〈言葉〉のない社会

文化情報専攻 10期生・修了生  牧田 忍

近代文明の発達はあいかわらず目覚ましい。その中に、例えば量子論がある。量子論の難しい話はわからないけれど、それは〈世界の根源〉に関係するとても小さいミクロ以下の世界から広大な宇宙果ての彼方までも取り巻く内容であり、それを扱う分野は〈人間の意識〉さえも伺う物理学や哲学、スピリチュアリズムにまで様々に及んでいるという。したがって、そこには数々の論説や研究成果があるわけだが、〈万物の根源〉〈究極のなにか〉を探求する態度は文明の叡智とも言えるだろう。

僕は〈万物の根源〉と聞くと真っ先に新約聖書「ヨハネの福音書」冒頭の〈始めに言葉ありき〉を連想する。この一文だけでも多様な訳文や解釈があり、神学論争や言語論が噴出していることも知っている。一般的に〈言葉〉の意味は狭義で見れば意思伝達のツールであろう。一方、広い眼で見ればプラトンが理解したイデアのようにも思えるし、脳機能学者.茂木健一郎さんが説くクオリアのように思える。神学者や牧師の方々の多くは聖書の文脈からそれを〈神様〉のことだと言う。奥が深い聖句をヨハネは遺してくれたと感じる。さらにヨハネは「黙示録」で〈事物の根源〉に関して〈わたし=全能者にして主なる神様〉は再三にわたって〈わたしはαでありωである〉〈最初の者であり、最後の者である〉〈初めであり、終わりである〉と説かれている。「ヨハネの福音書」によればイエス様は〈アブラハムが生まれる前から(わたし)はある〉とも述べて権力者の逆鱗に触れた叙述がある。拙い文章を書いている僕でさえこんがらがっているのだから、イエス様やヨハネの主張を目の当たりにした当時の人々はさぞや驚いたことだろう。しかし、文明が発達した近年の知見から〈物事の根源〉をヨハネの〈言葉〉と照らし合わせてみると身震いを感じる。すごい発言をイエス様やヨハネは命をかけて伝えてくれた感じがする。

一方、日本の文化に目を転じてみよう。日本でも最古の歌集とも称される「万葉集」では山上憶良や柿本人麻呂らが〈言葉〉を〈言魂〉〈事霊〉〈言霊〉と詠み、最古級の史書とされる「古事記」や「続日本紀」「日本霊異記」などでは一言主(=一語主)という〈言葉の神様〉まで登場する。〈言葉〉と〈神様〉を結びつけて大切に扱ってきた日本文化と〈言葉〉のつながりは、江戸時代の国学者や折口信夫氏、金田一京介氏、山本七平氏ら碩学・泰斗らによって存分に語られている。神道神事において〈神様〉と〈言葉〉のかかわりは今日においても大切に扱われているが、遡れば「万葉集」では〈言挙げ〉に関する歌が詠まれており、神事に臨んでは〈神様〉の〈言葉〉である神宣や託宣の様子が描写されている。「日本書紀」に登場する伊勢神宮と馴染みの深い倭姫命や邪馬台国で有名な卑弥呼も〈言葉〉を通じて〈神様〉の威厳を示している。

神道に限らず、密教や修験道で唱えられる様々なマントラは〈言葉〉の力への帰依の側面がとても強い。浄土真宗の親鸞上人は「正信偈」をまとめられた際に真っ先に〈帰命無量寿如来〉〈南無不可思議光〉と述べられ〈=限りない命の如来〉〈=思いはかることのできない如来〉に帰依します、とお説きになられた。この根本的ですごい力を放つ如来様とのアクセスは〈南無阿弥陀仏〉という平易な〈言葉〉に尽きるという。日蓮上人も乱世の辻に立ちラジカルな布教活動に邁進された方のイメージがあるが、日蓮上人が示された大曼荼羅には一切の根源や真実が説かれているという法華経の醍醐味が凝縮されており、様々な仏様神様が配置されていて功徳も大きいらしい。その功徳へのコンタクトは〈南無妙法蓮華経〉の〈言葉〉で成されることになっている。

