました。私がこの項で「年齢」としたかは、無駄な時間を使って同じようなことを悩み繰り返していく時間がもったいないと感じ始めたからです。前に進む事はとても楽しいことです。時には悩む事も無論大切です。しかし、世の中覚えることは無限大に近いくらいあります。先ほどの何もしなければ月日は無常にも経っていくことは年月も全く同じ事です。懸命に取組めばたとえ人に評価されなくても自分自身の財産になるはずです。私自身、今まで何をしてきたか自信を持って“自分”に言える時期はごく短期間であることに気付かされます。
 そんなこんなを考えますと、大学院は決して「終着点」ではないと思います。勿論それが悪いという意味では毛頭ありません。この大切な経験を次にまたは現在に生かしていきたいのなら、とにかく早く具体的に動く事だと思います。論文に関してはつまり早く書き始めることだと思います。懸命に取組むことの効用はそれによる新たな発見をいつも伴うことではないでしょうか。
 以上が自分を反面教師とした私の率直な感想です。


「修士論文は、感謝の!でも、〈必然〉?」   文化情報専攻  冨田和子


「修士取得記念号」〈修士論文執筆の苦労譚特集〉とのこと、喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉のように、今は眼前の雑務(職場の改修工事のための引越し用荷造り・片付けなど慣れない作業)に慌しく、疲労し苦労しているのですが・・・。(実のところ、本当に大丈夫かしらと不安を感じつつ、無事修了できると思い込んで書くことにいたします)。

 さて、提出した論文の題目と要旨(200字)は、次の通り。
題目:藤村童話 ――『力餅』の可能性とメッセージ――

要旨:まず、藤村の子供観やユーモアの理解度と意識を確認し、藤村童話『力餅』の可能性を検討した。次に、藤村の生立ちを重ねながら、『力餅』に描かれている時代の庶民感覚を意識して、読み取れる藤村のメッセージを検討した。その結果、日本浪漫主義の新体詩人であり、日本自然主義文学の代表作家であるという従来の評価に安住しないで、彼の「童話は残るかと思いますが」と言った言葉に芸術家としての冒険心を見出すべきである。

 ところで、受験当初、提出した研究テーマは「庶民感覚と現代文化」。具体的内容は、藤村の童話を、私のこれまでの、江戸時代後期から現代に至る、特に東海地方独特の庶民文芸で、雑俳に分類される狂俳研究で培った幕末以降の民衆に支持された雑俳感覚をベースに切り取って、藤村の「飯倉だより」の「童話」に載る「大人に聞かせたいことと、子供に聞かせたいと思ふことがある。」という言葉の中の、特に「子供に聞かせたいと思ふ」情報から、童話の本質を窺い、次世代に発信する文化や思想傾向を探るというものでした。
 そして、その中心は、私のこれら別物に見える文芸への関心を、庶民感覚と現代文化をキーワードに止揚させて、とらえる方法を見つけるというもの。作品に現われたコミュニケーションの取り方や行動、また社会の一員としての役割や、噂なども含めて入ってくる情報に対する対応の仕方など感情が起因した様々な側面を、学際的に研究する方法を学び、作者たちの関心から文化の発信する情報を読み取る手法を研究したいと感じていました。
 とはいえ、入学後、アプローチの方法を変更し、また元に戻す・近付けるといった迷いもあって、結局、入学当初めざしたテーマの解決までには至らず、今後の課題に残ってしまいました。でも、受講したすべての科目の学習を通して、示唆を受けたところは不思議に多かったと感じています。

 それは、まず、一年次に、「比較文化・比較文学特講(世界の中の能)」と「日英比較文化・比較文学特講」を受けて発想を得、「『力餅』と『ハムレット』――藤村童話から――」(「椙山国文学」第二四号 椙山女学園大学国文学会発行 平成12年3月 P67〜P79 )を論じることができました。(何とも恥ずかしくて、抜刷をお送りせず、申し訳ございません。)因みに、要旨は、藤村の西洋文学の影響を童話にまで広げ、藤村童話の内、青年期の体験等を題材とした『力餅』への『ハムレット』の内面的な影響をよみとり、表現しようとしたところを検討し、教訓的・教育的に捉えられがちな藤村童話ではあるが、青春の中でパラドックスに陥って苦悩するハムレットのような悲劇を避けて、新しい時代が到来する中で、『力餅』は「自由な舞台」に生きるための表現を試みたものであろうと結論付けました。
 次に、二年次には、「アメリカ文学特講T」と「国際コミュニケーション論特講」を受けて発想を得、「藤村童話と『フランクリン自伝』」(「椙山国文学」第二五号 平成13年3月発行予定)を論じることができました。要旨は、藤村童話四作と『フランクリン自伝』を、パブリックコミュニケーション研究の一問題点、メッセージの送り手の信頼性を意識して比較し、類似点等から検討し、両者の示した教訓の度合も影響力も違うものの、疎外からの救済を求めて、幼年期からの自己の体験をユーモアで演出して描き、子供に演出したい自分自身の存在を伝える目的が共通する。藤村童話の根底にある「子供に聞かせたいと思ふこと」は、自分自身の存在であると考察いたしました。
 更に、修了のための単位にはならない聴講で、国際情報専攻の国際情報論特講T夏期スクーリングに参加し、特に、昭和初年頃に始まった円本ブームの状況がよく理解でき、藤村を論じるに際し、有益でした。(単位にならない代わりに、リポートを出さなくてもよい気安さはありました。そして、どなたとも面識のない、専門外の、しかも門外漢の私を、授業後のハッピーアワーでも気安く受け入れていただき、更に、五限目に開講された特別講義の先生方にも、素人の質問に驚かれつつもご教示いただき、本当にどうもありがとうございました。)

