フィギュアスケート男子シングル2016-17シーズン レビュー
羽生結弦 EX「星降る夜」のスワンに寄せて

文化情専攻 15期生・修了 相原夕佳

フィギュアスケートとスワン
 フィギュアスケートにおいて「スワン=白鳥」は、人気のあるテーマの一つであり、チャイコフスキーのバレエ組曲「白鳥の湖」やバレエ作品「瀕死の白鳥」で知られるサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の「白鳥」、あるいはそれらを現代風にアレンジした曲にのせて、多くのスケーターたちによって表現されてきた。古来、この美しい水鳥が音楽家や詩人、画家や彫刻家、そして舞踏家たちの感性を刺激し創作や表現に駆り立てたように、コレオグラファーやスケーターたちにインスピレーションを与え、多様なスワンたちが氷上に舞い降りた。
 その中には既成の概念や美意識を打ち破ったラディカルなスワンも存在し、筆者の論文「フィギュアスケート男子シングルにみるジェンダー・クロッシング―21世紀初頭のオリンピックにおけるパフォーマンスから―」(1)において、世界に衝撃を与えたクロスジェンダー・パフォーマンスとしての紹介したアレクセイ・ウルマノフ、エフゲニー・プルシェンコ、そしてジョニー・ウィアーのプログラムは、すべてスワンを演じたものである。 スワンは様々な視座からのフィギュアケート研究においても興味深いテーマであり、筆者も「フィギュアスケートにおけるスワンの表象、その進化と変容に関する考察」といった論文を構想中であるが、今回はその序論に先立つエッセイを綴ってみることにする。取り上げるのは、2016-17シーズンの羽生結弦のEX(エキシビション)プログラム「Notte Stellata (The Swan)」である。

ハイレベルな凌ぎ合いの末に
 近年、フィギュアスケート競技は各種目ともに技術的向上がめざましく、「新次元に突入」という意味の解説を毎年のように耳にする。特に男子シングルでは、上位選手は当然のように複数の4回転ジャンプに挑戦し、しかも成功させている。2016-17シーズンには、ボーヤン・ジンとネイサン・チェンが得意とする最高難度の4Ltzに加え、宇野昌真が4F、羽生がLoを初めて成功させており、4A以外の4回転ジャンプが出揃った。さらに、プルシェンコ以来見かけなかった4回転を含む3連続のコンビネーションジャンプをチェンと羽生が復活させ、技の高度化、高得点化が進んでいる。
 成功の瞬間を目撃する感動を味わえることはファンとして喜ばしい限りであるが、「フィギュアスケート男子シングルにみるジェンダー・クロッシング」の筆者として物足りなさや不安も感じていた。ジェイソン・ブラウンのように、出来栄え点や演技構成点の高さで上位グループで競える選手も存在するが、基礎点の高いエレメントを成功させる選手が増えていく中、苦戦を強いられている。この状況において、繊細な美的感性をもつ選手たちの精神や身体に過酷な試練を与えてはいないだろうか? そもそも、フィギュアスケート男子シングル競技においてクロスジェンダー・パフォーマンスについて論じることはもはや意味をなさないのだろうか?
 沢山の自問が浮かんできて混乱したが、TVの地上波放送でEXが放映されず見遅れていたための杞憂に過ぎず、羽生結弦のスワンが疑問符を消してくれた。勝負を意識しないで自身を表現できる機会が勝者には与えられているのである。羽生のEXプログラムの音楽は、サン・サーンスの「白鳥」、すなわちウィアーがトリノ・オリンピックで「ジェンダーの境界を超えるというタブーの領域に踏み入る」(2)ことを意識して演技した「The Swan」の曲であった。この曲を羽生に贈ったのは、ウィアーのトリノ・スワンの振付を行ったタチアナ・タラソワ、そしてコレオグラファーはウィアーのバンクーバー・オリンピックの両プログラムの振付を行ったデヴィッド・ウィルソンである。羽生をウィアーに重ねての色々な想いが込められているにちがいない。
 各選手がアスリート魂を燃やして凌ぎを削った後の帰着点として、メダリストである羽生結弦が象徴的なスワンを舞ったことに感動し、クロスジェンダー・パフォーマンスは今なお重要なテーオマであると確信するに至った。

