多くの支えのもとに

文化情報専攻 2021年度入学 2023年度修了 金丸 真巳

1.はじめに

2020年,私は日本語教師になって12年目を迎えていました。日本語教師になった当初から大学院へ進学したいという思いはありながら,研究と教育を両立するという強い意志が持てず,踏み切ることができないまま時間だけが過ぎていました。今思えば,自身が教育現場で抱える課題を具体化できていなかったのだろうと思います。そのような私が,どのような経緯で大学院へ入学し,修了に至ったか。その奮闘の模様をお伝えし,同じように迷い,悩み,奮闘されているどなたかの励みになれば幸いです。

2.日本大学大学院との出会い

2020年は新型コロナウイルス感染拡大により,日本語教育の現場も大きく変わりました。当時大学の留学生別科にいた私は,日本へ入国できない学生たちと毎日オンライン授業をしていました。入国までには半年以上かかり,また入国後も新型コロナウイルスの流行は収まらず,対面授業とオンライン授業の繰り返しが続きました。対面授業を望む学生たちの「学習意欲」の維持にも,それは大きな影響を与えました。対面授業の際には,積極的に「協働学習」を取り入れ,共に学習する仲間がいることを学生が意識できるようにしていました。それは,「協働学習」を通して,学生同士が対話し,助け合い,他者との関わりの中で学習することが,「学習意欲」の維持に影響を与えるのではないかと考えたからです。しかし,「協働学習」が本当に「学習意欲」に影響を与えているのかどうか,私が学生に行っていることは正しいのかどうか確証がもてずにいました。この自分の中に生まれた課題に背中を押されて大学院進学を決めました。大学院進学の意志は固まったものの,研究と教育以外に育児のことも考えなければならなかった私は,日本語教育分野の研究ができる通信制大学院を探さなければなりませんでした。そのとき,1冊の冊子を開き,「ここは?」と紹介してくれた同僚がいました。そこには「日本大学大学院総合社会情報研究科」と書かれていました。すぐに大学院のホームページを開き,文化情報専攻の教員紹介から「日本語学習者支援」と書かれた文字を見つけました。それが,指導教員となる保坂敏子先生との出会いでした。そして,2021年4月,保坂ゼミでの大学院生活が始まりました。

3.必死だった1年目

1年目は慣れないゼミ活動に,スクーリング,合宿,レポートと,あっという間に時間が過ぎて行きました。入学当時まだ小学1年生になったばかりの娘は3時間,4時間のゼミを到底1人で待つことはできず,当時シングルマザーだった私は,預け先にも毎回頭を悩ませました。ゼミでは出席をしても質問の1つもできず,自分の知識のなさに毎回落ち込んだのを覚えています。レポートはいつも娘が寝たあとが勝負でした。頭の中で考える時間が長い私は,書き始めが毎回遅れ,締め切り間近は朝方までレポートを書き,ゼミの仲間に嘆きのメールを送り,締め切りに滑り込むようにレポートを提出していました。研究は,「協働学習」を実践の枠組みとし,学習者の「学習意欲」の変動について研究したいと思っていた私は,とにかく自身の研究に関わる先行研究にたくさん当たるようにしました。少ない知識を増やさなければ,ゼミでの質問はおろか自身の研究も進まないと必死でした。しかし,子どもがいると予想もしないようないろいろな問題が起こります。娘の学校生活の問題から,2022年1月,大学での仕事を辞め,両親のもとへ引っ越すことになりました。働いている職場を離れるということは,同時に研究のフィールドを失うことを意味しました。「協働学習」を通して実践研究を行う予定だった私にとって,研究を進める上でそれはとても大きな問題となりました。

4.悩み続けた2年目

新しい職場はほどなくして見つかり,日本語学校に日本語教師として復帰することができました。娘も少しずつ新しい生活に慣れていき,ゼミの間は両親と過ごすようになり,私も安心してゼミに参加できるようになりました。すべて上手くいっているように見えますが,実はまだこのとき,実践研究を行う場所が見つからないという大きな問題が残っていました。日本語学校では,チームティーチングを行うため,研究を持ち込むことはカリキュラムに影響を与え,他の先生や学生に迷惑になるという理由から学校長の承諾が得られずにいました。どのような研究者が,どのような思いで,誰のために,また何のために研究をするのか,研究を受け入れる側にそれを理解してもらうことはとても大切です。誰かを対象としてデータを取るということは,研究者にも研究を受け入れる側にも責任があります。突然新しく学校へ入って来た私に,責任を持って許可を出すには時間が必要だったのだと思います。後に研究許可をいただき,多大な協力をいただくのですが,信頼をなくして研究は成り立たないということを強く感じた出来事でした。研究のフィールドが変わると,当然対象者も変わります。2022年4月に入学してきたばかりの新入生は,やる気に満ち溢れていました。「学習意欲」よりも日本へ来たばかりの学生には他に抱えている問題があるのではないか,それは何なのか,学生との対話から見えたものは,日本語を話すこと,聞くことに対する不安でした。そこで,実践の枠組みである「協働学習」は残し,実践を通して学生の「言語不安」の変動を見ることにしました。しかし,研究課題が決まったときには,すでに2023年の冬になっていました。