 ご存知の通り、「比較文化・比較文学特講」は必修科目ですし、「日英比較文化・比較文学特講」には、藤村作品との比較が含まれていたため、藤村に惹かれて受講を決めました。国際情報論特講T夏期スクーリングの参加は、藤村の生きた時代の出版事情や日本における国際認識の変化とメディアの変遷を把握するといった点に惹かれて聴講いたしました。
 でも、二年次の「アメリカ文学特講T」と「国際コミュニケーション論特講」の受講は、予想外の行動でした。それは、一年後期リポート提出後の研究科報(平成12年1月28日付)で、初めて、文化情報専攻の単位では、英語の専修免許状の取得申請しかできないと知り、英語の普通免許状は持っていないのに、その単位を取得しようと欲張ったための行動だからです。この行動は、「日米比較文化・比較文学特講」をも履修登録させました。
 偶然、履修登録した「アメリカ文学特講T」で『フランクリン自伝』を読み、「国際コミュニケーション論特講」でトマス・カーチマンの『即興の文化』を読み、「日米比較文化・比較文学特講」でピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を読み、これまで知らなかったアメリカ文学・文化に接しました。別々に提示された教材によって、これだけ初期から現代までのアメリカ文学・文化に出会えたことも予想外でした。
 その上、「日米比較文化・比較文学特講」で『万延元年のフットボール』を読み、「近代日本文学特講V」で『小説の経験』を読み、ノーベル賞作家として世界的評価を得た大江健三郎に触れたことは、戦後の世界的文化潮流をも視野に入れて、修士論文を考えることができ、とても有効でした。
 どの教科においても、楽しむための読書にとどめず、リポート作成のために作品を読み込むという行為がよかったのでしょうか。

 とはいえ、修士論文作成のための特別研究の他に、欲張って二年次に五科目も履修登録したため、結局は二科目を断念し、英語の専修免許状取得のための単位は満たせませんでした。が、不思議に連鎖し、示唆を受けていたと感じています。「比較文化・比較文学特講」では、〈必然〉ということを学習したことが一番印象に残っております。まさに、それを体験した思いです。
 他には、修士論文の形式を、課程博士の論文の形式と勘違いしていたため、二年の八月下旬に行われた特別研究スクーリングで、論文のはじめに研究史が必要とわかった時、慌ててしまったことが挙げられます。それは、藤村童話が彼の伝記研究や詩や小説の研究の中で触れられることはあっても、それらの研究に比べて、藤村童話の研究はとても少なかったことと、文献収集は心がけていたものの、何と言っても、まとめていなかったからです。そこで、

アドバイス
  @体調に気をつけよう。(特に、二年次によく風邪をひいてしまいました。)
  A感謝しよう。(次第に実感されると思いますよ。遅くとも修士論文の面接試験までには。あらゆる点で恵まれ過ぎていて、鈍感になってしまっていない限り。)
  B研究史は、遅くとも、一年の後期リポート終了後にはまとめてみよう。
  C参考文献はまめにリストにしておこう。
  Dメモ用紙をあちこちに置いておこう。
  E意外な科目も受講してみよう。
  F〈必然〉を信じよう!
 では、どうもありがとうございました。中には一度も面会致さぬままで、Eメールや電話などでのご指導やご著書を通して、不思議にお人柄を想像してしまいながら、まるで江戸にいた賀茂真淵と伊勢松坂にいた本居宣長の関係のようだと自惚れて、苦しくも興味深く面白い時間を過ごすことができたと感じております。所謂、中年になってからの入学で、特に精神・思想面で成長の糧を得た気分です。
 ヘルプデスクと事務課の皆様にも大変お世話になり、本当にどうもありがとうございました。
 これからの皆様もきっと同様な気分になられることを予測できます。頑張ってください。