このように見てみると〈言葉〉は意思伝達のツールであることもちろんとして、その役割は古今東西において〈神様〉や〈根源〉のように扱われ、〈神様〉や〈根源〉を伝える役割を担ってきたことがわかる。〈言葉〉が果たしてきた役割と近代文明が似てきた気配さえ感じる。児童文学作家と思われがちな宮沢賢治さんは科学者の顔を持つ人物でもあった。彼はすでに「農民芸術概論概要」の一節で〈宗教は疲れて近代科学に置換され…〉と喝破していたが、こうした時流さえ見抜いていたのだとすれば敬意はさらに募る。

上記ではオムニバス調に〈言葉〉の大切さや凄さを述べてきたつもりであるが、近代文明社会における〈言葉〉の扱いは果たしてどのようになっているのであろうか。

今日はグローバル化が進み、泣こうが喚こうが多文化共生社会が進んでいる。〈言葉〉は文化や民族、文明を分類したり規定したりする要素とも着眼できるから、多文化共生社会は多〈言葉〉社会にも通じるだろう。私たちが住む青い星には様々な〈言葉〉を持った人々がごっちゃ混ぜに暮らしているのは紛れもない事実であり、ごっちゃ混ぜの程度はさらに進んでいる。そうした社会で摩擦や障壁が生じることは簡単に予想できる。摩擦が無いほうがおかしいだろう。

サミュエル・ハンチントン氏は〈文明の衝突〉で、紛争は当事者だけでなく文明構成全体の〈文明の衝突〉に及ぶという物騒なセンセーショナルを提示した。ハンチントン氏を批判したエマニュエル・トッド氏も世界の多様性については認めているようだ。一方、政治的リアリズムによれば多様な世界は無秩序な状態で、パワー外交という各勢力の微妙な力の関係によってバランスはかろうじて維持されているらしい。では世界や社会の本質はバラバラなのかというと、チョムスキー氏やレヴィ=ストロース氏らのように人類には共通の基盤や普遍性がある旨を唱えている識者もいる。〈世界はバラバラ〉なのか〈普遍的〉なのという議論はともかくとしても、今日では〈価値相対主義〉を賛美するポストモダニズムや相対化された価値さえ相対化できる〈脱構築〉などの考え方がもて囃されて〈言葉〉の多様化は進むばかりである。宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」の一節で、ジョバンニと女の子が、〈ほんとうの神様〉ってどんなかたなのか、について両者が意固地になって口論するシーンが登場する。このシーンは物語のクライマックスの一場面でもあるが〈あゝそんなんでなしにたった一人のほんたうのほんたうの神さまです〉、としか答えようのないジョバンニの葛藤が僕の脳裏にも浮かんでしまう。

日本社会では価値観は個々の自由とされている。しかし近年では超大国とは言えない国でも大量破壊兵器を開発するようになり、生物化学兵器の使用もまことしやかにささやかれている。〈文明の衝突〉に至らなくても偶発的な価値観の行き違いが互いの価値観をまるごと吹き飛ばしてしまう大惨事を招く可能性のある世界はとても恐ろしい。可能ならば避けて通りたい道のりだ。

昨今、民主主義や合理主義の模範とされる超大国アメリカでさえ、とんでもないことになっていて、その影響ははかり知れないらしい。ついこの間までパクスアメリカーナが叫ばれていて、フランシス・フクヤマ氏は「歴史の終わり」を、アントニオ・ネグリ氏は「帝国」を著し、冷戦構造以降の世界は〈世界の警察官〉であるアメリカ中心のグローバリゼーションが進むと思われていたが今は違うようである。僕は評論家町山智浩さんの「アメリカの今を知るTV」が好きで町山さんのキャラクターに加えて、彼と同様にアメリカに在住している女優である藤谷文子さんとのやりとりが絶妙で楽しみにしている。町山さんの報道は政治的に言えば、リベラルに寄っていて、キリスト教福音派や銃所持、トランプ大統領に対してはかなりシニカルなスタンスに立っているが番組そのものはとてもためになるし面白い。町山さんのレポートによれば、共和党支持者と民主党支持者の軋轢はとても大きいという。そして、相互は理解し合えないのに互いの集会にやって来ては相互がケンカ腰になるシーンをみることができる。似たようなレポートをやはりアメリカ在住歴の長い伊藤貫さんが述べている。伊藤さんは評論家故.西部邁氏と盟友で伝説の番組となった「西部邁ゼミナール」に幾度か登場し、あるいは保守系のネットメディアにも登場している。氏の論説はコミカルな口調や穏やかな容貌とは裏腹に鋭く、政治的スタンスは無双で町山さんとかなり異なっている。そうした伊藤さんもアメリカ社会の分断は著しく、共和党支持者も民主党支持者も同じ場所で同じ言語で論争をしているのに、互いが感情的に自分の主張を叫び、相手に対して罵声を浴びせている。端から自分の信条を押し付けようとするだけでとても対話になっていないという。伊藤さんは〈人間が言葉を使っていても対話が成り立たない恐ろしい社会〉とネット番組でコメントしている。伊藤さんはこうした事象をみて民主主義の危うさや〈近代のおわり〉さえ触れている。

