G・W・F・ヘーゲル(1770−1831)によるとすべての有限なものは、内在的な矛盾と自己否定を通して自分自身を止揚(Aufheben)するものであるから、弁証法は内在的な超出の立場なので内在的な矛盾が、重視されることになる。もとより内在的な思考のためには、一般に外的な側面よりも内在的な側面を主体として捉えることであり、対象を内面から見るためには外的なものをすべて捨象して思考対象を、純粋化しなければならない。この発展の契機となっているものは、対象に内在する否定を通じてある概念から他の概念へと進んでゆく弁証法的な、方法なのである。そこでヘーゲルは、まったく事物のなかに入り込んで対象をそれ自身において、考察することで対象をそれがもつ規定に従って、取り上げるのである。その客観的な世界のうちに存在する理性は、現実的な理性なるものを認めることで主観的な理性をそれに、従属させたのである。そうすることによって彼は、観念論的で内在的な思考の可能性を保持することが、できたのである。つまり、ヘーゲルにあっては、可能な範囲内で内在的な矛盾を捉え自己運動と自己関係によるところの内在的な、思考の態度を徹底させたのである。真なる思考は、対象である事物の内在的な思考だけが真に思考過程の客観性と必然性とを、保障するものなのである。
弁証法における否定性の根拠についてヘーゲルは「悟性としての思考は、われに対して他のわれが現れわれわれという境位へと移行せざるを得ず、その規定の一面性と有限性を明らかにせざるを得ず自らを否定しなければ、ならなくなる」(1)と述べている。このような意味から彼は、我と相互転換しあっているわれわれという境位こそが、否定性の根源であって弁証法の成立する根拠なのであり、弁証法における内在的な否定性の根拠を、規定している。ヘーゲルによれば、すべての定立は否定でありあらゆる概念はそのものの内に、自分自身とは反対のものをもっており自分自身を否定して、反対のものになる。だがしかし、あらゆる否定は、定立であり肯定であるから或る概念が否定される場合にその結果においては、純粋な無と言うような全く否定的なものではなく具体的で、肯定的なものである。すなわち、そこにおいては、先行する概念を自己否定しただけ豊かにされた高次の新しい概念が、生まれてくる。事物の内在的な否定性は、このような仕方でもって弁証法的な進展の手段として、いるのである。すべての先に定立された概念は、否定されこの否定からより高くより豊な概念が、得られるのである。
このようにヘーゲル哲学は、分析的であると共に綜合的でもある方法を論理学の全体系において、貫かれている。対象である事物の内在的な否定性の意味内容は、事物自身に内在する否定を通じて他のものへ移行し発展する、ことなのである。弁証法は、この否定の要素を最も重要な要素として含んでいるのであって、この否定性は弁証法的な自己運動の根幹を、なすものである。この弁証法の本質的なものは、単純なる否定ではなく肯定的なものを内に保持した、自己関係を根底とした発展と連関の契機としての、否定なのである。対象である事物の自己運動は、或るものから他のものへの運動と発展にさいしては規定性が、否定されると共に保存されるという仕方で、成立するのである。新しい質の発生は、このような対象である事物に内在する否定的な媒介によって、行われるのである。このようにヘーゲルは、対象である事物に対する主観的な態度を広い意味で外的反省として、特徴づけている。その認識主体は、対象を外から特定の目的をもって恣意的に考察している、ものなのである。認識主体がこうした外的反省の態度をとる限りでは、対象である事物のそれ固有の内在的な必然性を認識することは、できないのである。
なぜなら、このような哲学の目的は、事物の内在的な必然性を認識することにあり真の思考といわれる、必然性の思考とは外的ではない内在的な必然性のこと、だからなのである。この内在的な必然性の思考こそが、内在的な考察であり内在的な弁証法と呼ばれているものなのである。ヘーゲルは「われわれがまったく事物の中にはいりこんで対象をそれ自身に即して考察し、対象をそれが持っている諸規定に従って取り上げるのである」(2)と述べている。このように事物に内在する否定性を、自己運動とその必然的な否定性を内在的な弁証法として、特徴づけることでその必然的な否定性を生動的に、捉えたのである。このことは、内在的な思考の意味であり事物の内在的な矛盾を生動的に捉える、対象の自己運動と自己否定性としての弁証法的な、方法なのである。このような内在的な思考の立場が、弁証法のうちで最も本質的なものであって最も重要な、構成部分なのである。真の思考である必然的な思考の態度とは、このような内在的な思考の立場なのである。対象に対する内在的な否定性としての弁証法では、当然ながら対象自身の自己否定という形で展開されなければならない。そのことの意味は、自分で自分自身を否定し内在的に超出する仕方でもって進展して、ゆくことにある。