「ちょと一言よろしいですか」   人間科学専攻  土屋八千代
 


(略歴)人間の心理や行動に関心があり再学修のため入学しました。
特に今日のStress社会の中で,いかに健やかで自分らしい人生を生きるか≠ネんて考えています。
目下,勤務の関係上「看護学生のStress認知とCoping形成」について研究をしていますが,自己のStress・Managementも含めて,院での研究は看護婦の行動分析です。

 みなさん,初めまして。先日やっと修論の面接が終了しました。優しい中にも学問の厳しさをキラリかいま見せながらの教授達の質問の一つ一つがまた勉強になりました。今は「やっと終わった」という思いと「もう終わり?」との複雑な思いが交差していますが,少しだけでも成長した自分が実感できます。忙しいを理由に不真面目な学生であった私に根気よくつきあって下さった河嶋先生やゼミの皆様方に感謝します。
 今回は『修論奮闘記』の特集です。現在またはこれから研究活動に向かう皆様方に,何らかのお役に立てばと思い以下のようなことを書いてみました。よろしかったら参考にして下さい。

1.まず最初に,私の研究活動の実践からお勧めの内容を一言。
1)研究の計画書は研究活動の道標となりますから,しっかり書きましょう。
  @動機:何をしたいのかを自分の問題として明確にするためにも,課題を取り上げた動機はしっかり書くこと。内容は問題意識とその問題に対する現状の分析,ならびにその課題の社会的意義も記述しておくとよい。この部分は研究に行き詰まった時きっと役にたちます。つまり,いつでも初心に戻れると言うことです。
  A文献レビュー:研究の課題に関する文献を遡及的(約10年間くらい)に検索し,課題がどこまで解明されているか,残された課題はどこか等を充分に吟味して,自分の研究課題の位置づけを明確にしましよう。つまり,新しい知見の発見か,成功例の追体験か,現状の問題解決か等。この段階で研究の目的を文章にしておきましょう。文献は整理して,文献記載の規定に従って必要事項を記載した文献カードを作成しておくとよいでしょう。次に,文献の批判的熟読の結果,自己の研究の理論的背景や概念枠を検討します。この時仮説やデーターの分析視点などを明確にしておきます。
  B研究方法:対象者やデーター収集・分析の方法等を含め,研究のデザインを決定します。特に何をデーターとするのか,収集の方法は調査か実験か観察か・・・,介入を行うのか,データーは誰がどのように収集するのか,場所や時期は,分析には統計的処理を行うのか否か等など具体的に検討しておきます。
  C研究スケジュールの明記:研究には制約があります。自分の能力,時間,費用,倫理的問題等を考慮して,研究の目的や方法を決定していきます。最終論文締め切り1〜2週間前位を終了の目安にしてスケジュールを立てます。計画は予定通りには進まないものですから,早め早めに締め切り日をもうけて,自分に”はっぱ”をかけることが必要です。
2)データー収集活動:介入する場合は特に倫理面に注意が必要です。
3)データー分析作業ならびに結果の整理:膨大なデーターの山につぶされないように。
4)論文構成と仕上げ:論文の構成や書き方は専攻分野別に一定ではありませんが,科学論文としての基準はありますので,他者の原著論文を評価的に多数読むことをお薦めします。その結果,自分の論文の構成や書き方について学べると思います。

以上の活動は,研究活動開始時に時間をかけて『研究計画書』をしっかり書いていれば,実際のデーター収集・分析はもとより,論文書もスムースに進みます。論文の序論から研究の方法まではほぼ『計画書』の通りに書けばよいのですし,あとの作業は収集・分析したデーターを結果として図表等で示すことと,結果の解釈を含めて研究の目的に沿って考察を書くだけです。これで,論旨の一貫性が保たれます。最後に「結論またはまとめ」を書くと論文が締まりますし,読み手には親切というものです。
 とは言え,データー収集は相手がある場合は相手に合わせないといけませんし,データーの分量が多い場合等は整理や分析に時間を要するので計画段階での十分な吟味が必要,さらに論文での考察部分では,第二次文献検索が必要になってくる場合もあります。つまり,研究活動は膨大な時間を消費しますし,予定通りには進まないものですが,少なくとも計画書をたてて予定したスケジュールに従って実施していくことで,期限内には仕上がると思いますので,頑張って『計画書』を立てて下さい。また,指導教官との十分な連携が重要で,特に研究に慣れない方は適切な指導の機会を得ることが必要ですし,こちらの積極的姿勢に教官はいつでも応えてくれます。

