カントの平和論と哲学的思索
人間科学専攻 8期生・修了 川太啓司
周知のようにI・カント(1724―1804)の平和論は、先の大戦後の[国際連合]の実現を求める課題として、すでに18世紀末において世界の永遠の平和のために、提案したものであった。われわれ有限な人間にあっては、永遠の平和とは理念であり永遠の課題であったのである。しかしそこでは、現実の社会を通じて永遠の平和に向かって無限の努力をしなくてはならない、ものなのである。カントは、そのために具体的で現実的な条件をそこにおいて、提案したのである。かっての大戦でわれわれ人間は、大きな惨禍をもたらしたにもかかわらず人々はその痛みを、忘れたかのごとく21世紀に入っても性こりもなく戦争を、繰り返しているのが現状なのである。今日でも中東諸国においては、人間の生命を粗末にする残虐な戦争が頻繁に繰り返して勃発し、継続されている。またヨーロッパとその他の諸国では、テロが多発しまた難民問題を抱え各国においては排外主義的な保護主義と、政治の右傾化が顕著に現れているのである。
また、アメリカにおけるトランプ政権の誕生は、排外主義的な保護主義と反知性主義的な政権運営が問題視され、さらにロシア・中国など大国による覇権主義的な問題の施策と合わせて、懸念されているのである。とりわけ甚大な惨禍をこうむった我が国においては、支配層とマス・メディアによる世論操作の下で反知性主義が横行するなかで、ウソと偽りの政治が行われ対米従属の戦争をする国づくりへと法的準備が、足早に進められている。そこでは、ワーキング・プアに見られる貧困と格差社会という深刻な事態が発生し、多くの国民が不安な生活の渦中にあって益々生きにくい社会と、なっている。そこでわれわれ人間は、このような人類の危機に抗してカントの平和論に見られる内的思想を、対峙させることでこうした状況を克服することが、求められている。カントの永遠の平和という問題の提起は、それに関して世界的な規模での法的な状態の要請と平和を目的とした、国際連合の提唱など政治的な課題を示しているがそれと同時に、そこに内在する道徳的で思想的な理念が包含されていることを捉えることが、求められている。
永遠の平和は、たとえ無限に前進しながら接近するしかないとしてもこれを、実現することが義務でありこれを実現しうる希望にも根拠が、あるならばそれは決して空虚な理念ではなくして、われわれの課題でありそれは次第に解決されて目標はたえず、接近することになる。カントの道徳法則は、自他の人格における人間性を単に手段として使用することなく、いつでも同時に目的そのものとして取り扱えという、ことにあった。そして国家は、この目的そのものである多数の人格が共同の立法に基づいて成り立っている、道徳的な存在者である。カントによれば、戦争は個人間のものであると国家間のものとして問わず、道徳上の悪でもある。そこでは、戦争の目的そのものが人間の尊厳を破壊し人格と自由をそこなう、からなのである。その戦争は、人格をたんなる手段として使用するのである。従って戦争は、あるべからずというのが実践理性の絶対的な命令なのである。戦争のない永遠の平和こそが、まさに人間が到達すべき義務なのである。
カントによれば「道徳は、われわれがそれにもとづいて行為すべき無条件に命令する法則の総体であるから、すでにそれ自体が客観的な意味での実践である。だから、この義務の概念に権威を承認した後でなお、しかしそれをなし得ないと言おうとするのは、明らかに不合理なことなのである。なぜなら、そのような場合には、この義務概念はおのずからその価値を失ってしまうからである」(1)と述べている。だれも能力以上には、義務を負わされない。だから、実務的な法学としての政治と理論的な法学と道徳との間には、いかなる争いもあり得ないし従って実践と理論との間にはいかなる争いも、あり得ないことになる。争いが起こるとすれば、道徳を普遍的な才知の学つまり利益を当て込んだ意図に、もっとも役立つ手段を選ぶ確率の理論だと理解するときであるが、しかしそれは一般に道徳があることを否定するのと、同じことである。政治と道徳は、それを制限する条件としてこの二つのことが一つの命題のなかで、ともに成り立つことができないのなら政治と道徳の間には、争いが存することになる。
カントは「しかし、それでも二つのことがあくまで結合されねばならないのなら、両者の反対という疑念をもつことは不合理であり、またいかにしてその争いは調停されうるかという問いをもともと課題として、提起することはできないのである。たしかに、正直は最良の政治であるという命題に含まれている理論は、残念ながら実践によってしばしば否認されている」(2)のである。しかし正直は、いかなる政治にもまさるという同じ理論的な命題が、どのような異論もまったくおよばぬものであって、それどころか政治の欠くことのできない、条件なのである。そこでは、結果をあらかじめ規定する原因の系列を知れば、人間の行為から自然の機構に従って生じる結果のよしあしを、確実に予告できるようになるであろうがしかし理性は、そのような原因の系列を見極めるほど十分に光を、照らしてはいない。ところがこれに対しては、義務の軌道のなかに知恵の規則に従って踏みとどまるためにわれわれが、なすべきことに対しては従ってまた究極目的に対しては、理性は燈火をもって前に立ちいつも明るく我々を、照らしているのである。
