ブレンターノの志向性

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 F・ブレンターノ(1838−1917)は、志向性について「道徳的、不道徳的という形容を受けるものは意志だといわれます。ところで私たちが意志するものは、多くの場合ある目的のための手段であります。その場合私たちは、その目的をも意志しているのです。しかも何ほどかより多く、これを意志しているのです。さらにこの目的自身が、しばしばもっと遠い目的への手段であることもあるでしょう。それどころか遠大な見通うしをもった計画の場合は、一連の目的の一つが他の一つに次々に手段として連なり、従属すると言う形であらわれる」(1)のである。いずれにせよそこには、他の何にもまして欲せられかつそれ自体が欲せられる一つの目的が、あると言うことである。この最も本来の意味での最終目的でなくその意志は、まったく原動力を欠いていることになる。われわれは、目的のないところにねらいをつけるという不条理を、持つことになる。或る目的に到達するためには、われわれが利用する手段は色々あると言うことである。

 そうした或る手段は正しく、或る手段は正しくない、と言うことである。手段が正しいと言うことは、それがわれわれを本当にその目的に導くのに適している場合に、そうなのである。一般にわれわれは、何を善いというのかまたどのようにして我々は、何が善いということか何が別の何かより善いということを、認識するのである。ブレンターノによると「これらの問題に満足に答えるためには、まず最初に善いものという概念の源泉を探りあてねばなりません。それは、私たちの持つすべての概念の源泉と同様に、ある具体的な直観表象にあるのです」(2)としている。直観表象には、まず物的な内容のものがありこれらは独特な仕方で空間的に規定された感覚質を、われわれに示している。この直観からは、色や音や空間の概念とその他多くの概念が生ずるのである。善いものの概念は、しかもここにその源を持つのではなくそれは親近なものとして正当にも、それと並べられている。真であるものは、概念と同様に直観表象のもう一つの種類である心的な、内容の直観表象から得られたものであることは容易に、知ることができる。

 ブレンターノの志向性という概念は、心的現象が必ず或る内容への関係として対象への関係を、もっているのである。たとえば、聞くという意識作用は、必ず聞かれるものをもっているし信ずるという働きは信じられるものなしには、起こりえないし希望は望まれ努力されるものを、必ず指し示している。ブレンターノ自身は、誤解されやすい概念であるという理由で意識という用語を避けているが、このことこそ意識は必ず何ものかの意識であるという意味での意識の、志向性にほかならない。そしてこの志向性は、現象学にとって最も中心的な意味をもつようになった、概念なのである。ブレンターノが、最も直接的に現象学の成立に寄与したのは志向性という概念を、哲学に導入したことにある。このように彼は、この概念を心的現象と物的現象から区別する最も根本的な、特徴としただけでなく心的現象を分類するさいの手がかりをも、ここに求めている。彼によれば、われわれの現象世界の全体は心的現象と物的現象という二つに、分けられている。そして心的現象を、物的現象から分かつ特徴として次の点をあげている。

 心的現象は、すべての表象をその基礎としている。ここで表象というのは、表象されたもののことではなく表象する働きのことであり、われわれの意識作用のうちには何かを表象することなしに、それについて判断したりそれを欲求したり希望したり、恐れたりすることはできないのである。このことは、すべての心的現象についていわれている。次に物的現象は、すべての拡がりと場所的な規定をもつのに対して心的現象は、それをもたない。もちろん、われわれは、見たり聞いたりする作用をその器官としての眼や耳に位置づけて、考えることができるし痛みの感覚を身体の特定の場所において、感ずることもある。そのかぎりでは、心的現象も拡がりをもち場所的な規定をもつといえる。しかし、ブレンターノは、そういう主張は心的現象と物的現象とを、混同しているのである。感覚器官や身体は、それ自体としては物的現象であるが見る働きや痛みの感覚は、心的現象としてそれだけをとり出すかぎり場所的な規定を、もつものではない。次いで心的現象を積極的に特徴づける最も重要なものとしては、志向性という概念があげられる。

 そして、心的現象の特徴としては、われわれが或る心的現象を直接経験していることをつねに内部知覚に、よってのみ知覚される。意識の志向性というこの思想は、さかのぼればすでにアリストテレスのうちにその萌芽が、見出されている。志向性という意識作用は、或る目票を意図し追及することを意味しているがここではもっと広く、心的現象が一般に或るものを意識しているという事態を指すのに、用いられている。なおブレンターノは、この志向性という特徴を手がかりにして心的現象の分類を、試みているのである。或る現象を分類するには、その現象自身の本性に従って行うべきでそれとは無縁な上からの、理論構成によって行うべきではないが或るものへの志向的な、関係ということが心的現象を最も積極的に特徴づけるものである以上に、それを手がかりにする分類が最も自然的であるといわねば、ならないからである。すなわちそれは、心的現象の或る内容への関係の仕方のちがいによってそれを、分類しようというのである。

