デモクリトスの原子論
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
デモクリトス(前460年頃―370年頃)は、イオニアの植民地アブデラの富裕な家に生まれた。彼の哲学は、存在するものとして質料に成の原理としての動かす力を、並べているのであるからそれはエレア的原理とヘラクレイトス的原理との、媒介であるといえる。シュヴェーグラーによると「アトム論者であるレウキッポスとデモクリトスとは、エンペドクレスがなそうとしたと同じこと、即ちエレア的原理とヘラクレイトス的原理との結合を、他の方法で遂行しようとした人である」(1)としたのである。デモクリトスたちアトム論者は、諸現象のあらゆる規定をエンペドクレスのように一定数のうちに、質的に定まり異なった元素からではなく質的には同等であるが、量的には不等な無数の根本要素から導きだしたのである。彼らのアトムとは、不変で延長を持っているが不可分で量的にのみ規定されており小さいために、感官では知覚できぬ微粒子である。それらのことは、有るもの質を持たぬものとして変転したり質的に変わると言うことはまったくなく、あらゆる成はエンペドクレスのように場所の変化に、過ぎないのである。
デモクリトスにおいては、エンペドクレスにおいてもそうであったが、はるかにそれ以上に運動や変化はどこから生ずるかという疑問が、起こってくる。アトムの種々様々な結合では、無機的で有機的な形態を生み出す根拠が不明だから、疑問なのである。シュヴェーグラーによるとデモクリトスは「この根拠は、アトム自身の本性のうちにあるのであって、アトムは空虚な空間があるために結合したり分離したりすることができる」(2)としたのである。さらに、デモクリトスによれば「異なった重さを持つ諸アトムは、空虚な空間をただよいながら相互に衝突し、このようにして全物質のうちに次第に拡大する渦巻き運動が生じる。この運動では、特に同型のアトムが集まることによって、諸アトムのさまざまな複合体が生じるが、それらは再びその本性によって解体する」(3)としている。しかし、世界を形成するこのような説明は、実際には説明になっていない。そこにおいては、ただ果てしない因果の系列というまったく抽象的な観念が提出されているにすぎず、生成と変化のあらゆる現象の十分な根拠は、示されていないのである。
このように彼は、ヌースに反対するから究極の根拠として必然性を求めたのである。さらに、デモクリトスの倫理思想と社会思想については、とりわけその基礎論としての原子論と関連を重視しながらこれを超えるとも、思われる局面にも目を向ける必要がある。人間論の中核をなす魂の概念は、アリストテレスの証言どおり原子論的な自然学の原則から、ほぼ次のように言うことができる。デモクリトスによると人間の「魂は、それを構成する原子から成り立つが、それら原子は小さく球形をなし、きわめて動きやすく、魂を構成する原子群塊は他のすべての原子群塊よりもはるかに動きやすい」(4)としたのである。また魂もここでは、身体を動かすもので生命を与えるものと見做されている。デモクリトス倫理学においては、すべての物体に対して運動を与える魂は物体運動の実行者として、端的に行為の責任者としての性格をもつものであった。デモクリトスは、身体は魂を保護するものであり基本的に身体は魂の道具や、手段と捉えている。
デモクリトスによると「身体よりも魂を重視することは、人間にふさわしいことだ。というのも、魂が完全であれば、そのことが身体の悪いところを治すけれども、しかし、身体の強さは、知性を欠いては魂をいくらかでも善いものとする、というわけにはいかないからだ」(5)と述べている。このような主張は、身体の病を癒す医術よりも魂の学知としての知恵を、重く見ることに直結する。そこにおいては、魂についての学知こそが幸福へのほかならぬ手段である、とされている。そして、幸福も不幸が魂に属することであるとすれば幸福とは、魂の在り方となる状態を意味するはずである。こうした状態が、魂のうちにあることを示すものとして快を、挙げることができる。だがしかし、すべてのいかなる快には、それだとすることはできないのである。有益で真正な快のみをそれだとすべきである。デモクリトスにおいて幸福は、人間の魂が真正な快のうちにある状態を意味したが、この真正で有益な快を彼は特別な言葉のうちに、捉えたのである。
デモクリトスは、要素は充てるものと空なるものであると主張するが、そのさい一方を有るものと有らぬものとすなわちそれらのうちで、充ちて堅いものを有るものが空なものを有らぬものと、呼ぶとしたのである。だから、デモクリトスは「そしてそれらを有るものどもの質料原因とする。そして基底にある実体を一つとする人々が粗薄と緻密とを受様の原理だとして、その実体の受様によって、その他のものどもを生存せしめるように、これらの人々も同じく差異をその他のものどもの原因だ、と主張する」(6)と捉えたのである。けれどもそこでの差異は、三つあるのだがそれはすなわち形態と配列と位置である、と言うことなのである。なぜなら、デモクリトスは、差異を原因だと主張するのは有るものがただ形と並びと向きや位置にある、としたからである。しかし、運動については、それが何処からまたどうして有るものがやってくることになるのか、これらの人々も他の人々と同じく軽率にも説明することが、なかったのである。