ところが支配層の政治家たちは、われわれがいだく素直な希望をつまりは次のことを理由にして仮借なく、打ち消そうとする。すなわち、人間の本性からは、永遠の平和へとみちびく目的を実現するのに要求されることを、人間は決してなそうとはしないだろうと予想できると、言うのである。確かにそれは、人間が自由の原理にしたがって法的な体制のなかで生活しようと望んでも、それが個々になされるのならすべての意志の配分的な統一が、この目的にとって十分ではない。すべての人間が、一緒にこの状態を望むという結合された意志の集合的な統一が、いっそう困難な課題の解決が公民的な社会の全体が成り立つためには、さらに意志が必要である。したがって、社会的な意志を成り立たせるためには、これはいかなる意志も個々にはなしえないことだから、すべての人間の特殊的な意志の相異の上にこれを結合する原因がさらに、加えられなければならない。そこでかの理念を、現実化する際に法的な状態の端緒は権力による以外に、期待することはできない。そうした後に公法は、この権力の強制の下にしてつくられるのである。
このようなことを考えれば、たしかに現実の経験にはかの理念から大きな隔たりがあることは、あらかじめ承知しておくべきである。支配者たちは、一度その権力を手に入れると国民によって法を定められることを、決して許さないのである。また国家においては、いかなる外的な法則にも従う必要がないほどの力を一度もつようになると、他国との関係で自己の権利の維持を求めるべき方法について決して、他国の法廷に服しはしないのである。さらに或る一つの大陸では、ほかの大陸に対して優越感をもつようになるとは別に、邪魔になるわけではないのにその大陸を略奪しさらには、征服して自己の力を強める手段に用いないでは、おかないのである。そこで国内法・国際法・世界公民法のためには、理論が立てる計画はすべて内容のない実現できない理想に解消して、しまうのである。これに対しては、人間の本性についての経験的な原理を基礎とし世の成り行きから、確立に対する手引きを求めるのをさげすんだりしないで実践だけが、政治の実際的な才知の体系のための確かな基礎を見出す望みを、用いうるのである。
戦争のない永遠の平和には、道徳的な義務がありそれは当然政治と関係するからそこで道徳と、政治との関係が問題となる。これまでの政治は、国家権力の増大を目的として術策を用いてどんな不正な手段を用いても、意にかいしない。つまりその原理は、単なる技術の問題であって心を用いるところはただ自分の個人的な利益を、損なわぬように時の支配権力に迎合してそのために国民をさらに全世界をも、犠牲にしてきたのである。このために自国民に対することは、隣接する他民族に対する国家の権利を専横的に手中にする好機をとらえ、正当化はあとでせよとか過ちを犯しそのため国民が暴動を起こしたとしても、それが汝の責任であることを否定せよとか対立者がある場合には、互いに離間させ国民と不和にならしめ諸外国が対抗してきた場合は、諸外国間に不和を起こさせこのようにしてもって支配せよといった、確率が用いられてきた。これに対し道徳は、正義を原理とするのである。カントは、政治の利益に役立てうるような道徳を考えることはできないが、道徳にかなった政治は考えうるしまた考えるべきである、としたのである。
道徳の政治支配という形での両者の一致という志向は、正義のうちにはたとえ世界は滅びるにしても正義を支配せよと、たとえ世界の邪悪な連中がそのためすべて滅びるにしてもという命題として、提示されるのである。真の政治は、それが故にあらかじめ道徳に服従しているものでなければ一歩も進むことが、できないのである。真なる政治は、そのものとしてはなるほど難しい技術であるがしかし政治と道徳を、一致させることは何ら技術ではない。なぜなら、両者が矛盾し合うような道徳は、政治が解くことのできない結び目を二つに切りはなすからである。理性的な真なる政治は、すべて法の下にあるのだがしかしその代わりに徐々にではあるが、政治が輝き続けるようになる段階にまで到達することを、期待しうるのである。ところで正義は、つねに公平性と結びついておりかかるものとしてのみ、考えられうるのであって公平性を欠くと如何なる正義も、存在しえないのである。このようなカントの思想は、これまでの彼の物自体論に見られる対象を捉える仕方のうちに、本質に対する認識が不可能だとしている論理を超えて、いるものである。
[引用文献]
(1) カント『永遠平和のために』土岐邦夫訳、河出書房新社、昭和51年、p.431
(2) 同上書、p.432