ロールズの正義論と平等な自由
人間科学専攻 8期生・修了 川太啓司
今日のアメリカ社会は、トランプ政権の誕生により環境問題でパリ協定からの離脱など、排外主義的な保護主義と独裁政治が顕著に、現われている。そこでわれわれは、アメリカの良心と言われるジョン・ロールズ(1921−2002)の[正義論]を対峙させ、こうした反知性主義を吟味することにある。平等な自由についてロールズは「諸原理を充たす基礎構造の一つを描き出し、さらに諸原理から生じる複数の義務および責務を検討する。この基礎構造の主要な制度は、立憲デモクラシーのそれであるが私はそうした制度編成が正義に、かなった唯一のものだと論じるつもりはない。私の意図は、むしろ次の二点をはっきり示すことにある。第一部では、制度的な形態から分離・抽出されたものとして論じられてきた、正義の諸原理が実際に有効な政治的な構想を定義しうること、および私たちのしっかりした判断に対する妥当な近似にしてかつそれらを、拡張したものとなっている」(1)ことである。次いで平等な自由の基礎構造は、正義の二原理の夫々に対応する基礎構造の二つの部分を簡潔に説明し、自由の概念を定義している。
そこにおいてわれわれは、こうした正義の概念である平等な自由に関する三つの問題として、良心の自由・政治的正義と政治的権利の平等・人身の自由の平等および、自由と法の支配との関係について吟味しなくては、ならないのである。平等な自由の概念は、正義の第一原理の適用について論じるに当たり自由の意味をめぐることで、自由の概念という論題をしばしば混乱に陥れてきた言い争いを回避して、無視しようとする。平等な自由の概念については「二種類の自由は双方とも人間の願いに深く根ざすものであるけれども、思想の自由・良心の自由・人身の自由および市民的自由は、政治的自由および政治の事柄に等しく参加する自由のために、犠牲にされるものであってはならない」(2)としたのである。こうした問題は、明らかに実質的な政治哲学が取り組むべき懸案事項の一つでこれに答えるには、正義の理論が必要となる。そこにおいては、自由である行為者がそこから解放されて自由となった制限や限界について、これらの項目に関連する情報を提供することでより豊かな、内容となるのである。
良心の自由という概念は、これまでの自由の原理においてそれは正義に関するわれわれがしっかりした、判断の下になっている。しかもまさにこの事実が、平等な自由の原理の擁護論の性質を明らかにする。ロールズによると「そこで良心の自由に目を向けると、当事者たちが己の宗教および道徳上の自由の不可侵性と統一性を確実なものとする原理を選択するに違いないことは明らかだろう。当事者たちは、もちろんどのような宗教あるいは道徳上の確信を自分たちが抱懐しているのかを、知らないし道徳や宗教上の責務の内容が自分の解釈では具体的に、どうなっているかについても知らない」(3)のである。当事者たちは、己がそのような責務を負っていると自覚しているのかどうか、分からないのである。われわれは、このような点で無知である可能性さえあれば論証により充分なのだが、さらに強い想定を設けている。すなわち、当事者たちは、自分の宗教や道徳上の見解が社会においてどのような扱いを受けているかを、知らないのである。
ロールズは「平等な自由の原理に関する初期状態での合意は、最終的なものである。宗教および道徳上の責務を承認している個人は、そうした責務を絶対的に拘束力のあるものと見なしているが、それは自分の別種の利益を増進してくれる資力の拡大と引き変えに、おのれの宗教および道徳上の責務の遂行を制限することはできないと、言う意味においてほかならない」(4)としたのである。経済的で社会的な便益がより多く手に入るからと言うのは、平等な自由以下に縮減された自由を受託する理由としては、充分なものではない。自由それ自体の観点から見れば、抵抗するのが賢明ではないほど強制の恐れがある場合にのみ不平等な、自由に合意しうるのである。たとえば、或る人が良心の自由の侵害に異議申し立てをしないという条件を守りさえすれば、当人の宗教もしくは道徳上の見解が寛大に扱われる一方で、平等な自由を権利として要求するだけで実効的な反抗を、組めない大規模な抑圧がもたらされそうな状況を、想像することができる。平等な自由は、正義の理論が固められたところで制度への適用が開始される。
平等な自由は、採択された正義の二原理が肉づけられて社会制度に埋め込まれていく過程を、アメリカ憲法の制定過程になぞらえながら説明する作業から、取りかかっている。第一部と異なりそこでは、制度への実践的な適用を考察するし第二部だと理論で割り切れない箇所が、残ることは避けられない。けれども、正議論における不確定性それ自体は、決して欠陥とはならない。公正としての正義は、もしそれが私たちのしっかりした判断に従って正義の射程を確定できるならば、そして社会が避けるべき重大な不正を排除するものであれば充分価値のある、理論だといえるからである。自由とは、平等な市民権に含まれた諸自由をもれなく保障するシステムを、通じて制度的に実現されるそうした自由と自由の価値とを、区別する必要がある。そして後者は、システムの定める自由の枠組みの内部でめぐまれない人々の、集団の目指すものが実際どれくらい増進できるかに、関する当人の力量に比例する代表的な自由として、良心の自由を取り上げる。良心の自由が平等に保障されるべき意見は、原初状態の全員が承認できる原理の一つである。
