ヘーゲルの弁証法的論理学
人間科学専攻 8期生・修了 川太啓司

 G・W・F・ヘーゲル(1770−1831)の論理学は、哲学の根本的あり方としての事物のあり方と認識のあり方についての方法、つまり弁証法的な方法とその本質を捉え吟味して、展開したものである。この論理学では、客観的なものの運動法則がそのまま認識の運動法則と同じものと、見なされている。そこにおいては、世界の運動とそれを捉える認識の運動とが歴史の歩みと、認識の歩みとが究極において一致すると言う深い思想が、含まれている。この論理学の概念は、ただ主観的に並べられているものではなく先行する概念から後続する概念が、必然的に導き出されるという具合にきちんと配列されていて全体が一つの有機的な、体系を構成している。この論理学の概念は、ただ互いに関連しあって論理学の体系を構成しているだけでなくて、各々がそのなかで占める位置におうじてその限界や欠陥が、明らかにされている。これは普通の論理学には、見られないヘーゲル論理学の特色である。この論理学は、純粋な概念を吟味しているがその内面的で必然的な相互関係と相互の移行関係において捉えている。そして、各々の概念は、あらゆる他の概念との連関のなかにおいて配置されているのである。

 ヘーゲル哲学の功績は、一定の制限性を包含しながらもその哲学体系においてはじめて、自然的・歴史的・精神的な全世界が体系的な過程として、開示されたことである。そこでは、不断の運動と変化と発展において把握されたものとして叙述され、その内的な連関性を普遍的で必然的に証明しようとしたことにある。さらにヘーゲルは、それらを基礎にして彼の弁証法の理論を展開しその哲学に弁証法的な方法を、適用したことにある。ヘーゲルは、世界の在りようについて出来あがった固定的なものではなく生成し、消滅する事物について絶え間なく変化発展する過程において捉えるべきである、としたのである。そして、駆使する論理的な概念は、個々バラバラに取り扱うのではなくその内的な必然性と相互連関において吟味し各々が相互の移行関係において、捉えている。各々の概念は、他の概念と一定の連関のもとにありそれらの形式から他の形式へと、普遍的な必然性をもってより低い形式からより高次の形式を、展開するのである。そこでは、対象である事物を現実的な認識過程において概念的に把握することなのである。

 現実的で概念的な把握の仕方とは、現実をその真の姿において捉えるということである。だから、認識過程におけるヘーゲルの弁証法は、その最も高次の段階である概念的な認識を把握することにある。すなわち、概念的な把握は、事物を最も深く認識することであり事物を根底から、掴むことなのである。そうしたヘーゲル哲学の課題は、あるところのものを概念的に把握することである。なぜなら、あるところのものこそ理性だからである。さらに、自然それ自身が理性的であり知識作用が探求し概念的に把握すべきものは、自然内部に現存する現実的な理性なのである。このようにヘーゲルは、歴史と共に歩む現実的な精神の在り方を探求して論理学そのものがより、現実的でなければならないと考えたのである。そこにおいては、ヘーゲルの論理学で展開されている弁証法的な諸カテゴリーと概念的な思考の在り方が吟味されている。そうすることでヘーゲルは、さらに対象である事物を現実的な認識過程において概念的に把握し、それらを媒介に反省的に追思考することで弁証法的に捉え、認識するとしたのである。

 ヘーゲルによるとすべての有限なものは、内在的な矛盾と自己否定を通して自分自身を止揚するものであるから、弁証法は内在的な超出の立場なので内在的な矛盾が重視されることになるのである。もとより内在的な思考のためには、一般に外的な側面よりも内在的な側面を主体として捉えることであり、対象を内面から見るためには外的なものをすべて捨象して思考対象を、純粋化しなければならない。この発展の契機となっているものは、対象に内在する否定を通じてある概念から他の概念へと進んでゆく弁証法的な方法なのである。そこでヘーゲルは、まったく事物のなかに入り込んで対象をそれ自身において、考察することで対象をそれがもつ内在的な規定に従って、取り上げるのである。その客観的な世界のうちに存在する理性は、現実的な理性なるものを認めることで主観的な理性をそれに、従属させたのである。そうすることによって彼は、観念論的で内在的な思考の可能性を保持することが、できたのである。つまりヘーゲルにあっては、可能な範囲内で内在的な矛盾を捉え自己運動と、自己関係によるところの内在的な思考の態度を、徹底させたのである。真なる思考は、対象である事物の内在的な思考だけが真に、思考過程の客観性と必然性とを保障するものなのである。