5.支えられた3年目

3年目を迎え,一緒に入学したゼミの仲間が半分ほどになっていました。修了した仲間の充実感と安堵感に満ち溢れた笑顔はとても印象的でした。また,同時に修了生を見送る保坂先生の笑顔が私にはとても感動的で,学生に寄り添ってこられたからこその心からの喜びがそこに見えました。私も1年後同じようになれるのだろうかと,その頃はまだ自分が修了する姿を想像することができませんでした。

2023年3月には,修士論文の題目が決まり,夏に実践を行うことを目標にし,遅れている分を何とかしようと「言語不安」についての先行研究を読み漁りました。幸い「協働学習」という実践の枠組みを残すことができたため,「言語不安」について調べることに集中できましたが,リビングには先行研究をプリントアウトした紙があちこちに散らばり,娘にも「片づけなさい!」とは言えない状態になっていきました。2023年7月,学生の多大な協力を得て実践を行い,アンケートのデータを取り終えることができました。しかし,いざデータ処理をしてみると,実践を通して軽減されると思っていた「言語不安」は,自分の予想とは反する結果となりました。アンケートのデータ処理をすれば,結果が出て,分析に入ることができると思っていましたが,何度検定にかけても思うような結果が得られませんでした。そのため,なぜ「言語不安」が軽減されなかったのかを探る追加インタビューを学生に依頼することにしました。夏休みにも関わらず,4名の学生が快くインタビューを引き受けてくれ,8月,お盆が過ぎたころ,修士論文に必要なすべてのデータを無事取り終えることができました。10月の修士論文前半の提出に向け,骨子を提出し,9月末の中間発表に出ることに決めました。そこまでにある程度データ処理を終わらせ,自身の統計が正確に行われているか先生方に指導していただきたいと考えたからでした。中間発表で統計についてのアドバイスをいただいたことで,そこからデータ分析までは一気に進みました。保坂先生からは「データとの対話を楽しんでください」とメッセージをいただき,本当にその言葉通り,学生の心の動きがデータから見えてくることがとても興味深く,楽しい時間でした。しかし,それを修士論文に書き起こそうとすると,書きたいことはあるのになかなか上手くいかず,時間だけが無情に過ぎて行き,気が付けば12月の修士論文提出期限がそこまで迫っていました。冬になると小学校ではインフルエンザが流行するものです。娘のクラスは1か月に2度,立て続けに学級閉鎖となりました。親子は運命共同体なので,「頼むからかかるな!かかるな!」と祈りました。結果的には娘が2度のインフルエンザの波に飲まれることなく元気であったことで,この2度の学級閉鎖が修士論文の追い込みを助けることになりました。1度目は職場からお休みをいただき,娘と過ごしながら修士論文を進めました。しかし,2度も続けて仕事を休むことはできないため,母親が1週間娘を見るために手伝いに来てくれることになりました。家事全般を引き受けてくれ,娘のこともお願いし,仕事から帰るととにかく修士論文を進めることに集中しました。執筆が佳境に入ったころには,執筆中の仲間と毎日のように励まし合い,修了した仲間からは毎日のように励ましのメールが届いていました。保坂先生は移動の飛行機の中でまで私たちの修士論文を直してくださり,フィードバックには先生の手書きのコメントがびっしり書かれていました。そのコメントの一つひとつは厳しくも温かく,最後まで私の背中を押し続けてくれました。

6.おわりに

こうして,修士論文を無事に提出し,口述試験を経て,2024年3月,多くの方々の協力と支えのもと,私は大学院博士前期課程を修了することができました。指導教授である保坂敏子先生には,言葉では言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。また,3年間,励まし続けてくれたゼミの皆様,本当にありがとうございました。

2024年10月現在,私は11月の学会発表に向けて準備をしています。まだまだ奮闘が続いていますが,研究に協力し,貴重なデータを取らせてくださった日本語学校,そして何より惜しみない協力をしてくれた学生たちに私が返せることは,どれだけ小さくてもその研究成果を表に出していくことだと思っております。研究は自分ひとりでは到底できるものではありませんでした。たくさんの協力と支えがあって,1本の論文が仕上がっていることを知りました。その経験は研究者となるうえで,忘れてはならないことだと思います。

最後に,私の一番近くで3年間いろいろな我慢をしながら応援し続けてくれた娘,私と日本大学大学院を出会わせ,何度も弱音を吐く私の背中を最後まで根気よく押し続けてくれた夫,そして多大なサポートをしてくれた両親に深く感謝し,私の奮闘記を終わります。




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