フッサールにおける生活世界

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 E・フッサール(1859−1938)が叙述した現象学は、厳密に規定された科学としての科学的な知識に関する純粋な論理学を、作り出すことにあった。そのために彼は、存在する個人としての具体的な主観から引き離された純粋な意識の探求を、行ったのである。フッサールによるこの世界は、当然われわれがすべてにあらかじめ与えられている現象学として、提唱されたものなのである。すなわち、われわれのうちには、社会的な地平のうちに生きている人間としての他者と様々に現実的な結合のうちに、或る人間としての我々に共同のこの世界という形で世界はあらかじめ、与えられているのである。こうした世界は、われわれが捉えたように恒常的に妥当している基盤であって、我々が実践的な人間として在るにしてもあるいは研究者としてあろうと、文句なく要求している自明性のうちにつねに用意されている、源泉なのである。このあらかじめ与えられている或る世界は、学的に責任がある論理のために独自の主題になるべきであるとすれば、とりわけそこにはなお慎重で予備的な考察が、求められているのである。

 フッサールの現象学のうちには、後期になると生活世界という概念を使い始めている。この生活世界という概念は、われわれ人間がふだん生きている日常的で実践的な、経験の世界のことである。この生活世界は、日常的な衣・食・住という生活過程における作り上げられた世界が、概してそれ自体で自立しており客観的にまた普遍的に存在しているかのように、見做されている。なるほど、実際に近代の科学的な世界は、生活世界における人間の実践的な関心の在りように依存しているのであり、そもそもの始めから生活世界が一つの実践的な関心の下にこの近代の科学的な、世界を生みだしたのである。ところが現在では、この生活世界と近代的な科学の客観的な世界とが、逆転しているのである。この生活世界は、近代科学の客観的な世界の一面的な現れにすぎず主観的で相対的な世界だと、見做されるようになったのである。そこで現象学は、生活世界のレベルである最も素朴な世界から生まれてくる様々な、世界がどのようにしてその妥当性を獲得していくかを、生活世界的な認識過程を通じて明らかにして、いくことにある。

 フッサールによると「学的主題としての生活世界に到達するここでのわれわれのやり方を見れば、この主題が客観的科学一般の全主題のうちでの従属的で部分的なものであるように、見えるかもしれない。この客観的な科学は、一般にそのすべての特殊形態においてその客観的な作業の可能性という点で、理解しがたいものになっている」(1)のである。われわれは、客観的な科学がこのような点で問題になるのだとすれば、その固有の営みから抜け出てその科学を超えたところに立場を、占めねばならない。すなわち、それらの理論と結果については、叙述的な思想と言表の体系的な連関において一般的に捉えながらも、他方では研究している者や共同研究に携わっている研究者たちによって、遂行されているのである。活動生活をする人によっては、その目標設定とその達成とさらに達成された明証性といったものをも、また捉えなければならない。そのさい問題になるのは、研究者がつねに処理可能な直観的な所与を有する生活世界へと、さまざまな一般的な仕方で繰り返し立ち返る、と言うことである。

 フッサールによると「われわれ研究者が行う生活世界に直接適応した言表、実践的な日常生活のただなかでの折に触れての発言に、特有な学以前の判断様式で純粋に記述的に遂行されるような言表をも、またそこに数え入れることができる」(2)としている。だが、この生活世界の問題は、研究者に対して現に機能しているその仕方は客観的な科学にもとづく、部分的な主題に過ぎない。すなわち、客観的な科学を十全に基礎づけるのは、それに役立つような主題だと言うことになる。しかしながら、客観的な科学の明証的な基礎づけは、それに対する生活世界の機能という一般的な問題に先立って、この生活世界がそのなかで生きている人間に対して持っている、固有の恒常的な存在的な意味を問うことは明らかに、意味のあることである。これらの人間は、必ずしもつねに学的な関心をもっているとはかぎらないし、研究者と云えどもつねに学的な研究に携わっているとは、限らないのである。また歴史の教えるところによれば、この世界には必ずしもつねに以前に建設された学的な関心のうちで習慣的に、生きている人間がいたとも限らない。

