珍しい分野で修士論文を書くのは楽しいが難しい

文化情報専攻 20期生・修了  柳田 麻里

  1. はじめに:私の研究テーマ
  2. 修士課程に進学する際には、修士論文の研究テーマを決めて受験時に研究計画書を提出する必要がある。私の場合、研究テーマは「良い翻訳とは何か」だ。フルタイムで働きつつ翻訳家を目指してコツコツと勉強を続けて数年、翻訳を学術的に突き詰めたいと修士課程進学を決意した。学術分野としては「翻訳論」や「翻訳研究」と呼ばれる分野になる。この分野は国内は無論、世界的に見てもまだまだ研究者が少なく、学部、大学院どちらにしても教えている大学が少ない。海外の教育機関も対象に含めたが、進学先を探すのに苦労した。悩みに悩んで行き着いた先が日本大学大学院総合社会情報研究科だった。


  3. 奮闘記:マイナーな分野で修士論文を書く難しさ
  4. 本研究科に入学する学生の志望動機や研究テーマは多岐にわたるが、私のようにマイナーな分野であったり、実務経験から発想を得て他の大学院では指導を断られるようなニッチな研究テーマを持ち込む学生が一定人数いるように見受けられる。このような研究テーマで修士論文を書くのは、ワクワクする一方、非常に難しい。

    修士論文を書く主な手順は、分野によっても異なるが私と同じ文学関係であれば、@先行研究を調べる、A先行研究をもとに研究方針(方法)を策定する、B引用文を集める、C自身の研究の論点を整理する、D草稿を作成し指導教員のゴーサインが出るまでひたすら書き直す、という流れになるだろう。マイナーな分野で修士論文を書こうとすると、まずこの1番目の手順でつまずく。研究者が少ないと、当然ながら先行研究も少ない。インターネットや図書館で、思いつく限りのキーワードを検索にかけても適当な資料に行き当たらない。行き当たっても数行しか関係する箇所がないことも多かったが、私はともかく資料をかき集めた。

    少ないながらも資料を集めたところで、私は次の手順に着手した。研究方法の策定だ。私は翻訳規範という翻訳論の概念を援用して研究を進めると早い段階で決めていた。一言で表すと翻訳の善し悪しや過不足に関する世間の共通認識のことであり、私の研究テーマに完全合致した。ところが、この概念は登場してからまだ20〜30年程度しか経っておらず、研究方法が確立されていない。この概念に関する主要な研究書を開いてみたところ、研究方法の確立を待っていたら何も研究が進まない、と著者は様々な研究手法を試す必要性を説いていた(※1)。悪く言えば開き直りである。であれば研究方法を自分で組み立てるしかない、と私も開き直った。「シャーロック・ホームズ」シリーズを取り上げたケーススタディ形式で、邦訳史の概観を示してから原文テキストと複数の訳文を比較しつつ、関連資料も引用して翻訳規範を分析することにした。

    そして3番目の手順、引用文集めに進む。「シャーロック・ホームズ」シリーズは明治から現在に至るまで、何百という邦訳がある。全部を引用比較するわけにはいかないので、なにがしかの根拠をもって選定しなければならない。先述のとおり翻訳論という分野自体に先行研究が少ないわけだが、「シャーロック・ホームズ」シリーズは大衆文学に分類されることもあり、本シリーズの翻訳に関する学術研究は余計に少なく訳書を絞る上での参考にならない。さんざん悩んだ挙句、研究動機に立ち返り、私は「いま」どういう翻訳が良いとされているのか知りたいのだと戦後から現在までの訳書に絞った。

    この時点で、仕事と学業の両立に私は心身ともに疲れ果て、体調不良に苛まれていた。それでもやるしかないと次の論点整理へと這うようにして進む。1年生の時に立てた予定からだいぶ遅れており、修士論文提出まで3か月ほどしかなく焦りも出始める。選び抜いて最終的に引用した資料だけでも80点を超えるが、この段階ではそれ以上の数の資料を眺めながら、どんな結論にすべきか、そこまでの論理展開をどうしようかと悩む。研究方法が独自のものなので、結論への展開も自分で考えねばならず、先行研究を参考にできないのが非常に辛い。「良い翻訳とは一言で説明できるものではない」というつまらない結論しか考えつかず、今振り返ってみると、疲れと焦りも相まって完全に迷走していたように思う。

    提出期限1か月前になっても草稿が出てこない私に、ともかく草稿を書き始めるようにと指導教員の秋草先生から叱咤いただく。結論が定まらずもやもやとした気持ちをなだめながら、無難な個所から書き始める。提出後の口頭試問で審査下さる先生方の中には、当然、翻訳論が専門外の方も入る。したがって、そもそも翻訳論とは何か、研究の軸とする翻訳規範とは何か、基本となる概念を丁寧に説明する必要があり、序論を書くだけで想像以上に時間がかかった。迷走していたときには「良い翻訳とは何か」を法律や辞書のように明確に定義したいと思っていたが、序論で翻訳規範は翻訳行為全般に影響するなどと書いていくうちに、翻訳規範という概念の構成要素を記述する方向に転換しようと決めた。「シャーロック・ホームズ」シリーズの場合に人々が何をもって邦訳の善し悪しを評価してきたのかを見ていくと、翻訳者の翻訳能力は職業経験や生い立ちに負う部分もあることや、訳書が多い本シリーズでは初めて出版された訳を基準に後続の訳が評価されていること、同ジャンルの小説が多く紹介されていた雑誌の編集方針が評価基準のような役割を果たしていたことなど、様々な要素が複雑に絡み合っているとわかったからだ。良い翻訳の条件を明文化するという当初の目標のために解決しなければならない今後の課題を挙げつつ、独自の見解としてこれらの要素を示すことに注力した。こうしてどうにか提出までに至った。


  5. 最後に:謝辞
  6. 修士論文を書いていて、私と似たような経験をした方も多いのではないだろうか。本稿が、卒業生にとっては懐かしさを感じる読み物に、受験生や在学生にとっては修士論文執筆時のヒントになれば幸いである。どのような分野でも、自分の興味のある分野を突き詰めていくことは楽しく大変なことだと思う。しかし、マイナーな分野の場合、自身の研究が分野の発展に大きく貢献できる可能性も高くワクワクできるのが魅力である一方、舗装されておらず道標の見あたらない道を迷いながら歩いていく難しさもあるように感じた。本稿はその難しさと、私なりの乗り越え方に焦点を当てた。ただ、体調やスケジュールの管理に完全に失敗した事例となるため、反面教師としてご覧いただきたい。

    最後に、指導教員の秋草先生を始め、在学中ご指導くださった先生方、研究を進めるうえで大事な刺激やアイディアをくれた同窓生のみなさまに感謝申し上げたい。一般論として、勉学や研究は大学院に所属しなくてもできるものだと思う。しかし、修士論文として書き上げた研究は、本研究科に入学していなかったら書けなかったと感じている。末筆ながら、感謝申し上げる。

    ※1:Toury, Gideon. Descriptive Translation Studies and Beyond. Revised edition, Amsterdam, John Benjamins, 2012.に、"[I]f we delay research until the most systematic methods have been found, we might never get any research done at all. For a proponent of DTS, limited research is certainly better than no research at all!" (p.92)とある。




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