修士論文奮戦記  −日々の積み重ねの大事さ−

国際情報専攻 17期生・修了 宮本史昭

 私は33年前に大学を卒業し、民間企業に就職、海外勤務も10年以上になりました。日本の典型的な新人類世代のサラリーマンで、入社してから同じ会社一筋で過ごしてきました。その間、会社の仲間・同僚にはこれからの企業人は自己啓発を続け、常に自身の現状の力を棚卸し、新たな機能を自家薬籠のものとすることの重要性を僭越ではありますが、訴え続けていました。

 仲間の一人で優秀ながんばり屋さんがいます。その仲間は、私と仕事をやりながら、自身で米国の大学の法学部を通信制度を利用して卒業し、その後、米国の弁護士資格も取得しました。そこで私自身振り返ってみて、皆に言っているわりには、大学時代は勉強したかというとそうでもなく(ただし、労使関係論のゼミは一生懸命やりました)、ここは50歳過ぎの老体にむち打ち、もうひと踏ん張りして勉強し直そうと決意を新たにしたのであります。

 その際、私には仕事をしながら勉強するという選択肢しかなく、これまでの仕事をしてきた中での疑問をテーマに掲げ、通信制度の大学院を探した結果、新聞広告で日本大学大学院の募集案内を発見し、その学校案内で国際情報研究の階戸先生の温かいお人柄が伝わる写真を拝見し、即決意しました。

 当初は日本企業のグローバル化が加速する中で、ヒトの面でも日本企業の海外拠点のトップの現地化が進んでおり、従来現場のトップを目指してきた日本本社採用の社員のモチベーションをどのように維持すべきかをテーマに据えて入学試験に臨み、無事、合格通知を頂きました。しかし、その後、主要日本企業の不正が絶えず、コーポレートガバナンスの強化が新聞紙上をにぎわしはじめるようになり、業務と研究とのバランスを考えると私のこれまでの業務経験に、より近い方が成果を出せると確信し(自信のない確信でしたが)、『日本企業の社外取締役は不正を未然に防ぐことができるのか』という身近なテーマに卒論の題目を変更した次第です。

 一方で、丁度この修士課程を開始するタイミングで、米国のニューヨークに勤務することになり、挫折せずに最後までやりきることができるのか不安を感じ、スタートしたことを懐かしく思い出します。修士論文のテーマに近しい講義を中心に2年間で卒業にぎりぎり必要な最低限の6コマで勝負し、24本の課題レポートを書き上げるとともに、修士論文も並行して仕上げていきました。当初の不安を掻き消すべく、サイバーゼミには時差のある中ではありましたが、できる限り参加し、階戸先生のコメント、ゼミテンのプレゼンを参考にしました。また、スクーリングにも顔をだし(当たり前ですね。これは必須です)、最後は口頭試問も日本に戻りクリアしました。

 ゼミテンの方から、日大の本修士課程は、自分がまずレポートを書き、それをmanabaにアップしない限りはなにも進まず、粗削りでもいいから、とにかくできる限り早いタイミングで提出することが肝要とのアドバイスを頂き実践しました。最初は、引用の仕方、参考文献の表記等、基本動作が全くできておらず、教授の方々からは温かくも厳しいご指導を頂きながら、突破してきました。

 また、ニューヨークはマンハッタン単身住まいで、国連ビルの近くに居住しており、土日はレポート、修士論文書きと趣味の散歩でマンハッタンを徘徊していました。レポートや修士論文の構成で行き詰る度に、散歩に出ては、論文の構成を歩きながら少しずつ固めていきました。

 その頃、STINGの久しぶりのアルバムで「ニューヨーク9番街57丁目」という私が住んでいるアパートから徒歩圏内のマンハッタンの交差点の名前そのもののアルバムが発売されました。STINGは幼いころ朝太陽が昇る前からお父さんの牛乳配達のお手伝いをしており、そのころから歩き回り、歩きながら考えるのが好きだったそうです。そしてSTINGは、何年にも亘って、数えきれないほど9番街57丁目の交差点にたちどまり、歩くことで曲を紡ぎ出したとアルバムの中で語っています。私は、STINGのような独創性は皆無ですが、STINGと同じ交差点でたちどまり、修士論文の構想を練り、日々少しずつ書き上げていきました。

 今回、修士論文にはかなりの情報を入れ込み、個人的な読書備忘録としても残しておきたいという想いもあり、あれもこれも感満載でしたが、業務に通じる題目でもあり、書き上げた論文は会社の仲間ともシェアし、コメントももらいました。

 階戸先生、日本大学大学院の先生のみなさま、階戸ゼミのゼミテンに改めて感謝するとともに、後輩の方々には、仕事との両立という観点からも、日々の少しずつの積み重ねをお勧めします。


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