パルメニデスの不生不滅の論理

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 パルメニデス(前475年頃)の思想は、有るものはある有らぬものはあらぬと言うかたちで、要約されることが多い。このような命題は、理性に従って考える限り否定することのできないものである。それ故に、エレア学派の人々は、すべての哲学の大前提であってエレア学派の登場以後はどの哲学者も、彼らのこの思想と取り組むことなしには自らの思想を進めることが、できなかったのである。しかし、この命題から帰結してくる世界観は、容易に受け入れられるものではない。すなわち、有るものは在る有らぬものはあらぬと言うことは、有らぬものが有るようになることつまり生成や有るものが、有らぬようになることつまり消滅は起こり得ないと言う、ことになるのである。われわれは、日常生活において生成や消滅が起こりうるという前提でものを考え、行動しておりそれは感覚や経験を通して得た世界観に、基づいている。だが、パルメニデスによれば、それは迷妄にすぎず理性に従って論理的に考える限り有るものの生成と、消滅などはありえない。

 さらに、この命題からは、有るものが運動と変化を受け入れずこの世界に、有るものの多様性も虚妄にすぎないと言うことが、帰結してくるのである。この命題から帰結してくる存在観は、有るものは不生不滅と不変不動で単一不可分である、と言うものである。つまり、この世界には、ただ1つの分割不可能な有るものがありそれは不生不滅で、永遠不変なのである。このような世界観は、生成消滅と運動変化を世界の本質とするヘラクレイトスの世界観とは、正反対でありまたわれわれの常識をすべて、否定するものである。だが、パルメニデスにとっては、純粋で理性的な思考がロゴスに従って開示したところのいわば論理的な、必然性をもった世界観だったのである。しかしながら、それらの有るものは、あらゆる方向において完結していてまるい球の塊のように、中心からどの方向にも等距離にあるという彼の言葉から判断する限りでは、有るものを内部の均質な球体だと考えているという点において、彼にはまだ物体的なイメージでしか存在を捉えられないと言う限界性が、あると言えるのである。

 エレア学派のパルメニデスは、有の概念を検討してここでクセノパネス(前570―475年頃)のまだ媒介を、経ていない直観をはるかに越えながら純粋な唯一の有という概念を、存在しているものとしてそれらを思考することのできない、ものとしたのである。すべての多様で変化するものは、端的に対立させそして有から生成と消滅だけでなく、時間性・空間性・可分性・差別・運動をまったく排除し、有を生成もせず消滅もせぬ全体であって一様なもので、変転せず限定されぬもの不可分で無時間的に現前するものと、言い表しその唯一の積極的な規定としての思考を、持ち出している。これによってパルメニデスは、有と思考とを同一視しているわけである。このように彼は、純粋な有に向けられた純粋な思考を現象の多様性と変化とに関してあてにならぬ、諸表象に対立させて唯一の真実で確かな認識と名づけて価値のないものが、真理と考えるものすなわち生滅・個物・場所の変化・性状の変転などは、迷妄にすぎないと断定したのである。

 次いで彼は、ここにおいて非有と現象界の説明と自然学的な導出とを仮説的に、説明しているのである。パルメニデスは、概念上と理性上のただ一者のみが有ることをかたく信じながらも、彼はやはり現象する多様と変化とを認めないわけには、いかなかったのである。したがって彼は、感覚に迫られて現象界の説明に移りながらこれを多分の例証に、すぎない現象する変化のうちに温かいものと冷たいものを捉え、火と土と言っている。さらに、アリストテレスは、これらのうちでパルメニデスは温かいものと存在するものとを結合し、冷たいものを存在せぬものと結合したのである。すべての物は、この両者のさまざまな混合にすぎず火が多ければ多いほど有・生命・意識も多いと、言うことである。自然の諸産物の完全な程度は、温かいものと冷たいものとの混合の割合に応じている。あらゆる存在の単一性という原理が固持されているのは、ただ次の点であるすなわちパルメニデスが言うところの人間のうちに、感覚する実体と思考する実体である肉体と精神とが同一であるという点に、有るにすぎないのである。

   山本光男によるとパルメニデスの「探究の道は如何なるものだけが考え得るかを、その一つのそれは有る、そしてそれにとって有らぬことは、不可能だと説くもの真理に従う故にこれは説得の道だ。他の一つのそれは、有らぬそして有らぬことが必然だと説くものこれは何時に、告げるがまったく探究し得られない道だ。何故なら汝はあらぬものを知ることも出来なければまた言い現わすことも出来ない」(1)としている。必要なものは、ただ有るもののみ有ると言うことのうちに且つそれらを、考えることである。何故なら有は、有るが無は有らぬ故このことを汝がその心に留めておくことを、われわれは捉えるのである。すなわち、後者こそがまずわれわれが、汝を隔離する探究の道である。されど次には、また何ごとも知ることなき可死的なるものすなわち両頭の怪物どもが、さまよう道からも隔離する。何故なら困惑が、彼らの胸のうちにさまよう心を導くからである。しかし彼らが、その導くままにつれていかれるやあたかも彼らによっては、有ることも有らぬこととは同一でありまた同一でない、と見做されるのである。