だからそれは、対象である事物自身のうちにある否定性こそ弁証法的なものであり、その内的矛盾を自己否定性として捉え内在的な超出を可能とする、ものなのである。つまり弁証法とは、対象自身の否定性であって不断に生成と消滅を繰り返すことで、内在的に否定し内在的に超出せしめる立場なのである。弁証法においては、対象の内在的な否定性の立場は必然的に過程的な見地からの論理的な、展開となる。そのことの意味は、如何なる事物や事柄もつねに自己を内在的に生成と消滅という、過程として捉えて自己否定を通してその成果を超出して、ゆくものである。しかし実際には、この過程的な見地こそ内在的な否定を可能にする前提でもあるのであって、内在的な否定と歴史性とは同一物の両則面であり相互に、前提しあうものである。したがって、内在的な否定の考察は、変化と消滅という過渡的な過程を捉える認識の方法であり、歴史的な見地を前提とすることなしには徹底され、得ないともいえる。それだから弁証法は、徹底した否定性でありたえずそれによって内在的に批判し内在的に超出せしめる、立場なのである。内在性についてヘーゲルは、絶対的な方法は外的反省のようなやり方をせずその対象そのものの中から、直接に規定的なものを引き出すことにある、としたのである。
さらにヘーゲルは「概念そのものが進展するための契機となるものは、概念が自分自身の中にもつところの先に掲げた否定的なものであって、これこそ真に弁証法的なものにほかならない」(3)と述べている。だから、弁証法においては、すべてのものははじめから出来上がったものとして固定的で不変なものとして、存立し得るものではなくむしろ反対にそれは自分自身のうちに否定性を含んだ、有限なものとして常に自己止揚の必然性にあるものと見なされる、からである。われわれは、有限なものはすべてにおいて確固とした究極的な、ものではなく変化し消滅する過程のうちにあるものと、捉えている。すなわちこれは、有限なものの弁証法であり潜在的に自分自身のうちにあって、他者である有限なものはこの弁証法によって直接的な、存在を超出させられることでその反対のものへと、転化することになる。すべての有限なものは、他のものへと止揚されることがその内在的な必然性にある、とされるのである。つまり有限なものは、潜在的に自分自身が他者として過渡的な存在でなければ、ならないのである。有限なものとは、終わりのあるもの限界のあるもの制限された、もののことである。有限なものは、存在しているがこの存在の真理はその或るものの消滅を、意味するのである。
だから、消滅ということは、有限なものにとってはそれが消滅しないこともありうるというような単に、可能的なものではない。むしろ有限なものは、存在そのものが消滅の萌芽を自己のうちに発生以来あるものとして包含するものに、他ならないのである。ヘーゲルによれば人間の生命は「生命そのものがそのうちに死の萌芽を持っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を止揚するのである」 (3)と述べている。だからといって人間は、生きるという性質と可死的という二つの性質を、もっているのではない。すなわち、或るものの発生のときには、その或ものの消滅のときなのである。つまり、有限なものは、そのものの限界をもっているが故に限界は弁証法的な見地からあくまで内在的な、ものと見なければならない。このことの意味は、内在的な思考をたてまえとする弁証法の立場からして、当然のことなのである。だから有限なものは、外部から制限されているのではなく内在的な自分自身の本性によって、自分を止揚し自分自身によって反対のものへと転化して、ゆくのである。
われわれ人間は、現実の世界のなかで内在的な否定の論理を通して行われてゆく、新しい現実的な存在の形成そのものがヘーゲルから学ぶべき、重要な側面である。事物や事柄の新しい段階への発展は、それを吟味してゆく場合に新しい段階を形成するという、現実的な存在が生み出されるということを、捉えることにある。新しい社会の発展や人間の認識の発展においては、内在的な否定性こそが新しい実在が次々に生み出されてくると言う点を、捉えることにある。とりわけ社会発展という側面では、社会を新しく形成してゆくような主体的な人間として、捉えることである。対象である自然や社会を発生と消滅という過程のなかで捉えることの意味は、われわれ人間自身が能動的で主体的になることが求められて、いるのである。主体という意味は、われわれ人間が自然や社会に働きかけながら人間らしく、生きてゆける社会を作り上げるという主体であり、社会的な共生という相互的な連関を作り上げて、ゆくものである。そして、その社会を形成してゆくわれわれ人間は、現実的な衣・食・住という生活過程のなかで具体的な存在として、内在的な否定の論理を位置づけて新しい実在を主体として、捉えることなのである。
[引用文献]
(1) 城塚登『ヘーゲル』講談社学術文庫、2003年、p.62
(2) ヘーゲル『哲学史』上巻、武市健人訳、岩波書店、1996年、p.341
(3) ヘーゲル『大論理学』上巻の1、武市健人訳、岩波書店、昭和39年、p.41