2.私の研究課題は,看護大学生のストレス・マネジメントに関する研究〜ストレスと健康の体験学習を通して〜です。私は,学生のストレス耐性づくりについての教育的な関わりを継続的に研究してきました。今回は,Lazarusの心理的ストレスに対する認知的評価と対処の理論を看護教育の学習−教授過程に導入して,大学での体験的な学習を通して意図的に学生のストレス対処行動の変容を試みようとしたものです。
 結果的には,授業期間内に実施したことや集団を対象としたことなどの研究の限界がありますが,大学生のストレスの構造が判明したこと,体験的学習前後の比較から,ストレスへの受け止め方が肯定的に変化し,問題解決の具体的対処行動が多様化したことが判明し,介入が対処行動変容への動機付けとして効果的であったことが明らかとなりました。
研究活動において苦労がなかったわけではありませんが,今まで感覚的であったことが実際の数値として明らかになったことで,教員としての今後の方向性が明瞭になり,苦労が喜びに倍加されました。本当に実りの多い研究活動でした。
 研究者ではない現場での実践者である私達が研究するとはこのようなことだと思っています。身近な小さな疑問からスタートし,その疑問が一つずつ明らかになっていく,そのプロセスや結果を実際の仕事に活用していくこと,それに伴って確実に成長している自身を自覚できる喜び・・・みなさんにも早くこの喜びを実感してほしいと思います。しかし,この喜びを実感できるのは,日々努力し頑張ったと胸を張れる人だと思いますし,先生や学友,事務やヘルプデスク等,多くの方々の支援のおかげがあってこその成果と思います。,通信制ゆえのデメリット(多くの先生方との直接的な触れあいが少ない)の中でも,私の場合はスクーリングでの講義はもとより,履修した科目の課題レポートを通して多くの学びがありましたし,その学びは研究のみでなくそのまま仕事上に有効活用しています。これが働きながら学ぶ生涯学習のスタイルかな,などと思っています。
 今回,種々の事由で修論が提出できなかった方も,これから取り組む後輩の方々も,十二分に自己発揮できた研究成果をまとめられることを期待しつつ,学院で多くの人々に出会えたことを感謝しています。有り難うございました。


「卒業必要最低30単位の意味」   国際情報専攻  渡辺康洋
 


(略歴)所沢からほど近い東京都板橋区に住んでおります。
旅行会社に勤務し20年になりますが、ずっと海外旅行を担当してきましたので、国際観光のテーマについて研究をするつもりです。
若い頃は添乗員として世界中をまわりました。
海外旅行を計画の方、ご連絡をください。何かお役に立てることがあるかも知れません。