星降る夜のスワン
  テノール・トリオ、イル・ヴォーロによる「Notte Stellata(星降る夜)」は、サン・サーンスの「白鳥」を現代風にアレンジしたセレナーデである。白鳥は死ぬ前に一度だけ美しい声で鳴くという伝説が秘められた辞世の悲しい歌であるが、イル・ヴォーロの音楽も羽生の演技も、愛の歓喜のうちに昇華し再生する魂をイメージさせる希望に満ちた表現となっている。
 歌の通りに、幾多の星が降り注ぐ夜、月光に輝く湖の情景が照明によって演出されたリンクに登場した羽生のスワンは、明らかにウィアーのスワンや「Fallen Angel」(3)を踏襲する衣装を纏っている。勝てるスコアを計算する必要のないEXプログラムなので、羽生のトレードマークであり、男子スケーターには困難なクロスジェンダーエレメントでもあるイナバウアーやビールマンスピンも、彼の真骨頂であるアクセルジャンプもじっくりと堪能できる構成となっている。競技では見られないディレイドアクセル、そして高得点争いが熾烈になってから単独で見られる機会が減った3Aの二つのアクセルジャンプがクライマックスとなっており、競技では減点対象となりそうな低い角度の着氷も、渾身の力で羽ばいた瀕死の白鳥の湖面への着水の姿が見え、星月夜の照明で演出されたリンクで美しい効果を生み出している。
 白鳥そのものに見えるシットスピンをはじめ随所にウィアーのトリノ・スワンを思わせる所作が見られ、また、男子初の成功者であるプルシェンコから直々に伝授されたというビールマンスピンを、彼がジュニア時代にアクロバティックに披露し衝撃を与えたEXプログラムと同じ曲で再現するのも意義深いことである。羽生のスワンはイナバウアーの荒川静香も含め、彼自身が敬愛している先輩スケーターへのオマージュであり、そして自らの可能性に挑戦しながらも、技だけではなく美をも追究する精神を確かに継承していることを示している。4回転ジャンプで凌ぎを削る「空中戦」で大いに盛り上がればよい。盛り上がれば盛り上がるほどに、このスワンの美しさが際立つのだから。

未来へ羽ばたくスワンへ
 2016-17年シーズンの世界選手権は、FSでしっとりとした抒情性もたっぷりにジャンプも含めて流れるような演技を披露した羽生と宇野の評価が4Ltzの大技で勝負したジンやチェンを上回り、金銀のメダルを獲得し、技よりもクオリティと表現が勝敗を左右することを証明するとなり、EXの羽生のスワンはいっそう強い存在感と説得力を帯び、世界中のファンを魅了した。
 世界選手権でスワンを滑り終えた羽生は、インタビューに応えて次のように語った。
 「この曲は、僕にとって非常に重みのある曲です。ニースの世界選手権で初めて滑った『白鳥の湖(ホワイト・レジェンド)』と同じ、鳥、白鳥つながりになるのですが、そのときから成長して、新しいスワンができたのがすごく感慨深かったです」
 彼自身の言葉を聞いて、筆者は彼のスワンに抱いていたイメージを改めることとなった。彼のスワンは、オマージュである以上に、彼自身の「新しいスワン」なのである。「ホワイト・レジェンド」のスワンは、ソチ・オリンピックのEXでも非常に印象的な演技を披露しており、濁流の中でもがき苦しみ、そして羽ばたくしなやかな力、東日本大震災で被災し困難と闘い、金メダルを勝ち取った彼自身の強さと美しさに感動を覚えた。
 新しいスワンはそのスワンの進化形であり、試練と対峙し闘い乗り越え成長を遂げた彼自身なのである。色々な解釈が可能な芸術としての普遍性をもつ作品に仕上がっているので、現代におけるクロスジェンダー・パフォーマンスの象徴であるスワンの最高進化形であり、その先駆であるスケーターたちへのオマージュであるという解釈も許されるだろうが、彼のスワンは彼自身であるということを忘れてはならない。
 2016-17シーズン、羽生結弦のスワンのおかげで存分に楽しんで観戦することができた。至高の美しさに輝くスワンは、星降る月夜が明けると、新たな次元の未来へと羽ばたいてゆく。来シーズンの平昌オリンピックでも、いっそう美しく進化したスワンが氷上に舞い降りることだろう。

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1 相原夕佳 「フィギュアスケート男子シングルにみるジェンダー・クロッシング―21世紀初頭のオリンピックにおけるパフォーマンスから―」 『日本大学大学院総合社会情報研究科電子紀要16号』 2016年11月 pp.113-124
2 筆者訳 Weir,Johnny. Welcome to My World. New York:GalleryBook,2011.
3 バンクーバー・オリンピック(2010年)におけるウィアーのFSプログラム



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