ヘラクレイトスにおける流転の論理
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
A・シュヴェーグラー(1819−1857)によれば、ヘラクレイトスの原理として古代の人たちが一致して挙げている流転の論理は「すべての物は永遠の流れ、不断の運動と変転とのうちにあり、その恒存は仮称にすぎない。何ものも同じものとしてとどまらず、増大し減少し、他のものに変化し移って行く。すべてからすべてが生まれ、生から死と生命のないものから生命あるものが生まれる。ただ変転、生滅の過程だけが永遠である。われわれは同じ流れに入ると共に、同じ流れに入らず、同じ流れのうちにあると共に、同じ流れのうちにない、なぜなら、われわれは同じ流れに再び入ることができず、流れは絶えず散ってはまた集まり、むしろ同時に流れ来り流れ去るからである」(1)と述べている。したがって、このようにヘラクレイトス(前500年頃)は、すべての物から静止と不変とを否定したという主張を、偽りとしているのはそれが人間にとって不断に変化が行われているのに、不変があるように思わせるからという見解に、基づいている。
シュヴェーグラーによると「ヘラクレイトスは、さらにすべての生成は相争う対立の結果であり、相反する規定の調和的結合であることを示すことによって、成の原理を発生的に説明し分析している。ここから戦いは万物の父である。及び一つのものは、楽弓と七絃琴との調和のように、自分自身と分裂しながら自分自身と一致する、という二つの有名な命題が出てくるのである」(2)としている。すなわち、ヘラクレイトスによると世界に統一があるのは、世界の生命が対立物に分裂している限りにおいてのみ対立物の結合と、調和のうちに統一があるとしたのである。世界の統一は、二重性を包括したもので調和は緊張を、牽引は反発を前提し前者は後者によって、生じるのである。だから、七絃琴は、秩序の象徴であって楽弓は破壊のそれと解することができるがいずれも、アポロの属性なのである。ヘラクレイトスの言葉の意味は、すべてのものをなす全体は各々の寄せ合わせの全体ではなく、或る一つの事物から発生するものである。
ヘラクレイトスの流転の原理は、同じくヘラクレイトスに帰せられている火の原理とどんな関係に、あるのであろうか。タレスが水を、アルケーとしたようにヘラクレイトスは火をアルケーとした、とアリストテレスは言っている。しかし、われわれは、この言葉をヘラクレイトスが他の物活論者たちのように、火をもって根本物質あるいは根本元素としたと言うふうにとっては、ならないのは明らかである。なぜなら、成そのものを実在とした彼が、事物の根底にある実体としてその上さらに一つの元素を成に並べると、言うことは考えにくいのである。だから、ヘラクレイトスは、特定の火を燃え上がったりまた消えたりするという永遠に生きる火と呼び、またすべての物品が黄金のようにすべての物品と交換されるように、すべては火とそして火はすべてと交換される、としたのである。だがその真意は、火という休むことを知らないすべてを破壊し変化させるエレメントであり、しかも熱によって生命を与えるエレメントによって永遠の変転力と、生命の概念を最も目に見えるような力強い形で示すに、すぎないものである。
G・W・F・ヘーゲル(1770−1831)は、普遍的原理に関してこの奔放な精神はアリストテレスによれば、まず次の意味深い言葉をいった。有と非有とは、同一のものであるすべてのものは有ると共に無いと真なるものは、相対立するものの統一でありしかも有と非有との純粋な対立の統一に、ほかならない。これに反してエレア学派にあっては、ただ有のみが真なるものであるという抽象的な悟性があると、したのである。だから、われわれは、ヘラクレイトスの言葉のうちに内在する有と非有との統一である思想を、捉えることにある。さらに、ヘラクレイトスによると万有は、流転する如何なるものも恒常でなくまた同一のものには、とどまらない。この普遍的な原理の立ち入った規定は、生成であってそれは有の真理であると述べている。あらゆるものは、有ると共に無いのだから万有は生成であると言い表したのである。しかし万有には、生起のみでなく消滅も属する。生起と消滅の両者は、独立にあるのではなく同一のものである。この有から生成への推移ということは、ヘーゲルにより偉大な思想であると把握されたのである。もっともそれは、対立する両規定の単に最初の統一としてもまだ抽象的な、思想なのである。
ヘーゲルによれば、このようにこれらの規定はいま言ったような関係によって、不安定でありそこに生命性の原理を含むものであるから、アリストテレスが従来の哲学において指摘した運動の欠除が、ここに回復される。そうして運動が、いまや原理とさえされるのである。だからこの哲学は、けっして過去の哲学ではないしその原理は本質的である。有と非有は、真理を持たない抽象であり最初の真なるものはただ生成のみであると、いうことが認識されたと言うことは人間の偉大な洞見であると、したのである。そこにおいてヘラクレイトスは、悟性は両者を分離して各々を真理で価値のあるものとする。これに反して理性は、一者が他者のなかに認識しまた一者のなかにその他者が、含まれている。だから彼は、まず有と非有の抽象をまったく直接的に一般的な形式において、見たのである。けれどもヘラクレイトスは、もう一つ立ち入って諸々の対立とそれらの統一をより規定的で感性的な、相において捉えている。そこでは、同一の事物のなかに相対立するものがあるとヘラクレイトスは、言っているのである。