 クリスマスイブの日曜に私は修士論文の原稿を書き終えた。概ねスケジュール通りだった。分量は、参考文献や目次のページを入れると70枚ちょっとになった。修士論文としては、やや長い部類に入るそうだ。しかし、原稿が終了しても、その後、目次、注や参考文献の記述スタイルの整理、そして要旨の作成などまだまだ作業があることはわかっていた。だから、お正月休暇をいれても一ヶ月弱くらいはさらに時間が要るだろうと踏んでいた。果たして、論文の最終的な完成はぎりぎりになった。郵便局から大学院事務室宛に郵送手続きがとれたのは、締め切りの前日だった。予想していた通り、原稿終了後の作業はかなりヘビーである。それまで引用箇所などは、いいかげんに付箋を貼っておいただけだったので、あらためて一冊ずつ出版社や年度を調べなおさなければならなかった。これにけっこう時間がかかった。また、印刷も大仕事である。70枚からのプリントアウトは、だいたい途中で何かトラブルが起こる。そもそも私の原稿はグラフが多かったせいもあり全体で7MBもあるのだ。安いプリンターでは、すんなりと一発でうまくいくはずもない。副本は簡易製本して3部提出することになっている。やっとの思いで、完成したプリントアウトを持って、キンコーズで製本してもらったが、終わったあとで要旨を含めるのを忘れていたことに気づいて、すべてやり直し。大学院は決して楽には卒業させてはくれないのだと実感した。
 私の論文のタイトルは、「Economic Condition of a Tourist Destination and How it affects the Japanese Travelers」。日本の経済状況ではなく、相手国の経済状況がその国へ旅行する日本人観光客数にどのような影響を与えるか、という研究である。結論を言ってしまえば、日本人は景気の良い国に多く旅行する。景気が悪くなるとあまり行かなくなる。その証明に際しては、悲惨指数(失業率と消費者物価指数の和)や、メディアに表れた経済記事数などと渡航者数との関連を、相関係数を用いて分析した。旅行会社に勤務してきてなんとなく実感していた現象をまがりなりにも科学的に立証することができ、自分なりに満足している。
 論文の原稿を書き始めようと決意したのは、7月中旬である。このスタート時期に特に根拠はない。おそらく、前月末に大学院に論文テーマを正式に提出したこと。同じころ指導教官の近藤先生のゼミがあり、論文骨子について最後の発表を終えたこと。そして会社で夏休みのスケジュールをきめる時に(当社は7月から9月いっぱいに夏休みをとることになっている)、あらためてカレンダーをじっくりながめることになり、意外に時間がないことを思い知らされたことなどが理由である。
 しかし、幸いなことに原稿を書き始めるまでに、論文のいわばストーリー展開はかなり細かく決まっていた。すべて近藤先生の導きによるものだが、一年次後期のリポートが終わったころに、とりあえず目次を書いてみろとの指示。つづいて序文を書けと。それと併行して参考文献をリストアップした。これらの一連の作業で、論文構成の下地が自然と、かなりの部分できあがってきた。そして春の所沢でのゼミでは、そのころたまたまパソコンをいじっていて面白くなっていたパワーポイントを使って発表をしてみた。6月のゼミ時は全員がパワーポイントを使用することになったので、私には一回目のものを改訂するチャンスが与えられた。振り返ってみると、パワーポイントの各ページが論文の章立てとほとんど一致している。大変有効な作業であった。また、私の場合ゼミ時の先生や同僚からのアドバイスやコメントがヒントとなっていくつか新たな章がおきている。自分では見過ごしていた点がずいぶんとあったということである。ゼミで他の人の意見を聞くということがいかに大切であるということか。
 さて、私の論文の長さ約70枚というのは、論理展開上70枚が必要だったというわけではない。なぜその長さになったかというと、7月中旬に執筆スケジュールを考えた時点で、70枚以上は書けないということがわかっていたからある。それはなぜか。それまでの履修講義のリポート作成経験から、週末に自分が書くことができる枚数はせいぜい4枚であることがわかっていた。そして、原稿を完成させようとしたクリスマスイブまでの週末の回数から、前期リポート作成のために論文には時間がさけない週末や、すでに決まっていた会社の出張予定などをけずってゆくとせいぜい14〜15回しか週末がなかったからである。フルタイムの勤務をしながら大学院の勉強をしようとする者は誰もそうだと思うが、実際勉強にあてられる時間は週末に限られる。ウィークデイはかなりきつい。そこで毎週末4ページを書くという必達ノルマを自分に課した。尤も執筆も半ばを過ぎ、ある程度終わりが見えてくると心に緩みがでるのかサボりぐせがつき、土日には書けずに月曜の晩会社から帰って深夜まで書くことも何回かはあった。(晩秋の火曜日の会議では、あくびばかりしていた。)しかし、概ねこのスケジュールをこなすことができ、原稿完成にこぎつけることができたのである。
 このように私の論文執筆にとって、自分が書くことができる量がはっきりと把握できていたことが大きかった。これはそれまでの前期・後期のリポート作成作業から得た経験則であった。これらリポートの作成は、書くことの練習でもあり、書くことに要する自分のエネルギーの計測機会でもあった。入学時に、大学院とは自分でテーマを決めてその研究を2年かけて自分で実行する場所だとのお話があった。しかし9月と1月の前には、それならば、なんでこんなに何本も研究に関係のないリポートを書かなければならないのだと、おおいに憤慨したものだ。なぜ論文以外に24単位もとらなければならないのだ。
 ところが論文を書いてみてやっとわかった。そうではないのだ。卒業必要最低の30単位はむやみに決められているわけではない。考えて文章を書くトレーニングのためにどうしてもその程度は必要なのだ。そして、リポート作成は、自分が文章を書くのにどのくらいの時間がかかるかを知るために行うのだ。―――でも、だったら最初からそう言ってくれてもいいのに、とも思う。


「空を舞う手の意味を求めて」   文化情報専攻  棚田 茂
 


(略歴)言語としての手話が再認識され,自然言語として手話における言語芸術,言語美が注目されています。
    言語学的研究は最近,盛んですが,詩学,文学における研究はまだ未開拓の分野です。
    そのパイオニアになろうと思っています。よろしくお願いします。

論文題目「詩的手話のリズム研究」

【なぜ、このテーマにしたのか】
 ろう者である私が取り組んだ論文のテーマは「詩的手話のリズム研究」。手話をテーマにしたものは文学研究、言語学研究ではマイナーな方だ。その中でも特に「詩的」なものに絞った研究は、ほぼ皆無に等しい。未開拓の分野で研究することはある意味では大胆な挑戦であろう。何故、詩的手話が「詩的」に感じるのかを追究したのが今回の修士論文の主要テーマである。
 詩的手話の存在を確信したのは、1997年にアメリカから来日したClayton Valli博士との出会いであった。彼は手話学・手話詩学の博士号を持つろう者である。彼が披露して見せた手話詩が私を手話詩学研究に追い込んだ。彼の手話詩の作法の施しを受け、これをもとに日本における詩的手話といわれるものを分析した。
 アメリカにおける手話詩学研究は手話音韻論研究の発展と共に発展していったが、手話詩学はまだまだ始まったばかりである。日本においては手話の言語学的な研究がようやくスタートしたばかりであり、文学的側面からの研究はまだなかった。手話にも文学的要素があるということは経験的に分かっていたが、どのような面で文学的なのか、それを言語学側面から追究しようとする試みは無謀とも思えた。しかし、このテーマでやらなければならないという私の意志が私自身を動かしたのである。

