修論奮戦記

文化情報専攻 18期生・修了 益冨 幸子

 2017年3月25日修了式の当日、私は足利日赤病院のベッドの上で、酸素吸入器を付け動かない体を恨めしく思いながら、2年間の学生生活を思い返していた。
 考えていた以上に厳しかったのは、レポートの提出である。最高で7、8回ダメ出しされた。さすがに、そこまで付き合ってくださると有難さが身にしみたが。テキストも一冊一冊内容が深く、何度も読み返す。関連資料も一冊ではすまない。仕事が休みの日は県立図書館で開館から閉館まで資料と格闘した。何度も心が折れそうになった講座もあれば、励ましてくださる先生もいらっしゃる。その繰り返しであった。
 修論は「俳聖芭蕉の誕生とその理由ー茨城県内に残された句碑を通してー」がテーマであった。一年目は、研究を志すきっかけになった、茨城県内の芭蕉の句碑の存在を確かめた。ちなみに私は茨城出身・在住の生粋の茨城県人である。茨城県内だけでも芭蕉の句碑は58基残っている。(『石に刻まれた芭蕉』2004年弘中孝・智書房)私が実際確認できたものは51基であった。芭蕉が茨城県内で訪れている場所は、禅の師仏頂がいた鹿行(ろっこう)地域のみであるにもかかわらず、なぜこんなに多くの句碑があるのか不思議であった。この研究のおかげで県内でも行くはずのない場所や行ったことがない場所に行くことができた。また、句碑が倒れたままになってその上にバケツがのっていたり、個人宅にあったものが行方不明になっていたり、石で作られた物でも永遠ではないことを思い知らされた。地域の教育委員会に保護をお願いしたが予算の関係で無理と断られた句碑もある。調べていくうちに、『諸国翁塚記』という大津の義仲寺が江戸時代に発行した芭蕉の句碑の案内本の存在や、茨城県内ばかりでなく全国に句碑が2681基存在するということがわかり、もうすでにほぼ研究は済んでいた。そこで行き詰まってしまった。
 2年目、いろいろな論文を読んでいくうちに『鹿島紀行』についての疑問が出てきた。『鹿島紀行』の最後に登場する自準とは誰だったのかという疑問である。本来は徳川斉昭の御典医本間家の先祖本間道悦が江戸から鹿島に移り住み、そこを尋ねたことになっていた。が、千葉の行徳で神主をしている小西似春にいつの間にか変わっていた。確かに芭蕉は江戸に出てきたころ、小西似春と俳諧仲間として付き合っていた。作品も残っている。しかし、深川の芭蕉庵から日帰りも可能な行徳になぜ1週間も滞在しなければならないのか理解できない。そもそも帰り道は記されていない。行きと同じ道順で帰ったのか、それとも利根川を関宿まで登り江戸川に入る船旅だったのか、資料は見つかっていない。行きは深川から船で行徳まで行き、木下街道を利根川沿いの布佐まで徒歩で向かい、そこからまた船で鹿島まで行くという旅であった。当時の人気観光コースである。実際どのような道なのか鹿島紀行の道を反対にたどることにした。利根川の布佐から自転車で木下街道を行徳を目指して漕ぐ。約41q自転車を使っても5時間かかった。常磐線取手駅から利根川沿いに旧街道を走った。平均時速13qで行徳にはたどり着けず、下総中山までだった。次は行徳から深川芭蕉庵まで、約20q徒歩で歩いた。やはり五時間、ずっと川沿いを歩いたので船を使えばもっと早いはずである。現在イベントがあるときは小名木川など当時の船に乗れるそうだ。桜の季節はきっと素敵だろう。機会があれば船でたどってみたい。
 あっという間に中間発表がやってきた。ゼミの近藤先生が指導教官は発言できないからとおっしゃっていたので、何かあっても自力で乗り越えなければならないと覚悟した。反面国際情報専攻の人たちと同じ教室で、余り質問はされないであろうと高をくくっていた。ところが結構鋭い質問をしてくる方がいらして、なんて態度が大きいのだろうと内心思ってしまうくらいだった。お若いのでてっきり国際情報の学生さんかと思いきや秋草先生でいらっしゃった。後で保坂先生がご自分の代わりに情報文化学科の刺客として送り込んだとおっしゃって、すごく驚いた。
 クリスマスも正月もなく論文に取り組み、いよいよ論文審査という言う時にインフルエンザにかかり日程を遅らせていただいた。ここからずっと迷惑のかけ通しになる。学部の時は論文審査がなく、どういうふうに進行するのかさえ分からず、最初からずっとしどろもどろでどうしようもなかった。近藤先生はじめとする先生方が丁寧な対応をしてくださり、なんとか乗りきれた。本当に感謝である。用意周到に当たり前のことを当たり前にする、これが大事だと思う。
 ところが、もう1週間で修了式と言う時に、足利で怪我をした。ちょうど1年前の今日、渡良瀬川沿いに桐生までサイクリングをする予定だった。愛犬ラッキーを特製カートに載せて、出発してからすぐの出来事だった。ガードレールにぶつかって自転車から体が浮いてガードレールを超えた。超えた先は崖で、5m?落下した。近くにいらした足利市民の方達が人が消えたといって騒いでくれ、救急車をすぐ呼んでくださった。本当にありがたかった。主人と犬はずっと先を走っていて全然気がついてくれなかった。救急車と同時くらいに私の所へやってきた。足利日赤に運ばれ救急救命室で手当てを受けた。肋骨右側5本骨折、右肩胛骨がぐちゃぐちゃ、右足つぶれて変形、生まれてはじめて自分の力で起き上がれない状態を経験した。それでも帰りますかと言われどうやっても帰れないので入院させてもらった。整形外科は厳しくさほど回復していない状態でまた退院を促された。が、無理といったら肺に血がたまっていたので呼吸器外科の先生が面倒を見てくださって、おかげ様でそこで養生できた。ところが退院して一月たったころに体がだんだん不自由になり、自分の体が壊れて行くような恐怖心を味わった。運良く地元の脳神経外科で、両性脳硬膜下血腫と診断されすぐ手術を受けることができた。そのあと病気が再発しているのがわかり再び手術、2017年は私の人生の中で本当の厄年になってしまった。私を救ってくださったお医者様達と医療スタッフの皆様に感謝である。

 修了式には出られなかったけれど、先日近藤先生の退官記念講演で皆様と再会が果たせ、胸のつかえが取れたように感じている。また、新採の頃から夢だった中学・高校の国語の上級免許状を習得できたことは本当に嬉しいことことであった。それから通信制なので期待はしていなかったが、先生方との親しい交流やゼミの友達、同級生との語らいなど学生生活を満喫できた。ありきたりだが有意義な2年間であったと思う。日大という大きな組織の懐の深さも感じることができたように思う。ここにこうしていられることに感謝している。


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