奮闘するのはこれから・・・?
博士後期課程 総合社会情報専攻 2019年度入学 2023年度修了 佐野 博己
ふん‐とう【奮闘】
[名](スル)
1 力をふるって戦うこと。奮戦。「強敵を相手に奮闘する」「孤軍奮闘」
2 力いっぱい努力すること。「問題解決のために奮闘する」
「奮闘」『デジタル大辞泉』小学館[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%AE%E9%97%98-623465]2024年7月6日取得
書き出しから恐縮ではあるが、「博士論文奮闘記」と題して執筆するものの、私には自身の経験がどうしても【奮闘】という言葉に当てはまる気がせず、試しに辞書で調べてみた。自分がこの5年間、出来得る限りの努力を重ねてきたことは事実である。しかし「奮闘」が持つ、何か大きな敵に対して力をふるって戦うといった語感は、やはりしっくりこない。この違和感の正体は何なのか、この5年間を振り返りながら考察してみたいと思う。
そもそも、5年間と事も無げに書いてしまったが、通常、博士課程の修学年限は3年であり、私は2年もオーバーしてしまった。2年分、学費を多く払ったのだから、無駄と言えば無駄である。修士から数えれば通算7年、あまり考えないようにはしてきたが、少なくとも高級車1台分くらいは学位に費やしたことになる。それだけの大金をつぎ込んだにもかかわらず、相変わらず私は一介の高校教員に過ぎないし、学位を取得したからと言って昇進することも、昇給することもない。そう考えれば極めてコスパの悪い7年だったことになる。
試しに「文系博士」と検索してみて欲しい。検索候補の筆頭は「末路」であり、次が「就職」、しまいには「闇」とくる…。それはともかく、いかに我が国が「博士」に対して優しくない国であるかよく分かるであろう。学位をとったところで、就職が保障されているわけでもなく、実務に直結するわけでもない、何かの拍子に学位取得者であることが知られれば、いくらかの賞賛くらいはしてもらえるが、それ以上でもそれ以下でもない。これが文系博士の現実であることは、はっきり書いておこう。
私の経験は、上述したようにコスパやタイパという概念からはもっとも遠くにあるゆえに、共感していただける方には参考にしていただき、そうでない方には「なってはいけない」典型例、反面教師としてお読みいただきたい。
修士課程でお世話になった北野秋男先生からかけていただいた「あなたには研究者としての素質がある」という言葉は、誇りとして、私の胸に深く刻まれている。この言葉が博士課程への進学を強く後押ししてくれたといっても過言ではない。ただし、その前には「安易には勧められませんが」という枕詞もついていた・・・。
博士課程には、我が国の知的障害児の後期中等教育の展開過程を明らかにすることを研究テーマに、進学してはみたものの、どこから手を付けるべきか、皆目見当もつかない。「手始めに」ぐらいの安易な気持ちで、戦後の障害児教育を牽引したビッグネーム「城戸幡太郎」と「三木安正」の思想に手を出してしまった。案の定、文字通り「深み」にはまった私は、自分が何を目指していて、どこに向かっているのかということすら分からない状態に陥っていた。12月のゼミ発表が、散々な結果に終わったことは言うまでもない。「やっちまった感」が漂う研究室の中で、「安易には勧められませんが」という言葉の重みをようやく理解したのである。
研究を仕切り直すことから始めた2年目、幸か不幸かCVID-19で全国一斉休校となり、部活動も含め人が集まることは一切できなくなっていた。思いがけず時間を手に入れた私は、再度、高等部教育の歴史に関する先行研究を片っ端から当たることにした。その中で出会ったのが、舩橋秀彦先生の「養護学校高等部への希望者全員進学実現の教育運動史の研究 : 1978-1998 各都道府県の教育運動の実際」であった。この本を通して、高等部教育の歴史的展開には、全国障害者問題研究会を中心とした教育運動が深く関わっていること、それは日本全国で展開されていたことを知った。この研究は、先生が全国の会員に資料の提供を呼びかけて実現したものであり、膨大な量の資料を整理し、全都道府県ごとに運動の実態をまとめたものであった。
