アナクサゴラスの多元論

人間科学専攻 8期生・修了 川太啓司

  エレア学派のアナクサゴラス(前500―428年頃)は、パルメニデスの不生不滅の論理を理論的な前提として受け入れたのだが、エンペドクレスの説には満足できなかった。なぜなら、エンペドクレスは、骨は土・水・火・を混ぜ合わせて出来たとしたがそれぞれ自体が骨でない以上に、骨で有らぬものから骨で有るものが生じたことになりエレア学派の前提と、矛盾するからである。その種子の混合や分離は、どのようにして起こるのか彼はその混合と分離を惹き起こすものとして、知性[ヌース]を見出したのである。このようなことからアナクサゴラスは、あらゆるものの中にはあらゆるものの部分が知性[ヌース]を除いて、含まれていると言うのである。つまり、このような自体のうちには、あらゆるものの要素が含まれているが知性[ヌース]だけは要素として、含まれておらず混合と分離の動力因として作用することで、外から働くのである。彼の考えによれば、原初の宇宙は万物の絶対的な混合の状態にありそれに知性[ヌース]が、働きかけて宇宙に回転運動をおこし個々のものを分離し、現出させるのである。だからその結果が、現在の宇宙なのであり従って現在の宇宙は知性[ヌース]によって、秩序づけられたものなのである。

 アナクサゴラスによると「いかなるものも、生成することも消滅することもなく、有るものどもから混ぜ合わされたり、有るものへと切り離されたりするのだからだ。かくて、生成を混合と消滅を分離と呼ぶなら正しいことになる」(1)と述べている。アナクサゴラスは、パルメニデス(前475年頃)の根本原則である生成と消滅の否定を受け入れたが、しかしアナクサゴラス自身のパルメニデスにたいする対応の歩みは、不充分なものであった。先達のエンペドクレスの歩みにくらべ彼のそれは、いっそう厳格なものいっそう徹底したものであったと、いえるものである。エンペドクレス(前495―435年頃)によれば、骨は土・水・火が一定の割合で混合することによって生成してまたそれらの元素に、分解して還元される。しかし、この場合に問題は、厳密に考えるなら土・水・火という骨でもないものが骨になる、という説明方式がパルメニデスの根本原則に違反する事態を、招くと言うのである。アナクサゴラスは、骨はいかに分割しようとも骨なのであると言うこのアポリアを、彼はいっそう徹底した流儀で解決しようと、したのである。

 アナクサゴラスは、事物の分割について「小さなものについては、最小ということがなくて、つねにより小さいということがあるし、なぜなら、有るものが、有らぬものであることは不可能なのだからまた大きなものについても、つねにより大きいということがあるからだ。そして大きなものは、小さなものと、数の点で等しい。だがそれぞれのものは、自分自身に関しては、大きくもあり、小さくもある」(2)としたのである。こうしたアナクサゴラスの断片は、これに応答しこれを超えるものであったと、見ることができる。だから彼は、事物の無限分割が可能であるとする立場を鮮明にすると共に、この立場がパラドックスに帰結することにならないことを、立証するのである。われわれが、物を部分に分割して行けばいくほどその物の部分はそれがいかに、小さくとも何らかの目的をもつ以上物の部分の総体はいっそう、大きくなる。したがって、分割においては、限界がないとすれば事物の総体としての大きさにも限界がない、と言うことになる。

 アナクサゴラスによると「あらゆるもののうちに、あらゆるものの部分がある。といってもものにより、混合の割合は異なる。もちろん小麦の中には、血・肉・骨をはじめあらゆる部分が含まれている。しかし、私たちがあるものを小麦として認めるのは、たんにその混合の中で小麦の部分が最も多かったからに他ならない」(3)としている。アナクサゴラスにとっては、宇宙生成説における原初の状態はあらゆるものは一緒になって、あったといわれるような一種の絶対混合のうちにあったと言って、よいものである。アナクサゴラスは、また宇宙の絶対混合にあるものを動かすものとして、知性[ヌース]を導入する。あらゆるもののうちには、あらゆるものの部分がある。アナクサゴラスの哲学の根本原則では、ただひとり知性[ヌース]のみが無限で独立自存し何ものとも混合せずに、それ自身で自らのもとにあるとされてそれはあらゆるものについて、あらゆる知識を保持し万有を秩序づける原理をあらゆるものが、あらゆるもののうちにある万有そのものから切り離しこれとまったく異質な、存在として立てたことにある。

