「300本ノック」の先に見えたもの
国際情報専攻 22期生・修了 岡田 豊
2019年。太陽がギラギラと照り付ける真夏の午後でした。Tシャツ、短パン、ビーチサンダル姿で、私は都心に買い物に出かけました。その帰途、何となく頭の中に入っていた日本大学大学院の入学説明会のことをふと思い出します。大学院で学ぶ意思を決めていたわけではありません。ただ、気になっていたので、ふらっと、その会場があるビルの中に入ってみました。関心があったのは通信制の大学院です。仕事を抱える社会人にとって通信制はありがたいものです。会場で日本大学大学院のブースを見つけると、そこに穏やかな雰囲気で座っていた男性がいました。なぜ大学院なのか。自分なりの思い、迷い、目標などについて話すと、その男性は本気で聞いてくれました。Tシャツ、短パン、ビーチサンダル姿を軽んじることなく、私を真剣に受け止めようとしてくれていたのを覚えています。この男性が、のちに修士論文の指導を仰ぐことになる加藤孝治教授です。社会人経験を経て教授になった方で、視野の広さを感じました。
私が研究してみたかったのは「凋落する日本のジャーナリズム」です。ジャーナリズムが十分に機能していないことが日本衰退の要因の一つになっていると考えていました。欧米に比べて大きく立ち遅れている日本のジャーナリズム研究を底上げしたいという思いもありました。ジャーナリズム研究の場として、他の大学院も検討していましたが、加藤教授と話しているうちに、教授の専門分野の一つである「人材マネジメント論」や「組織論」からアプローチするのも面白いという思いがわき上がってきました。Tシャツ、短パン、ビーチサンダル姿の私はこの日、大学院に挑戦したいという思いを固めていました。
日大大学院の入学試験の面接日。私の服装はあの夏の自由奔放な姿とは打って変わって、スーツにネクタイ姿でした。面接に対峙したのは、説明会で出会った加藤教授です。あの時の服装が合否に響かないかと少し心配していましたが、無事合格。2020年4月、大学院生としての日々がスタートしました。コロナの影響で、授業はすべてオンラインです。教授やゼミの仲間たちに直接会う機会は基本的になく、物足りないと感じていました。それでも、黙々と修士論文の準備を進め、各分野のレポートを仕上げていきます。多忙な仕事の合間に、レポートを一つ仕上げるのもたやすいものではありません。休日は基本的にすべて大学院の時間に費やしました。しかし、つらいと思ったことはありません。経済学、政治学、国際論、メディア論、組織論など、かつて大学生時代にかじったつもりの学びは、まるで別のものとして新鮮に感じていました。新しい発見がたくさんありました。振り返れば、とても楽しく、充実した時間でした。
とりわけ刺激になったのは加藤教授の存在です。授業で私たちが発表する研究計画などに対して、指摘するコメントが楽しみでした。社会を俯瞰する視野、課題や問題を斬るセンス、本質を突く力。新鮮な学びが随所にあります。加藤教授にとって直接の専門ではないジャーナリズム分野においても、新鮮で的確なアドバイスを投げかけていただきました。これが大学院か。次第に引き込まれていきました。
ゼミの仲間や先輩方もまた、ツワモノぞろいでした。コロナと闘う病院事務局の幹部。激動の時代を乗り越えた大手銀行の元支店長。揺れる教育と向き合う学校長。化粧品会社の社長。介護関連企業の社長。大手商社OB。20代の起業家、個性的な不動産会社社長…。各分野の一線で活躍する多士済済の仲間たちから発せられる言葉や研究は、生々しく、説得力がありました。社会の各分野での経験に裏付けられた貴重な言葉に囲まれていました。授業はオンラインでしたが、そうした仲間と向き合うことが楽しくて仕方ありませんでした。様々な年齢の差を飛び越え、みんながフラットに、楽しく向き合います。これが、社会人が多い大学院の大きな醍醐味であり、メリットなのでしょう。授業を休んだことは一度もありません。ゼミの仲間のおかげで成長することができました。50代でも、きっと60代でも、70代でも、人は成長を続けられると思いました。ゼミのすべての関係者のみなさまに、本当に感謝しております。
大学院生活も2年目。最大のヤマ場を迎えていました。2021年の晩秋、私は修士論文の作成作業に追われていました。ようやく仕上げた完成稿を11月末の締め切り前に加藤教授に提出しました。「これで何とか年末年始はゆっくりできそうだ」。そう、たかをくくっていました。ゼミ仲間の1人は、教授から指摘された修正箇所が20カ所くらいで済んだと聞いていました。自分も何とかなる。そう楽観していました。しかし、この後、私は、現実を思い知らされるのです。