そこで、その本に記されていた舩橋先生の住所に宛てて、自身の研究で明らかにしたいことや、それにかける思い、今後の展望について書き連ね、是非とも資料をお借りしたい旨を手紙にしたためた。ほどなくして、先生から段ボール2箱分の資料と激励の手紙が届いた。そして、各地の運動で活躍された数名の先生方のお名前とともに、必要であれば連絡を取ることも可能だという旨が記されていた。その中には、後に私が研究のフィールドとすることになる北海道の岡山英次先生や二通諭先生の名前があった。今考えても、この舩橋先生との出会いが私の研究の転機となったことは間違いない。
舩橋先生からお借りした資料は1つ残らず全てコピーさせていただいた。どこの馬の骨かも分からない社会人学生に、惜しみなく貸し出してくださった先生には、ただただ感謝するばかりである。
お借りした資料に目を通して整理する中で、北海道が特徴的な歴史を持ち、かつ豊富に資料が残されていて、興味深い知見が得られる可能性があることに気付いた。そこで、北海道に的を絞って研究を進めることとした。私の場合、研究の見通しが立ち、エンジンが掛かるまで、実に2年も要したのである。今思えば、この2年間の作業を入学前に済ませておけば、3年間での修了も可能だったのかもしれない。文字通り、後の祭りである。
3年目に突入するタイミングで、学校を離れ総合教育センターという、教職員の研修を担当する施設へと異動することとなった。この異動もまた、博士論文を執筆する私にとっては吉と出た。というのも、平日は変わらずに忙しかったものの、部活動の指導がないため、土日祝日は丸々研究に充てられるようになったのである。
もっとも、時間がたっぷりあるということは、無為に過ごしてしまう危険と隣り合わせでもあった。そこで、誘惑を断ち切るため、週末は近所のワーキングスペースを利用して書き進めることにした。
この方策もまた、私には良い結果をもたらした。Wi-Fi環境を完備し、ドリンクも飲み放題、静かでスペースも区切られている。課金している分、元を取らねばという思いや、黙々と仕事や勉強に打ち込む他の利用者の姿にプレッシャーを覚えて、否が上でも机に向かってしまうのである。この週末をワーキングスペースで過ごすことは、私の生活スタイルの一部として完全に定着し、今なお続いている。無論、この原稿もそこで書いている。
さて、学位審査を受けるためのハードルの1つに研究業績を積むことがある。本研究科では、基礎論文となる単著論文を、査読付きの学術雑誌に投稿し、2本以上掲載される、あるいは、本研究科が発行する研究紀要に投稿し、5本以上掲載されることが課されている。私は前者でクリアすることを目標として、博論の執筆と並行して論文の投稿にも精を出した。通常、投稿してから掲載されるまで、最短でも数カ月はかかる。もちろん、投稿しても、多くの場合、不採用となる。首尾よく掲載される場合でも、文句なしの採用など極めて稀であって、ほとんどの場合、修正を前提とした条件付き採用である。私の場合、3年目と4年目に1本ずつ単著論文を書き、指導教授の柴山先生から指導をいただいた上で投稿した。その結果、2本とも条件付き採用となり、査読意見に基づいて修正をし、何とか掲載にこぎ付けた。
簡単に「査読意見に基づいて修正」と書いたが、実際のところ、査読意見はかなり厳しい言葉で書かれていることが多い。しかも、大きく書き直さなければならない場合もあり、受け取った直後は凹んだり、逆に腹立たしく思ったりするものである。私は、論文の投稿をとおして、研究者としての重要な資質の1つに「素直さ」があることに気づいた。自分の感情はひとまず横に置いておいて、他の研究者の意見に素直に耳を傾けてみる、相手の発言の意図を汲み取り、自分にどのような助言をしてくれているのか考えてみる。この姿勢が、独りよがりに陥らせず、より良い研究の成果を生んでくれるのだと思う。プライドや負けん気の強さも大事であるが、それと同じくらいしなやかさも必要である。(自戒も込めて…。)
