フッサールにおける志向性の概念

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 E・フッサール(1859―1938)は、われわれ人間の意識に現象として現れる意識体験の在り方と、その意味を問うことで学的な認識の基礎づけを行うことを課題として、現象学を創始したのである。こうした意識は、事象そのものへと言うのが現象学の基本である。自然的な態度を取り除いて意識は、事象そのものへと迫っていくのである。これを根拠づけるものが志向性である。このような志向性というのは、意識の働きでありその本質である。フッサールは「志向性を別の言葉で言えば、意識作用と言うことになる。たとえば、経験し考え意志しつつ何ものかを、意識しているということである。なぜなら、すべての意識作用は、その意識対象をもっているからである」(1)と述べている。すべての意識作用は、志向性であると言うことばの最も広い意味で思考作用であって、したがってすべての意識作用には何らかの確信の様相など端的な、確信とか推測とかおそらくこうであると考えるとか疑うなどの様相が、そこに属しているのである。

 それらの関連としては、確認するとか否認するとかの区別にしたがってまた真とか、偽とかの区別がある。すでにここでは、志向性を表示する標題がそのうちに悟性と理性の問題を分かちがたく含んでいる、ことが知られている。これまでの哲学においては、志向性という主題が実際に提出され論じられている、と言うわけではない。しかし、他方から見るならば、われわれから出発した新たな普遍的な哲学のいわゆる基礎づけられた全体が、一つの認識論としてその理性の志向性において客観的な認識を、如何にして成立させるかと言うことに関する理論として、性格づけられなければならない。一般的に意識は、われわれ人間を取り巻く自然や社会においておりなす、対象についての意識である。だから意識とその外的な対象は、超越的な関係にありこれを乗り越えることはできないがその意識については、明証的に認識できる。この不可疑的なものと明証的なものが、現象学の対象なのであってここへ至る方法が現象学的な、還元なのである。

 フッサールによると志向性は、ここでわれわれが最初になさねばならぬことがそこにおいて、またそれによって世界がわれわれにとってそのあるがままに、つまり現実的および可能的な経験の総体として存在することになる意識生活を、人間の実在的なつまりその物体性と同じような意味で実在的な属性に、してしまう素朴さにある。つまり、世界のなかには、様々な特性をもったいろいろな物があるがそれにまじって自分自身の外に、あるものを経験したり理性的に認識したりするようなものもあるのだ、という図式に従って意識生活を考えるような素朴さを、克服することである。あるいは同じことであるが、われわれが最初にしかもまったく先入見を取り去ってその対象が、それ自体としてまったく直接そこに与えられているままに、捉えることである。そこに直接的な所与として見出されるのは、色彩与件や音与件やその他の感覚与件とあるいは感情与件や意志与件と、いったものでは決してなくしたがって伝統的な心理学において、当然問題なしに直接与えられていると見なされているようなものでは、決してないのである。

 フッサールによると「そこに見出されるのは、すでにデカルトが見出したような意識作用、すなわちすべての環境的な現実と同様に言語によって形を与えられ、なじみの形態をとっている志向性なのである。われわれがそこに見出すのは、その全幅とその様相においてはじめて探究されるべき最も広い意味での、意識以外のなにものでもない」(2)としたのである。またブレンターノは、心理学の改造の試みにおいて心理学的なものの固有な、性格の研究に着手しその性格の一つを志向性として、示しているのである。そこにおいて心理現象についての科学は、どこにあっても意識体験と係わりをもたねばならないと言うことを、示すことによって挙げた新しい意識作用という成果を、捉えるべきである。だが、残念なことに彼は、本質的な点で自然主義的な伝統からくる先入見に、捉われていたのである。この先入見は、このような心的与件が感覚的な与件としてではなくて、志向性という注目すべき性質を持った与件として捉えられたとしても、つまり二元論や精神の物理的な因果性が有効と認められている限り、なお克服されたことにはならない。

 フッサールによれば「記述的自然科学に並置されるものとしての記述的心理学という彼の考えや、記述的自然科学と説明的自然科学の関係についての古くから伝えられてきた解釈に、完全に従って心理現象の分類と記述的分析を課題として設定するやり方も、またこの先入見に属する」(3)と述べている。ブレンターノが、意識生活を志向的なものとして研究するという課題が問題なのは、心理学を客観的な科学として基礎づけることに、あったからである。そこでは、予め与えられてある世界を基礎としてそれを研究するという、課題の真の意味にまで迫ったとしらこのようなすべての先入見は、とうてい起こりえなかったのである。このように彼は、志向性の心理学という課題の設定をまったくもって、いなかったのである。同じようにこの学派は、彼の学派全体についても云えることであってブレンターノその人と同様に、やはりまた一貫して論理学研究のもつ新しさとここにも、ブレンターノの志向的な現象の心理学に対する要求が、影響を及ぼしているのだがそれにも係わらずそれがもつ新しさを、認めようとしなかったのである。