教授がチェックをして差し戻された私の修士論文は、見るも無残な姿でした。修正箇所が実に約200カ所もあったのです。ショックでした。しかし、よく見ると理不尽な指摘は1つもありません。すべてに合理的な理由がありました。自分の論文の至らなさを痛感しました。この期に及んで私はまだ、学術論文の書き方を理解していなかったのです。気持ちを取り直して再び自分の論文と向き合います。この12月は仕事が特に忙しい時期でした。多忙な師走の時間をやりくりし、私は約200カ所すべての修正を何とか終えました。生まれ変わった修士論文を教授に再提出しました。それがクリスマスのころだったでしょうか。「あー、これが学位論文なんだ。これで終えることができる」。勝手にそう思い込んでいました。しかし、「本番」はこの後にやって来るのでした。
再度返ってきた私の論文には、修正箇所が追加で100カ所近くもありました。「え、なんで…」。でも、すべての指摘に「なるほど」と思わせる合理的な理由がありました。この時、この論文をまともなものにしたい、より良くしたいと思って取り組んでくださっていた加藤教授の真剣な思いを実感したのです。私は気持ちを切り替え、年末年始に、勤務以外の時間のすべてを投入し、修正作業に立ち向かいました。
完成した修士論文を再々提出すると、ほどなくして教授から「もうこれでいいですか」というメールをいただきました。それは、最低限のレベルをクリアしたというメッセージでした。全身の緊張感がようやくほぐれていくのを感じました。修正箇所は延べ約300カ所。いわば苛烈な「300本ノック」が終わりを告げた瞬間でした。
「ノック」とは、野球で守備力を鍛えるため、監督やコーチがバットで打ったボールを選手が取る練習のことです。「100本ノック」とは選手1人に連続で100本を浴びせ続ける猛特訓です。私が中学・高校の野球部時代に受けた「100本ノック」では、もうヘトヘトでした。それが実に300本。こうした厳しい指導のおかげで、私は学位論文とは何たるかを体で覚えながら、最終目標を達成することができました。
ゼミや論文作成に際し、加藤教授が常に口にしていた言葉があります。「自分だけのオリジナルな論文、発想とは何か」。この言葉の意味は深いと思います。オリジナル性は、論文の最大のポイントであることは言うまでもありません。なぜ、その論文に取り組むのか。そこに自分のオリジナリティがあるからです。しかし、それだけではない気がします。教授は、私たちのこれからの生き方にとっても、大切なメッセージを投げかけてくださっていたのではないでしょうか。自分のオリジナルな生き方、自分のオリジナルなやり方がいかに大切かと。私はそう受け止めました。
未熟な論文に最後まで妥協せず、また、オリジナリティの重要性を常に投げかけていただいた加藤孝治教授に、あらためて感謝を申し上げます。加藤先生、本当にありがとうございました。50代後半という年齢になって、加藤先生にめぐり会うことができたことを心から感謝しております。
2022年3月。私は修士(国際情報)の学位を授与され、大学院生活を無事終えることができました。ある種の達成感を感じていた矢先、加藤教授から、4月以降もOBとしてゼミに関わってもよいと声をかけていただきました。学びの機会を再びいただいたのです。「Withコロナ」の考え方が日本にも広がり始め、ゼミも基本的にオンラインから対面に切り替わりました。早速、OBとしてゼミに参加させていただき、共に学んだゼミ仲間、そして新しいゼミ生たちと初めてリアルで会うことができました。みなさんから直接聞かせていただく体験談、思考は、やはり新鮮です。感謝しきりです。
学び続けることは実に大切なことだと思います。バブル崩壊後の日本は「失われた30年」とよく言われます。日本の衰退は勢いを増し、底が見えない状況に陥っていると感じています。こうした状況を招いたのは、まぎれもなく、私たち大人です。私たち大人は、これから、自分のこれまでのやり方を疑い、見直し、新しいやり方をみいだしていく必要があるのでしょう。そのためには、学び続ける必要があると思います。
修了後に、都内の大学で非常勤講師をやらせていただく機会がありました。授業の場で案の定、学生たちが大人たちに抱く不信感のようなものを感じ取りました。そこで、私が学生たちに投げかけたのは、これまでの日本人の「やり方」を疑うことの重要性です。「私が教えることも疑ってほしい」と学生たちに言いました。若い人たちと向き合うためには覚悟が必要です。自省しながら自らが成長しようとする気概がなければ、若い人たちに本気で向き合うことはできません。「大人や先輩が教えることは何でも正しい」という時代はすでに終わっています。大人たちも若い人たちと一緒に学び、若い人たちと一緒に成長し続ける「共育」が大切になってくるのだろうと考えています。その場として、日本の大学や大学院のあり方も進化を続けることが必要なのでしょう。