ヘーゲルによれば、部分が全体とは異なるものであるがまた全体と、同じものである。この実体は、全体であると共にまた部分であるし宇宙においては、全体であり個々の生物においては部分として現れると、言ったのである。しかしヘラクレイトスにとっては、何ら矛盾するものではなくまさに彼の言おうとするところのものである、だから単純なものや或る音の繰り返しは何らかの調和でも、ないのである。こうした調和は、まさに絶対的な生成であって単なる変化ではないから調和は区別と規定的な、対立が必要である。各々のものは、自己自身の他者としての他者であるが故にまさに両者の同一性が、あり得るのである。これこそが、ヘラクレイトスの偉大な原理なのである。このようなことは、不可解に見えるかもしれないがそれこそが思弁的な、ものなのである。だから、それらは、有と非有という主観的なものと客観的なもので実在的なものと、客観的なものをあくまでも独立なものと考える悟性に対して常に難題であり、不可解なものである。
ヘラクレイトスによると「火の転化・まず海・次に海の半分は土・その半分は雷光・土は解ければ海・川は同じだがその中に入る者には、後から違った水が流れよってくる。同じ川に二度入ることはできないで散らばっては、再び集まって来る・また近寄っては来ては、去っていく」(3)という関係のうちに捉えている。さらにヘラクレイトスは、どこかで万物は動いていて何ものも止まっていないとし、また有るものどもを川の流れになぞらえてわれわれは二度と同じ川へは入れない、と言っているのである。だから万物は、火から成立しまたそれへと解体するのである。そして万物は、運命によって生じ存在するものは相反する道によって、調和を保っている。それだから火は、元素であり万物は火の交換物であって希薄化と濃化によって、生じるのである。しかしヘラクレイトスは、このことについて明瞭に何も説明していないでそうした万物は、対立によって生ずるとしてその全体は川のように流れる、としたのである。
ヘラクレイトスが捉える元素としての火は「ヘラクレイトスにおいて宇宙の生成、消滅のプロセスはけっして一方向的ではない。そこでは火・海・水・地のプロセスと地・水・火のプロセスが同時に並行して行われている。前者において火は、転化つまり消えて後者において火は燃え上がる。あるいは全体の相においては、火は定量だけ燃えて定量だけ消えると言える。宇宙世界は、常に変化しながらも、しかし全体として同じものであり続ける。宇宙世界は無規定的ではなく、一定の限界をもつ意味で、それは秩序世界である」(4)としたのである。さらに、ヘラクレイトスは、火は土の死を生き空気は火の死を生き水は空気の死を生きて土は、水の死を生きる。宇宙世界の生命原理としての生ける火は、転化して空気となり空気は転じて水となる宇宙的プロセスを、ここにおいて容易に認めることができると、述べている。そこにおいてわれわれは、生命原理の魂としての生ける火に注目するとき直ちにその濃密な連関を、指摘することができる。
ヘラクレイトスによれば、魂にとって水となることは死であり水にとっては、土となることは死である。しかし土からは、水が生まれ水からは魂が生まれる。ヘラクレイトスは、真実はこの通りのものとしてあるにもかかわらず、人間どもがそのロゴスを理解するに至っていないことは、つねのことである。彼らがそれを聞く以前には、ひとたびこれを聞いた後にもなぜならすべては、このロゴスに従って生じているにもかかわらず人々は、それらに実際に出会ったことがないものの如くである、と述べている。ヘラクレイトスは、同じ川の中に入っていく者に別のそしてさらにまた別の水が、流れてくる。しかし、魂もまたそれは、水分から蒸発させられて生ずるのである。そしてヘラクレイトスは、火が転化しまず海となり海が転化して半分は地に、その半分は竜巻となる。そのような地は、液化して海となるが計量すればそれが地になる前にあったものと、同じ比率となるのである。このようにヘラクレイトスは、万物は流転するという論理とすべての元素は火であるとすることで、弁証法的な発展の論理を捉えたのである。
[引用文献]
(1)シュヴェーグラー『西洋哲学史』上巻、谷川・松村訳、岩波文庫、1999年、p.56
(2)同上書、p.57
(3)山本光男訳編『初期ギリシャ哲学者断片集』岩波書店、1967年、p.33
(3)広川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、1997年、p.98