 シュヴェーグラー(1819―1857)によれば「アナクサゴラスは知性[ヌース]を、自発的に活動するもの、どんなものとも混合していないもの、運動の根拠、自分は不動でありながらいたるところで作用しているもの、すべてのうちでもっとも微妙で純粋なもの」(4)と述べている。これらの述語は、まだ自然学的な類似にもとづいて非物質性という概念が純粋に現れ出ていないが、思考および意識的な合目的な活動という属性を見れば、アナクサゴラスの原理がはっきりと観念論的な性格を、もっていることが見て取れる。しかし、アナクサゴラスは、その根本思想を提示したにとどまってそれを完全に、徹底させなかったのである。このことは、彼らの原理の成立と由来とから説明がつく。彼が非物質的なアルケーという観念を捉えるようになったのは、合目的な行為という属性を具えている動力因が必要だった、からに他ならない。したがって、彼の知性[ヌース]は、まず質料を動かすもの以外ではなくその全活動はほとんど、この機能につきている。

 シュヴェーグラーによると「アナクサゴラスは知性[ヌース]を事物の究極根拠としてはいるが、それをただ苦しい時の神だのみとして諸現象の説明の補助に用いているにすぎない、すなわち、諸現象の必然性を自然的諸原因から導き出すことができないとき、それを用いたにすぎない」(5)と非難している。つまり、アナクサゴラスは、自然を支配する力となる自然的な存在の真理および現実としての精神を、証明したというよりはむしろ要求したに、過ぎなかったのである。アナクサゴラスによれば、知性[ヌース]とならんで同じく本源的なものとして諸事物を構成する大量の、本源的な要素がある。すべての事物は、一緒になっていてそれらは数においても大きさにおいても、無限であったのである。そこへ知性[ヌース]が、加わって万物に秩序を与えたとアナクサゴラスは言っている。これらの根本的な構成要素は、エンベドクレスのそれのように火・空気・水・土というような、普通の元素ではなくそれぞれ同等的ではあるが限りなく多様な、質料が万物の種子であってそれらが諸個物を、構成するのである。

 それらの個物は、無限に小さく単純で混沌とした混合状態にあった。ところが知性[ヌース]は、それ自身運動のない塊に永遠に続くうずまき状の運動をおこさせ、この運動によって同質的なものがもとの混合から分化して一緒に集まるように、なったのであるがしかし他のものとの混合がまったく、無くなったのではない。アナクサゴラスによれば、すべてのうちにすべての物のいくらかがあるすべての物は主として、同等の物からなっているがそれと並んで宇宙のその他の根本的な構成要素をも、自分のうちに含んでいる。物質を動かす知性[ヌース]は、有機体においてはとくにはっきりとあらわれておりそれは、すべての生物のうちに様々な程度の大きさと力をもってそれらを、生かす魂として内在している。したがって、知性[ヌース]は、万物をそれぞれの本性にしたがって排列し存在の種々様々な、形態を包括している宇宙に造りあげるのでありそして、自分自身は個性的な生命力として宇宙のなかへと、入り込むのである。

 このようにアナクサゴラスは、厳密な意味において事物の生成と消滅を認めず永遠に自己同一であって、量的に増減しない原質の混合と分離によって生成と消滅といわれる、現象を説明するのである。ただ、彼がエンベドクレスと異なるのは、彼が原質を単に水・火・空気・地の四つに限らず現実の事物に認められる、無数に多くの性質があるからそれだけ多くの無数の原質を、考えた点に存する。彼はこうした無数の原質を種子と名づけたのである。これらの種子は、無限小のものであって形・色・味等によって相互に、区別される。その一切のものは、みんなそれぞれの種子を有しまた一切の物はそのなかに一切の物の種子を、有しているのである。例えば水のなかには、水の種子のみならず地の種子もあれば空気の種子もある。ただ、それが水と言われるのは、水の種子が最も多いからである。またわれわれが、食物をとって肉や髪や血が生ずるならばその食物のなかに、すでに肉・髪・血などの種子が内在していると、考えたのである。

 アナクサゴラスが、このように種子を無限に多くあると考えるにいたったのは、エンペドクレスのようにただ4種の元素のみを認めたから、その元素が各々それ自身においては常に同一のものであり性質的にも、不変化的である以上その混合および分離によってもただ4種の性質が、存するのみであって現実の事物のうちに存する無数の性質的な、区別を説明しえないと考えたためである、と思われるのである。アナクサゴラスは、このような種子を動かして混合と分離させる動力を考えたが、彼はこれを精神とした。しかしそれは、エンペドクレスの契機と異なりそれはただ一切の種子がまったく、混合して混沌たる状態をなしていたときに精神が、そのなかの一点に渦動を生じしめたというだけであって、ひとたび運動が開始されてからはもはや精神は干渉せず、まったく機械的に種子の混合と分離が行われる、と考えたのである。アナクサゴラスの場合には、精神とは言ってもそれは物質的な考え方を、脱していなかった。すなわちそれは、最も精密で純粋なものであって決して他の何ものとも混合しないものと、されたのである。

[引用文献]
(1)広川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、1997年、p.141
(2)同上書、p.143
(3)同上書、p.145
(4)シュヴェーグラー『西洋哲学史』上巻、谷川・松村訳、p.71
(5)同上書、p.73


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