僕が抱いていた偉大なアメリカのイメージと裏腹な不安な社会の到来を感じてしまうが、番組を見る限りでは町山さんにせよ、あるいは大統領選挙取材に現地に赴いた我那覇真子さんたちが興奮した当事者たちにインタビューのマイクを向けると、たいてい彼らの実像は性根の優しい市民であり、冷静でフレンドリーな対応に変化する態度には驚かされる。

異文化間や異民族間の摩擦や国家間の利害対立はなんとなくは理解できる。一方、性根の優しい人々が同じ国の同じ地域社会に住み、同じ言語を話し、同じ神様を信じているのに〈言葉〉が通じないことは実に不可思議である。こうした不可思議な光景は日本の日常でも見ることができる。繁華街を歩いていると騒動に遭遇する機会が増えた。騒動の内容は保守系の団体が街頭宣伝活動を行うとリベラル系の市民団体が取り囲み、あるいはリベラル系の市民団体が集会を開くと保守系団体が押し寄せてきてお互いの活動を邪魔して大騒ぎとなっている。こうした現象をカウンターと称するらしいのだが、両陣営共に自らの信条がとても強くて自分たちの正義や正当性を絶対に譲らないから対話どころではない。アメリカで繰り広げられている光景にどことなく似た感じがする。恐る恐る両者の陣営に声がけをしてみるとそこには穏やかで親切な人たちの姿がある。この優しい人たちが敵対者を前にすると、すごい迫力で大きな音をだすことに終始して、相手の言説の一切合切を否定したり封じたりするようになってしまう。こうしたところもアメリカの光景とそっくりに感じる。同じ文化風土で育ち同じ言語を話す人同士の〈言葉〉が通じない事象は相当広がっているようだ。

始めにあったのは〈言葉〉であり、「旧約聖書」を繙けば、本当の神様はお一人で、人類も言語も出所は同じであったらしい。だが人類の因果応報の報いによって多様に分かれてしまったという。そして様々な争いは「新約聖書」の「マタイの福音書」には〈…わたしは敵対させるために来たからである…〉という誤解を招きかねない衝撃な一節をも彷彿させる。もちろんこの一節にも様々な解釈があるが、それを素直に従えば、社会はもとより家族さえ敵になってしまう。しかし、実際の神様=イエス様は〈独り子をこの世に送り出すほど世を愛され〉〈人の姿をとってこの世にあらわれた独り子〉は愛や赦しを説き、〈敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい〉と説き、人類の罪を一身に背負い過酷な刑に処せられた方であることは誰もが知っている。けれども実際に近代社会の周りを見渡してみれば敵対だらけでもあり、近代社会での〈言葉〉は〈神様〉なのか何なのかわからなくなってしまうほど本当に複雑で厄介だ。

宮沢賢治さんは「銀河鉄道の夜」で登場人物を通じて〈何が幸せかわからないです。本当にどんな辛いことでもそれが正しい道を進む中の出来事なら峠の上りも下りもみんな、本当の幸せに近づく一あしづつですから〉と達観されている。〈言葉〉が複雑で厄介になってしまい、近代文明とか多文化共生だのグローバルやら持続可能性などいう社会に放り込まれてしまい (何が〈言葉〉かわからないです。)という錯乱した状態にある僕は、せめて宮沢賢治さんの達観やヨハネら先人の〈言葉〉のあり方を大切に噛みしめ、広くてやさしい〈言葉〉を育みながら生きていきたいと願っている。




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