修士論文(頭のなかの)奮闘記

文化情報専攻 2021年度入学 2022年度修了 江﨑 由利子

1. はじめに

2023年3月に大学院博士前期課程を修了しました。これまでの修士論文奮闘記でも述べられているように修士論文完成までは苦労の連続でした。執筆中は、先行研究をまとめきれず書けないまま1週間が過ぎる、犬の散歩や歯磨きをしているときは、よいアイディアや文章がすらすらと浮かんでくるのに、いざパソコンを開いて指をキーボードにのせた瞬間に頭のなかの文章がふっ飛んでしまう、ようやく書き上げたと思えば、目次や挿入した図表がずれて、修正に丸一日を費やす、そんなことが頻発しました。
 苦労を重ねて執筆したから、修士論文提出後の私は、さぞや充実感に満たされ、すっきりした気持ちになるだろうと考えていました。ところが、修士論文を終えた後も、私の頭のなかでは、研究が離れず、もやもやとした奮闘が続いています。ここでは、そのもやもやについて書いていこうと思います。

2. 憧れのインストラクショナルデザイン!?

大学院では、保坂敏子教授のご指導のもとで教育工学分野のインストラクショナルデザイン(ID: Instructional Design)を学びました。IDとは、学習者を引き込んでいくような効果的、効率的な教え方を設計する手法やその研究分野であり、設計の指針としてIDの理論やモデルがあります。私が、IDの様々な理論やモデルを学びたかった理由は、二つありました。一つ目は、教員経験で身につけた教え方が効果的なものなのかを科学的なID理論やモデルに照らして見直してみたかったから、二つ目は、IDの理論やモデルを活用して、小学校教員のための英語発音学習教材を開発したいと考えていたからです。IDの理論によって自分の教え方を振り返ると、私が児童の意欲向上のためにしてきたことや授業の流れは、科学的な教え方から逸脱しているものではなく安堵しました。そして、IDの理論に沿った教材開発では、「書籍でも商品でも自分のつくったものが世にでるということは、とても嬉しいことなのだろうなぁ」などと、つくりだす楽しみを味わいながら研究を進めることができました。しかし、IDを学べば学ぶほど、私は、自分の教育観を見直し、改変し、あるいは、拡げていかなければならない必要性に迫られました。最初に直面したのは「黒板の前に立ち、知識やスキルを教えるのが先生」という私の教師観について内省することでした。

3. 先生は、いなくなる?!

IDでは、eラーニングのような独学ができる教材の開発が求められるといってよいと思います。「独学」とは、先生や師匠につかず、ひとりで学習することです。先生は必要なくなるのでしょうか。私は非常に混乱しました。小学校教員をしていた頃は、自分が教えてもらった先生による、知識を伝授する教え方に少なからず影響を受けていましたし、限られた時間でどの児童にも知識を習得させていくような尊敬する先輩先生の授業づくりや授業技術に学びながら、日々の実践に努めていました。ところが、私が教材開発に用いたIDの理論では、学習者中心の考えのもと学習を効果的に促すための必要な条件が示され、そこでは、教師は学習の支援者であるとされています。研究過程でも修論執筆中も、「先生は知識を伝授しなくていいの?」「支援とは具体的にどうすること?」と自問し続けました。従来の教師の役割を拭えない自分と学習の支援者としての自分のあり方を模索する自分との葛藤が始まりました。
 先生や支援者の意味を考え続けるなか、豊富な知識を備えて、質問の回答となる情報を見つけてくれるAIチャットボットが登場しました。これにより、私は「知識を伝授するのが先生」という教師観を少しずつ考え直すことを始めました。「スマホを使ってAIチャットボットで調べればわかる知識をわざわざ教師が教える必要があるのかな」、「自分で記憶した知識をもとに考えることと、AIで得た知識をもとに考えることの違いはなんだろう」、「調べればわかる知識を問うテストなんてナンセンスかな」、そして、「いつかは、『今日の授業はヒト先生ですが、明日はAI先生が教えます』となる可能性もあるかもしれない」などと考えを巡らせました。まだ、先生のあり方や理想の教師観や支援者のあり方については回答が得られないでいますが、自分の教師観を見つめ直し、拡げていく必要性があることを実感しました。
 以前、高校時代の友人が「東京のとある進学校では、もう随分前から教師を先生とは呼ばずに名前で呼ぶ」と教えてくれました。今思えば、この学校は、「支援者」としての教師観をずっと前に持っていたのかもしれないと感じます。日本社会の工業化や産業化の名残で知識を伝授される教育を受けてきた私が教師観を変えることは容易ではないですが、学習者中心のIDを学んでからは、この考え方を拝借して、私が日本語を教える学習者には「ゆりこ先生」ではなく「ゆりこさん」と呼んでもらうことにしています。

