アリストテレスの現実態と可能態
人間科学専攻 8期生・修了 川太啓司
アリストテレス(前384―322)によれば現実態と可能態は、或るものをその形成や生成過程を捨象して静態的にすなわち基本的に、観察するところのものが材料である質料と形である形相によってできている、と見ることなのである。さらに、アリストテレスは、それらを幾らか歴史的にたどり見直す場合にそれが、でき上がってくるための根拠として起動因と作用因を、挙げることはできるがそれは基本的に見たものについて、その形成の原因を追跡しているのであって、生成と変化としての物の動きそのものを現実に辿っているのではない。アリストテレスは、これまでに述べたごとく生物学とりわけ動物学の領域においても広く研究を、重ねた学者であった。ところで動物とは、生の動態を抜いて考えることのできない存在者である。それ故に、動物学で鍛えた彼の眼力には、物の動的な見方のうちにダイナミックな把握がある。したがって、アリストテレスの論理は、事物一般に対してその誕生や成長や衰退や死滅という関係のうちに、生成と消滅の変化という動的な状態を見落とすことが、できないものである。
アリストテレスによると「赤子は、子供となりそこで赤子の時に潜在的に持っていた言語能力や歩行能力が、その可能的な状態から現実化されてくる。そのような子供が、成人となりそこで子供の時に潜在的に持っていた生殖能力や思索能力が、その可能的な状態から現実化されてくる」(1)のである。このように現実は、様々の変化に満ちているがその変化はいずれも変化する可能性のないものから、現在の姿に変化しているのではなくて変化する、可能性のあるものが現在の姿に現実化しているのであると、見なければならない。それ故に、アリストテレスは、固体の状況につき可能態(dynamis)的な力から、働きすなわち現実態(energeia)へという動的な図式を、考えたのである。現実態というのは、その当の事態が可能態においてわれわれの言うような仕方においてではなく、何かのうちに存続していることである。ところでわれわれは、何ものかを可能態においてあるということが、たとえば木材のうちにヘルメスの像があるといわれることや、あるいは家を作るためのあらゆる資材のことなどの、ようなものである。
われわれが、現実態と可能態について吟味する方法は明らかにその個々の場合から、帰納によって示される。そして一般に人々は、必ずしもあらゆる物事についてその定義を要求すべきではなく、場合によってはただそこに類似関係を見出すだけでこと足りる、とすべきである。たとえば、今の場合には、現に建築活動している者が建築しえる者に対しは、また目覚めている者が眠っている者に対し現に見ている者が、視力を持ってはいるが目を閉じている者に対し、規定されている。或る材料から形作られたものは、その材料に対し完成したものが未完成なものに対するがごとき、類似関係が存在する。そこにおいては、この対立の一方の項によって現実態が規定され他方によって、可能態が規定される。だから物が現実態においてあるのは、あらゆる物が等しく同一の意味においてそう言われるのではなくて、可能態に対してあると言うような類似関係によって、言われるのである。しかし、その或るものは、運動の能力の可能性に対する現実の運動の現実性のごときものであって、他の或るものは質料に対するその実体である。
運動との関連において言われる可能態については、すでに述べられたからして次にわれわれは現実態について、現実の活動とは何かまたそれはどのようなものであるかを、吟味することにある。それを分析すれば、同時にまた能力のあると言われるものについてもわれわれが、ただ単にその本性から端的にまたは何らかの条件のもとで、他のものを動かしまたは他のものによって動かされる、ようなものである。可能的なものは、すなわちそうしたりされたりする能力があると言うことだけでなく、これとは異なる意味でもそういっていると言うことが、明らかになるである。だからそこでは、これまでの探求でもそれらの意義について調べてきたわけである。だから現実態ということは、当の事態が可能態においてわれわれの言うようなその仕方において、存続していることである。その或るものは、運動の能力に対する現実の運動のごときものであり他の或るものが、質料に対するそれの実体である形相の本質とするものである。
アリストテレスによれば「現実態が、善い可能態よりもさらにいっそう善くあり、さらにいっそう貴重であるということは、次のことどもから明らかである。けだし、或る何かの可能なものと言われるものは、すべて等しくその何かとは反対の物事も可能なものである」(2)としている。たとえば、健康であることが可能なものと言われるのは、病気であることの可能なものと同じものでありしかも同時に、これらに相反する可能態をもっているということである。そのことは、同一の可能態が健康であることや可能態でもあれば病気であることでもあって、静止することでもあれば運動することでもあり、健康であることでもあれば病気をすることでもあり、健康であることでもあれば倒れることでもあるからである。ところで反対への物事の可能性は、確かにこのように同時にその同じ可能的なものに、存続している。だがしかし、反対の物事であるそれ自らは、同時に現存することが不可能となることである。また、それらの現実態では、たとえば現に健康であることと病気であることを同時に存続することは、不可能なのである。
