七十の手習

人間科学専攻 22期・修了 西村 有史

はじまりの「The bucket list」

10年ほど前映画「The bucket list」(邦題「最高の人生の見つけ方」、日本でも同じ題名でリメイクされた)を観た。二人の余命を宣告された男が、自分達の死ぬ前に、いままでやろうとしてやりきれなかった事をやる、その中で境遇の全く違う者同士が友情を深めていくというドラマだった。自分にとってこの“bucket list”(死ぬ前にやりたい事のリスト)と言う考えは新鮮に映った。すでに60の坂はこえた。ずいぶん大病もしたし、死にかかったことも一度や二度ではない。そんな私だが、自分の死は恭しく神棚にでも置いていく存在だった。しかしいつまでも<敬して遠ざける>ことはできない。現に周りで自分より若いものが亡くなっていく。「忘年会 席順あがって消えて行く」「葬式の度に順番近付いて」とはこの頃に詠んだ川柳だ。

初めに考えついたのが「小説を読んでいない」と言う事だ。小学校までは本を読むのが大好きだった私が、大人向きの小説に移行する事に「見事」に失敗した。受験勉強の後遺症で有名作家の書いた本の題名は誦じているが、どれもこれも中身は読んだ事がない。「よおし、名作リストに上がった本を片っ端から読破してやろう」。そう思い立って近くの公共図書館に通い、シェークスピア、ドストエフスキー、ゲーテ、トルストイと読み進んでいった。そのうち「これがほんとうに自分が死ぬ前にどうしてもやっておかなければいけない事なのか」と言う疑問が浮かんできた。読んで来た中で感動したのは、専門家には大目玉を喰らうだろうが、トニー・モリソンの『ビラヴド』とトルストイの『戦争と平和』ぐらいだった。大食らい選手権でもあるまいに、数を競ってどうする。結局100巻読破の目標は50巻ぐらいで挫折した(このころの“bucket list”には、「絶叫マシーンにのる」と富士登山があった。どちらもまだあきらめていない)。

薬害エイズの記憶

うかうかするうちに日にちはどんどんすぎていった、ふと思い出したのが、わたしが薬害エイズに取り組み始めた日々の事だ。当時はエイズ医療の黎明期といえるときで、数少ない薬はどれも強い副作用をもち、すぐに効果がへっていくと言う代物だった。とうぜん新しい薬に対する不信感もあり、怪しげな、「治癒」を約束する民間療法もまかり通っていたころだった。当時の活動家(血液製剤でウイルスに感染させられ、多くはすでにエイズを発症していた)は日々確実に弱っていく体力で、厳しい差別と戦いながら、世に不正を訴えていった。「命を削って闘う」と言う言葉があるが、それが比喩でなく現実の肉体をもった人に体現されているのを見たのはこれが最初で最後だった。「命を、健康をかえせ」と言っている人が自らの命を確実に害している、これは大きな矛盾だと私には映った。一方で私は彼らの奇妙な明るさも見逃さなかった。このころある若い活動家が「日々若者が殺されている」と言う表現をつかった事に、古参の活動家が「自分たちは決して黙って殺されていっていない」と激怒した事を鮮明に憶えている。大勢の感染者は日々の戦いの中で、着実に成長していったのだ。

「戦いの中で死んでいった彼等の生を何かまとまった物にしよう」、そう決心した事を思い出した。そうだ、これこそ“bucket list”のトップになってなければいけないものだった。以前滝沢克己の弟子や研究者が作っていた「滝沢克己研究会」の会報に、書き殴りの原稿を投稿したが「長すぎる、論旨が一貫していない」といわれてボツになった事があった。やはりその道の研究者について論文の形にまとめる必要があると思われた。地元の大学院に通うことも考えたが、常雇の勤め人には時間のやりくりは出来ないものと諦めた。またいわゆる「社会人大学院」も専門的な研究をするようにはできてない。こうして日本大学にたどり着いた。

コロナ禍の学生生活

3年前東京で行われていた入学説明会に参加し、その年の終わり頃に担当教官である岡山先生に相談する為に先生の研究室にうかがった頃までは、世界中の誰もまだ新型コロナウイルスのことを知らなかった。この年の終わり頃、武漢で新しい感染症が流行していると言うニュースが流れた。しかし同じころ、町にはまだ中国人観光客があふれ、薬局は即席の「マスクあります」と言う中国語の看板を置いて観光客を呼び込んでいた。翌年、入学試験を受ける為に上京すると電車内の乗客が半数近くマスクをつけているのに驚いた記憶がある。

この後事態は急展開し、4月には初めての緊急事態宣言が出され、入学式もオリエンテーションも中止となり、スクーリングもオンラインとなった。ゼミ合宿もなく、担当教官の岡山敬二先生に直にお目にかかったのは、入学前に研究テーマの相談に伺った時、入学試験の時、そして卒業式の計三度だけだった。同級生とはスクーリングの時に何人かとはネット越しで話はしたが、個人的な交流はないままだった。通信教育という制度を利用したので、ある程度は覚悟していたが、ここまで孤独な学生生活は想像しなかった。もっともこれは私一人の体験ではない。当時の学生がみな感じた孤独感だったと思う。