 それ故に生活世界は、学に先立って人間にとっていつもすでに存在していたし、それが学の時代になってもまたそうした在り方を、取り続けてきたのである。したがって人々は、生活世界の在り方の問題をそれだけ独自に立てることができるのであって、すべての客観的な科学の立場からする意見や認識を度外視して、この端的に直観的な世界の基礎の上に完全に立つことが、できるのである。このような問題は、生活世界の固有な在り方に関していかなる学的な課題について普遍妥当的に、決定されるべき課題が生じるかを一般的に考察することが、できるようになる。これによってそこでは、大きな研究主題が提供されることになりはしないが、ここではなによりもまず次のような問題が生じてきて、考察を要求することになる。すなわち、生活世界の本質を正しく捉えるという問題は、それにふさわしい学的な取扱いの方法の問題とするがそこでは、客観的な学問性と言うことは問題にはならないはずであると言う、ことなのである。

 このような生活世界は、それ自体としては最もよく知られたものであって、すべての人間生活においていつもすでに自明なものであるし、その類型に関しても経験によってすでにわれわれになじまれている、一般的なものなのである。そのすべての未知的な地平は、単に不完全な既知性の地平にあるのではない。もちろん学以前の生活にとっては、このような既知性で十分でありまた未知的な既知性へもたらし、経験と帰納とにもとづいてそのつどの認識を獲得すると言うその仕方で、充分なのである。日常的で実践的な生活世界にとっては、そのような知られ方で十分なのである。いまそれ以上のことがなされることは、またなされねばならないとしてもつまり学的な認識が成立すべきであって、いずれにせよ客観的な科学が眼をつけたりしている以外の何かが、問題になるものではない。学的な認識は、それ自体の客観的な認識がすべての人にとって無条件の普遍性において妥当する、認識基体へ向けられた認識ではない。そうした認識の仕方は、逆説的に見えるかもしれないがわれわれの主張を堅持し、要求するものである。

 その学的な認識という課題は、たとえ本質的には相互に関連しあっているにしても、互いに異なるさまざまの学的な課題設定を可能にし、また要求するものである。真正な学問性のためには、それらすべての課題設定は一緒に本質的な基礎づけの秩序に従って、なされねばならないのでありただ一つだけ、客観的で論理的な課題だけを採り上げ他の課題は、およそ学的に採り上げないと言うようなことが、あってはならない。フッサールよれば「この生活世界が、それ自体として、またその普遍性から見て要請している学問性は独特なものであって、単に客観的で論理的な学問性ではない」(3)のである。最も重要なことは、ここで取り上げて言うならいわば直接与えられる感覚的な所与が、まるで生活世界の純粋に直観的な所与性を直接に性格づけるものだと、いわんばかりにただちに感覚的な所与を引き合いに出すようなことを、してはならないのである。真なる認識は、生活世界のうちに意識作用という主観的な作用ではなく客観的な対象の本質を、捉えることにある。

 もろもろの学的な認識は、生活世界から己のそのつどの目的にとってそのたびごとに、必要なものを取り出して利用しながら生活世界の自明性の上に、構築されるのである。だが、生活世界をこのように使用すると言うことは、生活世界をその固有の在り方において学的に認識すると、言うことではない。フッサールによれば「客観世界は単に主観的相対的という刻印を帯びているのだ。すでに述べたように、客観的な課題設定ということの意味を規定しているのは、主観的相対的なものとの対比である。そして、この主観的相対的なものは克服されねばならないものだとされる」(4)と述べている。われわれ人間は、この主観的で相対的なものに仮説的な自体存在をすなわち論理的で、数学的な真理自体に対応する基体を帰属させることができるし、またそうすべきなのである。そして、この真理自体には、たえず新たなより優れた仮説を立て常に経験の検証によって、それを正当化しながら近づくことができる、と考えられている。

 だが、自然科学者は、このように客観的なものへ関心を向け客観的に活動しながら他方で、彼にとって主観的で相対的なものはどうでもよい通過点としてではなく、あらゆる客観的な検証のために理論的で論理的な存在妥当を、究極的に基礎づける者として機能するのであり、つまりは明証性の源泉と検証の源泉として、機能するのである。見て取られている対象についての判断などは、現実に存在するものとして使用されているのであって、決して幻覚として使用されているわけでは、ないのである。それ故に妥当するものとしては、現実に生活世界に存在しているものが一つの前提に、なっているのである。生活世界では、主観的な性格と客観的で真の世界との対比のうちに後者が理論的で、論理的な構築物であり原理的には決して知覚することができず、また原理的にその固有の事態存在について経験することのできない、物の世界である。これに対して生活世界の主観的なものは、まさしくすべての点で現実に経験し得るという特徴をもつ、と言うところにある。このような生活世界は、根源的な明証性の領域なのである。

[引用文献・注]
(1)フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」細谷・木田訳、中公文庫、2002年、p.220
(2)同上書、p.220
(3)同上書、p.224
(4)同上書、p.227




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