4. 日常的に欲しい!自分の考えを発表できるコミュニティ

科学的な教え方であるIDの知識を得て見えてきたものは、科学的な知識をもとに考える私の存在です。IDの理論に沿って教材開発を進めるときには、私のアイディア(考え)や判断が必要となります。教材開発のためのIDの理論に沿えば、効果的、効率的で、学習者を引き込める教材デザインが可能になると予測できても、教材デザインの研究過程で、自分のアイディアや判断が妥当なのか、独りよがりではないのかがわからず迷うことがありました。さすがに科学的なIDの理論も「こっちにすべきだよ」ということは教えてくれません。たびたび起こる迷いのなか、よりよい教材設計のための私のアイディア産出や判断に力を貸してくれたのは、保坂先生と保坂ゼミに所属するゼミ生でした。自分のアイディアや判断を発表できる場があることは、とても大事だと思います。教育工学と日本語教育がご専門の保坂先生からは常に「こういう視点が足りませんよ」というご指摘をいただきました。また、世界の様々な国や日本の様々な地域に居住し、異なる仕事を持つ多様な文脈にあるゼミ生は、それぞれの教授経験や自分の仕事に関する専門知識をもとに、私とは異なる視点で忌憚なく考えを述べてくれました。繰り返しになりますが、自分のアイディアや判断を言葉にして発表するのは大切です。自分が「これでよい」と考えることでも、他の人がそう考えるとは限りません。自分の考えとゼミ生の考えを絡み合わせて討議し、私自身が研究の方向性を決めていくことができる時間は、私の大切に思うもの、意味があると信じているものを拡げる時間、あるいは、自分の考えを定める時間でもあり、非常に有意義でした。
 さて、博士前期課程の修了後、私は、ゼミというコミュニティがなくなったことをとても寂しく感じています。何か問題が生じたら、その解決のために自分の考えをオープンにして、多様な文脈にある他者からの指摘を山ほどいただけるコミュニティが日常的に欲しいと思い続けています。
 そして、ここでも、私の頭はIDに戻っていきます。私の活用したIDでは、学習者が、課題の解決策について自分の考えを説明し、他の学習者と議論し、合意した解決策を得るための協同作業の場の必要性が示されています。私は、今、この「他の学習者」について、とても興味を持っています。私の価値観を拡げ、私の判断に対して再考の機会を与えてくれたゼミ仲間の持っていたもの、言い換えれば、協同作業がよりよく機能するための他の学習者の条件はなんなのだろうと考え続ける日々です。

5. おわりに

修士論文によって、私の頭のなかに起こった奮闘を述べました。それは、自分の教師観を見つめ直し、教育観を拡げ、ゼミの機能やゼミ仲間との関係を深く考えるものでしたが、研究から生まれた疑問や推量に対しての解答は未だ得られないでいます。修士論文を提出したら、また研究の始まりのような気持ちに戻っています。

文章化が苦手な私は執筆に時間を要し、修士論文の提出が締切間際となってしまいました。最後まで辛抱強くご指導いただいた保坂先生や履修科目のレポート作成を通して書く力を高めてくださった先生方に感謝申し上げます。そして、いつも励ましてくれたゼミの皆様、ありがとうございました。




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