修士論文奮闘記
文化情報専攻 16期生・修了 堺 幸子
この奮闘記を執筆するにあたり、まず松岡先生に感謝の意と敬意を表したい。先生の励ましと、きめ細かいご指導がなければここでこうして奮闘記を執筆するという立場にもいなかったからである。私のような者が書く体験談が、果たして後輩の皆さんの参考になるものかという思いはあるが、文化情報専攻の多様な修士生がいる中で、その一人の体験談として、読んでいただきたい。
1. 勤務先のこと
私は常夏の島シンガポールで生活している。勤務先は現地校ではなく、いわゆるインターナショナル・スクールである。ここで現在、日本語の高校教諭として勤務している。一般的に教育熱心なシンガポールという土地柄もあり、当校は全世界にある米国のインターナショナル・スクールの中でも、教育レベルは高いとの評価を得ているようである。対象はシンガポールに居住する米国籍・米国市民の子弟たちである。彼らに米国本国と同様な学制・カリキュラムでの教育を行うことを目的にしており、米国内の公立学校と同等の位置づけである。
第二言語教育プログラムは、5歳から18歳までの一貫教育である。スペイン語と中国語のいずれかを選択することとなっている。中学からフランス語、高校から日本語が加わる。日本語のプログラムは、日本に駐在していた米国籍の帯同子弟の第二言語として、日本語学習の継続を求める声に応える形で設置されている。各言語の講座は 段階的な言語運用能力によってレベル分けをしてある。実生活での言語使用のパラダイムと結びつける独自のモデルを使用し、全言語において一貫性あるシラバスと評価基準を使用している。ここでの言語運用能力とは主にコミュニケーション能力のことであり、リスニングとスピーキングに重きをおいている。
2. 大学院進学の理由
勤務校の教育環境に対応するためである。高校の言語プログラムにおいて日本語教師に求められるのは、マニュアルどおりに日本語を教えることではなく、また、私が習得していた方法とは大きく異なっていた。米国の教育システムでは高校における第二言語教育の考え方や指導方法、評価についても異なっていた。本校では5年前から第二言語プログラムに言語運用能力別クラスが導入されていたが、規模の小さい日本語プログラムは中国語プログラムに含められていた 。教員のためのワークショップやプロフェッショナル・ラーニングなどの最新の研修が非常に充実されてあるものの、専門知識がないので理解できないことが多々あった。専門知識修得の必要性を痛切に感じていた。今から思えば、濃い霧の中を手探りで歩いているような日常業務であった。そのような状況の中、藁にもすがる思いで当大学院のドアを叩いたのである。
3. 修士論文の執筆にあたって
入学時に決めていた修士論文テーマは2年目に入る頃には全く違うものになった。初年度に履修した科目は実践につながるものであったため、学んだことを基に、さらに実践的なことを研究したいという思いが強くなっていた。最終的なテーマを決定する時期に、松岡先生と話したことでよりクリアになった。 敬語習得においてのパフォーマティブ・アプローチと村上春樹の短編を使用した教案作成を結びつけることにした。敬語の使用時に、学生たちの態度と言動がチグバグであることの気づきが、このテーマ設定の発端となった。
当大学院の多くの同志のように、際限のない日常業務の合間を縫って修士論文を執筆した。中間発表、修士論文執筆、最終稿の提出と、いずれも期限までに終えられるとはとても思えず、松岡先生に何度も謝罪と、泣きごとと、諦めるべき理由を綴ったメールを送ってしまった。先生からの返信は、常に“大丈夫、あなたならできる”というメッセージが込められたものだった。単純な私は先生ができるとおっしゃっているのだからできるに違いないと思い、大いに励まされた。その反面、先生は間違いや、矛盾、曖昧な点については、本人が自分でそれに気付けるようやんわりと、しかしきちんと、繰り返し指摘をしてくださった。いわば飴と鞭の使い分けである。我がことながら、これでは自分の教えている高校生たちと変わりがないではないかと呆れる程であった。
修士論文の中で、勤務校の状況をある程度開示することになるため、学校側の許可を得ることも必要であった。最も大変であったのが、実践内容がカリキュラムに触れることになるため、その許可を取ることであった。
4. 当大学院で学んだこと
振り返ってみると、修士論文は当大学院で学んだことの集大成であった。松岡先生の「これは後になっても、堺さんの論文という形になって残るものだから、頑張って、最後まできちんと丁寧に仕上げましょう」という励ましで、ようやく完成できたものである。
それら、すべてが学びであった。先生方からの言葉かけや関わり方から、自分の生徒達との関わり方についても考えさせられた。当大学院で学んだことは自分の知りたかったことで、業務上でも必要なことであった。日々、目の前の霧が晴れていくように感じた。指定教材や参考文献に書かれていることが全て自分の求めていたもので、また、これらが勤務校で実践されていることにも驚き、学んだことを、即、実践できる環境であることに感激した。何よりも感謝していることは、必要な研究論文を探し当て、読み、自分なりに考える力がついたこと、そして探究心を持てるようになったことである。入学前には考えられなかったことである。
最後に、松岡先生だけでなく、保坂先生、他の先生方、事務局の方々にも大変お世話になったこと、勤務先の上司と同僚たち、何よりも家族からの理解とサポートがなければ成し遂げられなかったことを記し、この場を借りて心から感謝を申し上げたい。
当大学院での2年間は大変であったが、ここで得られたものは想像以上のものであった。