 弁証法における否定性の根拠についてヘーゲルは「悟性としての思考は、------われに対して他のわれが現れわれわれという境位へと移行せざるを得ず、その規定の一面性と有限性を明らかにせざるを得ず自らを、否定しなければならなくなる」(1)と述べている。このような意味から彼は、我と相互転換しあっているわれわれという境位こそが、否定性の根源であって弁証法の成立する根拠なのであり、弁証法における内在的な否定性の根拠を、規定している。ヘーゲルによれば、すべての定立は否定でありあらゆる概念はそのものの内に、自分自身とは反対のものをもっており自分自身を否定して、反対のものになる。だがしかし、あらゆる否定は、定立であり肯定であるから或る概念が否定される場合にその結果においては、純粋な無と言うような全く否定的なものではなく具体的で、肯定的なものである。すなわち、そこにおいては、先行する概念を自己否定しただけ豊かにされた高次の新しい概念が、生まれてくる。事物の内在的な否定性は、このような仕方でもって弁証法的な進展の手段として、いるのである。すべての先に定立された概念は、否定されこの否定からより高くより豊な概念が、得られるのである。

 このようにヘーゲル哲学は、分析的であると共に綜合的でもある方法を論理学の全体系において、貫かれている。対象である事物の内在的な否定性の意味内容は、事物自身に内在する否定を通じて他のものへ移行し発展することなのである。この弁証法は、この否定の要素を最も重要な要素として含んでいるのであって、この否定性は弁証法的な自己運動の根幹を、なすものである。この弁証法の本質的なものは、単純なる否定ではなく肯定的なものを内に保持した、自己関係を根底とした発展と連関の契機としての、否定なのである。対象である事物の自己運動は、或るものから他のものへの運動と発展にさいしては規定性が、否定されると共に保存されるという仕方で、成立するのである。新しい質の発生は、このような対象である事物に内在する否定的な媒介によって、行われるのである。このようにヘーゲルは、対象である事物に対する主観的な態度を広い意味で外的反省として、特徴づけている。その認識主体は、対象を外から特定の目的をもって恣意的に考察しているものなのである。認識主体がこうした外的反省の態度をとる限りでは、対象である事物のそれ固有の内在的な必然性を認識することは、できないのである。

 なぜなら、このような哲学の目的は、事物の内在的な必然性を認識することにあり、真の思考といわれる、必然性の思考とは外的ではない内在的な必然性のことだから、なのである。この内在的な必然性の思考こそが、内在的な考察であり内在的な弁証法と呼ばれているものなのである。ヘーゲルは「われわれがまったく事物の中にはいりこんで対象をそれ自身に即して考察し、対象をそれが持っている諸規定に従って取り上げるのである」(2)と述べている。このように事物に内在する否定性を、自己運動とその必然的な否定性を内在的な弁証法として、特徴づけることでその必然的な否定性を生動的に、捉えたのである。こうしたことは、内在的な思考の意味であり事物の内在的な矛盾を生動的に捉える、対象の自己運動と自己否定性としての弁証法的な方法なのである。このような内在的な思考の立場が、弁証法のうちで最も本質的なものであって、最も重要な構成部分なのである。真の思考である必然的な思考の態度とは、このような内在的な思考の立場なのである。対象に対する内在的な否定性としての弁証法では、当然ながら対象自身の自己否定という形で展開されなければならない。そのことの意味は、自分で自分自身を否定し内在的に超出する仕方でもって、進展してゆくことにある。

 このヘーゲルにおける否定の弁証法と概念的把握の論理は、われわれが学ぶべき成果と共にそこには克服すべき欠陥も含まれている。そうした一つの問題は、認識の進展としての概念の展開を事物の現実の進展と同じように自己発展する運動と、捉えたことである。これが概念の否定の否定といわれているものである。他の欠陥は、今度は前述の見解とは逆に実在する事物の現実的な、進展の姿を認識の進展としての概念の展開と同じように、捉えたことである。ヘーゲルが実在する事物の進展を、事物の自己運動として把握することで否定の否定を弁証法的な運動と捉えたことは、歴史的な成果として評価されるべきである。だがしかし、それを今度は、人間の認識活動の進展と混同することは許されることではない。事物の内容や形式が否定され物事が進展する発展の順序は、人間の認識活動があゆむ発展の順序とは同じではないのである。事物や事柄が発展する原動力は、それ自身に内在する矛盾であり人間の認識活動が発展する原動力は、それ自身に内在する矛盾ではなくこれまでの歴史的な成果と、認識と対象としての現実的な事物の認識との不一致とする、矛盾なのである。有・本質・概念と言う思考の進展のうちに同じように現実の進展を捉えたヘーゲルは、このような不合理な見解に陥ったのである。

[引用文献]
(1) 城塚登『ヘーゲル』講談社学術文庫、2003年、p.62
(2) ヘーゲル『哲学史』上巻、武市健人訳、岩波書店、1996年、p.341


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