近藤健史先生 最終講義に寄せて
文化情報専攻 17期生・修了 古山倫子

 去る2018年3月10日、東京市ヶ谷の日本大学桜門会館において、日本大学大学院総合社会情報研究科文化情報専攻にて教鞭をとられていた近藤健史教授の定年退職前の最終講義が行われた。「万葉集の読み方」と題されたこの最終講義では、近藤先生ご自身のこれまでの長く輝かしい研究人生とそのご業績を辿りながら、近藤先生にとってひときわ思い出深い『万葉集』の世界へと参加者一同深くいざなわれた。
 その内容は、『万葉集』の中の二歌を例にとり、それをどう位置付けどのようなプロセスを経て論文となるかを再現するというものであり、近藤先生の思考を追体験するかのようなスリリングなものであった。この講義の一番の特色は、新しい知見を披露するよりもその手法の説明に重きを置いた点にあったのではないだろうか。先行研究によって確立された『万葉集』の読み方の方向性の決定、学会誌等の論文審査及び評価の項目の確認、そしてテーマの決定から論文構成までの具体的手順の提示からは、近藤先生が最後に教育者として残したい強い思いが感じられるものであった。

 私は、この講義を聴きながら、近藤先生に師事した約6年間の中で印象深いふたつの言葉を思い返していた。
 ひとつは、日本大学通信教育部にて初回の卒業論文指導のために初めて近藤先生の研究室を訪れた時に、卒論のテーマを問われ「東日本大震災後に宮沢賢治「よだかの星」を読んだ際に感じた嫌悪感はどこから発生したものなのかを確かめたい」と答えた時に返された「それが研究というものですよ」という言葉である。小さな違和感や疑問を大切にする姿勢とそこにある純粋な探求心を肯定してくださったこの言葉こそが、私の研究者としての第一歩を踏み出すための大きな心の支えとなったのである。
 もうひとつは、更に研究を進めるために日本大学大学院総合社会情報研究科文化情報専攻へ進学した入学オリエンテーションの後に、近藤先生の研究室でゼミ生一同に対して配られた紙に記されていた「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。 宮本常一『民俗学の旅』より(※)」という言葉である。大学学部生時代には求められることのなかった「研究者としての心得」の片鱗に触れ、これから先の2年間で学ぶことの意義深さに対して気が引き締まる思いがしたのであった。

 最終講義終了時、席を立たれた近藤先生が手にしていた講義用資料には、手書きの小さな文字がびっしりと書き込まれていたのが見えた。最終講義前には学内の行事で多忙を極めていたはずの近藤先生が、この日のために入念な準備をもって最終講義に臨まれていたことを思い知らされ、その学問に対する真摯な姿勢に改めて深く感銘を受けた。

 今回、この原稿を書くにあたり、宮本常一の言葉を改めて読んでみようと原典にあたった。すると、近藤先生が下さった言葉には続きがあることに気づいた。「あせることはない。自分のえらんだ道をしっかりとあるいていくことだ。(同)」
あえて多くを語らず、学生の主体性を重んじながらも常にご自身の研究態度を示すことでもって優しく導いてくださった近藤先生の真意を、私はどれだけ正確に汲み取れていただろうか。研究という行為がいかに魅力的であるか気付かせてくださったことに心から感謝するとともに、近藤先生の教えを胸に、これからも研究を続けていきたいと強く思う。

[引用文献]
(※) 宮本常一『民俗学の旅』日本図書センター、2000年、p.37



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