【研究生活で・・・】
 大学院では、上田教授の下で修士論文を作成することになったが、修士論文作成以上に私は上田教授から大きなことを学んだ。実に人生におけるルネッサンスであった。すべてのことに意味があり、小さな出会いでもその人にとっては意味がある。その意味に私は今まで気付くことなく過ごしてきた。上田教授の専門は融合文学としての英語能・シェイクスピア能研究であった。これらの研究が私のテーマである「詩的手話のリズム研究」とどのように結びつくのであろうか。入学案内パンフレットに載っていた上田教授のプロフィールを読んだとき、全身に電撃が走ったことを今でも覚えている。「こ、これだ!」そう、上田教授が研究されている英語能がそのまま手話詩研究に応用、あるいは大いに参考になるはずであると思ったのである。そして、それは間違いではなかった。上田教授が担当しておられた「比較文化比較文学特講」における「世界の中の能」で実際に能というものに触れたとき、至福の極みに至ったような錯覚にとらわれたのである。実技で仕舞「熊野」「高砂」を学び、その中から精神的高揚を覚えたばかりでなく、かねてから研究テーマにしていた手話詩との共通性を見出すことができたのである。ここに日本大学大学院で学ぶことの意味と上田教授との出会い、そしてゼミの仲間達との出会いに意味を見出すことが出来たのである。
 手話能の可能性を探りつつ、手話詩の言語学的分析、リズムの研究を進めてきたが、手話詩の構造、リズムが明らかになるにつれ、ますます手話能の創作は可能であるという確信を持つに至った。それらを総括して修士論文にまとめたつもりであった。

【修士論文口頭諮問面接とその後・・・】
 苦しかった修士論文作成。ゼミの仲間達とe-mailで励ましあいながら1月14日の提出日までずっとパソコンと向かっていた。ゼミの仲間からの励ましの言葉がなければ、到底提出できなかったかもしれない。ゼミの仲間達には感謝したい。また正月を返上しての上田教授との手紙のやり取り、e-mailのやり取りは論文を作成する私にとって、とても心強く感じられた。
 そして、正本・副本を含めて4部作成し、1月14日に届くように1月12日の朝、郵便局に出した。それから1月27日に日本大学会館(市ヶ谷)にて修士論文口頭諮問面接を受けた。私はろう者であり、口頭諮問においては手話通訳者を同伴することが認められていたので、手話通訳を介した面接を受けることができた。私の論文は手話に関する論文であり、手話に見識の深い先生にも見ていただくことになっており、それを含め、いろいろ厳しい指摘を受けた。各々の指摘は、もっともな指摘であり、論文を書き直すべきであると痛感した。更に二週間の猶予期間が与えられたので、手話に見識の深い先生のところに行って指導を受け、更に上田教授の指導のもとで大幅改訂を行った。わずか2週間であったが、半徹夜を貫き通し(昼は仕事、夜は家庭サービスのため、実際に取り組むのは深夜になってからであった)、なんとか満足の行く論文に仕上げることが出来た。
 この2年間における手話詩に関する研究、能に関する研究を経て、融合文学としての手話能へのステップとして、今回の修士論文という形で提出できたが、まだまだ手話詩研究、手話能研究は始まったばかりであると思っている。日本大学大学院で過ごしたこの2年間は、実にこれからの人生においてのライフワークの基盤を築けたように思う。私は日本大学大学院、そして特に上田教授に感謝の意を捧げたい。