 このような区分原理に従って分類するときの心的現象は、表象・判断・情動の3つの大きな群に分けられるとブレンターノは、述べている。まずここで表象といわれているものは、きわめて広い意味であってわれわれが何かを思い浮かべるという場合も、すべて含まれている。したがって、知覚で何かを捉える場合には、もちろん何かを想像する場合もこれに含まれる。ブレンターノによれば「第1の組は、表象の組です。ここで表象という語は最も広い意味で用いられています。この組は具体的な直観表象をも最も非直観的な概念をも包含している」(3)のである。次いで判断というのは、或ることを真として承認するかあるいは偽として、否認することである。ブレンターノによると「第2の組は、判断の組です。この組はデカルト以前には表象と一組に考えておりました。否、彼以前でさえ、人々はまたもやこの誤謬に陥ったのです」(4)と述べている。つまり判断の本質は、表象の結合やあるいは表象する相互間の関係にある人々が、考えていたのである。

 このような判断は、真の本性をひどく見そこなっている。そこで表象を結合し相互に関係させるならば、たとえばわれわれが対象を捉える志向的な意識作用のうちに判断する、という場合がそうである。しかしわれわれは、これ以上何もしないかぎりまだいかなる判断も下されては、いないのである。また判断においては、欲求においてもいつでもある表象がその基礎にあると言うことなどは、もちろん正しいのであるがしかし判断においてはいつでも2つ以上の表象が、主語と述語として互いに関係していると言うことは、正しくはない。なるほど、このようなことは、われわれの判断が正しいと言うときには起こるのだが我々の判断が存在する、と言うときには起こらない。そこでは、われわれが単に表象するだけではなくて判断をする場合を、特色づけるものはなんにもない。そのことは、表象作用に供えてさらにそのうえに表象された対象への第2の思考的な関係が、加わるのである。たとえば、単に神というだけ言う人は、自分が神を信じていることを表象するのであって、神は存在するということは自分が神を信ずることを、表象しているのである。

 情動というのは、非常に広い意味であって普通にいう感情はもちろん意志作用も、含んでいる。ブレンターノは「第3の組は、最も広い意味における情動の組です。それは単に何かを思ってみただけで感ずるごとく単純な、いいな・あるいはいやだな・という気持ちから事実の確信にもとづく喜びや悲しみ、また目的および手段の選択というきわめて複雑な現象まで含んでいる」(5)のである。第1の組における表象のうちには、具体的な直観をも包含した諸々の志向性のうちに直接的な表象を、捉えることである。第2の組においては、志向的な関係のうちに判断したというものである。第3の組でそれは、愛するあるいは憎むという判断のことである。すべての心的なものに共通の特性は、残念ながら非常に誤解されやすい意識という表象のうちにしばしば、呼ばれているものである。すなわち、心的現象は、何かに対する主観的な態度にあるのであってつまりいわゆる志向的な、関係にあるのである。この何かは、あるいは現実に存在してはいないかもしれないがとにかく内的に対象として、与えられている。

 聞かれるものがなければ、聞くという心理的な作用はなく信じられるものがなければ信ずる、と言うことではなく努力されるものがなくて喜ばれなければ、喜びはありえない。他の場合も同様で物的な表象内容をもつ直観の場合には、感覚質がそうであるように心的内容をもつ直観の場合にも志向的な関係が、多様な差異を示している。そして、前者の場合には、感覚質の相互間のもっとも根本的な差異に従って感覚の数が確定されるように、後者の場合にも志向的な関係の最も根本的な差異に従って心的現象の基本的な、組の数が確定されるのである。このようなブレンターノの志向性は、現象学における意識作用として客観的な対象である物的現象を捉えず、心的現象という主観的な意識作用のうちに表象を把握する、ものでしかない。こうした直観的な認識の仕方では、現実に存在している客観的で具体的な事物を捉えることが、できないのは明白である。ブレンターノの現象学は、このような限界性を包含しているものなのである。
[引用文献・注]
(1)ブレンターノ『道徳的認識の源泉について』水地訳、中央公論社、昭和56年、p.66
(2)同上書、p.68
(3)同上書、p.69
(4)同上書、p.69
(5)同上書、p.70




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