ロールズによれば、身体の自由・良心の自由・思想の自由・政治的自由・移動の自由・機会の平等と、いった憲法が保障する自由が平等の自由という特徴を共有しており、この種の自由に関しては差別や不利益が、あってはならない。このような、自由を擁護できる決め手は、社会的な効用ではなく正義の概念が与えてくれる。平等で自由な社会においては、正義の概念こそが憲法上の自由の基礎に関する共通の了解を支える最も、合理的な根拠となる。こうした主張を、公正としての正義の立場から論証するために憲法問題に即して、正当化をはかるのである。公正としての正義の第一原理は、基本的な自由に対する平等の権利を持つべきである。その基本的で平等な自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて最大限広範囲にわたる、自由でなければならない。正義の第二原理である社会的で経済的な不平等は、次のような条件を満たすものでなければならない。それらの不平等が、全員の利益になると無理なく予期しうることであってそれらの不平等が、全員に開かれている地位や職務に付随するものでしか、ないことである。
平等な自由を求める価値意識は、われわれ人間が行為する場合において何を基準に行動をするか、という問題となる。われわれ人間は、何らかの行為することで現実的な営みをしているわけであって、日常的な労働という生業のうちに生活過程を通して生きているわけである。そういう人間の意識の根底にあるものが、正義の価値意識というものであるだろう。社会的なそれぞれの事柄に対しては、各人の価値判断を下し何らかの行為をするわけである。正義の価値意識の面からは、人間性について考えてみると現実に生きている社会生活のなかで、様々な社会状況のうちに変容された価値意識というものを身に着けざるを、得ないのが現状である。現実の社会に生きているわれわれは、日常的な生活過程のなかで資本主義的な価値意識を身に着けざるを得ないわけで、それらはマスメディアの世論操作をつうじて資本主義的な価値意識を、絶えず叩き込まれているわけでそのような中でこの社会についての根本的な、信条を身につけるわけである。平等な自由を求める正義の価値意識は、どのような構造を持っているのかという諸問題を、考察することにある。
人間の価値意識というものは、重層的な構造を持っているものであり根底にある、価値意識の上にいろいろな社会的な関係によって、形成されてくる価値意識が積みかさねられて、われわれの現実的な価値意識というものが形成されて、きたものである。つまり、基底をなす根源的な価値意識は、これまでの歴史的な社会関係や様々な諸関係のうちに加工され規定されて、われわれの価値意識として形成されてきたものであり、われわれの価値意識は加工され現実的に規定されて、いるのである。このように、加工されている価値意識は、意識構造を根本的に規定する価値意識が人間の普遍的な、人間性にあるだろう。われわれは、人間の普遍的な存在を認めることで人間が存在するための基本的な、条件は普遍的なものだと考えている。だからロールズの正議論は、その意義と限界については資本主義を不正な社会だと考え正義に基づいた、富の分配にその不正を是正する方法を求めている、ものである。だからわれわれは、ロールズの正義論からその内的な意味を学びその限界を包含しながら継承し、発展させることに意義がある。
現代の地球的な規模での環境問題などは、生産力の野放図な拡大により環境破壊を加速させている新自由主義的な、経済秩序の持続不可能性が発生因となって、いるのである。だから、持続可能な未来のためには、生産力を持続可能な範囲内にコントロールすることで必要充分な、地球上の富の総量が偏在しているために生じている貧困問題を、解消できるような国際的な規模での分配的な正義の実現が、求められている。そのことの意味は、物質的な生産力に対する人間の意識的な世界的な管理のみが、生産力が益々自然と文化を破壊する力に変質していくのを、阻止することができる。平等な自由を求める正義の価値意識は、現実の社会構成体を変化させることによって新自由主義のような、市場と私的所有の物心崇拝に陥ることなく分配的な正義の重要性を、訴える倫理学説が現在様々な形で提唱されて、いるのである。そこでわれわれが求めるものは、経済的な不平等な事態を生みだす社会ではなくてそうした不平等を、発生させない社会であり平等な自由社会であってその枠を超えた共生する社会が、要請されているのである。
[引用文献]
(1)J・ロールズ『正議論』川本隆史訳、紀伊国屋書店、2010年、p.265
(2)同上書、p.274
(3)同上書、p.280
(4)同上書、p.282