デモクリトスは、すべての物体につて一番学問的に首尾一貫した議論を以って説明したが、このさい彼らはちょうど本性上の原理であるところのそれを、原理としたのである。というのは、昔の哲学者たちの或る者には有るものは必然的に一つで不動である、と思われたのである。たがしかし、デモクリトスは、知覚に一致することを述べて生成と消滅を、また有るものをも多なることをも否定することのない理論を、有していると考えたのである。そして、デモクリトスは、一方で現象するものに対してはそれらのことを認めて、他方を工夫する人々に対して運動は空なるものが、なくては有り得ないと言うことを認めた上で、空なるものは有らぬものでありまた有るものの如何なる部分も、有らぬものではないと主張している。なぜなら、デモクリトスが言うには、真の意味で有るものは全く充てるものであるからである。しかし、このようなものは、一つではなくてその数が無限でありそしてその塊が小さいために、眼に見えないものである。
デモクリトスによれば「それらのものは空なるもののうちに運動する、そしてそれらのものは一緒になることによって生成を、分離することによって消滅をもたらす、つまり、それらの物はたまたま触れ合ったところで作用をなし、また受けるしかし一緒にされ、組み合わされることによって生成をもたらすのである」(7)と述べている。そして、本当の意味での一から多は、生じ得ないしまた本当の多からは一は生じ得ないからそれらは、不可能であると彼らは主張するのである。アトムの運動は、それ故に最初の物体は空なるものが即ち無限なる物のうちに、常に動いているというデモクリトスもまたそれは、どんな運動なのかまたその物体の本性に一致した最初の運動は、何であるかを説明しなければならない。なぜならば、要素のうちには、甲か乙によって無理に動かされるのならともかくその無理な運動が、それに反するところの本性に一致した何らかの運動を、またそれぞれの要素はもっていなければ、ならないからである。
デモクリトスによると形態は、もろもろの形態であるアトムのことを立てることでそれらによって、質的変化と生成とそれらの分離と結合とによって、生成と消滅とをそれらの配列と位置とによって質的変化を、説明するのである。そこにおいてデモクリトスは、現象のうちには真実があるがその現象するものは相反するもので、且つ無限であると考えたからまた形態も無限だとして、従って結合した物の変化によって同一のものも異なった人々には、相反するものと思われたのである。だから、小さなものからは、それが中に混合すると転位が起こり一つの転位が発生することによって、異なったものに見えてくることになる。というのは、同じ文字から悲劇も喜劇もおきるからである。デモクリトスによると事物が生成するもろもろの世界は、次のような仕方で生成するのである。すなわち、いろいろさまざまな形態をした多くの物体が、切り離されることによって無限なところから大きな空虚へ運ばれていく、そしてこれらのものが集まって渦巻きを一つ作り出すと、この渦巻によって互いに衝突しいろいろさまざまな仕方で回転し、そのうちにそれぞれが区別されて似た物は似た物のところへ、と赴くことになる。
しかし、それらの数が多くなると言うことは、そのためにもはや平衡を保ちながら回転運動をすることが、出来なくなるのである。するとそれらのうちで軽いものは、ちょうど篩にかけられているものであるように外方の空虚へと出ていく、しかし残りのものは一緒に止まって互いに絡み合い共に駆け下って、最初の球形の組織を作るのである。そして、このようなことは、自分のうちにいろいろさまざまな物体を包み込んだ膜のような、ものとして分離している。すべての事物は、彼の必然と呼ぶところの渦巻きがすべての事物の生成の原因であるから必然的に、生じると考えられる。デモクリトスの感官は、その他の知覚の重さや軽さや堅さや柔らかさについて、このように規定している。しかし、その他の知覚される性質は、何ものも本性を有しないでそれらはすべて変化させられた感官の印象であり、これらから表象は起こるのである。このようなことは、冷たいものにも温かいものにも本性があるのではなくて、アトムの混合の形態が変わるとそれがまたわれわれの変化を、もたらすのである。それだから、デモクリトスは、何であれ一つのまとまりになってあるものはそれぞれにおいて強力であるが、広範囲にわたって散らばって在るものは知覚され得ないからである、としたのである。
[引用文献・注]
(1)シュヴェーグラー『西洋哲学史』上巻、谷川・松村訳、岩波文庫、1999年、p.65
(2)同上書、p.67
(3)同上書、p.67
(4)広川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、1997年、p.167
(5)同上書、p.167
(6)山本光男訳編『初期ギリシャ哲学者断片集』岩波書店、1967年、p.72
(7)同上書、p.72