コロナに怯えながら仕事を続けて、同時に学生として勉強をすることは、思ったほどの負担ではなかった。何せ日本人全体に禁足令がかかっているようなものだったからだ。コロナ禍の学生生活の中で困ったことは、まずレポートや論文について、身近に相談する相手がいないこと、そしてレポート、論文のための資料集めだった。困った時に同級生や先輩に相談することも出来ず、相談相手はもっぱらインターネットだった。これにはスクーリングでの文献検索のやり方が大いに役に立った。一番苦労したのが資料集めだった。第一次の緊急事態宣言の時はあらゆる公共施設が閉鎖された。当然のように公立図書館も閉鎖されてしまった。「静かに本を読んでいて、コロナをうつすはずがないだろう」と頬っぺたを膨らませても仕方がない。ネット本屋を通して買わなければいけない本は買った。絶版になっているものは古書店で買い求めた。当初月に一度ぐらい上京するつもりだったから、交通費よりはよほど安くついたかもしれない。のちに学校から図書館に至るまですべて閉鎖という施策が一種のヒステリー反応であることが明らかになり、規制が緩んできて、図書館も利用できるようになっていった。

ハイデガーに悪戦苦闘

担当教官の岡山敬二先生の社会思想史特講のテーマはハイデガーだった。以前ハイデガーの「存在と時間」を読もうとしたことがあったが、あまりの難解さに1ページ目で意識を失って早々に退却したことがあった。技術論もそれに負けず劣らず難物だった。いくつかのキーワードがでてくるが、それが全体の論旨とどのようにつながるのかが、さっぱりわからなかった。最初にテキストを読んだときは、「途方に暮れた」というのが正直な感想だったが、まさかこの課題を避けては、修論まで行きつかない。最初に岡山先生にお目にかかったときに「研究のためには解説書を参考にするといい」といわれたことを思い出し、解説書を手に入れ、同じ論文の載った別の訳本も入手し、ついには英訳本まで購入して何とか乗り切った。ただこのときの経験が修論の時に大いに役にたった。また大熊圭子先生には、論文執筆のイロハを教えられたし、宗教哲学特講の石浜弘道先生の課題に取り組む中で、キリスト教や浄土真宗の理解を深めることが出来た。これも修論に活かせた。ここで改めて深謝したい。

ラテン語の泥沼

修論のテーマはデカルトの『省察録』だったが、岡山先生からは修論執筆にはすくなくとも、課題論文を原文を拾い読みでも、読みこなす技量が求められていると指示を受けた。『省察録』は当時の知識人の習慣に従ってラテン語で書かれている。ラテン語と言えば大学のときに解剖学で1時間だけ読み方の手ほどきを受けたことがあるぐらい(解剖学の専門用語はすべてラテン語である)。田舎のことで近くにラテン語をおしえてくれる先生もみつからない。インターネットで探したら東京に教室が一ヶ所あるが、コロナ恐怖が染み付いているので、<流行の中心地>に出かける勇気もなかった。入門書を買ってみたが、この言語は今までかじったことのあるドイツ語や韓国・朝鮮語ともまるでちがう。名詞、動詞、形容詞それぞれにいくつもの種類があり、それぞれで変化もちがう。ドイツ語にも名詞に姓があり、語尾変化があったが、そんな生やさしいものではない。こうした複雑な変化によって語と語の関係を表現できる物らしいと、朧げに理解出来た(だからラテン語の原著は日本語訳や英語訳よりもずっと短い)。<難しいことは後回し>という昔の悪い習慣が頭をもたげて、2年次までほとんど手がつかなかった。意を決して、ラテン語のインターネット教室に参加した。そこで概要をなんとか飲み込んだが、いざ『省察録』に取り掛かってみると、やはり闇の中に迷い込んだようだった。迷ったあげく、溺れるものは藁をもつかむの例え通りで、英語の対訳本を手に入れた。これは章立ても番号も原著と同じだったので、首っぴきでなんとか『省察録』の引用部分を読むことができた。これは修論提出の寸前だった。

難産の修論

修論の骨子は1年次からおおよそ決まっていた。デカルトの『省察録』を議論の真ん中に置いて、これを批判するハイデガーとフッサールを批判的に検討して、一方で『省察録』を高く評価する滝沢克巳の議論を掘り下げることを目的にしていた。草稿をおおよそ書き上げた時に、(全く阿呆な事には)私の書こうとした「他者論」には、ハイデガーとフッサールのながれをくむレヴィナスという先行研究者があった事を知った。青くなってレヴィナスを読み始めたが、こちらもハイデガー並みに難しかった。ふたたび参考書を渉猟して、彼の他者論には、ボーヴォワールが批判したような家父長的な女性観と、静観的な「出会われる」他者というものがあるように思えた。レヴィナスに関する意見を加えて、ようやく書き終えてからは、ほぼ毎日のように推敲をした。なにしろ長い時間かかって書いたので、引用番号の書体が違ったり、書名がかぎかっこではなくただの括弧になっていたりと、見直すたびに修正点が見つかって、合計で100回以上は書き直すことになった。

残された問題

前期過程を終了できて、これでbucket listは達成したつもりになっていた。ところが今年になって徳田靖之さん(弁護士で薬害エイズ訴訟の時に中心になって戦った人で私の敬愛する方である)が『感染症と差別』(かもがわ出版)を上梓されていた。「やられた」と思った。薬害エイズで私たちが戦ったもの、被害者が最も苦しんだもの、は立場の弱い感染者に対する無慈悲な差別だった。同じ差別が、コロナ感染者に向けられている事に、私も既視感を感じてきたものである。なぜ人は人と繋がらないといけないかという問いは、なぜ同じ人間が人を迫害するかという問いと表裏一体の関係にある。差別論なしでは他者論は完結しない。

一方でアルプスのように聳え立つハイデガーや、レヴィナスに対する興味も消えていない。また修論では十分論じきれなかった滝沢克己と天皇制や、西田哲学に対する興味もかき立てられたままである。どうしたものかと考え中である。




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