忘れられないことといえば、4年目の11月に北海道で現地調査を行い、30数年前に教育運動を牽引していた先生方にインタビューを実施したことである。秋深まる札幌の地で、岡山先生、二通先生、そして当時、弁護士として運動を支えた石田明義先生にインタビューを行った。岡山先生、二通先生からは大量の資料もいただくことができ、研究に弾みがついたことは言うまでもない。私の想像だけでは埋めることのできなかった史実のかなりの部分が、御三方のお話と、新たにいただいた資料で埋めることができた。また、私の史実の解釈を聞いていただき、率直な感想をいただいた。岡山先生からいただいた「なんで、この時にいなかった佐野先生が、こんなに知っているんだろうって不思議に思うんだよね。」という言葉が、本当に嬉しかった。
この3年目、4年目の2年間で博論の8割がたは書き上げることができた。資料を読み込めば読み込むほど歴史が見えてきて、そこにインタビューを組み合わせることで解釈が深まっていく、さらに新しい資料を加えることで別の面が見えてくる、私にとって博論を書くことは、何かと闘っているというより、ワクワクが止まらない、知的好奇心を刺激される楽しい営みとなっていた。
5年目に入り、いよいよゴールが見えてきた。新幹線が運休となったため、7月の追審査で対応していただいた予備審査、10月の論文提出、12月の最終審査と目まぐるしく時間は過ぎていった。1月下旬に審査結果が通知され、合格の報をいただいたが、すぐに申請書類の作成・提出、印刷業者への入稿と作業は切れ目なく続いた。
そんな中、修了直前の2月、私は再び北海道を訪問した。今回はお世話になった皆様にお礼も兼ねて博士論文を届けることが目的だった。お礼状を添えて郵送することも可能であったが、やはり直接お渡しして、お礼の気持ちを伝えたいという思いからであった。歴史研究は、想像以上に人間臭い作業の連続である。実証的に研究を進める上で、当事者から資料の提供を受けたり、インタビューに協力してもらったりすることは欠かせないが、何をお願いするにしても、信頼関係なくして成り立たない。そのためには、当事者に対する敬意と共感、協力に対する感謝の気持ちは常に持ち続けていなければならない。これらは、客観性を担保することと同じくらい、重要な姿勢であると思う。
この訪問で、二通諭先生から忘れられない言葉をいただいた。
佐野先生の論文は、アカデミックな研究ではあるけれども、読んでいて面白い、エンターテイメントでもあるんですよ。
この言葉は、私にとって生涯忘れることのできない最高の誉め言葉となった。新規性や有用性、客観性など、学術的な価値があることはもちろんであるが、読み物としての面白さを指摘していただけたことは、私に大きな自信をもたらしてくれた。
この記事は来週に控えている学会発表の、最後の準備と並行して書いている。「学位の取得は、研究者としてのスタートでしかない」という言葉は、激励として柴山先生や北野先生をはじめ、多くの先生方からかけていただいたものである。私の当面の目標は、学位審査の際に指摘していただいた研究上の課題についてクリアし、博士論文を単著として出版することである。そのためには、学会発表、論文投稿を繰り返して、博論をブラッシュアップするしかない。
学生という、ある種、護られた立場を手放した今、提出期限や学位取得といった自分を追い込んでくれる外的装置は作動しない。苦しい思いをしながら研究を進めるのも、区切りをつけて楽になるのも自分の自由。私が闘うべき大きな敵といえば、楽をしたい自分でしかない。
今のところ、私は研究者の端くれとして、問い続ける方を選んでいる。何か1つクリアすれば、新たな疑問が湧いてくる。新たな資料に出会うと、別の考えが浮かんでくる。地道な作業はまだまだ続く。奮闘するのはこれからだ。