【番外】パソコンと仲良く・・・
 苦しくもあり、楽しかった、修士論文作成!トラブルが多発し、論文完成が危ぶまれる事態に追い込まれたりしたが、得るものも多かった。特に、私の論文ではドイツのハンブルク大学で開発されたHamNoSysという手話フォントを使うという特殊なものであり、Windowsではなく、MacOS上でしか認識できないものだったのである。論文完成のためにはMacOS搭載PC(PowerMacintosh)をどうしても使わなければならなかった。当時、Microsoft社が出していたOffice98上で論文作成に取り組んでみたが、うまくHamNoSysフォントを入力できなかった。修士論文提出には原則としてWordファイルでの提出とあったからである。他のワープロソフトウェア(NisusWriter)で正常に入力できることが分かったため、指導教官にお願いして他のワープロソフトでの作成を認めていただき、作成に取り組んだ。順調に進んだと思えた論文作成だったが、問題が一つあった。論文にたくさんの画像ファイルを使用するため、どうしてもファイル容量が大きくなってしまうことであった。ファイル容量が17MBを越えた時点で、NisusWriterは「これ以上保存できません」とエラーメッセージを出し、論文作成がこれ以上できなくなってしまったのである。NisusWriterの製造元に問い合わせると仕様だということで対応できないという返事(修正不可能の意味)が。途方にくれたところへ朗報が。Microsoftが新しいOffice2001を発表したのである。Office2001を購入して、論文作成を進めたところ、文字化けがひどい状態であり論文作成どころではなかった。アメリカの友人のところでも同様の問題に遭遇しており、Microsoftに問い合わせて調査したところ、HamNoSysフォントが特殊なフォントであり、そのためにシステム全体に影響していることが判明。回避策をMicrosoftから教えてもらい、ようやく論文作成に取り掛かることが出来たのである。そのときは既に12月上旬であった。論文に画像を貼り付けていくとどうしてもファイルが大きくなってしまう問題があり、聴覚障害者コンピュータ協会が主宰しているメイリングリストで回避方法を問い合わせてみたところ、画像ファイルをリンクする方法があるということを教えてくれ、ようやく本格的な論文作成に取り掛かることが出来た。そのときは12月半ばにさしかかっていた。今回の修士論文作成は未開拓分野への挑戦と共にパソコンとの孤独な戦いでもあった。ちなみに私のコンピュータ暦は12年であり、Windows、MacOS、Unixにも使い慣れている。にもかかわらず、このようにして苦労を強いられたのである。ここで得た教訓は、トラブルがあっても必ず解決する道はあるということ、そして私が必要としているときに、必要なものが向こうからやってくるということであった。
 また、手書きの画像をパソコンに取り込むべく、スキャナを購入したが、実に便利なものであった。上田教授からFAXでいただいた資料を論文に加えるときも、スキャナが大活躍した。FAXで受信したものは解像度が低く、汚くなってしまうのである。それをスキャナで取り込み、画像処理を施したところ綺麗になったので、文明の利器に感謝せずにはいられなかった。


「修士論文を終えて」   国際情報専攻  添谷 進

(略歴)昭和39年生まれ 36歳。
    職業:千葉県庁
    趣味:合気道、読書
文武両道を目標として大学院に入学。休日の昼間は合気道場、夜は学問、
平日は、もちろん仕事に全力。とても幸せな時間を過ごしている。

私が、日本大学大学院総合社会情報研究科を志望したのは、「修士になりたい」これが第一の理由でした。近年増加している夜間や昼夜開講制の大学院も検討しましたが、職業を持ちながら、学習をすることは、時間的、経済的、体力的にも困難を伴うことが予想され、どうしたものかと考えていたのです。その中で、日本大学が通信制の大学院を設置することを知り、「これならば」ということで、早速、願書を取り寄せたのです。
 出願時の研究計画書の段階から、政策形成と世論との関わりについて研究することとして、近藤大博教授にご指導いただくことを希望していました。小論文と面接の入試に無事合格し、2年間の大学院生活が始まったのです。
 この報告では、私の論文テーマ選定の動機と、論文作成にあたっての経験談をご紹介します。

論文テーマについて
 修士論文の題目は、「政策形成と世論」としました。近年、公共事業への批判や、政治不信といわれる状況の中で、官僚や政治家に対する批判が高まり、政治や行政といったものが、我々国民とかけ離れた存在になってしまっているかのようです。しかしながら、政治・行政の活動は、主権者である国民一人ひとりが参加し、責任を持って意思決定すべきものであるはずです。別の言い方をすれば、私たちが一人ではできないことを、資金(税金)を出し合って、我々の代わりに仕事をさせているところ、それが「役所」であるはずです。
 そこで、そもそも役所とは、何をするところなのか、何をするかをどうやって決めるべきなのかということをテーマとして修士論文を書くこととしました。論文の中では、政策の事例として、千葉県が計画している東京湾の浅瀬「三番瀬」の埋め立て計画について、新聞報道を紹介しながら経過を整理しました。東京湾では、これまで、多くの海岸が埋め立てられ、港湾や工業地帯、住宅地へと姿を変えてきました。その中で、「三番瀬」が注目され、その保全が求められるようになった背景には、高度経済成長期における、量的充足を目指す開発の時代が終わり、環境に代表される質的なものを重視する時代への大きな変化があるといわれます。このような、変革期の中での政策の変遷を追い、政策形成のあるべき姿を示すこと、これが私の研究のテーマだったのです。