したがって、必然的にそれらは、これらのうちのどちらかは善いものである。その可能性は、等しくそのどちらでもあるかどちらでもないかである。それ故に、現実態の方がいっそう善いというのは、可能的であるものは同じでありながら悪い方だけでなく相反する両方で、在り得るからである。それだから、明らかに悪いものは、その当の物事が悪いものから離れて別に存するものでは、ないからである。なぜなら悪いものは、その自然において可能態よりも後のものだからである。また、それ故に、原理的なものや永遠的なものは、決していかなる悪くもなくいかなる欠陥もなくてまたいかなる、破損されたところもないと言うのは破損が悪の一種、だからである。そして、それらの関係の意義が、発見的に解明されるのも或る現実活動のうちに現実的に分析することによって、解明されるのである。もしも、すでに分析されたならそのときには、これらは現に明らかなわけであるが、しかし今のところまだ可能態において、在るにすぎないのである。
シュヴェーグラー(1819−1857)によれば「質料と形相との関係は、これを論理的に理解すれば可能態と現実態との関係である、ことがわかった。可能態と現実態という言葉は、哲学的意味においては、アリストテレスがはじめて創ったものであって、アリストテレスの体系の特性をもっともよく示している」(3)のである。可能的に存在するものは、現実的に存在するものになると言うことのうちに、生成の概念が顕現的に示されているのであって一般に、アリストテレスの4原因説は生成の概念をその諸モメントへと、分解したものである。したがって、アリストテレスの体系は、生成の体系でありエレア学派の原理がプラトンにおいて、そうなっているようにアリストテレスにおいては、ヘラクレイトス(前500年頃)の原理がより豊かにより発展したかたちで、復帰しているのである。アリストテレスは、これによってプラトン(前428―347)の2元論を克服する重要な一歩を、進めたのである。質料が形相の可能態であることは、生成しつつある理性であるとすればイデアと現象の世界との対立は少なくとも、原理的には可能的に克服されている。
可能態と現実態というのは、質料および形相としてあらわれるものがただ発展段階を異にした、同じ存在だからである。アリストテレスは、可能態と現実態との関係を具体的に説明することは加工されぬものとして、加工されたものや建築師と現に建築に従事している者たちとが、眠っている人と目覚めている人との関係を例にとって、説明している。木の可能態は、種子でありその現実態は成長した木である。可能的に見て哲学者である人は、現に哲学的な思索をなしつつある人ではない。可能的な勝利者は、戦場に臨む以前に優れた将軍である。だから、可能的には、空間は無限に分割できるものである。一般的に運動・発展・変化・他在の原理をもつものは、妨げられさえしなければ自分自身によって存在するようになるものは、可能的にあるのである。可能態あるいは現実態とは、これに反して完全な行動と到達された目標と完成された現実性であり、行為の完成とが合致している活動である。だから、成長した木は、種子の生成なのである。
可能態と現実態については、たとえば見ることや考えることについて言えば、われわれは見つつあると同時に見てしまったのであり、考えつつあると同時に考えてしまったのであって、2つのものは同一である。生成と結びついている活動は、例えば学ぶことや行うこと健康になることなど2つのものは、同一ではないこのように形相を現実態あるいは生成として、すなわち生成の運動と結び付けて理解するのが、アリストテレスの体系がプラトンのそれと異なっている、主な点である。プラトンは、イデアを静止したもの生成と運動とに対立したものであり自立的な、存在としているがアリストテレスにあっては、イデアは生成によって永遠に作り出されるものであり、永遠の現実態すなわち完全な現実性のうちにある活動であり、即自的にあるものすなわち可能的なものの対自的に、あるものである。すなわち、現実的なものへの運動によっては、不断に到達される目標であって出来上がった存在ではなく不断に、生成される存在なのである。
[引用文献]
(1)今道友信『アリストテレス』講談社学術文庫、2006年、p.131
(2)『アリストテレス全集12』「形而上学」出隆訳、岩波書店、1968年、p.315
(3)シュヴェーグラー『西洋哲学史』上巻、谷川・松村訳、岩波文庫、1999年、p.190