 その志向性の新しさは、決して存在論的な研究とこの作品の持つ最も内的な意図に反して、これが一面的な影響を及ぼすにいたったことにあるのではなく、主観的な方向での研究にある。だからそこでは、はじめて対象としての意識対象が真の内的な経験に与えられるが、すべての意識体験の本質的な契機としてその権利を認められるに至り、ただちに志向的な分析の方法全体を支配することに、なったのである。こうしてそこでは、始めて明証が問題視されて科学的な明証から解放され一般的で本源的な自体へと、拡大されるにいたったのである。また、多くの意識作用のうちの作用への総合的な手がかりについては、真の志向的な綜合がここで発見される。この綜合に従えば、ある意味と他の意味とが独自の仕方で結合されることによって生ずるのは、単に部分的な意味からなる一つの全体と一つの複合体ではなく単一な、意味なのであり部分的な意味は有意味な仕方でそこに、包含されることになる。そこでは、すでに相関関係に関する問題が現象学の極めて不完全な最初の着手が、試みられているのである。

 与件心理学は、ブレンターノの流儀で志向性を考慮に入れる心理学に対する批判で、体系的な正当化を必要とする。われわれは、二元論や平行的な抽象作用と自然科学と心理学とに割り当てられている抽象的な、経験様式としての外的経験と内的経験の区別といったものが、当然経験のうちに直接に基礎づけを有しているのだと、見なされている。その自明性を立ち入ってみるならば、それはわれわれが一人の人間についての直接の経験において、自然に属するあらゆるものを捨象するならばそれだけですでに、なんの苦もなく彼に実質的に属する志向的な体験としてのその純粋な生活を、発見することができる。したがって、われわれは、彼の物体性だけを主題として与えるような抽象作用と完全な対を、なす抽象作用を現実に有しているといった具合には、なっていないのである。直接知覚においてわれわれが見出す人間は、何らかの事物であるから動物なり家なりに志向的に関係しており、意識の上でそれらによって触発されたり能動的にそれらへと、目をむけたりしているのであって一般的に言えば知覚したり能動的にそれを、想起したりそれらについて思案したり計画したり行為したり、しているのである。

 思考する者としては、われわれが一個の人間からその物体的な身体を捨象してみても、それはこうした世界の内的な実在への志向的な関係を、なに一つ変えはしない。この関係を遂行しつつある人間は、その際おのれが係わりあっている実在的な事物を確信しているし、その時々の一人の人間を主題としこの人間がなにを知覚しなにを考え、なにを扱っているかを追思考している者としてまたその事物に関して、それなりの確信をもっている。そこで注意すべきことは、一人の人間によって直接自然的に経験され発生されるに至るという、志向性はその人と他の実在的な関係という意味をもって、いるのである。当然この実在性は、当の実在に係わっているその人の固有な心理的な存在の、構成要素ではない。一方われわれは、彼の知覚作用や思考作用と評価作用をやはり彼の心理的な存在に、帰属させるに違いないだろう。こうして見るならば、求められている記述的な心理学の純粋な真の主題を手に入れるには完全に、意識的に遂行される一つの方法が必要でありこれを現象学的な心理学的な、還元と呼ぶのである。

 このようにフッサールは、志向性という概念をブレンターノの思想を継承しながら、哲学的な方法を吟味することでその多様性を自然科学と、同じ経験的な方法に取り込み記述的な心理学を、確立したのである。対象である事物の外的な知覚においては、現れる現象から内的な現象すなわち内的知覚に現れる意味を区別する、最も根本的な特徴として対象の志向的で内在的な特質を志向性という概念で、もって指摘している。この意識は、常に何ものかについての意識作用であると言うことであって、これがフッサールの現象学に大きな影響を与えたことは、明らかである。志向性とは、意識のあらゆる活動のうちに心的現象の持つ特質であり、この心的な現象は志向性によって自然現象から、区別されるのである。志向性に関する存在論的な問題や心的現象については、主観的な意識作用の概念を示すことにある。そして、実在する対象を捉える志向性は、対象意識を外的に捉えるのではなくて対象自身である事物として存在する、内在性のうちに捉えるのである。志向性における内在性は、対象自身を捉えるための特性である。志向性とは、意識作用のあらゆる活動である主観的な現象に対する意識のうちなる、思考過程なのである。

[引用文献・注]
(1)フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷恒夫・木田元訳、中公文庫、 2002年、p.151
(2)同上書、p.418
(3)同上書、p.419




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