論文作成について
 上記の論文テーマについては、近藤教授のご指導のもと、1年次の秋頃までに整理し、方針を固めた上で、1年次の後半は、論文構成の検討と新聞記事の収集を進めてゆきました。この作業にあたっては、概ね月に1回のゼミ会合・討論が大いに役に立ちました。様々な職業分野のメンバーからの質問では、自分に欠けていた視点に気づくことも多く、有意義なものであったと思います。
 2年次に入り、前半は「序論」の執筆にとりかかり、夏ごろまでに、一応の素案ができあがりました。この作業を通じて、自分が何を書きたいのか、どのような手法を用いるのか、そのためにどのような資料がいるのか等々、考えが整理できると同時に、その後の課題が明確になることで、「提出期限に間に合うのか?」と、大いに焦りを感じました。
 序論以降の本格的執筆を開始したのは10月でした。この段階で、近藤教授から、11月末までに「草稿全文」提出という期限をいただき、完成までのスケジュールをつくり、可能な限りそれに沿った進行管理に努めました。この時期からは、夜間と休日の多くを執筆に費やし、気力・体力的にかなり厳しい状況となったのです。そして、一応の草稿提出以降の12月も、最終章での結論の整理や推敲などに予想以上に時間を要し、厳しい状況が続いたのでした。
 このように、決して計画的とはいえない状況の中で、近藤教授の叱咤激励のおかげもあって、何とか1月の提出期限に間に合わせることができました。私の場合、時間的に追い込まれないと集中できない性格から、このような状況となったわけですが、賢明な他の院生の皆さんは、より早い時期から計画的な論文作成を進めていたことでしょう。 

全般的感想
 通信教育については、放送大学の経験もあったことから、在宅で学習し、リポートを提出することなどに関しては、違和感なく取り組むことができました。ただ、大学院レベルの教科書や文献は難解なものも多く、リポートの提出に際しては、徹夜に近い状況が何日か続きました(これは、前に書いたように、追い込まれないと集中できない自分の性格によるところが大です)。特に、2年次の後期は、論文の提出期限とリポートの期限が重なり、“とっても大変な”状況に追い込まれたのです。振り返ってみると、「二度とできないナー」と感心してしまうほどです。
 論文を書き終えて、「研究するということ」、「論文を書くということ」について、大いに訓練されたことが大きな収穫であったと思っています(本当は、大学院は訓練済みの人が研究をするところなんでしょうが…)。このたびの論文作成を糧にして、今後、自分なりの研究に取り組み、探求する姿勢を持ちつづけられれば、と考えています。
 最後になりますが、適切なご指導と激励をいただいた近藤教授、リポートを読んでいただいた先生方、そして熱心に議論してくれた近藤ゼミの皆さんに深く感謝申し上げて、この報告を終わらせていただきます。ありがとうございました。


「論文資料収集の旅」   国際情報専攻  村上恒夫
 


(略歴)母親、猫(♀)、私以外はすべて女性という中で、日々女性パワーと戦っています。
お酒が弱いくせにビールが大好きで、中年太りに拍車がかかる日々です。
仕事は防災関係のコンピュータシステムの開発をしていまして、1年の内、約3ヶ月くらいは各地を放浪して、美味しいお店を探して食べ呑みまくっています。

 久々に休みの日ができたので、妻のサービスを兼ねて論文資料を集めに多摩川の上流を訪ねた。
 途中、神社好きの妻が御岳神社に参拝したいと言うので、御岳山をケーブルカーで登った。中高年向けの登山に向くらしく、周りは高齢の方々ばかりで、登山スタイルも決まっていた。その時我々夫婦のいでたちが周囲から浮いているのに気が付けばよかったのだが。。。。
 ケーブルカーからリフトに乗り換え、展望台に降り立つと周囲にはまだ残雪がかなり有り、普通の靴では歩き辛い。なるほど、周囲は登山の格好をした人ばかりなのもうなずける。
 東京とは名ばかりの大自然の真ん中である。我々の靴ではとても先へは進めず、神社参拝は断念した。
 晴れた日には遠く新宿の高層ビル等が見渡せるそうだが、今日に限って、ガスが多く見晴らしが悪かった。
 普段の行いの悪さが出てしまったようだ。
 あまりに寒いため、すばやく下山し、一路奥多摩湖を目指すことにした。
 妻は日大通信の7年生で、崖淵に立たされている。卒業論文は石川達三がテーマだそうで、彼の小説の舞台になった奥多摩湖を見ることで、奮起するそうだが。
 奥多摩湖に着いて、写真を取り資料館を訪ね郷土史の資料などを買い集めた。普段はなにげなく通り過ぎる、このような資料館も、なかなか利用価値があるのだと再認識した。
 強風が吹きすさぶダムの堰堤を歩きながら、必要な資料が果たして十分そろうだろうか? 来年には論文が完成するのだろうか?色々思いを巡らしながら遠くの山を見た。
 そうだ、春になったら真っ先に、この川の水源を訪ねてみよう。この川の最初の一滴をこの手ですくってみよう。
 そして、そのの一滴に心を込めて言おう。これからの河口までの138Kmの旅に一言。
「頑張れ、俺も頑張るから。」



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