 パルメニデスによれば、ただ有るもののみあり有らぬものは有らぬのでありこのことを、認識することのうちに真理は存し逆に有らぬものを有ると、することで有るものを有らぬと考えるところに、誤りが存する。真の思惟の対象となり得るのは、ただ有るもののみであり有らぬものは決して思惟される、ことができない。このような根本思想の上に立ってパルメニデスは、有るものの種々な性格を演繹する。まず有るものは、不生不滅にして永遠でなければならない。なぜならば、もし有るものが生じたとするならば、それは有るものから生じたか有らぬものから生じたかのいずれかであるが、有るものから生じたとすれば有るものの前にすでに有るものがあるのであり、したがって有るものは生じたのではないし、また有らぬものから生じたとすればこのことは、有らぬものがまったく考えられぬものである以上に、不合理である。同様に未来に関しても有るものは、有らぬものになると言うことは不可能である。それ故に有るものは、不生不滅なのである。有るものと有るものとの間の区別するものは、有らぬものでなければならない。

 パルメニデスにとっては、ただ有る道ひとつが真理の道であり有らぬものを有るとする道も、さらにこの道のバリエーションともいうべき有ると有らぬが、同じでありかつ同じでないとする道も共に誤謬の道として、否定されなければならなかった。有るものは、どこまでもあり有らぬものはどこまでも有らぬとする探究の道こそ、人がここに現れてはいないがしかし知性には牢固として現存するものを、見てとることによってあるいはロゴスに従うことによって、到達する真実の道である。この道に徹底することは、それまでの哲学に対していかなる意味をもつことになるか、と言うことなのである。そのことは、タレス以来すでに一世紀にわたって積み上げられてきたすべての哲学思想に、対してその根底を揺るがすような打撃をそれは、与えることになる。パルメニデスに先立つ哲学者たちは、タレス以下この生成変化する多様な世界を所与のものとして受け止め、この世界の起源で様々な現象の背後にある根本物質からの世界の生成と云った、問題にその関心のかなりの部分を注いでいたことはすでにわれわれが、見てきたところである。

 広川洋一によると「彼らが当然のこととして受け止めてきた生成や変化はいずれも、パルメニデスにとって、有るものが有らぬものになること、あるいは有らぬものが有るものになることであり、ロゴスに従うかぎり決して容認することの、できないものである。これまでの哲学者たちが、自明のこととしてきた事物の生成・消滅・運動・変化・現象の多様性など一切が、迷妄として否定されることになった」(2)のである。万有の原理としては、水や空気や火を立てそれらが変化することによって多様な事物や事柄が、現出するという説明はもはや単純には成立しなくなった、と云えるのである。このような生成・消滅・運動・変化・現象の多様性は、われわれの日常的な経験としてはいかに疑いえないものであっても、すべて有らぬものとして迷妄として否定されて、きたのである。真に有るものとは、如何なるものでなければならないか有るものにとって生成も消滅も変化も、起こりえないのである。さらに、現に有ったものは、有るだろうとも言うし生じない有るものは常にどこまでも有る、と言うことである。

 有るもの以外に有るものは、何もない以上に有るものはひとつながりのもの一様に均質なもので、分割されえぬものでありそれは同じものとして同じところに留まり、ただ自分だけで横たわっている。有るものは、こうして唯一・不生・不滅・不変・不動・均質一様の充実体であり、またそれは欠けるところのないものだから完全に完結したもので、なければならない。このようなパルメニデスによる主張は、理性の名によってすべてのものは存在すると共に存在しないという有と無の論理が、形式論理学の矛盾律のうちにヘラクレイトスの万物は流動し不断に変化し、不断の生成と消滅のうちにあるという矛盾の論理という、弁証法の論理を批判すると共にタレス以来のイオニア自然学を、否定したのである。 すなわち有るものは、不生にして不滅であることがそれはひとつの総体として有り不動で、終わりなきものである。有るものそれは、全体として有るもので一つのものが連続するものとして今ここに、有ると言うことである。
[引用文献・注]
(1)山本光男『初期ギリシャ哲学者断片集』岩波書店、1967年、p.39(断片96
(2)広川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、1997年、p.118




≪ 大学院HPへ | TOPへ ≫